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大阪地方裁判所 昭和44年(わ)3953号 判決 1972年3月16日

主文

被告人は無罪。

理由

第一、本件公訴事実および罰条

被告人は、昭和四四年一一月一三日、佐藤訪米抗議、安保廃棄、沖繩奪還などを標榜して行なわれた総評大阪地評主催の集団示威行進に参加したものであるが、ほか数名の学生らと共謀のうえ、同日午後七時三五分ごろ、大阪市東区大川町二三番地先淀屋橋交さ点北西角において、学生らのデモ隊が大阪府曾根崎警察署長などの付した許可条件に違反して進路を変更しようとするのを、制止する任務に従事中の大阪府警察警備部隊第一二中隊第二小隊所属巡査木本正治、同三浦博昭に対し、所携の旗竿でその頭部などを数回殴打して暴行を加え、もつて、右両巡査の職務の執行を妨害したもので、右所為はいずれも刑法九五条一項に該当する。

第二、当裁判所の判断

一、まず、被告人が逮捕されるに至るまでの経緯をみると、

<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

昭和四四年一一月一三日、大阪市北区所在の扇町公園において、総評大阪地評主催の「佐藤訪米抗議、安保廃棄、沖繩奪還一一・一三統一行動大阪大会」が開催され、同日午後五時半ごろから、右集会参加者による集団示威行進が開始された。右集団示威行進については、大阪府公安委員会が昭和二三年大阪市条例第七七号「行進および集団示威運動に関する条例」に基づき、(1)行進は、平穏に秩序正しく行ない、ジグザグ行進、渦巻行進、おそ足行進やことさらな停滞、坐り込み、あるいはいわゆるフランス式デモなど一般公衆に対し、迷惑を及ぼすような行為をしないこと、(2)行進経路(扇町公園西側南出入口――本田技研前交差点――南扇町――梅ケ枝町――梅田新道――大江橋――淀屋橋南詰――肥後橋――桜橋――中央郵便局前――新阪神ビル北西角路上流れ解散)を変更しないことなどの条件を付けてこれを許可し、また、大阪府曾根崎警察署長が道路交通法に基づき、(1)梅田新道交差点から肥後橋交差点までは、車道をその右側端(御堂筋の緩行車道の設けられている部分は、西側緩行車道の右側端)に寄つて行進すること、(2)行進は、四列縦隊で、約二〇〇名で一隊をつくり、各隊の間は約五〇メートルあけることなどの条件を付けて、右集団行進に伴う道路の使用を許可していた。ところで、「革マル」と記入された白ヘルメットを着用した被告人を含む約二〇〇名の集団は、同日午後六時ごろから、右扇町公園で前記集団示威行進に参加し、予定の行進経路に従つて行進したが、梅ケ技町交差点および梅田新道交差点において、それぞれジグザグ行進をしたため、その都度、右集団示威行進の警備に出動していた大阪府警備部隊第四大隊第一二中隊第二小隊(小隊長吉村晃)等所属の警察官らによつて規制され、その後、同集団の左側を一列縦隊となつて併進を続けていた右警察官らとともに、そのままの状態で南進を続け、同日午後七時半ごろ、同市東区大川町二三番地先淀屋橋交差点北西角に至つた。この集団は、被告人を含む約七、八名の旗持ちが先行し、数メートルおくれて約二〇〇名の者がほぼ五列縦隊となつて指揮者とともに行進していたが(以下この縦隊の部分を革マル梯団という。)右交差点にさしかかつた革マル梯団は、同交差点にある南行行きの信号機の表示する信号が赤から青に変つたのに、いつたん、東西に通ずる同交差点北側横断歩道手前で停止し、大阪府東警察署所属の警察官らによる警告を無視して、同梯団先頭列外にいた指揮者の指揮で、先頭者が腕を組み、後続者が前者の腰をつかみ、やや腰を落した状態でいわゆるスクラムを組み、歩調を合せて進行を開始したうえ、前記許可条件に従い、車道右側端に沿つて西側(肥後橋方面に)右折すべきに拘らずこれをせず、右横断歩道の付近より左斜の前方、交差点中央寄りへ進出しようとしたため、同梯団の左側を一列縦隊になつて併進し、西側に右折しようとしていた前記警察官らと接触するに至つた。その際、前記第二小隊所属巡査木本正治は、同梯団左側を併進していた同小隊員の先頭から二番目に、同三浦博昭は、その三番目にそれぞれ位置していたが、他の警察官らとともに右梯団を、前記淀屋橋交差点中央寄りに進出させることなく、西側へ右折させようとして、両手または所持していた大楯で西側へ押そうとして同梯団先頭部分と押し合つて、やや混乱した状態になり、当初押され気味であつたものの、まもなく、後方を併進していた警察官数名応援を得て、これを西側へ押して同交差点より右折させることができた。しかし、この間、右のように押し合いとなつたとき、同梯団先頭よりさらに数メートル先の車道を、旗竿(押収してある昭和四六年押第七八六号の一の竹製の旗竿一本は、当時、右交差点付近に遺留されていたもので、長さ約3.07メートル、直経約五センチメートルの竹竿の先端部分に横約一メートル、縦約七〇センチメートルの布製の旗一枚がついており、被告人らが当時所持していた旗竿と類似の物であると認められる。)を所持して歩いていた被告人を含む前記七、八名の者が、直ちに、同梯団先頭部の西側ないし西南側車道に引き返し、そのうち何名かの者が、それぞれ旗を広げたまま旗竿を振り上げ、これで規制中の右警察官らを殴打するような動作をした。このような状況にあるとき、同梯団の数メートル先の車道を右旗持ちの一団とほぼ併行し、防石ネットを所持して歩いていた前記第二小隊所属巡査山本光一および同池辺芳仁は、近くにいた被告人が、前記の如く同梯団先頭部を西側へ押し続けていた木本巡査および三浦巡査の頭部等を、所持していた旗竿で殴打したのを目撃したとして、被告人のそばに駈け寄り、被告人を公務執行妨害罪の現行犯人として逮捕した。

二、そこで、被告人が前記公訴事実記載の日時場所において、木本巡査および三浦巡査に対し、旗竿をもつて、その記載のような暴行を加えたかどうか、ならびに、右両巡査に対する暴行につき他の者と共謀したかどうかについて判断することとする。

前掲各証拠および検察官作成の「一一・一三統一行動大阪大会事件被疑者山縣和直にかかる参考人取調べ報告書」と題する書面を総合すると、木本巡査および三浦巡査が、前記日時場所において、その頭部(ただし、ヘルメットを着用)を旗竿で何者かによつて殴打されたことはこれを認めることができるが、右両巡査は、いずれも、当時誰によつて殴打されたのか現認しておらず、右の暴行が被告人の行為によるものであることを肯定する証拠としては、前掲山本および池辺両証人の各証言が存在するのみである。そこで、以下右各証言の信用性について考えてみると、

(一)  前掲山本証人は、本件当時の模様につき、当初、「前記の如く池辺巡査とともに防石ネットを持つて歩いていたとき、七、八名の旗持ちが革マル梯団先頭部の西側に引き返し、そのうち、一番手前(南側)にいた被告人が同梯団先頭部の西側車道から、スクラムを組み、腰をおとし、頭を下げて行進していた同梯団の頭越しに、同梯団先頭部の東側に位置し、これを右折させようとして西側に押していた木本巡査ろよび三浦巡査の頭や肩を、旗竿をもつて、殴打したのであるが、まず最初に、前記第二小隊の先頭員から三番目にいた三浦巡査の頭を二、三回殴打したのち、同じく二番目にいた木本巡査の頭と肩付近を一、二回殴打した(両巡査を交互に殴打したことはない。)ので、池辺巡査とともに被告人のそばに進んで行き、その付近で、被告人を公務執行妨害罪の現行犯人として逮捕した。」旨供述していたのに、その後、「まず、右のように一番手前(南側)にいた被告人が、前記の如く同梯団の頭越しに、旗竿で、三浦巡査の頭を一回殴打したので、被告人を町務執行妨害罪の現行犯人として逮捕すべく、被告人のそばに走つていく途中、再び、被告人が旗竿を振りおろし、これが三浦巡査か木本巡査のいずれかのヘルメットに当り、それがバウンドして木本巡査の肩に当り、被告人のそばに到着すると同時位に、被告人がまた旗竿で三浦巡査の頭を一回殴打したので、池辺巡査とともに、被告人を前記理由により逮捕した。」

旨供述を変更した。

(二)  次に、前掲池辺証人は、被告人が木本巡査を殴打したかどうかにつき、直接これを現認していないので判らない旨供述しているが、他面、三浦巡査に関しては、「被告人は、旗竿を上段にふりかぶり、前記のように同梯団の頭越しに、眼鏡をかけているので三浦巡査ではなかろうかと思われた警察官の着用していたヘルメットを三、四回殴打するのを見て、すぐ、山本巡査とともに、被告人を逮捕した。殴られたのが三浦巡査であることは、本署に帰つてから同巡査に聞いて確認した。三浦巡査着用のヘルメットに、被告人の所持していた旗竿の旗の部分が当つたのか竿の部分が当つたのかはつきり判らない。」

旨供述している。

(三)  まず、山本証人の証言についてみるに、同証人は、被告人の殴打行為の回数、対象等その具体的態様について前後矛盾した供述をしているところよりみると、前記認定のとおり、被告人の周囲がやや混乱した状況のもとにおいて、山本巡査が、被告人の行為を正確に現認して認識したことを供述しているかどうか疑わしいといわざるを得ない。また、右両証人のいう被告人の殴打方法、すなわち、被告人が旗竿をもつて、木本巡査および三浦巡査を、行進している同梯団の頭越しに西側から殴打する。すなわち、スクラムを組んでいるほぼ五人のデモ隊員を中にはさんで殴打するということは、それ自体不自然であるばかりか、前記のようにやや混乱している周囲の状況下で、このような殴打行為をすることが現実的に可能かどうか(場合によつては、旗竿が同梯団の構成員に当ることも考えられる。)も疑わしい。そして、吉村晃の検察官に対する供述調書によれば、同人は、旗持ちのうち二、三名が、デモ隊の先頭部の頭越しというより、どちらかといえば、デモ隊の前に位置して殴りつけていた旨供述しており(この供述は、後記の写真3に撮影されている状況とほぼ符合する。)、旗持ちの最も南側にいたという被告人でさえ、右梯団の西側からその頭越しに三浦巡査を殴打していたという右山本および池辺両証人の供述とその現認状況を異にしている。さらに、司法警察員作成の「集団示威行進警備に伴う現場写真撮影報告書」と題する書面中のNo.3の写真一集には、その左端に、警察官が旗竿を所持している者を制止しようとしている状況が把えられており、池辺証人は、この写真は警察官らが殴打される前の状況を撮影したものと思うれる旨供述しているか、前掲証人宮内および山本の各供述、写真に撮影されている警察官の制止状況ならびにその二分後の撮影にかかる同No.4の写真によると、右の写真は、まさに、被告人が逮捕される直前のものと認められる(なお、この写真の撮影された時点の前後の状況を明らかにするためのネガフィルムは紛失を理由に提出されていない。)。そして、これを仔細にみると、同梯団先頭部より、やや離れた南西の位置と思われるところから、三本の旗竿が倒れかかり、その先端部分が、他の警察官の蔭になり足だけ見えている同梯団先頭ほぼ中央の南側にいる氏名不詳の警察官らしい者の頭上に当り、あるいは当ろうとしている状況が写し出され、その旗竿の所持者の(写真外)に対し、氏名不詳の警察官がなんらかの規制を加えようとしているが、同梯団の西側から、その頭越しに警察官を旗竿で殴打している者はなく、三浦巡査は、右梯団の南東側で、梯団からも旗竿からも、かなりはなれた地点に吉村小隊長と並んで佇立しているのが明瞭に看取される。かような、この写真に撮影されている状況は、山本および池辺両証人の被告人を、被告人が三浦巡査を殴打した直後に逮捕したという各供述とかなり異なつていることが明らかであり、また、右両証人の供述するように、数名の旗持ちが、右梯団の西側からその頭越しに警察官らを殴打した後、すばやく、同梯団先頭部より、やや離れた南西の位置に移動したとみるのも不自然である。

してみると、結局、木本巡査および三浦巡査に対する前記暴行が被告人のものであるとする前掲山本および池辺の各証言(ただし、証人池辺については三浦巡査に関してのみ)には、以上みたような種々の疑問が残るので、いずれも充分に措信するに足りず、他に右事実を認めるに足る証拠はない。

(三)  最後に、木本巡査および三浦巡査に対し、共謀による殴打行為が認められるか否かにつき判断するに、右公訴事実記載の日時場所において、被告人を含む七、八名の旗持ちのうち、数名の者が、旗を広げたまま旗竿を振り上げ、これで警察官らを殴打するような動作をしたことは前記認定のとおりであるが、右のうち、如何なる者がどのような状態で、木本巡査および三浦巡査を殴打したかについては、これを認めるに足る充分な証拠がなく(もつとも、前掲No.3の写真中には、そのほぼ中央部に、警察官らしい者が、旗竿で、頭部を殴打されているかの如き状況が撮影されているけれども、右の者が木本巡査であるかどうか明らかでなく、本件は、木本巡査および三浦巡査に対する公務執行妨害罪として起訴されたものであるから、右両巡査以外の警察官に対し、殴打行為がなされたとしても、これにつき公務執行妨害罪の成立を認めることはできない。)、他に、被告人が、他の者と共謀のうえ、右両巡査を殴打したことを認めるに足る証拠はない。

三、以上のとおり、本件公訴事実については、犯罪の証明がなかつたことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをする。

そこで、主文のとおり判決する。

(石松竹雄 松本朝光 永井ユタカ)

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