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大阪地方裁判所 昭和23年(タ)18号 判決

原告 岡田千代

被告 岡田武(いずれも仮名)

一、主  文

昭和二十一年八月十二日附で大阪府布施市長に対する届出に依り為した被告と原告との協議離婚は無効なることを確認する。

原告と被告とを離婚する。

被告は原告に対し金十万円及び之に対する昭和二十三年五月十六日から支払済に至る迄年五分の割合に依る金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は之を三分し、その二を被告の負担とし、その一を原告の負担とする。

本判決は原告が金三万円の担保を供するときは、第三項に限り仮に執行することができる。

二、事  実

原告訴訟代理人は、主文第一、二項同旨及び被告は原告に対し金二十万円及び之に対する昭和二十三年五月十六日から支払済に至る迄年五分の割合に依る金員を支払え、訴訟費用は被告の負担とするとの判決並びに金員支払の部分に付き担保を条件とする仮執行の宣言を求め、其の請求の原因として陳述した事実の要旨は、「原告は昭和十四年二月被告と事実上の婚姻を為し、昭和十五年四月二十二日戸籍吏に婚姻届出を為し、大阪市住吉区播磨町東一丁目番地不詳に住居を設け新家庭を作つた。当初は夫婦の仲睦まじく、昭和十五年四月十三日長女和子をもうけ、昭和十六年三月被告が豊橋陸軍予備士官学校教官に転任したので、同年四月豊橋市三の輪町に転住し、昭和十七年二月十四日長男英雄をもうけ、昭和十七年十月被告が陸軍少佐に任官し北満緩南部隊長に補せられたので、家族一同緩南の官舎に転住したが、寒気厳しい為被告の指図に基き、昭和十八年一月帰国し、被告の実家である布施市菱屋東、岡田忠男方に同居し、昭和十九年三月被告が茨城県鉾田飛行学校に転任したので、同飛行場所在地で被告と共に居住し、昭和十九年五月被告が東部第百部隊高級副官に転任するに伴い、東京都調布町に転住し、昭和十九年十一月姙婦疎開に依り、原告は長男長女を伴い前記岡田忠男方え疎開同居し、その後空襲猛烈となつたので昭和二十年四月石川県宝立町高橋某方え疎開し、四月十七日二女幸子をもうけ、終戦により前記岡田忠男方え同居し、昭和二十一年一月大阪市住吉区大領町三丁目五番地に住所を定めた。右のように、原告は各地に転々居住し、一男二女の三人の子供を養育しながら、被告に対する内助に努力し、且つ被告は薄給の軍人生活であるので、原告の実父山中三郎方から毎月相当な額の生活資金の補給を受け、円満な夫婦生活を維持し将来を嘱望して居たが、被告は東部第百部隊在任中訴外谷口秀子と私通し、昭和二十一年十一月一日頃から訴外高岡君子と私通し、其の情的関係濃厚となるに従い、原告に対する被告の言動は、日増しに悪化し、進んで情婦秀子を妻として入籍しようと企て、その前提として原告を離籍しようと企て、被告自身は勿論その弟妹等も共に原告に対し出て行けと云わんばかりの言動を敢えてし、僅少なる事柄に対しても棒大に云い掛りをつけ、離婚を迫る等原告をなやました。その上昭和二十一年三月頃被告は姉婿平田義彦をして、原告の実父山中三郎に対し、被告から離縁状を届けるように云附けられたので持参したから受領せられたいと申入れさせるなど、不道義極まる挙に出たので、原告の実父は同人に対し良風美俗を破壊し道義に背反する行為には絶対反対であるとその受領を拒絶したところ、同人は原告の実父方を辞すると同時に大阪市住吉区大領町の当時の原告の住所に来てあなたさえ同意すればよいから、此の離縁状を受領されたいと強要したが、原告は之を拒絶した。被告は原告が右のように受領を拒絶した科であると云つて、原告に対し深酷な虐待をしたので、原告は到底同居に堪えない悲境に立ち至り、昭和二十一年七月中旬頃所轄住吉警察署え保護願を出したことがあつた。同年八月初旬頃被告は原告に対し離婚を迫り同居は困難となつたので、原告は実家に帰り事の始終を告げたところ、実父は立腹し、従来の恩情を忘却し愛児三名迄もある間柄であるのに離婚とは何事ぞと憤慨し、絶対離婚に応ずることはできないと叱責されたので、帰宅したところ、被告は不法にも原告を毆打暴行し帰宅を拒んだから、原告は已むを得ず実家に立帰つた。その後被告は原告の町籍を郵送して来、被告の義母が来訪し離婚に同意されたいと申込んで来たが、原告は之を拒絶した。其の後調査したところ、被告は情婦秀子方え長男英雄を、情婦君子方え長女和子を、被告の実弟方え二女を夫々預けて居ることが判明したので、原告は秀子方に至り、同女に事の始終を告げたところ、同女は原告に同情し原告と長男英雄を伴い被告方に至つたが、被告は原告の入家を拒んだので、奥さんの原告の入家を拒絶するのであれば、自分も入家出来ぬと云い、長男英雄を残して立帰つたことがある。その際被告は原告に対し、「御前の籍は三文判を使用して出してあるから、家に入れることは出来ぬ」と申述べたので、原告は不審を抱き、昭和二十一年八月二十四日布施市役所に至り戸籍抄本の下附を受けたところ、原告が同年八月十二日被告と協議上の離婚をしたように届出がなされ、原告は実家である山中三郎方え復籍した旨の記載があることを発見した。右は全く被告が文書偽造行使に基くものであるので、原告は昭和二十一年九月四日所轄住吉警察署え文書偽造行使罪の罪名で被告を告訴し、其の取調は順次進行し、昭和二十二年十月頃南館検事の取調べに依り、将に起訴の手続に及ばんとする際、被告は原告に懇請し戸籍を元々どおりに復籍し夫婦生活を為す旨誓つたので、原告は之を真実と信じ、検事に其の旨告げ、告訴の取下をなし、その結果被告は起訴を免れた。然るに被告は告訴の取下があつた後、順次其の態度を変更し、戸籍を復活しないのみか、情婦君子を入籍し、且つ同人と同居し原告の入家を拒絶した。そこで原告は昭和二十三年三月十六日大阪家庭裁判所え調停の申立をなし、戸籍の復活及び同居を求めたが、被告は君子を入籍してある故戸籍の復活は出来ないことは勿論同居も出来ない旨述べたので調停は不調となり、原告は昭和二十三年四月二十二日右調停を取下げた。以上の如く、被告が原告の同意がないのに前記のように原告と離婚する旨の届出を為したが、該届出は原告に離婚の意思がなかつたのであるから無効であるからその確認を求めると共に、原告と被告間の婚姻関係は依然として継続して居るのであるが、被告は前記のように原告に対し同居に堪えぬ重大な侮辱と虐待を受けたのみならず、悪意を以つて遺棄され、原告は右事実を右調停の際確知するに至つたから、之を原因として被告と原告とを離婚するとの判決を求める。尚被告は現在不動産動産等価格約百五十万円程度の資産を有し、女中二名を雇入れて生活して居るものであり、原告は昭和十四年以来約十年間被告と共に生活して来たが、前記のような事情から本件離婚の訴を提起せざるを得ざるに至り、甚大な精神的苦痛を被つたから慰藉料として金二十万円及び之に対する訴状送達の日の翌日である、昭和二十三年五月十六日から支払済に至る迄年五分の割合に依る遅延損害金の支払を求める為、本件請求に及んだ。」と謂うにある。<立証省略>

被告は、原告の請求を棄却するとの判決を求め、答弁として陳述した事実の要旨は、「原告の主張事実中、原告と被告とが、昭和十三年八月頃訴外井口シズ夫妻の紹介に依り婚姻したこと、原被告間に昭和十五年四月長女和子が出生したこと、昭和十六年三月被告が豊橋陸軍予備士官学校中隊長として赴任し、昭和十七年二月十四日長男英雄が出生したこと、昭和十七年十月被告が北満国境緩南歩兵第十七部隊長に転補され赴任し、原告が同年十一月二児を伴い同地に来たが、女中の病臥と寒気を口実として僅か三十日にして日本に帰国したこと、昭和十九年三月被告は茨城県鉾田陸軍飛行学校教官兼幕僚要員として転補され原告と鉾田に於いて同居したこと、昭和十九年五月第十飛行師団幕僚として東京宮城内に転補し、十一月原告は石川県(被告の義妹の本籍地)に疎開し、終戦と共に昭和二十一年現住所に移居したこと、二女幸子が疎開中に出生したこと、被告が同年七月五日復員大阪の住居に帰宅したこと、昭和二十一年三月頃被告の義兄平田義彦が好意的に円満解決の為原告の実家を訪れたことがあること、昭和二十一年八月十二日原告と被告とが離婚した旨の届出がなされたこと、原告が昭和二十二年十月被告に対し文書偽造行使罪の罪名で告訴し、南館検事の取調を受けたが不起訴となつたこと、昭和二十三年四月頃原告が被告を相手方として、大阪家事審判所(現在の家庭裁判所)え復籍要求、慰藉料五十万円を要求する旨の調停を申立てたが、不調に終つたこと、被告と現在の妻君子と昭和二十一年九月二十六日婚姻の届出を為し現在同棲していることは何れも之を認めるが、その他の主張事実は之を否認する。原告と被告とは結婚式を挙げて結婚したのではない。原告は昭和十三年八月頃被告が歩兵第三七部隊在任当時(大尉時代)訴外井口シズ夫妻の紹介で婚姻した。当時原告の実父から送つて来た身許調査の回答書の健康欄には「健康にして遺伝性疾患なし」とあり、見合は同年五月中旬頃の夜住吉公園某料亭に於て為され、夜暗の為十分本人を観察することができなかつたのは、最大の過失で、結婚当時大阪市住吉区播磨町東一丁目に住居を構え第一夜を過した翌朝食事中、被告は原告が左眼「白ソコヒ」斜視である点、蓄膿症のため就寝時口を開けて睡眠し鼻中核をならす癖があることを発見し驚愕して当夜限りで布施市の自宅に逃げ帰り、結婚に失敗した旨被告の実母に告げ爾後播磨町の家えは行かず事情を井口シズに訴えた。播磨町の家は、原告が姙娠した為、原告の母山中サチ、井口シズの合作で慌てて設けたもので、井口シズから是非一諸に住んでやつて欲しいと頼まれて、被告は三、四回行つたが、原告の痼疾遺伝体質(右のように発見当時隊附軍医の二、三につき質したところ、「白ソコヒ」は遺伝し、蓄膿症は体質遺伝なる旨答えられ被告は之を知つたし、現に長男英雄は、蓄膿症で苦しみつつある)を知り寄りつかず、被告の両親の家から部隊え通勤していた。原告が此の住居を何時引払つたかは、被告は出征中であつたので知らない。原告は昭和十三年十月頃被告の実家に居を移して来たが、被告は原告と別居しようと欲し、外地勤務志願をし、昭和十三年十一月二十六日渡支外地勤務につき、昭和十四、五年を中支で過し、昭和十六年三月豊橋陸軍予備士官学校中隊長として帰国した。此の間昭和十五年四月長女和子出生に伴い、被告不知の間に、当時の師団長、連隊長等の世話で被告の父が原告と被告との婚姻届をしたものの如く戸籍上は右届出は、昭和十五年四月となつている。原告との夫婦関係は円満ではなく、被告にとつては精神的には苦痛の種であり、勤務の都合上各地を転々とし原告との婚姻に依る不愉快な同居及び特に子孫に前記のような遺伝を遺すことを恐れ、原告との同居を避けんとし、離婚の意思を継続しつつも、外地生活、大東亜戦争、太平洋戦争となり遂にその機を得ずに経過して来た。原告は実父の山中三郎から毎月相当な生活資金を得ていた旨主張するが、外地勤務者には、軍から「留守宅渡し」の制度があり俸給月額は強制的に日本に送附され、内地に於いては、戦時手当として相当の手当を増加支給され(航空少佐毎月手取り終戦前年頃約七百円)、生活には十分で、被告は原告の父から一銭も貰い受けたことはない。若し支給を受けたことがあるとすれば、使用人に依り一切の家事を賄う生活慣習を当時なすような過程を経過した原告が独自に受けたもので、原告の收支の計劃性のない生活態度に由来したもので、豊橋在住中一、二度原告自身が受取るのを見たことがあるが、被告は当時少佐で毎月三百円位の收入があつたので、無心を言うなと原告を戒めたことがあつた。当時生活は三百円位で十分であつたからである。以上の如く被告が原告と共に生活したのは二年有半で同居生活中及び不在中の原告に対する被告の観察は、性怠惰にして派手、計劃性、社交性なく、困難に堪えず同僚友人は勿論部下迄被告に「何故あの程度の人を細君としているのか」との批評を受けたことが再三であつた。特に長女和子は陰気で素直さを欠く点、長男英雄は蓄膿症を遺伝された点につき、古き血統と歴史を有する我が家系に低俗且つ不純な血統を加入させたことを悔悟し、目下の被告の心境は、子供にさえ希望を失いつつある状態である。又原告は被告の家族とも円満を欠いていたが、之は原告が、所謂物持ち根性の性格と嘘言多く猜疑心深く、誠実を欠き労を惜しむ風がある為である。被告が原告との離婚を決意した直接の動機は、昭和二十一年三月二日被告が残務整理のため在京中、恰も大阪は降雨中にも拘らず原告は上京しようと企図し、上京の理由不明であるのに、三児を連れて上京する旨打電し来り、午後八時から翌朝午前四時迄大阪駅で行列に加わり待機中、長女和子、長男英雄は急性肺炎となり帰宅したことがあり、右事実を家族からの通信で知つたので、被告は原告に対しその無暴と無智とを叱責した手紙を出したところ、原告は「家族の人にもあきれました、それでは離縁して戴きます、きれいさつぱり後片付けして実家に帰らして貰います」と返信して来たので、被告は原告に正式に離婚する旨通達すると共に、事由を附し本人の返信等を添え山中三郎に送附し、茲に離婚を決意したのである。即ち原告と被告との離婚は、原告の申出により実現したもので、被告から強要したものではない。昭和二十一年七月五日被告は大阪え復員帰宅したところ、原告、山中三郎夫婦来訪中で、原告の両親は被告に、「もう一度考え直され度い」旨懇願したが、被告は、離婚は婚姻の翌日からの決意であるから飜意しない旨伝え帰宅させた。同年七月二十六日被告は原告と話し合つた結果、原告は離婚に同意し、印鑑と戸籍謄本を取るべく実家に帰つたが、父母に反対されたから渡されぬと云つて来て、一向立ち帰る気配がなく、午後迄帰らぬので、被告の母は「もう一度帰つてはどうか」と云つたところ、原告は「あんた方は皆出て行つて下さい」と七十余才の被告の母に怒鳴つた為、口論となり、被告は原告の横顔を数回毆打した(毆打したのは此の時のみ)。右のようにして原被告本人双方で離婚の話ができたが、原告が印を持つて来ぬので、被告の父忠男は布施市役所に於て離婚届の形式と方法を調査したところ、「本人が同意して居れば、印鑑は勿論岡田の印でよろしい」と教えられたので、同年八月十二日戸籍吏に離婚届出をしたのである。従つて原告の同意に基いて為された離婚届出は有効であり、原告と被告とは適法に離婚したのである。その後同年九月被告を脅威する目的で住吉警察署に誡告方を願出でたり、被告が拳銃軍刀を不法所持している旨投書し、この投書の為、被告は拳銃一挺、軍刀一口を押收され米軍軍事裁判に附せられ、同年十月十五日禁錮六カ月執行猶予一年の刑に処せられた。越えて昭和二十二年十月原告は、再び報復を企図し文書偽造行使罪の告訴をなし、南館検事の取調を受けたが、文書偽造行使の意思なしと認められ、南館検事は、復籍の意思なきことを原告と被告の対席の上明確にした。そして告訴は却下となり被告は不起訴となつた。調停に於いて原告は該申立に依り復籍と慰藉料五十万円を要求したが、三回行われた調停に原告は一回も出席せず、原告の実母サチと弁護士塩尻太九郎が出席したのみで不調となつた。以上の次第であるから原告の離婚の訴は失当である。次に被告は、昭和二十一年七月五日復員後、大阪市立理研に入所、一工員として再出発し、両親(昭和二十三年当時七十四才、七十三才)妻君子、三児、妹一人、弟夫婦と十一名暮しで資産なく、昭和二十三年四月末迄同所に月收四千七百円で勤務していたが退職し、生活困難の為四月末就職、長男英雄の入学の為時計指環各一個を売却して、金二千六百円を得て児童服、ゴム長靴、帽子、ランドセル等を購入した程で生活自体にも煩悶がある。原告の実家のように数千万円の財産を有し、原告の蓄財、父母よりの分与財産等相当のものを有するのと比すべきものはない。只被告は現在の家屋一戸を所有しているのみである。要するに本件訴は此の種裁判を業とする者と、原告の実母サチとの間で作為し、被告に対する復讐的心理に出発したもので不当も甚だしい。只被告は、人間本来の在り方としては、原告を十分気の毒と思つて居るが、昭和二十一年八月二十九日以来原告と話し合いの機会もなく次々と訴訟を追い、生活に追われ、一切が過去のものとなつている。将来物的に何等かの慰藉の方法を処置したいと思つている。」と謂うのである。<立証省略>

三、理  由

戸籍謄本であるので当裁判所が真正に成立したものと認める甲第一号証、証人岡田忠男、同井口シズの各証言及び被告本人尋問の結果を綜合すると、原告と被告とは、昭和十三年十月下旬頃大阪府下の天見温泉で知り合い所謂自由結婚をするに至つたが、原告が、長女和子を懐胎するに及び、原告の父母からの申出もあり、訴外井口シズ夫妻を仲介人として、原告の母山中サチと井口シズの努力に依り、大阪市住吉区播磨町に原告側の費用で新居を構え原被告は一時同棲するに至つたが、被告は間もなく実家である布施市菱屋東の岡田忠男方に帰り、同年末頃外地勤務となり、昭和十四、五年を中支で過し、昭和十六年三月頃内地え帰還し、豊橋予備士官学校教官となつたこと、昭和十五年四月十三日長女和子が出生したので、原告は母として同月二十二日その出生届を為したこと、右和子出生の為届出をするに付き、原告と被告が婚姻届出を為す必要があつたので当時被告は不在中であつたが、被告の原隊附の準尉岩田某から原告が姙娠中で間もなく出産するので婚姻届出が必要であるとの申出が被告の実父岡田忠男にあつたので、原告や原告の父母ともはかり、岡田忠男は被告に代り婚姻届出を為した事実を認めることが出来る。そうすると右婚姻届出は、被告自身が為したものではないが、右認定の事実及び前掲甲第一号証に依り、その後長男、二女出生の際被告自身が出生届出をしたことが明かな事実であること、並びに後記認定のとおり被告と原告とが夫婦として同棲して居た事実とを綜合して考えると、被告は原告と婚姻する意思があつたことは、明白であるから、右届出のあつた日から原告と法律上の婚姻関係に入つたものと謂うべきである。そして前掲甲第一号証、当裁判所が真正に成立したと認める甲第二、三号証、証人山中三郎(第一回)、同井口シズ、同岡田忠男の各証言及び原告本人尋問の結果を綜合すると、原告と被告とが婚姻した当初は円満であり、原告主張のとおり被告が地位の昇進をし、任地を転々とするにつれ、その任地に赴き同居したり、被告の指図に従い疎開したりし、時には同居、時には別居したりして経過する内終戦となり原告主張のとおり布施市の被告の実家に帰り、その後被告が金三十万円で被告現住の家屋を買受けたので、同所に昭和二十一年七月頃迄居住していたこと、豊橋に転居する迄は、原告の実父から毎月百円位宛生活の補助を受けていたこと(被告の知ると否とに拘らず)、原告と被告間に、昭和十五年四月十三日長女和子、昭和十七年二月十四日長男英雄、昭和二十年四月十七日二女幸子が夫々出生したこと、被告が東部第百部隊に勤務中訴外谷口秀子と関係を結び、終戦後被告が東京都に単独居住中訴外高岡君子とも関係を結ぶに至つたが、昭和二十一年三、四月頃原告は右事実を谷口秀子から被告宛の手紙に依り又は同人から聞いて知るに至り、手紙で被告を詰問するに至り、今迄平穏であつた原被告間に風波を生ずるに至り、原告から右のように被告宛に出した詰問状に、「きつぱり別れる」旨が記載されていたことから、被告は原告と離婚すると云い、原告の実父に対してもその旨申入れ、更に昭和二十一年七月末頃原告に対し離婚するから印と戸籍謄本をとつて来いと云つたので、原告は一旦は承諾し、実家に立ち帰つたが、三人も子供があるし永く夫婦生活をして来たのであるから、今更別れることには反対であると父母から反対され、印鑑を渡されず戸籍謄本は父山中三郎から戸籍吏に渡さぬように連絡してあつたので交付を受けることが出来ず、被告方に帰つてその旨を告げたが被告は原告をこれ以上家に置けぬと云い口論となり、已むなく原告は実家に帰つたこと、その後原告は長男英雄を被告が谷口秀子方に預けてあることを聞き、同年八月下旬頃四国の谷口の家を訪ね、事情をつげ同人と英雄とを連れて被告方に赴いたところ被告は原告と離婚届を既にしてあるから家に入れることは出来ないと云つて家に入ることを拒絶したこと、そこで原告は戸籍を調べて、原告と被告とが同年八月十二日離婚した旨の届出がしてあることを知るに至つたので、文書偽造行使罪で被告に対する告訴を、同年九月一日附で住吉警察署え弁護士塩尻太九郎を代理人として提起し、その結果被告は該告訴事件で大阪地方検察庁南館検事の取調を受けたが、原告と再び同居し、戸籍も復籍する旨誓つたので、原告は該告訴を取下げたが、被告は右約束を実行しないので、更に告訴を為したこと右離婚届出は、被告の旨を受けて、被告の父岡田忠男が、代書人から、本人の署名捺印がなくても、同意して居れば(本件に於いては届出の際原告は同意していない)、被告方の印でしても差支えないと聞き代書人に頼んで離婚届書を作つて貰い、原告の名下には被告方の有り合せ印を押捺して之を提出したこと、被告は昭和二十一年九月二十六日高岡君子と婚姻届出をなし同居していること、原告は更に昭和二十三年三月頃家事調停を被告を相手方として申立て、被告に対し復籍と同居を求めると共に復籍せぬときは慰藉料請求(被告は此の点を認めているので真実であると認める)をしたが、被告が応じなかつた為に、原告は已むを得ず該調停を同年四月下旬頃取下げ本訴を提起するに至つたことを夫々認めることができる。右認定に反する被告本人尋問の結果は前掲証拠に徴し採用しない。被告は昭和二十一年七月二十六日原告は被告と協議離婚することに同意したのであるから、離婚届出は適法であると主張し、前認定のとおり原告は一且承認して実家に帰つたのであるが、前認定の事実と弁論の全趣旨とを綜合して考えると、当時被告が婦人問題を起したために、原告は極度に憤激し所謂喧嘩別れをし実家に逃げ帰る際原告が被告と離婚すると云つた迄のことであり、爾後種々の方法で何とか復縁をせまつているのであるから、真実離婚する意思があつたものとは認められない。又原告は原告不知の間に被告側の一方的行為に依り離婚届を為すことは、予想しないことは明かである。離婚は当事者の自由意思に基き為されねばならず、届出に依りその効力を生ずるのであるから、届出の際当事者双方に離婚の意思がなければならない。本件に於いては被告が前記のような方法で離婚届を為した際、原告は離婚の意思がなかつたのであるから、昭和二十一年八月十二日布施市長に対する届出に依り為した原告と被告との協議離婚は無効であり、右は身分関係に重大な影響を及ぼすものであるから、原告にとつて無効確認を求める利益があるものと謂うべきであるから、右無効確認を求める原告の請求は、正当として之を認容する。

次に右離婚が無効である以上、原告と被告とは依然として婚姻関係にあるものと謂うことができる。このことは右無効確認の判決に依り戸籍の訂正が為されたと否とに関係はない。そして前記認定のように、被告が妻である原告があるのに、他の婦人二人と関係を結び之を継続することは、原告に対する同居に堪えない重大な侮辱を与えたこととなるし、被告が原告との同居を拒み、原告に於いて種々手段を講じて被告の飜意を求めたのに、調停の際も遂に復縁を拒んだことは、原告を悪意を以つて遺棄したものと謂うことができる。被告は原告には遺伝的悪疾があるし、性質に於いても被告主張のような欠点があるから、同居を拒むに付き正当な事由があると主張し、証人岡田忠男の証言及び被告本人尋問の結果に依ると、原告の一方の眼が被告と結婚当時以前から不自由であり、原告の性質が陰気で、社交性なく、計劃性がなく、ヒステリー的性格を有していることを認めることが出来るが、原告の眼疾が遺伝的疾患であり、その他原告が遺伝的悪疾を有していることを認めるに足る証拠はない。原告の一方の眼が不自由であることは、結婚前からのことであり、原被告の結婚がその当初に於いて所謂自由結婚であると云う点を考慮すれば、今更之を理由として同居を拒む理由はない。又原告の性質についての右のような欠点も、被告が同棲生活をするに付き不満な点ではあると推測されるが、結婚以来十年近い夫婦生活(別居迄に)しかも三児をもうけている間柄であるのであるから、之を理由として原告との同居を拒む理由とはなし得ない。そうすると前記の重大な侮辱と悪意の遺棄の事実は、原告が被告に対し離婚を求める法律上の事由となることは明白である。然し原告が重大な侮辱を受けたのを知つたのは、昭和二十一年七月頃であり、家事調停又は本訴を提起したのは、昭和二十三年であるから、右事由を以つて離婚原因とすることはできない(民法改正法附則第十一条第一項旧民法第八百十六条)。原告が悪意の遺棄を確定的に知つたのは、前記事実から推測すると、前記調停が不調となつたときであり、それ迄は尚一縷の望みを抱いていたと認められるから、その時から一カ月以内に本訴を提起していることは、記録上明白であるから、悪意の遺棄を原因とする原告の離婚請求は理由があるから、之を認容する。

被告は右のように悪意を以つて原告を遺棄し、遂に本件離婚の訴を提起するの已むなきに至らしめたのであり、原告はその為精神上甚大な苦痛を受けたことは当然であるから、被告は原告に対し相当な慰藉料の支払を為すべき義務がある。証人山中三郎の証言(第一、二回)原被告双方本人尋問の結果に依ると、原告は現在三十五才で、高等女学校を卒業し、被告とは初婚であつたこと、原告の父は質商を営み相当の資産を有し(被告の認めるところによると、大阪市会議員に四回当選したことがあり、方面委員を兼ねたことがある。)、中流以上の生活をして居り原告の結婚に付ては相当の支度をしてやつたこと、被告は陸軍士官学校を卒業し、結婚当時陸軍大尉で、その後少佐に昇進、終戦後は運送会社に勤務したり、進駐軍要員として勤め、その收入で父母、三児、妹と共に生活し、現在四十才であり、其の資産として現在の家屋一戸を所有している事実を認めることができる。原告は、被告は資産約百五十万円相当のものを所有し女中二名を雇つて生活していると主張するが、之を認めるに足る証拠はない。右認定の事実と前記認定の原被告の結婚生活の態様、その期間、離婚原因等諸般の事情を参酌するときは、慰藉料の額は、金十万円を以つて相当とする。そうすると、被告は原告に対し金十万円及び之に対する訴状送達の日の翌日であることが記録上明白である昭和二十三年五月十六日から支払済に至る迄年五分の割合に依る遅延損害金の支払義務があることは明かであるから、原告の慰藉料請求中右限度に於いて正当として認容するが、其の余は失当として之を棄却する。

仍つて民事訴訟法第八十九条、第九十二条、第百九十六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 岡野幸之助)

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