大判例

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大阪地方裁判所 昭和27年(わ)1556号 1959年11月19日

本籍 大阪市南区末吉橋通四丁目三一番地

住居 大阪市生野区猪飼野東四丁目五番地

事務員 石束市郎

昭和三年五月一二日生

右の者に対する放火未遂爆発物取締罰則違反公務執行妨害被告事件

≪以下略―末尾被告人一覧表参照≫

主文

被告人石束市郎を懲役二年六月に処する。

未決勾留日数中三七〇日を右本刑に算入する。

同被告人に対し本裁判確定の日より三年間右刑の執行を猶予する。

公務執行妨害の点について同被告人は無罪。

≪以下略―末尾被告人一覧表参照≫

理由

目  次

第一章  事実…八

第一節  背景的事実…八

第二節  犯罪事実…九

総論的事実…九

各論的事実…一一

第二章  証拠<省略>

第三章  争点…二〇

第一節  事実問題…二〇

一  旧工廠事件関係…二〇

二  小松正義方事件関係…二一

三  公務執行妨害事件関係…三一

第二節  法律問題…三三

第四章  法律の適用及び一部無罪の理由…三五

第五章  全部無罪の被告人に対する理由…三六

第一章  事実

第一節  背景的事実

(一)  大阪府枚方市に所在する旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所(通称枚方工廠)は終戦後大蔵省所管の普通財産となり、その保守、管理は近畿財務局によつて担当されていたが、その工場及び機械設備の大部分は連合国の賠償指定物件とされていたため遊休のままに放置せられていたところ、賠償指定施設であつても連合軍総司令部の許可があるときは一時使用という形式により国から貸付を受け施設の一部を事実上活用することも可能であつたので、枚方市においては右施設に有力な会社を誘致して税収入の増加、失業者の救済等を図るべきことが強く提唱せられるようになり、昭和二五年始頃より市長や市商工会議所会頭の手により工場誘致の努力がなされていたが、適当な会社もなく、容易に実現を見るに至らなかつた。然るところ昭和二六年三月頃枚方市伊加賀に居住する運送業者小松正義並に宏精鉄板株式会社の重役曽谷総一が伍堂卓雄、富永能雄等の財界の有力者の助力を得て鉄鋼製品の製造等を営む極東鉄器株式会社なる新会社を設立することを計画し、右施設を利用せんものとして一時使用方を近畿財務局に願い出た。そこで枚方市は同年六月二三日市会内に市会議員数名を以て構成する工場誘致特別委員会なるものを設けてこの問題に対処し、結局極東鉄器の誘致に賛成することに決定し、市長、工場誘致特別委員会、市商工会議所会頭、大阪商工会議所会頭名義を以て「一時使用方の実現を速かに要望する」旨の地元の意見書を財務局に提出した。然るに東京都千代田区丸の内に本社を有し、石川県小松市に主たる工場を持つ株式会社小松製作所においても、かねてから大阪方面に工場を設けたい意向を有していたためこの施設に著目するところがあり、同年一一月頃主として甲斐田地区の工場、機械について一時使用方を申請したため極東鉄器と競願することとなつた。ところが大蔵省は未設立の会社に対しては一時使用を許可しない方針であつたので極東鉄器は自発的に申請を取り下げ会社としても成立せぬままに終り、曽谷総一は嘱託として小松製作所に入社し、引続き一時使用申請の業務を担当した。そして枚方市は財務局よりの照会に対し、右施設において爆発物が取扱われないことを条件として小松製作所誘致に賛成である旨の意見を申達していたところ、昭和二七年三月七日に至り連合軍総司令部において小松製作所の一時使用申請を承認する旨の決定があり、この決定は同月三一日、日本政府に到達し、近畿財務局は四月二三日頃より小松製作所関係者が下調査のため施設内に入ることを許した。而して国内手続として更に一時使用の契約が締結されるべきこととなつたが、同年四月二八日講和条約が発動して賠償指定が解消し払下が可能となつたのみならず、大蔵省は講和条約の発動を機縁として返還になつた全国の賠償指定施設について従来の部分的活用の方法を改め一括転用を図るべき旨の方針を打出し各財務局に指令したので、小松製作所としてもこの趣旨を受け、旧工廠施設の全部について払下の申請を出すこととし、同年五月二〇日中宮地区について六月一九日甲斐田地区について夫々払下を願い出るに至つた。

然るところ、朝鮮戦争の進展に伴つて米軍当局は日本の業者に弾丸製作を請負わしめることを企図し、同年五月五日頃東京メモリアルホールに砲弾受註の能力ある業者を招いて八一ミリ迫撃砲弾の発註説明会を開催し、五月二三日右砲弾の入札を施行した。小松製作所も右入札に加わつていたが、同社としては若し右砲弾の発註が受け得られれば弾丸製作工程の内火薬の充填を除外した弾体の搾出部門を旧枚方工廠の施設を利用して行う意向を有していたところ、同年六月二〇日に至り八一ミリ砲弾及び発煙弾計三九四、五〇〇発の受註が決定した。

(二)  旧枚方工廠は昭和一四年三月一日大爆発を起し工廠の建物約四分の一及び中宮部落の殆どを破壊し多数の死傷者を出した事件があつたので枚方市民は工場の誘致には賛成したが右施設内で爆発物が取扱われることに対しては一貫して反対の立場を持していた。然るところ昭和二六年暮頃より市民の間で小松製作所が工廠を再開して兵器の製造を行おうとしているという噂が広く流布し始め共産党枚方市委員会は枚方市会に対し兵器製造に反対されたいという趣旨の請願文を提出し、市会は右請願文を採択した。而して市の理事者達は市民に対し小松製作所はトラクターやブルトザーを作る会社である旨説明して弁明に努めていたが、一部の者は右の言を信用せず、昭和二七年三月一日頃及び六月一七日頃開催された市民大会において一般市政の問題と合せて工廠再開問題を議題に附し、兵器生産には絶対反対である旨を唱え、特に六月一七日の市民大会においては一朝鮮人がマイクの前に立ち「我々のダイナマイトによつて必ず枚方工廠を粉砕してみせる」と演説した。

(三)  小松正義は運送会社栄組の社長で外に二、三の会社の重役を兼ね近畿財務局関係の仕事を下請したこともあるものである。而して前叙の如く早くより旧工廠設備の利用に関心を示し、市の誘致委員等と交友関係を持ち、小松製作所誘致に対しても協力的態度を持していたところ、当時枚方市内では株式会社小松製作所に対する認識が極めて薄く「小松」という名前が同一であるところから同人を小松製作所の社長又は役職員等と誤解していた者が相当存在した。そして同人は一部の市民より工場誘致特別委員会副委員長であつた初田市会議員と共に枚方工廠再開の最大の責任者と目せられることとなり、市内の電柱に「アメリカの手先になつている小松を殺せ」等と書いたビラを貼られたり、「小松製作所から手をひかぬとよい事はないぞ」という趣旨の手紙を受取つたりしていたが、同年三月一日頃の市民大会の解散後約二〇名の者は小松正義の留守宅に押かけ、その家族の者に対し「小松は工廠で戦車や兵器を作ろうとしている。戦争になると自分達がやられる。小松の命をとるか自分達が命をとられるかどちらかだ」等と申向け、小松正義を激しく非難した。而して前述の如く小松製作所誘致が進展するに伴つてますます一部市民の反感を買うようになり、六月一七日の市民大会の当日前記初田市会議員は自宅に投石を受け戸を破壊されるに至つた。

第二節  犯罪事実

総論的事実

第一  被告人松村同閔等は朝鮮戦争勃発満二週年目である昭和二七年六月二五日を目標に置き兵器生産を阻害する目的を以て旧枚方工廠の水圧プレス機に爆薬を仕掛け、これを爆破する計画を抱いていたところ、同月二三日午後に至り同日夜の中にこれを決行することと定めた。而して被告人閔は爆破材料等を携えた上二名の者を伴つて京阪電鉄守口駅より乗車し同電鉄牧野駅にて下車し、同所に待合せていた被告人山田に案内せられて同日午後一一時頃枚方市字坂所在の一宮神社境内に到着した。稍遅れて被告人松元もピケの要員とする意思を以て四名の者を伴い同神社に到着したところ、前以て右神社に来合せていた被告人松村は被告人閔同松元等に対して工廠内部の地図を示して更に右計画に関して説明を行い、なお犯行後潜伏すべき場所に関し指示をした。そして被告人閔、同山田及び被告人閔の伴つて来た二名が工廠内の水圧プレス機に爆薬を仕掛ける実行組、被告人松元及び同人の伴つて来た四名がピケ組となつて相ついで右神社を出発し、附近の地理に明るい被告人山田の先導により翌二四日午前零時半頃旧枚方工廠甲斐田地区第四搾出工場東方のコンクリート塀際に到達し、まず実行組が構内に入つた。而してピケ組の中一名は被告人松元の指示を受け塀外に居残つて見張を行い被告人松元外三名は内部の塀際附近において見張を担当した。その間実行組四名は第四搾出工場に向つて進み、内一名は工場の外において見張をなし、外三名は同工場電動ポンプ室に入り、被告人山田において第六六三号ブレツシヤー・ポンプの上に電気雷管二本を挿入した爆薬包(ダイナマイト・カーリツト各三本)を置き、被告人閔において第六六四号のプレツシヤー・ポンプの上に同じく電気雷管二本を挿入した爆薬包を置き、外一名の者において懐中電灯を照して作業を助け被告人山田同閔が相協力して双方の電気雷管を電線にて乾電池、目覚時計の短針(長針なし)、並びに文字盤下方にハンダ附されたボールドに接続し、約一時間後に時計の短針がボールドに接触するときは爆薬が爆発するように装置し、同日午前一時半頃作業を終え、以て爆発物を使用した。

第二  右犯行終了後実行組及び見張組の全員は前記コンクリート塀外において合流の上予定されていた潜伏場所に向い、中途において二手に分れ、実行組は同日午前三時三〇分頃大阪府北河内郡交野町私部原田末吉方に到着したところ、被告人原田は外二名の者と意を通じた上同人等を警察当局より庇護する目的を以て直ちに交野町私部三、〇九六番地中野誠一郎方土蔵二階に案内し、同日の夕刻まで同所に止まつて右四名の保護に当り、同日午後八時前頃に至るや被告人山内外二名の者とも更に意を通じた上、被告人山田を除く三名の犯人を大阪市方面に向け脱出させることを図り、被告人山内外二名の者において国鉄片町線河内磐船駅に赴いて警察官の来るに備えて附近を警戒し、川上博において三名の犯人を同駅まで道案内し、同人等を午後八時三八分発片町行電車に乗車させ、以て爆発物を使用した犯人を蔵匿し隠避させた(他方見張組は枚方市村野一、三六一番地製菓商渡辺彦治郎方に止宿し早朝立去つた)。

第三  被告人松村同神等は朝鮮戦争勃発二週年記念日前夜祭として六月二四日夕刻より夜を徹して枚方公園裏山においてキヤンプ・フアイアを催し反戦平和の気勢を上げると称し、この旨を数日前よりビラ、伝単、口頭等を通じ関係人に呼びかけていたが、被告人松村はその二日前である六月二二日の午後四時頃枚方公園より旧香里工廠に通ずる新道の通称奥の池附近において下打合の会合を開き、各所より集つた労働者、学生等十数名の者に対し「二四日夜キヤンプ・フアイアをこの山の上で行つて警察当局を牽制し、別動隊の行う枚方工廠爆破を援護すると共に小松正義方居宅及びガレーヂを火炎瓶で襲撃する。当日の催しは警察官に妨害される虞があるからなるべく多数の者を誘つてキヤンプ・フアイアに参加するように」と述べた外、火炎瓶その他の製造方法を教授してこれが持参方を求め、これらの者を引卒して集会予定地たる枚方市上の町水源池向側に所在する一本松の生えている小高い丘及びその附近一帯並びに小松正義方居宅、ガレーヂを下検分し、以て当日にそなえていたものであるところ、六月二四日午後八時頃より午後一〇時頃にかけて右一本松の丘に労働者、学生、婦女子等約一〇〇名の者が参集した。而して下検分に参加した者のほかにも大阪歯科大学学生数名、枚方自由労働組合所属の労働者数名は、小松方を火炎瓶で襲撃する計画ある旨を伝え聞いて参加した。参加者の中一部の者は火炎瓶乃至は火炎瓶たるべき認識を以て製造した瓶を携行し、一部の者は火炎瓶材料を持参した上一本松の丘附近において火炎瓶の製造に従事した。

主催者は附近にピケを出し警察官を警戒すると共にそれらの者をして遅れて参集してくる者を一本松の丘に誘導させていたが、午後一一時頃に至るや大会を行う旨を告げ、被告人松元は枚方工廠の復活反対を叫び「同志は昨夜枚方工廠に潜入して大型プレスを爆破したが一部の者はなお警官に包囲されているからこれを援護しなければならない」と述べ、被告人杉林は「河北解放統一戦線綱領」として枚方工廠の復活反対、再軍備反対、軍事基地化反対、破防法反対、売国奴の実力による打倒等々のスローガンを朗読した上「本日茲に河北解放青年行動隊を結成する」と唱え、他一名の朝鮮人は朝鮮戦争の即時終結、国連軍の撤退等を強調し吉田内閣の施政等を非難攻撃する趣旨の演説を行つた。右演説の前後にわたり主催者は参加者をグループ毎にまとめて部隊編成を行つた。即ち被告人松元を大隊長として三箇中隊の編成とした。第一中隊は二箇小隊より成り、第一小隊は大阪大学工学部学生をこれに充て、枚方学生寮在住者のグループを小舎部隊、通学生のグループを歯車部隊と呼び、第二小隊の中寝屋川市方面居住者を中心とするグループを寝屋川が米の出産地であることに因んで米部隊、大阪歯科大学学生より成るグループを虫歯部隊と呼んだ。第二中隊は二小隊に分れ、第一小隊は守口市方面居住者を主体とし、第二小隊は大阪市の旭区、都島区、城東区方面居住者等をこれに属せしめたが、別に婦女子の大部分を以て一グループを作り、これを救護班と称し同中隊の所属とした。更に第三中隊は枚方市在住の自由労務者並びに朝鮮人の一部等を以て組織した。又「牛と猿」の合言葉を定め各グループの長を通じて隊員に伝達した外連絡を出してピケに立つていた者にもこれを通知した。その後主催者は工廠のプレス爆破に赴いた実行組の者が無事潜伏場所より脱出したことを知り、被告人松元をして「同志は無事脱出した。いまから小松製作所誘致の責任者である売国奴小松正義の家とガレーヂを実力で襲撃する」旨を告げさせた。而して数名の幹部を残して他の全員を丘下の道に降して休憩させ、見張に立つていた者を呼戻して右の隊伍編成に参加させた。多数の者は以上の間に「武器を作れ」という幹部の指示により周辺の立木を切る等して棒杭や竹槍を準備し或は小石を拾い集めたりして警察官と衝突した場合にそなえた。然るところ主催者側は丘の上で焚火をたいたりして時間を無為に過していたが各中隊長を集めた上即時に小松方襲撃に出発するか或は明方まで待つた上小松方攻撃をかねて市中デモを行い、税務署前で挙行される予定の市民大会に合流するかを各隊員にはかるように求めた。この頃第一中隊員であつた大阪大学工学部学生の一部は個人の住宅に対する火炎瓶攻撃は不穏当である旨を表明したが、学生の隊は直接攻撃を担当せずピケに当るべき旨を聞かされ結局大勢に従い第一中隊の一員として行動することを承服した。攻撃の時期に関しては夜中徒らに時間の長いことに不満を表明する者が多く特に第三中隊員であつた枚方の自由労働者の一部は警察官に顔を見知られていることを理由として明方の出発に強く反対したので結局二五日午前三時までに襲撃を行い襲撃終了後は山中に後退することと定められた。而して各隊の任務として第一中隊は小松方より前方の道路上において待機見張をなし警察官が現れた場合はこれを阻止すること、第二中隊は小松方より手前の道路上において待機見張をなし必要あれば他の隊に応援に赴くこと、第三中隊は直接小松方居宅及び自動車庫を襲撃することと最終的に定められ、各中隊長はその役割を自己の隊員に説明すると共に各自勝手な行動をとらないよう注意を与えた。又第一中隊長は米部隊の者を母体として突撃隊と称する十名程度の隊を設け、最先端に配置して最初に警察官に当らせることとし、この隊に一部の火炎瓶を手交するよう命じ、第二中隊長は数名の者を予備隊員として選任し他の中隊より要請があれば応援に赴くよう指示をなし、第三中隊長は中隊員約二〇名を二組に分ち、第一組は小松方居宅を、第二組は同人所有の自動車庫を夫々攻撃すべき旨命じた。かくて六月二五日午前二時過頃各中隊は順次行動を起し一本松の丘下を出発して山を降り、第一中隊は小松方より約一〇〇米下手なる道路上に出て配置につき、更に前方に向けて偵察員を出し、第二中隊は小松方より約四〇〇米上手なる木村十郎方附近において待機をなし、諸方に偵察員を出して見張を担当した。而して第三中隊長の先導により小松方附近の道路上に至つた第三中隊員は手筈通り二手に分れ、同日午前二時三〇分頃

(1) 第一組は小松正義及び同人の家族が居住していた枚方市伊加賀八五番地の一小松正義方玄関に進み、第三中隊長において玄関硝子戸を体当りによつて押し開き、他の隊員において火炎瓶を投入し、内一箇は玄関土間において破裂して火炎を発し其場にあつた短靴の一部を焼き、他一箇は玄関二畳の間の襖に当つて破裂し火炎を発し襖の一部を焼いたが、物音に目を覚ました小松正義によつて発見消火されたため現に人の住居に使用する建造物を焼燬するに至らず、

(2) 第二組は小松正義居宅より道路を隔てて斜に位置する小松正義所有の自動車庫に至り、その建物内の一室には小松正義の家族矢間貞子が就寝していたがこれを認識せず、鉄棒を用いてくぐり戸を開け大戸を内部より押し開き、車庫内に所在していた乗用自動車の窓ガラス、機関部内、車輪附近のコンクリート上、及び建物内部の板壁に火炎瓶数箇を投げつけ火炎瓶の火炎により乗用自動車の一部を焼いたが間もなく小松正義等に消火せられ、人の現在しないものと信じた建造物を焼燬するに至らなかつた。

第四  右犯行終了後各員は隊伍を崩し部隊編成を乱して一本松の丘方向に向け逃亡したが、その後尾にあつた数名の者は二五日午前三時頃前記木村十郎方附近において小松方に火炎瓶が投棄せられた旨の急報により、出動した枚方市警察署巡査山本行男外一名に発見せられ、「来た来た」等と呼び交し乍ら逃走した。そこで右巡査等はそれらの者が小松方襲撃の犯人なりと判断し警笛を吹鳴しつつ追跡し枚方市泥町所在の観照堂と称する御堂下に至り、他の五名の警察官の到着を待つた上、前方の者達を放火未遂罪の準現行犯人に当るものとして逮捕に出ようとした。これに対し、被告人神ほか約二〇名の者は右観照堂下三叉路一帯にふみ止まり、警察官が逮捕のため接近して来たことを知り乍ら意思相通じ、「殺してしまえ」「やつてしまえ」等と叫び、火炎瓶として携行して来た瓶や小石を投げつけ、或は数名の者において喊声をあげ乍ら棒杭、竹槍等を携えて突進し、その際巡査谷利夫の前額部に小石一箇を命中させ、以て暴行脅迫を加えて前記七名の警察官の公務の執行を妨害した。

各論的事実

被告人石束市郎は当時枚方市に居住し日雇労務者を職とし全枚方自由労働組合書記長をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二二日の下検分に参加して小松方居宅及び自動車庫を火炎瓶で襲撃する計画を了知し、同月二四日夕方枚方市中宮所在の精神病院裏手において自由労務者等数名に対し、当夜の集会の後小松方を火炎瓶で襲撃する計画ある旨を告げ、未完成の火炎瓶数本を示して各人に手交し、相連れ立つて同日午後一〇時半頃一本松の丘に至り、同所において塩素酸加里附着の紙片を携行して来た瓶に貼り付けて火炎瓶を完成し、第三中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の投入によつて小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第二組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方自動車庫内に至り、以て現に人の住居に使用する建物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人阿出川和夫は当時寝屋川市に居住し旋盤工として働いていたものであるが、

(イ) 総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し火炎瓶の携行を目撃し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊突撃隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らず。

(ロ) 総論的事実第四の犯行に際し、観照堂下三叉路附近において神宏ほか二〇名位の者と共謀の上、山本行男外六名の警察官に対し判示の通りの暴行脅迫を加え以て公務の執行を妨害したものである。被告人山本義秋は当時大阪市東淀川区に居住し染工場の汽罐士として働いていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日午後六時頃大阪市都島区の川部重美方において人民大会に参加すべきことを誘われ、同人と共に同日夜一本松の丘に到着し、松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の携行を目撃し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至つて見張の任務につき以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人伊地知季正は当時寝屋川市平池に居住し寝屋川市北農業委員会に書記として勤務していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊突撃隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人前岡幸男は当時枚方市茄子作に居住し土工をしていたものであるが、総論的事実第二の犯行に際し、昭和二七年六月二四日午後六時頃枚方市茄子作の北谷商店において松村泰雄より交野町にかくまわれている工廠爆破犯人の脱出に協力して欲しい旨依頼せられ、同日午後七時頃北河内郡交野町私部原田末吉方に至り、原田末吉等と共謀の上閔載寔、廬承達、玄箕の三名を脱出させることを図り、山内昌次と共に国鉄片町線河内磐船駅に赴いて右三名の者が同駅午後八時三八分発片町電車に乗車するまでの間警察官の来るにそなえて附近を警戒し、以て爆発物を使用した犯人を隠避させたものである。

被告人長谷川慶太郎は当時大阪大学工学部学生で自宅より同大学東野田学舎に通学していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日課業終了後同級生であつた伊香雅文と共に枚方学舎に赴いて他の学生を待合わせ十数名の学友と共に同日夜一本松の丘に至り、火炎瓶の携行を目撃し第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第一小隊長として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつものである。

被告人伊香雅文は当時大阪大学工学部学生で自宅より同大学東野田学舎に通学していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日課業終了後同級生であつた長谷川慶太郎と共に枚方学舎に赴いて他の学生を待合わせ、十数名の学友と共に同日夜一本松の丘に至り、火炎瓶の携行を目撃し、第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し、中途において指揮者より命を受け須藤浩行と共に枚方公園附近まで警察官の警戒に赴いて見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建物及び人の現在しないのと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人須藤浩行は当時大阪大学工学部学生で自宅より枚方学舎に通学していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日同学舎学生ホールにおいて他の学生を待合せ、十数名の学友と共に同日夜一本松の丘に至り、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、松本保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し、中途において指揮者より命を受け伊香雅文と共に枚方公園駅前附近まで警察官の警戒に赴いて見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人東正三は当時大阪大学工学部学生で自宅より枚方学舎及び東野田学舎に通学していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し昭和二七年六月二四日枚方学舎学生ホールにおいて他の学生を待合わせ十数名の学生と共に同日夜一本松の丘に到着し、同所において阪大グループより持参した未完成火炎瓶の完成に協力し、他のグループの者の火炎瓶携行を認識し、松本保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人山崎稔は当時大阪大学工学部学生で自宅より同大学枚方学舎に通学していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し六月二四日夕方同学舎学生ホール炊事場において他の学生と火炎瓶の製造に従事し、十数名の学友と共に同日夜一本松の丘に到着し、同所において持参にかかる未完成火炎瓶数本の完成に協力し、他グループの者の火炎瓶の携行を認識し、松本保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人鈴木竜雄は当時守口市高瀬町に居住し店員をしていたものであるが

(イ) 総論的事実第一の犯行に際し、昭和二七年六月二三日夜守口市の松本保紀方において、同人より一緒にピケに行つて欲しいと依頼せられ同人他三名の者と共に枚方市坂所在の一宮神社に至り、松村泰雄より旧枚方工廠に行つて見張に当るべきことを指示せられ、松元保紀に引卒されて同神社を出発したものであるところ、中途において松元の発言により、前方を進む他のグループの目的は工廠内に時限爆弾を仕掛けて器物を破壊することである旨を認識し、なお同行を継続して旧枚方工廠甲斐田地区構内に入り、松元の指示に基き附近を警戒し、以て閔載寔等の爆発物使用を容易ならしめてこれを幇助し、

(ロ) 総論的事実第三の犯行に際し、右同年六月二四日夜守口市居住の者達と同行して一本松の丘に到着し、火炎瓶の携行を目撃し松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近に至り、更に中隊長の命を受け前方へ赴いて見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らず、

(ハ) 総論的事実第四の犯行に際し、観照堂下三叉路附近において、神宏ほか二〇名位の者と共謀の上山本行男外六名の警察官に対し判示の通り暴行脅迫を加え自らは棒杭を携え喊声をあげ乍ら警察官に向つて突進し、以て公務の執行を妨害したものである。

被告人石束次郎は当時守口市日向町に居住し工員をしていたものであるが総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜白瀬守一外数名の守口市居住者と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し松本保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近に至り、更に中隊長の命を受け前方へ出て見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人杉原良作は当時寝屋川市田井に居住し日雇労務者をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夕方一本松の丘に到着し、火炎瓶の製造及び携行を目撃し松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊員として行動を共にすることを了承し、よつて放火を共謀し、当初第二小隊の米部隊に所属していたが、出発直前に中隊長附の伝令となり、一本松の丘下の道路を出発し、前進、停止等の命令を伝えて部隊間の連絡に従事し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人井上保は当時寝屋川市平池に居住し寝屋川北農業委員会に書記として勤務していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊突撃隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人白瀬守一は当時守口市に居住し株式会社八木組の荷造人夫をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜守口市方面居住者数名を伴つて一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し部隊編成に当つては第二中隊長となり主催者側と隊員との連絡に当り松本保紀等の演説を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら見張部隊の長として行動する決意を定め、よつて放火を共謀し、第二中隊の任務を自己の隊員に説明すると共に他の隊に応援に赴くための予備隊員を選任し、第二中隊員を引率して一本松の丘下の道路を出発し、小松方上手、木村十郎方附近に至つて隊員を待機させ、一部の者を附近に偵察に赴かしめる等して見張の指揮をとり、以て火を放つて現に人の住居に使用する建物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人寺田安雄は当時寝屋川市に居住し寝屋川市北農業協同組合に事務員として勤務していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二二日の下検分に参加して小松方居宅及び自動車庫を火炎瓶で襲撃する計画を知り、六月二四日夜一本松の丘に赴いて火炎瓶の製造及び携行を目撃し、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第二小隊長として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人松元保紀は当時守口市に居住していたものであるが、

(イ) 総論的事実第一の犯行に際し、昭和二七年六月二三日夜自宅において脇田憲一外三名の者に対し一緒にピケに行つてくれと依頼し、それらの者を帯同して枚方市坂所在の一宮神社に至り、松村泰雄等と旧枚方工廠甲斐田地区工場内の水圧プレス機に時限爆弾を仕掛けて爆破することの謀議を遂げ、見張組の責任者として任務を尽すことを了承し、よつて爆発物の使用を共謀し、脇田憲一外三名の者を引率して甲斐田地区東側の路上に到着し、一名の者を塀外に残して構内に入り塀際附近において見張組の中心となつて附近の警戒に当り、以て人の財産を害する目的を以て爆発物を使用し

(ロ) 総論的事実第三の犯行に際し、右同年六月二四日夜一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、小松方居宅及び自動車庫を襲撃する旨の演説を行い部隊編成に当つては大隊長となり、火炎瓶の使用によつて小松方居宅及び自動車庫を焼燬することがあるかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊の指揮をとる決意を定め、よつて放火を共謀し、各部隊の指揮をとり乍ら小松方に向つて出発し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつた。

ものである

被告人鈴木稔は当時守口市に居住していたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し昭和二七年六月二四日夜守口市居住の者達と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人松村(旧姓坂本)ゆき子は、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜守口市方面居住者と共に一本松の丘に至り、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において小松方居宅及び自動車庫を火炎瓶で焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至り、更に中隊長の命を受け前方へ出て見張の任務を遂行し以て現に人の住居に使用する建物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人三谷博は当時大阪歯科大学学生で枚方市伊加賀に下宿し実習のため天満の同大学附属病院に通つていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二二日の下検分に参加して小松方居宅及び自動車庫を火炎瓶で襲撃する計画あるを知り、同月二三日同大学附属病院において学友達に右計画を語り、同月二四日夕方自己の下宿において他の歯科大学学生と共に火炎瓶とする意思を以て四本位を製造し(ガソリンの代用としてアルコールを使用した)、相連れ立つて一本松の丘に至り、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第二小隊(虫歯部隊)員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し、中途において指揮者より命を受け他一名の者と共に枚方公園附近まで警戒に赴いて見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人松岡功は当時大阪歯科大学学生であつたが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二三日右大学附属病院において三谷博より小松方居宅及びガレーヂを火炎瓶で襲撃する計画ある旨を聞き、同月二四日夜同大学学生三名を伴つて一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し火炎瓶の携行を目撃し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊(虫歯部隊)員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し、中途において指揮者より命を受け他一名の者と共に枚方公園駅附近まで警戒に赴いて見張の住務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人武田正規は当時大阪歯科大学学生であつたが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二三日同大学附属病院において三谷博より小松方居宅及びガレーヂを火炎瓶で襲撃する計画ある旨を聞き、同日夕方三谷博等と小松方、一本松の丘、観照堂附近一帯を見歩いて夜間の集会にそなえ、翌二四日夕方三谷の下宿において学友達が火炎瓶と称する瓶四本位を製造(ガソリンの代用としてアルコールを使用した)するのを現認し、相連れ立つて一本松の丘に至り、他グループの者の火炎瓶の携行を認識し、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第二小隊(虫歯部隊)員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人神宏は

(イ) 総論的事実第三の犯行に際し、一本松の丘の集会を計画してその主催者の一人となり、昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、火炎瓶の持参及び製造を認識し、参加者の部隊編成に参画し、小松方襲撃を松元保紀をして告知させ、火炎瓶の使用により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊見張部隊の別を定めて中隊長を通じ各員に任務を伝達し、よつて放火を共謀し、翌二五日午前二時過頃各部隊を小松方に向け出発させ、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らず

(ロ) 総論的事実第四の犯行に際し、観照堂下三叉路附近において約二〇名の者と共謀の上、山本行男外六名の警察官に対し判示の通り暴行脅迫を加え、自らはその指揮をとり、以て公務の執行を妨害したものである。

被告人康胤蓍は当時大阪市旭区に居住し守口市高瀬町所在の旧朝鮮連盟事務所において執務し在日朝鮮民主愛国青年同盟京阪支部委員長をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二二日の下検分に参加して小松方居宅及びガレーヂを火炎瓶で襲撃する計画を知り、同月二四日夜一本松の丘に赴き、松本保紀の演説を聴取し火炎瓶の携行を認識し、部隊編成に当つては第三中隊長となり、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬することがあるかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊の長として行動する決意をなし、よつて放火を共謀し、自己の部隊の任務を隊員に伝達して居宅組とガレーヂ組に分ち、同中隊員を引率して小松方前路上に至り、自己の体当りによつて居宅玄関の硝子戸を押し開き、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人廬承達は当時守口市高瀬町に居住し旧朝鮮連盟事務所において執務していたものであるが

(イ) 総論的事実第一の犯行に際し、閔載寔より旧枚方工廠内の水圧プレス機に爆薬を仕掛けて爆破させる計画を打ち明けられ同人と行を共にすることを承諾し、よつて爆発物の使用を共謀し、昭和二七年六月二三日夜閔等と枚方市坂所在の一宮神社に赴く途中爆破が時限爆弾によつて行われることを知り、同神社において見張組の者を待合わせ、他一名の者と共に実行組となつて同神社を出発し、旧枚方工廠甲斐田地区第四搾出工場電動ポンプ室に入り、閔載寔等が時限爆弾を装置する際懐中電灯を照し作業に協力し、以て人の財産を害する目的を以て爆発物を使用し

(ロ) 総論的事実第三の犯行に際し、同年六月二五日午前一時頃外二名の者と共に一本松の丘に到着し、第三中隊長の説明を聴取し火炎瓶の携行を認識し、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第一組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方附近路上に至り、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつた

ものである。

被告人中丸松二は当時枚方市に居住し自由労務者をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夕方枚方市中宮所在の精神病院裏手において数名の者と共に石束市郎より小松方を火炎瓶で襲撃する計画ある旨を聞き、未完成の火炎瓶数本が其場に準備されていることを目撃し、相連れ立つて同日午後一〇時半頃一本松の丘に至り、同所において携行の瓶に塩素酸加里附着の紙片が貼付されて火炎瓶として完成されたことを知り、第三中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第二組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松丘下の道路を出発して小松方自動車庫内に至り、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人丁永暢は当時大阪市旭区に居住し工員をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜旭区に居住する友人二名と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の携行を目撃し松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊の予備隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊と共に一本松下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至り、更に中隊長の命を受けて数名の者と共に前方へ警戒に赴いて見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人五十嵐昭雄は当時大阪大学工学部学生であつたが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人安原一夫は当時大阪市旭区に居住し会社事務員をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜正田良三と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至り、更に数名の者と共に前方へ警戒に出て見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人寺島孝晶は当時大阪市旭区に居住し、生活擁護同盟旭支部常任書記をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜旭区に居住する友人二名と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の携行を目撃し松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至り、附近の見張を担当し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人正田良三は当時大阪市旭区に居住し自転車修理販売業をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜安原一夫と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊の予備隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至り、更に附近へ警戒に赴いて見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人黒岩貫乙は当時大阪市旭区に居住し、はつり工をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜旭区に居住する友人二名と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の携行を目撃し松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊の予備隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至り、更に中隊長の命を受けて数名の者と共に前方へ警戒に赴いて見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人岡野弘子は、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、火炎瓶の携行を目撃し松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に到つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人大野俊郎は総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜都島区方面居住者と共に一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の携行を目撃し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人金相菜は当時大阪府北河内郡住道町に居住し藤椅子製造工場で働いていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜柳海玉等の朝鮮人と共に一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説及び第三中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の持参を目撃し、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第二組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、火炎瓶と称される瓶一本を携行の上同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し小松方附近路上に至り、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人奈良裕は当時枚方市中宮に居住し香里病院のボイラー係として働いていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日枚方市中宮所在の精神病院裏手において、数名の者と共に石束市郎より小松方を火炎瓶で襲撃する計画ある旨を聞き、未完成火炎瓶数本が其場に準備されていることを目撃し、相連れ立つて同日午後一〇時半頃一本松の丘に至り、同所において携行の瓶に塩素酸加里附着の紙片が貼付されて火炎瓶として完成されたことを知り第三中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第二組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、火炎瓶一本を携行の上一本松の丘下の道路を出発して小松方自動車庫前路上に至り、所携の火炎瓶を乗用自動車の前輪めがけて投げつけてコンクリート上で発火せしめ、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人柳海玉は当時大阪府北河内郡住道町に居住し古鉄商をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜金相菜等の朝鮮人と共に一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説及び第三中隊長の説明を聴取し、火炎瓶の携行を目撃し、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第二組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し、途中木村十郎方附近において隊列を離れ暫く待機をなし、第二中隊の一部の者と共に更に前方へ前進し小松方を目撃し得る地点まで至つて見張を行い、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人閔載寔は当時守口市所在の旧朝鮮連盟事務所で執務し、在日朝鮮民主愛国青年同盟京阪支部常任祖国防衛隊員をしていたものであるが、

(イ) 総論的事実第一の犯行に際し、松村泰雄等と旧枚方工廠甲斐田地区内工場の水圧プレス機に時限爆弾を仕掛けてこれを爆破することを計画し、昭和二七年六月二三日午後に至るや、同日夜の中にこれを決行することと定め、よつて爆発物の使用を共謀し、爆破材料等を携え二名の者を伴つて同日午後一一時頃一宮神社に到着し、同所において松村泰雄と更に右計画に関して打合を行つた上同神社を出発し、山田孝雄に案内せられて旧枚方工廠甲斐田地区第四搾出工場電動ポンプ室に入り、第六六四号のプレツシヤー・ポンプの上に電気雷管二本を挿入した爆薬包を置き、山田孝雄等と協力して時限爆弾の装置を完了し、以て人の財産を害する目的を以て爆発物を使用し

(ロ) 総論的事実第三の犯行に際し、同年六月二五日午前一時頃外二名の者と共に一本松の丘に到着し第三中隊長の説明を聴取し火炎瓶の携行を認識し、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第一組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方附近路上に至り、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつた

ものである。

被告人杉林正許は当時大阪大学工学部学生であつたが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日昼頃同大学枚方学舎通信教室屋上において学友達に対し集会参加を誘い、キヤンプ・フアイアの終了後小松方にデモを掛ける計画ある旨を告げ、同日夕方学生ホールにおいて学友達と火炎瓶の製作を協議し、阪大関係より数本の未完成火炎瓶を携行した上学友達と一本松の丘に至り、同所において火炎瓶として完成させ、大会が開始されるや河北解放統一戦線綱領と題するメモに基いてスローガンを朗読し、河北解放青年行動隊の結成を告げ、松元保紀の演説を聴取し、部隊編成に当つては第一中隊長となり主催者側と隊員との連絡にあたり、実行部隊において火炎瓶を投入し小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら見張部隊の長として行動する決意を定め、よつて放火を共謀し、第一中隊の任務を自己の隊員に説明すると共に突撃隊なるものを設けて最初に警察官との斗争に当らせることを定め、第一中隊員を引率して一本松の丘下の道路を出発し小松方下手の道路上に至つて隊員を待機させて見張の指揮をとり、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人松村泰雄は

(イ) 総論的事実第一の犯行に際し、閔載寔等と旧枚方工廠甲斐田地区内工場の水圧プレス機に時限爆弾を仕掛けてこれを爆破することを計画し、爆破材料の入手に関与し、昭和二七年六月二三日午後に至るや同日夜の中に決行することと定めて関係者に一宮神社集合を命じ、よつて爆発物の使用を共謀し、同日午後一一時頃同神社に赴いて閔載寔、松元保紀等に更に右計画に関して指示をなし、閔載寔外三名を実行組、松元保紀外四名を見張組と定め同神社を出発させ、以て人の財産を害する目的を以て爆発物を使用し、

(ロ) 総論的事実第三の犯行に際し、一本松の丘の集会を計画してその主催者の一人となり、昭和二七年六月二二日の下検分を主宰して小松方居宅及びガレージを火炎瓶で襲撃する計画ある旨を告げ、参会者等に友人多数を誘つて集会に参加するよう要請し、同月二四日夜一本松の丘に到着し、松元保紀等をして工廠爆破犯人の脱出と小松方襲撃の方針を告知させ、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬することがあるかも知れない旨を認識し乍ら小松方襲撃を決定しよつて放火を共謀し、二五日午前二時過頃実行部隊及び見張部隊を小松方に向けて出発させ、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつた

ものである。

被告人川部重美は当時大阪市都島区に居住し日雇労務者をしていたものであるが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜山本義秋と共に一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し火炎瓶の携行を目撃し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第二小隊長として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人石束三郎は当時守口市に居住し工員をしていたものであるが

(イ) 総論的事実第一の犯行に際し、昭和二七年六月二三日夜守口市の松元保紀方において同人より一緒にピケに行つて欲しいと依頼せられ、同人外三名の者と共に枚方市坂所在の一宮神社に至り、更に松元保紀に引率されて同神社を出発したものであるところ、中途において松元の発言により前方を進む他のグループの目的は旧枚方工廠内に時限爆弾を仕掛けて器物を破壊することである旨を認識し、なお同行を継続して旧枚方工廠甲斐田地区東側コンクリート塀際まで到達し、松元の指示を受け塀外に居残り附近を警戒し、以て閔載寔等の爆発物使用を容易ならしめてこれを幇助し、

(ロ) 総論的事実第三の犯行に際し、右同年六月二四日夜一本松の丘に赴き火炎瓶の携行を目撃し、第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第一小隊員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手木村十郎方附近路上に到つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが、障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつた

ものである。

被告人玄南箕は

(イ) 総論的事実第一の犯行に際し、閔載寔より旧枚方工廠内の水圧プレスに爆薬を仕掛けて爆破させる計画を打ち明けられ同人と行を共にすることを承諾し、よつて爆発物の使用を共謀し、昭和二七年六月二三日夜閔等と枚方市坂所在の一宮神社に赴く途中爆破が時限爆弾によつて行われることを知り、同神社において見張組の者を待合わせ、実行組の一員となつて同神社を出発し、旧枚方工廠甲斐田地区内に入り、第四搾出工場の外側において見張をなし、以て人の財産を害する目的を以て爆発物を使用し、

(ロ) 総論的事実第三の犯行に際し、同年六月二五日午前一時頃外二名の者と共に一本松の丘に到着し、第三中隊長の説明を聴取し火炎瓶の携行を認識し、火炎瓶の投入により小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら実行部隊たる第三中隊の第一組員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方附近の路上に至り、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつた

ものである。

被告人辻井良一は、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二四日夜守口市方面居住者数名と共に一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し松元保紀等の演説及び第二中隊長の説明を聴取し、実行部隊の者において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第二中隊第一小隊長として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方上手、木村十郎方附近路上に至り、前方へ偵察に出ていた者との連絡に従事する等して見張の任務を遂行し、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人明坂肇は当時大阪歯科大学生であつたが、総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二三日同大学附属病院において三谷博より小松方居宅及ガレージを火炎瓶で襲撃する計画ある旨を聞き、同月二四日夕方三谷の下宿に赴いて火炎瓶と称する瓶四本位の製造(ガソリンの代用としてアルコールを使用した)に協力し、相連れ立つて一本松の丘に至り、他グループの者の火炎瓶の製造及び携行を認識し、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第二小隊(虫歯部隊)員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建物に火を放つたが、障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである。

被告人小川昭治は当時大阪歯科大学学生であつたが総論的事実第三の犯行に際し、昭和二七年六月二三日同大学附属病院において三谷博より小松方居宅及びガレージを火炎瓶で襲撃する計画ある旨を開き、同日夕方三谷博等と小松方、一本松の丘、照観堂附近一帯を見歩いて夜間の集会にそなえ、翌二四日夕方三谷の下宿に赴いて火炎瓶と称する瓶四本位の製造(ガソリンの代用としてアルコールを使用した)に協力し、相連れ立つて一本松の丘に至り、他グループの者の火炎瓶の製造及び携行を認識し、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨を認識し乍ら第一中隊第二小隊(虫歯部隊)員として行動することを了承し、よつて放火を共謀し、同中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発して小松方下手の道路上に至つて見張の任務につき、以て現に人の住居に使用する建造物及び人の現在しないものと信じた建造物に火を放つたが障碍によりこれらを焼燬するに至らなかつたものである

被告人原田末吉は当時大阪府北河内郡交野町私部に居住し農業を営んでいた者であるが、総論的事実第二の犯行に際し、昭和二七年六月二四日午前一時三〇分頃枚方市新高田竹林学方において川上博等と雑談中、同家に現れた松村泰雄より枚方工廠に爆発物を装置した犯人の一部をかくまうよう依頼せられ、いそぎ自宅に帰来し、爆発音を聴取して益々認識を深め、間もなく被告人方に到着した山田孝雄、閔載寔、廬承達、玄南箕の四名が器物破壊の目的を以て爆発物を使用した犯人であることを認識し乍ら川上博等と意を通じ、同人等を同日午前四時頃交野町私部三、〇九六番地中野誠一郎方土蔵に案内して就寝させ、同日の夕刻まで引続き同家に止まつて右四名の保護に当り、同日午後八時頃に至るや山内昌次等とも共謀の上山田孝雄を除く三名を大阪市方面に向け脱出させることを図り、川上博に右三名を国鉄片町線河内磐船駅まで案内させて同日午後八時三八分発の片町行電車に乗車させ、以て爆発物を使用した犯人を蔵匿し隠避させたものである。

被告人山内昌次は当時枚方市村野一、三六一番地製菓商渡辺彦次郎方に住込で働いていたものであるが、

(イ) 昭和二七年六月二四日午前一時三〇分頃枚方市新高田竹林学方に遊びに行つていたが松村泰雄の指示に基きいそぎ右渡辺方に帰来し、程なく同家に到着した松元保紀、脇田憲一、樋口保、鈴木竜雄、石束三郎の五名を同家雇人部屋に迎れ入れ、間もなく爆発音を聴取し、同人等が当夜旧枚方工廠内に器物破壊の目的を以て爆発物を装置して来た犯人である旨を認識し乍ら使用人部屋に就寝させ、以て爆発物を使用し又は爆発物を使用したと認識せる犯人を蔵匿し、

(ロ) 総論的事実第二の犯行に際し、右同日午後六時頃枚方市茄子作北谷商店において松村泰雄より交野町にかくまわれている工廠爆破犯人の脱出に協力すべき旨指示せられ、午後七時頃北河内郡交野町原田末吉方に赴き、原田末吉等と共謀の上、閔載寔、廬承達、玄南箕の三名を大阪市方面に向け脱出させることを図り、国鉄片町線河内磐船駅に至つて右三名の者が同駅午後八時三八分発片町行電車に乗車するまでの間警察官の来るにそなえて附近を警戒し、以て爆発物を使用した犯人を隠避させた

ものである。

被告人山田孝雄は当時大阪府北河内郡交野町私部に居住し家事手伝をしていたものであるが、総論的事実第一の犯行に際し、松村泰雄等と旧枚方工廠内の水圧プレス機に時限爆弾を仕掛けて爆破することを謀議し、昭和二七年六月二三日夜京阪電鉄牧野駅に赴いて閔載寔等を一宮神社まで案内し松村泰雄と更に右計画に関し打合を行い、よつて爆発物の使用を共謀し、附近の地理に明るいところから実行組を先導して旧枚方工廠甲斐田地区第四搾出工場電動ポンプ室に至り、第六六三号プレツシヤー・ポンプの上に電気雷管二本を挿入した爆薬包を置き、閔載寔等と協力して時限爆弾の装置を完了し、以て人の財産を害する目的を以て爆発物を使用したものである。

被告人脇田憲一は当時大阪市旭区赤川町に居住し叔母の経営する運動具店の手伝をなす傍ら守口市所在の定時制高等学校に通学していたものであるが、総論的事実第一の犯行に際し昭和二七年六月二三日夜守口市の松元保紀方において同人より一緒にピケに行つて欲しい旨依頼せられ、同人外三名の者と共に枚方市坂所在の一宮神社に至り、更に松元保紀に引率されて同神社を出発したものであるところ、中途において松元の発言により前方を進む他のグループの目的は旧枚方工廠内に時限爆弾を仕掛けて器物を破壊することである旨を認識し、なお同行を継続して旧枚方工廠甲斐田地区構内に入り、松元の指示に基き附近を警戒し、以て閔載寔等の爆発物使用を容易ならしめてこれを幇助したものである。

被告人樋口保は当時大阪市旭区中宮町に居住して工員をなす傍ら守口市所在の定時制高等学校に通学していたものであるが、総論的事実第一の犯行に際し、昭和二七年六月二三日夜守口市の松元保紀方において同人より一緒にピケに行つて欲しいと依頼せられ、同人外三名の者と共に枚方市所在の一宮神社に至り、同所において松村泰雄より旧枚方工廠に行つて見張に当るべき旨指示せられ、松元保紀に引率されて同神社を出発したものであるところ、中途において松元の発言により前方を進む他のグループの目的は工廠内に時限爆弾を仕掛けて器物を破壊することである旨を認識し、なお同行を継続して旧枚方工廠甲斐田地区構内に入り、松元の指示に基き附近を警戒し、以て閔載寔等の爆発物使用を容易ならしめてこれを幇助したものである。

第二章  証拠≪省略≫

第三章  争点

第一節  事実問題

本件では事実問題に関する争点は極めて多岐にわたつている。結局において前章に掲げた証拠を採用しそれらを綜合して判示の認定に到達したというほかないのであるが、事件の核心たるべき部分や証拠が錯綜しているため証拠の列拠のみでは説明不十分と思われる部分について、当事者の主張を要約し乍ら更に当裁判所の判断を示すことにする。本章における用語例等に関しては前章のそれに従うほか、「被告人の証言」とは被告人が証人となしてなした供述を指し、「被告人の本人供述」とは被告人本人としてなした公判廷での供述を指し、単に公判供述とは公判廷における証人(被告人を含む)の供述の双方を指すものとする。

一、旧工廠事件関係

(1) (2)≪省略≫

(3) (被告人脇田等の共謀について)検察官は被告人脇田、樋口、鈴木竜雄、石束三郎を爆発物使用の共同正犯で起訴している。なる程被告人等は爆発物使用を認識の上見張を行つたものであるけれども、見張行為者だからといつて直ちに共同正犯に問擬しうるかどうかについては更に検討の要があると思われる。

見張というのは犯行に対する障碍を排除する一切の行為を指称するものとして論議されている。従つて一口に見張といつてもその態様は甚だ一様でない。又犯罪の罪質によつても犯罪の実現に及ぼす影響力を等しくしない。故に見張にも犯罪の実行行為の一部と評価してよい場合があると考えられるのであるが、一般的にいうときは見張は実行行為の定型に合致しない。従つて見張を行つたからといつてそのことから直ちに共同正犯者として処断せられることはない。唯然し見張を行う程の者は犯罪について共謀があることを例とするので、そのために多くの場合見張行為者が共同正犯者として処断される結果となるのである。判例において見張を行つた者を共同正犯者としているのは、特殊の場合を除き、犯罪についての共謀の上見張を行つた事案か或は見張行為の態様その他を通じて共謀を認め得る事案である。帰するところは共謀共同正犯の理論に則り共謀の有無によつて共同正犯の成否を定めているものと見るべく、見張行為一般を目して実行行為の一部と認めているのではないと解される。

本件被告人等の行為を見るに、その見張行為は決して特異なものではなく、これを目して実行行為の一部ということはできないから、本来的意義における共同正犯は成立の余地がなく、残るところはこの被告人等について共謀の関係を認め得るかどうかにある。

ところで共謀は単なる意思の連絡と同義でない。元来共同正犯は二人以上の者が意思連絡の上各自において実行行為を分担し犯罪を完成することを本来的形態とするが、二人以上の者の間における意思の疏通が強固となり、共同の犯罪目的の下に単一の意思主体を形成したと認められるにおいてはその中の一部の者の実行行為は右意思主体の行為と評価せられ、実行行為を行わなかつた者も共同正犯の罪責を負わされるに至るのである。故に共謀共同正犯における主観的要件としては単に他人との間に意思連絡あるに止まらず、他人の実行行為を自己の行為として受入れ、自己の犯罪をその者と共同して実現するという認識のあつたことを必要とする。即ち自己の犯罪として犯す認識か他人の犯罪として犯す認識かに従い共謀なりや否やが分れるのである。判例において共謀を意思の連絡なる用語を以て説明するものがあるが事案はいずれも右の意義における共謀の存するものである。

これを本件について考察すると、被告人等は当夜松元の家に立寄つたところこれから一緒にピケに行つてくれぬかと依頼せられ、松元に伴われて一宮神社に赴いたが、そこでも爆発物装置の目的について知らされるところがなく、旧枚方工廠に赴く途中たまたま溝の中の雑談によつて当夜の目的を知るに至つたがそのまま同行を継続し、旧工廠甲斐田地区の東側コンクリート塀にまで到達し、松元の指示に基き塀の内外において見張を行つたものであつてこれは前認定の通りである。してみれば松元としては年少な被告人にことさらに目的を打明けるというようなことはせず、その意思もなくて行動を開始したが中途においてそれらの者が自分達は一体何しに行くのだと聞くのでつい答えるようになつたのだと思われる。松元としては要するに自分の後について来て指示通りに動いてくれればそれでよい、という程度の意思を持つていたことが看取される。而してこのような松元の意思は右経緯よりして当然被告人等に伝わり、同人等としても犯行全体において占める自己の役割を低いものとして受取つたものと認められる。又事が爆弾を仕掛けるというような重大事であるだけに予期に反したことであつたろうことは疑なく、被告人鈴木の「ごついことをやるなあ」という驚嘆の言葉にもこれを窺うことができるのであるが、既に着々と進行しつつある計画の中に入りこんでしまつていた訳であつて、深夜の事ではあるし一の拘束感に基いて自己の行動を律せざるを得なかつたものと判断される。又現場の地理、爆弾を仕掛ける対象物、事後の成行等についても全く知るところがなかつたわけですべての行動は松元に委ねる外なかつたものである。従つて現場における見張も松元に追随するような形態をとることとなつたものである。見張の際の認識に関し被告人脇田は「見張のようなものではなかつたのですけれども、あれが見張だつたように思います」「松元のはつきりした役割は僕らわかりませんでしたけれども僕らの面倒を見てくれておつたように思います」「何せ草原の中で僕らにはどつち行つていいのかわからぬので、頼りのない話で、しやがんでいるような恰好でおつたわけです」「僕らのおるところへ、それ以外の人が来れば、松元さんのところに行つて言うとか、そういうこと以外に方法がない、そういう状態です」等と証言しているのであるが、事の成行と現場の状況に照し十分首肯し得るところである。

以上の検討に徴すると、被告人等は爆発物の使用を認識し、これの見張を行つたといつても、自己の犯罪として爆発物使用の罪を犯す認識があつたとまで評価することはできないものといわなければならない。そこで被告人等に対しては爆発物使用の正犯の責任を認めないこととし、爆発物使用の幇助犯を以て処断するのが相当であると認めた。

二、小松正義方事件関係

(1)(2)(3)≪省略≫

(4) (大阪歯科大学学生の一部の集会参加の認識について)被告人武田等当時大阪歯科大学学生であつた被告人等は、被告人三谷より工廠爆破を援護する目的を以て小松方居宅及びガレージを火炎瓶で襲撃する旨の計画あることを聞きつつ本件集会に参加したことを否定し、天満の大阪歯科大学附属病院において被告人三谷と会つたことはあるがそのような話は聞いておらず、枚方工廠爆破の話はこれよりも前に被告人松岡が学生大会の席上で枚方の市民大会で聞いて来た旨述べたところ、多くの者より一笑に付された事実があつたのみであると主張する。又弁護人は、附属病院控室は学生が自由に出入し外部からも十分見通しがきく場所であるから、そのような場所で工廠を爆破するとか人の家を焼くとかいうような話がなされたとは社会通念上考え得ないところであり、又若し被告人松岡が被告人三谷より下検分の結果を聞いていたとすれば当夜一本松の丘へ行くのに道を間違える筈はないと主張するのである。

然るところ、この事実に関する証拠中被告人武田の検察官に対する二回調書は再検討の結果任意性のないものと認めるのでこれを除外して考察を行う。同人の検察官に対する二回調書は他の事実に対する関係でも重要性ある証拠として援用せられているし、前に却下した分についても相当争があるのでその任意性を認めない理由について説明する。被告人武田は昭和二七年九月九日朝逮捕せられ、ついで勾留せられ、九月一五日に一回調書(山中副検事)、九月二七日に二回調書(谷沢検事)、九月二九日に三回調書(谷沢検事)、九月三〇日に四回調書(土橋副検事)がそれぞれ作成せられ、四回調書作成の日に釈放せられ、一〇月一七日不拘束時において五回調書(土橋副検事)が作成されたものと認められる。然るところ、証人西川元造(医師、大阪歯科大学教授)の証言によれば、西川医師は一〇月二日大阪歯科大学附属病院において被告人武田を診察したところ黄疽の症状を認め派行性肝炎に罹患しているものと診断したので絶対安静を命じ、学校へは出て来ないようにと指示したことが明かである。而して西川医師は「あの状態では少くとも二、三日前から自覚症状があるべきだと思う」「潜伏期間に関してはいろいろ学説があるが二週間から一〇日、短くて一週間である」と証言しているから武田被告人は勾留時も右の病気に罹患していたものと認められる。

問題は被告人武田が自覚症状を起した時期、苦痛の程度なのであるが、西川医師の証言によつても診察時における熱の程度は明かでなく、勾留中武田被告人を診察した警察医はすでに死亡しカルテも存在しないので主として被告人の本人供述に基き事実を判定するほかなかつたところ、同被告人の公判供述は一貫しておらないのであつて、第五六回公判廷における谷沢検事に対する反対尋問においては「二八日か二七日ごろ調書をとられた時に身体のことがあつたと思うのです。便が真赤になつて警察医は『お前風邪引きと胃腸病で三八度六分の熱がある』といつたが、普通の風邪で尿が赤くなることがないから、だれか専門的な医者の診断を受けたいといつたのですが記憶はありませんか」と質問し、第一三八回公判廷における被告人本人としての供述に際しては「下村という先生が一度だけ留置場で看て下さつた時に三九度五分ありました。それは警察に入つてから一週間目位と思います。(熱を計つたというが体温計は自分で見たかとの河本被告人の問に対し)はつきりした記憶はないが見せて貰つたんですけれども。橋本という頭の禿げた看守に一晩中訴えたことがあるんです。医者の診断は触診と検温だけでした。

それから自分の方から頼むとビタミンとカルシウムの注射を射つてくれました」と供述し、第一三九回公判廷における被告人本人としての供述に際しては熱は「四〇度とは言つていません。三九度といつています。熱はおそらく担当の看守が計つてくれたんだろうと思います。医者はその時いたかどうかは覚えていません。体温計を自分は見てないが看守の人が言つてそれを担当日誌か何かに書込んだと思います。そう言い乍ら書いたのは見ています。三九度より多いかあるいは三八度八分位だつたか、そういうことはこの際責任持てませんが、大体三九度として、三九度もあると言われたことは覚えています」と供述し、第一五二回公判廷における証人城戸関男に対する反対尋問においては「医者は何度往診しましたか。二度来てるんですがね」と質問しているので、日によつて供述が変るのではないか、との印象を受け、又三九度五分も熱のある病人を医師たるものがそのままに放置しようとしたとも考え難く、更に被告人武田が西川医師の診察の日枚方の下宿より実習場所たる天満の病院まで赴いていることからみて自分自身としてはそれほど重大に意識していなかつたのではないかとも考えられ、結局被告人武田の供述には十分の信用性を認めることができなかつた。然し西川医師は流行性肝炎は一般に「最高熱として四〇度出るのは大人で少ないと思いますが三九度台が普通です」と証言しているので、この証言に重きを置き、西川医師の診断以前にこのような状態になかつたという保障はないものとして西川医師の診断の日を基準とし、同被告人の検察官に対する三回調書、四回調書を任意性なきものと認め却下した。

然し乍ら弁護人の所論にかんがみ更に検討してみると西川医師は「少くとも」二、三日前より自覚症状があるべきだと述べているのであり、二回調書は三回調書の二日前に作成せられていて質的にあまり差異はなく、流行性肝炎による肉体的苦痛は必ずしも熱の程度のみに依存せず、時期的にはむしろ黄疽の症状を呈する以前において強いものと考えられ又被告人武田の公判供述は任意性なきことを強調するあまりつい誇張に過ぎたものの二回調書が作成される頃には相当苦痛であつたことは間違いないのではないかと思われるので、二回調書も亦身体の著しい苦痛下において取調を受け録取された調書とみなし、供述の任意性を欠くものとして本件全体の証拠より排除する。

ところでまず被告人三谷の供述調書より検討を始めることとするが、被告人三谷の六月二二日の下検分に関する供述部分に信用性を認むべきこと前述の通りである。而して被告人三谷、武田、邑上、小川、明坂等は仲の良い友人であり、一人が他の者を引つぱつて行くというような雰囲気はなかつたものと認められる。被告人三谷は稍年長ではあつたものの極めて温和な性格の持主であると認められる。そうだとすると被告人三谷が集会参加に関し相談する際下検分の結果をそのままに打明けて態度を決めるということは自然な成行のように考えられるのである。従つて被告人三谷の検察官調書の該当部分の信用性を疑うような事情は一応発見できないところである。次に被告人邑上の日記(証第八五号)六月二四日分の記載によれば「二五日の前夜、枚方工廠の爆破、武装革命ののろし、しかし時期しよう早、方法についても疑問、両親はじめ亨にすまない。母の快復と父の壮健、亨の努力と成功を祈る。クリスチヤンとして実行の時、犠牲は覚悟せねばならないだろう、無事帰宅出来る事をやはり祈る」とあり、被告人邑上の検察官に対する一回調書三項によれば六月二三日病院の技工室で仕事中、武田に廊下へ呼び出され、二四日の夜の催しの一部を聞き、同日午後図書室において武田、小川明坂と共に三谷から小松の住宅やガレージを襲撃する旨の計画を聞き、火炎瓶作製のため空瓶を持参するようにと言われたという趣旨の記載があり、特に同調書の四項には「当日の夜自宅で明日の小松襲撃に参加しているので負傷したり逮捕されたりした場合に家族に判る様私の日記に暗にその行動に参加した事を推測できる様に書いておきました。お示しの日記は私のものでありまして只今説明致しました暗に家族に判る様に書いたのがこれであります。その内容に枚方工廠の爆破と言う事も書いているのは当日学校で三谷から枚方工廠を爆破するという事も聞いていたからであります」との供述記載がある。この点に関する被告人邑上の証言は「(検察官の問)枚方工廠を爆破するという話をその当時証人は知つとりますか(答)枚方工廠を爆破するという話は何か自分がほかの場所で聞いたかほかの時間に聞いたか何かも知れないのでありますが、そういう記憶があるように思います(問)その日に三谷から聞いたというようなことはありますか(答)というような記憶ははつきりしません(問)他の場所で聞いたというのは、三谷と病院で会つたですね、図書室で会つたときよりも時間的にみて前ですか後ですか(答)そのへんの記憶ははつきり致しておりません(問)証人はそのことを自分の日記に書いたことがありますか(答)日記に書いたような記憶があります」というのである。以上を対比して考察すれば被告人邑上の検察官調書の記載は信用するに値する。被告人松岡が工廠爆破の話を六月一七日の市民大会で聞き、そのことを学生大会で述べて一部の者の失笑を買つたということも事実であろうが、そのことから被告人邑上の日記となつたものとは受取れぬところで、やはり被告人邑上は被告人三谷より下検分の話に関連してこれを聞いたものと認めるのが相当である。次に被告人松岡の検察官に対する三回調書三項によれば「午後一時近い頃私が天満の病院の一階学生控室へ行きますと三谷、武田、小川、邑上等四、五人が集つておりました。私が行くと三谷は六月二十四日の事に続いて我々はデモをして小松、初田の家を火炎瓶で襲撃をする。その間に別動隊は枚方の工廠に爆弾を仕掛けて爆破するのだ(と言つた)」とあつて被告人三谷の二回調書一項六回調書一項によく符合するのみならず「処が此の時私は今迄石束並に杉林から聞いていた話とその集合場所(私はもつと香里に近い方の山であると理解していた。初田や小松の家からあまり離れておらない処ではヨードー作戦が出来ないと思つた)や終了時刻及び工廠を爆破する事等について三谷の説明とは違つた点がありました。そこで私と三谷との間にかなり云い争がありました。然し三谷は昨日石束等と地形等の下検分をして来たのであるという話でありました」とまで記載があるのであつて、これらの点は被告人松岡の当公廷における弁明にも拘らず、被告人自身が進んで述べた事柄と認めるほかはないのである。

被告人武田は被告人三谷より小松方襲撃の話を聞いたことを強く否定する。而し同人の証言は大部であるが努めて趣旨を違えないように摘記すると「附属病院で三谷より話を聞いた前日の夕方三谷の下宿へ行つたことがあるように思う。三谷の下宿へ行つたときに聞いたかどうか分らないがキヤンプ・フアイアについての協議会といつた種のものがあつたということを聞いたように思う。小松という人が軍需工場の再開について奔走していることを、三谷から聞いたか誰から聞いたか分らないが聞いたように思う。小松という人の辺にデモをするというような意味のことを聞いたが、それは三谷のところで聞いたかどうか分らぬ。ただ当時そういうことを聞いたことがある。小松の宅というより小松の工場再開に対するデモということである。具体的なことについてははつきりしない。三谷から小松の家の様子などを見て来たというようなことはそのときは聞いていないように思うが、記憶ははつきりしない。参加する時の服装、携帯品等については三谷からだつたかはつきり記憶していないが一応誰からか聞いたように思う。身軽な服装で余り目に立たないような服装というようなことを聞いているが個々のことは覚えない。キヤンプ・フアイアは一晩中やるから弁当二食分持つて来るようにいわれたと思う。火炎瓶という言葉がその時に出たように思う。デモになるとどんなデモでも必ず警官に襲撃され、怪我人を助ける係のようなところにも現れるだろうから、そういう場合に火炎瓶なり、その種のもので防ぐべきではなかろうかというような話があつたのではなかろうかと思うが、それが三谷のときの話であつたかほかの人の話であつたかは分らぬ。三谷の話の中で空ビンを持つて来いという話はあつたように思う。火炎瓶について教えられたことは二十二日にはなかつたように思う。教えられるという程系統的なものはなかつたかもしれないが火炎瓶というものについての話を聞いたように思う。それを聞いた日にちははつきりしないが、おそらく三谷の新しい下宿ではなかつたかと思う。その内容ははつきり覚えていないが、アルコールかガソリンかどつちか含まれておることは聞いたように思う。その他のものについては覚えてないし、あるいは当時もはつきり聞いていないかもしれぬ。説明書のようなものを三谷が持つていたことはあつたかも知れぬ。その内容は自分は直接は読んでないように記憶する。火炎瓶を持つて行くという話は二十二日にはおそらくなかつたんじやないかと思う。はつきりとは分らない。とにかくもう一度具体的な事情を知りたいというような意見で話が終つたように思う。翌日附属病院の控室へ行つた。そのときにも三谷から前日と大体同じようなことを聞いた。ところがそこに居つた者の間でキヤンプ・フアイアというものに対する解釈が違つた。はつきりしないので参加するかしないかということもおそらくそこでははつきり決められてないのではないかと思う」というのである。結局二二日と二三日に三谷と出会つて話をしたことはあるが具体的なことは覚えておらず、キヤンプ・フアイアの趣旨については、はつきり分らぬままに終つた、というものの如くである。然し乍ら、行為の時より証言の時までに相当日時が経過しているといつても第三者として無関心に過していたわけではなく、同年九月九日に逮捕せられて取調を受け、被告人として公判に立たされ、終始無罪を主張していたのであるから、ここまで記憶が薄れるとは到底理解し得ぬところである。このことは当時の事情に関する本人としての供述や、自己に関係ある多くの証人に対する尋問内容が極めて詳細且つ具体的であり、明確な記憶を保存していることに照しても肯定できるところである。結局全体として右証言内容には信用を措き難い。

次に弁護人の所論について検討するに、附属病院内の技工室が学生が自由に出入する部屋であつたこと、その一部分引込んだ箇所が図書室として利用され、技工室とは仕切りがなかつたことは証人土田吉信の証言によつて明かであるけれども、そのことの故に右のような話がなし得なかつたものとは解し得ない。右場所における会話が直ちに他の一般学生に聞えたと認むべき証拠は何もなく又小松方を火炎瓶で襲撃するとか工廠の爆破が行われるとかいつても、それは工廠再開反対のためのキヤンプ・フアイアなる催しの一環として語られているのであり、しかも被告人等が直接その衝に当るとまでは予期していなかつたというのであるから、通常の場合のような犯罪意識を持ち、他の学生をはばかつたものとは解し得ぬところである(本件の証拠判断について留意すべきは、当時の社会状勢の下における行動は今日の感覚を以てしては律し得ない面が多分にあるということである。大阪大学工学部学生の一部も大学の学生ホールにおいてその所持すら厳格な取締の対象とされていた火炎瓶を製造しようとした)。

次に被告人松岡が一本松の丘に至る際道に迷つたこと、従つて正確な集合場所を知らなかつたことは所論の通りであるけれども、山の中の始めての場所なのであるから、その道順が明確でない限り迷うということはあり得る。同被告人の性格もあつて大体のことは聞いたが正確な道順まで知ろうとせず、しかも夜間地理不案内の場所であるため迷つたものと受取れるのであつて別に矛盾は認められない。尤も松岡被告人の検察官に対する一回調書一五項によれば、同被告人は前以て下検分の話を聞かず、犯行の際小松方下手へピケに出てそのまま三谷の下宿へ引揚げ、そこで三谷から下検分の話を聞いた旨述べており、松岡被告人はこの調書を援用するかの如くであるが、これは同被告人が集会に伴つて行つた者等に関し虚偽を混えて供述していた段階におけるものであつて、其後の供述により訂正せられていることが明かである。

以上の考察に従えば被告人三谷は下検分の結果に基き、工廠爆破の話と、小松方居宅及びガレージに対する火炎瓶攻撃の話を被告人武田、邑上、小川、明坂、松岡等に伝えたものと認めるのが相当で、これに反する各被告人の証言、本人供述はいずれも信用することができない。

尤も右計画を聞いたといつても右被告人等が直接に火炎瓶を以て小松方襲撃に当るとまでは考えていなかつたことが明瞭である。又邑上被告人がこれを深刻に受取り、逮捕や負傷まで予想して日記に書き残し、松岡方被告人が呑気に構えて何も知らない女子学生を伴つて行つたとしても矛盾はなく、これは各人の性格によると共にその計画の現実性をどの程度に把握したかによるものと思われる。当時においてはそのような話を聞いたとしても各人の受取り方は区々であつたものと思われ、「行つてみなければ実際はどうなるのか分らない、とにかく平和集会というのであるから行つてみよう」というような風潮があつたことは確かであると認められる(大阪大学工学部学生の一部は二四日昼頃同大学枚方学舎通信教室屋上において被告人杉林及び河本より本件集会に関し説明を受けたと認められるが、その際における各人の認識に関しても同様の判断がなされ得る。然しこれに関連する全証拠を綜合してみるとその際には「火炎瓶を以て襲撃する」とまでは話が出ていないものと認められるので、あらためて説明を加えることをしない)。

(5) (被告人松元の演説について)検察官は被告人松元は一本松の丘で演説を行つた際小松正義方居宅及びガレージを火炎瓶で襲撃すると述べたものであると主張する。被告人松元が演説を行つたことならびにその演説中に工廠爆破のこと小松方に対する実力行動のことが含まれていたこと自体は被告人松元の本人供述により確認し得るところであるが、「火炎瓶で襲撃する」とか「小松方を焼く」という表現があつたかどうかについて争があるのである。而して検察官の主張に符合する証拠は、検察官に対する高尾総之助の七月三日附供述調書六項中「其の話と云うのは『北河内行動隊が実力を以て枚方工廠再開を阻止する為これから小松製作所社長の小松の家を火炎瓶で襲撃する』と云う事を説明しました。又其れから此の男は『行動隊が枚方工廠を爆破し様と計画した為警察の包囲を受けている』と云う報告もしたのであります」との供述記載、七月一六日附供述調書一項中「只今当時のことをよく思い出してみますとこの宣言文をよんだ隊長らしい男が宣言文をよんだあとで私達に『北河内行動隊は実力を以て枚方工廠の再開を阻止する為、これからこの山の下にある小松製作所の社長小松の家を火炎瓶で襲撃する』といつたのです。それで私はこの丘の上に集つていた者が小松の家を焼きに行くことになつたことを知つたのです」との供述記載、井上真之助の八月八日附供述調書三項中の「それが終つてから同一人であつたと思いますが演説の様な事を始め、その内容に枚方工廠を昨夜爆破し、それに行つた者が囲まれていると云う報告の様なこともあり、亦小松の家を焼くと云うことも云はれたので、私が側にいた光藤等に小声で個人の家を焼くと云うのはいけないのぢやないかと、それに対し批判を下しました」との供述記載、崎山稔の三回調書四項中「それから一時間以上経つてから誰かが演説を始めました。その内容は私が只今記憶しているのは再軍備反対の為に小松正義方を焼く事にすると云つたことでありました」との供述記載、土井幸代の一〇月二日附供述調書六項中「その演説の内容ははつきり覚えて居りませんが再軍備反対、枚方工廠再開反対等となつており、又昨晩枚方工廠へ爆弾をしかけに行き成功したと報告し、皆が拍手をし、最後に小松の家やガレーヂを火炎瓶で焼きに行くと云い皆が賛成とか異議なしとか叫び拍手も致して居りました」との供述記載、田上リヨウの一二月二日附供述調書一項九号中「松元さんは一本松の丘で小松の家を火炎瓶で襲撃すると演説をしました」との供述記載、以上である。然し乍らこのような供述をしている者は全体からみると少人数にすぎず、他の多くの者の検察官調書は単に「演説をした者は小松の家(乃至はガレーヂ)を襲撃すると言つた」というような記載になつているのである。この点に関し検察官は、他の者の調書に右のような趣旨の記載が現れておらないのは、それらの者は第一次的にはこれを聴取したと自供することによつて自己が放火の刑事責任を問われることを恐れ、第二次的には他の共犯者に対する遠慮から、あいまいな供述をわざとしているのであると主張するのである。然し乍ら公訴事実に関して詳細な自白をなし、自己及び他の共犯者の刑事責任を明瞭に認めている康胤蓍、山本季良、三谷博、安原一夫等の検察官調書にも右のような供述は現れておらず、特に康胤蓍は「松元君は小松の家の襲撃は火炎瓶でやるとは云わなかつた様に思うが私は火炎瓶を使用することは大体判つていた」旨、山本季良は「山の上では小松方を襲撃すると云うことを聞いておりますが火を付けると云う言葉は聞かなかつた様に思う。然し火炎瓶を用意しており突撃隊にそれが渡されたこと等からして火を付けることがあると思つた」旨特に断つて述べていること、又三谷博は松元の演説に関しては火炎瓶云々のことを言つていないに拘らず中隊長の説明として火炎瓶による襲撃という言葉があつたと述べていることからすると検察官の説明はそのままに肯定することができないようである。次に個別的に高尾総之助以下の調書を検討することとする。弁護人主張の如く高尾総之助の調書は必ずしも一貫しておらないのであつて、前記の七月三日附調書に続く七月一一日附調書の七項においては「読み上げるのがすんでからその男はその晩の集会について具体的な計画を話しました。『小松製作所の再開を実力で阻止する為之から小松の家を襲撃する、家とガレーヂの両方を襲撃する』と申しました。そこへ集つていた全員が万事その計画を承知の上で来ている様な口振でその計画に賛成を求めると云う様な話方ではありませんでした。之に対して私等は別に賛成とも反対とも称えなかつた様に思います。私自身どういう風にその場の情勢を判断したかと申しますと、そこへ集つた人は大体襲撃の計画を承知で来ており反対の意向を示さない限り大部分の人が賛成しておるのであると思いました。これに対して私の覚悟は、既に火炎瓶まで用意して来ている事だし小松の家を襲撃すると云う話が出たのでありますからこの計画は間違なく実行される。自分がこの会合に加わつた以上責任のある事であつて家に火をつけるという様な恐ろしい事になつたと思いましたが、自分一人で反対するのも何だか此処まで来た以上卑怯な気がして今晩の事は指導者の命ずる侭に委せようと云う気になつた訳であります」となつていて、「火炎瓶で」襲撃するとは演説になかつたことを前提として心理的な説明をなし、前記七月一六日附供述調書の後の調書では再び演説の内容として「実力でやつつけねばならん」とか「襲撃」とかの表現に戻つているのである。高尾総之助の調書全部を素直に通読するときは「火炎瓶で」襲撃とある部分にのみ強い証明力を認めることはできないものと言わなければならない。次に井上真之助の調書はかなり具体的であるがこの調書に関しては被告人光藤の本人供述が問題となる。即ち光藤被告人は「保釈後井上に出会つたところ、井上は自分に対し『検事が君を大物みたいにして追及していたので君に有利なことを述べておいた。僕等と一緒におつてしかも家を焼くことに反対していたと述べておいた』と言つていた」旨述べているのである。この供述は井上真之助の供述の自己矛盾を示し井上の供述の証明力を減殺するという意義において証拠能力がある。この点に関し検察官は、井上調書では家を焼くことに反対したのは井上自身だというのであり、光藤が一緒に反対したという記事になつていないのであるから、光藤の本人供述には矛盾があると主張するが、稍形式的な読み方のように思われ井上調書から光藤も反対の気持だつたという趣旨を読みとれないでもない。被告人光藤の本人供述をそのまま真実と認める程の裏付がないにしても、検察官に対する白砂竜士の八月一日附供述調書六項、高尾総之助の八月一一日附供述調書(一六項まである一通)七項、山本季良の八月六日附供述調書四項等も合せ考えると、一応合理性ある主張であるから、一応そのようなことがあつたものと取扱わざるを得ない。尤も井上真之助が光藤の所在を認めたかどうかということと、演説の内容そのものがどうであつたかということは別論であつて、光藤が仮にその場におらなかつたとしても演説の内容として「焼く」なる表現があつても論理上矛盾するところはないのであるが、井上のこの調書の前の調書である七月二九日附調書四項では「私は演説の時ウツカリしましたが、皆と雑談している時、今晩の目的は小松の家を襲撃すると云う様なことを聞きました。それが学生の間で問題になり、個人の家を襲撃するのは具合が悪いというささやきがあつて、ある学生が学生を代表して指導者等の集つている所に行つて意見を述べる事になりました」とあるのであり、光藤の所在と演説の内容とは相関連しているのであるから、光藤の所在を井上真之助が認識していなかつたかも知れないとの前提をとる以上、井上真之助の前記供述部分もまた証明力の薄いものたらざるを得ない。次に、崎山稔の調書であるが、土橋副検事の証言、被告人崎山の当公廷における供述態度、検察官調書の記載等を綜合すると、弁護人主張の如く被告人崎山が検察官の取調に威圧を受けて検察官の尋問を容易に肯定したものとは到底受取れぬところであつて、むしろ同人は自己に不利益な事実を最少限度において認め、検察官はその供述するところに矛盾があつても本人の認めた範囲内のことをそのままに調書に録取したものであると判断される。従つて同人の調書中この点に関する供述部分は確かに一応の証明力を保有する。然し乍ら右の調書に「その内容は私が只今記憶しているのは、再軍備反対のために小松正義方を焼くことにすると云つたことでありました」とあり、抽象的な記載となつている点に不審を残すのである。即ちこの記載は、演説の内容自体ではなくて被告人崎山において演説の趣旨とするところを判断した結果に過ぎないのではないか、との疑を生ぜしめる。次に土井幸代、田上リヨウの調書であるが、土井幸代は当夜被告人松岡に伴われ深い事情も知らずに一本松の丘に赴き帰ろうにも帰れなかつたという事情のある歯科大学生であり、田上リヨウは相当な年輩のきさくな中年婦人であり、いずれも容易に捜査官の尋問を肯定する可能性のある者と認められるから、特に明確な形で供述の趣意が調書に現れてでもいない限り、これに強い証明力を認めることは危険であるといわなければならない。以上の綜合的及び個別的検討によると、右の者等は被告人松元の演説について記憶が不鮮明なままに、あるいはそのようなことが述べられたのかも知れないと考えて安易に捜査官の尋問を肯定したのではないか、仮に右表現が供述者の口から出たことであり又は捜査官の尋問をはつきり承認した結果であるとしても、当夜における火炎瓶の製造、携行、周囲の雰囲気等を強く印象に残し、演説の内容を誤認しているのではないか、乃至は演説の趣旨とするところを自らにおいて解釈し表現そのものを正確に述べていないのではないかとの疑を生ぜしめる。従つてこの点に関する検察官の主張は採用することができない。

然し乍ら、その際被告人松元が「小松正義方の居宅とガレージを襲撃する」と述べたことだけは疑ないと認められる。このような表現に関しても争のあるところであるが、証人高尾総之助の「演説の内容として枚方工廠再開に反対するため示威行為をする、工廠再開の原動力の小松という人にいやがらせをするという趣旨のことがあつたと思う。その時には襲撃という言葉で聞いたが襲撃の手段については聞かなかつた。何か爆破するというようなことも聞いた」旨の証言、証人田上リヨウの「当夜山の上で、平和を守るためにはやらなければいかん、枚方工廠が復活されたがあれは爆破した、それで皆集つて貰つたんだというような話があつた。松元さんらしい人から、小松という者が戦争の道具を作つて怪しからんから小松の家を襲撃しようという説明があつた。襲撃の方法は別に言わなかつた」旨の証言のほか、検察官調書としてさきにも触れた高尾総之助の七月一一日附調書七項、下検分にも参加し、実行グループを指揮した被告人康の五回調書一項中「翌二十五日の午後一時頃と思いますが守口で氷屋をしている松元君が皆の人を起して『工廠爆破の別行動隊は警官の包囲から無事脱出した。それで此処にいる部隊は別行動隊の脱出を援護する任務が終つたので只今から小松の家とガレーヂを実力で襲撃すると申しました。松元君は小松の家の襲撃は火炎瓶でやるとは云わなかつた様に思いますが、私は火炎瓶を使う事は大体判つておりました」との供述記載、被告人松元と勤先を同じくした事があつて同人と面識ある衣笠武士の三回調書六項中「丘の上で松元さんが『吾々は実力行使に出なくてはならん時期となつた。昨晩は枚方工廠を爆破して来たが敵の重囲に陥つて四名だけ帰られなくなつたから吾々は応援に行かなくてはならんのだが先程情報が入つてその四名は無事脱出した。今晩の目的は吾々は売国奴小松製作所の社長の家とガレーヂを襲撃するんだ』と説明しました」旨の供述記載、その他本件参加者の数多くの検察官調書中の記載に照して疑のないところであると認められる(なお弁護人は衣笠武士の調書中「小松の家の下の方の道に出て少し下つた処で攻撃の命令が出るのを待機していたところ、小松の家の方で戸を叩く様な音がしてパーと明るくなり、火炎瓶でも投げこんだ様子でありました」とある部分をとらえ衣笠武士の居つた位置からは小松の家の方は見えない筈であるからこれは経験則に反した記載であり、これは検察官の押しつけによるものであること疑なく、このような記載の存する以上、同人の調書全体の証拠価値は皆無であると主張するので一応附言する。なる程地理的な関係からして一応そのようにも解し得られないではないが、証人美登路雄一の証言によると、同人も亦見張グループの一員として行動し、小松方の下手、桜並木のある道の片側に待機していたものであるが「少し離れたところでガヤガヤいう声が聞え、又炎が見えたように思う。自分の居つた場所は十米程のカーブから下りた辺のところである。桜並木からガレーヂは道が曲つているから見えない」という趣旨のことを述べているのであり、この証言によるとガレーヂを見通し得ない位置にあり乍ら炎乃至は火炎瓶らしい明りを認めたことになるのである。火炎瓶の当初の燃焼が可成り急激であること、夜間においては遠くの火気でも認め易いこと見張グループの者は小松方に向け神経を集中していたであろうことを考え合せると、火炎瓶らしい明りを認め、或は明りを見たように錯覚したところで矛盾はないというべきである。従つて衣笠武士の調書に経験則に反した事項の記載があるものとし、これを前提として立論することはできないものと言わなければならない。又同人の調書には、前記の記載に引続き、逃げる際ガレーヂの方を見たが「ガレーヂの方は戸が開いて自動車が見えておりましたが燃えてはおりませんでした」とも記載せられており、燃焼に関して特に誘導的に調書を取つたとも認め難いところである)。

(6) (部隊編成について)被告人等の大多数の者は部隊編成の点を否認し、検察官調書中の各記載は検察官の一方的な押しつけによつて生じたものであると主張する。然し乍ら当夜の通行人でピケに引掛かり一本松の丘へ連行されて尋問を受けた下村万達の検察官に対する供述調書により、隊長とか小隊長とかの呼称があつたことを認めるに足りるほか、公判廷における高尾総之助、三谷益史、被告人長谷川、同須藤、同東、同美登路雄一、長谷川汎子、被告人邑上、同井上、同石束次郎、同山本、今井安子、田上リヨウ、被告人柳の各証言、被告人康の本人供述によつても、第一中隊及びその構成部分としての小舎部隊、虫歯部隊、米部隊、出発直前における突撃隊、第二中隊及びこの構成部分としての第一班、救護班(又は第三小隊)、第三中隊及びこの構成部分としての居宅攻撃組とガレーヂ攻撃組の各存在を認めるに足りるところである。而して部隊編成のようなものを一の者においてのみ認識し他の者において認識しないというようなことが不自然であること言うまでもない。従つて被告人等の公判供述の多くは信用し得ぬところである。尤もその部隊編成なるものが、如何なる強固さを持つた団結であつたか、その指揮命令なるものが如何なる厳正さを持つたものであつたか、又その指揮者たる者に対し隊員が常に中隊長とか小隊長とかの呼称で呼んだかは別論であり、更に部隊編成に関する認識が自己の所属した隊に対すると他の隊に対するとでは差異が存するであろうが、多数の者の公判供述は右のことを考慮に入れてもなお理解し難いものであり、証言の誠実性を疑わしめるものである。いずれにせよ当夜においては集会参加者の全部がグループ毎に区分され、これに判示のように軍隊に似た名称が附され、各部隊に長たるものが存在し、後に各中隊毎に統一ある行動を行つたことは疑う余地のないところである。

(7) (火炎瓶の認識、製造、所持について)被告人の一部の者は当時火炎瓶なるものを知らなかつた旨証言しているので当時における火炎瓶の認識一般について最初に検討する。然るところ本事件より少し前東京において所謂皇居前メーデー事件と称される事件が起き火炎瓶が投げられたというような報道が行われ、火炎瓶が当時社会的な関心の対象とされていたことは殆んど公知の事実であるが、なお当公廷における被告人東、井上、伊地知、山本の各証言(内容はいずれも第二章に摘記した)、被告人武田の「火炎瓶を焼打に使用するならば別行動をとろうと(三谷に)言つておるかも知れません、おそらく言つておると思います。メーデーの時に、実際はなかつたんですけど、自動車にどうこうしたというようなことを聞いていましたので、一応は念頭に浮びました」旨の証言、小松方ガレーヂで消火に協力した橋本孝徳の「ガレーヂで瓶を見た時これが火炎瓶じやないかという感じがした。新聞なんかに当時いろいろ出ていました。瓶の中に油を入れてそれを投げこむというふうにチヨイチヨイ出ていました」旨の証言、橋本澄夫の「ガレーヂの中の瓶は火炎瓶と思いました。その頃火炎瓶火炎瓶といわれていました。その頃新聞で火炎瓶や何やとえらい騒いでいたので火炎瓶と思いました」旨の証言、長谷川汎子の検察官に対する一〇月一一日附供述調書中「その日家に帰つて母に平和大会があるので松岡さん等が行くので私も行こうか、と聞いてみたが、母は火炎瓶や催涙弾等が時節柄投げることがあるかも知れんからやめておけと言つた」旨の供述記載、更に当夜一本松の丘に火炎瓶(たるべき物)を持参した者達の火炎瓶携行の動機に関する各公判供述を綜合すると、当時においては通常の常識を有する者は火炎瓶なるものを知つており、しかもそれは被告人等の所謂抵抗運動に際し使用されるものとして認識していたものと認められるのである。本件被告人等の中でも安原一夫は「その当時の客観状勢で、われわれが集れば弁当持つておつてもこの中に火炎瓶が入つているといつたり、ラムネの瓶飲んでいても火炎瓶やといつた冗談半分の話がしよつ中出ておりました」と証言しているが、この証言は当時の空気の一半を伝えるものである。結局当時火炎瓶という名称並にその性能を知らなかつた旨の一部の被告人等の公判証言は信用し得ないものであると言わなければならない。

次に当夜における火炎瓶の持参、製造、所持等について考察する。相当数の者は公判廷において特殊の瓶の製造乃至は所持を認め乍らこれを火炎瓶とは言わないのであるが、その趣旨とするところを解するに、その瓶が発火の性能を具えた瓶なりや否やが確定されておらないから火炎瓶とは言えないというにあるものの如くである。然し乍らここでの問題は、その瓶を如何なる瓶と認識しつつ製造し、持参し所持したか、及び他の者がこれらの瓶を目撃して如何なる瓶と認識したかにあるのである。即ち火炎瓶という表現を用いておらない乍らも、その供述全体の趣旨からして火炎瓶と認識していたことが明らかである者が多い。又公判供述でも美登路雄一、被告人長谷川、山本、松岡(但し本人供述の分)等は当夜目撃した瓶を火炎瓶と思つたと述べておりその供述は自然というべきである。相当数の者は瓶を見たとのみ供述するのであるがしからば如何なる瓶と認識したかについて納得ある説明をせず、供述全体を通じて合理性あるものとは認め得ないところである。

而して本件参加者等の中、大阪大学工学部学生の一部が同大学枚方学舎学生ホールにおいて火炎瓶の製造を計画し材料を集め、炊事場においてその製造に従事し、阪大グループより数本を携行の上一本松の丘に至り、演説の始まる前に一升瓶の油を小瓶に受ける等して火炎瓶の完成に努め、その後暫く近くに並べて放置しておいたこと、大阪歯科大学学生の一部が、被告人三谷の下宿において火炎瓶とすべき認識を以て四、五本を作成し、これを各自携行して一本松の丘に至つたこと、枚方市自由労働組合所属の労働者の一部が未完成火炎瓶数本を携行の上一本松の丘に至り、同所において塩素酸加里附着の紙片を飯粒で貼付して火炎瓶として完成し携行していたことは証拠上極めて明かで特に説明を加える必要を見ない。次に火炎瓶の持参状況に関する他の重要な証拠について検討する。被告人安原の検察官に対する五回調書二項によれば「正保章等の城東地区の人はラムネ弾や火炎瓶を持つて来ると言つて丘の上でそれらの武器を新聞に包んで更にその上から風呂敷に包んだものを大事そうに持つていました。城東の誰が提げていたかは忘れました。火炎瓶やラムネ弾は女も含めて丘の上に集つていた大部分の人が一、二本づつ持ちました。演説が始るまでに誰かが一本づつ順次に配つて来ましたから私も一本もらつて持つていました。正田や私の周囲に居た者も皆一本づつ持つていました。私が貰つたのは進駐軍の肩のない型のビンで外側に紙を巻いてありました」との記載がある。この記載に関し被告人安原は「われわれが集つたときはよくそういう冗談が言われていたので事実そういうことがあつたのかなかつたのかは、はつきり分らぬ。自分がその晩火炎瓶を持つていたことはない。検事の調べの時に、みんな火炎瓶を持つていたと言つている、お前も持つていたに違いない、ということをやかましく言われて、結局私の体力ということを考え、一日も早く出たいと思つて、調書についてはどうでもええという気持が強かつたのでそういう風になつている。自分の周囲の人が火炎瓶を持つていたかどうかは知らぬ。火炎瓶というものがあつたか、なかつたか知らぬ」と証言する。然し乍ら土橋副検事の証言、同検事に対する被告人の尋問態度、被告人作成にかかる「現在の心境」と題するメモを綜合すると、同被告人が検察官の取調に威圧を受け「どうでもよい」というような気持から供述していたものとは受取れぬところであるのみならず、右調書には極めて具体的な出来事として書いてあるのであつて、そういうことがあつたのかなかつたのか、はつきりしない、という種類の事であるとは解し得ない。即ち全く無根のことであるならば、もつと明確な形でこれを否定する趣旨の証言が出て来そうに思えるのである。「正保章、橋本、吉田五郎」というような人(乃至はそのように呼ばれる人)が実在しそれらの人を知つていること自体は被告人が公判廷で認めるのであるから、ますますその証言は不自然というべきである。而して安原被告人の友人でおおむね同一行動をとつていた黒岩被告人の検察官に対する二回調書二項によれば「私の仕事の関係で三日程一緒に働いたことのあるシヨウホウという二十三、四の男が一本松の丘の上に来て居て会いましたが、この男は城東の男だから城東の連中も来ていたと思う一つの理由でありますが、この男も私と同様二中隊であつて突撃隊に入つて居りました」との供述記載があり、これによると正保章等の城東地区の者が当夜参会していたことは疑なく、被告人安原が検察官に供述している如く火炎瓶と称される瓶数本を持参し且つその頃火炎瓶と称される瓶が附近の者に配布されたものと認めるのが相当である。次に被告人柳の検察官に対する二回調書六項によれば「誰かが木の箱を二つ持つて来ましたが中には薬瓶の様なものが沢山入つておりました。それは火炎瓶であつて取扱いには注意をしなくてはいかんと申しておりました。そしてみんなに一本づつゆき渡らんだろうなどと話をしておりました。其の箱の中には催涙瓶も入つていると話をしていました。誰かが箱の中からラムネ瓶を取り出して、これはラムネ弾であつてガスで爆発する様になつているが危険であるから取扱いには注意を要し馴れた者でなくては使はれないとも説明しておりました。それから竹槍や棍棒を十本程用意しており、武器を渡すと云つて云々」との記載がある。この点に関し被告人柳は「丘の上で木の箱を見たことはない。調べの時に山中検事からみんなが木の箱を見たことがあると何回も言われ、自分一人が見ていないのもおかしいことであるし、検事が何回も繰り返すので錯覚を起した。それと強制送還のことを言われ、生命の危険を感じて検事に同調した。実際はそういう事実は見ていない」と証言する。然し乍ら強制送還を以て脅したとの供述部分は山中副検事の証言に照して措信し得ないところであり、むしろ同検事の証言及び被告人の検察官に対する一回調書によれば同人は本件の発覚を恐れて逃亡中生活に窮し窃盗の罪を犯して起訴せられ、ついで大阪拘置所より枚方市警察署に移監されたので一切を観念し、窃盗事件とも併合審理を受けることを希望し、自ら進んで供述を始めたものと認められる。又木の箱が丘の上にあつたということは被告人以外の何人も捜査官に供述しておらぬところであり、検察官の誘導に基くものとは認め難く、又誘導により催涙瓶やラムネ弾に言い及ぶとは不自然である。弁護人はこの記載に関し、被告人自らが手にとつて火炎瓶と確認したとはなつておらず、又ラムネ弾はカーバイトと水で使用するもので、木の箱に入れておけるものではないと主張する。然し乍ら火炎瓶、ラムネ弾等としてグループの者の前に持ち出され、且つ右のような会話が行われたという点が重要なのであり、又ラムネ瓶にカーバイトを入れたものに過ぎなくとも、これに水を入れて使用するという意味でラムネ弾と称することがある(むしろそれが用語例として普通である。最高裁判例はこれを以て爆発物と解する)ことは明かであるから右供述記載の信用性を否定する根拠とはなり得ない。結局被告人柳の当公廷での弁明に反し、検察官調書に記載あるような事実は存在したものと認めざるを得ない。次に金被告人の検察官に対する四回調書二項によれば「暫く坐つていると、前の方から、武器を持たなければいかんと云う者や誰も彼も持つてはいかん、しつかりした者でないと持たしたらあかん等と云つておりました。(中略)右のように武器を持つ話が出た時に、私のすぐ前に居た者がその人の横に置いていたボール紙の箱に這入つた火炎瓶を一つ取り出して此れをどういう風に使うのかと云つて居りました。ボール紙の箱の中には三つか四つ火炎瓶が這入つて居りました。棒は私の他ほとんど皆持つて居りましたから武器を持てと云うのは此の火炎瓶を持つたら良いのだと思い、私も立つて行つてそのボール紙の箱から一つ取りました。二合位這入る薬瓶で手で触つて見ると壜の外側に紙か何か貼つてあり、詰の処はローソクで栓をした様に滑り滑りして居りました」との記載がある。この点に関し金被告人は公判廷において「一本松の丘の附近でボール箱の中に入つている薬瓶のようなものを三、四本見た。その中の一つを取り出してみたが外側に紙が貼つてあつて栓がしてあつた」と証言し乍ら「それは火炎瓶か何か分らない。何に使われるというような感じは持たなかつたと思う」と述べて火炎瓶とは認めないのであるが、別の尋問に際しては「自分がそれを取り出したのはデモが始つた場合に警察官が弾圧を加えてくるのではないかという意味で持つたのではないかと思う」と証言していること並びに前に検討した当時における火炎瓶に関する一般的認識よりすれば、同被告人がそれらの瓶を火炎瓶と認識していたことは疑ないと認められ、検察官調書に記載あるような事は事実のことであつたと認めざるを得ない。以上の考察に従えば、当夜一本松の丘において火炎瓶たるべき瓶の製造が行われ、且つ相当多数の火炎瓶と称される瓶が持参されたことが明かである。

而して次にはこれを目撃した者の範囲である。これは本来各被告人について個別的に検討するを可とする事柄であるが、ここでは一般的な事項について考察する。この点に関する当夜の参加者の供述は相当区々となつている。時間が夜間であつたのであるから一般的にいえば目撃が困難であることは疑ない。然し乍ら当裁判所の検証調書の記載によると、一本松の丘の広さは現存する部分がおおむね南北に一〇、七米、東西に一〇米であり、事件後に扇形に削り取られた部分の底辺がおおむね南北に一三、九米東西に八米である。正確には当時の面積を確定し得ないのであるけれども、右記載により相当狭隘な場所であつたと認められる。しかも四周の開けている丘の上のことであるから特徴ある他人の行為、例えば阪大学生等が「ガソリンが足らん」とか「硫酸瓶を何処へやつた」とかの会話を交し、且つ懐中電灯を照し乍ら一升瓶の液体を小瓶に受け、硫酸瓶を運んだりして火炎瓶たるべき瓶の製造に従事した行為の如きは十分弁識し又は火炎瓶の製造と感得することが可能であつたものと認められる。又当夜携行された瓶は隠匿されていたわけではない。他グループの者から火炎瓶の数を尋ねられたり、自己のグループの者に配布したり、他グループの者に手交した事実も認められる。さらに火炎瓶に関する会談も自由に交されていたことが認められる。結局同一グループに属し同一行動をとつていた者の間でも火炎瓶の所持、目撃等に関する供述が区々に分れているのは自己又は同僚の刑責の重からんことを恐れた結果に外ならないものと判断される。

(8)(9) ≪省略≫

(10) (各中隊長の指示、説明等について)出発前に各中隊長(或は小隊長)が自己の部隊の任務について説明し、或は特殊の隊を編成したとの点についても各人の公判供述は頗る区々となつている。即ち或る者は指揮者より隊の任務(実行又は見張)について説明を聞いたと述べ、或る者は指揮者のような人から説明はあつたがその趣旨が異ると述べ、或る者は記憶にないと述べ、或る者はそのような事は存在しなかつたと述べるのである。然し乍らこれも亦各人によつて認識が区々であつてよい事項であるとは考えられない。深夜集団が長時間にわたつて待機をなし、遂にグループ毎に分れて行動を起そうとした場合において、指揮者たるべき者が自己のグループの役割について説明し、或はこれに関連して特殊の隊員を選んだという事実を一部の者においてのみ認識し、他の者において認識しないということはいかにも不自然であり、又忘れ去つてしまう程関心の薄い出来事であつたとは受取り得ないのである。又おおむねこれを認めている公判供述でも部隊編成の点をあいまいにのべている部分は前説明よりして措信し得ないところである。即ち第一中隊に関しては証人高尾総之助、≪中略≫を綜合すると、第一中隊長であつた被告人杉林は小松方居宅及びガレーヂの襲撃に当り第一中隊は小松方下手の道路上に出て実行部隊のために見張を行うべきことを隊員に説明し、且つ最先端において警察官と斗争を行わしめる為の突撃隊なるものを編成した事実を認め得る。次に第二中隊に関しては被告人山本、丁、正田、安原の各証言≪中略≫を綜合すると、第二中隊長であつた被告人白瀬は、小松方襲撃に際しての第二中隊の任務は攻撃部隊の後方の警備である旨を告げ、且つ他の隊に応援に赴くための予備隊員なるものを定めた事実を認め得る。次に第三中隊に関しては被告人康の本人供述≪中略≫を綜合すると、第三中隊長であつた被告人康は第三中隊は直接の実行部隊である旨を説明し、その隊員を二組に分ち、第一組は小松方居宅を、第二組は小松方ガレーヂを攻撃すべき旨命じたものと認められる。

(11) ≪省略≫

(12) (放火の犯意について)本件被告人等は全部放火の犯意を否認する。而して被告人康が「ひよつとしたら居宅やガレーヂに火炎瓶を投げこむことがあるかも知れないと思つた」と述べるほか、他の者はすべて火炎瓶の投入を予期しておらなかつたという趣旨の主張をする。

放火の犯意の有無は本来各被告人について個別的に検討すべき問題であるが、ここでは犯意認定の基準たるべき事項について一般的に考察することにする。

さきにも考察したように被告人松元の演説の中には「火炎瓶を以て」襲撃するとか「焼く」とかの表現があつたものとは認め難いので、松元の演説を聞いたことからして直ちに放火の犯意を導き出すことを得ない。而して本件被告人等の大部分の検察官調書は「小松方を襲撃すると聞かされ火炎瓶も準備されていることを知つたので火炎瓶を投げこんで焼くことがあると思つた」とか「火炎瓶を投げこんで焼くということを他の者から聞いた」とかいう記載になつているので、この供述記載の信用性が問題となるのである。而してこの点に関する弁護人の主張は要するに仮に、小松方を「襲撃する」「やつつける」等の言葉を聞き、火炎瓶を目撃したとしても直ちにこれを投げこむとか焼くとかの認識は生じ得ず、これらの供述記載はいづれも検察官の誘導により無理に作られたものであるというにある。

然し乍ら右記載のみをとらえてみても誘導に基くものなりや否やを判定し難い。火炎瓶を目撃し、襲撃、攻撃又はやつつける等の言葉を聞いたところで火炎瓶の投入を予見しない場合も考え得られるし、ことあらためて説明を聞かなくとも火炎瓶の投入を当然のこととして受取る場合もあろう(第三中隊長であつた被告人康が自己の隊員に対し「火炎瓶を以て」攻撃すべき旨命じたという証拠はどこにも発見できないにかかわらず、現実には小松方に殺到するや直ちに火炎瓶を投入した者のあることはこの推認を裏書するものというべきである)。或はその中間段階として火炎瓶の投入を「あり得べき行為」として認識する場合もあるであろう。帰するところは当夜の行動の全体が如何なるものであつたか、打ち出された小松方襲撃の方針に対して各グループが如何なる反応を示してどのような会話を交していたか各人が右の雰囲気をどのように感得していたか等の問題を探求し、これによつて決するほかはないものと考えられる。

然るところ、これを概括的に考察してみるに、当夜においては被告人松元は小松正義を兵器生産を再開する中心人物として激しく非難して、その居宅及びガレーヂを襲撃すると演説し、軍隊に似た部隊編成が行われ隊員に番号等を附し合言葉が定められ、棒杭、小石、竹槍(この用語について弁護人及び被告人に異議があり、先端に焼が入れてない以上竹槍の概念に合致しないという主張をするが、先端をとがらせた竹槍が斗争の目的で所持せられてあれば一般通念よりして竹槍と呼ぶに値するものであり、少くとも一般のデモでは使用せられないものである)が携行せられ、更に中隊長より実行部隊、見張部隊の別があることを知らされ、一部労働者はあまりに遅いと自分達で先に行くとか顔を警察官に見られたら困るとかの発言をなし、結局において深夜の午前三時までに決行することと定められたものである。そこでは小松方襲撃ということは極めて現実的、具体的なものとして認識されたものと考えられる。

以上の行動を全体として評価すると当夜の雰囲気は相当異常なものであり殺伐なものであつたと認めざるを得ない。弁護人は右雰囲気はとりわけて異常なものではなかつたとし、組合活動の際にも「襲撃する」「攻撃する」「実力デモを掛ける」等の用語が使用せられ、労働者が集団でデモ行進等をする場合「部隊」とか「隊長」とかいう名称が用いらられることがあり、又デモは夜間においても行われることがあると主張し労働者的感覚ということを力説するのである。

然し乍ら本件集会者の職業、経歴、年令、性別等は極めて区々であり、そのすべての者が弁護人主張のような形の組合活動や集団行動の経験者であるとは認め難く少くとも本件のような形態における夜間デモが再々起り得るものとは考えられない。その時間、携行品、攻撃の対象とされる物(居宅とガレーヂ又は自動車)、実行部隊と見張部隊の存在等に関して著しい特徴を持つているのであり、弁護人の援用する諸事例と質的に異つていることは明かである。これをしも異常と感じなかつたものとは解されない。しかもなお火炎瓶の公然たる製造や携行を認識し火炎瓶の使用状況に関する(当時の)客観状勢を頭に描いていた場合はどうであろうか。火炎瓶の投入にまで思い至つたとしても決して不自然とは認め得ないのである。大阪大学工学部学生の一部が小松方襲撃とは結局火炎瓶の投入に外ならずと思料しこれに反対の意を表明したことは右の推認を裏書するものというべきである。火炎瓶の投入をあり得べき行為としてでなく襲撃の手段として当然のことと解釈した者があり、これを周囲に話しかけたとしても別に矛盾は感ぜられない。むしろ下検分に参加した十数名の者は前以てこの火炎瓶による襲撃ということを知つており、自己の友人を誘つて集会に参加したという関係にあるから、このような会話が交される基礎的な事実は予め存在していたものである。

ある者は火炎瓶(又は火炎瓶と称される瓶)の製造乃至携行を認めつつもそれは警察官に対して使用するつもりであつたという主張をしている。集会参加に際しそのような意思で火炎瓶を持参した者のある事は明瞭であるが、その後における事情の推移を考えなければならない。その者が見張部隊に属せしめられたとしても直接実行の衝に当る者達の行為としてはどうであろうか。火炎瓶の使用が見張部隊にのみ限局せられ、各員がそのように認識するというような情況が存在したのであろうか。さきにも見たように当夜小松正義は憲法に違反して再軍備のために工廠を復活し、朝鮮戦争に使用される兵器を生産する中心人物とされ(大部分の者は同人を小松製作所社長と誤認していたものである)、売国奴といつた言葉で非難せられ、その居宅のみならず自動車庫までもが襲撃の対象とされていたものである。即ち小松正義に対する憎悪や反感は極めて激しいものとして意識され又はそのようなものとして参会者に理解されていたと認められるのである(そもそも被告人等の小松正義に対する感情は公判の推移に伴つて次第に変化し、被告人等は後の感覚を基にしてものを言つている様な印象をうける)。而して実行部隊と目されるグループは婦女子や学生を含まずその一部は小松襲撃に強い意思を表明し主催者に対し早期決行を迫つていたものである。もとより主催者において個人の私宅なるが故にとして火炎瓶の使用を禁じたと認むべき証拠は存在せぬところである。してみれば自分自身は直接小松方に火炎瓶を投げないけれども実行部隊において当然火炎瓶を投げるであろうと考え、或は火炎瓶投入の挙に出るかも知れないと懸念を抱いたとしても別に不自然とは受取り得ないのである。

以上の判断を前提にして本件参加者等の検察官調書を仔細に検討し且つ公判供述と対比してみた結果検察官調書中の火炎瓶投入の認識を認めた供述部分は全体として信用できるものとの結論に到達したのである。而して前にも検討した当夜の行動の諸経過、特に友人同志或は面識ある者同志が同一場所に所在し長時間にわたり自由に会話を交していたという事実にかんがみ、火炎瓶の使用に関する認識は同一グループに属する者の間では原則として差等がないものと判断すべきである。その自白の有無に従つて区々たる事実認定を行うことは不自然であるといわなければならない。

次に被告人等及び弁護人により「真実放火を行うつもりならばもつと小人数で隠密に行動し、ガソリン、マツチ等を使用するのが当然である。本件のように多人数で行動すること自体放火の意思のなかつたことを示すものである。火炎瓶は放火の手段として適当でなく、火炎瓶により建物が焼けたという過去の事実はなく、そのような一般的認識は存在しない。のみならず火炎瓶により建物を焼燬することは物理的に不可能である」という趣旨の主張がなされているのでこの点について判断する。なる程本件犯行の外形的事実よりすれば、当夜の行動が建物全体を焼き払つてしまうことまでも目的としていたものとは解し得ない。「完全燃焼」なる言葉を言つたものがあつたとしてもそれは一の気勢附けとして語つたものであろう。然し乍らそのことの故に直ちに放火の犯意が否定されるわけではない。放火罪における「焼燬」とは建物が全部燃えてしまうとかその重要部分が毀損されてしまうことをいうのではなく、火が犯行の用に供した媒介物を離れて建物に燃え移り、独立して燃焼する域に達することをいうのであるから、この旨の「焼燬」の予見があれば即ち犯罪事実の認識が存することとなり、放火罪の犯意ありというに妨げないのである。又その予見は未必的なもの、即ち場合によつてはそのような結果を招来するかも知れないという程度の認識でも足りるのである。本件犯行は人の寝静まつた深夜の午前二時半頃に行われようとしたものであり、しかも可燃物の多い日本家屋や火気の厳禁されるガレーヂが攻撃の対象となつていたのであるから、これに読んで字の如く火炎を発する瓶が投入されるときはその火炎により建物を焼燬するかも知れないとの認識を生ずることは疑のないところであると判断される。又当裁判所による火炎瓶の発火状況に関する実験によれば、火炎瓶は短時間であるとはいえ極めて激しく燃焼するものであり、仮に小さい火炎瓶であつても建物を焼燬する可能性は十分あるものと判断せられ、不能犯の問題は生ずる余地がない。乗用自動車に主たる関心が向けられこれを焼くことが本来の目的であつたとしても、その自動車がガレーヂ内に所在することを認識していた以上は建物に対する未必的犯意の推認に及ばざるを得ない。むしろ現実には建物自体に対しても火炎瓶と称される瓶が投げつけられているのであつて、これは前説明の通りである。

多人数で行動したことは正に所論の通りであるけれども、これは小松方襲撃が政治的に意義ある行動と解した結果一般犯罪と異つた形態をとることとなつたものであつて、そのことの故に建物焼燬の認識を欠くという根拠となし得ない。以上の検討により、いやしくも火炎瓶が建物内に投入されることを予期し或は投入されることがあるかも知れない旨認識し乍ら敢て実行及び見張の行動に出た者についてはいずれも放火罪の犯意を肯定するのが相当である。

三、公務執行妨害事件関係

(1) (公務執行の適法性について)弁護人は観照堂附近における警察官の職務行使は放火未遂罪の準現行犯人逮捕として適法なものではないからこれに対しては公務執行妨害罪は成立しないものと主張する。而してまず警察官等が小松方における現場の状況から如何なる事実を想定したか明でなく、又平郡警部補等の幹部は犯人逮捕を指示したのみで放火未遂罪の準現行犯人としての指示を行つておらないとの前提に基き立論する。然し乍ら警察官等は小松方よりの電話に基き小松方に火炎瓶が投入されたと聞いて即時に出動したものであるほか、小松方居宅に入らなかつた者もガレーヂ内における瓶の散乱、自動車内より発する煙等を現認しているのであるから、建物に対する放火又は放火未遂の罪が現に犯され終つたものと認識したものと認められる。平郡警部補が部下たる警察官に対し被害の概況や犯された罪の罪名について説明したという証拠は何もないが、各警察官は職務行使に際し個別に被疑事実を認定し得るのであり、その根拠は自己が直接現認したところや参考人より聴取したところに止るのではなく他の警察官よりの通報、連絡等をも妨げぬところである。次に指揮者たる警察官は犯人検挙を命ずるに当り、逮捕の種類を明かにすることを要するものでなく、仮にかかる指示をしたとしてもこれに従つた職務行使が常に適法となるわけではないからこの点は重要な争点とは認め得ない。次に巡査山本行男同隈田政敏の各証言によれば、同人等は犯人検挙の命を受けるやすぐ出発し、木村十郎方附近の道路上においてざわめきを感じとりついで挙動不審な数名の者と出会つたものと認められるのである。この点に関し弁護人は山本行男の証言中「人の集りは分つたけれどもその人達の服装、性別、年令等は分らなかつた。電灯を照すとポリ公だと言つた。追いかけるとポリ公は二、三人だからやつてしまえと言つていた」とある部分をとらえ「服装、性別、人の数さえ分らないような暗いところで対峙したとすれば、どうして相手方においてポリ公だとか、二、三人だということが分るのか、電灯を照らされた者が照した方の人数が分り、照らした者は相手方の人数を声だけでしか判断できないということはあり得ない。結局この証言は嘘であり、創作にすぎない」と主張する。然し乍らこの推論はあまりに形式的に過ぎ、地形や地物の如何、その者の居つた位置、その場へ来た者と前から居つた者の相違等の諸事情を度外視した見方であつて、一方の者から判断できても他方の側からは識別できないということがあり、その物腰、恰好からして警察官だと判断できることもある。又電灯を照らしたとか照らされたとか言つても室内の場合と屋外の場合とは事情を異にするし、相手方が警察官の人数を識別した時期が電灯を照らされた時点であつたと限定する程の根拠もない。証人隈田政敏も「木村十郎方附近の三叉路まで行くと、人影が二、三歩前進してくるのが見えたので警笛を鳴らすと『来た来た』と言つて多くの人が逃げて行つた」と証言しているのである。弁護人は山本証人の証言は隈田証人の証言と矛盾するとし、その故に山本証人の証言は信用し得ないと主張するかのようであるが、殆ど同一の場所におつても観察の程度、記憶力の如何等により証言は細部まで一致しないのが通例なのであり、むしろ瞬時の出来事についてあまりに一致する証言こそその信用性に疑問を抱かしめるものである。又認識が同一であつても尋問の程度、言葉等により答が同一にならないこともある。右の二証人の証言の差異は決して矛盾とすべき程のものでない。少くとも山本、隈田両巡査が木村十郎方附近において数名の者と出会つたこと、それらの者は懐中電灯を照らされたり笛を吹かれたりすると警察官の到来を予期していたかのような言葉を吐き乍ら山中へ逃走しようとしたことは疑がないのである。ところで右巡査等はその者達を追いかけたところ、水源池前の路上において投擲された火炎瓶が発火しているのを現認し、更に追跡を続けたところ、それらの者は観照堂下附近より後退する気配なく、人数も多くなつており、却つて反撃の気勢を示すので少人数では危険であると思料し他の五名の警察官の到着を待ち、遂に逮捕に出ようとしたものであると認められる。而して当裁判所の昭和二九年六月二一日附検証調書、船越検察官の八月二〇日附実況見分調書によると小松方より木村十郎方までは約四〇〇米、木村方より水源池前までは約三〇〇米、水源池前より観照堂附近までは約四〇〇米であり、木村方より観照堂附近三叉路までは山中の一本道である。してみれば本件警察官等の放火未遂罪の準現行犯人としての認定は然るべき根拠を持つたものであると言わなければならない。当裁判所もこの程度において放火未遂罪の準現行犯人としての要件を認めてよいものと思料する(刑事訴訟法第二一二条第二項第四号にいう「誰何されて逃走しようとするとき」とは、文字通りの誰何がなくとも警察官とみて逃走しようとする場合を含むものと解する)が、仮に弁護人主張の如く客観的には未だ準現行犯人の要件を充たしていないものとするもその故に直ちに本件警察官の職務行使を違法とすることはできない。即ち第一に当時において準現行犯人と認め得られるような情況が存在したのであり警察官も準現行犯人なりと信じて逮捕に出ようとしたものであるから刑法上保護さるべき職務執行の範囲に属するわけであり、第二に本件では緊急逮捕としての要件は十分そなわつていたところ、それらの者は逮捕の一切を拒否し、暴行脅迫を用いて警察官の接近行為さえ妨げたのであるから、この意義においても公務執行妨害罪の成立することは明かである。

(2) (共謀について)検察官は直接警察官に対し暴行脅迫を加えたことが明かでない者も公務執行妨害罪で起訴している。その理由は暴行脅迫が行われるまでの経緯及び犯行の現場附近で逮捕せられたことから当然共同犯行の認識を有していたものと推認しうるとの根拠に立つものの如く解される。

さきにも見たように警察官との斗争ということは既に一本松の丘において企図せられていたことであり、それは小松方襲撃時にのみ限局されていたわけではない。然し乍ら小松方に対する攻撃終了後各人は隊伍を乱し編成を崩して逃走しているので、もはや統一ある行動は為し得ない旨を相互に認識したものと認められる。一本松の丘以来の行動は公務執行妨害の犯意の認定に際して無関係ではあり得ないが、共謀の成立という見地からは別箇にこれを論ずるのが相当であると考えられる。

ところで観照堂下の三叉路一帯は身の丈にも及ぶような笹の繁茂した場所である。笹籔の中にでもいる限り他人の行為を認識することは極めて困難である。従つてまず犯行の現場近くにいたことが意思の疎通を推認させる一の根拠になり得るとしてもその現場近くということは相当厳格に解しなければならない。警察官と斗争を行いつつあるということは相当な範囲の者にまで判明し得たと思われるのであるけれども、そのことが直ちに共謀を認める根拠とはなり得ない。共謀とは他人の犯行の認識と同義でなく、他人の犯行を自己の犯行として容認し、これを共同して行うという認識を指すからである。従つて単にかくれひそむという目的より不必要なまでに現場近くに居たことが明かになつて始めて共同犯行の認識を推認する根拠の一となるものというべきである。警察官が観照堂下に到着後検挙に着手するまでの間に相当時間が経過しているものと認められ(巡査岡本宗一は枚方署を出発し枚方公園駅前において被告人三谷、松岡を尋問して下宿まで同行し、次に小松方居宅に赴いて暫時証拠物の採取に当り、然る後観照堂下まで応援に来たものである)、この間に他の者が対峙の地点まで接近してくる時間は十分に存在していたものである。

本件では部隊編成が崩れたこと(従つて又各員の一体として行動する意思が全体的に失われたこと)と夜間山中における行動であることに十分注意を払うべきであると考える。即ちその附近一帯に止るには止つたが、対峙の地点まで赴いて共に斗争を行う程の意思は有たず、単に叢の中にかくれひそんでいた者のないことを保し難いといわなければならない。更には警察官が背後にもまわつているかも知れないとの疑心暗鬼や地理不案内のために附近一帯より立ち去らなかつた者があるやも図りがたいのである。

以上の検討により検察官の援用する現場附近の逮捕は共謀を認定するに当つての十分な証拠でないと判断する。

第二節  法律問題

弁護人は本件被告人等の行為は国民としての抵抗権の行使であるから違法性を欠き、罪とならないものと主張する。その理由は大体において次の通りである。

「アメリカ軍及びアメリカ軍によつて動かされた国連軍の朝鮮に対する動きは国連憲章に違反するし国際慣行に違反した侵略行為である。日本政府はこれを容認し基地提供者となつた。これは憲法第九条に違反するし憲法第九条の前提となつたポツダム宣言、降伏文書に違反する。小松製作所、小松正義等はその私利のために侵略戦争を行うための兵器製造を企み、枚方地域に労働者、市民、農民、学生等の犠牲の上に軍事基地、兵站基地を作ろうとした。結局枚方工廠復活の動きは国際法上も国内法上も違反である。この違反状態に対して国民は救済を試みる方法がなかつた。このような場合には国民は抵抗権を持つのがデモクラシーの根本原則である。権力者、支配者、財力者軍事独占資本並にその手先が違法に国民の幸福と利益、民族の利益を犠牲にし、平和に挑戦している時、人民がこれに反抗し、抵抗する強力な意思表示を行うのは当然の権利であり、デモクラシーの本質である。権力者等による違法状態を放任せず、適法な状態に戻すために反逆の措置をとることは正当な行為であり、この適法性を認めた判例も存在する」

「本件枚方工廠が往年のまま再開されることになると一大戦力であることはいうまでもない。名実共に帝国陸軍の宝庫であつた枚方工廠が折柄の特需ブームに乗つて再び砲弾製造工場として復活することになれば憲法で保持を禁止されている戦力になることは明白である。而してその復活は小松製作所等の民間人の手によつて行われても戦力不保持の原則に牴触するものである。仮に私人に直接憲法違反が起らないという立場をとるにしても、このような違法状態を放置してはならない責任が政府にある。少くとも政府はその権力の及ぶ範囲内では憲法違反の戦力を保有しないという責任を持つているのであり、その責任は免れないところである」

「本事件発生当時旧工廠施設は兵器工場として生産が再開されていたわけではないけれども、それは目前のことと予想される程切迫していたものである。このような急迫した不正がまさに行われようとする場合、それを予防するために人民の抵抗の権利は現に不正が行われている場合と同様に発動され得るものである。当時朝鮮の戦争は続けられており日本を基地とする米帝国主義は連日の如く朝鮮に日本製の砲弾を打ちこんでいた。このような時に政府の特別援助の下に迫撃砲やその砲弾の生産を再開することを平和を愛好する日本国民や祖国の防衛を願う朝鮮人は見のがすことができなかつた。政府の憲法違反の責任を追及し、広く社会に兵器生産の実体をアツピールすることを目的として本件は行われた。それは一のデモンストレーシヨンであつて正当なものである」

「本件のデモは亦『アメ公帰れ』『米軍事基地反対』等のスローガンに象徴されるごとく、安全保障条約、行政協定に基いて講和後も占領態勢を続け、憲法の建前をじゆうりんして朝鮮への侵略戦争を続ける米帝国主義者とこれに基地を提供する日本反動勢力に対する怒りから生じたものである。駐留軍は日本の防衛目的に使用されるから戦力であり、憲法に違反するというのが東京地裁の砂川判決であるが、更に進んで憲法は日本の権力の及ぶ範囲内に一切の戦力を置くことを禁止しているという趣旨に理解すべきものである。本件デモンストレーシヨン当時政府の取つていた再軍備政策、安全保障条約及び行政協定に基く基地提供、枚方工廠復活の動き等は憲法第九条及び憲法前文の精神に真正面から抵触するものである。これらの憲法違反について強く反省を求め、憲法を擁護し、平和を守る為の抵抗の運動が行われたのであり、これは正当な行為である。政府及び小松正義等の憲法違反の行為こそ責められなければならない」

「憲法の規定に明かな如く、日本国民は軍国主義を復活し、再軍備を進める勢力に対し平和と民主主義を守るために全力をあげることを憲法上の義務とされているのである。本件は憲法を守り平和と民主主義を守るために行われた強力なデモンストレーシヨンであり、これは野ばんな侵略戦争に対する抵抗運動である。本件枚方事件は官憲と官憲により支持援護され乍らこれに協力する軍需資本家とその手先が、違憲、違法、不当な戦争を遂行し、違法に戦力を保持し、国民の生活を破壊しようとする再軍備、工廠復活、兵器生産に対して国民生活を戦争の惨禍から防衛し、侵略戦争を中止させ、兵器製造を中止させるためになされた抵抗行為であり、その行為の現象面における積極性にかかわらず、被告等を含む国民の生活と権利と自由を防衛するためになされたものであつて違法性は阻却されなければならない。侵略戦争が国民に与える惨禍は先の第二次大戦によつて国民が等しく経験したように国民生活の完全な破壊であり、国民の基本的人権は戦争遂行の名によつて完全にじゆうりんされることは極めて明白であり、それは日本国憲法の全体系を根柢から破壊する重大な国民の権利侵害行為であるから、これが排除行動も亦強力なものたらざるを得ない。侵害排除行為の相当性が侵害行為の法益侵害の重大性にかんがみ決めらるべき相対的な概念である以上本件被告諸君の集団行動は、その暴力行為的外形にかかわらず違法性は阻却されなければならない」というにある。

よつて右主張について逐次考察する。

所論は朝鮮戦争がアメリカ軍並に国連軍による侵略戦争であるとの前提に基いて展開されているのであるが、このことについてはこれは認定すべき適切な証拠が存しない。また或る戦争が侵略戦争なりや自衛戦争なりやは事柄の性質よりみて容易に判定し得べき事項でもない。更に小松製作所関係者等が朝鮮戦争を米軍及び国連軍による侵略戦争なりと認識しつつ砲弾製作を行おうとしたという証左もない。従つて当裁判所としては右の点については判断を差控えて考察をすすめるより外はないのである。

次に戦争一般が厭むべきものであり、軍備の存在自体望ましいものでないこというまでもないところであるが、現段階においては日本を除く世界各国はいずれも自国の権利として戦争乃至は武力の行使を認め、且つ軍備を容認しているのであるから、戦争と軍備一般の人民に対する違法を問題とする限り、我が憲法を中心とし、専ら国内法上の問題として解決すべきものと考えられるのである。

本件の時限爆弾が旧枚方工廠の施設内に装置せられた当時、未だ砲弾製作は開始されていなかつたのであるが、株式会社小松製作所は近い将来において右施設を利用し砲弾製作を行うという意向を有していたものである。弁護人は小松製作所及び小松正義の行為について憲法違反を論ずるのであるが、憲法第九条の法文全体より観察すると戦力保持禁止の主体は日本国民の統一体としての日本国家従つて具体的にはこの国家権力を行使する日本政府であると解せられるから株式会社小松製作所の行為について直接憲法第九条の違反という問題は生じない。また小松製作所の役職員でもなく地元の一運送業者として小松製作所誘致を歓迎しこれに若干の努力をしたにすぎない小松正義の行為についてはなおさらのことであるといわなければならない。

ところで本事件の当時本施設の利用に関して如何なる形態の政府の行為を認むべきものであろうか。使用許可と払下は更に後の出来事であるから、明かな形においては政府の行為というものは存在しなかつたものと認められる。然し乍ら政府が小松製作所の一時使用申請を総司令部に取り次ぎ昭和二七年三月に総司令部より認可の決定があつたこと、四月二三日頃より小松製作所関係者が下調査のために立入つていること、並びに事件後における使用許可、払下の経過にかんがみると、本事件当時においてすでに小松製作所に使用させるという方針は実質上定まつていたものと解し得られる。その範囲において政府の行為が関連性を持ち得るのである。

弁護人の主張によれば日本政府はアメリカ軍に協力し兵器生産を行わしめる目的を以て本施設を小松製作所に使用せしめんとしたものであるというのである。然し乍ら本施設は極めて尨大なものであり機械設備の構造よりしてもどの会社でも受け入れるというわけに行かなかつたこと、結果として小松製作所以外に使用許可又は払下を申請した会社がなかつたこと、同会社の一時使用申請は昭和二六年一一月頃であり米軍より砲弾製作を落札したのが昭和二七年六月二〇日であること(落札は小松製作所一社のみでない)等を考え合せると、政府の使用許可の方針決定の動機が一に砲弾その他の兵器生産を行わしめるにあつたとまで断定することは無理のようである。然し乍ら本事件当時における客観状勢にかんがみると政府当局者において小松製作所の砲弾製作を全く予期しておらなかつたということはできないであろう(この点に関しては昭和二八年裁領第六〇四号中の弁証第九三号、エコノミスト、東洋経済新報関係記事複写、弁証第九五号日本経済新聞関係記事複写を証拠とする)。即ち小松製作所に使用を許可するときは所謂特需により砲弾製作等をなすに至るべき旨認識していたものと思料される。

ところで憲法第九条の戦力とは何をいうかにつき争があるが少くとも個々の兵器自体を指しているものとは解されないから或会社が或種の兵器を製造したからといつてそのことから直ちに政府の行為について憲法違反の問題を生じない。仮に「潜在的戦力」ということを認めるとしてもその兵器生産の規模、他の軍需産業との関連にまで立入る必要があるものと考えられる。

然るところ、本件の砲弾受註は小松製作所なる民間会社と外国軍隊との経済的な取引である点に特異性を持つている。砲弾完成の暁にもそれは外国軍隊に引渡され外国軍隊によつて管理され、その外国及び国連軍の行う戦争に使用せられるという関係にあつたものである。してみればそれは外国の戦力に加えることを目的とした砲弾製作であると解せられる。而して日本政府の行為として認め得ることは右のような事態の生ずべきことを認識し乍ら工場設備の使用許可の方針を実質上決定していたということのみである。果して然らばこの日本政府の行為を目して直ちに憲法第九条の違反とは称し得ないものといわなければならない。

もとより日本政府自らこの生産設備を残存せしめ自らにおいて利用し日本戦力の一環として構成する意図があつたとも解し得られぬところである(本施設は後に小松製作所大阪工場として利用せられることになつたが、同工場における砲弾製作は昭和二七年一〇月初旬に始まつて昭和二八年三月頃より本格的となり、昭和三一年三月に全く終了し現在においては平和産業として操業されている)。

他国との経済的取引としてでも砲弾製作を行うこと(政府の行為としてはこれを放任又は容認すること)が平和の観点よりみて好ましいことであるか、或は政策的にみて賢明なことであるかどうかについては批判があるであろう。然し政治的に批判の存するすべての場合において憲法違反が成立するわけではない。

違法性の有無はまた被告人等が現実に行つた行為の態様よりも決しなければならない。違法阻却の事由は形式的に法文に列挙された場合に限定されるわけではなく、抵抗権ということも考え得るけれども、違法性の本質上その行為は健全な社会通念に照して相当性を有し全法律秩序の精神よりして是認される態様のものでなくてはならないのである。

然るところ、判示の如く被告人等は夜間において器物を破壊すべき認識を以て工場内に潜入し、ダイナマイト、カーリツト等の爆薬を用いた時限爆弾を仕掛けて爆発させ、被害は軽微であつたが深夜に突如大音響を生ぜしめ、或は夜間隊伍を組み平穏たるべき個人の住宅及び自動車庫に襲撃をかけ、火炎瓶を投入して器物の一部を焼いたものである。このような行為はどのように考えても健全な社会通念の許容しないところであると判断される。被告人等の最終的目的は兵器の生産をやめさせるにあつたのであり、このこと自体は非難される目的でないが、目的を到達する手段としては明かに相当性を欠いており法律秩序全体の精神に違反している。外国軍隊の駐留反対、軍事基地提供に対する反対等ということが一本松の丘においてスローガンの一として掲げられていたことは明かであるけれども、そのために小松正義個人の家に襲撃を掛けるというのはいかがなものであろうか。その方法と相手方の選択において誤りがあることは明かであるといわねばならない。仮に本件各所為をデモンストレーシヨンなる言葉で呼び得るとしても、デモンストレーシヨンと呼び得る行為がすべて法律によつて保護されるという法理は存在しない。憲法第二一条は集会、結社その他一切の表現の自由を保障しているのであるが、この自由は政治的主張を表現するの自由であつて本件のような暴力の行使を伴い得ないことが明かである。

以上の考察によれば被告人等の本件各所為が一のデモンストレーシヨンであり抵抗権の行使として違法性を阻却するとの弁護人の主張は採用し得ぬところである。また被告人等の公判陳述の中には「枚方事件は正当防衛である」との主張が数多くあるが、右に述べたところよりして自ら採用し得ない。

第四章  法律の適用及び一部無罪の理由

被告人石束市郎の行為を法律に照すと、小松方居宅に対する放火未遂の点は刑法第一〇八条第一一二条第六〇条に、小松方自動車庫に対する放火未遂の点は同法第一〇九条第一項第一一二条第六〇条(同法第三八条第二項適用)に各該当するが、小松方居宅に対する放火未遂罪について所定刑中有期懲役刑を選択し、各放火未遂罪について同法第四三条本文第六八条第三号により未遂減軽をし、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条第一〇条により重い居宅に対する放火未遂の罪の刑に併合罪加重をした刑期範囲内において被告人を懲役二年六月に処し、同法第二一条により未決勾留日数中三七〇日を右本刑に算入し、同法第二五条第一項により本裁判確定の日より三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用の点について刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用する。

同被告人に対する公訴事実中各爆発物取締罰則第一条違反の点は、本件に使用された火炎瓶が右法律にいう爆発物であることの証明がないから無罪であるが、各放火未遂の罪と刑法第五四第一項前段の関係にあるものとして起訴されているから主文において無罪の言渡をしない。

同被告人に対する公訴事実中公務執行妨害の訴因は「被告人は昭和二七年六月二五日午前三時三〇分過頃枚方市の通称観照堂附近の山中において、枚方市警察署巡査梶間義寛外六名の警察職員より放火未遂罪の準現行犯人として逮捕せられようとするや阿出川和夫外多数と共謀の上『殺してしまえ、やつつけろ』等と怒号し乍ら投石し或は火炎瓶を投げ、竹槍、棍棒等をもつて喊声をあげて反撃に出て、同巡査等の生命身体に危害を加うべき気勢を示して脅迫し、更に谷巡査の前額部に小石一個を命中せしめ、以て前記梶間巡査外六名の警察職員の公務執行を妨害した」というにあるが、本件公判に現れた公務執行妨害関係の各証拠(特に証人岡本宗一、同谷利夫の各証言)によれば右日時場所において警察官の適法なる職務行使に対し右のような暴行脅迫が行われ、被告人がその明方現場に遠くない場所において棒杭所持を現認せられ逮捕されたことが明かであるけれど、被告人自身が暴行脅迫を行つたと認むべき証拠は何もなく、暴行脅迫を行つた者との共謀を認定すべき証拠も十分でないから、右事実に関しては犯罪の証明がないものとして同被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をする。

被告人阿出川和夫、同山本義秋、同伊地知季正に対する判示≪省略≫

被告人前岡幸男の行為を法律に照すと閔載寔、廬承達、玄南箕に対する各犯人隠避行為は夫々爆発物取締罰則第九条(第一条)刑法第六〇条に該当するが、右は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから刑法第五四条第一項前段第一〇条により閔載寔に対する犯人隠避の罪の刑に従い、所定刑中懲役刑を選択し其の刑期の範囲内において被告人を懲役六月に処し同法第二五条第一項により本裁判確定の日より二年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用の点について刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用する。

同被告人に対する公訴事実中放火未遂、爆発物取締罰則第一条違反の訴因は「被告人は石束市郎外多数と小松正義方の居宅及び同人の自動車庫を爆発物である火炎瓶で焼燬することを共謀の上、(一)昭和二七年六月二五日午前二時三〇分過頃枚方市伊加賀小松正義方居宅の玄関硝子戸を押し開き同家屋内に爆発物である火炎瓶二箇を投入して発火せしめ、現に同人及び同人の家族が住居に使用していた居宅を焼燬しようとしたが、直ちに家人に消火せられたため同人方玄関土間にあつた短靴一足の一部及び玄関二畳の間にあつた襖の一部を焼燬したに止まり居宅を焼燬する目的を遂げず、(二)右(一)掲記の日時頃居宅前所在の同人所有の自動車庫内において爆発物である火炎瓶数個を格納中の乗用自動車の窓ガラス及び自動車前部の機関部内に投げつけて発火せしめ乗用自動車と共に自動車庫を焼燬しようとしたが間もなく小松正義等に消火せられた為乗用自動車の一部を焼燬したに止まり自動車庫を焼燬する目的を遂げなかつた」というにある。

よつて検討するに本件公判に現れた小松方被害に関する各証拠によれば右日時に小松方に多数の者が来襲して火炎瓶を使用し小松方居宅及び自動車庫に右のような放火未遂の被害を与えたことが認められる。然し右各犯行に使用された火炎瓶が爆発物取締罰則にいう爆発物であることの証明はないからこの点においてすでに爆発物使用の罪を認め得ない。次に小松方事件の謀議行動等に関する各証拠によれば右各放火未遂の犯行は当夜一本松の丘に集会した者の一部、所謂第三中隊員の所為にかかることが認められる。問題は被告人について放火の共謀を認め得るか否かにある。

然るところ右各証拠、特に被告人前岡の検察官に対する三回乃至六回調書、被告人奈良の検察官に対する二回調書九項一〇項、被告人今吉の検察官に対する一回調書一八項の(13)(警察官調書の写真採用)によれば被告人前岡は昭和二七年六月二四日夜川上博と共に一本松の丘下に到着し第二中隊長の説明を聴取し第二中隊は小松方襲撃の見張部隊であることを認識し乍ら同中隊に所属して一本松の丘下の道路を出発し、小松方上手、木村十郎方附近において一旦停止の後中隊長の命を受け更に前方まで警戒に赴いたものと認められる。然し乍ら被告人は火炎瓶の携行を目撃せず且つ小松方に火炎瓶が使用さるべきことを認識していなかつた旨検察官調書において弁明しているので以下にこの検討をする。

被告人前岡は相当おくれて集会に参加したため一本松の丘には上つておらないものと認められる。被告人は第二中隊長の説明を聴取しているわけであるが、この中隊長の説明の中に「火炎瓶を以て」襲撃するとの表現があつたものとは認め難い。被告人正田の検察官に対する二回調書第三項によれば「私達の中隊長は若い人であつた事だけは覚えております。此の中隊長は丘の下の道で待つていた私達に対して『小松の家を襲撃することになつたから各隊員は勝手な行動を取らずに指揮に従つて欲しい。小松の家はガレーヂと家と両方あつて其処へ攻撃に行く者はこちらで決めるから待つていてくれ。攻撃隊は火炎瓶を投げるから攻撃隊とゴジヤゴジヤにならん様に気をつけて欲しい』と申しました。小松と云う男は枚方工廠の社長だと云う事は二中隊の人々が話をしておるので判りました。又火炎瓶は隊員達が提げているのを私は見ております」との記載があり、これによれば第二中隊長が火炎瓶攻撃を自己の隊員に向つて説明したかの如くであるが被告人正田は検察官に対する三回調書一五項において「行動に移ると云う事でありましたが仲々行動に移らずみんな愚図々々しており、話をしている間に今晩の吾々の行動の噂が伝つて来ました。それは『枚方の小松と云う男は小松製作所の社長であつて枚方工廠を再開して迫撃砲弾を作る様な悪い奴で売国奴であるから今晩火炎瓶によつて小松の家とガレーヂとを攻撃するんだ。攻撃隊の方は火炎瓶で攻撃するから攻撃隊とごぢやごぢやにならん様に気を附けねばならん。それで各隊員は勝手な行動を採らずに指揮者の命令に従わねばならん』と云う事で私も今晩の吾々の行動を知つた訳であります」と述べ、更に四回調書三項において「私の中隊長は前回も申し上げた通り若い男の人で現在では顔はどうしても思い出しません。一本松の丘を下りて崖の下の道で私達が待機しておる時『今晩吾々の行動は小松の家を火炎瓶で襲撃する云々』の話は私達が集つて雑談している時に誰から聞いたかハツキリ覚えませんが聞いたのであります」と述べているのであつて、以上を通覧すると二回調書は三回及び四回調書により訂正されたものと認むべきものである。従つて第二中隊長の説明を聴取したことより直ちに火炎瓶使用の認識を導き出し得ない。

もとより火炎瓶使用の認識は指揮者より明かな言葉で説明されなくとも生じ得る。むしろ当夜における相当多数の火炎瓶の携行、各隊員の会話、当時における火炎瓶使用に関する報道等を合せ考えると被告人前岡も亦火炎瓶の携行を目撃し、且つ小松方襲撃には火炎瓶が用いられるかも知れない旨認識したと一応推認し得るようである。然し乍ら被告人が検察官調書において「丘の下に到着後端の方で一人寝ころんだり坐つたりしていた。一回女の人から『小松の家を襲撃するんだ』と聞かされたほか誰とも会話を交していない」と弁明していること、第二中隊には川上博のほか面識ある者がおらなかつたこと(川上博の供述は得られていない)、前岡と同一場所におり会話を交したと述べている者が存在しないこと、被告人前岡が相当強度の近眼であること等を考え合せると直ちに前記の弁明を排斥し難いものというべきである。結局被告人前岡に関しては放火の犯意について証明がないことに帰する。

よつて同被告人に対し小松方居宅に対する放火未遂爆発物取締罰則違反及び小松方自動車庫に対する放火未遂爆発物取締罰則違反の点について刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をする。

【その他有罪被告人に対する判示≪省略≫】

第五章  全部無罪の被告人に対する理由

被告人笠原理一郎に対する公訴事実は

第一  被告人は石束市郎外多数と小松正義の居宅及び同人の自動車庫を爆発物である火炎瓶で焼燬することを共謀の上 (一)昭和二十七年六月二十五日午前二時三〇分過頃枚方市字伊加賀小松正義方居宅の玄関硝子戸を押し開き同家屋内に爆発物である火炎瓶二個を投入して発火せしめ、現に同人及び同人の家族が住居に使用していた居宅を焼燬しようとしたが直ちに家人に消火せられた為同人方玄関土間にあつた短靴一足の一部及び玄関二畳の間にあつた襖の一部を焼燬したに止まり居宅を焼燬する目的を遂げず。

(二)右(一)掲記の日時頃居宅前所在の同人所有の自動車庫内において爆発物である火炎瓶数個を格納中の乗用自動車の窓ガラス及び自動車前部の機関部内に投げつけて発火せしめ、乗用自動車と共に自動車庫を焼燬しようとしたが間もなく小松正義等に消火せられた為乗用車の一部を焼燬したに止まり自動車庫を焼燬する目的を遂げず。

第二  被告人は同日午前三時三〇分過頃枚方市の通称観照堂附近の山中において、枚方市警察署巡査梶間義寛外六名の警察職員より放火未遂罪の準現行犯人として逮捕せられようとするや、阿出川和夫外多数と共謀の上「殺してしまえ、やつつけろ」等と怒号し乍ら投石し或は火炎瓶を投げ、竹槍、棍棒等をもつて喊声をあげて反撃に出で、同巡査等の生命身体に危害を加うべき気勢を示して脅迫し、更に谷巡査の前額部に小石一箇を命中せしめ、以て前記梶間巡査外六名の警察職員の公務執行を妨害したというにある。

よつてまず各放火未遂、爆発物取締罰則違反の点について検討する。本件公判に現れた小松方被害に関する各証拠によれば右日時に小松方に多数の者が来襲して火炎瓶を使用し小松方居宅及び自動車庫に右のような放火未遂の被害を与えたことが認められる。然し右各犯行に使用された火炎瓶が爆発物取締罰則にいう爆発物であることの証明はないからこの点においてすでに爆発物使用の罪は成立しない。次に小松方事件の謀議、行動等に関する各証拠によれば右各放火未遂の犯行は当夜一本松の丘に集会した者の一部、所謂第三中隊員の所為にかかるものと認められる。問題は被告人について放火の共謀を認め得るか否かにある。然るところ、右各証拠≪中略≫によれば、被告人笠原は昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、火炎瓶の製造及び携行を目撃し、松元保紀等の演説及び第一中隊長の説明を聴取し、実行部隊において火炎瓶を使用して小松方居宅及び自動車庫を焼燬するかも知れない旨並びに第一中隊はその見張部隊である旨を認識し乍ら第一中隊員と共に一本松の丘下の道路を下つたものと認め得られるのである。然し乍ら被告人笠原の証人としての当公廷における供述、及び検察官に対する供述調書によれば、被告人は山を下りて人家のある附近まで行つたが、他の第一中隊員と異りそれより先へは行かず、約一〇分か二〇分そこで待つた後他の者と共に元来た方向へ逃走したと述べているのである。この弁明は当夜における部隊行動の全体よりして稍不自然の嫌はあるがこれを直接に排斥するに足る証拠は存しないものといわなければならない。次に被告人の検察官に対する三回調書によれば「私は暴力と云うものに就ては原則的に否定すべきものとの考を持つて居りますが、然しまだハツキリした信念がきまつていないので末川博士の講演其他いろいろの人の話を聞いた結果本当に生活に苦しんだ場合正義の為の暴力は肯定される場合もあると私は思う様になりました。処が現実に自分が暴力を行使する一団の仲間に入つた場合此の問題について本当に心から思いなやみました。私は其場にしやがんで暫くの間考えにふけりました。然し大勢の赴くままに私一人だけ反対して卑怯な裏切りの様な行動も出来ないので皆の者と一緒に行動する事に腹をきめました。それで私は学生の班の一番後の方から皆について山を下り町の方に下りて行きました。(中略)私は良く反省して見ると夜中に大勢の者が集つて棒を持つたり火炎瓶を持つて人の家を襲撃すると云う事はよくない事と思います。私もその仲間の一員として皆と行動を共にしたと云う点は悪かつたと後悔して居ります。私の考では与論に訴え大勢の人が皆んな小松の家を襲撃すべきだと云う事になればそれは差支えないと思います。然しそれは理論上の問題であつて私自身としては恐らく実力行動に出る様な元気はありません」との供述記載があり、笠原被告人について当公廷において受ける温厚な印象と対比して心証の動き得るところである。以上を合せ考えると、笠原被告人は列員の後尾に附して丘の下の道を出発したが暴力行使について気が進まなかつた為中途より先へは行かなかつたのではないかとの疑を生ぜしめる。そうだとすると見張部隊の一員として行動するという意思を確認し難いものがあるといわなければならない。被告人のいう「山道から降りて人家のある附近」とは木村十郎方附近を指すものと思われ、その附近には第二中隊が居つたことになるが、だからといつて直ちにこの第二中隊員と合同して見張をなす意思があつたとも断じ得ない。尤も暴力行使について個人的に不賛成の気持を抱いたとしても結局見張部隊の一員として行動することに意を決した以上は共謀なしとすることはできず、又中途において別箇の行動をとつたとしてもそれ以前に共謀の存するときは共犯者の行つた実行行為について責任を免れ得ないわけであるが、被告人について明かに認め得ることは見張部隊の任務を認識しつつ共に一本松の丘を出発したということのみである。暴力の行使について反対の気持を抱き、見張部隊の一員として行動するや否やについても決意の定まらぬままに大勢に押され暫時後尾に附して同行するということは十分考え得られるところであつて、その場合には未だ共謀は成立しておらないものと判断する。(但し右の検察官調書中に「私一人だけ反対して卑怯な裏切りの様な行動も出来ないので皆と一緒に行動する事に腹をきめました」との供述記載があるが、「腹をきめました」との表現が被告人の生の言葉であると解する程の根拠はなく((検察官に対する被告人長谷川の二回調書七項被告人武田の一回調書一五項参照))、真実腹をきめたのであれば他の第一中隊員と共に小松方下手まで同行するのが自然のように思われ、又右の表現は結果として被告人が刑事責任のある行為を行つたという判断が大前提をなしているようにも解される。結局全体的観察よりして重きをおく程の供述とは認めない)。以上を要約すると被告人笠原は他の者において小松方居宅及び自動車庫に焼燬被害を与えるかも知れない旨を認識しつつ一本松の丘を出発したものと認められるが自己もその一員として行為する意思即ち共同犯行の認識を肯定するに足る証拠なく、結局共謀を認め得ないことに帰するので小松方居宅及び自動車庫に対する各放火未遂の公訴事実について無罪である。

次に公務執行妨害の公訴事実について考察する。本件公判に現れた公務執行妨害関係の各証拠(特に被告人笠原の検察官に対する二回乃至四回調書、証人山本行男同谷利夫の第四七回公判廷における各証言)によれば、右日時場所において警察官の適法なる職務行使に対し右のような暴行脅迫が行われ、被告人が犯行後現場に遠くない場所において逮捕せられたことが明かであるが、被告人自身が暴行脅迫を行つたと認むべき証拠は何もなく、暴行脅迫を加えた者との共謀を認定すべき証拠も十分でないから右公訴事実についても無罪である。

よつて同被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をする。

被告人梁侖植に対する公訴事実は

第一  被告人は石束市郎外多数と小松正義の居宅及び同人の自動車庫を爆発物である火炎瓶で焼燬することを共謀の上(一)昭和二七年六月二五日午前二時三〇分過頃枚方市伊加賀小松正義方居宅の玄関硝子戸を押し開き同家屋内に爆発物である火炎瓶二箇を投入して発火せしめ現に同人及び同人の家族が住居に使用していた居宅を焼燬しようとしたが、直ちに家人に消火せられた為同人方玄関土間にあつた短靴一足の一部及び玄関二畳の間にあつた襖の一部を焼燬したに止まり居宅を焼燬する目的を遂げず(二)右(一)掲記の日時頃居宅前所在の同人所有の自動車庫内において爆発物である火炎瓶数個を格納中の乗用自動車の窓ガラス及び自動車前部の機関部内に投げつけて発火せしめ乗用自動車と共に自動車庫を焼燬しようとしたが間もなく小松正義等に消火せられた為乗用自動車の一部を焼燬したに止まり自動車庫を焼燬する目的を遂げず。

第二  被告人は同日午前三時三〇分過頃枚方市の通称観照堂附近の山中において枚方市警察署巡査梶間義寛外六名の警察職員より放火未遂罪の準現行犯人として逮捕せられようとするや、阿出川和夫外多数と共謀の上「殺してしまえ、やつつけろ」等と怒号し乍ら投石し或は火炎瓶を投げ、竹槍、棍棒等をもつて喊声をあげて反撃に出で同巡査等の生命身体に危害を加うべき気勢を示して脅迫し、更に谷巡査の前額部に小石一個を命中せしめ、以て、前記梶間巡査外六名の警察職員の公務執行を妨害した

というにある。

よつてまず各放火未遂、爆発物取締罰則違反の点について検討する。本件公判に現れた小松方被害に関する各証拠によれば右日時に小松方に多数の者が来襲して火炎瓶を使用し小松方居宅及び自動車庫に右のような放火未遂の被害を与えたことが認められる。然し右各犯行に使用された火炎瓶が爆発物取締罰則にいう爆発物であることの証明がないからこの点においてすでに爆発物使用の罪は成立しない。次に小松方事件の謀議、行動等に関する各証拠によれば右各放火未遂の犯行は当夜一本松の丘に集会した者の一部、所謂第三中隊員の所為にかかるものと認められる。問題は被告人について放火の共謀を認め得るか否かにある。

被告人梁は検察官に対する一回調書において「自分は一人で枚方の山へ行つた。到着したのは午後一一時半頃で皆の者は下の道に集つていた」旨を述べており、この供述を覆す証拠は存在しない。次に被告人が第何中隊に属したりやについては直接の証拠を欠くが右検察官調書中の「私は第何中隊か知りませんが後の方に入れと言われたので其の隊に入りました。私の後には男の人が二、三人しかおらずその後は女の人一〇人位でありました」との供述記載と被告人の住所、爾後の行動、隊伍の編成に関する各証拠を綜合すると第二中隊に属せしめられたものと認められる。ところが被告人は右調書において「前の方の人がこれから何処かのガレーヂをやつつけるんだと話しておりました」とのみ述べていて放火の犯意を全く否定しているのである。

被告人は第二中隊長の説明を聴いているものと推認されるがこの説明の中に火炎瓶攻撃が行われる旨の表現があつたものとは解し得られない。被告人正田の検察官に対する二回調書に一応右に符合する供述記載があるが同人の三回及び四回調書により供述が変更されており、この三回及び四回調書は第二中隊員全員に対する直接の証拠とはなり得ないのである。

もとより火炎瓶使用の認識は指揮者より明かな言葉で説明されなくとも生じ得る。むしろ当夜における相当多数の火炎瓶の携行、各隊員の会話、当時における火炎瓶使用に関する報道等を考え合せると被告人梁も亦火炎瓶の携行を目撃し且つ小松方襲撃には火炎瓶が用いられるかも知れない旨認識したと一応推認し得る。然し乍らこれは一応の推認に止まるのであるから被告人と面識があつて同一場所に所在し且つ行動を共にした者の供述によつて確認することが必要である。然るに第二中隊において被告人梁と同一場所におり且つ同人と会話を交したことを窺わしめる者は全く存在しない。たまたま守口市居住者だというので第二中隊に配属せしめられたが(当夜まとまつたグループを形成しておらない者は大体第二中隊に属せしめられたようである。これは第二中隊が婦女子等を含んだ隊であつたことにも基因するであろう)、直接面識ある者がおらなかつたので女子部隊の近くに一人でいたということも一応考え得られるところである。してみれば検察官主張の如く直ちに第二中隊の第一小隊(守口市方面居住者を主体としその大部分は早朝に丘の上に到着した)に属したものとし、それらの者と同一の認識を有したと断定することを得ない。しかも同一グループ内に面識ある者がおらなかつたとの前提は共同犯行の認識の点にも影響を及ぼすものというべきである(被告人は当時一八歳七箇月の靴製造見習工であつた)。結局小松方居宅及び自動車庫に対する各放火未遂の公訴事実に関しては放火の共謀について証明がない。

次に公務執行妨害の点について考察する。本件公判に現れた公務執行妨害関係の各証拠(特に証人今田利雄、同岡本宗一、同隅田政敏の各証言)によれば、右日時場所において警察官の適法なる職務行使に対し右のような暴行脅迫が行われ、被告人が現場附近において逮捕せられたことが明かである。右の各証人等はいづれも梁侖植は逮捕の際棒をふりまわして抵抗した旨証言するのであるが、その証言は相互に著しく喰い違つていて暴行の態様を全く確定し得ず、警察官が相互に同志打をした事実も認め得られ、結局右各証言により明かに認定し得ることは警察官がピストルを発射し多くの者が四散した後において被告人が追跡を受け棒の所持を現認せられ逮捕されたということのみである。外に前記の訴因事実を認めるに足る証拠はない。結局公務執行妨害の点についても犯罪の証明はないものといわなければならない。

よつて同被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をする。

被告人光藤裕之に対する公訴事実は「被告人は長谷川慶太郎外多数と小松正義の居宅及び同人の自動車庫を爆発物である火炎瓶で焼燬することを共謀の上(一)昭和二七年六月二五日午前二時三〇分過頃枚方市字伊加賀小松正義方居宅の玄関硝子戸を押し開き同家屋内に爆発物である火炎瓶二個を投入して発火せしめ現に同人及び同人の家族が住居に使用していた居宅を焼燬しようとしたが直ちに家人に消火せられたため同人方玄関土間にあつた短靴一足の一部及び玄関二畳の間にあつた襖の一部を焼燬したに止まり居宅を焼燬する目的を遂げず(二)右(一)掲記の日時頃居宅前所在の同人所有の自動車庫内において爆発物である火炎瓶数個を格納中の乗用自動車の窓がラス及び自動車前部の機関部内に投げつけ発火せしめ、乗用自動車と共に自動車庫を焼燬しようとしたが、間もなく小松正義等に消火せられた為乗用自動車の一部を焼燬したに止まり自動車庫を焼燬する目的を遂げなかつた」というにある。

よつて検討するに本件公判に現れた小松方被害に関する各証拠によれば右日時に小松方に多数の者が来襲して火炎瓶を使用し小松方居宅及び自動車庫に右のような放火未遂の被害を与えたことが認められる。然し右各犯行に使用された火炎瓶が爆発物取締罰則にいう爆発物であることの証明はないからこの点においてすでに爆発物使用の罪は成立しない。次に小松方の謀議行動等に関する各証拠によれば右各放火未遂の犯行は当夜一本松の丘に集会した者の一部、所謂第三中隊員の所為にかかるものと認められる。問題は被告人について放火の共謀を認めるか否かにある。

然るところ被告人は当公廷において「当日自分は一本松の丘へ石堂や山本と一緒に行つた。一時間か二時間経つてから主催者らしい人の依頼により町の方へピケに出たがついで大学の研究室へ帰ることにした。それは自分だけが白いカツターシヤツを着ていたので友達から『そんな恰好をしていると警官が来たとき狙われるぞ』と言われたのと、実際冷えこんで寒くもあつたからである。ピケから帰つて来てみると皆丘から降りて道の上に坐つていた。皆に帰つて来たと話をし、懐中電灯を持つた主催者らしい人に見て来た様子を報告した。その時皆が棒を持つていたので自分もくれというとへなへなのを呉れた。そこでもつといいのはないか、というと奥の方へ行つて木を伐つて来いと言われ、物色に行つた。そうしている中に戻つて来いと怒鳴られたので戻つて来ると山の下の方へデモに行くという話だつた。えらい早いじやないかと言うと、いや又直きに戻つてくるという話だつた。それで自分も下りかけたが、歩いて来てくたくたになつていたし自分だけ棒を持たしてくれていないし、一寸腹が立つていたので、僕だけ休むわ、と言つて一人脇に出て皆をやり過した。その場所は山道の途中で両側に笹の生えている所である。それから一本松より二〇米位奥の所で休んでいると皆が逃げて来た。山の上で瓶を見たことはなく松元演説や中隊長の説明は聞いていない。小松方へデモを掛けるということは、其後において法廷で聞いたことと混同しているかも知れないが丘の下へ帰つて来た時に聞いているかも知れない」というにある。而して右供述によれば放火の共謀を全く認め得られないことになるので右供述を中心として考察することにする。

被告人が演説の頃丘の上に居つたことを肯定する証拠は検察官に対する井上真之助の八月八日附供述調書中「それが終つてから同一人であつたと思いますが演説のようなことを始めその内容に枚方工廠を昨夜爆破しそれに行つた者が囲まれているという報告のようなこともあり又小松の家を焼くということも言われたので、私が側にいた光藤等に小声で個人の家を焼くというのはいけないのじやないかとそれに対し批判を下しました」との記載、八月一二日附供述調書中「丘の上で演説をやつていた時私が気付いているものは長谷川君、笠原君、高尾君、東君、山本君、石堂君、光藤君等であります。尚杉林君も山の上に居つた事は覚えております」との記載、白砂竜土の八月一二日附供述調書中「水源池の前の丘で演説会があつた時私共と同じ処にいた学生で私が記憶している人々は長谷川君、笠原君、須藤君、高尾君、東君、崎山君、井上君、山本君、石堂君、光藤君、河本君杉林君等であります」との記載、石堂隆之助の八月四日附供述調書中の「演説の後丘の上で部隊の編成があり杉林君が学生の編成をやりました。寮の者は小舎部隊と名付けられ第一中隊第一小隊に入れられました。第一小隊は河本であります。第一小隊の処に一緒に並んでいた者は私、白砂、井上、山本、高尾、笠原、光藤等でありました。光藤は高等学校の時から共産党に関係していた男であります」との記載、八月一四日附供述調書中「光藤裕之君は丘の上で演説があつた時私達と同じ処にいた事は覚えております。編成の時には光藤はひよつとしたら歯車の方へ入つたかも知れませんが編成後の記憶は判然致しません」との記載、高尾総之助の八月一一日附供述調書(第一一項まである分)中「丘の上へ行つてからは光藤君は寮の学生でありませんので別の小隊に入りました。それは寮外生及び自治会の学生で一小隊を作り第一中隊第二小隊になりましたが歯車部隊と称しました。歯車部隊の隊員は光藤、崎山、伊香、須藤、東、長谷川その他二、三人居りましたが名前ははつきりしません。右六名が一本松の丘に来て居つたことは間違ありません。光藤君は私の考では指導部に出入していなかつたので歯車部隊の平隊員であつた様に思います」との記載、以上である。反面において被告人光藤の公判廷における本人供述を一応支持するような証拠は山本季良の検察官に対する八月一一日附供述調書中「光藤は学校を出かける時上衣を着ておらずこの人だけが白いカツターの侭山へ上りました。私等が丘の上に居る時、光藤が斥候に出ました。私等が丘を降りてから斥候から帰つて来ていた光藤の姿を見かけました」との記載である。山本調書は光藤がピケに出たのを演説の前と限定しておらないのであるが、それにしても何人もいわないことをはつきり言つているので光藤がピケに出た事だけは疑ないと認められる。ところが光藤が演説時に居つたことを肯定する証拠の中井上真之助調書は被告人光藤の「保釈後井上に出会つたところ、同人は自分に対し『検事が君を大物みたいにして追及していたので君に有利なように僕等と一緒におつてしかも家を焼くことに反対していたと述べておいた』と言つていた」旨の本人供述と対比し十分の信用性を認め得ぬところである。其他の者の調書によれば一応光藤被告人が演説の頃丘の上にいたことを認め得るようであるが、明確に演説の時、又は演説の後と限定してみればいかがなものであろうか。特に多くの者の氏名を羅列した調書は概して証明力が弱いものといわなければならない。隊伍編成が明かに演説の後に開始されたということが確定されるならば隊伍編成に関連して光藤の所在を述べた供述は相当の証明力を保有することになるのであるが、山本季良の八月六日附供述調書によると演説の開始前すでに編成が始まつたようにも思われる(第一中隊の他の部隊の編成時期に関し土井幸代、松岡功、衣笠武士、杉原良作の各検察官調書、第二中隊長の任命時期に関し被告人白頼の検察官に対する六回調書に援用された司法警察員の八月二一日附調書四項参照)。光藤被告人が演説開始に近い頃まで丘の上に居たこと自体は光藤被告人の本人供述によつても認められ得る。そうするとこれらの者は演説の前に相当長時間光藤を見かけたから、或は後に丘の下でも光藤を見かけたから、演説の際もおつた筈であるという程度の記憶であるかも分らないのである。結局光藤被告人が松元演説時に丘の上に居つたとの事実は確定し得ないものといわなければならない。

唯演説の近くまで其場にいたとするならば(被告人は主催者らしい人から「今から大会を始めたいが」云々と聞いたと供述する)、当然他の阪大学生等の火炎瓶製造を目撃しているものと解される。被告人東の検察官に対する四回調書五項、被告人崎山の検察官に対する三回調書三、四項によれば同人等は火炎瓶を作つてから一時間程して演説が始つたと述べているからである(被告人石束次郎は検察官に対し火炎瓶製造を演説の後と述べているがこれは記憶の誤りと解せられる)。仮に火炎瓶製造の直前に山を降りたとするも、他の阪大学生と一本松の丘まで同行し、その場に一、二時間も居た以上は当然同僚の携行した未完成火炎瓶、一升壜等を現認しているものと認められる(検察官に対する白砂竜士の八月一日附供述調書一一項高尾総之助の八月一一日供述調書七項等参照)。唯然しこの段階においてはその火炎瓶が直ちに小松方襲撃と結びつき得ないものと解される。

然るところ、被告人光藤については、一本松の丘に至る以前において小松方襲撃の計画を認識していたと認められるような証拠が在存するのでこれを検討する。即ち検察官に対する山本季良の八月六日附供述調書四項中の「六月二一日頃その日は土曜日であつたと思いますが授業が済んで午後まだ日が高かつた頃、私の室である二寮一四号の部屋に同室の石堂、高尾、隣りの一五号室の白砂と私の四人が居る処へ以前寮に居つたことのある河本、光藤の二人が入つて来て私等四人に向つて『今月二四日の夜枚方工廠を爆破する計画を党の方で聞いて来た。その時に警察官の目をそらせる為に枚方の山でキヤンプフアイアをやる計画がありそのキヤンプ・フアイアを終つてから夜間市中デモに移り、その時に枚方工廠誘致委員の小松氏の宅と市会議員の宅を襲撃することになつている。そのキヤンプフアイアに参加しないか』と云いました。これに対して私も他の三人もたしかに参加するというような返事はしなかつた様に思います」との記載、石堂隆之助の八月一四日附供述調書一項中の「本年六月二二日頃の午後の事と思います。私が寮の自分の部屋で高尾君、山本君、白砂君等と一緒にいた時に河本君が入つて来た事は覚えております。河本君はその時私達に『共産党の方で枚方工廠を爆破する計画がある。それを六月二四日の晩にやるらしいが警官の目をくらます為工廠とは反対の方の香里の山でフアイアーストームをやる。後からデモに移つて工廠を誘致した小松という男の家や市会議員の家の前へ行つて気勢をあげるから行かないか』と申しました。私は河本君に『夜中集つてデモ等をすると法律にひつかからないか』と云うと河本は大丈夫の様なことを云つておりました」との記載である。この点は公判廷において山本季良、被告人河本、同光藤のいずれも否認するところであるがその否認の内容はそのようなことはなかつた筈という程度のものであり、右のような事柄を捜査官側より誘導し得る筈もないから右供述は真実を言つているものと判断される。然し乍ら問題は小松方に対する襲撃又はデモということがどれだけの現実性を以て語られたかにある。仮りに河本が下検分に参加していたとしても寮内における右出来事は時期的に下検分よりも前である。河本が山本調書にある如き言葉で語つたとしてもその段階では未だ噂のようなものとして語つていたものと認められる。少くともその疑がある。又その実力行使の方法も不明のままであつたと認めなければならない。

従つて次の問題は被告人光藤が如何なる時期に一本松の丘下へ帰来したかにある。この点が最も重要である。被告人は漫然とピケに出、市中をぶらついていたというのでなく、ついでに大学の研究室まで帰つて来たというのであるから、枚方学舎との距離にかんがみると時間的には出発直前であつても差支えないことになる。然るところ、一同の者が丘下の道路に下り、出発しそうになつてから決行時期等をめぐつて討議がありかなり時間が経過したものと認められる。そうするとこの間に光藤被告人の姿が見えず、又まさに出発しようとする処へ帰つて来て皆に告げたとするならば、被告人と交友のある何人かがこのことを供述していてもよさそうに思えるのである。ところがこのような供述は全く存在せず却つて山本季良が検察官に対する八月一一日附供述調書第二項において「丘を降りて直ぐに一応整列した際三谷だけが見えなかつたので誰かが呼んで来て整列の中へ三谷も入りました」と述べているところよりすると、光藤被告人の帰来は三谷益史よりも前と認めるのが一応自然であろう。然し乍ら山本季良は小舎部隊に関してのみ言つているやも知れず、又当時三谷益史の行動(同人はピケに出ていたことを供述していた)に関して特に意識的に尋問と応答がなされたとも考え得る。結局光藤被告人の弁明を十分に排斥するに足るだけの根拠はないものといわなければならない。

ただ然し、帰来が出発間際であつたとしても、深夜の午前二時頃に棒杭等を携行し一同打揃つて町の方へ出かけようとしているのであるから、一体何処へ行くのか、ということは当然聞いているものと認めるのが自然ではあるまいか。被告人は「山の下の方へデモに行く」とのみ聞いたというが、当夜の行動の全体よりしてデモの対象たる人の名がまず先に出るのが自然であるし、「いや又直きに戻つてくる」という程学生達が呑気に構え光藤の参加を予期しないような言葉を吐いたのみとも解し難いところである。被告人としてもあと一言聞けば分ることなのであるし、聞きたいと思うのが人情の自然であるし、暫時は一同と行を共にしたことは被告人自身の認めるところなのであるからなおこの感を深くするのである。尤も被告人の主張は小松の名を全面的に否定しているのではなく、「後で法廷で聞いたことと混同しているかも知れないがその時に小松の名を聞いているかも分らない」というのである。然しその場で聞いたかどうかは事件以来被告人にとり最大の関心事であつたこと疑なく(事件当日阪大生が五名逮捕された)、公判廷で引続き無罪を主張し続けて来たのであるし、被告人の学歴をも合せ考えると、公判廷における他の者の供述との混同ということは全く肯定し得ないところである。而して行先を小松と知つた以前から聴いていた小松方に対する実力行使ということを現実的なものと確認したものと認められる。而して深夜の午前二時過頃におけるデモ、棒杭を携行したデモを教養ある被告人が単純たる形態におけるデモ行進と認識したものとは到底受取り得ぬところである。然し乍ら其場において直ちに火炎瓶の使用にまで思い至つたとは断じ得ないものと言わなければならない。

次に被告人は中途において一同の者と離れ独り山中において休憩していたものであると主張する。被告人の供述中「自分だけ棒を持たしてくれてないので一寸腹を立てた」との部分はいかがと思われるが長時間歩いていた為疲れていたとの部分は一応は合理性ある主張である。検察官は右弁明を措信し得ない根拠として被告人柳の検察官に対する四回調書五項をあげるが、その該当部分は「(光藤の写真を示された上)この人は学生でありますが、六月二四日の晩此の人も来ておりましたからよく覚えております。攻撃に行く時最初の人家のある手前の広場で休憩した時、私の二、三人前に坐つていて出発する際私と一緒に立たなかつた為第二中隊に配属されることになりました。確かその時の学生が此の人だつたと思いますが、若し考え違いをしておれば此の人とは逃げる時籔の中で一緒になりました」となつているのであり、人家のある附近で一緒だつたとの供述は確信ある記憶に基いたものとして語られていないので独立して被告人光藤の弁明を排斥するに足るものでない。仮に他の証拠との関連及び被告人光藤の本人供述全体の信用性との対比において証拠価値を認むべきものとするも、右供述は被告人光藤が第一中隊員と行を共にしなかつたことを示すものであり、共同犯行の認識を否定する証拠の一となる(第二中隊に配属とは被告人柳の判断であるに過ぎない)。次に押収にかかる証第七五号のズボン一着、司法警察員の八月二二日附捜索調書差押調書、警察技官の八月三〇日附理化学鑑識結果復命書によれば、被告人光藤のズボン右足裾に横四糎幅〇、一糎の硫酸浸触痕が認められ、その押収時期、侵触箇所よりみて火炎瓶によるものではないかとの推測も生じ得るが、火炎瓶は逃走の際一本松の丘の下附近で一発(発火)、観照堂附近における警官隊との斗争の際に一発(不発火)投ぜられているからこれらの際に侵触が生じる可能性もあり、これを以て被告人が火炎瓶の使用を予期していたとか第一中隊員と行を共にしたという証左とすることのできないこと勿論である。

以上の検討を要約すると被告人光藤の本人供述は十全には信用し得ず、大阪大学学生等が火炎瓶と目される瓶数本を持参したこと及び当夜の集団が小松方へ向うものであることは知つていたと認められるが、小松方に対する火炎瓶の投入まで予期していたと認めるに足りる証拠なく、且つ被告人が小松方襲撃の一員として行為する意思を有していたと認むべき証拠も十分でないので、結局放火の共謀について証明がない。

よつて同被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をする。

被告人吉田雅子に対する公訴事実は「被告人は長谷川慶太郎外多数と小松正義の居宅及び同人の自動車庫を爆発物である火炎瓶で焼燬することを共謀の上(一)昭和二七年六月二五日午前二時三〇分過頃枚方市字伊加賀小松正義方居宅の玄関硝子戸を押し開き同家屋内に爆発物である火炎瓶二個を投入して発火せしめ現に同人及び同人の家族が住居に使用していた居宅を焼燬しようとしたが直ちに家人に消火せられた為同人玄関土間にあつた短靴一足の一部及び玄関二畳の間にあつた襖の一部を焼燬したに止まり居宅を焼燬する目的を遂げず (二)右(一)掲記の日時頃居宅前所在の同人所有の自動車庫内において爆発物である火炎瓶数個を格納中の乗用自動車の窓ガラス及び自動車前部の機関部内に投げつけて発火せしめ、乗用自動車と共に自動車庫を焼燬しようとしたが、間もなく小松正義等に消火せられた為乗用自動車の一部を焼燬したに止まり自動車庫を焼燬する目的を遂げなかつた」というにある。

よつて検討するに本件公判に現れた小松方被害に関する各証拠によれば右日時に小松方に多数の者が来襲して火炎瓶を使用し小松方居宅及び自動車庫に右のような放火未遂の被害を与えたことが認められる。然し右各犯行に使用された火炎瓶が爆発物取締罰則にいう爆発物であることの証明はないからこの点においてすでに爆発物使用の罪は成立しない。次に小松方事件の謀議、行動等に関する各証拠によれば右各放火未遂の犯行は当夜一本松の丘に集会した者の一部、所謂第三中隊員の所為にかかるものと認められる。問題は被告人について放火の共謀を認め得るか否かにある。

然るところ、右の各証拠≪中略≫によると、被告人吉田雅子は昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、部隊編成に際しては救護班に所属し、第二中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し、小松方上手、木村十郎方附近路上に至つたものと認められる。

然し乍ら被告人吉田雅子が松元保紀等の演説前に一本松の丘に来たという証拠は十分でない。次に被告人は第二中隊長の説明を聴いたものと推認されるが、その説明の中に火炎瓶攻撃が行われる旨の表現があつたものとは解し得られない。被告人正田の検察官に対する二回調書にそのような供述記載があるが三回及び四回調書により供述が変更されている。従つて犯意認定に際しては被告人と同一場所におり且つ同一行動を取つた者の供述が主たる証拠となるところ十分なものはない。救護班に所属していた者の中で本件犯行に関し供述を行つているのは郭正礼(検察官調書)今井安子(公判証言)の二名であるがこれらの者はいずれも火炎瓶攻撃の認識を語つておらない。

もとより本件の証拠判断は右のように形式的にのみなすべきものでない。当夜の行動の全体、即ち相当多数の火炎瓶又は火炎瓶と称される瓶の持参、松元の演説の趣旨の伝播、実行部隊と見張部隊の存在、参会者の会話等を綜合し、更に現場の地形、グループの者のおつた位置、当時における火炎瓶使用に関する報道等を考慮に入れて全体的に考察すべきものである。而してこの全体的考察よりすると、被告人もまた火炎瓶が小松方に対して使用するべきことを認識し且つ救護のグループ内に居たとはいえ共同犯行の認識を以て一本松の丘下を出発したことは疑がないようにも見受けられる。然し救護班は相当の人数を擁し(その中にも二つの班があつたことが窺われる)一応別箇のグループを形成していたようであつて直ちに他の第二中隊員の供述を援用し難く、救護班に属していた者について前記の趣旨の供述が全く得られていない以上は今一歩確実な証明を欠くというべきである。結局放火の共謀について証明がないことに帰する。

よつて同被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をする。

被告人鈴木ウタに対する公訴事実は「被告人は長谷川慶太郎外多数と小松正義の居宅及び同人の自動車庫を爆発物である火炎瓶で焼燬することを共謀の上(一)昭和二七年六月二五日午前二時三〇分過頃枚方市字伊加賀小松正義方居宅の玄関硝子戸を押し開き同家屋内に爆発物である火炎瓶二個を投入して発火せしめ現に同人及び同人の家族が住居に使用していた居宅を焼燬しようとしたが直ちに家人に消火せられた為同人方玄関土間にあつた短靴一足の一部及び玄関二畳の間にあつた襖の一部を焼燬したに止まり居宅を焼燬する目的を遂げず(二)右(一)掲記の日時頃居宅前所在の同人所有の自動車庫内において、爆発物である火炎瓶数個を格納中の乗用自動車の窓ガラス及び自動車前部の機関部内に投げつけて発火せしめ、乗用自動車と共に自動車庫を焼燬しようとしたが、間もなく小松正義等に消火せられた為乗用自動車の一部を焼燬したに止まり自動車庫を焼燬する目的を遂げなかつた」というにある。

よつて検討するに本件公判に現れた小松方被害に関する各証拠によれば右日時に小松方に多数の者が来襲して火炎瓶を使用し小松方居宅及び自動車庫に右のような放火未遂の被害を与えたことが認められる。然し右各犯行に使用された火炎瓶が爆発物取締罰則にいう爆発物であることの証明はないからこの点においてすでに爆発物使用の罪は成立しない。次に小松方事件の謀議、行動等に関する各証拠によれば右各放火未遂の犯行は当夜一本松の丘に集会した者の一部、所謂第三中隊員の所為にかかるものと認められる。問題は被告人について放火の共謀を認め得るか否かにある。

然るところ右の各証拠≪中略≫によると、被告人鈴木ウタは昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き、松元保紀等の演説を聴取し、部隊編成に際しては救護班に所属し、第二中隊員と共に一本松の丘下の道路を出発し、小松方上手、木村十郎方附近路上に至つたものと認められる。

然し乍ら被告人鈴木ウタが一本松の丘の上に到着したのは大阪大学学生等の火炎瓶製造の後と認められる(被告人安原の検察官に対する二回調書五項、四回調書一項、五回調書六項参照)。次に松元保紀の演説の中に小松方襲撃の趣旨が含まれていたことは明瞭であるが「火炎瓶を以て」襲撃するか、「焼く」とかの表現があつたものとは認め得られない。一部の者の検察官調書中に右に照応する供述記載があるが心証を惹き難いところである。次に被告人は第二中隊長の説明を聴いたものと推認されるが、その説明の中にも火炎瓶攻撃が行われる旨の表現があつたものとは解し得られない。被告人正田の検察官に対する二回調書に右に照応する供述記載があるが三回及び四回調書により供述が変更されている。従つて犯意認定に際しては被告人と同一場所におり且つ同一行動を取つた者の供述が主たる証拠となるところ十分なものはない。救護班に所属していた者の中で本件犯行に関し供述を行つているのは郭正礼(検察官調書)今井安子(公判証言)の二名であるがこれらの者はいずれも火炎瓶攻撃の認識を語つておらない。

もとより本件の証拠判断は右のように形式的にのみなすべきものでない。当夜の行動の全体、即ち相当多数の火炎瓶又は火炎瓶と称される瓶の持参、松元の演説、実行部隊と見張部隊の存在、参会者の会話、等を綜合し、更に現場の地形、グループの者のおつた位置、当時における火炎瓶使用に関する報道等をも考慮に入れて全体的に考察すべきものである。而してこの全体的考察よりすると、被告人もまた火炎瓶が小松方に対して使用さるべきことを認識し、且つ救護のグループ内に居たとはいえ共同犯行の認識を以て一本松の丘下を出発したことは疑がないようにも見受けられる。然し救護班は相当の人数を擁し(その中にも二つの班があつたことが窺われる)一応別箇のグループを形成していたようであつて直ちに他の第二中隊員の供述を援用し難く、救護班に属していた者について前記の趣旨の供述が全く得られておらない以上は今一歩確実な証明を欠くというべきである。結局放火の共謀について証明がないことに帰する。

よつて同被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をする。

被告人玄仁中に対する公訴事実は「被告人は長谷川慶太郎外多数と小松正義の居宅及び同人の自動車庫を爆発物である火炎瓶で焼燬することを共謀の上(一)昭和二七年六月二五日午前二時三〇分過頃枚方市伊加賀小松正義方居宅の玄関硝子戸を押し開き同家屋内に爆発物である火炎瓶二個を投入して発火せしめ現に同人及び同人の家族が住居に使用していた居宅を焼燬しようとしたが直ちに家人に消火せられた為同人方玄関土間にあつた短靴一足の一部及び玄関二畳の間にあつた襖の一部を焼燬したに止まり居宅を焼燬する目的を遂げず(二)右(一)掲記の日時頃居宅前所在の同人所有の自動車庫内において爆発物である火炎瓶数個を格納中の乗用自動車の窓ガラス及び自動車前部の機関部内に投げつけて発火せしめ乗用自動車と共に自動車庫を焼燬しようとしたが間もなく小松正義等に消火せられた為乗用自動車の一部を焼燬したに止まり自動車庫を焼燬する目的を遂げなかつた」というにある。

よつて検討するに本件公判に現れた小松方被害に関する各証拠によれば右日時に小松方に多数の者が来襲して火炎瓶を使用し小松方居宅及び自動車庫に右のような放火未遂の被害を与えたことが認められる。然し右各犯行に使用された火炎瓶が爆発物取締役罰則にいう爆発物であることの証明がないからこの点においてすでに爆発物使用の罪は成立しない。次に小松方事件の謀議、行動等に関する各証拠によれば右各放火未遂の犯行は当夜一本松の丘に集会した者の一部、所謂第三中隊員の所為にかかるものと認められる。問題は被告人について放火の共謀を認め得るか否かにある。

然るところ、右各証拠特に検察官に対する被告人柳、玄南箕の各供述調書によれば被告人玄仁中は昭和二七年六月二四日夜一本松の丘に赴き松元保紀等の演説を聴取したものと認められるのである。

被告人玄仁中は集会参加そのものを否定しアリバイ証人を提出し、当夜は自宅の前で友人と午後一一時頃まで将棋をさしそのまま家に入つて就寝したものであると主張する。然し乍ら右主張は公判において始めて現れた主張である。被告人は逮捕せられて以来一貫して本件の集会参加を否定し「その頃は大阪市大に出席し毎日学校は休まずに出席し学校から帰ると外へは出ずにノートの整理や勉強ばかりしていたので枚方へは行つたことがない。私が外へ出た事のない事は私の近所で聞いて貰えばよく分る筈で東隣りの茂山さんか北側の豊田さんが一番良く知つていると思う」(昭和二八年四月一二日附警察官調書)「アルバイトは鉄屑拾いもしたが大半は北河内郡茨田町の木村留吉方で豚の飼育の手伝仕事をしていた。夜は自分の家で勉強していたので枚方へ行つたことはない」(四月一八日附警察官調書)等と弁解していたものである。若し将棋をさしていたという事実があるならばもつと早い時期に弁解を出すのが自然であると考えられる。尤もうつかりして忘れていたが友人と話合つてみて当時のことを思い出すということはあり得る。然し乍ら被告人についてはこのような事情も認め難く思われる。即ち枚方の山でキヤン・フアイアの催しのあることを聞き友人を誘つたことのあることは被告人自身当公廷において認めるところであるし被告人玄仁中の日記、飜訳人中島英夫の供述、被告人玄仁中の検察官に対する昭和二八年五月一日附供述調書(五項まである分)によれば、逮捕に先立つ昭和二八年二月始頃(逮捕は同年四月一四日)警察官が枚方事件で自宅に来たことを人より聞き、自己の日記に「大阪自宅に警官八人来る。朝六時、枚方事件」と書き残しているから失念していたとは認め難い。証人韓明愚が証言する如く「翌日の夕刊と思うが、その新聞を見て玄君と『ゆうべ行つたらえらいことになるとこやつた。よかつたな』等と話合つた」というような事実があるとすればなおさらのことであるといわなければならない。反面において被告人柳、玄南箕の各検察官調書の供述記載は単に写真を示されてその人が来ていたと思うというような程度のものでない。玄仁中と知合になつた経過を具体的に示し(このことは同人等も公判供述においておおむね認めている)当夜における玄仁中の具体性ある挙措にまで言い及んでいるのである。被告人柳は証言に際し「学生で身体の大きい人がいたからそれが玄仁中だろうと思つてそう言つた」云々と述べ、玄南箕は本人供述において「枚方事件と無関係に玄仁中を知つているというと、山へ来ておつただろうといわれ、結局山で会つたという記載になつた」というのであるが、検察官調書の記載と対比してみて納得の行く弁明とは認められない。

然し乍ら玄仁中は当夜の集会に参加していたとはいえどの部隊に属していたかが証拠上明確になつていない。検察官に対する被告人柳の二回調書九項によれば「それから五分位経つていよいよ出発する事に決定し整列しました。ならんだ順番は第一中隊、第三中隊、第二中隊の順にならび、第二中隊の後に女子の救護班がついたのであります。私はガレージ組の後の方に並んだのでありますが私の前の方には金相菜、柳志英、廬承達、閔載寔、玄南箕、玄仁洙等がならんでおりました」とあり、これによれば玄仁中は第三中隊に属していたかの如くであるが三回調書八項によれば「玄仁洙君は私は其の人の名前は玄仁仲が本当と思います。(中略)六月二四日の晩私達が一本松の丘に着いた時には既に玄仁仲君は来ておりました。玄君は大学の制服を着ておりましたが登山帽を冠つており、私と会つた時、やあと云つて挨拶をしましたが、其の後は仲間の学生達と主に話をしておりました。部隊編成のあつた時第三中隊には見うけなかつたので学生の部隊の方に入つたのかなあと思いました。」とあり、むしろ第三中隊におらなかつたことを窺わしめる。山に来ていた朝鮮人の自己の友達はすべて第三中隊員であつたから玄仁中も第三中隊の所に居たのであろう位の記憶に基き供述したのが二回調書であると判断される。次に被告人玄南箕の検察官に対する二回調書六項によれば「(丘の下で)ぶらぶらしている間に私の遠い親類に当る玄仁中君とも出会いました。玄仁中君は名前の知らない他の人と話をしておりました。私は顔を合せて会釈を交しましたが別に話はしておりません」とあり、これによつても第三中隊所属の事実を認め得ない。その所属が明確でないことは共同犯行の認識を基礎づける有力な根拠の一を失わしめる結果を来すのである。玄仁中の行動についてほかに証拠上認め得ることは犯行の行われた後山中にいち早く逃亡しており、女子の者と一緒にいたことのみである(被告人柳の検察官に対する三回調書八項五回調書二項)。以上を併せ考えると被告人玄仁中に関しては小松方襲撃の一員として行為する意思即ち共同犯行の認識があつたかどうかについて疑が存するものといわなければならない。結局放火の共謀について証明がないことに帰する。

よつて同被告人に対し刑事訴訟法第三三六条に即り無罪の言渡をすることとする。

よつて主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 笠松義資 裁判官 吉益清 裁判官 今中道信)

<以下省略>

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