大阪地方裁判所 昭和38年(わ)1112号 判決
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〔判決理由〕本件公訴事実の要旨は、「被告人は、第一、昭和三八年三月七日午後三時三〇分頃、大阪市北区角田町コマゴールド地下映画館内において、丁女着用のスカート臀部辺を所携のナイフで切り、第二、前同日時頃、前記映画館内において、甲女着用のスカート臀部辺を所携のナイフで切り、第三、前同日午後四時過頃(変更前の訴因では午後四時二〇分頃)前記映画館内において、乙女着用のオーバー左臀部辺を所携のナイフで切り、もつてそれぞれ器物を損壊した。」というのであり、右公訴事実に対する被告人の弁解の要旨は、「(一)、被告人は大工職として約一〇年前から肩書住居である久保組宿舎に妻子と共に居住していたが、昭和三八年三月七日午前八時頃原動機付自転車カブ号を運転した肩書住居を出て大阪市西成方面に赴き、同所で日雇人夫を物色するなどし、午後一時三〇分頃、当時の稼働現場である同市淀屋橋の京阪電鉄淀屋橋延長工場現場に到着し、同所で仕事上の打合せや仕事仲間と雑談したりした後、午後三時三〇分頃前記カブ号を運転して同所を発ち、国鉄大阪駅前阪神百貨店増築工事を見学すべく、午後三時五〇分頃右工事現場に到着したところ、工事現場にはシートがかけられていて内部が見えないので、見学を諦めたが、その際、元輩下の人夫で同僚のカメラ等を盗んで逃走中の高橋某を探す気になり、同人が出入りしていたと聞いている前記コマゴールド地下映画館に入場することとし、附近の自転車預り所にカブ号を預け、徒歩で右映画館に向つたところ、右映画館の手前で顔見知りの花田某と出会い、同人と共に同映画館に入場しようとした際、折柄急ぎ足で同映画館に入る二人の制服の警官を目撃し、その直後被告人らも続いて入場した。(二)、入場後直ぐ右花田と別れ、便所に行つた後休憩室で牛乳を買つて飲みながら、前記高橋を探すべくあたりを見廻すうちに、上映中の映画が終つて休憩となり、観客が退場して来たのでその中から前記高橋を探したが、見つからないので観覧室後部真中の入口から内部に入つた。(三)、折柄内部は満員の状態であつて、あたりを見廻したが前記高橋は見つからず、入口附近に立つていたところ、自分の右前方すれすれのところに女(前記乙女の意)が右側柱壁寄りに立ちその左側に連れの女(丙女の意)が立ち、二人で雑談していたが、間もなく映画が上映され始めたので自分は空いている左側柱壁の方に移動して映画を見ていると、暫らくして制服の警官が二人来て同映画館内事務所に連行された。(四)、同所で所持品検査をされ、着衣のジャンバー右ポケットに入れていた肥後ナイフ(昭和三八年押第四一七号の一)を発見されたが、右ナイフは一五日位前露店で買つたもので、鉛筆削りやサイダーの栓を抜いたりするのに便利なため所持していたものであり、購入後菓子の入つたビニール袋や硝子を切つたことはあるが、繊維類を切つたことはない。(五)、勾留手続に際し、検察官及び裁判官の面前で犯行を自白したが、それは自白すれば早く帰宅させて貰えると思つたからである。)というのである。
そこで検討するに、右公訴事実記載の日時、場所において公訴事実記載の被害が発生したことは本件証拠上明らかであるが、右被害の発生が被告人の犯行によるものであることを証明すべき直接の証拠としては被告人の検察官及び裁判官に対する概括的自白以外には見当らない。従つて、被告人の有罪、無罪を決するには結局被告人の右概括的自白の信用性の検討と間接証拠の検討とに頼らざるを得ないので、以下これらの点につき検討する。
(一)、被告人の検察官及び裁判官に対する自白について
被告人は本件により勾留請求をされる際、検察官に対し「その通り事実に相違ありません」と述べ、次いで、裁判官の勾留質問に際し、「事実はその通り相違ありません」と述べている外は捜査官に対しても当公判廷においても終始犯行を否認し続けている。そして、検察官及び裁判官に対して犯行を自白した点については自白すれば早く帰宅させて貰えると思つたためである旨弁解しているが、このような弁解は本件がさほど重大な事件ではない点や被告人が罰金刑の前科を有するのみである点などからすればあながち不自然とは思えないし、右自白の内容も自己の犯行に相違ない旨の極めて簡単な自白である点及び被告人の弁解内容が終始一貫している点などを綜合すれば、被告人の検察官及び裁判官に対する右のような概括的自白に直ちに証拠価値を認めるには抵抗を覚えざるを得ない。
(二)、被告人が前記映画館の観覧室に入つた時刻について
この点につき、検察官は、証人乙女の証言調書によれば、被告人は午後四時から始まる休憩時間以前から観覧室に入つていたことが認められるから、午後四時から始まる休憩時間中に入つた旨の弁解は措信し難い旨主張するので検討するに、証人乙女の証言調書によれば、「同人は観覧室の後方スクリーンに向つて右側の入口から入つた」「映画は始まつていた」「後ろの壁の近くの柱にもたれていたら後ろでごそごそ(オーバーの毛を引張るような感じ)するので後ろを見たら茶色ジャンバーを着て飛行帽のような帽子をかぶつた五〇才位の小父さんがいた」「それで左側へ変り又右側へ変つた」「その人が法廷にいる被告人である」と証言しており、同人の証言全体の趣旨からすれば、同人が被告人を見たのは午後四時から始まる休憩時間以前であつたと考えられないでもないが、同人は検察官から「警察では四時まで終着駅を左側で見てそれから右へ変つたように述べているがどうか」と尋問されるや、「そういわれるとそのように思うがはつきりしない」と述べ、更に、弁護人から「証人の警察の調書には左へ変り又右へ変りその時に後ろでごそごそしているように思つたと述べているがどうか」と尋ねられるや、「警察へ行つた時の記憶の方が正しい。その後忘れた」と述べるなど同人は証言当時相当記憶を喪失していた模様であり、同人が被告人を見た時点についての同人の証言の正確性には疑問を抱かざるを得ない。却つて、同人の横で映画を観覧していた同女の友人丙女の証言調書によれば、同人は「最初は画面に向つて右の方に行つた」「大分経つてから何か後ろの方をさわる人がいた」「振り返つてみたら赤いマフラーをした人がいた」「それで左方へ変つたらそこで又さわられたから手を叩いてやつた、それで一つの映画(午後四時に終了する「終着駅」と認められる)が終つた」「休憩時間の時は左側にいた」「次の映画が始まつてから右の方へ変つた」「乙がいやらしいというで後ろを見たら防寒帽みたいな帽子をかぶつた人(被告人と認められる)がいた」「それでいやらしいから出ようといつて出た」と比較的明確に証言しており、右証言からすれば、乙女がいたずらされた際丙女が後ろの被告人を見たのはむしろ午後四時から始まる休憩時間が終り次の映画が上映されていた時と認めざるを得ない。又、前記映画館の支配人である能登健二の証言調書によれば、同人は午後四時から始まる休憩時間中場内を見廻つた際、切符切りの場所から見て右側から二つ目の扉の内側の右側に黄色のオーバーを着た女(乙女と認められる)がおり、その後ろに茶色のジャンバーを着て毛皮の帽子のようなものをかぶつている男(被告人と認められる)がいた旨証言しており、右丙女及び能登健二が被告人を目撃した時点についての同人らの証言は、被告人が観覧室に入つた時刻についての被告人の前記弁解と大体符合することになり、この点からすればむしろ午後四時から始まる休憩時間中に観覧室に入つた旨の被告人の弁解は信用せざるを得ないことゝなる。なお、本件被害者中スカートを切られた丁女及び甲女の各証言調書及び同人らのスカートが切られているのを発見した戊の証言調書によれば、右丁及び甲が被害を受けたのは午後三時三〇分頃と推認されるが、当時被告人が観覧室に入つていたと認めるべき証拠は存しない。尤も、戊の証言調書によれば、同人は甲女がスカートを切られているのを発見する直前自分の前にいた人が前かがみの姿勢で急に入口の戸を突き飛ばして出て行つた旨証言しているが、その男の服装、年令等については「茶色味のかつた黄土色の濃い色のジャンバーのようなものを着た三〇才位の人で帽子をかぶつていなかつた」と証言しており、服装、年令の点からいつてもその男が被告人だとは思われないし、仮に、その男が犯人とすれば、当時犯人として指摘若しくは追呼されているわけでもないのにわざわざ疑いを招くような動作で飛び出して行く筈はなく、むしろ、その男は本件とは無関係の第三者と認めざるを得ないことは検察官指摘の通りである。
(三)、本件被害者のスカートやオーバーの毀損部分は被告人の携帯していたナイフによつて毀損されたものかどうかなどの点の鑑点について
この点につき当裁判所は鑑定人弓削治、同渡辺孚及び同菊池武勝に対しそれぞれの立場から鑑定を求めたが、その結果は区々であり、被告人の犯行を裏付ける鑑定結果が得られたのは渡辺孚の鑑定のみであり、他はいずれも逆の鑑定結果しか得られなかつた。而も、右鑑定中被告人の犯行を裏付ける唯一の鑑定である渡辺孚の鑑定は主として本件被害者のスカートやオーバーの繊維の切断面の写真を観察した結果を根拠としているようであるが、鑑定人菊池武勝は同じ繊維の切断面の写真を観察しながら観察結果については渡辺孚とは見解を異にしており、鑑定人菊池武勝の尋問調書によれば、同人は渡辺孚と観察結果を異にする根拠として、右繊維の写真中先端が細くなつて引張り切れのような部分は渡辺孚が資料である繊維を採集する際引抜いたために先が細くなつたと思うと述べ、又、渡辺孚はモヘヤとウールを区別しないで観察しているがこれは区別して観察すべきものであると述べており、これらの点に疑点を残す渡辺孚の鑑定結果を全面的に信用するのは危険である。むしろ、菊池武勝の鑑定中、丁女のスカートの被害部分の縦糸の切断尾端から切り取つた隣接した二本の羊毛繊維に二度切りの切り跡があり、二度切りはカミソリのような鋭利な刃物でないと生じ難く、又、スケール(でこぼこ)の高さが一ミクロン以内の右羊毛繊維に半径五ミクロンの円刃を持つ本件ナイフの切刃で右のような切り跡はつけ難い旨の鑑定部分は極めて精緻は鑑定であり、相当有力な鑑定結果のように思われる。
なお、被告人の携帯していた肥後ナイフは一見して鈍刀であり、製作時グラインダーで研磨されたのみでその後磨がれた形跡はなく、被害者に感付かれないようにその着衣を切断しなければならない本件のような犯罪を犯すのに右のような鈍刀を用いるのは経験則からいつても不自然である。現に本件犯行の当日本件映画館の隣りのコマシルドルバー映画館において女性のオーバーを切断して有罪の判決を受けた梶谷良夫は鋭利な軽便カミソリを使用して犯行に及んでいるのである。
(四)、本件が被告人以外の者による犯行であることの可能性について
証人乙女の証言調書によれば、同人は検察官から「後ろでごそごそされたように思つたのは出るまでに一回きりか」と尋問されるや「二、三度です」と答え、更に、弁護人の尋問に対しても「何回もごそごそされた」と答えており、同人がごそごそされたのは被告人を見つけた時だけではないことが窺われる。又、同人の証言調書によれば、同人は「休憩時間にはオーバーは破れていなかつた」と証言しているが、丙女の証言調書によれば、同人は「休憩時間に乙のオーバーなんかを確めたことはない」と証言しており、乙女のオーバーが午後四時から始まる休憩時間以前に切られたのか休憩時間後に切られたのかも明確ではない。従つて、乙女が午後四時の休憩時間が終つて次の映画が上映されている頃後ろでごそごそされ、その際後ろに被告人を発見したとの一事をもつて被告人が同人のオーバーを切つた犯人であると推認するのは早計である。まして、前記映画館の支配人である能登健二の証言調書によれば、同人は今まで同映画館でスカートを切られたりオーバーを切られたりしたような事件は何件もあつた旨証言しており、現に、前記(二)で説示した如く乙女と映画観覧を共にしていた丙は「何か後ろの方でさわる人がいた」「振り返つてみたら赤いマフラーをした人がいた」「それで左の方へ変つたらそこで又さわられたから手を叩いてやつた」と証言しているし、又、前記(三)掲記の梶谷良夫は本件映画館の隣りの映画館で本件犯行当日の午後七時頃女性のオーバーを切つて有罪判決を受けているのであつて、本件が被告人以外の者による犯行である可能性も十分考えられる。
(五)、本件当時被告人の擁帯していた肥後ナイフに繊維が附着していた点について
大阪府警察本部技術吏員松村忠知作成の鑑定書によれば、右ナイフは甲女着用の紺色スカートの羊毛繊維と酷似した繊維が附着している旨記載されており、右松村忠知の証言調書によれば、同人は「酷似」の意味について」高い程度の同一性があるということだ」と証言している。そして、右鑑定の結果は被告人の有罪を立証すべき証拠としては最も有力な間接証拠であり、検察官も右鑑定の結果を決定的な断罪の資料として被告人の有罪を主張しているが、他面、右松村忠知の証言調書によれば、同人は繊維の同一性についての検査方法は一五種類位あり、その方法全部によつて検査するには最小限度五ミリの繊維が必要である旨証言しているにも拘らず、右ナイフに附着していた繊維は二ミリから三ミリ位のもの一本とそれよりも短いもの一本にすぎない。しかのみならず、同人は普通は四、五種類の検査方法を用いており、その方法は顕微鏡検査、染色試験、張力試験等である旨証言しているのに本件における検査は、顕微鏡検査のみであつて、他の方法が用いられた形跡は見当らず、同人の鑑定結果にも疑点がないわけではない。又、被告人は右ナイフを買つた後繊維を切つたことはない旨供述しているが、右松村忠知の証言によれば、右ナイフの柄の溝の中には現にいろいろな繊維が附着していたようであり、甲女のスカートの繊維に類似した繊維の附着する機会が全くなかつたものと断定し去ることも困難である。してみると、右鑑定の結果も被告人の有罪を証明すべき決定的な間接証拠とするには余程慎重な配慮が必要であり、前記(四)において説示した如く本件映画館には日頃スカート切り等が絶えず、被告人以外に犯人の存在する可能性が強い点を考慮に入れるならば、他に有力な間接証拠もなく、被告人の自白も信用し難い本件においては右鑑定の結果を決め手として被告人の有罪を断定することは差控えるのが妥当であろう。
被告人が本件犯罪を犯したかどうかについて検討すべき重要な間接証拠及び被告人の検察官並びに裁判官に対する自白の検討は以上の通りであり、他に被告人の有罪を証明するに足りる間接証拠は見当らないから、本件公訴事実は結局犯罪の証明がないことに帰する。
よつて、被告人に対して、刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をすることとし、主文の通り判決する。(角 敬)