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大阪地方裁判所 昭和33年(タ)43号・昭39年(タ)58号 判決

以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。

〔判決理由〕一、離婚請求について、≪証拠略≫を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一) 原告と被告は、昭和二八年一一月一四日、大阪市阿倍野区文之里三丁目七二番地の居宅で結婚式を挙げ、昭和二九年四月一四日、原告の氏を称する婚姻届出をなした。そして原告と被告との間に、長男義治(昭和二九年一二月二日生)および長女敏子(昭和三二年二月二七日生)をもうけた。被告は、昭和二六年一月一五日、寺川と結婚したが、同人に女があつたので、結婚後一ケ月足らずで別れた。しかし原告は、被告と婚姻した当時、被告が初婚であると思つており、婚姻後にこのことを知つたものである。

(二) 原告と被告は、結婚後昭和三二年二月初め頃までは原告の両親とは別に前記居宅で同居していた。原告は、その父仲嶋伝太郎経営の自動車のバツクミラーを製造しているパープルミラー工業株式会社の技術職員として勧務し、大阪市東住吉区田辺本町一丁目五番地所在の同会社の工場に通つていたが、被告が朝起きるのが遅く、朝食が遅れて午前八時半の出勤時間に遅刻することが重なつたため、原告は、結婚後六ケ月位してからは同会社の工場で食事をすることが多くなり、昭和二九年一二月頃からは原告および被告とも右工場で原告の両親と食事をともにするようになつた。そして原告と被告は、昭和三二年二月初め頃から右工場の一室に居住し、被告が長女敏子を出産して後同年五月初め頃から右工場所在地に新築された居宅で、原告の両親、妹などその家族と同居することになつた。

(三) 被告の実家のある奈良県北葛城郡上牧村大字下牧附近では、子供が産れたときに始めて母親の実家に子供をつれ帰る「にぶ入り」という習慣があり、又、村祭、春休み、盆、正月などに嫁入りしたものが実家に帰ることも多く、被告の父木村楠太郎は、被告に通知して再三被告を実家に帰らせ、被告は、その都度一週間位実家に滞在していた。

(1) 被告は、昭和二九年の正月に原告と結婚後始めて実家に帰つた。

(2) 被告は、同年三月二〇日、兄や伯母が帰るからとの理由で原告がとめるのをきかずに実家に帰つた。このとき原告の妹下城澄子は、被告が実際に実家に帰つているかどうかを実家の近所に調べにいつたことがある。

(3) 被告は、昭和三二年二月二七日、産院で長女敏子を出産したが、原告の母仲嶋ヤスノが、同年一月頃、その所有の大阪市阿倍野区文之里三丁目七二番地の居宅を売却し、同市東住吉区田辺本町一丁目五番地に居宅を新築していたので、同年三月九日頃、産院を退院し、産後の養生のため、五〇日位実家に帰つた。

(4) 被告が同年一〇月に実家に帰つたとき、原告が食中毒にかかり、原告の父仲嶋伝太郎は、同月一四日、被告に対し、すぐ帰阪するようにとの電報を打つたが、そのとき被告の長男義治が被告の妹恵美子とともに奈良県北葛城郡王子町の被告の父の姉にあたる巽イサのところに遊びにいつていたので、被告は、すぐには帰れず、翌一五日昼頃帰阪した。

原告は、被告がこのようにたびたび実家に帰ることに不満をもち、仲人の田中貞松にこのことを理由に被告と離婚したい旨相談にいつたことが二回位あつた。

(四) 原告と被告が結婚して半年位後から被告と原告の母仲嶋ヤスノとの仲が悪くなり、仲嶋ヤスノは、何かにつけて被告にこごとをいい、昭和三一年初め頃には被告が原告の両親と折合いが悪いといつて、被告の伯母の夫にあたる高岡喜久蔵に苦情をいいにいき、同人が原告方に出向いて話し合つたこともあつた。被告は、原告の両親と同居するようになつてからは、実家に立帰つても帰阪すると又原告の母に叱られると思い、帰阪を一日一日と遅らせるようにもなつて原告との間も次第に不仲となつた。そして原告の母仲嶋ヤスノは、被告には他に男があるものと疑い、原告と被告が原告の両親とは別居していた頃にも被告を男が訪ねてきていたと原告に告げ口したことがあつたが、更に同居後東京から男が被告を訪ねてきて被告と話していたなどと原告に告げたことから、被告に別の男があるかのように疑うようになつた原告と争いになり、昭和三二年六月末頃からは、原告が二階に、被告と子供二人が階下に別々に起居するようにまでなつた。

(五) その後昭和三二年九月上旬頃から尾野俊夫が連日のように夜六時頃から一二時頃まで原告宅に入りびたり、被告は、子供を抱いたり背負つたりしてその帰りを待つ状態がつづき、疲れて前記(三)(4)のとおり実家に帰つた。

(六) 尾野俊夫は、昭和三二年一一月一七日頃、被告の実家にその父木村楠太郎を訪ね、原告と被告を一緒にしておくと、原告は三八歳で、被告は四二歳で死ぬから二人を別れさせるよう述べたので、木村楠太郎は、翌一八日頃、原告および尾野俊夫と話し合つたが原告は尾野俊夫にすべてまかせているといい、話し合いはつかなかつた。

(七) そこで昭和三二年一一月二三日、子供をつれて実家に帰つてきた被告とともに、木村楠太郎と高岡喜久蔵が原告宅に赴き、仲嶋伝太郎、仲嶋ヤスノ、尾野俊夫らと原告宅で原告と被告の離婚問題について深夜まで話し合つたが、原告側では被告の欠点をあげて離婚を要求したのに対し、被告側ではこれに応じず、話し合いがつかなかつた。そして原告およびその両親は、被告を同居させることを拒んだので、被告は、ひとまず実家に引きとられることにきまり、その際子供二人をつれて帰ろうとしたが、原告の母が子供を離さないので、やむなく子供二人を原告方においたまま、その夜は、原告の案内で近くの旅館に泊り、翌二四日実家に帰つた。

(八) その後仲嶋伝太郎および仲嶋ヤスノは、被告が調停の申立をするまでの間に、被告の実家や高岡喜久蔵方に三回位話し合いに出かけ、昭和三三年一月五日には被告の実家を訪ねて原告の子供を一人引きとるよう要求した。又仲人の田中貞松も原告の依頼を受けて被告の実家を二回位訪ねたことがあつた。しかし被告は、昭和三二年一二月一日から親戚にあたる木田呉服店に住込みで働いていて実家にいなかつたため、結局話し合いはできなかつた。

(九) 一方被告は、昭和三三年一月八日、大阪家庭裁判所に、原告と尾野俊夫とを相手として、家庭調整の調停を申立てたが、同年四月一一日、不成立になり、その後原告から被告を相手として離婚の調停を申立てたが不成立に終つた。

(一〇) 原告は、昭和三六年三月四日、被告に無断で原告と被告の協議離婚届を出したので、被告は、昭和三七年九月一七日、大阪地方裁判所に協議離婚無効確認の訴を提起し、昭和三九年二月二二日、被告勝訴の判決がなされた。

(一一) 原告と被告とは、昭和三二年一一月二三日以来別居を続けており、その間両者間に往来もなく、原告は、被告が申立てた調停により被告の居所が判つてから後も被告に全然仕送りもしておらず、全く共同生活の意思がないし、被告も又すでに原告に対する愛情を失い、離婚を決意するに至つている。

以上の事実が認められる。そして≪証拠略≫はたやすく措信し難いところであり、本件全証拠によつても、被告が実家に帰つた際近所の男の家に宿泊し、他の男の子を宿して堕胎したとの事実を認めることはできない。

以上認定の事実を合わせ考えると、原告と被告との婚姻関係は全く破綻しており、婚姻を継続し難い重大な事由があると認められる。このように原告と被告との婚姻関係の破綻をきたした原因は、被告が朝起きるのが遅く、朝食を大阪市阿倍野区文之里三丁目七二番地の居宅ですませると原告の出勤時間に間に合わないことが重なり、そのことが被告と原告の両親とが生活をともにする機会を多くし、遂には両親と同居することになつた一因ともなつたこと、被告が原告の不満を十分に顧慮してその了解を求めることなく、しばしば実家に帰り、そのことが被告と原告やその母との仲をますます悪くし、被告と原告およびその家族との共同生活を不愉快ならしめ、その結果被告は息ぬきに実家に帰り、その滞在期間も次第に長びくことともなる一種の悪循環をきたしたことなどの点で、被告の行為にもその一因が存し、被告もその一部の責を負わねばならないと認められる。しかしながら原告と被告との婚姻関係が破壊された主たる原因は、被告と原告の母が生活をともにしたことによつてその仲が極めて悪くなり、原告の母は、被告の欠点を一々とりあげて叱り、又被告の落度をことごとに原告に告げ口し、遂には確証もないのに、被告が他の男と関係があるかのように疑い、原告にもその疑いを強めさせるようにしむけたこと、原告もまた母親にのみしたがつて、夫として、その両親や妹など原告の家族と共同生活をする被告の苦労を理解してその立場を十分擁護し、被告と原告の母との不仲を解消させる努力を怠つたこと、更には、すでに原告と被告との仲が相当悪化し、階上と階下に別々に起居するようにまでなつてから後のこととはいえ、原告およびその両親が、原告、被告とも何らの親族関係にもない第三者である尾野俊夫が原告と被告との婚姻関係に介入することを許したばかりか、同人の異常な言動を容認し、むしろこれに頼つて原告と被告とを別居するようにしむけたことなどの点に存したものと認められ、原告の被告に対する婚姻義務の違反によるところが大きいものというべきである。しかも前記(七)および(二)で認定した事実によれば、原告は、昭和三二年一一月二三日、被告との婚姻共同生活を廃止する意思をもつて、被告との同居を拒み、その後約八年間にわたつて別居中の被告に対し生活費の供与を全くしていないのであるから、原告は、被告に対する同居義務および協力扶助義務を怠り、被告を悪意で遺棄したものと認めることができる。

ところで婚姻を継続し難い重大な事由がある場合でも、その事由を生ぜしめるに至つたことについて主たる責任を負うべき原告が被告に対し、これを理由に離婚の請求をすることは一般的には許されないものと解すべきであるが、婚姻関係が全く破綻状態になつていて、しかも被告もまた原告との婚姻継続の意欲を失い、すでに離婚を決意して離婚の反訴まで提起している本件においては、原告からの、婚姻を継続し難い重大な事由があることを理由とする離婚請求をしりぞける理由はないものと解する。けだし、夫婦の自由な合意によつて離婚を許す民法の建前から考えて、婚姻関係が全く破綻状態にあつて、夫婦の双方とも離婚の意思を有するが、ただ離婚にともなう親権者の指定や慰藉料の問題等についての完全な意思の合致がえられないため協議離婚ができないのにすぎず、双方から離婚の請求がなされている場合には、裁判上、離婚にともなう親権者の指定や慰藉料等当事者間で合意に至らなかつた附随的な問題について判断するとともに、婚姻関係が破綻したのがいずれの側の責に帰すべきであるかを問わず、双方からの離婚請求を認容することが右の建前にも合致し、しかも夫婦の双方に離婚意思があつて双方から離婚の請求がなされている場合であるから、このように解しても、有責配偶者からの一方的な離婚請求を認めるのとは異なり、他方の配偶者の保護にも欠けるところはないからである。

従つて原告と被告との婚姻を継続し難い重大な事由があることを理由とする原告の離婚請求および右の事由と原告からの悪意の遺棄を理由とする被告の離婚請求はいずれもこれを認容すべきものである。

二、親権者の指定について

≪証拠略≫によれば、原告およびその母仲嶋ヤスノは、昭和三二年一一月二三日以来原告と被告との間の長男義治および長女敏子を原告宅で養育し、すでに義治は一〇歳、敏子は八歳になつていること、被告は、原告と別居して後は親戚にあたる木田呉服店に住込みで働き、月収は一九、五〇〇円であることが認められる。これらの事実によれば、原告と被告との間の長男義治、長女敏子とも現在ではすでに母親の監護を不可欠とする年令を脱しており、しかも被告の住居、収入、職業等その現在の生活環境は、原告に比して義治および敏子の養育、監護には適していないものと考えられる。従つて原告と被告との間の長男義治および敏子の親権者を原告と定めるのが相当であると認める。

三、慰藉料請求について

(一) 原告と被告との婚姻を継続し難い重大な事由が存し、その事由を生ぜしめるに至つたについて原告に主たる責任があること、更に原告は、被告を悪意で遺棄したものと認められることは前記一で認定したとおりである。これらの事実によれば、原告は、被告に対し、離婚をよぎなくされたことによる被告の精神的損害を賠償する義務があるというべきである。

(二) ≪証拠略≫を総合すると、原告は、大正一三年一月一七日、仲嶋伝太郎と仲嶋ヤスノとの間の長男として出生し、父仲嶋伝太郎経営のパープルミラー工業株式会社に技術職員として勤め、昭和二九年当時の月給が二五、〇〇〇円であつたこと、被告は、昭和五年三月七日、木村楠太郎と木村梅野との間の長女として出生し、高等女学校卒業後家庭にあつて洋裁を二年、和裁を一年習い、その後原告と婚姻するに至つたものであるが、昭和三二年一一月二三日、原告と別居して、同年一二月一日以後親戚にあたる木田呉服店に住込みで働き、昭和三九年一〇月当時月一六、〇〇〇円位、昭和四〇年五月当時月一九、五〇〇円位の収入を得ており、二五、六万円の貯金をもつていること、被告の父木村楠太郎は、国鉄に三二年余り勤めて後逓信病院に一四年位勤め、昭和四〇年三月当時年収七〇〇、〇〇〇円位であり、他にも山林、田畑、家屋等約一〇、〇〇〇、〇〇〇円位の財産を有し、中流の生活を営んでいることを認めることができる。これらの事実に前記一で認定した原告と被告との婚姻が破綻するに至るまでの一切の事情を合わせ考えると、原告が被告に対し支払うべき慰藉料額は金三〇〇、〇〇〇円が相当であると認められる。そして本件反訴状は昭和三九年六月二五日、原告の代理人に送達されたことは本件記録上明らかである。

従つて原告は、被告に対し、右金三〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和三九年六月二六日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。(山本矩夫)

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