大阪地方裁判所 昭和41年(ワ)1519号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕一、原告が囲碁の家元である井上家第一六世井上因碩こと恵下田仙次郎の妻であり、被告が右恵下田仙次郎に入門し同人より三段を免許され現在碁会所を経営している事実は当事者間に争がない。
二(一)、井上家が、本因坊・安井および林の三家とともに徳川幕府から囲碁の家元として公認されそれぞれ五〇石の知行を与えられてきた伝統のある家柄であつて、その第一六世井上因碩を襲名した恵下田仙次郎が名跡を継ぐべき者(以下跡目という)を定めることなく昭和三六年八月二一日死亡したことも当事者間に争いがない。
(二)、ところで、原告は、家元が跡目を定めないまま死亡したときは家元の相続人又は末亡人がこれを指定する慣習もしくは名跡を継ごうとする者は家元の相続人又は未亡人の同意を得なければならないという慣習がある旨主張するので、以下この点について判断する。
<証拠>によれば徳川時代囲碁界における名跡の承継は、通常各家元がその存命中にそれぞれ跡目を定め幕府に許可を願い出てその許可を受けておき、家元の死亡又は隠居により跡目がこれを承継するという方法によつてなされていたが、たまたま家元が跡目を定めないで死亡したときは一門の棋士が評議して跡目を選び、これを他家の家元が幕府に跡目として推薦し、幕府がこれを許可するという方法によつてなされていたこと、松本錦四郎は嘉永三年井上家第一三世因碩を襲名したが、これは後者の方法でなされたことが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。
さらに<証拠>によれば、明治維新以降井上家家元となつた第一四世大塚因碩・第一五世田渕因碩はいずれも前因碩が跡目を定めず死亡したため同門の棋士に推挙されて名跡を継いだものであることが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。
また、<証拠>によれば、明治四〇年本因坊家第一九世秀栄が跡目を定めないで死亡した後、その後継者の選定をめぐつて本因坊家の棋士が二派にわかれて対立し、当時既に隠居していた第一六世本因坊秀元を中心とする一派の棋士は田村保寿の技倆が坊門随一であるという理由で同人を推挙し、他方第一九世本因坊秀栄の未亡人を中心とする一派の棋士は第一九世本因坊秀栄が雁金準一に名跡を継がせる旨遺言したとして同人を推挙し、激しく抗争して互に譲らなかつたが、結局第一六世本因坊秀元が再び第二〇世本因坊を襲名し、第一九世本因坊秀栄の一周忌の後前記田村保寿(後に秀哉と号す)に名跡を譲つたこと、大正六年一一月二三日井上家第一五世田渕因碩が死亡した後、一門の棋士の間で誰を後継者にするか評議がまとまらず、大正八年一二月になつて井門随一の技倆を誇る五段恵下田仙次郎(栄芳と号す)が同門の一部の棋士の推挙をうけ、井上家第一六世因碩を襲名する旨の通知状を廻したところ、その襲名に反対する勢力は第一五世因碩未亡人田渕のぶ、門下代表者鴻原正広・故第一五世因碩友人岩島匡徴・同岩崎虔らの名で恵下田栄芳を破門する旨の書状を廻してこれに対抗し、紛糾を重ねたが、大正九年四月恵下田栄芳は第一六世井上因碩の襲名を取消し、反対派も第一五世因碩妻田渕のぶ・井上家門下総代鴻原正広の名で恵下田栄芳の破門を取消す旨表明し、同年九月に至つて五段鴻原正広が井上家門下を代表し右田渕のぶ・岩島匡徴および岩崎虔がこれに参加するという形で恵下田栄芳を第一六世井上因碩に推挙したので漸く落着し、恵下田栄芳は井上家第一六世因碩を襲名し、田渕のぶから代々家元に伝わる井上家の印鑑・位牌・過去帖・軸・免状の文案等(これらは、位牌を除き、現在原告が所持している)の交付を受け、爾来田渕のぶに生活費を支給してきたことが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。
そして<証拠>によれば、囲碁の家元四家のうち安井家および林家はすでに明治時代に衰亡し、本因坊家も第二一世田村秀哉が昭和一三年引退してその名跡を財団法人日本棋院に与え、ひとり井上家が存続したが衰微が甚だしく、第一六世恵下田因碩の死後は一門に専門棋士と称しうべき者が僅かに被告と潮伊一郎四段の二人だけとなり、その一人である被告が直接又は潮伊一郎を通じて第一七世井上因碩を襲名したい旨原告に申し出たが、原告に支給する生活費の金額について話し合いがつかなかつたため、原告は右申出を了承しなかつたことが認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。
右に認定した各事実を総合すれば、家元が跡目を定めず死亡した場合には一門の棋士が評議のうえこれを選定していたものと推測できこそすれ、原告主張のように家元の相続人又は未亡人が跡目を指定したりもしくはその同意がなければ名跡を継ぐことができないとする慣習があつたとは俄かに認めがたい。
なるほど、本因坊秀栄および田渕因碩の死後起きた跡目選定についての争いに同人らの未亡人が一役買つたことは前叙のとおりであるけれども、いずれも未亡人の反対した者が結局名跡を継ぐ結果に終つており、また被告が恵下田因碩の死後原告に対し第一七世井上因碩の襲名をしたい旨申し出たことも前記認定のとおりであるが、被告がその襲名には原告の同意を要するものと思つていたことを認むべき証拠はない。もともと前近代的な家元制度の中にあつて家元の未亡人は一門の棋士から師匠の身内として尊敬され、また名跡を継ぐ者は未亡人から代々家元に伝わる遺品類の引渡を受けなければならなかつたこともあつて、跡目を選ぶのに未亡人の意向が事実上影響を及ぼし、また名跡を継ごうとする者がその継承に当り未亡人に相応の礼を尽くしたであろうことは容易に推測しうるところであるが、それ以上に、未亡人が跡目を決めるとか、未亡人の同意がなければ名跡を継げないという慣習が存在しているとは、前記認定の事実殊に徳川時代および第一四、一五世井上因碩の襲名の経過に照らし、未だ認め難いといわなければならない。
(三)、したがつて原告に跡目指定権もしくは襲名同意権があるとする原告の主張は理由がない。(石川恭 大隅乙郎 重吉孝一郎)