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大阪地方裁判所 昭和47年(行ウ)74号 判決 1974年3月29日

原告 甲野一郎

右訴訟代理人弁護士 高階叙男

同 丸山哲男

同 松本剛

同 本田陸士

被告 大阪府立生野高等学校長 用樹康夫

右訴訟代理人弁護士 萩原潤三

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

一  原告が昭和四三年四月一日生野高校に入学したこと、被告が原告に対し昭和四七年六月二〇日付で本件退学処分をなしたことは、当事者間に争いがない。

二  ≪証拠省略≫によれば、右退学処分の基礎となった事実、退学処分の理由、および退学処分に至る経過について、つぎの事実が認められる。

1  原告は、第二学年に在学していた昭和四四年九月ころから、水俣病、原水爆などの政治社会問題に関心をもち、学校内においては、体育祭の件で学年大会の開催を学校当局に要求したり、九・一八府教委通達反対闘争の際行なわれた教員室封鎖について、全校集会でこれを積極的に支持する発言をしたことがあった。そして第三学年では、社会科学研究会に所属するほか、生徒自治会の活動に精力を注ぎ、授業を欠席しても議員として会議には出席するほどで、生徒の処分、学校創立五〇周年記念行事の施行、制服廃止の問題については、非常に積極的に発言、行動し、昭和四五年度前期の自治会会長選挙に立候補したこともあった(結果は落選)。

2  原告の第二学年における成績、出欠状況については、特に問題とするほどのことはなく、修得すべき学科目の単位は全て修得し、成績も普通で、欠席日数は二六日(出席すべき日数約二三五日のうち)であった。ところが、第三学年になると、大学受験を主目的とする授業は無益であるとして、四月当初から、散発的に学校を欠席、遅刻、早退するようになり、同年一一月五日に家出してからのちは、長期間連続して無断欠席する状態が続き、結局、同学年一年間における出欠状況は、出席すべき日数二二二日のうち、欠席が八一日、遅刻が三三回、早退が四回で、二日に一日以上の割合で欠席、あるいは遅刻、早退している計算になり、成績判定のために行なう年五回のテストも、一学期の期末、二学期の中間各テストを受けたのみで、一学期の中間、二学期の期末、三学期の学年末各テストは受けず、結局、一〇科目履修し、三三単位修得すべきところ、音楽の一科目一単位しか修得できなかった(三学年における修得単位数が不足していたことは当事者間に争いがない)。

3  このようなことで、第三学年当時の級担任の松岡英尚教論らは、一学期の終業式の当日、原告の母親に、勉学にはげむよう原告に注意してほしい旨要望し、無断欠席が続くようになってからは、再三電話、書簡等で連絡をとり、あるいは家庭を訪問して、事態の改善をはかるべく努力したが、原告が両親にも隠して、学校を休み、家出をし、二か月以上喫茶店でアルバイトをしていたことからも窺われるように、原告と同人らとは意思の疎通を欠き、同人らも原告には困惑している有様で、よい結果は得られなかった。

4  ところで、大阪府立高校には、欠席日数が出席すべき日数の三分の一をこえ、または同一学年において、修得できない科目数が三科目以上あるいは修得できない単位数が一〇単位以上あるときには、各学年の課程の終了または卒業を認めない共通の内規があり、昭和四六年二月九日の成績判定会議(生野高校の全教員で構成される)で、原告については、右基準に該当するので、昭和四六年三月には卒業を認めないことがきまった。

5  被告(当時の校長は嶋福一)はその当時、原告の前記三学年における成績、出欠状況に照らして、即時懲戒により退学させることも可能であると判断したが、原告本人の将来を慮り、自主退学させるか、あるいは、原告本人が反省して学業継続についての確固たる決意を示し、保護者も家庭での指導、監督に責任をもち、学校の教育方針に協力するならば、なお原級に留め置き、修業期間を一年延長して翌年三月の卒業を認めてもよいと考え、それまで、この原級留置を認めるか否かを判断する際には、本人、父兄を学校に呼び、同人らの意向をきくことにしていたので、原告らにもそのころ出頭を求めた。しかし、原告自身は学校に出頭せず、父太郎が昭和四六年二月二三日、教頭岸田善三郎、三学年当時の学年主任麻生教論、それに前記松岡教論らと面談した。その際、右岸田教頭らは同人に対し、原告の行動について父兄が責任をもつこと、原告が生活態度を正すこと、校則に従うことの三条件を提示し、これらの条件を同人らが認めるならば、学校側も、原級留置を認める用意があることを申出たが、これに対し同人は、「原告とは十分対話ができない状態で、責任はもてない。学業を三年終了時まで継続させることができるかどうか危ぶむ」旨の返答をし、さらに右岸田らに、ほかに高校卒業資格を得るにはどのような方法があるか相談した。

6  他方、原告自身はかねてから、原級留置と翌年度の卒業を強く希望していたので、同年三月一五日父太郎とともに学校を訪れ、岸田教頭らに会って、その意向を述べたが、すでに太郎の責任はもてない旨の前記発言があるので、その際は、改めて家庭でよく話し合い、その結果を学校に知らせるようにということで帰された。

7  翌一六日、太郎はひとりで学校に来て、前記松岡教論、麻生教論、生活指導担当の関教論らと会い、同人らに、生野高校は退学させ、大学入学資格検定を受けさせることにきめた旨を言明した。そこで同人らは、太郎に退学願を提出するように教え、同月一八日にはその用紙を郵便で送付した。しかし、その後原告および太郎は、右松岡教論の再三の催促にもかかわらず、退学願を被告に提出せず、同月末同人らが学校を訪れた際にも持参しなかった。

8  このような経過で、同年四月には、原告はなお生野高校生徒として在藉する状態で、新学年度が始まったが、被告は、原告自身の意向はともあれ、父太郎が自主退学させることを約束したので、原告から希望の選択コースをきき、同人を選択コース別の学級に編入することはしなかった(原告を学級に編入しなかったことは当事者に争いがない)。

9  原告は、同月八日の始業式の当日、学校に来て自分がどの学級にも編入されていないことを知り、かくては授業が受けられないので、前記松岡教論に抗議するとともに、同日および翌九日の両日、被告に面会を求めたが容れられず、その際初めて、右松岡から父太郎が自主退学の約束をしたことをきかされた。

10  その後太郎は、同月一三日および一九日の二度、約束に反して学校に出頭せず、翌五月二一日ころやっと学校を訪れ、岸田教頭と会ったが、その際同人は「三月一六日に約束したとおり本人を説得して、資格検定等の方法で高校卒業の資格をとらせたいから、それまで時間をかしてほしい」と申し述べた。

その後、被告(嶋福一校長)、岸田教頭(昭和四七年四月一日からは森教頭)は、同年九月一日から翌四七年六月までの間に一〇回以上にわたり、太郎に対して、原告説得の結果等をきくため出頭を求めたが、昭和四七年六月一七日ころ最後に右被告と面談するまで、同人はこれを無視し、その要求には応じなかった。その間昭和四七年四月三日ころ、原告はひとり学校を訪ね、自分としては自主退学をする意向のないことを申入れたが、被告は、同人にも自主退学をすすめ、「保護者に誠意がなく、原告の責任がもてないということでは、学校としても、原告を預るわけにはいかない」と述べ、なおよく父親と相談するように説得した。同月七日には、原告らは被告に、自主退学を強制しているとして、それを非難する手紙を出し、六月三日には、原告と母親が学校に来て、前記森教頭、生活指導部長の橋本教論らに対して、改めて自主退学をする意思のないことを伝えた。

11  かくて被告は最終的な結論を出すべく、太郎に対して、原告同伴で同年六月二〇日午前九時に出頭するよう電話連絡したが、両名とも出頭せず、やむなく、同日の職員会議にはかって、前記2の第三学年における成績、出欠状況から、原告は、学則第二六条第三項第二号の「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」および同項第三号の「正当な理由がなくて出席常でない者」に該当するという理由で、退学処分をすることを決定し、被告は同日、その処分の内容、理由を記載した書面を郵送し、右書面はそのころ原告の法定代理人(親権者)である太郎の許に到達した。

12  なお、昭和四六年四月成績不良の原告の同期生七名に、原級留置が認められ、翌年三月にはその全員が卒業したが、原級留置と学業の継続が認められたのは、面談の結果、同人らにその決意がみられ、保護者も家庭での指導監督に責任をもつことを誓約し、よって被告らも指導の確信がもてたためであった。

以上の事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

三  右認定事実にもとずき考える。

1  学校教育法第一一条、同法施行規則第一三条によれば、公立高等学校の校長は、右規則第一三条第三項の各号に該当する生徒に対し、懲戒を加え、退学処分を行なうことができるとされているが、生野高校の学則第二六条においても、右規則の条項を受けて、「学力劣等で成業の見込がないと認められる者」(第三項第二号)、「正当な理由がなくて出席常でない者」(同項第三号)には、退学処分を行なうことができると定めている。

ところで、前記二の2において認定したように、原告は第三学年において、一〇科目履修し、三三単位修得すべきところ、音楽の一科目一単位しか修得できず、しかも、格別の理由はなくただ学校の授業は無意味であるとして、一年間の出席すべき日数のうち半分以上を欠席あるいは遅刻、早退しているのであるから(原告はそのため三学年の終了する昭和四六年三月には卒業できなかった)。被告が本件退学処分の理由として主張する右学則第二六条第三項第二・第三号に該当する事実は優にこれを認めることができ、本件退学処分は事実の基礎を欠くという原告の主張は、到底肯認できない。

なお原告は、右第三項第三号該当の出欠に関する事実は、本件退学処分の理由となっていないと主張するが、前記二の2、5、11の認定事実によれば、これもその理由となっていることが明らかで、退学処分の通知書に処分の理由として「今後本校で成業の見込みなきものと認め」という記載のあることは、右認定の妨げとはならない。

2  つぎに、校長は、教育的見地から、校内規律を維持するために、生徒に対して懲戒権を行使することができるとされているのであるが、退学などの懲戒事由に該当する事実がある場合においても、その生徒に懲戒を加えるか否かは、その判断が社会通念上著しく妥当を欠くと認められる場合を除き、学校内の事情に精通している校長の裁量にまかされており、それによって適切妥当な結果の生ずることを期待していると解される。そして、このような懲戒権行使が認められる理由、その行使を懲戒権者の裁量に委ねた趣旨、それに特に、懲戒処分のうちでも退学処分は当該生徒を校外に追放する最終的な処分で、その生徒の将来に与える影響も深刻であることを考慮すると、懲戒権者は退学処分を行なうについては慎重でなければならず、他にこれを避けるための適当な方途があり、それによって規律維持の目的の達成が見込まれるような場合には、その措置を講じかつその成行をみて、退学処分を行なうか否かを決定することも、適正な懲戒裁量権の行使という見地から当然許されると解される。

ところで、本件においては、前記二の5ないし10において認定したとおり、被告は、退学処分を避けるために、父実からの申出があったのをきっかけに学則第一七条による自主退学を原告らにすすめ、あるいは当初は一歩後退して、原告が反省して学業継続についての確固たる決意を示し、保護者である両親も家庭での指導監督に責任をもち、学校の教育方針に協力することを誓約するならば、なお在学を認める方針で、交渉を重ねたのであるが、原告らが誠意をもって事態を解決しようとしなかったため、交渉は長引き、結局、原告らは、自主退学の勧告には応ぜず、そうかといって、被告が提示したそれ自体当然ともいうべき右の留年(原級留置)の条件についても、最後までこれを受け入れようとせず(この点、原告は、他の原級留置を認められた生徒と異なっており、差別的取扱であるという原告の主張はあたらない)。原告は、過去の行為に対する十分な反省もなく、ただ学校当局の措置を非難するのみであったので、ついに被告は、交渉を開始してから一年四か月以上を経過した昭和四七年六月二〇日、話し合いによる解決を断念して、本件退学処分に及んだものであることが明らかであるから、本件退学処分を行なうに至るまでの経過についても、被告のとった措置に責められるべき点はない。

原告は、原告が留年(原級留置)を申出る以上、被告は、これを認めて、同人を新学年度の学級に編入しなければならず、その後は退学処分を行なうことはできないと主張するごとくであるが、これは原告独自の考えで賛成できず、学則第一〇条の文言および留年を認める趣旨からすると、退学処分に値する事由のある生徒について、処分と相反する留年を認めるか否かは、校長である被告の自由裁量にまかされているというべきで、原告らは被告の申出る留年のための最低の条件にさえ応じようとしなかったのであるから、留年を認められなかったとしてもやむを得ないというべきである。

3  つぎに原告は、本件退学処分を行なうについて、被告は原告の弁明を十分きいていないというが、前掲各証拠によれば、処分理由となった第三学年における学業成績出欠状況はすでに被告ら学校関係者に明らかであり、原告の人格などは級担任教師、交渉にあたった教論らによって、それまでに十分把握されていたと認められるから、その必要はないというべきである(学則に特別の規定があるかあるいは慣行のある場合を除き、処分に先立ち、被処分者たる生徒の弁明をきくか否かは、処分権者たる校長の裁量にまかされていると解される)。

4  このほか、原告は、本件退学処分について、原告の生徒会活動を嫌忌した被告の報復的な処分であるとか、社会通念上著しく妥当を欠く裁量権を逸脱した処分であると主張するが、前記退学処分の理由となった事実、その後の経過等を考慮すると、被告の原告に対する本件退学処分は、まことにやむを得ない措置であったと解されるから、原告の右主張は失当というほかない。

四  以上の次第により、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石川恭 裁判官 鴨井孝之 富越和厚)

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