大阪地方裁判所 昭和35年(ワ)2288号 判決 1965年11月30日
原告 中村都久子
右訴訟代理人弁護士 児玉憲夫
被告 株式会社大久遠商会
右代表者代表取締役 布江庄三郎
右訴訟代理人弁護士 山本雅造
主文
被告は原告に対して五〇万円を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は一五万円の担保を供して仮りに執行できる。
事実
(当事者双方の申立て)
原告 主文一、二項と同旨の判決および仮執行の宣言
被告 請求棄却と訴訟費用原告負担の判決
(原告の請求原因)
1、原告は、昭和二七年三月、金融業を営む被告会社(旧商号株式会社東亜信融株式会社)に入社し、経理を担当、昭和二九年一〇月三〇日からは、取締役として引き続き経理を担当し、昭和三四年六月一八日に退職した。勤続期間は七年を越えている。
2、被告会社に退職金に関する定めは存在しなかったが、右退職の際、被告は原告に対して、退職金五〇万円を、次の特約を付して贈与する旨の申込みをした。
(イ) 昭和三四年七月二二日を初回として毎月一万円あての分割払いとする。
(ロ) 万一原告に不信の言動があった時は直ちに贈与を打ち切る。
3、原告は、その頃被告の退職金贈与の申込みを承諾したが、右(イ)(ロ)の特約を付することには反対した。従って、原被告間には退職金五〇万円の贈与につき右特約を付さない契約が成立した。
4、かりに右主張は理由がないとしても、原告は予備的に右特約を含めて承諾したから、右特約の契約が成立した。
5、よってその支払いを求める。
(被告の答弁、抗弁)
請求原因1、2の事実は認める。3は否認。原告は特約を含めて承諾した。
被告が第一回の分割金支払いにつき遅滞におちいる前に、原告に次の不信行為があったから、被告は(ロ)の特約により退職金支払義務を免れた。
1、被告は、昭和三四年七月二二日、被告会社に来社した原告に、第一回分割金一万円を提供して、その受領を催告したが、原告はその受領を拒み、全額一時払いを要求した。
2、(1) 被告会社は、原告の在職中、貸付先から譲渡担保として提供を受けていた別紙目録記載の電話加入権三口につき、原告との間に、その名義を、被告の所持する原告名の印を用いて、原告の義妹中村和江名義で登録し、将来貸付先への返還または換価処分の必要を生じ、あるいは原告が退職したときは、直ちに被告の指定する者に、この印を使用して名義変更をすることを約していた。
(2) ところが、原告は退職後の昭和三四年七月二九日、和江に大阪市西淀川区役所で印鑑届をさせ、翌月初めに所轄電話局で改印届あるいは改名届をした。
(3) このため、被告は自分で名義変更をすることができなくなり、原告にこれを請求しても拒絶された。そこで、和江を被告としてこれを訴求し、一審で勝訴したが、和江はなおも控訴するという挙に出た。もちろん控訴審でも被告が勝訴した。
(4) 被告は、右改印届等のため前記電話加入権の輻輳電話を失う等相当の損害も受けており、これについては原告に別途賠償請求訴訟を提起する予定である。
(原告の右に対する答弁)
1、右1の事実は否認。原告は当日被告会社に行っていないし、その後も分割金の提供を受けたことは一度もない。
また、一時払いは原告が最初から申し出ていたところであり、そのような交渉をしたからといって、不信行為とはいえない。
2、2の(1)ないし(3)の事実は認める。改名届というのは、誤って中村和歌江と登録されていたのを、中村和江と改めたにすぎず、住所変更等はしていない。
3、右改印、改名届も(ロ)の特約にいう不信行為ではない。
被告会社ではこれまでにも
在職五年で支配人として退職した桝井良雄に五〇万円
在職四年で取締役として退職した渡井口恒行に三〇万円
在職一年で平社員として退職した森某に一五万円
の退職金が支払われてきたが、桝井は三〇万円と二〇万円の二回払い、渡井口と森は全額一時払いであった。
原告の場合にのみ(イ)(ロ)の特約が付せられたのは、原告が長期間経理を担当し、経理操作面での税務上の不正を知っていたので、これを口外しないよう心理的に強制するため、月一万円という、極めて不当な長期分割払いとしたものである。従って、(ロ)の特約にいう不信行為とは、もっぱら右不正の口外が予定されていたといえる。
しかし、原告はこれを口外していない。
原告が、被告主張のような改印届をしたのは、右のような不当な特約の変更について交渉を有利に運ぶのと、被告が第一回分割金さえ支払おうとしなかったのでその支払いを確保するための手段として行ったものにすぎない。被告の名義返還の請求に応じなかったのも、被告が暴力団宮西組を使って返還を強要してきたので、裁判所の判断を受けようと思ってしたまでのことである。なお、控訴審判決に従い、電話加入権の名義は全部返還ずみである。
(証拠)≪省略≫
理由
一、請求原因1、2の事実は当事者間に争いがない。
二、被告の申込みに付せられていた(イ)(ロ)の特約を除外して承諾をすることは、新たな申込みとみなされるところ、この新たな申込みに対する被告の承諾につき主張立証がないから、右特約を付さない契約が成立したとの原告の主張は理由がない。
三、特約を含めて承諾をしたとの原告の予備的主張は、被告も認めるところであるから、原被告間には、原告の退職の頃、(イ)(ロ)の特約を含め、被告の申込みどおりの退職金契約が成立したというべきである。
四、そこで、右特約の効力について考えることとし、まず右特約が付せられるに至った経過について判断する。
≪証拠省略≫を総合すると、次のとおり認められる。
(イ) 被告代表者は、かねて金融業を個人で営業していたところ、昭和二五年一一月三〇日これを会社組織に改めて株式会社東亜商会を設立し、昭和二六年一一月二一日東亜信融株式会社に、昭和二九年一〇月三〇日現商号に、それぞれ商号変更をした。経営の実体は個人経営のときと大差なく、被告代表者が実権を掌握していた。
(ロ) 原告は、昭和二七年三月新聞広告によって入社し、その後名目上の取締役となったが、実質上は終始経理事務を担当していた。事故もなく、まじめに仕事をしていたが、被告代表者の女婿で、被告会社の取締役をしていた光こと布江健治と感情的な対立ができたことなども一因となって、昭和三四年六月一〇日前後、一身上の都合を理由に退職の申出でをし、同月一六日、勤続七年余り、退職時の給与月額約三二、〇〇〇円で退職した。
(ハ) 被告会社には、退職金に関する定めはなかったが、被告代表者は原告に、かねがね、退職時には、退職金を支給するから勤務に精励するように言っていた。また被告代表者の裁量により次のとおり退職金が支払われてきた前例がある。
桝井良雄 昭和二九年一〇月一日勤続約五年で退職。退職時支配人、給与月額手当て込み約三三、〇〇〇円。退職の約一週間後に三五万円、四、五箇月後に一五万円、計五〇万円を支給。
渡井口恒行 昭和二九年三月勤続約四年半で退職。当時名目上取締役、実質上は外務員、給与月額手取り約二万円、退職後約一箇月内に約二八万円を支給。
森某 右渡井口と同時に勤続約三年で退職。当時集金人、給与月額手取り一二、〇〇〇円ないし一五、〇〇〇円。退職後約一箇月内に一〇万円を支給。
(ニ) 被告会社では、従業員に対する架空の貸付金の計上や伝票式の裏帖簿を作成するなど、不当な経理上の操作をして、法人税等の負担を不正に免れていた。原告は経理を担当していたので、この事情をよく知っており、退職の一因が前記布江健治との感情的対立にあったことから、被告代表者は原告が所轄税務署等に密告することをおそれ、原告に退職金五〇万円を、毎月一万円の分割払い、密告すれば将来の支給を打ち切るという方法で支払うこととし、これによって原告の密告を防止しようと考えた(法人税の更正期間は原則として三年である)。
(ホ) 本件契約の成立当時には、(ロ)の特約にいう「不信の言動」としては、右不正の密告以外に具体的に予定されていたものは存在しなかった。原告が当時その意味を被告代表者に尋ねたときも、被告代表者は「経理を担当しているのだから分るだろう」と答えた。
以上のとおり認められる。乙四号証は本訴係属後に、被告代表者本人が作成した文書に過ぎないから、右認定を左右するに足りるものではなく、証人布江健治、被告代表者本人の供述中右認定に反する部分は信用しない。
五、右認定の事実によると、(ロ)の特約にいう「不信の言動」とは、税務上の不正の密告を意味するものであり、これを不信の言動という文言で表現したにすぎないものと認められ、このような特約を法律行為の効力にからませることは公序に反するものというべきである。このような場合に、その法律行為が密告しないことの対価を与える性質のものであるときには、法律行為そのものが無効とされることはもちろんである(民法一三二条)。しかし、本件では、右認定したところによると、原告に対する五〇万円の退職金の支給は従前の支給例に比較して特に多額のものとも認められず、在職中の被告代表者の言動からみて、原告としても十分期待できる程度のものであったといえる。すなわち、原告に対する退職金五〇万円の支給は従前の勤務に対する報償であり、密告しないことの対価ではなかったとみるべきである。そして、このような場合には(ロ)の特約およびこれと密接不可分の関係に立つ(イ)の特約のみが、公序に反する無効のものとなり、この特約を除いた退職金支給の契約のみが有効に成立するものと解するのが相当である。
原被告間に成立した本件契約は、この意味において、(イ)(ロ)の特約を付さない五〇万円の退職金支払いを約する契約としてその効力を生じたものと認められる。
六、従って、(イ)(ロ)の特約が有効であることを前提とする被告の抗弁は、その前提を欠く失当なものであり、原告の請求は理由がある。
(七、そればかりでなく、本件で(ロ)の特約にいう「不信の言動」が、税務上の不正の密告に限定されない趣旨のものであったと仮定してみても、被告の抗弁は理由がない。
すなわち、(イ)(ロ)の特約が付せられるに至った前認定の経過、失権の対象となる退職金五〇万円が原告の七年余にわたる勤務の報償としての性格をもっていること等を総合すると、右にいう不信の言動とは、被告会社に対し税務上の不正の密告と同程度以上の重要な影響を及ぼす行為に限ると解すべきところ、当事者間に争いのない抗弁1の事実がこれに当らないことは明らかである。2の事実も、原告に行きすぎがあったとはいえても、さきに認定した諸事実に、前示甲五号証の一、二、原告本人尋問の結果を総合して認められるとおり、原告が一時払いか、せめて三〇万円の頭金の支払いを求めたのに対し、被告代表者が、考えておくというのみで、いたずらに日をのばす態度に出ていたこと、被告会社のうけた実害についての具体的主張立証がなく(乙四号証のみでは足りない)、かりにあったとしても、その賠償を別途請求できること(被告は別訴準備中と明言している)等を考えると、これをもって(ロ)の特約にいう不信の言動とするには、なお十分としがたい。
そして、すでに(イ)の特約による分割金の最終弁済期を徒過していることは明らかであるから、原告の請求はやはり理由がある。)
八、そこで、原告の請求を正当として認容することとし、民訴八九条、一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 平田浩)