大阪地方裁判所 昭和47年(わ)4689号 判決 1976年3月29日
主文
被告人両名はいずれも無罪。
理由
第一本件公訴事実の要旨並びに被告人両名及び弁護人らの主張の要旨
一、本件公訴事実の要旨は、被告人秦政明は、大阪市北区兎我野町一番地山安ビル内所在有限会社アート音楽出版の代表取締役であり、被告人中川五郎は、同社が発行する季刊誌「フオークリポート・うたうたうた」の編集人であつたものであるが、被告人両名は、同誌編集人村元武及び早川義夫両名と共謀のうえ、昭和四五年一二月一日発行の「フオークリポート・うたうたうた冬の号」(以下本件雑誌という。)七九頁から九一頁にかけて、被告人中川五郎が「山寺和正」のペンネームで執筆し、そのうち特に八六頁上段二一行目から九一頁上段末行までの間に性交、性戯に関する露骨で具体的かつ詳細な描写記述を含むわいせつ文書である「フオーク小説ふたりのラブ・ジュース」(以下本件小説という。)を登載し、同月上旬から翌四六年二月中旬までの間、大月楽器店外一一六名に対し、本件雑誌合計三二〇冊を販売するとともに、同月一五日右アート音楽出版の本社において、販売の目的をもつて四〇二冊を所持したものである、というのであり、検察官は、被告人両名の右所為は、刑法一七五条前段、六〇条に該当する旨主張する。
二、被告人両名及び弁護人らの主張は多岐にわたつているが、その要旨は、
(一) 本件小説は、刑法一七五条にいうわいせつ文書に該当しない。
(二) 刑法一七五条は、表現の自由を保障する憲法二一条に違反する。
(三) 刑法一七五条にいうわいせつの概念は極めて不明確であり、同条は白地規定にすぎないから、罪刑法定主義を定めた憲法三一条に違反する。
(四) 本件小説を処罰することは、法の下の平等を定めた憲法一四条及び両性の本質的平等を定めた同法二四条に違反する。
したがつて、右いずれの理由によつても被告人両名は無罪である、というのである。
第二当裁判所の判断
当裁判所において取調べた証拠によれば、前記公訴事実のうち、本件雑誌の七九頁から九一頁にかけて登載されている本件小説が、刑法一七五条にいうわいせつ文書に該当するかどうかの点を除いて、その余の事実はおおむね認められるが、当裁判所は、以下に述べる理由により、本件小説を同条にいうわいせつ文書と断定するについては疑問の余地があると考えるものである。
一わいせつ文書の意義及びその判断基準についての当裁判所の基本的見解
(一) 刑法一七五条にいうわいせつ文書の意義について、昭和三二年三月一三日のいわゆるチャタレー事件に関する最高裁判所大法廷の判決(最高裁判所刑集第一一巻第三号九九七頁以下)は、従来の大審院及び最高裁判所の判例を基礎とし、「その内容がいたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的しゆう恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義し、わいせつ文書たるためには、要するに「しゆう恥心を害することと、性欲の興奮、刺激を来たすことと、善良な性的道義観念に反することが要求される」として三個の要素を掲げ、その後の最高裁判所判例もこれを踏襲していることは周知のとおりである。刑法一七五条にいうわいせつ文書の意味内容が、法の規定それ自体からは必ずしも明確でないところから、これを知る手掛りとしては従来の判例を参考にすべきであり、当裁判所もわいせつ文書の一般的定義としては、最高裁判所の右判例の見解を是認すべきものと考える。しかし、この見解は、同条にいう「わいせつ」の概念を一応明らかにしたものといい得るけれども、いまだ一般的抽象的基準であることを免れないから、これを具体的文書に適用するに当つては改めてその解釈が必要とされるのである。
(二) それでは、このわいせつの三要素を如何に解すべきであろうか。そもそも、性欲やそれに伴う性行為は、それ自体としては善でも悪でもなく、前者は種族保存のために人間が備えている本能であり、後者はその当然の発露であつて、いずれも人間の極めて自然な側面である。しかし、人間が社会生活を営むことを余儀なくされている以上、本能に由来する性的欲求といえども、人間の社会生活における他のあらゆる行動が、それぞれ程度の差こそあれ何らかの制約を受けていると同様に、これを満足させ発現させる場合に、一定の社会的制約を免れられないことはいうまでもないところであり、この社会的制約は、社会生活上の秩序、すなわち、一定の性的社会秩序を形成しているのである。この性的社会秩序は、時と所とを異にするに従つて変せんするものであり、特に性の解放が叫ばれ性表現の緩和傾向が顕著にみられる今日、性に関する情報が活字や電波その他の媒体を通じて巷間にはん濫し、その当否は別にして、旧来の価値体系を揺り動かそうとしているすう勢にあることも認めざるを得ない。かくして、性的社会秩序は現在もまさしく流動しつつあるというべきであり、それが現代社会の特徴の一つを形作つているといつても過言ではない。そのような流動の渦中にあつて、人間の性生活にまつわる各種のタブーは、漸次撤廃されていく傾向にあり、そのことが人間の幸福追求に資する一面を持つていることは否定できないし、また、正しい方向を目差している限り望ましいことではあるけれども、これにも社会や文明の発展に対応して一定の限度があるものといわなければならず、最低限度の性的社会秩序が、侵すべからざるものとして保護の対象とされていることは、刑法一七四条ないし一八二条及び一八四条の各規定の存在からも明らかといわねばならない。
ただ人間と性欲との間には、本来的にも歴史的にも複雑で、深刻かつ極めて微妙な関係があるところから、正常な性的社会秩序の維持は、第一次的には宗教、道徳その他の社会的良識にまつべきものであつて、直ちに刑罰によりこれを維持しようとするのは刑法の機能からいつても本来の在り方でないことも多言を要しない。したがつて、性的刺激を伴う文書についても、処罰の対象となる行為はきびしく制限し、社会的良識等によつて淘汰されることを期待するのが望ましいというべきであろう。また他方、言論、出版その他一切の表現の自由は、憲法二一条の保障するところであり、性的刺激を伴う文書の頒布、販売行為等といえども、右基本的人権の範囲に当然含まれているのであるから、この面からもみだりにこれを処罰の対象とすることは慎しむべきである。この表現の自由は、憲法の保障する他の多くの基本的人権とは異なつて、民主主義をささえている基本的な礎石をなす極めて重要な権利であるから、刑法一七五条の解釈適用においても、それが恣意的となり、表現の自由を侵害することのないよう慎重に配慮することが要請されているのである。
したがつて、およそ性的刺激を伴う文書、特に性行為を題材とする文書の場合には、その性質上多かれ少なかれ、さきのわいせつの三要素をもつているのが通例であることをも併せ考えるならば、右三要素を具体的文書に形式的にあてはめ、これが少しでも含まれておればすべて処罰の対象とする考え方には、にわかに賛成することができないのである。何故ならば、このような考え方は、その文書が、芸術的、思想的、学術的価値のある場合はもち論のこと、それらの価値をもたない作品の場合であつても、憲法上保障された表現の自由を侵害する結果を招く危険性が多分にあるからであり、また、わいせつの三要素に形式的に該当するとしても、直ちに処罰の対象とするよりは、社会的良識等の淘汰にまち、刑法はその謙抑を保つ方が、かえつて性的社会秩序の維持、安定に役立ちこれが賢明である場合もないとはいえないからである。
(三) ところで、ひと口にわいせつ文書といつても、その文書の内容や描写、又は記述の仕方、程度には、多種多様のものがあることはいうまでもない。内容の点についてみるのに、たとえば、人間の根源的欲望の一つである性欲の問題を通じて「人間性にひそむ暗黒面を徹底的に撤発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に追ろうとする」(いわゆるマルキ・ド・サド「悪徳の栄え」事件に関する東京地裁判決・下級裁判所刑事裁判例集第四巻第九・一〇号九四四頁)ものや、「性に関する伝統的な、……いわゆる清教徒的な観念、倫理、秩序を否定し、婚姻外の性交の自由を肯定するが、同時に性的無軌道な新時代の傾向に対しても、批判的であり、精神と肉体との調和均衡を重んずる性の新たな倫理と秩序を提唱」(前記チャタレー判決。最高裁判所刑集第一一巻第三号一〇〇二頁)しようとするものなど思想的、哲学的内容を含むものから、人間の性の問題を単に好色的興味の対象とし、刹那的な快楽面のみを誇張するいわゆる春本の類に至るまで、その段階はさまざまである。また、性的場面の描写記述の仕方、表現の程度についても一様でないのが実情であろう。文書の場合にわいせつ判断の対象にされるものとしては、一般的に小説等の作中人物の性行為やそれに付随する性的場面に関した描写又は記述のごときものが挙げられるが、これらの記載を含んでいる文書であつても、その具体的な描写記述の仕方は、比喩を用いたり、素描に終るものから写実的手法を駆使し、解剖学的な緻密さをもつた描写に至るまでさまざまであり、ことに小説等の場合は、その主題、構成、登場人物などの違いによつても、性的場面の表現の仕方には、ある意味で無限の態様と広がりがあるものである。したがつて、性的刺激を伴う文書のわいせつ性には、明らかに強弱さまざまの程度があることを認めざるを得ないのである。このわいせつ性の強弱をわいせつ度といい換えるならば、刑罰によつて取り締るべきわいせつ度とはいかなる程度をいうのかが、まさしく問題とされなければならない。
(四) ところでさきにも述べたように、性欲又はその当然の発露である性行為それ自体は人間の自然な側面であり、それ自体はいかなる意味においてもわいせつと呼ばれるべき筋合いのものではない。それがわいせつとして処罰の対象とされることがあるのは、それらの発現の態様の中に著しく性的社会秩序に反する場合があるからである。すなわち、性欲又は性行為には、種族保存の作用のみならず、快楽享受の作用があるために、古来人間がこれをめぐつて、さまざまの性欲発現の態様を示してきたところであり、本来宗教、道徳その他の社会的良識などの規律に任せられるべき性の問題ではあつても、その発現の態様が、時としてそれらの規律のらち外にあつて、しかも社会全体の性的秩序を著しく脅かす場合があるからにほかならない。このような見地から考えると、おのずから刑罰によつて処罰の対象とすることができる程度のわいせつ度と右の程度に達していない軽微なわいせつ度との区別を認めるのが相当であろう。刑法一七五条は、性的社会秩序を著しく侵害する危険性のある程度のわいせつ度を有する文書をわいせつ文書として処罰の対象とする趣旨であると解して、初めて同法は表現の自由を保障した憲法二一条に矛盾なく調和するものである。すなわち、表現の自由が民主主義をささえる重要な権利であるとしても、絶対無制限の権利ではない以上、その自由に本来的に内在する制約を免れ得ないものであり、上述の程度に達したわいせつ度を有する文書について、その頒布、販売行為等を処罰することは、まさしく右の内在的制約の一つの現われにすぎないからである。このように解するならば、文書の中に性的場面の露骨詳細な表現部分があるからといつて、これを個別的に摘出し、他の事情を考慮することなく、直ちに右の危険性があるとして、一律に刑法一七五条によつて処罰すべきわいせつ文書であると考えるのは相当でなく、その文書の主題、構成、表現の方法、さらには、文書自体から客観的に推認される作者の製作意図などをも総合的に考察したうえで、すなわち、文書を全体として考察したうえで、実質的にこれが処罰の対象とされるべきわいせつ度を有するか否かを判断しなければならない。
(五) ところで、具体的文書がこのようなわいせつ度を有するものとして処罰の対象となるかどうかは、究極的には裁判所の判断に委ねられているのであるが、裁判所が右の判断をなす場合の基準はいかなるものであるのか。
この点について最高裁判所は、前記チャタレー事件の判決において、「一般社会において行われている良識すなわち社会通念」がその判断基準であり、「社会通念がいかなるものであるかの判断は、現制度下においては、裁判官に委ねられている」と述べている。当裁判所もまた、この判決が示した判断基準を、一般論としては正当なものとして維持すべきものと考える。ただ右判例自体承認しているように、一般社会の良識又は社会通念といつても、現代社会が、それらと密接不可分の関係にある価値観の多様な存在とその対立とを内にはらんでいて、しかも、ある時代、ある社会又はある世代によつてもその存在や対立の様相は複雑を極め、時の流れと共に流動するものであるから、万古不易の社会通念というものはあり得ず、時代の変化や異なる社会又は世代間の影響を免れ得ない相対的観念であるということである。したがつて、社会通念を問題にする場合には、時代の変化に対し十分に意を用いなければならないと共に、各社会又は各世代間の価値観の相違に対応した社会通念の変容を全く無視することは、かえつて独断の危険を犯すことにもなりかねない点を注意すべきである。そうであるとすれば、具体的文書がわいせつであるかどうかを考えるに当つて、その文書の読者環境の中における通念といつたものを、一般的な社会通念を判断する際の資料から排除することは誤りであるといわなければならず、当該文書を取り巻くもろもろの環境についても十分参酌したうえで、一般社会の通念を探る努力がなされなければならないのである。
二本件小説について
そこで、本件小説が刑法一七五条により処罰すべきわいせつ文書に該当するかどうかを検討する。
(一) <証拠・略>によれば、以下の事実が認められる。すなわち、本件小説は、フオークソングを愛好するグループの主として情報交換などの機関誌として、昭和四四年ころから被告人秦が主催して発行していた月刊誌「フオークリポート」を、昭和四五年秋ころに解消し、これを季刊誌として再編刊行した最初の雑誌「フオークリポート・うたうたうた冬の号」に、同誌の編集人でもあつた被告人中川が、「山寺和正」のペンネームで執筆した短編小説である。
同被告人は、中学のころからフオークソングに興味を持ち始め、そのころアメリカのフオークシンガーであるビート・ジーガーのフオークソングなどに影響を受けたのであるが、それらの影響を通じて、同被告人は、フオークソングが従来の音楽とは全く異なり、テーマ、歌詞及びメロディーなどが極めて自由で、形式にとらわれない柔軟性に富んでいることに感激を覚え、音楽も単なる娯楽や趣味といつたものを越えて、自分の考えや感興を表現する自己表現の手段になるものであることを知り、高校二年のころからは、自作の歌などを小さな集会等で歌うようになつた。その後、関西を中心にいわゆるフオークソング運動が盛んとなり、同被告人も「受験生ブルース」や「主婦のブルース」などを作詞して全国に名前を知られるようになつた。そのころのフオークソングの多くは、戦争、人種差別、部落差別などに反対するといつた社会的な問題をテーマにした、いわゆるブロテスト・ソングが中心であつたので、同被告人としては、人間にとつて、ことに若者にとつて、愛や性の問題が避けて通ることのできないものである以上、それらをもテーマにして歌うべきであると考えていたけれども、性をタブー視する考え方や、同被告人も含めた歌い手の側の自己規制などに阻まれて思うようにはいかなかつた。当時、同被告人は、本来性とは人間の自然な側面であり、むしろ美しいものであるはずなのに、既成の観念がこれを汚らしいものとして抑圧し、不当にタブー視する一方で、性を商品化することを許していると考えて、強い疑問の念を抱いていたところから、それらの性に関する誤つた認識を取り除くべきであり、性の問題については誰しもうしろめたさを感じないで、当り前のこととしてこれを話題にすべきであると思つていた。昭和四五年夏ころ、同被告人は、前記月刊誌「フオークリポート」の編集人であつた村元武から依頼を受けて同誌の編集を担当することになり、右村元、同誌の主催者である被告人秦及び編集人早川義夫らと数回の編集会議を開いて、従来のフオークソング中心の月刊誌を改め、季刊誌として若者向けの総合雑誌に再編して発行することが決定され、第一号ではフオークソング関係の記事の外に、若者が直面している性の問題を取り上げることになつた。そこで、被告人中川は、さきの性に関する自己の思想を小説の形をかりて表現しようと考え本件小説を執筆し、これを本件雑誌に登載した。被告人秦は、それまでの月刊誌「フオークリポート」の販売店を一般の書店ではなく、楽器店及びレコード店などにしていたほかに、定期購読という形で個人に直接販売していたので、本件雑誌を印刷製本したうえ、従来と同様の方法によつてそれらの販売店及び全国に点在する定期購読者に対してこれを販売した。それらの販売店に出入りする者は、おもに高校生を中心とした未成年者であり、定期購読者の殆んどもまた同年齢層に属し、本件雑誌の読者の大部分は主として一六歳から二〇歳の未成年者で占められていた。
(二) ところで、本件小説の内容は、亘とかすみといういずれも一七歳の高校生が、ある日フオークソングの演奏会に行き、そこで歌われた「わたしたちの望むものは」というフオークソングに感動し、その夜は二人とも家に帰らないで、ホテルに泊つて性行為の初体験をするという筋としては極めて単純なものである。本件小説については、そのほぼ三分の二に主人公の亘とかすみが性行為の初体験をしていく過程が具体的かつ率直に描かれていて、ことに検察官主張の八六頁上段二一行目から九一頁上段末行にかけては、性交又は性器等のいわゆる性的場面が、比喩、婉曲、寓意等の手法を用いないで、いわば写実的に書かれているものである。そこで、右のような描写又は記述を含む本件小説が、前記のわいせつ性判断の基準に照らして処罰の対象とすべき程度のわいせつ度を有するかどうかが問題となるのである。
三本件小説のわいせつ性について
(一) 本件小説のわいせつ性を判断するに当り、まず第一に注意すべき点として、これまで述べてきたように、刑法一七五条が直接保護しようとする法益は、最低限度の性的社会秩序であり、同条が処罰の対象とするのは、文書の内容又はその描写記述が前述のわいせつ度をもつている場合であるということである。したがつて本件小説には一七歳の高校生の男女が性行為の初体験をする様子が描かれているけれども、婚姻外のあるいは高校生同志の性交渉を題材としていることを取り上げて、その道徳的当否を問題とするものではない。第二に、本件小説中に表現されている被告人中川の性に関する思想が、仮りに道徳的、教育的又は社会的に有害であるとしても、本件小説のわいせつ性判断には何ら影響がないということである。自己の思想を小説の形で公表することは、当然に表現の自由を規定した憲法二一条の保障の範囲内に属することであり、この権利は最大限に尊重されなければならないからである。第三に、本件雑誌は、一般の書店において社会の各層を対象として販売される多くの文書とは異なつて、読者層が限定され、しかも高校生を中心とした未成年者を主としてその対象としている点が特徴的であり、これは、そのわいせつ性判断の基準を探るうえでも無視できないということである。
そこで、これら高校生を中心とした未成年者が、いかなる性的状況に置かれているかを検討するに、これを今正確に認識することは極めて困難なことがらに属するが、当公判廷にあらわれた証拠に照らして次のように概括することができよう。すなわち、性成熟度の指標となる男子の精通現象や女子の初潮が現われる年齢は昭和三〇年度以降それまでの横ばい状態を脱して急激に低下する傾向がみられ、この傾向は現在も進行している。高校生の場合は特に肉体的成熟が著しいところから、性の問題に極めて強い関心を持つていて、その中には性交の経験を有する者もまれではない。現在のところ、これらの状況に対して、学校における性教育が正しく対応しているとは必ずしもいえないけれども、本件雑誌の発行された昭和四五年当時には取り上げられていなかつた避妊の問題が、現在は高校における性教育の中に新たに加えられていることからもうかがえるように漸次改革の方向にある。さらに、未成年者の性に関する情報の中には、「いわゆる道徳化」を主題からはずし、「性本能はほかの本能とならんで同じように満足させることが人間の基本的な欲求として必要である」という前提のもとに「暴力的な行為でのぞむのでない限り、個人は年齢や性や性本能の表現形式にとらわれずに、性欲を満足させる権利をもちうる」との立場で書かれた若者向の性教育書「高校生の性知識」(ベント・H・クレーソン著。昭和四九年押第八四三号の二)などが発行され、未成年者は同書やこれに類する書籍を一般の書店で自由に購読することが可能な状況にあつて、彼らが性に関して得ることのできる情報、知識は質量ともに昔日の比ではないことが容易に推認される。
(二) そこで、本件小説を通読し、前記のわいせつ性判断基準を踏まえたうえで、右の点につき検討すると、検察官が指摘する性的場面の中には、性交その他の性的行為及び性器の状況、性的行為時の会話及び発声音、その前後の感想等を交えて具体的、写実的に描かれている。のみならず、性行為や性器についても、日常的な俗語や常識的な医学的用語を使用しているので、中学生程度の知識があれば細部にわたつて十分に理解することが可能である。したがつて、本件小説を、その読者層をはじめ社会一般の普通人が通読した場合に、性的場面の描写のかなりの部分から、その性欲を興奮又は刺激させられ、性的しゆう恥心を惹起せしめられるおそれがないとはいえず、このことは後記証人前田仁の供述からも肯定できるところである。
しかしながら、同時に、性的行為の描写に前後して、作者の性に関する考えが、作中人物の口をかりて間接に、あるいは、作者自身が語りかけることによつて直接に表現されていて、それを理解することもまた、本件小説が平易な文章で書かれているために極めて容易である。たとえば、八五頁上段一〇行目から一五行目にかけて「差恥心とはいつたい何なのだろう。例えばいま亘が恥ずかしく思うのはどんなわけで?下着姿をかすみに見られるのが嫌なのだろうか。やつぱりここでも、例えば下着というのは美しくないとか、セックスは美しくないという幼い頃から、親父、おふくろそれに先公からふきこまれた既成道徳が、無意識的にでてきてしまうのだ」とか、八七頁下段一二行目から一七行目にかけて「人間が○○○○<注、性交の意>をするということ。それは、人間がつくられたときからあつたあたりまえのことなのだが二つの磁石のようにこうして求めあい重ねあつていくということを今はじめてかすみはなんの疑いもなく感じた。それは、この世で一番美しいことなんだ。それは一番自然なことなんだ。それをどうして大人たちはとてもけがらわしいことのようにいうのだろう」とか、八九頁下段一行目から一〇行目にかけて「しかしそもそも、あたまとからだを分離して考えること自体馬鹿げたことなんだ。からだが感じたことを、あたまで考えることに還元して、納得がいくような論理が組み立てられたら、そこで始めて、自分は感じたと信ずることができる。そういう思考構造をいつのまにか、植えつけられてしまつたのではないだろうか。あるいはからだがいつでもあたまより低くあつかわれ、いつもあたまが優位に立つ考え方。そしてからだとあたまがいつしよに動くのをすごく恐れるということ。そこから○○○○<注、性交の意>は良くないとか、いやらしいということが生まれてくるのではないだろうか」等の表現の中から、作者の性に関する考え方をくみ取ることは容易であり、本件小説を通じて従来とは異なつた性のモラルの問題を読者に訴えようとしている作者の意図を理解することもさほど困難なことではない。このような作者の製作意図をわいせつ性判断の資料となし得るかどうかは一個の問題であるが、当該文書外に存する作者の主観的意図までも参酌できるかどうかは別にして、本件小説のように、作者の製作意図が、文書の表現内容自体から客観的に推認され、しかも、それが性的行為の表現と不可分一体をなしている場合には、これを除外して判断するわけにはいかないと考えられる。
右のような製作意図を含めて性的場面の描写を全体的に考察するならば、それが性的行為を単に好色的興味の対象とし、刹那的な快楽の道具として享楽的に取り扱つているものでないことは明らかである。被告人中川が、その意図したことを正しく読者に伝達することに成功しているかどうかについては必ずしも疑問なしとしないけれども、本件小説が、人間の低俗な性的興味をそそることをねらつた底意のある好色的な小説類とその製作意図の点において異なるものがあることは肯定すべきである。
さらに、本件小説の内容及び性的場面の描写記述から受ける全体的な印象、感想はどうかという点について考察してみる。この点について、高校教論で生活指導部長の地位にある証人篠原茂は「この小説には男女の交際というものを、相手の人格性を全く無視して性的な衝動のみで行為をすることが書かれていると思う。性交の表現が全く卑わいな言葉で表現されており、結局男女の交際を性的な対象として見ることが非常に強く強調してあるという強い印象を受けた。大阪市立高校の生活指導部長会でこの小説を回覧した際にも、表現が非常に幼稚で文学性が全くない、完全なエロ本であるという意見が非常に強く出た」と供述する。これに対し、フオークソングを愛好し高校時代から「フオークリポート」誌を購読していた証人前田仁は「この小説の中の性的描写に興奮し、気恥ずかしい気持もしたけれども、気分が悪くなるという感じはもたなかつた。エロ小説などとくらべてみた場合何か陰にこもつたいやらしさはないと思う。警察でこの本を読んだ感想を尋ねられた時もわいせつではないと言つた」旨、短大教授で詩人でもある証人片桐譲は「この小説は、高校生の性の問題を真正面から内容として取り上げている点に一つの意義がある。そこには、性的な興奮をさせることが目的ではなく、冷静にさめた目で性というものを見てみよう、世間の先入感にとらわれずに自分の感じで調べてみようという態度がみられる」旨、公立学校事務職員である証人増田祐子は「週刊誌の小説などにある性描写のように女性差別の観点から書かれたという印象は受けなかつた。この本を読んでいやらしい感じは受けなかつた」旨、高校教諭である証人足立正治は「かなり具体的な表現がしてあるのは作者の内側からの欲求がつのつて、ああいう形で表現しなければかなり情緒的な不満が増したであろうと感じた。非常に生き生きとした形で性というものが取り上げられているが、それは生徒たちが性の問題を自分の現実的な問題としてとらえていく一つのきつかけになるのではないかと思う」旨、医師である証人上野博正は大人の雑誌などには人の気を引くような隠微な、いわば霞をかけたような部分をつくるというのが多いようでかえつていやらしい感じがするが、一つ一つの現象がそのものとしてぱつぱと取り出してあるのでいやらしくない感じである。若い助産婦三、四人に読んでもらつたが同じ感想であつた」旨それぞれ供述する。これらの供述からも分かるように、本件小説の読後感ないし評価は読む人によりさまざまであり、たとえば、高校教諭という同じ職業にある者同志の間にあつてもきわだつた対立がみられる。篠原証人に代表される本件小説の読後感や評価を支持する階層が一方に存在する反面、価値観が対立し多様化している現代社会において、その他の各証人が述べているような見方に共感を覚える読者も少なからず存在することは否定できないであうろ。しかし、本件小説を虚心に一読するならば、さきに引用した二、三の証言からもうかがえるようにこの小説は、性的行為の場面を比喩や寓意を用いて不自然にぼかしたりすることなく、あくどい、執ような、誇張した表現のいずれをも避け、率直かつ平易に描写することで、結果的に読者の想像力の働く余地を狭めているため扇情的な感じを与えず、かえつて性に関する陰湿で卑わいなイメージを読者に与えることから免れているものと評価して妨げない。
第三結論
以上に述べた諸般の事情を総合してみると、本件小説が、現今の社会通念に照らし許容できず、性的社会秩序を著しく脅かす危険性があるとして刑法が処罰の対象とすることができる程度のわいせつ度を帯びているものとはたやすく認めることができず、本件小説を刑法一七五条にいうわいせつ文書と断定するには疑問の余地があるというべきである。それ故、被告人両名がこれを販売、所持した行為は、結局罪とならないから、弁護人のその余の主張について判断するまでもなく、刑事訴訟法三三六条により、被告人両名に対し、いずれも無罪の言渡をする。
よつて、主文のとおり判決する。
(浅野芳朗 高橋省吾)(山口毅彦は転補のため署名押印できない)