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大阪地方裁判所 昭和47年(ワ)242号 判決 1981年5月15日

甲丙各事件原告、乙事件被告(以下単に原告という)

増谷英一

右訴訟代理人

密門光昭

外三名

甲丙各事件被告、乙事件原告(以下単に被告という)

南海電気鉄道株式会社

右代表者

川勝傳

甲事件被告、乙事件原告(以下単に被告という)

栄泉興産株式会社

(旧商号住生不動産株式会社)

右代表者

村上昭

右両名訴訟代理人

樋口庄司

外七名

主文

一  原告の甲丙事件の各請求を棄却する。

二  被告南海電気鉄道株式会社と原告の間で、別紙目録(三)の(1)ないし(14)記載の土地が被告南海電気鉄道株式会社の所有であることを確認する。

三  被告栄泉興産株式会社と原告の間で、別紙目録(四)の(1)ないし(9)記載の土地が被告栄泉興産株式会社の所有であることを確認する。

四  原告は被告らに対し、前二項の被告らの各土地に立入つたり、その他被告らの各占有を妨害する等一切の行為をしてはならない。

五  訴訟費用は全事件につき原告の負担とする。

事実

第一  申立

(甲事件)

一  原告

1 被告南海電気鉄道株式会社(以下被告南海という)は、別紙目録(三)の(1)ないし(14)記載(以下目録の(1)ないし(14)という。他も同じ)の各土地の表示登記の抹消登記手続をせよ。

2 被告栄泉興産株式会社(以下被告栄泉という)は、目録(四)の(1)ないし(9)の各土地の表示登記の抹消登記手続をせよ。

3 原告と被告らとの間で、目録(一)の土地が原告の所有であることを確認する。

4 被告らは原告に対し、前項記載の土地を明渡せ。

5 被告らは各自原告に対し、昭和四七年一月一日から第三項記載の土地を原告に明渡すまで、一ケ月金三〇〇万円の割合による金員を支払え。

6 訴訟費用は被告らの負担とする。

二  被告ら

1 原告の各請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

(乙事件)

一  被告ら

1 主文第二ないし第四項と同旨。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

二  原告

1 被告らの各請求を棄却する。

2 訴訟費用は被告らの負担とする。

(丙事件)

一  原告

1 被告南海は原告に対し、金二四七五万円及びこれに対する昭和四七年一月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告南海の負担とする。

二  被告南海

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

第二  主張

(甲、丙事件)

一  請求原因

1(一)  中林康信は、明治二一年一一月一六日、先代中林喜十郎が未登記のまま所有していた目録(一)の土地の現地(係争地ともいう)を、遺産相続により承継取得し、同日目録(一)のとおり保存登記を経由した(同土地を関茶屋の土地といい、その登記を関茶屋の登記という)。

(二)  中林康敏(以下康敏という)は、昭和四年三月九日、先代中林康信の家督相続として関茶屋の土地を承継取得し、同四三年一〇月一五日、その所有権移転登記を経由した。

(三)  その後、関茶屋の土地は、康敏から転々と譲渡され、昭和四四年一〇月二〇日、原告が山田与四郎から買受けて所有権を取得し、同月二四日、その移転登記を経由すると共に、その引渡を受けた。

(四)  なお、関茶屋の土地上には、一面に約二五年ないし三〇年生の松約一万六五〇〇本以上が成育し(一反歩につき一五〇本の割合)、ほかに雑木類も多数生育していたのであつて、原告の同土地取得の目的には、これら樹木の育成も含まれていた。

2  ところで、関茶屋の土地の現地は、目録(三)の(1)ないし(14)及び同(四)の(1)ないし(9)の土地としても登記されている(それの登記を今熊の登記という)。その経緯は、次のとおりである。

(一) 先ず康敏が、昭和八年四月三〇日、関茶屋の土地の現地を未登記と誤信し、目録(二)の(1)及び同(三)の(1)のとおり保存登記を経由した。

(二) そして、目録(二)の(1)の土地は、昭和九年八月二二日、分筆されて目録(二)の(2)ないし(4)のとおり登記がなされた。そのうち目録(二)の(2)の土地は、昭和二三年七月二日、自作農創設特別措置法所定の手続を経て国に買収され、同二七年二月一九日大阪府知事の自作農創設特別措置登記令の規定による申出に基づき、同年四月二八日付でその登記用紙が閉鎖されたが、昭和二八年以降同土地が国により区分されて売渡され、目録(三)の(2)ないし(14)の及び同(四)の(6)ないし(9)のとおり保存登記がなされた。また、目録(二)の(3)の土地は、昭和四三年五月二四日、分筆された目録(四)の(1)及び(5)のとおり、更に目録(二)の(4)の土地は、昭和三一年五月三〇日、分筆されて目録の(2)ないし(4)のとおり、それぞれ登記がなされた。

(三) 前項の細分化された各土地及び目録(三)の(1)の土地は、転々と譲渡され、現在、被告南海が目録(三)の(1)ないし(14)の土地の、また、被告栄泉が目録(四)の(1)ないし(9)の土地の、それぞれ最終譲受人である。

以上のとおりであつて、今熊の登記は、係争地につき前記のとおり明治二一年になされた関茶屋の保存登記の後である昭和八年に至つて、何の根拠もなく不法になされたものである。従つて、前記康敏のなした保存登記は、不動産登記法一五条に規定する「一不動産一登記用紙の原則」に違反し、同法四九条二号にいう「事件ガ登記スベキモノニ非ザルトキ」に該当するから、その申請が却下されなかつたとしても二重登記として、それに続く登記とともに無効であるから抹消されるべきであり、被告らは係争地の所有権取得をもつて原告に対抗しえない。

なお、係争地は、狭山町当局により同町の区域と取扱われているけれども、これは前記のとおり康敏が今熊所在と誤つて保存登記を経由したことに由来し、堺市及び狭山町両当局がこの取扱いの誤謬に気付かなかつたためであるから、先の結論に消長を及ぼさない。

3(一)  被告らは、係争地が原告所有の関茶屋の土地であることを否定し、昭和四六年夏ころから同土地への立入りを開始し、すくなくとも同年一二月二二日からは、同土地全部を共同して占有している。

(二)  このために原告が被つている賃料相当の損害は、一か月金三〇〇万円(坪当り一か月金一〇〇円)である。

4(一)  被告南海は、昭和四六年七月ころから同年一二月下旬ころまでに、係争地上に生育していた二五年ないし三〇年生の松一万六五〇〇本を伐採した。

(二)  このために原告が被つた損害は、一本につき金一五〇〇円を下らないから、総額にして金二四七五万四相当というべきである。

よつて、原告は被告らに対し、係争地が関茶屋の土地として原告の所有であることの確認を求めるとともに、同所有権に基づき、被告南海に対し目録(三)の(1)ないし(14)の各土地につき、また被告栄泉に対し目録(四)の(1)ないし(9)の各土地につき、それぞれ表示登記の抹消登記手続を求め、更に被告らに対し右各土地の明渡及び本件土地の不法占拠の後である昭和四七年一月一日以降右明渡に至るまで一ケ月金三〇〇万円の割合による損害金の支払を求め、また被告南海に対し、不法行為による損害賠償金二四七五万円及びこれに対する同不法行為の後である昭和四七年一月一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  答弁

1  請求原因1の(二)ないし(四)のうち、関茶屋の登記の移転経過及び康敏が係争地の所有者であつたことは認めるが、関茶屋の登記が係争地の登記であること、それを前提とする権利変動に関する主張事実を否認する。元来、関茶屋の登記により表示される土地は、その旧土地台帳が存在していないことによつても明らかなように、実在しないというべく、仮に実在するとしても係争地ではない。

更に、仮に係争地が関茶屋の登記により表示された土地であつたとしても、康敏は、関茶屋の土地として処分をした昭和四三年当時、係争地につき何らの権利をも有していなかつたから、康敏の処分、これに基づくその後の処分によつては、係争地につき権利変動の効果を生じない。というのも、康敏は、それ以前に係争地を今熊の登記の土地として、すでに処分していたからである。

2  同2のうち、関茶屋の土地が係争地と同一であること、康敏が係争地を未登記と誤信したこと、狭山町当局が係争地を同町の地域と取扱つていることが誤りであること、今熊の登記が劣後の二重登記であるとする各事実は否認し、その余の事実は認める。なお、二重登記に関連する被告らの主張は乙事件のとおりである。

3  同4及び5の各(一)の事実は認めるが、各(二)の損害発生の事実を否認する。

(乙事件)

一  請求原因

1  係争地は、もと康敏の所有であつた。

2  康敏は、昭和八年三月三〇日、係争地につき、目録(二)(1)及び(三)(1)のとおり保存登記を経由した。(今熊の登記)

3  目録(二)(1)の土地は、甲丙事件請求原因(2)(二)記載のとおりの変遷を経て、また同目録(三)(1)の土地も転々譲渡され、現在、被告南海が同目録(三)の(1)ないし(14)の各土地の、被告栄泉が同目録(四)の(1)ないし(9)の各土地の最終譲受人である。

4  原告は、係争地が関茶屋の土地でもあつて、今熊の登記は、二重登記で無効であるとして、被告らの本件土地所有権を争つている。

しかし、係争地は、関茶屋の土地ではない。仮にそうであつても、本件は、「登記簿上の関係において形式上同一性が認められる場合」ではないから二重登記の問題ではない。すなわち、今熊の登記が現実の行政区画表示に一致するから、関茶屋の登記は効力を有しない。また仮に、二重登記の問題としても、双方の登記に所有権保存登記以外の登記があるときは、右保存登記以外の登記が先になされた方が優先する。すなわち、目録(二)の(2)ないし(4)、同目録(三)(1)の各土地について、同目録(二)(2)は、昭和一一年六月八日に、同目録(二)(3)は、昭和九年一二月二一日に、同目録(二)(4)は、昭和一〇年五月二二日に、同目録(三)(1)は、昭和九年一二月二一日にそれぞれ所有権移転登記がなされているが、同目録(一)の土地については、昭和四三年一〇月一五日に所有権移転登記がなされているのであるから、関茶屋の登記は効力を失なう。

5  被告らは、係争地で住宅地の開発工事を進捗中であるところ、原告は、係争地に立入つたり、被告らの工事を妨害する虞れがある。

よつて、被告らは原告に対し、係争地所有権の確認を求めるとともに、右所有権に基づき、係争地への立入り及び被告らの占有使用を妨害する等一切の行為の差止を求める。

二  認否

1  請求原因1ないし3の各事実は認める。

2  同4のうち、原告が本件土地の被告の所有権を争つていることは認めるが、その余の主張は争う。原告の主張は、甲丙各事件の請求原因3(三)記載のとおり。

3  同5は争う。

第三  証拠<略>

理由

一甲、丙事件の請求原因1の(一)ないし(四)のうち、関茶屋の登記の移転経過及び康敏が係争地の所有者であつたことは、当事者間に争がない。

二そこで、関茶屋の登記により表示される土地が係争地と同一であるか、否かについて判断する。

1  関茶屋の登記により表示される土地の所在について

(一)  <証拠>によれば、堺市役所備付の関茶屋の公図は、昭和三五年八月に複製されたものであるが、同公図中には、関茶屋の主な集落と離れたところではあるが、南北に走る二本の道路を示すと思われる直線を軸として、その東側にやや弓状を呈する土地だけが、「116」の表示によりぽつんと表示されており、同土地の北東側に「今熊(狭山町)」、南東側に「大野(狭山町)」との記載がある。なお、同公図中には、「117、118、119甲、119乙、120」と表示のある土地も図示されている。

(二)  大阪法務局美原出張所備付の関茶屋の公図の写真<証拠略>によると、同公図は、明治二〇年五月二五日に調製されたものであるが、同公図中にも、関茶屋の主な集落とは離れたところにではあるが、南北に走る道路を示すと思われる赤色の直線を軸としてその東側に前項とほぼ同形の土地が「百十六」の表示により図示されており、同土地の北東側に「丹南郡今熊村界」、南東側に「丹南郡大野新田界」との記載がある。なお、同公図中に、「百十七、百十八、百十九、百十九、百二十」と表示のある同形状の土地が図示されていることも前項と同様である。

(三)  <証拠>によれば、明治一二年四月に関茶屋の地引絵図が作成されており、右絵図中にも、関茶屋の主な集落とは離れているけれども、前項と同形の土地が同数字により図示されており、同土地の北東側に「今熊村領」、南東側に「大野新田領」との記載があることが認められる。なお、同地引絵図中にも「百十七、百十八、百十九、百廿」と表示のある前項と同形状の土地が図示されていることも同じである。

(四)  以上の(一)ないし(三)で認定した一一六の表示により図示された土地は、いずれも関茶屋の登記により表示された同一の土地と推認して誤りなく、しかも、右に挙げた図面は、いずれも厳密な地形図ではなく、南北に延びる道路に沿つてその東側に位置する細長い土地を、特徴的に把握して図示したものと解するのが相当である。しかも、同土地の北東側に今熊、南東側に大野なる各地名の土地が接していることも動かし難い事実というべきである。これらの諸要素を具備する土地が、それほど多く存在するとは考えられないので、次にこの見地から係争地につき検討する。

(五)  <証拠>によつて認定しうる係争地の形状を特徴的に把握するなら、南北に延びる道路に沿つてその東側に位置する細長い土地といつて差支えなく、右図面の土地と共通するものがあることは否定しえない。

また、<証拠>によれば、係争地の北東側には「今熊」の地名、南東側には「大野」の地名の各土地が存在することが認められる。

このようにみて来ると、<証拠>により認められる係争地の西側の境界となる天野街道が、前記(一)ないし(三)で認定した南北に延びる道路と符号すると考えることができる。

2  検地帳について

<証拠>によれば、元禄一五年壬午年に、河内国丹南郡関茶屋新田検地帳が存在しており、右検地帳には、「津々むろ谷」として合計八町三反歩が記載されていることが認められるところ、<証拠>によれば、大阪法務局美原出張所の旧土地台帳中の今熊二〇九四ノ一ないし三の土地を表示する「字」の欄に「筒室谷」と表記されていることが認められる。

つまり、右認定の両事実によれば、関茶屋の登記の対象土地と今熊と表示される対象土地とは、同一である公算が大きいというべきである。

3  以上、1及び2の説示に、係争地が今熊の登記により現に表示されていること(この点は当事者間に争がない)を総合すると、関茶屋の登記の対象土地は、係争地と推認して誤はないというべく、<証拠>並びに関茶屋一一六番地の旧土地台帳の存在が明らかでなく、また、関茶屋一一七番地ないし一二〇番地の土地の存在が明らかでないことをもつてしても、右推認を妨げるに足りないというべきである。

そうだとすれば、係争地については、関茶屋の登記と今熊の登記の二用紙が併存することになるから、その所在の表示に著しい相違がみられるにしても、なお二重登記であることに変りはないというべく、これに反する被告らの所論は採用できない。

判旨三よつて、右登記の効力などについて判断する。

1  まず、判断の前提として明確にして置かなければならないことは、当事者間に争いのない事実として、明治二一年一一月一六日、中林康信の申請により関茶屋の保存登記がなされていたところ、昭和四年三月九日、その家督相続をした康敏の申請により同八年三月三〇日、今熊の保存登記がなされるに至つたという経過である。そして、更に今熊の登記のうち、目録(二)(1)の土地が同九年八月二二日、目録(二)の(2)ないし(4)のとおり分筆登記されたことも、当事者間に争がない。

2  そこで、<証拠>を総合して、前項の二重登記が生ずるに至つた経過を更に詳しく辿ると、康敏は昭和四年三月九日、先代中林康信を家督相続したとはいうものの、当時、関茶屋の土地として旧土地台帳に登載されておらず、従つて固定資産税の課税対象にされていなかつたことも手伝つてか、関茶屋の登記に関する認識が全くなかつたこと、しかし、康敏が係争地を自己の所有と認識していたことは確かであり、且つ狭山町の行政区域に所在する係争地が未登記であるとの理解のもとに、前記のとおり同八年に今熊の土地として保存登記を経由したこと、そして、康敏は、同九年一二月二一日右土地のうち目録(二)(3)及び目録(三)(1)の土地を尾崎寅松に、同一〇年五月二二日目録(二)(4)の土地を森嘉蔵に、また同一一年六月八日目録(二)(2)の土地を壺井玄剛に、それぞれ相当な代金をもつて売却し、いずれもその売却の日に各所有権移転登記を経由したこと、その後、三五年有余の間に、当事者間に争のない経過の処分行為が積み重ねられて、被告らに至る登記がなされたこと、他方、昭和四一年に至り、関茶屋の登記の存することが契機になつたと察せられるが、堺市により課税の対象とされ、当時登記名義が亡中林康信であつたため同人宛で賦課されたこと、かくして、康敏は、関茶屋の登記の存在を知り、すくなくとも係争地がその現地ではないとの認識のもとに、現地の所在調査に乗り出したものの判明しないまま、同四三年一〇月一四日平田等に対する金一七〇万円並びに利息及び損害金債務の代物弁済(係争地を予想するなら殆ど問題にならないほどの安い評価)に供し、翌一五日に昭和四年三月九日の家督相続を原因として自己に所有権移転登記を経由するとともに、平田等から譲渡を受けたという山本産業株式会社に対して、同四三年八月三一日付の代物弁済を原因とする所有権移転登記を経由したこと、なお、康敏は、右代物弁済に供するに当つて、現地の有無については責任を負わない旨の特約をしていること、そして、順次原告までの登記がなされるに至つたこと、以上の事実を認めることができる。

3  次に、康敏が前記保存登記を経由する以前の、今熊の地番についても、考察を加えて置く必要がある。

(一)  大阪法務局美原出張所備付の今熊五番、六番の公図の写真であることに争のない<証拠>によれば、同公図中、今熊「八百七十六」と今熊「八百七十七」と表示された土地の南西側に「関茶屋新田」なる文字が記載されているものの、それが赤色で消された跡があり、同所から南西に向つて「二〇九四ノ三、二〇九四ノ一(これも赤色で消された跡がある)山、二〇九四の二、2094―6、二〇九五畑」と表示された土地が記載されている。しかし、今熊の公図はすべて着色されているが、右「二〇九四ノ三」以下の地域は着色されていない。なお、右公図中「二〇九四ノ一」から矢印で示された同土地の外に「最終別図」との記載があり、<証拠>によれば、右最終別図は、昭和三九年一二月二一日に作成されたものであるが、右別図中には、今熊「二〇九四ノ一」を細分した今熊「二一八〇の一ないし六、二一二五ないし二一三一、二一三二の一、二、二一三三、二一三四」の区域が記載されていることが認められる。

(二)  狭山町役場備付の今熊五番、六番の公図の写真であることに争のない<証拠>によれば、同公図中、今熊「八百七十六」と今熊「八百七十七」の南西側に「関茶屋新田」なる文字が三ケ所記載されているが、前記(一)で認められた「二〇九四ノ三」以下の土地は記載されていない。

なお、<証拠>によれば、同役場備付の今熊の公図中には、今熊「二〇八〇ないし二〇九三」の土地が記載されていることが認められる。

(三)  そこで、<証拠>によると、明治二一年一月当時の今熊地番の土地台帳(七冊のうち第七号)の表紙には、一八〇一番から二〇九三番までの土地の登載を示す記載があり、また<証拠>によれば、大阪法務局美原出張所備付の今熊地番の土地台帳(主任整理台帳)の表紙には、明治二三年一月一日当時のものとして、今熊の地番には一八〇一番ないし二一〇〇番までの土地の登載を示す記載が認められる。そして、<証拠>によれば、大阪法務局美原出張所保管の旧土地台帳に、筒室谷(現狭山町大字今熊)二〇九四番ノ一の土地が、中林康信(康敏先代)所有としてすくなくとも明治三一年には登載されていたと理解すべき記載も認められる。

そのほか、<証拠>によれば、狭山町備付旧土地台帳今熊村七冊のうち第七号に、二〇九四の一から二一〇〇までの地番が登載のうえ綴合せてあることが認められる。

更に、<証拠>によれば、今熊に登記よりも番数の大きい二〇九六番、同二〇九七番一、同二〇九八ないし二一〇〇番の各土地の登記簿が、明治三八年から昭和八年の間に備付けられていることが認められる。

4  このようにみて来ると、係争地は、明治年間から康敏の先代中林康信の所有する今熊の土地として土地台帳に登載され、課税の対象にされていたと察せられるのであり、それが未登記であつたため、康敏において右台帳の登載に従い前記今熊の保存登記を経由したと推認するのが相当である。

他方、関茶屋の登記は、公的にも私的にも五〇年以上の長きに亘り忘れ去られた存在と化していたのであり、旧土地台帳が存しなかつたことや、土地の表示が係争地の行政区域とは別の堺市のそれに属するかの如くに表示されたまま、形骸化していたことは動かし難い事実というべきである(なお、これらの事実によると、係争地は、或る時期に今熊の土地として所管換になつたのに、何らかの事情により関茶屋の登記が残存していたのではないか、との疑念を払拭しえない次第である)。

判旨5 以上の説示を前提とすれば、係争地について二つの登記用紙が起されているのであるから、不動産登記法一五条に規定する一不動産一登記用紙の原則に触れることは明らかである。従つて、どちらかの登記用紙になされた登記を無効とし、係争地に関する権利関係を一つの登記用紙により明確にするのでなければ、公示制度の趣旨を没却することになつて許されない。問題は、どちらの登記用紙の登記を無効とすべきかの判断基準であるが、形式的に登記の前後関係により事を決することは相当でなく、実体関係に即して検討すべきである。

この見地からすると、まず関茶屋の表示登記の所在地番は、係争地の現表示と著しく相違し、その間に全く同一性を認めえないのであつて、係争地を特定表示する機能が欠落して久しいというほかない。それに引きかえ、今熊の表示登記のそれは、係争地の現表示に即応し、且つ公私に亘り長らく通用して来たのである。そのほか、さきに指摘の諸事情と制度の趣旨に鑑みても、今熊の登記を有効とし、関茶屋の登記を無効と解するのが相当というべきである。それに、さきに認定したように、関茶屋の登記については、対象土地の不明ないし不存在による危険負担を承知のうえで取引されたのであるから、今熊の登記を有効と解しても、不測の不利益が及ぶことにならないというべきである。

四そうだとすれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の甲丙事件の各請求は、いずれも理由がないので、これを棄却する。

他方、被告らの乙事件の各請求については、原告が係争地に立入り、被告らの工事を妨害する虞れのあることは、弁論の全趣旨だけからでも十分に推認しうるところであり、その余の点についてはさきの説示に尽きるというべく、いずれも理由があるから、これを認容する。

よつて、訴訟費用の負担につき民訴訟八九条、九三条を適用し、主文のとおり判決する。

(石田眞 島田清次郎 塚本伊平)

目録<省略>

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