大阪地方裁判所 昭和39年(わ)3485号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕(罪となる事実)
被告人は、昭和三八年一二月二日午前一〇時すぎごろ前記府営住宅において、清水ひでのが病院に治療に出かけるのを送つてから、浩子(当時一年一月)と二人きりになるや、前記のような結婚生活のむつかしさ、姑との同居による気苦労などを思いあわせ、前途に対する希望を失い、後に託すべき人もない浩子を殺害して道連れにし、自ら命を断つて苦境から解放されたいと考え、午前一一時前ごろ、自分の苦悩と死の決意を遺書にしたためたうえ、屋内ガラス戸、ドアなどに施錠し、炊事台下に置いてあつたプロパンガスボンベを炊事場南側冷蔵庫の前まで持ち出し、ボンベと接続したゴム管を奥六畳の部屋まで引きこみ、六畳の部屋の建具を閉め切つて浩子と添寝をしながら、右プロパンガスボンベのプロパンガスを放出せしめ、もつて殺人の実行行為に着手したものである。
ちなみに浩子はその後しばらくして(午後一時ごろまでの間)に、右場所で胃内容を逆流して誤嚥し、窒息死したのであるが、その死が、被告人の右プロパンガス放出行為によつてもたらされたかどうかは不明である。
なお被告人は、右犯行当時心神耗弱の状態にあつた。
(当裁判所の判断)
一不能犯の主張を採用しなかつた理由
弁護人は、被告人の家庭用プロパンガスの放出による殺人の行為は、社会通念および科学的見地双方から見て、「人を殺す」に足る行為でなく、本件は不能犯であると主張する。
そもそも自殺を企て、その道連れに浩子を殺害しようと考えて、プロパンガスを放出させ、浩子と共に判示場所に横たわつた被告人の行為を殺人の実行行為の着手と認めることができるか否かが問題の核心であり、これは一の刑法的な価値判断に属するのであつて、当該行為から出発して自然的な因果の系列をたどることにより結果の発生が可能か否かという単なる事実判断のみによつて、不能犯であるか否かを決定することができないことはいうまでもない。そして当該犯行の具体的な遂行方法を実行の着手と認めることができるか否かは、当該態様における行為一般が結果の発生に対して危険性を有するか否かを標準として判定されるべきであり、右危険性は、科学的見地から、(行為者が認識することができずかつ一般人もまた予測認識することができないであろう特異、異常な属性を有する稀有な客体は別として)当該犯行の客体となつたものおよび一般的に予測されうる客体に対して、結果を発生せしめることが絶対に不能かどうかの判断を一つの要素としつつ、同時に社会通念による当該行為の危険性に対する評価をも考慮して判断されるべきものである。
右のような考え方に立つて本件を検討してみる。
本件では、市販のいわゆる家庭用プロパンガス(稲本晃作成の鑑定書(以下稲本鑑定書という)によれば、その組成は、各製造会社、製造時期によつてまちまちであるが、おおむねプロパン、プロピレンが各三〇%以上を占め、その他メタン、エタン、ブタン、イソブタン、エチレン、ブテン、イソブテンなどである。以下これらの混合物をプロパンガスという)が生ガスのまま放出されて犯行に供された。そして例えば稲本鑑定書によれば、プロパンガスの放出は空気中の酸素を薄めると共に、プロパンガスの吸気内濃度が五〇%を超えると、その組成分のうちいずれがどのように作用するかは明らかにし得ないにしても、総合的毒性が増し、呼吸障害、循環障害などを惹起して実験動物が死亡するに至り、人体に対してもほぼ同様のことが予測されるとしていること、第二回公判調書中大村得三の供述記載部分によれば、文献上プロパンガスによつて人が死んだ例があることなどが認められ、その放出量の多少はさておき、プロパンガスはその一般的な性質からしてプロパンガス吸入者の身体的状況その他の事情によつて右のような致死への可能性を絶対に有しないとは言えないのみならず、他方、被告人自身が自殺の用にプロパンガスを供したこと、判示犯行の発見者である清水ひでのが、判示場所に持ち出されたプロパンガスボンベを見て、被告人たちがガス自殺を企てたと直感し、さらに部屋の中に飛びこんで被告人と浩子を救い出そうとした時に近隣の者が同女の両腕をつかんで「おばあちやん、入つたら死んでしまう」と言つて引き止めようとしたこと、浩子の死体検案に立ち会つた医師河野泰通ですら、死体解剖を行わねば確実な死因はわからないとしながらも、一応死因を一酸化炭素中毒とし、それをプロパンガスによるものと考えたこと、など諸般の事情を総合すると、一般人は家庭用プロパンガスを判示のような部屋で、判示のような態様をもつて放出させることは、その量の多少にかかわらずその部屋に寝ている者を死に致すに足りる極めて危険な行為であると社会通念上評価するものと解するのが相当であると言わなければならない。
従つて、被告人の判示行為は、とうてい不能犯であるということはできず、刑法一九九条にいう「人を殺す」行為に着手したものと認めるのが相当であつて、弁護人の主張を採用することはできない。
二判示犯行によつて浩子をプロパンガス中毒にもとずく胃内容の逆流誤嚥による窒息により死亡せしめたという殺人既遂の訴因に対して、殺人未遂を認定した理由
大村得三作成の鑑定書(以下大村鑑定書という)によれば、浩子の直接の死因は、胃内容が逆流して気管、気管支、気管支枝などに誤つて嚥下されて生じた窒息によるものと認めることができる。そして大村鑑定書、証人大村得三の当公判廷における供述(以下大村・供述という)、第二回公判調書中証人大村得三の供述記載部分を総合して考察すると、現在法医学の知識では、プロパンガスが生体に吸入されてどういう作用を及ぼすかについては明らかでなく、死体材料から直接これを抽出、証明する方法はないのであるが、動物実験の結果や人体実際例についての文献報告などとの対比から浩子の死体がプロパンガスを吸入し、その影響を受けている徴候は明らかであつて、その他の前掲関係証拠をも総合すれば、浩子はその生存中プロパンガスを吸入してその影響(致死に対して原因となつたかどうかは別として)を受けたと推断できるものといわなければならない。そして、一般に幼児の窒息死に際して、その動機、原因をその死体解剖所見から決定することは困難なのであるが(大村・供述)、種々の考えられる原因の中で合理的な疑いを容れずして蓋然性の高いものをその原因として抽出し決定することになる。そこで大村・供述は、要するに一般乳幼児が嘔吐をする原因には体位の変動、体の圧迫など種々の刺激が考えられるけれども、本件では、浩子がプロパンガスを生前に吸入している事実を前提すれば、プロパンガスの組成分中主としてプロピレンの有する麻酔作用及び血液の粘稠度を増加させ、血圧に影響を与える作用、プロパンガスの臭気、プロパンガスの空気に対する比重は1.5以上で低所に滞留して吸気中酸素を希薄にすることなどプロパンガスの種々の影響が、その詳細な過程を明らかにすることはできないけれども、嘔吐中枢などに刺激を与え逆流(嘔吐)の少くとも一つの原因となつたものと考えるのが相当であるとする。ちなみに、弁護人はこの点に関して本件公訴事実は「逆流」であつて「嘔吐」ではなく、プロパンガスによつて逆流を惹起することはないと主張し、証人稲本晃の当公判廷における供述(以下稲本・供述という)によれば、「嘔吐」が胃のいわば逆だ動によつて生ずるのに対して「逆流」は食道や胃の筋の緊張がゆるむことによつて生ずるものであり、プロパンガス特にその組成分中麻酔作用の有するプロピレンなどの作用によつて右のような筋弛緩をもたらすことは不可能であり、胃内容の「逆流」がプロパンガスによつてもたらされることはないことになつて弁護人の主張を一応裏付けるのではあるが、本件公訴事実にいう「逆流」が稲本・供述の如くそれほど厳密な分類定義にもとずいて使用されているものとは考えられず、大村・供述によれば、大村鑑定書にいう「逆流」は稲本・供述にいう「嘔吐」をも含む意味に使われていると考えてよく、プロパンガスによつて、稲本・供述にいう「嘔吐」がもたらされたかどうかはなお検討の余地が残るのである。そこで、前記のような大村・供述の原因を抽出して選択する過程は、結局は、逆流(嘔吐)の原因を直接に抽出、決定することのできない本件のような場合においては、一応科学的であり、首肯できるものである。しかしながら、当裁判所は、犯行に供された普通家庭用プロパンガス(一〇キログラム入り)の放出によつては、実現することの困難な吸気内濃度五〇%(致死濃度でもある)のプロパンガス中における九〇分間の猫の観察実験において猫に嘔吐が見られなかつた事実(稲本鑑定書)を前にして、(同鑑定書は、プロパンガスの毒性に関する動物実験の結果は一応人体に対するそれと著明な差はないと考えてよいとしている。)弁護人の「従つて浩子がプロパンガスの影響により嘔吐したとは考えられない」とする主張は、例えば大村・供述の指摘する臭気による嘔吐中枢への刺激の可能性などを考えると猫における実験結果を人体ことに一年一月の子供にそのままあてはめることはできず、速断に失するきらいがあると考えるのではあるけれども、本件におけるが如きはるかに低濃度のプロパンガスが嘔吐への機縁となつたと断定することにも疑問があるし、さらにプロピレンの麻酔作用、プロパンガス放出による吸気内酸素量の不足などは、後述のとおり本件においては疑問があるといわなければならず、他方、大村・供述の指摘するとおり、一般に一年一月位の子供がわずかの体位の変動、体の圧迫などによつて嘔吐しやすい事実は、経験上もよく観察されるところであるが、浩子も寝返りをしたときや抱きしめたときなど不意に乳汁などを吐いたりする嘔吐しやすい子供であつたことが認められるのであつて、犯行時被告人がプロパンガスを放出してから浩子に添寝して乳房を含ませ、浩子を強く抱いたことによつて浩子が嘔吐した蓋然性もかなり高いものといわざるをえない。してみれば、プロパンガスの嘔吐に対する因果の連鎖を直接に明らかにできない本件においては、浩子が嘔吐したことに対してプロパンガスがそれだけによつてあるいは他の条件との複合によつて影響を及ぼしたと考えることには、右に指摘した体位の変動、体の圧迫などによる嘔吐の蓋然性などを考えれば合理的な疑いを残すものと考えざるをえないのである。
次に、大村・供述は、嘔吐へのプロパンガスの影響を主として論じ、誤嚥に対するそれについてはよく解らないとしつつも、一年一月位の子供においては、食物などが気管などに入ることを防禦する咽喉粘膜の反射機能の発育が不完全であるうえに、プロパンガスの組成分中プロピレンによる麻酔作用によつてその機能が十分に働かない状況の下で、プロパンガスが呼吸中枢を刺激したり、あるいは、プロパンガス(空気に対する比重約一、五以上)が低所に滞留して空気中の酸素を希薄ならしめたりすることによつて呼吸活動を困難ならしめ、これに因り呼吸活動と嘔吐した胃内容の嚥下活動を同時に行なうことを余儀なくせしめて、胃内容を誤嚥せしめたと解する余地があると指摘する。ところが一方、稲本鑑定書及び稲本・供述によれば、プロパンガスの吸気内濃度五〇%における動物実験において、実験動物に麻酔状態が発現し、その際に呼吸及び循環障害が現われるが、これらの実験は極端に高度な中毒状態を発現させたもので、これより低濃度でプロパンガスを吸入させては意識喪失に至る麻酔作用あるいは強度の循環障害を起すことはなく、プロパンガスを酸素で二五%に希釈した場合には一ないし二時間の吸入によつても血圧下降、不整脈は殆んど見られなかつたとし、この結果は、人体に対しても著明な差はないと考えてよいとする。ところで犯行に使用されたプロパンガスボンベ(内容重量約一〇キログラム)は、昭和三八年一一月二八日に購入され、犯行日である一二月二日まで約五日間使用され、犯行当時その内容重量は、一〇キログラムより少なかつたと考えられるのであるが、稲本鑑定書によれば、各種家庭用プロパンガス中その組成が比較的平均値に近い岩谷産業製のものを使つて気温セ氏四度ないしマイナス七度の寒期にボンベ調圧弁を全開放して放出試験をしてみたところ、プロパンガス一〇キログラムの約半量を放出するのに約一一時間を要し、分時放出量は五リットルを下まわると計算されるとする。そして……を総合すれば、犯行着手時間は午前一一時前後ごろ、被告人らが発見され、プロパンガスボンベの栓が止められたのは午後一時前ごろとほぼ考えてよく、その間たかだか約二時間である。そして第四回公判調書中証人清水圭の供述記載部分によれば、判示犯行場所である六畳の間は建具の建て付けが悪く、その密閉度は必ずしもよくないことが認められる。以上の事実を総合すれば、密閉度のさほどよくない判示場所において、寒期に入つた一二月に、約二時間強プロパンガスを放出した場合、吸気内におけるプロパンガスの濃度は、低所においてもさして多いものとは考えられず、呼吸中枢を刺激して呼吸障害を惹起したり、あるいは吸気内酸素の量を希薄ならしめ、呼吸活動を困難ならしめたりしたと考えるには、なお疑問が残るものと考えざるをえないのである。さらに稲本・供述、同鑑定書は、咽喉粘膜の反射機能及び気管が気管支に分岐する部位にある咳嗽反射機能は、きわめて原始的な機能であつて、成人と子供ではその機能に差がなく、またそれら機能は、外科的な麻酔深度に到達せしめてはじめて消失し、他の反射機能が消失してから徐々に消失していくものであつて、その麻酔耐性は個人差はあるが成人と子供に差異はないと指摘し、家庭用プロパンガスの組成分中麻酔作用を有するプロピレンの量は、約三〇ないし四〇%であり、プロパンガスを吸気内の濃度が五〇%に至るまでの量を放出したとして、空気中にプロピレン二〇%の状態を作るのが限度であつて、そういう極端な状態で見ても麻酔深度は、さほど深くないと考えられ、プロピレンのもたらす麻酔作用によつて前記反射機能を消失せしめることはできないとする。まして、前記のような本件プロパンガスの放出方法と時間をもつてしては、右反射機能に対する麻酔作用はあつたとしても微々たるものと考えざるを得ないことになる。従つて判示プロパンガスの放出が咽喉粘膜の反射機能、咳嗽反射機能に影響を与えたと解するにも疑問が残ることになる。結局大村・供述の指摘する誤嚥に至る経路についてなお合理的な疑いを残し、他方ここでもまた被告人が浩子に乳房を含ませて強く抱きしめた行為だけによつても浩子の呼吸活動を困難ならしめ、それによつて誤嚥する可能性を生ぜしめたと常識的に一応考えられる(これとて単なる推測にすぎないのであるが)のであるから、浩子が嘔吐した胃内容を誤嚥したことに対してもまたプロパンガスがそれだけによつてあるいは他の条件との複合によつて影響を及ぼしたと断定するには、未だ十分な心証を得ることができないといわざるをえない。以上考察してきたことによれば、浩子が胃内容を逆流して誤嚥したことが直接の死因であることは明らかでありながら、その動機、原因が結局は明らかにならなかつたことに帰するのである。従つて被告人のプロパンガスの放出行為による浩子の致死への因果関係が不明となつたのであるから、本件は既遂犯でなく、未遂犯の限度で認定することになつた次第である。(原田修 仁田陸郎 富永辰夫)