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大阪地方裁判所 昭和31年(わ)44号 判決 1958年11月24日

被告人 桑原栄子

主文

被告人を懲役四月に処する。

但し、本裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

押収の脅迫状一通(昭和三十一年裁領第一三九号の十一)はこれを没収する。

訴訟費用中、証人戸田イソエ(第三回公判)、村添ソメ子(第七回及び第二十四回公判)、菅原己婁吉、川崎雅菊、川崎達郎並びに鑑定人米田米吉に各支給した分は被告人の負担とする。

本件公訴事実中、昭和三十年十二月十一日被告人方居宅における放火未遂及び同月十六日向井大二方居宅における放火未遂の点につき被告人は各無罪。

理由

被告人は二十六才の頃、桑原光太郎と結婚し、丈三、容子の二子をもうけたが、昭和二十一年に夫光太郎と死別し、じ来ひたすら二子の成長のみを楽しみつつ、名張市、大阪市、布施市等を転々し、闇米のかつぎ屋、お好み焼屋、うどん屋などをして生計をたて、その後昭和二十八年頃布施市荒川町三丁目八十五番地の木造瓦葺平家四戸建長屋一棟のうち西端の居宅一戸を買つて転居し、駄菓子屋を開業した。しかるにその間、容子は福井一夫と恋愛関係に陥り、被告人の反対にもかかわらず、被告人のもとをとび出して同人と同棲し、ダンスクラブ等へ出入りして被告人を顧みず、又丈三は昭和二十年頃から南海電鉄会社に勤務していたが、生来病弱で、肺浸潤を患つて長期間休職したこともあり、かつ色盲のため車掌から昇進しえないこと等に不満を抱いて母である被告人を責め、又容子の不身持も被告人の責任であるようになじるばかりでなく、食事の際には被告人の義歯が音をたてることを嫌い、共に向いあつて食事することをも避ける等、事毎に被告人を冷くあしらい、更に右住居地附近は、盗難や怪火が多く不安な土地柄であるため転居を主張し、それが嫌なら一人で家を出て下宿するとまで言い張つて、丈三を頼りにしている被告人を失望落胆させ、悲しませていた。しかるところ、たまたま昭和三十年十二月十一日午前一時頃何者かの放火により被告人方居宅玄関の格子戸外側から出火し、右格子戸の一部を燻焼し、これに引続いて同月十六日午後六時頃被告人方から東へ二戸目の向井大二方居宅台所前軒下のごみ箱内からも出火する等、いよいよ怪火が被告人方及びその近隣へ及んできたため、丈三は以前にもまして一そう強く転居を主張するようになつたので、被告人はこれを引き止めるのに苦慮したあげく、ついにあさはかにも自ら何らかの事件を起して世間を騒がせば、警察の捜査活動も活溌になり、警察官の巡回も繁くなつて、丈三の不安を和げ、転居を思いとどまらせることができるだろうと一途に思いこみ、当時世間に喧伝されたトニー谷の幼児誘拐事件に示唆をえて、幼児のいる東隣の戸田桂吾方に脅迫状を出すことを決意するに至つた。かくて被告人は同月二十六日夜自宅において便箋三枚に、あらかじめ下記文字を切抜いた型紙を各重ね、その上から墨でなすつて右便箋上に、「七十万円ダセ二十八日ヨル十ジカラ十一ジマデトナリカドノ台ノ中ニオケサツニシラストトニーナリ」と表出しこれを白色二重封筒に入れ、その上を他の便箋一枚で覆い、宛名も右同様方法で墨で「トダ」と表出して、戸田宛の脅迫状一通(昭和三十一年裁領第一三九号の十一)を作成した上、翌二十七日午前九時頃右脅迫状を右戸田方玄関外側附近に置き、その頃これを右桂吾の妻イソヱに入手披見させ、以て同人に対し、もし右要求に応じなければ、同人の長女節子(当時三年)を誘拐する旨の害悪を告知して脅迫したものである。

(証拠略)

被告人は本件につき当公廷において終始犯行を否認し、司法警察職員及び検察官に対してなした自白はすべて強制によるものと主張し、その任意性を争うが、当裁判所の取調べたすべての証拠に徴しても未だ取調官の強制その他任意性を疑わしめるに足る事由を見出しえず、右自白は証拠能力があるものと解せざるをえない。

よつて以下に、被告人の右自白は(細部においては多少事実とそごする部分もあるが)慨ね真実と認められ、被告人の否認弁解はとうてい信用し難いゆえんを証拠に基いて説明しよう(以下単に日のみを以て示すのは、すべて昭和三十年十二月のそれを指すものとする)。

先ず本件脅迫状の作成手段について証拠を検討するに、本件発生当日の二十七日被告人方の屑籠及び土間から前掲証第十四号(即ち昭和三十一年裁領第一三九号の十四、以下各その領置番号に右同様各証の字を冠し、証第何号或は証第何号の一、二等と略記する。)第十五号の四、第十七号等が発見押収されているが、右証第十四号の千日前大劇名入り紙片大小二枚中、大きい方の一片には墨で「七十万円ダセ」と書かれているところこの文字と本件脅迫状(証第十一号)の冒頭に書かれている同様の文字とを比べてみると、その大きさ、形態、構成、筆致、前後の間隔等において寸分異らないものと認められ、これと前記証第十五号の四、第十七号の存在を綜合すると、本件脅迫状は筆跡をくらませるため、あらかじめ別の紙に脅迫文言を毛筆で書いて、その文字の部分を鋏で切り抜き(証第十五号の四、証第十七号はこの際出来た切り屑と認められる)、これを便箋の上に重ね、その上を墨でなでて、下の便箋にその文字を浮き出させる方法によつて作成したものと認めざるをえない。

次に本件発生前夜の被告人の行動を見るに、第三、第四回各公判調書中証人桑原丈三の供述記載及び同証人の第二十三回公判における供述によれば、二十六日午後十時頃丈三が帰宅した際被告人は炊事場北側の二畳の間に坐つて歌舞伎座のパンフレットを鋏で切つていたことが認められる。

第三に本件脅迫状が戸田方において発見されるに至つた前後の事情を見るに、証人戸田イソヱ、同中須賀サト子の第二十八回公判における各供述及び戸田イソヱの司法巡査に対する供述調書中、第一ないし第三項並びに裁判所の検証調書を綜合すると(1)戸田イソヱは当日午前七時頃玄関の雨戸をはずして玄関西側の戸袋へ入れた、(2)午前八時三十分頃洋裁見習の中須賀サト子が戸田方へ出勤してきた、(3)午前九時頃被告人が戸田方へ来て「今日は警察へ行かねばならない」と話して帰つていつた、(4)その直後に戸田は被告人方へ行つて、ソバを買つて帰つた、(5)再び被告人が戸田方へ来て「奥さん、今日は暖いから防寒コートはいりませんね。」と言つて帰つていつた、(6)その直後に戸田の長女節子が玄関の硝子戸を開けたところ、玄関外側の西隅に本件脅迫状が落ちているのを発見した、(7)戸田一家がこれを見て驚愕しているところへ、また被告人が来た(以上いずれも戸田方玄関を出入りしている)ものと認められる。

以上の諸点を明らかにした上で、被告人の弁解について考察を加えよう。

本件に関する被告人の弁解は、公判審理終結時において要約すれば、大要次の如くである。即ち、二十六日午後九時頃被告人方へ見知らぬ女が石けんとちり紙を買いに来て、その際便箋と封筒をも求めたので、被告人は自宅にあつた便箋の使い残り全部と封筒一枚とを交付したが、同女と入れ違いに今度は短いオーバーを着て、白い大きなマスクをつけ、縁の太いメガネをかけた年令三十才前後の見知らぬ男が来て、キャラメルを注文したので、被告人がこれを包装していたところ、同人は無断で被告人方へ上りこむや、いきなり被告人の首に紐をかけて引張り、二畳の間へ坐らせ、「このガキ」と言いながら、手を被告人の内股へ入れて何回もつめつたり、紐で首をしめたりして、紙に言うとおり書け、と強要し、被告人は同人のオーバーの上からかみついて抵抗したが(その際義歯が破損した)、遂に抵抗の気力を失い、やむなく同人の言うままに歌舞伎座のパンフレットに何かを書いたように思う。それからその男は自ら筆をとつて便箋に何か書いて帰つたように思うが、はつきりわからない。この男はさきに同月七日頃の夜、被告人方の近所に住む伊藤良子を、その帰途被告人方前附近まで尾行してきた男のようにも思われる、というのである。

しかしながら(一)右弁解は甚だ奇怪なもので、かなりあいまいな点があるばかりでなく、例えば第一回公判の冒頭手続においては、「男に強制されて、同人の言うままに本件脅迫状を書いた」と陳述したが、その後は前記のように、「男の言うままにパンフレットに何か文字を書いたが、本件脅迫状を書いた記憶はない。男が自ら書いて出て行つたように思う」旨述べており、又第十七回及び第十九回公判では、「男はオーバーのポケットから便箋様の白い紙を出し、これに言う通り書けと言つた」旨述べたが、第二十一回公判に至り突如として「男はポケットからハトロン紙に文字を書いたものを出して示した。ポケットから出した紙は前後二枚である。」旨新たに供述をしている如くその供述は前後むじゆんし、首尾一貫しない点も多い。

(二)証拠を検討するに、なるほど第七回公判調書中証人伊藤良子の供述記載によれば、本件発生前である同月七日頃の午後十時頃前記伊藤が帰宅の途中怪しい男に尾行されて被告人方に逃げこんできたが、その男はなおもしばらく被告人方の戸外を徘徊していたので、被告人は同女の両親を迎えに行つたという事件のあつたことが認められ、このことから、右伊藤を尾行した男が、同女をかくまつた被告人に対し恨みを抱いたということは考えられないではない。しかし被告人所論の奇怪な男の行動は、その動機が被告人に対するいたずら若しくは怨恨に出でたものとするには、あまりにも突飛であり、常識では考えられない不自然極まる行動という外なく、他方、何らかの理由により戸田に対し怨恨を抱き、もしくはいたずらを企図した者の所為とするならば、何故わざわざ戸田の隣家である被告人方において、被告人に暴行脅迫を加えて戸田宛の脅迫状を書かせ、もしくは自らこれを書くが如き迂遠にして奇態な方法をとる必要があつたのか全く不可解であり、いずれにしてもその意図を合理的に説明することは不可能である。

(三)のみならず、本件脅迫状はかなり複雑な作為を弄して作成されたものと認むべきこと前述の如くであつて、相当長時間の技巧を要すると思われるが、被告人所論の男が、何時家人の現われるかわからない他人の家で、悠々と脅迫状作成に没頭していたものとはとうてい考え難く、

(四)殊に被告人が午後十時頃帰宅した息子の丈三に対してすらこの男のことに関し一言半句も漏らしていない(証人桑原丈三の供述)ことは、たとえ丈三が極めて神経質で、平素から被告人と融和を欠いていたにしても、少くとも親子の間柄である限り、全くありうべからざることで、所論の男の実在性に対し最大の疑問を投ずる点というべきである。

(五)又本件脅迫が右の男の所為とするならば、この男は同夜被告人方で脅迫状を作成した後直ちにこれを戸田方の然るべき場所へ置いたものと考えるのが(被告人方と戸田方とは隣り合わせである点に鑑み)最も合理的であるが、翌二十七日朝戸田イソヱ及び中須賀サト子が戸田方玄関を出入りした時には、いずれも脅迫状を見出すに至らなかつたこと前認定の如くであり、この点も所論の男の実在を否定する一資料たりえよう。(この点につき、弁護人は、戸田方玄関鴨居の上に脅迫状の置かれていた可能性を主張するものの如くであるが、脅迫状は名宛人をして容易に発見しうる状態に置かなければその目的を達しえないものであるから、通常物を置かない鴨居の上にこれを置いておくようなことは考えられない)。

もつとも、第七回公判調書中証人村添ソメ子の供述記載及び同証人の第二十四回公判における供述、証人川崎達郎の第二十六回公判における供述、第十三回公判調書中証人羽端楢義の供述記載、証人桑原丈三の第二十三回公判における供述、並びに押収の上顎義歯一個(証第二十五号)の存在等を綜合すると、被告人が逮捕された二十七日の午後十時頃布施警察署の留置場において、同房の村添ソメ子は被告人の眼が充血し、かつ被告人の首の横側と内股とに傷があるのを目撃しており、又当時被告人の上顎義歯に亀裂を生じていたことを認めうるが、右のうち眼の充血していたことは、被告人が前夜来の寝不足と、布施警察署において同日午前中から引続き取調べをうけたことに基因するものと推認され、義歯の亀裂の点は二十六日以前からすでに亀裂を生じていたものと窺われる節が多分に存し(証人桑原丈三の供述参照)、又、首と内股の傷はいかなる原因によつて生じたものか明らかではないが、被告人が二十七日の午後二時頃食事のため取調べの途中で一旦帰宅した(第十四回公判調書中証人内村末義に対する尋問並びに供述速記録参照)際自宅で用便にも行つたから、その際自傷したか、或いはその帰宅中、もしくはそれ以前の何らかの機会に生傷したものと考えることも強ち不可能ではないから、かかる事実のみをもつてしては未だ所論の奇怪な男の存在を肯定するに足りない。

次に鑑定人米田米吉作成の鑑定書によれば、本件脅迫状(証第十一号)の各文字と、公判廷で採取した被告人の自筆にかかる証第二十二号の各文字との筆跡の同一性について、明確な判断は困難であるとされているが、右脅迫状はことさら筆跡をくらませるため前認定のような方法によつて作成されたものと認められる以上、筆跡の同一性を判定しえないことはむしろ当然であり、又、右鑑定書によれば、二十七日に被告人方屑籠から押収された紙片のうち、ハトロン紙に文字を記載したもの四片(証第十五号の一)及び被告人が自宅炊事場から発見したものとして提出した茶色包装紙紙片鉛筆書(証第十九号)に各記載されている文字と、右同様被告人の自筆にかかる証第二十三号、第二十四号の各文字との筆跡の同一性は、明確に断定し難いが否定しうるものと推定する旨の鑑定結果が示されているが、筆跡鑑定の確実性は、殊に本件の如くその目的のために筆跡を採取したような場合においては必ずしも絶対視しうるものではなく、作為の可能性を黙過しえない(右鑑定書に示された筆跡の異同についての鑑定所見を参酌して、右証第十五号の一及び第十九号の文字と、被告人自筆にかかる弁護人宛の文書(第二十八回公判において提出されたもの)中の同一文字とを対照してみると、例えば右文書中の「戸」「ル」「中」等の文字の如きは、証第二十三号、第二十四号よりもむしろ証第十五号の一、第十九号のそれに近似するものの如く、又右文書中の「田」の如きは証第十五号の一、第二十三号のいずれとも全く相違する筆跡のように思われる)から、右証第十五号の一、第十九号の存在も本件について否定的作用を及ぼすものとは解し難い。

その他被告人は、翌三十一年初頃被告人の警察等における供述調書の内容を知つている五十才位の男が二回来たとか、或いは同年三月頃の夜盗難にあつたが、この時の犯人が二十六日に来た男のように思われたとか、縷々主張するのであるが、諸般の証拠に照らし、かかる事実の存在は極めて疑わしく、又たとえ所論盗難等の事実があつたにしても、それが直接被告人の弁解を裏付ける資料となりうるとは考え難い。

以上のとおり被告人の弁解をあらゆる角度から検討してみてもこれにつき、経験則に照らし合理的に考えて首肯しうべき理由を見出しえず、右弁解は到底信用するに由ないものであると言わねばならない。かえつてこの証拠説明の冒頭に記載したように、二十七日被告人方に証第十四号、第十五号の四、第十七号等の紙片が多数存在していた点、被告人の二十六日夜の挙動、二十七日朝戸田方において本件脅迫状を発見するに至つた前後の経緯等の諸点を綜合すると、本件の犯人はまさに被告人自身に外ならないものと認定せざるをえないのである。

なお、本件に関連して、当裁判所が検察官の申請に基き、第二十二回公判において証第十五号の二のハトロン紙片九片を排除した事由について一言する。

右証第十五号の二は、第二十回公判において、被告人が領置番号分割以前の証第十五号中に存在したものとして指摘したので当裁判所はこの時始めてその存在を認識したのである(これを継ぎあわせると、「桑原婆」「十二月七日夜十時」「忘れたか」「焼き払うぞ、さつへぶち込むぞ」の文言を読みとることができる)。しかして元来証第十五号は、昭和三十年十二月二十七日被告人方において、「右同篭(即ち屑籠の意)の中の切抜き様の紙片若干」なる品目及び員数の標示をもつて桑原容子が任意提出し、司法巡査内村末義がこれを領置し(同人ら各作成名義の同日付任意提出書及び領置調書参照)、本件第一回公判において検察官から右同様の品目及び員数の標示をもつて証拠申請され、当裁判所はこれを領置したもので、(第一回公判調書添付の証拠標目書及び領置目録参照)、右標示からは、右ハトロン紙片九片が当初から証第十五号中に存在したか否かは詳らかにすることができない。しかしながら、当裁判所はさきに第九回公判において弁護人から証第十五号中のハトロン紙片に書かれた文字について筆跡鑑定の申請があつたので、合議の上右第十五号証中文字の書かれている紙片全部について鑑定をなすこととし、第十回公判において鑑定人米田米吉に対し、公判廷で被告人に同様文字を自筆せしめた証第二十三号と共にこれを交付して鑑定を命じたのであるが、その当時証第十五号中、文字の記載ある紙片は「戸」「田」「ル」「谷」の四片(即ち証第十五号の一)のみであつて、証第十五号の二の如きは存在しなかつた(鑑定人米田米吉作成の鑑定書参照)。従つて、右証第十五号の二はいかなる機会に本件証拠物中に混入したかは不明であるけれども、当裁判所は右第九、第十回公判当時本件公判に出席した検察官藤川健、及び証第十五号を被告人方で領置する職務に従事した前記司法巡査内村末義を証人尋問し、その供述を参酌した上、右証第十五号の二は検察官申請の証拠物たる証第十五号中には存在しなかつたものと認定して、これを排除する決定をした次第である。

法律に照らすと、被告人の判示戸田イソヱを脅迫した所為は刑法第二百二十二条第二項、第一項、罰金等臨時措置法第二条、第三条に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で被告人を懲役四月に処し、情状により刑法第二十五条第一項に従い、この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予し、押収にかかる脅迫状一通(昭和三十一年裁領第一三九号の十一)は本件犯罪行為を組成した物で、被告人以外の者の所有に属さないから、同法第十九条第一項第一号、第二項によりこれを没収し、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文に従い、主文第四項掲記のとおり被告人にこれを負担させることとする。

(一部無罪の理由)

一、本件公訴事実中、各放火未遂の点の要旨は、

「被告人は、

(一)  昭和三十年十二月十一日午前一時頃、前記自宅の玄関格子戸外側に紙屑、鉋屑等を入れた空炭俵一個を置き、この中に点火した巻煙草を投げ入れて火を放ち、自己及び長男丈三の居住する右自宅を焼燬しようとしたが、右炭俵が燃え上つた際、丈三に消し止められ、右格子戸一枚及び柱の一部を燻焼したにとどまり、焼燬の目的を遂げず(訴因一の事実)

(二)  同月十六日午後六時頃被告人方から東へ二戸目の向井弘方居宅台所の軒下に置いてあつたごみ箱に点火した巻煙草を新聞紙及び布切れに包んで投げ入れて火を放ち、同人及びその妻恵美子外一名の現住する右向井方家屋を焼燬しようとしたが、右恵美子がごみ箱内より焔の出ているのを発見し、直ちに消し止めたため、焼燬の目的を遂げなかつた(訴因二の事実)

ものである。」

というのである。

二、よつて証拠を検討すると、

(一)  被告人の当公廷における供述、第三回公判調書中証人桑原丈三の供述記載、及び司法警察員作成の昭和三十年十二月十一日付実況見分調書等によれば、同月十一日午前一時頃布施市荒川町三丁目八十五番地木造瓦葺平家四戸建長屋一棟(西から順に被告人方、戸田方、向井方、大崎方)のうち、西端の被告人方居宅の玄関硝子格子戸外側から出火し、丈三がこれを消し止めたため、右格子戸のうち東側の一枚及びその東側の柱の各一部等を燻焼したにとどまつたが、右現場から焼けた炭俵(証第二号)同アルミ製弁当箱の蓋一個(証第三号)、同かんな屑(木片を含む、証第四号)、同ぼろ布切れ(証第五号)が発見押収されたことが認められる。しかして、かかる状況から、右出火は何者かが被告人方玄関の硝子格子戸外側東隅附近にかんな屑等を入れた炭俵を立てかけ、これに点火して放火したことによるものと推認することができる。

(二)  被告人の当公廷における供述、第四回公判調書中証人向井恵美子の供述記載、証人大崎敏子の証人尋問調書、及び司法警察員作成の昭和三十年十二月十六日付実況見分調書等によれば、同月十六日午後六時前頃被告人方から東へ二戸目の向井大二方居宅台所前軒下のごみ箱内から出火し、恵美子がこれを消し止めたが、右ごみ箱内からアルミ製菓子瓶の蓋一個(証第七号)、御召布切れの焼け残り一片(証第八号)が発見押収されたことを認めうる。そして右各証拠から本件もまた何者かの放火行為によるものであることが明らかである。

そこで進んで、右(一)(二)の各放火未遂の犯人が果して被告人であるかどうかの点を次に究明しなければならない。ところで被告人は、前記脅迫事件の発生当日である同月二十七日布施警察署において任意捜査による取調べを受けて、先ず前記脅迫の点を自白したのに引続き、本件各放火未遂の点についても犯行を自白し、同夜逮捕された。そして翌日一たんこれを飜したこともあつたが、爾後起訴に至るまで大体右自白を維持し、その間右二件の放火未遂の点に関する被告人の自白を録取した書面として、(1)司法警察員に対する昭和三十年十二月二十七日付第一回供述調書(「第一回警」と略称する。以下同様)、(2)司法警察員に対する同月二十八日付第二回供述調書、(3)司法警察員に対する同月三十日付第三回供述調書、(4)司法巡査に対する昭和三十一年一月三日付第四回供述調書、(5)司法警察員に対する同月六日付第六回供述調書、(6)検察官に対する同月十日付供述調書(「第一回検」と略称する。以下同様)、(7)検察官に対する同月十一日付第二回供述調書が各作成された。しかるに被告人は当公廷においては冒頭からその犯行を全面的に否認して今日に至つている。

被告人及び弁護人は、右自白の任意性を争うが、その任意性を疑いえないことは、さきに有罪理由中において脅迫事件の自白のそれに関し説示したところと同様である。

よつて以下に順次右各訴因につき、情況証拠を綜合し、かつ右自白の信憑性に検討を加えつつ、判断を進めよう。(以下単に日のみを以て示すのは、すべて昭和三十年十二月のそれを指すものとする。)

三、訴因一について、

被告人の前記各供述調書において、本件犯行の動機を形成したものとされている被告人の家庭状況及び生活環境は、さきに脅迫事件の有罪理由中において認定したところと同一であり、従つてこの点に関する限り被告人の各供述調書に疑いを容れる余地はない。

次に出火前後における被告人の行動を見ると、第十六、第十八回各公判調書中被告人の供述記載、第三、第四回各公判調書中証人桑原丈三の供述記載、及び証人奥田益次の証人尋問調書を綜合すると、被告人は十日の夜十時頃近所の銭湯へ行き、帰つて来てから玩具の内職をしていたが、柱時計が止つていたので、翌朝の丈三の出勤に支障を来たしてはならないと考え、丈三に時計をかけるように頼んだところ、同人は面倒がつてこれを聞かず、いつものように被告人に対し不満を並べてそのまま就寝したこと、それで被告人は自宅西方約二十米のところにある近鉄布施三号踏切警所へ時間を聞きに行き、同警手奥田益次から午前零時二十九分と聞いて帰宅し、神経痛の痛みに耐えながら柱時計を調整したこと、その後被告人は自宅奥六畳の間に丈三と枕を並べて就寝したが、程なく午前一時頃自ら出火を発見してろうばいし、先ず東隣の戸田を壁越しに呼び起し、次いで丈三をゆり起し、丈三が玄関からとび出して消火したことを認めることができる。そしてこれらの点に関する被告人の各供述調書の記載は右認定と全く符合している。

しかして被告人は右各供述調書において放火方法につき、炭屋が配達してきた炭俵にかんな屑、紙屑や弁当箱の蓋等を入れ、これを玄関先東隅に置き、この中に火をつけた煙草を古新聞紙に包んで投げ入れた旨自白しているところ、右現場から焼けた炭俵(証第二号)、同かんな屑(証第四号)、同アルミ製弁当箱の蓋(証第三号)等が発見されたことは前述のとおりであつて、しかも右弁当箱の蓋は嘗て被告人方の飼猫の餌入れに使用していたもので、同年十一月中に右飼猫が行方不明となつてからもそのまま被告人方にあつたものであること、又同年十二月初頃被告人が薪炭商永井ヤヱ方から木炭等を買つた際、同人が木炭等若干を古炭俵に入れて被告人方に配達し、この古炭俵もそのまま被告人方に置いて行つたことは、いずれも被告人が当公廷においても自認するところであり、証人桑原丈三(第三回公判)、同永井ヤヱ(第十一回公判)もまたそれぞれ右に符合する証言をしている。

従つて以上のような諸点を併せ考えると、被告人の自白はまさに信用して然るべきが如くであるが、更に証拠を仔細に検討すると、次のような重大な疑問に逢着するのである。

即ち、(一)被告人の前記各供述調書によれば、(1)炭俵について被告人の第一回警及び第一回検では、「午前零時三十分頃放火を決意してから裏庭の便所の横に置いてあつた空炭俵を、寝ている丈三の枕もとを通つて玄関先へ運び出した。」と述べているのに、第三回警及び第六回警では、「前夜午後十時頃裏庭に置いていた空炭俵を、明朝焚火でもしようと思つて玄関先東隅へ運んだ。」と述べており、又(2)放火の用に供した煙草及び新聞紙について、第一回警では、「火鉢の中でくすぼつていた丈三の煙草の吹殻を一口吸つて火をつけ、土間にあつた新聞紙の反古に包んだ。」旨述べているのに対し、第三回警では、「炊事場の水屋の抽出にあつた煙草に火鉢で火をつけ、炊事場のガス台の下にある屑籠の中から新聞紙をとり出してその上にのせた。」旨その供述を変更しているのであるが、かような重要な点につき被告人に思い違いがあつたものとは到底考えられないから、取調毎にその供述の変つていることは、被告人の自白を真実なものと認める前提に立つ限り、その説明に苦しむところと言わざるをえない。

しかのみならず、(二)第八回公判調書中証人岡村春蔵の供述記載によれば、同人は建具製造販売業を営む者であるが、十日頃被告人方から前記踏切をはさんで西方にある同証人方において、かんな屑等の搬出用として戸外に置いていた炭俵三個のうち一個が紛失したこと、しかも本件出火現場にあつた焼残りかんな屑及びこれに混つていた木片(いずれも証第四号)は、その材質、形状等に照らし、同人方でできたものと認められることが明らかであるから、右焼残り炭俵が被告人の自白する如く永井ヤヱの配達にかかるものであつたとはたやすく断定し難い。

殊にかんな屑について、被告人の第四回警には、「自宅の横の広場に捨ててあつたかんな屑を拾つてきて、猫の寝床に入れていた。」旨の供述記載があるが、岡村がかんな屑の捨場にしていた同人方東側広場からかなり離れていると認められる被告人方の横の広場に、岡村方の前記かんな屑が存在していたというのは不可解であるばかりでなく、証人大崎敏子の証人尋問調書中には、「被告人は猫を肌に抱いて寝るほど可愛がつており、かんな屑の上に寝かせるようなことはしてなかつたと思う。」旨の供述記載があり、その他被告人方においてかんな屑を燃料等にしていたことを窺うに足る証拠もないから、当時被告人方にかんな屑が存在していたこと自体もかなり疑わしい事実であるといわねばならない。

次に、(三)司法警察員伊藤忠郎作成の昭和三十年十二月十一日付実況見分調書及び同人作成の同日付領置調書を綜合すると、右出火直後に現場においてマッチの使用済み軸木六本(証第一号)が発見領置されていることが明らかであり大阪府警察本部刑事部鑑識課技師西本一二作成の鑑定書化学第三二一号によれば、右マッチ軸木は、「缶詰はひがさ」印マッチと同一木材質であることが認められ、第五回公判調書中証人桑原容子の供述記載、証人大崎敏子の証人尋問調書等により、被告人方で日常使用していると認められる「ABC」印マッチとの同質性は明らかでないけれども、被告人の自白における放火手段は、火鉢の火で点火した煙草によるものであつて、マッチ使用に関する供述は全然見当らないのであるから、少くとも右マッチの使用済み軸木が(それがいかなる種類のマッチであれ)現場に遣留されていたという状況は、前記(二)の炭俵等に関し認定した事実と相俟つて、被告人以外の外部の者の犯行を疑わしめるに十分であつて、(証人奥田益次の証人尋問調書によると、出火直前の午前零時四十一分頃前記踏切を東側から西側へ走つて横断した青年のあつたことが認められるが、その時間的場所的関係と、右(二)及び(三)記載の状況を併せ考えると、これを単なる通行人にすぎないと断定するにはなお若干の疑念なきをえないのである。)、前記被告人の自白の真実性に重大な疑問を投ずるものというべきである。

更に、(四)前記実況見分調書添付写真によれば、出火当時焼け落ちた炭俵の上に焼けた塵取りが乗つており、又石炭箱の四隅に足をつけて作つた商品陳列台と思われる木箱が、足を上にして転倒している(裁判所の検証調書添付写真第二号と対比せよ。)等のかなり異状な状況にあつたことが看取されるが、被告人がことさらに右のような特異な配置状況をこしらえて放火したものであるならば、この点に関する何らかの説明があつて然るべきものと思われるにもかかわらず、被告人の前記各供述調書を通じ、塵取りの点については第六回警に至りようやく、炭俵の上に塵取りを置いた旨供述するのみであつて、木箱については、第六回警で、「木箱を炭俵の南側にひつつけて置いた。」と述べているのみで、これを転倒させたことに関する供述は全然存しないのである。

以上詳細な検討を加えたところから明らかなように、被告人の自白に副わず、或いはこれとむじゆんする証拠が二、三にとどまらないのであつて、これらの諸点に関する疑問が氷解しない限り、被告人の上記自白の真実性をたやすく肯定することはできない。そして右自白を除いては、本件が被告人の所為であることを証明するに足る証拠は存しないのである。

四、訴因二について

先ず、本件の出火前後における被告人の行動を検討しよう。第四回公判調書中証人向井恵美子の供述記載、証人大崎敏子、同中須賀サト子に対する各証人尋問調書、第九回公判調書中証人宇野園子の供述記載等を綜合すると、被告人は本件出火直前の十六日午後五時三十分頃から、いつものように前記四戸建長屋の軒下を通つている溝を西端の被告人方前より東へ向つて掃除したが、その際向井方前軒下の板囲い内(前記ごみ箱の置いてある場所)へ、平素は一応向井方家人に声をかけた上立ち入るのに、この日は黙つて立ち入つたこと、この掃除中に近所の子供である宇野園子が被告人方へ菓子を買いにきたので、被告人は自宅へ立ち戻つたこと、出火直後被害者の向井恵美子が表へとび出して消火した時、被告人は自宅前路上に立ち、近鉄の線路の方を向いていたが、やがて、向井が東隣の大崎敏子らとごみ箱の中を検査していたとき、「なんですか。」と言いながら向井らの方へ近寄つてきて、ごみ箱内の焼けたアルミ製菓子瓶の蓋(証第七号)、及び御召布切れ焼残り(証第八号)を見て、卒直にこれらはいずれも被告人方のもので、自宅の前に捨てていたものである旨申し立てたことが認められる。

そして右御召布切れ焼残りが、被告人方奥六畳の間にあつた御召布切れ(証第十号)及び被告人方前道路の向い側から発見された御召布切れ(証第九号)と共布で、被告人方のものであることは、被告人が当公廷でも自認しており、又右焼残り菓子瓶の蓋については、被告人は当公廷において、被告人方の菓子瓶の蓋にはすべてその裏に以前用いていた商号の印を書き入れてあるところ、被告人が当時捨てた筈の印のある蓋は、翌三十一年三月頃自宅前道路向い側の下水から泥にまみれて発見され(証第二十号、第二十一号参照)、他方右焼残りの蓋には○印がないから、これは被告人方のものではない旨弁疎するのであるが、被告人方の店に置いてある菓子瓶の蓋の中にも印のないもののあることは、当裁判所の検証調書から明らかであるから、右焼残りの蓋に印がないことを以て、直ちにこれは被告人方のものでないと断ずべきではなく、むしろその材質、形状等からすれば、被告人方のものに外ならないと認めるのが相当である。

以上のような事情を綜合すると、本件に関する被告人の自白には証拠上かなり裏付けがあることは否定できない。しかしながら、更に証拠を精査すると、本件についてもやはり次のような諸点に疑問を生ずるものである。

即ち、(一)犯行の動機について、被告人の前記各供述調書には、前記のような被告人の家庭生活上の悩みがその遠因をなしているものとされているほか、被告人が向井大二に対して怨恨を抱いていたことが挙げられている。これによると、被告人は前記訴因一記載の自宅の火災 により火災保険金の給付をうけたことに関し、右向井から焼け太りと誹謗されたが、さきに昭和二十九年春頃被告人ら四戸建長屋の居住者が、家屋問題についてその売主との間に紛争を生じた際にも、右向井から被告人が同人らと同一行動をとらなかつたことを非難されたことがあり、それ以来同人を快く思つていなかつた折とて、同人に対する反感をつのらせたというのである。しかし、第四回公判調書中証人向井恵美子の供述記載、第九回及び第十六回各公判調書中被告人の供述記載によれば、被告人を焼け太りと誹謗したのは向井ではなく、近所の宇野夫人であることが明らかであり、被告人がこれを向井の言と誤解したような事情も見当らず、又前記家屋に関する紛争が生じた際に、向井との間に所論のような意見の対立による感情のもつれがあつたにしても、それが一年半以上経過した本件出火当時まで尾をひいて、本件放火の動機形成の一因をなしたものと断ずるのはいささか早計に過ぎ、他に被告人をして向井に対し怨恨を抱かしめるべき特段の事情も認められない。

次に、(二)被告人の前記各供述調書の内容を検討すると、(1)放火の用に供した煙草及び反古紙について、第一回警では、「飯台の上にあつた新品の煙草一本に火をつけ、店先にあつた反古紙に包んだ。」旨述べているのに、第二回警では、「吸いのこりの煙草(長さ約五、六糎)に火をつけ、紙屑籠の中の新聞紙の反古紙にのせるように包んだ。」とくいちがう供述をしており、又(2)放火方法について、第一回警、第二回警、第一回検では、いずれも「火をつけた煙草を新聞紙に包んで菓子瓶の蓋の上にのせ、更にその上を御召布切れで覆つて、これをごみ箱内に投げ入れた。」と述べているのに反し、第六回警では、「右のような方法では燃えそうになかつたので、側のカンナの花の根元に落ちていた宣伝マッチ一個を拾い、その中に入つていた軸木二本のうち一本を用いて火をつけ、右新聞紙に点火した。」旨全く異つた供述をしており、特に後者の如き、実行行為中の最も重要な点について何故に全然相反する供述がなされたものか全く理解することができず、かかる供述調書相互間のむじゆんは単なる記憶の混乱等として無視し去るにはあまりにも重大であるから、ひいては右供述調書全体の信憑性をも甚だしく動揺させるものといわざるをえない。更に、(三)ごみ箱内から見出だされた菓子瓶の蓋及び御召布切れの焼残りは、いずれも被告人方のものであり、かつ、被告人は現場においてその旨を自ら申し立てていることは前認定のとおりであるが、かりに被告人が犯人であるとする前提に立つならば、右のような被告人の言動は、自己が犯人であることを半ば告白するに等しいものであつて、通常の犯罪者の心理としては、むしろ不可解な言動と思われる。もつともこの点については、被告人が極めて単純かつ幼稚な考えしか持ちあわせていなかつたものか、もしくは逆に、周到かつ狡猾な思慮をめぐらし、通常人の考えるであろうところの裏をかくことによつて、かえつて人々の眼を欺こうとしたものとも考えられないではないが、本件審理の全過程を通じ、未だ右のような推測を合理的に裏付けるに足るほどの資料を見出だしえないのである。

(四)その他、司法警察員作成の昭和三十年十二月十六日付実況見分調書によれば、右ごみ箱内にマッチ焼残り軸木数本の散乱していたことが認められる点(この点は訴因一の現場におけるマッチ軸木の存在とかなり類似性あることを否定し難い。)、第四回公判調書中証人向井恵美子の供述記載によれば、右ごみ箱内の焼跡からさらさらした油のような臭いがしたという点(大阪府警察本部刑事部鑑識課技師西本一二作成の鑑定書化学第三二六号には、焼残り布切れに油分の附着を認めえないという鑑定結果が示されているが、出火の一日後たる十七日から二十一日までの間に行われた鑑定において右の結果をえたとしても、向井の右認識をあながち感違いとはいいきれない。)等はいずれも被告人の自白に副わない情況証拠に数えることができよう。

以上検討した諸点を綜合すると、一面において本件につき被告人に対する相当高度の嫌疑は払拭しえないものではあるが、反面被告人の自白自体のむじゆんや、これとそごする証拠も少なからず、これに加えて、その手段等において本件と同一犯人の所為を思わせる訴因一の放火未遂について被告人の犯行と認めるに足る確証をえない点、及び昭和三十年末から同三十一年にわたり布施市内において本件類似の放火事件の頻発していることが窺われる点(第十五回公判調書中証人伊藤忠郎の供述記載)等を併せ考えると、被告人の自白には必ずしも十分の信を措き難く、他に被告人を本件の犯人と認めるに足る確証は存しない。

五、なお、右二件の放火未遂と前記脅迫事件との関係について一言しよう。

これらはほぼ日を接して、隣り合う三戸に発生した事件である点において、同一犯人の犯行たることを推測しうるが如くであるが、放火未遂と脅迫とはその罪質を異にするのみならず、本件犯行の手口において、前者はいずれも比較的単純かつ幼稚であるに反し、後者はかなり複雑な技巧を弄していると認められるように、若干の差異あることを看取しうるから、両者は別個の犯人の所為である可能性もないわけではなく、従つて証拠の綜合判断により、両者につき別異の判断を与えることもあながら不合理ではないといわなければならない。

六、以上説示のとおり、昭和三十年十二月十一日の被告人方における放火未遂及び同月十六日の向井方における放火未遂は、いずれも犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法第三百三十六条に則り、被告人に対し、右二件の放火未遂の点については各無罪を言渡すこととする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 西尾貢一 藤井正雄 家村繁治)

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