大阪地方裁判所 昭和32年(ワ)392号 判決 1964年2月03日
原告 小谷利栄
右訴訟代理人弁護士 鍋島友三郎
同 村林隆一
被告 中島彰
右訴訟代理人弁護士 色川幸太郎
同 林藤之輔
同 中川晴久
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一、当事者双方の申立
一、原告 「被告は原告に対し金九十万円を支払え、訴訟費用は被告の負担とする」との判決と仮執行の宣言を求めた。
二、被告 主文同旨の判決を求めた。
≪以下省略≫
理由
一、被告が耳鼻咽喉科の開業医であること並びに被告が原告を診察し、原告主張の各日時に、原告の鼻部の手術をしたことは、いずれも当事者間に争がないところ、≪証拠省略≫を総合すると、被告が原告を診察し、右の手術をした経過としては被告は昭和二十九年三月六日、原告を初めて診察し、原告の主訴並びに診察の結果、原告の疾患を増殖性肥厚性鼻炎並びに慢性咽頭炎と診断し、慢性咽頭炎については、初診時以降ルゴール塗布の処置を講じ、増殖性肥厚性鼻炎については、当初二週間の間、肥厚部分について洗滌、コカイン液、アドレナリン液、プロタルゴールの塗布等保存的治療を行つたが、急性もしくは単純性鼻炎とは異り、肥厚部分が収縮せず、症状が改まらず、下甲介の腫脹肥厚が左全体と右の前端部において顕著に認められたので、左右同時に切除する場合は、中耳炎を併発する危険があるため、昭和二十九年三月二十日第一回の手術として、左下甲介粘膜切除を、次いで同年四月十三日第二回の手術として右下甲介前端部粘膜切除を施したこと。その後同年九月一日、原告が再び右鼻閉塞の症状を訴えてきたので、診察したところ、左下甲介の後端部に腫脹肥厚が認められたので、前二回同様保存的治療を行つたが症状が改まらなかつたので、同月十六日、この部分についても切除手術を行つたものであること等、すべて被告が、答弁として、(診断並びに手術の内容)の項で主張する事実を認めることができ右認定に反する原告本人の供述部分は、前記各証拠と対比して信用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
二、そこで被告の処置に過失があつたか否かを検討する。
(イ) 原告は、肥厚性鼻炎の治療として、被告が、右に認定したような下甲介切除の手術をすることは近代医学上容認されていないところであつて医学上の常識に反する過失である旨主張するので先ずこの点から判断するに≪証拠省略≫を総合すると、肥厚性鼻炎の治療として、下甲介切除手術をすることは近代臨床医学上、広く認められた治療方法であることが認められ、右認定に反する証拠はないから、原告の右主張は失当である。
(ロ) 原告は次に被告が肥厚性鼻炎についてその原因である全身的発育不全の除去、即ち全身の強壮を計る方法をとらなかつたことは過失であると主張するが、前記鑑定人山本馨の鑑定書にはこの点につき、「増殖性鼻炎を全身衰弱にその原因を求めることは納得し難いところであり、全身的要因から考えても全身衰弱にある場合、鼻腔の粘膜が肥厚性の肥大を来すとは考えられない」「増殖性肥厚性鼻炎の治療には、全身療法及び局所療法がある。全身療法は、本症発生に関する全身的要因を除去することである。即ち全身的及び局所的抵抗を減弱せしめるような要因を避けるとともに局所に刺激を与えるような原因たとえば、塵埃、煤煙、高温、乾燥、寒冷、湿潤せる空気中の作業及び有害ガスの吸入等を避ける。また過度の喫煙、飲酒を節する。これら全身療法は、消極的であり、その効果も速効的でなく、また著しいものではない。従つてこれのみを以て、治療するとしても軽症のものか、或はこれら刺激に対し一時的に反応する性質のものでない限り治療は補助的なものにすぎない。」「薬物塗布療法その他により収縮、縮少の傾向の少い増殖性肥厚性鼻炎に対しては、手術的療法が適当であり、且つ必要である」との記載があるのであつて、右鑑定の結果からすれば被告が原告に対し、特にその全身の強壮を計る処置をとらなかつたからといつて、増殖性肥厚性鼻炎の治療上、過失があつたものとは解することはできず右判断を左右し得べき資料はない。したがつて原告のこの点に関する主張も失当である。
(ハ) 次に原告は、被告が下甲介腫脹部分を切除すれば足りると考えていたのは、医師としての注意義務に反したものであり、過失がある旨主張する。
しかしながら被告は、既に認定したとおり原告を初診後二週間は、下甲介肥厚部分について洗滌、コカイン液、アドレナリン液、プロタルゴールの塗布等の保存的治療を行つたが、原告の症状が改まらなかつたので、先ず、肥厚部分の広い左下甲介について、第一回手術を行い、その後右下甲介の前端部についても保存的治療を行つてきたが、右側鼻閉塞が消退しなかつたので、この部分について第二回手術を施し、第三回左下甲介後端部切除についても前二回と同様の保存的治療のあと手術を行つているのであつて、被告は単に腫脹部分の切除で足りると考えていたものではないことが明らかである。そしてこのことは前記鑑定人の鑑定書に「乙第一号証の一(被告作成の原告に対するカルテ)に記載されている病名、既往症、主要症状即ち、数ヶ月以前より鼻閉塞、鼻漏(後鼻腔漏)及び咽頭不快感、発赤を有する患者に対し、先ず鼻洗滌その他の薬物対症を試み、これら療法が効果の少ないことを認めたので、下甲介切除術を施行した訳であるが、これらの点に関する被告の使用薬物並びにその使用方法、手術の適応並びに手術前後の処置は、専門医師として当然施行すべき処置であり、注意義務に欠くるところがあつたとは認められない」旨の記載があることによつても証明されるところであり、右認定に反する証拠はない。
(ニ) 以上に判断したとおり被告には、原告の主張するような治療、手術上の過失はない。
のみならず、前記鑑定書は結論として「(一)小谷利栄氏(原告)を昭和三十五年九月九日診察した現症に関しては、鼻腔、咽喉頭腔及び耳に特に病的と認める症状を見ない。(二)一般健康状態も略良好であり、訴状に記載されている廃人状態にあり終には、肺等を侵されて死すべき運命にあるとの如き症状は、何等、これを認めることが出来なかつた、(三)中島彰医師(被告)が当時、小谷利栄氏(原告)に対して行つた医学的治療は専門医師として適正であつたと認められる」と鑑定しているのであつて、右鑑定の結果から見て、被告にはその治療上、何等の過失もなかつたものと認定するに充分である。
尤も、この点に関しては≪証拠省略≫によると原告は、被告から第三回目の下甲介切除手術を受けた後、昭和二十九年九月二十九日浜地耳鼻咽喉科病院において、更に診察を受け同年十月一日医師浜地藤太郎から鼻中隔彎曲矯正並びに下甲介整復の手術を受けたことが認められるが、(原告が、浜地病院において診察、手術を受けたことは当事者間に争がない)この事実からして直ちに被告に治療上の過失があつたため原告が浜地病院において、再度右のような手術を受けるに至つたものと推認するわけにはゆかない。思うに医師の治療は、その性質上、相当高度な専門的知識と技術を必要とするので、その反面において患者に対する診断並びに治療方法について、各医師の間で、微妙な見解の差異を生ずることは、避け得ないところと認められ、また医師に、患者の治療について多少自由裁量の余地を認めなければ、時宜を得た適切妥当な処置を期待し得ないものと解すべきであるから、医師が現代医学の学理に反し、当然とるべき処置をとらず、もしくは、当然とるべからざる処置をとつた等、顕著な治療上の過誤を犯した場合でなければ、医師に対し治療上の過失を原因とする不法行為責任を問い得ないものと解するのが相当である。
今これを本件についてみるに被告は、既に認定したとおり原告を増殖性肥厚性鼻炎並びに慢性咽頭炎と診断し、前者の治療として、下甲介切除手術を実施したものであつて、その診断並びに治療が現代医学上、一般に是認せられたものであり、且つ手術実施上何等の誤りもなかつたことは前記鑑定の結果からだけではなく証人浜地藤太郎の証言からすらも認められるばかりでなく、証人浜地藤太郎の証言によると、医師浜地藤太郎は、原告の主訴する鼻閉塞の原因は、原告の鼻中隔彎曲にあると判断し、その治療としては、被告その他一般多数の医師がとるような下甲介切除の方法よりは、鼻中隔彎曲矯正手術を施す方がより適切であるとの同医師の従来からの知識と経験に基き、前記の如く、原告に対し鼻中隔彎曲矯正手術並びにこれに伴う下甲介整復手術を施したことが明らかであるから、被告と浜地医師の治療方法の差異は要するに、治療についての見解の相違に帰着するものというべく浜地医師が、被告がした手術後、再度、右のような手術をしたからといつて、右事実から、被告の治療上の過失を推認することは、到底許されないものといわなければならない。
以上認定判断したとおりであるから、被告に治療上の過失があるとの原告の主張は到底採用することができない。かりに以上の点を暫くおくとしても、被告の下甲介切除手術を原因として原告がその主張するように病状並びに健康状態が悪化し、損害を蒙つたと認めるに足りる証拠はない。却つて原告が昭和三十五年九月当時、何等特記すべき病状並びに健康状態になかつたことは、前記鑑定の結果から既に認定したとおりであるが更に、≪証拠省略≫によると原告は、昭和三十年六月二十四日、阪大病院耳鼻科において山川教授の診察を受け何等異常がない旨の診断を受けていることが明らかであるから、これらの事実からみて、原告が被告の手術により病状並びに健康状態が悪化し、損害を蒙つたものとは、到底認めることができない。
三、(結論)
以上のとおりであつて、原告の請求は、不法行為の要件を欠き、理由がないこと明らかであるから、原告の本訴請求は、失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 村上明雄)