大阪地方裁判所 昭和24年(タ)35号 判決
原告 竹田幸子
被告 井口義男 (いずれも仮名)
一、主 文
被告は原告に対し金八千三百六十五円を支払うこと。
原告その余の請求はこれを棄却する。
訴訟費用はこれを三分し、その二を原告その一を被告の負担とする。
この判決は原告勝訴の部分に限り、原告において金二千八百円の担保を供託するときは仮にこれを執行することができる。
二、事 実
原告は、「被告に対し原告が分娩した竹田静枝を引取り、原告に金十六万円を支払うことを命ずる。訴訟費用は被告の負担とする。」旨の判決並に仮執行の宣言を求め、その請求原因として、
「原告は苦しい家計を助けるため、原告肩書住所地附近のゴム工場に女工として通勤していたものであり、被告は右工場附近において酒醤油等の配給所を営み、右工場にも出入していたものであるが、原告は昭和二十三年五月頃から被告と懇意になり、連れ立つてハイキングや映画館等に行く様になり、遂に将来夫婦になろうという約束の下に、同年六月頃から被告と情交関係を結ぶ様になり、やがて被告の子供を懐胎するにいたつた。そこで、原告は約束通り被告に婚姻を要求したところ、被告は両親が反対しても自分は好きな人だから原告と結婚すると言つていたのにも拘らず、原告が妊娠したことを打明けられると、親が知らないうちに堕胎させると言い出ししかもこれを実行しないので、原告は被告に対し子供の処置を再三要求したが被告は何等為すところなく原告と会うのを避ける様になり、原告が被告の姉に事情を打明けて被告に会はせてほしいと頼んだことも却つて被告の怒を買う結果となつて、被告が原告を回避するばかりでなく、胎児についても言を左右にしてなお何等の処置に出ない間に、原告が被告の子を懐胎していることは原告の両親の知るところとなり、原告の母親等が原告とともに被告とその両親に交渉するようになると、被告は原告との婚約は勿論、情交関係までも否認するようになつた。原告は被告がこのように正当な理由もなく婚約を履行しないために、精神上重大な苦痛を蒙つたのであり、しかもこの苦痛は金十五万円の賠償を得て漸く償われるものであるからその賠償を求める。なお、原告は昭和二十四年四月八日女児静枝を分娩し、その費用として金一万円を立替支出したが、右静枝を懐胎させたものは被告であるから、被告において右分娩費用を負担し右静枝は被告の子であるから同女を引取るべきである。仍て、右損害に対する慰藉料金十五万円の支払とともに、右分娩費用金一万円の返還と、右静枝の引取とをあわせて求めるために本訴請求に及ぶ次第である。」と陳述した。<立証省略>
被告は、「原告の請求を棄却する。」旨の判決を求め、答弁として、
原告主張事実の中、原告がゴム工場に女工として働いていたものであり、被告がその附近で酒醤油の配給商を営み、右工場に出入していたこと、及び原被告が昭和二十三年五月頃から懇意になつてハイキングをしたり、映画等を共に見に行くようになつたことは何れもこれを認めるがその他の事実は全部これを争う。」と述べた。<立証省略>
当裁判所は職権を以て証人井口正子及び原告本人(第二、第三回)を訊問した。
三、理 由
原告が肩書住所地附近のゴム工場に女工として通勤していたものであり、被告は右工場附近で酒醤油の配給商を営み右工場に出入するうち、昭和二十三年五月頃から双方懇意となり、ハイキングや映画館等に同道するようになつた事実は当事者間に争のないところである。
原告は、原被告の交際は右に止らず同年六月頃からは情交関係を結び遂には姙娠分娩するに至つたと主張し、被告は極力これを争うのであるが、証人田口君江の証言に原告本人の供述(第一回乃至第三回)を綜合すれば、原被告は同年末頃大阪市生野区勝山通六丁目百三番地所在の玉一旅館で第一回の情交関係を結んだ外同年八月末頃に至るまでの間同所で前後六七回に亘つてその関係を継続したものであつて、為に原告は姙娠して昭和二十四年四月八日女児を分娩し、静枝と命名するに至つた事実を認めるに十分であつて、右認定に反する被告本人の供述は到底信用することはできず、その他右認定を左右するに足る証拠はない。
そこで原被告間の右情交関係に当り果して原告主張のような将来夫婦となるべき約束が結ばれていたかどうかについて考えて見るのに、原告本人の第一回乃至第三回供述に被告本人の供述を綜合すれば、当時原告は当二十一年、被告は当二十五年であつて、前認定のような関係から互に懇親の間柄となり、当初は映画見物やハイキングを共にするに過ぎなかつたが、遂には被告の誘うまま前記の旅館において情交関係を結ぶに至り、前後六七回に亘つてその関係を継続したものであるが、その相互の将来について語り合つたのは、ただ第二回目の関係の前に被告が前記旅館で「親が反対しても一緒になる」と言い、原告もまた「一緒にならう」と話したことがあるだけで、その他には第一回の関係に至るまでの間にも、また第二回の関係以後にも全然何等の話合をもしたことはないのであつて、右情交関係から原告が姙娠しその善後策を被告に求めるに及び、被告は当初はこれを親の知らぬ間に堕胎すると言い、原告もこれを期待したのであるが、被告は遂に何等の処置をもとらずして原告から遠ざからんとし、原告が親と共にその胎児の処置につき被告及び被告両親に交渉するに及んでは、俄に態度を一変して原告との情交関係をも全然否認するの態度に出るに至つた事実を認めるに足るのであつて、被告本人の供述中右認定に反する部分は信用できず、また原告本人の第一、二回供述中にも右認定に反する部分があるが、これまた同本人の第三回供述に照しこれを採用することはできない。そして右認定の事実関係の下において原被告の関係を考えて見れば、右第二回目の関係の前における被告の言も果してどれ程の真面目さを以つて語られ、原告もまたこれをどれ程の真面目さを以て受けたものか、その前後の事情から考え合せ頗る疑問なきを得ないのであつて、結局右原被告の言は所謂閨房の睦言の類を出でず、相互間真剣に将来婚姻に至るべきことを約し合つたものとは認めることはできないのであつて、所詮原被告の関係は単純なる双方合意の情交関係に過ぎなかつたものであり、原告姙娠後における被告の態度には道義上遺憾の点が少くはないが、しかもこれを法律上婚姻予約の不履行があるものとは考えることはできないのであつて、右不履行を原因とする原告の慰藉料請求は到底これを容れることはできない。
そこで次に原告の出産費用の請求についてこれを考えて見るのに原被告の関係は右認定のように合意の情交関係であり、相互にその関係自体についての責任を問うことの許されないことは前段判断の通りであるが、このことと右情交関係から生れた子供についての責任とはまた全然別個の問題であつて、子供が被告の子である以上被告においてこれを認知すべき義務があることはまた固より当然であると共に、その認知前においても原告が被告の子を懐胎し、またこれを出産した以上、その懐胎及び出産に対する責任は被告もまた胎児の父親としてその母親たる原告と共にこれを分担すべきであり、これに要する費用は男女相互にこれを負担すべきこと条理の命ずるところであつて、しかもその責任は子の扶養の義務と同様、男女双方の資力その他の事情を考え各自応分の責任を分担すべきものと解するのを相当とする。そして原告本人の第一、二回供述によれば原告は被告との情交関係により懐胎した子の出産に伴い助産費千五百円、綿入着物一枚千八百七十円、おしめ及び同カバー千六百八十円、ネル着物及び晒襦袢各二枚五百三十円、湯上りタオル四百八十円、ケープ、前掛及び頭巾千六百円、枕百三十円、手拭、紙、天瓜粉及び石鹸二百七十五円、出産用ガーゼ及綿三百円以上合計八千三百六十五円を支出したものであり、しかも原告家は原告の父が月收約一万円の鏡縁研磨工であつて、原告本人も家計の為女工としてゴム工場に勤務していたものであるが、被告との情交関係から姙娠するに及んで昭和二十三年十二月からは右工場をも辞して徒食するの止むなきに立至つたものであり、被告は相当の資産收入を有する酒醤油商の長男であることを認めるに足るのであつて、右事情の下においては原告は子の懐胎出産の為工場勤務を犠牲にしているだけでも既に相当の負担をしているものであるから、その現実に要した出産費用の如きは全部被告においてこれを負担するのを相当と考えるのであつて、右認定の費用はいずれも懐胎及び出産そのものに要した費用であるが、または出産に伴い出生児の保護の為当然用意すべき当座の必要品に対する費用のみであるから、全部これを出産費用として被告の負担すべきものであり、これを支出した原告にその償還を為すべき義務あるものである。
なお、原告は出生児静枝の引取を被告に求めておるのであるが、子の引取義務の問題は子の扶養の問題であり、その扶養の方法として子を被告に引取らしむるを相当とするか否かの問題であるから、子を被告に認知せしめた後家庭裁判所に対しその決定を求むべきものであつて、この決定によらずして被告に子の引取を求める原告の本訴請求は失当であつてこれを認容することはできない。
以上の通りであつて原告の本訴請求中出産費用八千三百六十五円の支払を求める部分は相当であつて、これを認容すべきであるが、その他の請求は全部失当であるからこれを棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十二条、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を適用し主文の通り判決する。
(裁判官 山下朝一 相賀照之 園部秀信)