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大阪地方裁判所 昭和49年(ワ)1661号 判決 1981年3月30日

原告

岩佐嘉壽幸

訴訟代理人

仲田隆明

外九名

被告

日本原子力発電株式会社

右代表者

白澤富一郎

右訴訟代理人

伊達利知

外六名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

序章

一被告が原子力発電を業とする会社であつて、原子炉を設置した敦賀発電所を所有し、原子力損害の賠償に関する法律第二条第三項にいう原子力事業者であることは、当事者間に争がなく、他方<証拠>によれば、原告は海南土木の従業員であつて、水道管等の不断水穿孔工事(新たな管を継ぐ必要等のため、流れている水を止めずに当該管に穴を開ける工事で、特殊な機械と技能を要する)等に従事していた者であることが認められる。そして、原告が昭和四六年五月二七日敦賀発電所の原子炉建物内において、直径四〇〇ミリメートルのパイプ(本件パイプという)に直径五〇ミリメートルの穴を開ける作業に従事したこと、右工事は、被告がGETSCOに請負わせ、同社から大成機工、大成水工、海南土木にと順次下請させたものであることは、当事者間に争がない。

二原告は、敦賀発電所における前記工事に際し、右足膝関節内側(以下右膝患部または単に患部という)の放射線被曝により放射線皮膚炎の被害を受けたと主張する。

なるほど、<証拠>によると、原告は、昭和四九年三月三日阪大病院所属の田代医師から、右膝患部に放射線皮膚炎を生じているとの診断を受けたこと、そして、田代医師は右の放射線皮膚炎が前記敦賀発電所の作業の際の放射線被曝によるものと断定するのである。

そこで、次章において原告の右膝患部の疾患が放射線皮膚炎か、否かの点を検討する。

第一章  原告の症状と放射線皮膚炎

まず、原告の主張に即しながら、放射線の実体及び放射線皮膚炎の病像の輪郭をそれぞれ明確にして、判断の焦点を絞ることから始める。

一放射線

1  <証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

敦賀発電所の発電機構等の詳細は後述のとおりであるが、原理的には、原子核分裂反応により発生する熱エネルギーを利用して発電を行なう仕掛けであつて、右の原子核分裂反応により、一定の化学的性質(原子核の電荷の大きさ)を持つた多種類の放射性物質が生成される。そして、これらの放射性物質からは、核種にもよるが、アルファ線、ベーター線、ガンマー線(一ないし三種)の放射線が放出されるところ、放射線が物質を貫通する能力はアルファ線が最も小さく、ベーター線、ガンマー線の順に強くなる。アルファ線は身体の組織の厚さにして数十ミクロン程度で止まり、ベーター線は、数ミリメートル程度まで、ガンマー線では数十センチメートルでも貫通する。放射線が組織内で止まるというのは、そのエネルギーを組織に与えてしまうということを意味するのであつて、放射線が通過した組織内での細胞の破壊は、放射線の貫通力の弱いものほど大きく、アルファ線、ベーター線、ガンマー線の順に約百倍程度の差で表皮組織を破壊する。

2  <証拠>によれば、原告の右膝患部の疾患が放射線被曝によるものとすれば、それに近い放射線としてベーター線を想定すべきであることが認められる。

そこで、進んでベーター線の皮膚に対する作用について考察するに、<証拠>によれば、敦賀発電所で生成される放射性物質から放出されるベーター線の最大エネルギーは、核種により、約3.55メガボルトから約0.04メガボルトにわたつているところ、その混合ベーター線の平均D1/2〔レントゲン線(以下レ線という)による被曝線量が半分に低下する皮膚の深さをいう〕は、約0.2ミリメートルである(もちろんこの数値は、各核種一種のみをとれば上下する)こと、一方、レ線のうち、六ないし一二キロボルト程度の加速電圧で発生させた、透過度の低いブッキーの境界線(グレンツ線ともいう、以下では単にブッキー線という)といわれるもののD1/2は、0.2ないし0.5ミリメートルであることが認められる。従つて、ベーター線の皮膚に対する作用と右ブッキー線のそれとは、ほぼ同視できると解されるので、以下においては、右事実を考慮しながら考察することにする。

ところで、<証拠>によれば、原告の患部の疾患を放射線皮膚炎とした場合に、同疾患を発生させるためには、すくなくともベーター線による約五〇〇レム程度の被曝を想定すべきであること、もつとも、皮膚に水泡を発生させる程度を想定するとすれば、六〇〇レム以上の被曝が必要であることも認められるが、以下の考察においては、およその目安として、五〇〇レムの被曝を想定し、特殊な場合にそれ以上の被曝も考慮することにする。

二放射線皮膚炎の病像

放射線皮膚炎は、放射線被曝を原因として生ずる皮膚炎であるが、なかんづく急性放射線皮膚炎の症状は熱傷等によつても同様の症状がみられることからもいえるように、元来他の原因による皮膚炎と識別の困難な面があり(非特異性)、且つ、未解明の分野もあつて、その病像が一義的に明確になつているとは言い難いけれども、本件事案の判断に必要と思われる範囲内で、急性と慢性に大別して把握すると、おおよそ次のとおりである。

1  急性放射線皮膚炎

<証拠>を総合すると、次のとおりの事実が認められる。

急性放射線皮膚炎は外部から主として比較的大線量の一回ないし短時間に何回もの被曝によつて起る、いわゆる放射線熱傷である。急性放射線皮膚炎の基本的な皮膚症状は紅斑であつて、これは波状的に出没をくり返す。第一波は被曝後第一〜四日、第二波は第八〜二二日、第三波は第三四〜五一日、時に第五五〜六二日の間に第四波が現われることもある(この波状的な出現をミッシェルの波という)。紅斑の二次的現象として、紅斑にやや遅れ、その波に追随して色素沈着が発現消退する。また線量が大きい場合には皮膚表面に水疱を形成することもある。もつとも右の如き臨床症状は放射線の線質、線量、個体の生理的条件、放射線感受性、被曝部位などの条件によつて異なり、線量との関係は一概に述べることはできないが、おおよその目安として、通常のレ線の一回被曝(急性被曝)の場合には、次のような関係にある。

被曝線量  主な皮膚症状

三〇〇ラド   脱毛、落屑

五五〇ラド   紅斑、色素沈着

八五〇ラド   水疱、びらん

一〇〇〇ラド  潰瘍

放射線感受性には、かなりの個人差があり、その程度を数値に示すことは困難であるが、同一線量による紅斑の個人差はプラスマイナス四〇ないし五〇パーセント程度で、皮膚の放射線感受性の差もほぼこの程度と考えられる。

通常のレ線による紅斑発生に対する皮膚感受性の部位による差は、高い順に、(1)前頸部、肘及び膝の屈側面、(2)四肢の屈側面、腹、胸部、(3)顔面(色素沈着の著しくない場合)、(4)四肢の伸側面、(5)顔面(色素沈着の著しい場合)、(6)項部、(7)頭部、(8)手背部、(9)手掌及び足蹠部などである。

線質による差としては、例えばブッキー線(軟レ線)では、紅斑出現までの潜伏期間は短かくて四、五日後、強い線量の場合は当日にでも発生し、一四日から三週間持続する。水疱、びらんも発生し、無痛性で三〜四週間内に完全に治癒する。この場合極めて強いのは色素沈着で、脱毛、瘢痕、萎縮、毛細血管の拡張などはみられない。これはブッキー線が真皮の奥部にまで余り侵入することなく、殆んどが表皮中に吸収されることから、変化もほとんど表皮中に現われ、血管拡張は二次性の変化とみなされることによる。

急性放射線皮膚炎の経過と予後も、当然被曝線量、線種によつて異なる。比較的低線量(五〇〇〜八〇〇ラド)の場合は紅斑の後に落屑、色素沈着が出現し、いずれも次第に薄くなり、数年の経過の後に痕跡を残さず治癒するのが通常の経過である。大線量(おおよそ一〇〇〇ラド以上)の場合には、一回被曝でも、急性放射線皮膚炎に引続き、あるいは長期間の経過の後に、後記の慢性放射線皮膚炎に移行する場合が多い。そして紅斑を生じる程度の急性症状で、色素沈着を残して治癒していくような場合でも、被曝皮膚は外傷、細菌感染などの刺戟に対する抵抗性が弱く、このような刺戟にさらされることによつて再び皮膚炎が発現することがある。この場合に生ずる皮膚炎は潜在化していた放射線皮膚炎の再燃として、放射線被曝固有の症状を呈し、場合によつて慢性放射線皮膚炎へ遷移することがある(ただ、放射線皮膚炎としては治癒とある以上、放射線皮膚炎としての再燃はなく、該部分の抵抗性が弱くなつているため、刺戟によりその刺戟に特有の皮膚炎がみられるということの有無は明らかでない)。

急性放射線皮膚炎の病理組織変化も、線種、線量によつて巾がある。急性期(紅斑、水疱などの炎症症状のみられる時期)には、表皮の変性、表皮下浮腫、血管拡張、真皮の細胞浸潤などの変化がみられるが、これらは非特異的で熱傷のそれに類似しており、皮膚の臨床症状だけから診断することは困難である。急性期を過ぎた後、放射線による色素沈着が長時間持続するのは、表皮基底層のメラノサイト(色素細胞)で造られるメラニン顆粒が、照射による表皮の基底層が破壊される結果、真皮内に滴落し貪食細胞(組織球、マクロファージとも呼ばれる)に貪食されて、いわゆる組織学的色素失調を起すためである。

2  慢性放射線皮膚炎は、急性放射線皮膚炎の症状を呈さない程度の低線量被曝(通常のレ線の場合一回二〇〇ラド程度)を反復して受けた後、長期的期間の経過を経て出現する場合と、大線量(一〇〇〇ラド程度以上)の一回被曝で重度の急性症状を呈したのちに、引続きあるいは長年の後に現われてくる場合がある。慢性放射線皮膚炎は殆ど不可逆的な変化で、しばしば難治性の潰瘍を生じ、また癌が発生する危険性も高い。

慢性放射線皮膚炎の病理組織像としては、表皮の異常角化、真皮毛細血管の拡張、膠原繊維の塩基性変化、硝子化などの変化がみられる。このような変化は、真皮の吸収線量が大きい時にみられ、血管や膠原繊維に変化が強いために惹起されるもので、ブッキー線やベーター線などの透過性の弱い放射線では、そのエネルギーの大部分は表皮で吸収されるので、このような真皮の変化は軽微である。

臨床症状としては、表皮の萎縮、色素沈着と色素脱失の混在、毛細血管拡張、真皮結合組織の硬化(繊維化)、難治性潰瘍を生じ易いことなどの一見して極めて特徴的な症状を呈し、臨床像からの診断は比較的容易である。

以上、放射線皮膚炎の病像の輪郭を把握したので、次にこれを前提として論を進めることにする。

三阪大病院初診時以降の原告の症状

1  症状

<証拠>によると、原告は、昭和四八年八月一四日阪大病院において、初めて田代医師と谷垣医師の診察を受けたこと、その時の患部の症状は、10.5×9.0センチメートルにわたる境界鮮明な暗褐色の円形斑で、中心部に米粒大の脱色素斑が散在し、表面に鱗屑が付着しており、病巣の辺縁には発赤があり、ところどころに水疱の治癒しかけていると考えられる米粒大の痂皮が散在していたこと、田代医師らは、右症状と原告の説明に基づいて第一に放射線皮膚炎を疑い、これと類似の症状を伴う接触性皮膚炎、固定薬疹等との鑑別に意を用い、殊に後述のとおり固定薬疹については原因となりうる薬剤の誘発試験を殆ど網羅的に行つたこと、そして患部に対しては保存的治療を行うにとどまつたこと、その間の同年八月二八日、同年九月一七日ころ、同年一〇月四日にそれぞれ患部に発赤等がみられたものの、同年一〇月一三日には患部の紅斑が消退し、表面に鱗屑多数が附着していたこと、以後患部に発赤はみられなくなり、前記黒褐色色素斑も昭和四九年三月ころ(遅くとも同月二五日)から徐々に薄くなり、同年一二月ころにはかなり薄くなつて、昭和五五年当時にはほとんど痕跡をとどめないまでになつたこと、以上の事実を認めることができる。

2  田代医師及び井澤鑑定人の判断

田代陳述及び井澤鑑定によれば、右に認定した原告の患部の症状の推移、組織学的所見に加えて、固定薬疹を筆頭に接触性皮膚炎等の類似症状を呈する他の疾患との鑑別診断等を前提として、田代医師は放射線皮膚炎と断定し、井澤鑑定人も放射線皮膚炎であることを否定できない旨の結論を出しており、しかも一致して、阪大病院初診の原告の症状は、発症後に一旦沈静化していたものが、何らかの刺戟により放射線皮膚炎として再燃している状況であると判断するのである。もつとも、田代陳述及び井澤鑑定によつても、右の再燃症状に関する判断は、症状自体等の客観的資料に基づくものではなく、前叙放射線皮膚炎の病像に依拠しながら、その初発の時期を原告が敦賀発電所で工事をした時期と前提した上での立論であることは動かし難いところである。そうだとすれば、厳密には、右症状と連続性ある疾患の初発の時期が問題となるのであり、仮に右判断に即して、前記原告の症状が再燃による放射線皮膚炎と仮定するなら、再燃の時期・原因もさることながら、前叙ミッシェルの第一、二波の時期如何が、右判断に少なからざる消長を及ぼすこともありうるというべきである。

3  整合性

(一)  発症の時期

仮に、右症状が、原告の敦賀発電所における放射線被曝による皮膚炎の延長線上に位置付けられうるとすれば、前叙ミッシェルの第一波として、作業当日に紅斑の発生がみられうるところ、原告本人尋問の結果によると、原告は当夜入浴している事実を認めることができるけれども、患部の右変化を認知した形跡が窺えない。しかし、だからと言つて、直ちに紅斑の発生がなかつたとするのは、短絡に過ぎる。何故なら、<証拠>によつても明らかなように、この場合の変化は軽度であつて、一般的に潜伏期といわれていることでもあり、注意深く観察しないと見逃されることが多いから、たとえ原告が見逃がしたとしても、不思議ではないからである。

そこで、ミッシェルの第二波の紅斑の発生の有無について判断するに、<証拠>によれば、原告は、右作業当日の八日後である六月四日に、山口医院へ行つたこと、同医院における原告に対するカルテには、傷病名として「右肘関節部接触皮膚炎(虫刺症?)」、主要症状として「直径八センチメートル」とそれぞれ記載されており、もとよりこれに基づき発行された昭和四九年二月一五日付同医院の原告に対する診断書においても同様の記載があることが認められる。ところで、右認定のとおりカルテには、原告の疾患部位は「右肘」と記載されており、この記載が正確であるとすれば、前記作業の約一時間後に、原告の右膝に紅斑症状を生じたことを認めうべき客観性のある証拠は存在しないことに帰する。この点について証人田代実は、山口医院の診断の対象が本当に肘であつたとしても、それは肘にもあつたといえるだけで、膝にどうであつたかということに関し、何らの情報も提供しないという趣旨の証言をする。確かに、原告が肘の症状には気付いたが、膝のそれに気付いていなかつたという事態を想定すれば、右証言も首肯できる。しかし、さきに認定したことからも言えるように、放射線による紅斑発生に対する皮膚感受性は、肘及び膝が同程度であるうえ、右想定自体が簡単に成立しうるとは考え難い。してみれば、証人田代実の右証言は容易く採用できるものではない。むしろ、右肘の診察を前提とする限り、原告は、山口医師より右肘の皮膚疾患の治療を受けながら、右膝の皮膚疾患につき何らの症状を訴えなかつたもので、当時原告の右膝には紅斑症状がなかつたと推認してしかるべきであろう。

そこで、角度を変えて右カルテの記載が正確であるかにつき論を進めるに、右カルテを記載した山口医師が何らかの悪意等特段の事情により、原告の患部の部位について、ことさら虚偽の記載をしたとは到底考えられないから、問題は、膝と書くべきところを肘と書き誤まつたか否かである。原告本人尋問の結果によると、原告が山口医師に対し、肘の記載を誤記として膝に訂正を求めたところ、同医師がカルテに書いてあるものを今更訂正できないと拒否しているところ、その点は別として、膝と書こうとして肘と書いたという表示上の誤りとするには字形が違いすぎると言えなくはない。しかも、直径八センチメートルの拡がりのある部分は、肘についても考えられないわけではない。しかし、肉月偏が共通していることに加えて、前記認定のとおり、少なくとも原告が阪大病院で診察を受け始めた時点から数年間は原告の右膝関節部に皮膚の特異症状が認められること及び右部位と右カルテの患部の記載のうち肘と膝を除く右側であることや関節部であることが、偶然といい切れないほど一致していること、それに<証拠>を総合すれば、右カルテの右肘の記載が右膝の誤まりである可能性も十分にあると判断することができる。

そして、右カルテにそのような誤記がなされたことを前提とすれば、同カルテの傷病名の記載からだけでも、六月四日には原告の右膝に紅斑が発生していたことを推認しうることになろう。

そこで、山口医院での診療の対象が膝であつたか否かを更に検証するため、阪大病院で田代医師が診断した患部との連続性を肯定しうる状況の有無について論を進める。

まず、原告が山口医院以後阪大病院で診療を受けるまでの間に、医師の診療を受けた経過を網羅的に辿ると、次のとおりである。

<証拠>によれば、原告は昭和四七年五月一九日笹尾医院で診察を受けたところ、病名は感冒及び白血病の疑いであつて、症状は、高熱、全身倦怠感であつたが、尿検査の結果、異常がないとの診断であつたことが認められる。次いで<証拠>によれば、原告は同年六月五日成人病センターで診察を受けたところ、病名は、高血圧症、肝腫張であつて、主訴は、受診以前より頭痛があつて、同年五月下旬より目まい、食欲不振になり、五日間前から三八度前後の発熱があつたこと、そこで、レントゲン検査、血液検査及び肝機能検査等の精密検査が行われたことが認められる。さらに<証拠>によれば、原告は同月三〇日中野医院で診察を受け、病名は、気管支炎、肝腫大であつて、症状は、高熱(三八度)、咳、嗽、咳喀、悪寒せんりつであつたこと、また同年七月七日、同月一一日にも同医院で引続き診察を受けたことが認められる。また<証拠>によれば、同年九月二日に前記笹尾医院で坐骨神経痛との診断を受け、翌四八年四月五日にも同医院で血液検査の結果が出ていることが認められ、以上認定の経過は、おおむね原告本人の供述とも符合する。

なお、右<証拠>によると、「当時より阪大皮フ科に紹介転医す」との記載があるところ、この記載だけからでは、問題となつている疾患と関係があるのかどうかをはじめ、紹介転医の時期も明らかでないうえ、原告本人がその記載事実を嘘として否定するのであるから、斟酌の限りではない。

以上の認定事実によれば、山口医院以後阪大病院に至るまでの間、右膝の疾患が診療録に記載されるような形式で、診療の対象とされることはなかつたものといわなければならない。

よつて、その間の経緯について、原告本人の弁疎するところをみると、「原告は、山口医院で右膝の患部の治療を受けて、一時治つたやに思われたが、何日かしてまた同じような痛みを感じたこと、現在(昭和五三年三月一一日)は薄くなつているが、当時は患部の色がかなり濃くなつていたこと、その色は消えることなく、症状とともに続いた」という趣旨のことや、「山口医院以後阪大病院へ行くまでに患部の治療を受けたことがないところ、その理由として、足(患部のこと)の痛さとか、辛さよりも、頭痛や発熱に心を奪われていたため」という趣旨の供述をするのである。もつとも、原告本人は、若干の変遷を経て、「笹尾医院で患部を診て貰つたことがある」とも断定する。

右弁疎のうち、原告が笹尾医院で右膝の患部を診て貰つたことを裏付けうる証拠がないうえ、これと抵触する右供述に照らして容易く信用できず、結局のところ、原告は、山口医院以後阪大病院に至るまでの間、右患部の診療を受けたことは認め難いというべきである。もちろん、その間、患部の症状がなかつたのであれば、診療を受けなくて当然であるが、もしも、放射線皮膚炎とするなら、急性期においては波状的にもせよ炎症症状が発現した筈であるし、その後については、現に原告本人が色素沈着の存続や前記炎症症状の断続的な発現を是認しているのであるから、医師の診療を受けなかつた点は、奇異というほかない。殊に、原告は、右に認定したように、身体の不調を訴えて何回も医師の診察を求め、精密検査まで受けている程であるから、たかが右膝の疾患とはいえ得体の知れぬ頑固な患部を指摘して診察を求めないということは不可解であり、この点の原告の弁疎も首肯できるものではなく、到底採用できない。なお、証人川勝冨士雄の証言によると、原告が化濃はしていないけれども、足のとこが具合が悪いといつていたというのであるが、内容が漠然としすぎるうえ、時期が判らないので、右の判断に消長を及ぼさない。このようにみて来ると、原告がいう右膝の患部は患部というに価いしなかつたのではないかとの疑念を払拭できない次第である。

以上の説示からも明らかなように、阪大病院以後の疾患が、山口医院当時の疾患の延長線上にあるとするには、かなりの問題があり、延いては山口医院での診療の対象を右膝の患部とし、カルテの記載を誤記と断ずるには、矢張り躊躇なきを得ないというべきである。

しかし、同時にカルテの記載が正確であるとも保し難く、また原告が右膝の患部を他の医師に診せなかつた点だけを把えて事を論ずるにしては、事案が余りにも重大であるから、更にさきに認定した阪大病院以後の症状について、前記病像に則り整合性の有無を検討する。

(二)  暗褐色斑について

田代陳述、井澤鑑定及び土屋鑑定によれば、原告の患部の暗褐色斑が色素沈着であることは明らかであり、その色素沈着が遅くとも昭和四九年三月二五日以降徐々に色が薄くなり、遂にはほとんど痕跡をとどめないまでになつていることは、さきに認定したとおりである。ただ、厳密にいうと、阪大病院当時以降にみられた原告の患部の色素沈着が、何日ころ形成されたものかについては、原告本人の供述に依拠するなら格別、確定するに足る客観的資料がない。

ところで、この色素沈着が放射線皮膚炎の予後としても生ずるものであることは、さきに説示のとおりであるから、原告の患部の色素沈着は放射線皮膚炎と整合するというべきである。

問題は、この色素沈着の消退についてである。即ち、原告の患部の色素沈着が、何日ころ形成されたものかは不詳としても、とにかく消退しているところ、土屋鑑定は、水疱を形成する程度の強い放射線被曝を受けた場合に生ずる色素沈着は、ほとんど恒久的に残存するし、放射線被曝により二年間も色素沈着が残存したものが、ほとんど正常に近く回復することはないとする。そのうち色素沈着が二年間も残存したとの点は確定した事実といえないし、いずれにしても土屋鑑定の色素沈着が消退しないとする論拠は、線質の差についての考察が欠けており採用できない。むしろ、井澤鑑定によれば、色素沈着の消退の点についても、放射線皮膚炎との整合性を否定しえないというべきである。

(三)  その他

さきに認定した原告のその余の症状についても、放射線皮膚炎との整合性を否定すべき事情は窺えない。

4  除外診断

すでに触れたように、放射線被曝によつて生ずる症状は、非特異的であつて、他にも同種の症状を呈する疾患がみられるのであるから、原告の患部の症状がそれら関係疾病によるものと解されるかについて検討を加える。

(一)  固定薬疹

田代陳述によれば、固定薬疹は、サルファ剤、バルビタール剤などの薬によつておこるアレルギー性のもので、紅斑、水疱等の炎症症状が出現し、その後色素沈着を残すこと、この意味で原告の患部の疾患と類似すること、しかし固定薬疹は、原因薬投与のたびにその後数時間ないし二四時間以内に現われるものであることが認められる。そして、<証拠>によれば、固定薬疹について特別の研究成果を有する田代医師が、関係薬剤による丹念な誘発試験を実施しているとこる、その結果はすべて陰性であつたことが認められる。しかも、土屋鑑定及び井澤鑑定によつても、原告の患部の症状を固定薬疹とみることには消極的である。従つて、固定薬疹の線は除外されるのが相当である。

(二)  静脈瘤性症候群(うつ滞性皮膚炎)

土屋鑑定は、原告の患部の色素沈着と後に認定する右下腿の浮腫とをとらえて、原告の患部の疾患は、原告がかつて右脛骨を骨折したこと(後記認定)を原因とする静脈瘤性症候群の症状であるとする。

しかし、<証拠>によれば、静脈瘤性症候群の皮膚症状であるうつ滞性皮膚炎は、下腿下三分の一に発生する場合が多いこと、その再発は普通湿疹型としておこること、病理組織的にヘモジデリン沈着が存在することが認められ、これを覆すに足りる証拠はないところ、原告の患部の疾患は前記認定のとおり、下腿上部である右膝関節部に発生していること、井澤鑑定によれば、同疾患を皮疹的に観察すると、それが湿疹とはいいがたいものであることが認められること、<証拠>によれば、原告患部の組織標本にヘモジデリン沈着がみられないことの各事実に照らせば、本件疾患がうつ滞性皮膚炎、従つて静脈瘤性症候群の症状であることは除外されるのが相当である。

(三)  接触性皮膚炎

井澤鑑定によれば、接触性皮膚炎はアレルギー性の機序あるいは一次刺激により発症し、発赤、腫脹、水疱を発生すること(この点は原告患部の疾患に類似する)、組織学的に表皮の海面状変化やリンパ球の遊走がみられることが認められ、これを覆すに足りる証拠はないところ、同鑑定によれば、右認定の組織学的所見が原告の患部にみられないことが認められること、<証拠>によると、接触性皮膚炎では長時間色素沈着が持続することがないと解されるのであつて、これらにより接触性皮膚炎は除外されるのが相当である。

(四)  虫刺症、熱傷

田代陳述によれば、虫刺症、熱傷であれば原告のような色素沈着を数年残すことがありえないことが認められ、この点からは虫刺症、熱傷は否定される。しかし初発の時期が変動すれば、右結論の妥当性に疑問が生じうる。

(五)  その他

<証拠>によれば、原告の既応症として、昭和一六、七年ころ右脛骨を骨折したこと、昭和二一年ころ胃潰瘍の手術を受けたことが認められるほか、前記認定のとおり原告は、昭和四七年五月から翌四八年九月にかけて笹尾医院、中野医院、成人病センターで高熱等の症状によりそれぞれ診察を受けている。

このうち右脛骨骨折の原告の疾患に対する影響については、一部前記(二)で検討したが、同骨折のその余の影響及びその余の原告の病歴の右疾患に対する影響についてもこれを認めるに足りる証拠はない。

その他右疾患の成因を説明するに足りる証拠はない。

5  二次性リンパ浮腫

(一)  <証拠>によれば、原告の右足は阪大初診以前からはれており、阪大のカルテには昭和四八年八月二九日以降右下腿に浮腫がある旨の記載があり、以降昭和五五年に至つてもなお浮腫は残存している。そして田代医師は昭和四九年三月二日、放射線被曝による二次性リンパ浮腫と診断した。リンパ浮腫とは、リンパ液の通過障害によつておこる浮腫であつて、一次性リンパ浮腫とは後天的障害の先行が認められないリンパ浮腫をいい、遺伝的原因によるものなどであり、その以外の外的要因などによつて発症するものを二次性リンパ浮腫という。そして放射線の被曝が組織の深部にまで及んだ場合、二次性リンパ浮腫は起り得る。

(二)  そこで、原告の右リンパ浮腫が、放射線被曝を裏付けうる症状とみられるかの点について検討するに、証人田代実の証言中には、他に浮腫を起す原因がなく、放射線によるとの可能性がある、とする部分がある。しかし、土屋、井澤両鑑定によると、原告の右下腿のリンパ浮腫は、放射線被曝を直接の原因とするものとは解し得ず、三〇年程前に起した右脛骨等の骨折に起因すると断定するところ、この判断もあながち排斥することもできず、結局リンパ浮腫の存在をもつて、原告の被曝の事実を推認するには足りない。尤も、右両鑑定人もまた田代医師も、原告のリンパ浮腫の発生は右骨折が遠因としても、何らかの原因を引金として発症したものであると共通の理解を示している。

四症状の側面からみた原告の患部の皮膚炎のまとめ

1  以上において、原告の患部の症状の側面から考察し、阪大初診時以降の症状は、かなりの程度に放射線皮膚炎を疑わせるものがあるとの結論に達した。しかし、同症状を放射線皮膚炎と仮定した場合の初発の時期を確定することができなかつた。もともと、この初発の時期は、被曝の時期の解明にとつて不可欠の要素であるとともに、急性放射線皮膚炎か否かの判断にも寄与する事柄というべきである。そして、この初発の時期の解明は、症状の経過が、多少なりとも客観性のある資料により把握されれば、可能であつたと思われるのに、本件ではその資料が欠落しているというほかない。ただ、山口医院で診察を受けた患部がカルテ記載の肘ではなくて、膝であつたとすれば、初発の時期に関する有力な資料になるといつてよいであろう。殊に、敦賀発電所における被曝を想定し、肘か膝かの違いを慮外に置くとすれば、ミッシェルの第二波と符合する時期に、関節内側という表現上の同じ部位に、急性放射線皮膚炎とみることも可能な症状の発現が観察されたということは注目に価し、カルテの記載の誤記を窺わせる事由の一つであることは疑いない。しかし、すくなくとも医師による記載を、右の仮定の論に立脚するだけで、簡単に膝の誤記と断定するとすれば、軽率のそしりを免れ得ないというべきである。そこで、もしも山口医院での診療後に、原告の患部にミッシェルの第三波以下に類する症状が順次看取され、且つ阪大病院初診時以降の患部の症状との連続性が確認されることにでもなれば、それらの事由から遡つて、山口医院での診療の対象が膝であつたと解すべき有力な根拠を提供することになると思われるので、この見地からの検討をも試みたのであるが、この中間過程の症状は不透明というほかなく、右にいう根拠を見出すこともできなかつた。そのほか、初発の時期に関し原告の主張に副う有力な証拠として、田代医師及び井澤鑑定人の判断が示されたものの、これらを仔細に検討すると、原告が敦賀発電所で被曝したとか、山口医院での診療の対象が膝であつたという未確定の事実を、恰も確定事実であるかの如くに前提しての判断と察せられ、容易く採用できないのである。

かくて、症状の側面からは、原告の患部が、敦賀発電所での作業後、間もなくに発症した放射線皮膚炎であるとは認め難い次第である。

2  しかしそれにしても、原告の阪大病院初診時の患部の症状に、放射線皮膚炎の疑が残る以上、かかる被曝の潜在的可能性を秘めた敦賀発電所について、原告が作業をした機会における被曝原因の有無を検討し、これにより、すくなくとも症状の面から解明できなかつた点が補充されることになれば、両者を併せた総合評価による認定ができると解される。そこで、以下において被曝原因について検討することにする。

第二章 被曝原因

本章では、原告の患部が放射線被曝によるものと仮定したうえで、原告が敦賀発電所内で作業をした機会に、この仮説を肯認しうる被曝原因があつたか、否かについて検討をする。ただ、この検討に当り、若干の事項をその前提に据えて置く必要がある。

その一は、通常の社会生活を営む者が、放射線、殊にベーター線と思われるものの五〇〇レム程度の被曝を受ける機会は、極めて稀有といつてよいということである。ところが、敦賀発電所は、一般論として、潜在的に右の如き被曝の危険を十分に孕んだ設備であるだけに、原告がそこで作業をしたということは、或る意味では、その稀有の機会の一つに遭遇したといえなくはない。それだけに、敦賀発電所内における被曝原因の吟味は十二分になされる必要がある。

その二は、放射線がわれわれの五感の作用によつて把握できず、自ら感知できないままに被曝するということである。しかも、その被害は極めて重大である。ところが、被曝の有無を審査する資料は、被告の手中にあるもの以外に考えられないうえ、もしもそれらの資料に作為が加えられることになれば、真相の発見は不可能である。この見地からすれば、被告の如き設備における放射線の管理は、一般人が疑いを挾む余地がない程度に、客観性の保障された測定資料により裏付けられたものであることが要請される。しかるに、原告が作業をした当時は、そこまでの行き届いた管理方法が執られていたとは受取り難い。それだけに原告の如き部外者に対し、発電所内で放射線被曝を受けたとの事実自体の立証を求めることは、不可能を強いるに等しいというべきである。そうかといつて抽象的危険性の立証をもつて足りるとする訳にはいかないのであり、具体的危険性の立証をもつて必要にして十分と考えざるを得ないであろう。つまり、かかる具体的危険性が認められるときは、被告において被曝の事実がないなどの特段の反証をしない限り、放射線被曝の事実を推認して妨げないというべきである。しかも、原告の如き部外者にとつて、具体的危険性の立証と雖も決して容易なことではないのであるから、その判断基準として余り高度の蓋然性を要求することは相当でないというべきである。それに、右判断に供されるべき被告手中の測定資料について、隠匿や作為が加えられたことが判明した場合にも、そのことから具体的危険性を推認して差支えないというべきである。

その三は、右一及び二と全く別の事柄であつて、被曝原因としての汚染の有無の審査に当り、留意すべき点についてである。後述のとおり敦賀発電所における汚染源として、一次冷却水ないしクラッドが想定されるところ、それらによる汚染源の在り方は、特段の事情なき限り、時間的或いは空間的(通常は時間的及び空間的といつて誤りはないと考える)な拡がりをもつということである。証人菊地雄が、被曝の有無の調査について、周囲のデーターを基礎にして評価するという趣旨の証言をしているのも、右の如き前提に基づく立論として肯認できる。このことを更に比喩的にいえば、汚染源の通常の在り方はすくなくとも時間的または空間的な面として把握されるのであるから、これを点として想定し、審査することは現実性に乏しく、相当でないということである(もちろん、これは資料の面での制約を度外視してのことである)。

最後のその四も、被曝原因の有無に当り留意すべき点についてである。すでに説示したところからも明らかなように、原告の患部が放射線皮膚炎とすれば、急性放射線皮膚炎を想定すべきであるが、その被曝の態様は、瞬時に高線量の放射線の照射を受けたという場合でなく、巾のある時間帯に継続してかなりの程度の放射線を浴びた場合、換言すれば、原告の患部が巾のある時間帯に継続して(必ずしも間断なくとまで考える必要はない)放射性物質に接触した状態を想定して誤りがないということである。しかも、これとの相対的関係において留意すべき点として、原告の患部の位置がある。原告の患部は右足膝関節内側で、放射線に対する感受性の敏感なか所であるが、身体のうちでは比較的外部との接触に乏しい部分で、しかもその部分に限られているということである。

以上の前提に立つて、以下の論を進める。

一原告の患部に付着したと想定すべき放射能の量

第一章で説示したとおり、仮に原告の患部が放射線被曝によるものと仮定した場合に、そのおおよその症状から、ベーター線五〇〇レム程度の被曝が推定されるところ、被曝原因の探求の目安として、かかる程度の被曝を惹起しうべき放射能量を明らかにしておく必要がある。

この点につき、<証拠>によれば、原告の患部に付着したと想定すべき放射能の平均被曝線量常数は、2.4レム/時間/マイクロキュリー/平方センチメートルであることが認められる。そうだとすれば、一時間当りの被曝線量×被曝時間を約五〇〇レムと想定しているものであるから、そのためには、被曝時間を一時間と仮定すると被曝部位の一平方センチメートル当り約二一〇(500÷2.4)マイクロキュリーの放射能量が必要であることになる。従つて、前記のとおり山口医院での疾患が放射線被曝によるものとすると、患部の大きさが直径八センチメートルであつたと認めるべきであるから、原告の右膝の総放射能量は約一〇(0.21×3.1×16)ミリキュリーであつたと想定すべきことになる。

そこで以下においては、このような量の放射能が原告の右膝に付着する具体的危険性の有無を考察することにする。

二敦賀発電所の構造と安全保護施設

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

1  敦賀発電所は、被告がアメリカのゼネラル・エレクトリック・カンパニー(略称GE)に発注し、昭和四一年四月に着工、昭和四五年三月一日に完成し、営業運転を開始したもので、原子炉の型式は直接サイクル強制循環軽水冷却減速沸騰水型であり、電気出力三五万七〇〇〇キロワットの原子力発電所である。

原子力発電における原子炉の役割は、火力発電のボイラーに相当するもので、原子炉はウラン二三五等の原子核に中性子を当て、それによつて起る原子核の分裂反応を制御しながら必要とする熱エネルギーを得る装置であり、この熱により作られる水蒸気でタービン発電機を回転させて発電するもので、原子炉は、核分裂を起す核燃料、核分裂によつて新たに発生する中性子を次の核分裂を起し易い状態にするための減速材、発生した熱を取り除くための冷却材、核燃料の燃え方を加減するための制御棒等からなる炉心部が圧力容器に収容されたものであり、その中で安定した核分裂が継続され、原子炉の運転が続けられるのである。

敦賀発電所の原子炉は、減速材及び冷却材の両方の役割を果すものとして軽水(普通の水、冷却水という)を用いる軽水型であり、また原子炉内で蒸気を発生させ、これで直接タービンを回転させるもので沸騰水型といわれているものである。

2  敦賀発電所においては、そこで生成される放射性物質及びこれから放射される放射線を密封、遮蔽するために各種の安全保護施設が設けられている。

(一)  放射性物質の密封

原子力発電所内の放射性物質は、その殆どが原子炉の中における核燃料の核分裂反応に伴つて生成される。ウランが核分裂すると、あとに燃えたウランとほぼ同量の核分裂生成物、いわゆる「死の灰」が残り、また一〇〇万分の一グラム程度で肺ガンを発生させ、人工物質の中では最も毒性の強いプルトニウムなども作られる。そこで核燃料は濃縮された二酸化ウランが小型の円柱状のペレット(錠剤)に焼結され、この燃料ペレットはジルコニウム合金(ジルカロイ)によつて作られている継目なしの細長い丈夫な被覆管の中に密封されている。これを燃料棒といい、炉心には、この燃料棒を四九本束ねた燃料集合体が三〇八体装荷され、これら燃料集合体の間に中性子を吸収する物質で作られた制御棒が挿入され、その間を前記冷却水が循環している。

従つて核分裂反応によつて生成された放射性物質は、個々の燃料被覆管に密封され、冷却水と直接に接触しないように設計されている。しかし燃料棒は高温(二八〇度)、高圧(約七〇気圧)の原子炉の中の一次冷却水の中に置かれ、同時に多量の放射線にも曝されているため、燃料棒の使用中に、その被覆管は損傷を受け、その破損部から、ペレットよりしみ出した放射性物質が、平常運転中にも、一次冷却水中に漏れ出してくる。これらのうち半減期(もとあつた原子核の半数が変化するまでの時間)の短いものは自然に崩壊して放射能が弱くなるほか、冷却水浄化装置によつて除去する仕組となつている。また鋼鉄製の原子炉容器の壁の鉄錆等(不純物質)が中性子照射によつて放射性物質と化することもあるが、これも自然に崩壊して放射能が弱くなるほか、一次冷却水と行動を共にするものについては右浄化装置によつて除去・浄化される仕組となつている。さらにこの冷却水の一部は蒸気となつてタービン発電機を回した後、復水器により冷却されて水となり、原子炉中に再び戻る閉回路によつて密封されている。尤も一次冷却水は原子炉の中で加圧され、約七〇気圧となつているので、流路にあるポンプやバルブなどから漏れ出るが、回収設備によつて回収される仕組となつている。

また、原子炉の運転を停止した場合は、原子炉内の一次冷却水の温度が下り、その圧力も小さくなるため、燃料棒破損部から放射性物質が一次冷却水中に流出し易くなり、その汚染は急増するが、前記自然崩壊や浄化装置等の作用により時間の経過にともない減少する仕組となっている。

(二)  放射線の遮蔽

放射性物質から放射される各種放射線については、放射線が水、コンクリート等の物質に吸収されて減衰するとともに、放射線源(放射性物質)から遠く離れるほど弱くなるという性質を利用して、コンクリート等遮蔽壁によつて遮蔽している。炉心部を収容する原子炉圧力容器は厚さ一五〇ミリメートルの鋼鉄製で、その外側には厚さ約七〇〇ミリメートルのコンクリート壁を設け、これらを厚さ約三〇ミリメートルの鋼鉄製の格納容器に収納し、さらにその外側には厚さ約二〇〇〇ミリメートルのコンクリート製遮蔽壁が設けられ、これらによつて放射線は厳重に遮蔽されており、炉心よりの放射線が原子炉建物内に出てこないように設計されている。

三敦賀発電所における放射線管理

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

被告は原子炉設置者として、原子炉の運転、核燃料物質又は核燃料物質によつて汚染された物の運搬、貯蔵又は廃棄に関し、放射線から所員、外来者等、人の生命、身体、健康、環境等を防護するため、「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」(昭和三二年六月一〇日法律第一六六号)、「原子炉の設置、運転等に関する規制」(昭和三二年一二月九日総理府令第八三号)、「原子炉の設置、運転等に関する規則等の規定に基づく許容被曝線量等を定める件」(昭和三五年九月三〇日科学技術庁告示第二一号)等法令上課せられた措置義務を実施すべく、「原子炉施設保安規程」を定め、内閣総理大臣の認可を受け、これを施行している外、右保安規程に定められた放射線管理に関する事項を詳細化した「放射線管理要項」を制定施行し、「区域管理」、「出入管理」、「作業管理」、「被曝管理」等の管理を行う建前になつている。その具体的な管理状況は次のとおりである。

1  区域管理(区域の設定及び立入制限)

敦賀発電所では、原子炉建物、タービン建物、廃棄物処理建物、サービス建物(チェックポイント及び見学用施設を除く)及び団体廃棄物置場を含む全域(「主管理区域」)、廃棄筒周りの区域並びに事務本館内放射線計測器校正室を管理区域と定め、金鋼の柵などによつて区画し、併せて管理区域であることを示す等、規制目的に応ずる区域設定の標識を掲げて明示し、無用の者が立入らないように管理している。また「主管理区域」の出入口は常時一か所とし(チェックポイント)、ここに監視員を常駐させて立入許可を受けていない者の立入の禁止、物品の搬出等の制限を行つている。

さらに右の管理区域について、管理区域内の放射線レベルに応じて、きめの細かい管理が行えるよう区域区分し、高線量率区域、高汚染区域、汚染区域、汚染監視区域(右の高線量率区域と高汚染区域を併せて特別立入制限区域といい、高汚染区域、汚染区域、汚染監視区域を併せて汚染管理区域という)等を設定し、そのレベルに応じた立入制限〔施錠、チェンジプレース(更衣場所)の設定、監視員の配置、許可証の携行など〕、管理服(高汚染区域、汚染区域は赤服、汚染監視区域は黄服)、防護服等の着用、各種放射線測定器(例えばポケット線量計等)の着用、退域時の汚染検査(例えばハンドフットモニターによる検査等)を実施している。そして右細区分された区域設定、解除手続は放射線管理担当課長が、同区域における放射線量率あるいは汚染レベルの程度に応じて実施している。

2  被曝管理(被曝集積線量、被曝線量の監視及び評量)

敦賀発電所においては、発電所管理区域に立入る者について、放射線被曝を実用可能な範囲に低く保ち、無用な被曝を避けるため、作業時間・作業内容・作業環境などにより、あらかじめ従事者(「原子炉の設置・運転等に関する規則」第一八条第八号にいう者)・非従事者(従事者以外の者で管理区域に業務上立入る者)及び外来者に区分し、それぞれに応じた立入管理、被曝管理を行う建前となつており、被曝集積線量、被曝線量が法令で定める許容量以下であるよう常時監視し、かつこれを評量することになつている。

3  作業管理

敦賀発電所においては、発電所内の全ての作業を作業票で管理し、特に管理区域での作業については、作業環境及び作業内容に応じた作業者を放射線から防護するため、管理区域内で行われる作業の作業票は総て作業担当課から放射線管理担当課にまわされ、そこで特別作業(SWP)の要、不要が決定され、作業票に記載される。この記載がないと特別作業許可を要しない作業も実施できない仕組みになつている。

4  出入管理

一時的に管理区域内に立入り作業する者が、汚染管理区域内で作業する場合には、必ず敦賀発電所保修課長及び安全管理課長から非従事者としての立入許可を受け、非従事者立入・作業記録カード及び汚染管理区域立入パスの発行を受けなければならない。

出入許可を受けた作業者は、管理区域の出入口であるサービス建物出入口から建物内に入り、入口左側にあるチェックポイント(監視員が常駐)で監視員に右立入・作業記録カードを示し、同所で管視員から渡された被曝線量測定器であるポケット線量計の着用前の指示値を読取つて右記録カードの該当欄に記入し、線量計を首に着用することとなつている。

次いでロッカー室でパンツ以外すべて脱衣の上、チェンジルーム(更衣室で監視員が常駐し、汚染管理区域の出入口である)で監視員に汚染管理区域立入パスを提出し、備付けの汚染管理用下着・靴下、汚染管理服である黄色作業服を着用する。そして二か所のバリア(高さ二〇センチメートル程の障碍)を通過して備付の汚染管理靴を履き、サービス建物と原子炉建物とに通ずる鋼鉄製の二重扉のパーソナルエアロックの手前で同所備付けの立入ノートに氏名と立入時刻を記入し、パーソナルエアロックを通過して原子炉建物に入つて行く。

原子炉建物から退出する際には、原子炉建物からパーソナルエアロックを通過してサービス建物に出て、出口のところで前記立入ノートに退出時刻を記入し、汚染管理靴を靴箱に戻し、脱いだ作業服、下着、靴下を脱衣箱に入れてパンツ一枚となり、洗手用シンクで手を水洗いする。そしてバリアを通つてハンドフットモニターで身体の汚染検査をし、汚染がないことを確認して次のバリアを通つて前記更衣室監視員から汚染管理区域立入パスの返戻を受け、ロッカー室で自分の衣服を着けてチェックポイントに戻り、同所で着用のポケット線量計を首からはずして指示値を読み、前記立入・作業記録カードの該当欄に線量計の着用後の指示値及びそれと着用前の指示値との差を記入し、同所の監視員の許可を受けてサービス建物外に出ることとなる。作業員が工具を持込んだ場合は、作業者が前記ハンドフットモニター検査を行つている間に、更衣監視員がサーベイメーターで汚染検査を行い、汚染のないことを確認してから搬出されることとなつている。

5  放射線量率等の監視及び測定

敦賀発電所においては、発電所内外の放射線量率及び表面の放射性物質密度の状況を監視把握するために、常時測定を行つている。当時管理区域内の三〇か所にエリアモニターを設け、空間放射線量率を連続測定し、中央制御室において連続監視していた。さらにあらかじめ定めた場所(二〇か所以上)において、週一回以上の頻度でスミヤ法による表面汚染密度の測定、サーベイメーターによる空間放射線量率及び空気中の放射能濃度測定を行つていた。また原子炉冷却材中の放射性物質濃度は週二回、原子炉冷却材中のヨー素一三一の濃度は週一回、原子炉停止時の冷却材中のヨー素一三一の増加量は定期的な燃料取替時及び計画的な原子炉停止時にそれぞれ測定される。

右の放射線量率や表面の汚染密度の測定・監視の結果、異常を認めた場合あるいは必要あるときは、区域の変更、運転・作業方法の変更、除染等の措置がとられる。

四昭和四六年五月の運転停止期間中の作業

敦賀発電所では、昭和四六年五月三日から同年六月一六日までの間、運転を停止したこと、この停止が、原子炉の中に装置されていたポイズンカーテンの一部を取り出すことを主たる目的とするものであつたことは、当事者間に争がない。

1  期間中に実施された作業の概況

<証拠>によれば、右期間は定期検査のためのもので、原子炉建物内で次のような作業が行われたことが認められる。

(一)  原子炉建物一階における作業

(1) 制御棒駆動用水圧系弁の修理

(2) 制御棒駆動用アキュムレーターの点検

(3) 原子炉補機冷却系二次側海水系出口側配管へのオリフィスの挿入(この作業の一部に原告が従事した作業が含まれる)

(4) 主蒸気隔離弁の漏曳試験

(二)  原子炉建物二階における作業

(1) 原子炉浄化系オリフィスの取替え及び挿入並びに弁の修理

(2) 原子炉補機冷却系二次側海水系弁の点検

(3) 停止時冷却系・燃料プール冷却系連絡配管の新設(一階から三階にわたる作業)

(4) 炉心スプレイ配管、ベント管及び補給水管の改造

(三)  原子炉建物三階における作業制御棒駆動機構の分解点検

(四)  原子炉建物四階における作業

(1) 非常用復水器ベント管の修理

(2) 非常用復水器貯蔵タンクの内部塗装

(五)  原子炉建物五階における作業

(1) 燃料の移動及び取替え

(2) ボイズンカーテンの取外し

(3) 燃料点検

(4) 新燃料検査

(5) 燃料交換機グラップルライトの修理

(六)  原子炉格納容器内における作業

(1) 原子炉圧力容器ベント弁及び再循環サンプル弁の取替え

(2) 再循環系弁グランドパッキンの取替え

(3) 再循環系流量スイッチの校正

(4) 再循環ポンプ上部換気ダクトの修理

(5) 原子炉格納容器内の保温材修理

2  期間中、管理区域の床面に施された措置

<証拠>によると、期間中、原告の作業現場を含む原子炉建物一階に、ビニールシートが敷かれていたこと、これは床面にエポキシ系樹脂塗装を施しているため、床面を重量物等による損傷から保護し、且つ作業に伴うごみの散乱を防止するためであることが認められ、これに反する原告本人の供述は採用できない。

五敦賀発電所における汚染源

1  はじめに

<証拠>によれば(すでに認定した部分と一部重複)

敦賀発電所において生成される放射性物質は二種類に大別され、その一つは、核燃料の核分裂反応によつて生ずる核分裂生成物であり、他の一つは、冷却材中に含まれる不純物や配管等の鋼材類の鉄さび等が原子炉内で中性子照射によつて放射化されることによつて生ずる放射化物質であること、前者は一応円柱状のペレット、被曝管により閉じこめられてはいるが、長期間の原子炉の運転により主として希ガス、ヨー素等の核分裂生成物が一次冷却水中に漏出するものであること、後者はクラッドとも呼ばれ、核分裂生成物の吸着材としての役割も果していることが認められる。そして<証拠>によれば、原告の本件被曝を想定する場合、一次冷却水中に放射性生成物質又はクラッドが原因となることが認められる。そこで、この一次冷却水とクラッドについて考察する。

2  一次冷却水の炉水濃度とその漏れ

<証拠>によれば、敦賀発電所「原子炉施設保安規程」において、定期的な燃料取替時及び計画的な原子炉運転停止に一次冷却水中のヨー素一三一の特定時における増加量が二〇〇〇キュリーを超えた場合には、燃料取替に必要な措置を講ずべきことが定められている(第四五条第二項参照)ところ、本件原子炉停止時である五月二日午前九時三〇分から同月四日午後一時三〇分までのヨー素一三一の総放出量(積算値)は一七〇〇キュリーであつたこと、従つて、この間にも浄化系によりヨー素一三一は連続的に除去され、その濃度も低減していたことが認められ、<証拠>によれば、右原子炉停止期間中のヨー素一三一の濃度は、五月三日午前七時半から同八時三〇分ころにかけて、一CC当り約四マイクロキュリーであつたが、この値が最高で、その前後日時においては、右以下の数値であつたこと、そして同月四日の午後一時ころの右濃度は一CC当り、0.1マイクロキュリー、同月二七日の右濃度は一CC当り0.001マイクロキュリーであつたこと、従つて原子炉停止直後においては、放射性物質の一次冷却水中への漏出により同冷却水の炉水濃度は一時高まるが、同冷却水中に漏出する放射性物質の漏出量は次第に低下し、また炉水濃度も急激に減少することが認められる。

このような一次冷却水の外部への漏出であるが、前叙認定のとおり、一次冷却水の一部は蒸気となつてタービン発電機を回した後、復水器によつて冷却されて水となり、浄化装置を通つて原子炉内に再び戻る閉回路によつて密封されていることが認められる。

しかしながら、<証拠>によれば、一次冷却系には七〇気圧の高圧がかかつており、外部の一気圧との圧力差のため一次冷却水は、前記閉回路中の一次冷却系のあちこちについているバルブやパイプから必然的に漏れ出るものであり、敦賀発電所の設置許可処分における安全審査でも、再循環ポンプから一分間に三リットルの一次冷却水が漏出することが容認されていることが認められる。

もつとも、<証拠>によつても、右漏出した水は、一応これを受けて回収する設備があることも認められるのであるから、右気圧差を根拠に一次冷却水が外部に漏れ出たことを認めるに足りる証拠はない。

また、原子炉停止期間中、右閉回路中の一次冷却系のバルブ、パッキング等の修理、取替等の作業が行なわれたことは当事者間に争がないところ、<証拠>によれば、右各作業に当つては、各所のバルブを締めて水抜きをして、一次冷却水が外部にこぼれ出ないようにしていたことが認められ、右事実に照らせば、たやすく前記作業によつて一次冷却水が外部に漏れたことを認めることはできない。

もつとも以上の考察は、典型的かつ比較的大量の一次冷却水の漏れの可能性を論じたにすぎないということができ、むしろ原子炉建物内では後記のとおり放射線量率や表面汚染密度に一定の数値が検出される以上、何らかの事情で一次冷却水ないしその中の放射性物質が外部に漏れ出ていることがありえないわけではない。

3  クラッド

<証拠>によれば、昭和四六年当時の敦賀発電所のクラッドの存在を示す給水鉄濃度及び炉水鉄濃度は、それぞれ約三PPbと約一五PPbであつたことが認められる。この数値が放射能濃度との関係において意味するところは必ずしも明確ではないが、弁論の全趣旨によれば、敦賀発電所は昭和四五年三月一四日から運転を開始したことが認められるところ、前同号証によれば、クラッドは一般に原子炉の運転時間の経過により増加するものであること、敦賀発電所でのクラッドの増加が問題になつたのは、昭和四七年六月以降であつたことが認められる。

もつとも、叙上の認定事実によつてクラッドの問題が昭和四六年当時皆無であつたとまでいえるかは別問題であり、以下の考察においては、一応クラッドも念頭におく。

六原告が従事した作業

<証拠>によると、原告は、当日助手として同行していた同僚従業員渡辺道治とともに、GETSCOの担当者小林和夫の指示により、同発電所所定の汚染監視区域立入用の服装で全身装備をし、渡されたポケット線量計を首に掛け、携行した機械工具類を株式会社ビル代行(同発電所に常駐する下請業者)の社員四名に運搬して貰い、午後二時ころ右小林の案内で原子炉建物に通ずる二重扉のパーソナルエアロックを経て、原子炉建物一階に入り、制御棒駆動用水圧コントロールユニットの側を通つて、原子炉格納容器出入口に設けられた更衣場所の外側で、同出入口遮蔽扉を開閉するための埋込レール近くの作業現場(別紙第四図記載)の「原告の従事した作業場所」付近に着いたこと、右出入口の内部は汚染区域であるが、原告の作業現場は汚染監視区域であつて、床面にビニールシートが敷いてあつたこと、本件パイプは、原子炉補機冷却系の二次系(純水)を、海水により冷却するための三次系配管であつて、海水による汚染は考えられないところ、前々日の二五日関電興業株式会社の作業員により、上下の継目で取り外され、床の上に置いてあつたこと、なお、本件パイプの長さは、約1.52メートルであつたこと、同作業現場では、床面に二重にビニールシートが敷かれ、原告は、その上に本件パイプを転がして移動させ、付近にあつた角材等を利用し同パイプを固定させたこと、そして、原告の指示により水圧テスト用の水がバケツ様の容器で選ばれて来た後、原告と渡辺以外の者は、その場から立ち去つたこと、原告は、本件パイプの小林から指示された部分に穴を開ける準備として、ワイヤブラシで表面の汚れを落し、水で濡らしたウエスで拭つたうえ、ヤノ丁字管Fをボルトで締めて取付け、その中に水圧テスト用の水約二リットルを入れるなどして水圧テストを了した後、穿孔機を取付け、エンジンを始動してパイプに穴を開けたこと、そして穿孔機を取外して作業は終了したこと、この一連の工程については、水圧試験装置の取付及び取外しに約二〇分、水圧検査に約二分、穿孔に約三分、その他関連作業に約三〇分を、それぞれ要すると言われていること、作業終了後、前記ビル代行の社員が現われて機械工具類を持出し、原告らもエアロックを出て小林の指示により装備を解き、手を洗つた後、ハンドフットモニターによる検査を受けたが、異常を告げられなかつたこと、そこで自分の衣服を着用し、サービス建物入口の受付担当者にポケット線量計を渡したこと、なお、同線量計による原告の被曝線量は一ミリレム、渡辺のそれは〇ミリレムと記録されていること、そして、本件パイプは翌二八日に前記関電興業の作業員により元通りに取付けられたこと、以上の事実を認めることができる。

なお、原告本人尋問の結果によると、右に認定した一連の経過の中で、原告は、「パイプを固定する木材が足らなかつたために、自ら角材等を捜すため原子炉建物内を歩き回り、角材二、三本と板切二、三枚を拾つて来て、パイプの下にかませて固定した。」とか、本件パイプに加工するに当り「パイプを押えるために、膝や脛をパイプに押し当てた。」とか、「作業終了後、作業服の右膝部分が濡れていることに気が付いたが、何時・何処で濡れたか判らなかつた。」(この点は前掲乙第一九号証の二にも同旨の記載がある)という趣旨の供述をする。これらの供述内容は、右認定の作業の過程で十分にありうることと考えるのであるが、助手渡辺道治の役割等の事情に鑑み、未だ事実として確定するには足りないというべきである。しかし、被曝原因の探求に当つては、これらの供述内容も考察の爼上に乗せることとする。

七具体的危険性の有無

以下では、さきに説示したところに基づき、原告が作業をした当時、敦賀発電所内に原告が放射線被曝をする程の具体的危険性が存したか否かを検討する。もつとも、その検討に当り、すでに指摘した事項のうち、特に留意すべき点を挙げると、次のとおりである。

まず、原告の患部が放射線皮膚炎とした場合には、その症状から一般に推定されたのは、ベーター線五〇〇レム程度の被曝であり、これだけの被曝を惹起しうべき総放射能量は約一〇ミリキュリーと算定される。そして、これだけの放射能量が一次冷却水ないしはクラッドを汚染源として、何らかの形で患部に直接或いは衣類を隔てて間接に触れ、線量にもよるが、或る程度の時間を経過することにより、原告の患部程度の症状が発現する関係にあるというのである。従つて、具体的危険性の有無というのも、この見地に則して検討しなければならない。ただ被曝の度合については、プラスマイナス四〇ないし五〇パーセント程度の個人差がみられるから、この点は十分に斟酌しなければならない。

そこで順序として、原告が作業をした環境の間から考察し、次に個別的な側面の検討に移ることにする。

1  作業環境における具体的危険性

(一)  作業環境

原告の作業場所が汚染監視区域に属していたこと、この種の区域区分の設定解除は、放射線管理担当課が測定された放射線量率或いは汚染レベルに応じて実施するものであることは、すでに説示したところであるが、<証拠>によると、汚染区域ではその出入口に監視員を配し、外出する者の汚染管理服の更衣及び汚染検査を行うことにより、その区域外へ汚染が伝播しないように仕組まれているところ、汚染監視区域はその外側に設定され、本来その区域自体に汚染はなく、外部に汚染が伝播しないように監視する区域であることが認められる。

しかし、右の如くにして設定された汚染監視区域であつても、そのことから直ちに同区域での被曝の具体的危険性がないというわけにはいかない。

(二)  汚染可能性のある作業

原告が作業をした当日までになされた、その現場とかかわりがあると思われる作業は、次のとおりである。

(1) 制御棒アキュムレーターの点検

<証拠>によれば、制御棒アキュムレーターの点検として、水シリンダーの分解点検が五月一七日から同月二一日までの間になされたが、アキュムレーター内の水は、浄化された復水貯蔵タンクから充填される水であつて、その濃度とはかわりはなく、しかも右作業に際しては、あらかじめアキュムレーター内の汚染されているおそれのあるところの水を抜いていたことが認められる。

以上の認定によれば、制御棒アキュムレーターの点検作業に際し、その周辺に高濃度の汚染が発生することは通常考えられないと解される。

(2) 制御棒駆動機構の引抜き作業

制御棒駆動機構は合計七三本あり、それぞれ長さ約4.5メートル、直径約一〇センチメートル、重さが一五〇キログラム以上であることは、被告において明らかに争わないのでこれを自白したものとみなす。

<証拠>によれば、五月六日から同月九日にかけて、制御棒駆動機構の原子炉圧力容器からの引抜き及び分解点検作業があつたこと、その際同機構は、ドライウェル内から専用の搬出口を通じて原子炉建物一階に引出され、その場でビニールで梱包する等の措置がとられた後、機器ハッチ下へ移され、エレベーター前をクレーンで三階へ吊り上げられ、分解点検のため同階補修室へ持ち込まれ、点検後再び元の圧力容器に戻されたことが認められる。

ところで<証拠>によれば、本作業中の五月六日ないし八月のドライウェルチェンジングブレースのスミア記録が存在し、それぞれ特段の汚染状況が窺えないことが認められるが、同月九日の右同記録が存在することを認めるに足りる証拠はない。

また<証拠>によれば、五月一〇日一七時に、原子炉建物一階エレベーター前が除染によつて、本作業によつて設定されていた汚染区域の設定の解除がなされたことが認められる。

以上認定事実によれば、一応は本作業に際して放射性物質が大量に散乱することを推認するには足りないのであつて、これに反する証人久米三四郎(第一、二回)の証言は容易く採用できないが、なお除染を必要とする程度の汚染が発生することは十分に推認でき、そして五月九日のスミア記録の不存在には多少の疑問が残る。

(3) その他

その他の作業については、特段の汚染可能性のある作業であることを認めるに足りる証拠はない。

(三)  放射線等測定記録

敦賀発電所では、諸種の放射線測定機器により汚染の有無を把握しているから、その記録に基づいて検討する。

(1) 空間線量計記録

現場検証の結果(第一回)及び弁論の全趣旨によれば、少なくとも本件作業日を含む前後の期間、原告の作業場所から約6.5メートルで、高さ約二メートルの位置に空間線量計一三番が設置されていたことが認められる。そして、<証拠>によれば、本件作業日の五月二七日においては、右線量計の連続エリアモニターには、一時間当り、0.80ないし0.95ミリレムの数値が記録されていることが認められ<る。>

そこで右認定した空間線量率及び証人板倉哲郎の証言によれば、その線量計が設置されていた場所付近に特段の汚染がなかつたことが認められ、この点に関する原告の主張は採用できない。もつとも、右線量計と原告や本件パイプとの距離及び原告の膝に付着したと想定しうる放射性物質の量を比較すれば、右認定の空間線量率の数値をもつて、直ちに原告の本件被曝を否定するに足りる証拠にはなりえないと解される。

(2) 放射線量率サーベイ記録

証人菊地雄の証言により真正に成立したものと認める乙第二五号証の一三によれば、六月二日の原子炉建物一階の放射線量率サーベイ記録中に、本件作業場所の向い側で原子炉建物の外壁に接着したポイントにマル印が二個並記されており、同建物のパーソナルエアロックに近い方のマル印に一〇(ミリレム/時間、以下本項において右同単位なので省略する)、遠い方のそれに五の各数値が記載されていること、そして右各数値は、同記録中のその余のポイントの放射線量率に比し、およそ五ないし一〇倍の高い数値であることが認められる。

ところで問題は、右一〇の数値を示している箇所が本件パイプを取付けた後の海水系配管であるか否かである。この点につき検討するに、<証拠>によれば、右各マル印が記載されている付近には、海水系配管二本(出水管と入水管、パーソナルエアロックに近い方が出水管)が存在していること、また、右各海水系配管よりパーソナルエアロックに遠い方にドレン配管(液体廃棄物処理施設へつながる配管)二本(機器ドレン管と床ドレン管、パーソナルエアロックに近い方が機器ドレン管)も存在していることが認められる。従つて右各マル印の場所は、右のいずれかであることが推認できる。また、証人菊地雄の証言により真正に成立したものと認める乙第二五号証の一四によれば、六月九日の前同記録中にも、前記マル印よりパーソナルエアロックから少し遠い位置にマル印が二個並記され、パーソナルエアロックに近い方のマル印に5.0、遠い方のそれに8.0の各数値が記載されていることが認められる。そこで以上の事実によれば、前掲乙第二五号証の一三のマル印は海水系配管であり、同号証の一四のマル印はドレン配管であると推察することもできるが、右両書証中とも同じマル印が二個並記されていることに鑑みれば、それぞれのマル印の位置が少しずれているとはいえ、両方とも同一の測定位置であるとも推察できる。

よつてさらに検討するに、<証拠>によれば、ドレン配管を流れるドレン水は、高度に汚染されているが、海水系配管を流れている水には汚染がないことが認められる。そこでかりに右一〇の数値が本件パイプを接続した後の海水系配管の測定結果であるとすると、もう一方の海水系配管に五の数値が検出されることを説明しうるに足りる証拠はない。さらに前掲乙第二〇号証によれば、原電敦賀発電所放射線被曝問題調査委員会が原子炉建物の立入検査をした結果、機器ドレン管表面に右一〇と同程度の放射線量率が測定され、一方同管の表面汚染は特に認められなかつたことが認められる。

以上の考察及び認定事実に証人菊地雄、同板倉哲郎の各証言を総合すれば、前掲乙第二五号証の一三中の一〇、五の各数値の測定記録は、同号証の一四と同じくドレン配管の表面からの放射線量率測定の結果であると認めることができ、この認定に反する証人久米三四郎の証言部分(第一回)は措信するに足らず、他に海水系配管のそれであると認めるに足りる証拠はない。

よつて右各数値が海水系配管の放射線量率であることを前提とする原告の主張は採用できない。

(3) 表面放射線密度スミア記録

イ 乙第二三号証の二二(被告敦賀発電所放射線管理(課)保管の昭和四六年五月停止ルーチンサーベイ記録中同月二七日のドライウェル(原子炉格納容器)チェンジングプレーススミア記録、窪作成名義にかかるもの、同第七号証の一も同じ、以下単に当該記録という)の成立について

<証拠>によれば、被告が原告から第三者を介して、原告が敦賀発電所での作業中に放射線を浴び放射線障害を受けた疑いがあるとの申入れを受けたのは、昭和四八年一〇月二日であつたこと、そこで敦賀発電所安全管理課長田中瑞衛は翌三日、関西電力の従業員と一緒に原告を診療していた田代医師を訪ね、そこで田代医師から敦賀発電所での原告の作業環境を教えてくれるように頼まれたこと、そして右田中は同月六日、右作業環境の説明のため再度田代医師を訪ねたこと、その際田中は田代医師と面談し、その申で「当日(五月二七日)の記録はございません」と言つたこと、しかし田中は、一〇月二七日にも田代医師を訪ね、五月二七日の記録である当該記録を持つてきたこと、これは東京から持つてきたものであつたことが認められ、なお証人菊地雄の証言によれば当該記録のようなルーチンサーベイ記録は原則として現場に置くものであることが認められる。

そこで原告は、当該記録は被告の捏造であると主張するので検討するに、右認定の事実のうち、まず田中が田代医師に、対して「当日の記録はございません」と発言した点であるが、<証拠>によれば、当該記録とは別種のサーベイ記録である被告敦賀発電所放射線管理課保管の昭和四六年五月(六月)停止放射線管理記録(放射線量率測定の欄と表面汚染密度測定の欄がある)が存在すること、同記録が存在するのは、五月六日、八日、九日、一三日、一四日、一五日、三〇日、六月二日、九日の分であることが認められる。そこで前掲甲第九号証によつて、田中と田代医師の会話の内容を検討すれば、前記発言中の「記録」とは、右認定した別種の記録のことであることが認められ、右事実によれば、田中は当時当該記録の存在を認識せずに前記発言をしたことが推認できる。そうであれば、田中の前記発言から直ちに当該記録が当時不存在であつたことを認めることはできない。もつとも田中がなぜ、一〇月六日の段階で当該記録の存在を知らなかつたのかの疑問は残るが、この事実をあわせても当該記録が捏造であることを推認するに足りない。

次に当該記録が後になつて東京から持つてこられた点であるが、被告が原告の被曝の疑いを知つた一〇月二日の後に、放射線管理の資料が被告の本社のある東京に集められたとしても必ずしも不思議ではないので、右事実をもつて当該記録が捏造であると推認することはできない。なお被告が当時の敦賀発電所の異常な汚染を認識していたと推認することもできない。

次にここで、乙第二四号証の一ないし四の成立についても考察しておかねばならない。というのは、同号証の二中には、五月二七日に当該記録作成者である窪が、スミア測定のためにドライウェルチェンジングプレースに立入つた旨の記載があるところ、同号各証が捏造であるとすれば、当該記録もまた捏造であることが推認できるからである。よつて検討するに、前記認定のとおり、本件作業場所は、右ドライウェルチェンジングプレースの近くであること、そして原告が本件作業場所にいた時間は明らかではないが、<証拠>を総合すれば、原告は本件作業日の午後二時三〇分ころから同三時三〇分ころまでの間の少なくとも三〇分は、本件作業場所にいたことが認められることを前提とすることができる。そこで乙第二四号証の三、四中には、右前提の時間帯のうちいずれの三〇分をとつても、ドライウェルチェンジングプレースに数名の出入があつた旨の記載があるところ、原告本人は、本件作業中作業場所辺りに人の出入はなかつたと供述している。しかし、原告本人の供述が自己の認識したところをそのまま述べたものとして信用できるとしても、客観的な事実に合致しているかの点に疑問があつて、直ちに採用することができない。従つて前記時間帯にドライウェルチェンジングプレースに人の出入があることをもつて、前同号各証が捏造であると認めることはできない。

次に同号証の三、四中には、当日午後三時前ころ一五名の人が同時にドライウェル内に入つていた旨の記載があり、それだけの人数分の靴がドライウェルチェンジングプレース内に並べ置かれることが可能であるかについては、これに対する資料の裏付けがなく、右事実をもつて同号各証が捏造であると認めることはできない。

また同号証の二中には、ドライウェルチェンジングプレースに立入つた清川のポケット線量計の退域欄の10と入退域の差の欄の8が二重に記載されていること、それに他の立入者には何ら作業内容は記載されていないのに窪にのみ作業内容の欄に「スミア」との記載があることがみうけられるが、同号証の二ないし四中のその余の各記載の体裁等に照らせば、右のような記載があるからといつて、直ちに同号各証が捏造であると推認するには足りない。

以上によつて、同号各証が捏造であると認めるに足りる証拠はなく、弁論の全趣旨によりその成立を認めることができる。

そして以上の考察によつて、当該記録が捏造であると認めるに足りる証拠はなく、弁論の全趣旨によりその成立が認められる。

ロ 被告が原子力発電所内で管理区域を設定して管理しなければならない許容表面放射性物質密度(以下許容表面密度という)は、一平方センチメートル当り0.0001マイクロキュリーであることは、原告において明らかに争わないのでこれを自白したものとみなす。

そこで<証拠>によれば、本件作業当日午前一〇時における本件作業場所付近のドライウェルチェンジングプレース前の床表面の放射性物質密度(以下表面密度という)は、スミア測定によれば一平方センチメートル当り0.0000083マイクロキュリーであつたこと、五月八日から六月一五日まで(五月九日と六月七日は記録がないので除く)の右同所の表面密度はすべて許容表面密度以下であつたこと、五月一三日、同月一四日、同月一五日、同月三〇日、六月九日に測定された原子炉建物一階の各床表面における表面密度もすべて許容表面密度以下であつたことが認められる。

従つて右認定事実によれば、本件作業場所付近をはじめ、原子炉建物一階において、表面密度測定によつて高い汚染が検出された記録は存在しないことが確認できる。もつともスミア測定は、どちらかといえば床面に或る程度の拡がりをもつて存在する汚染物質の検出を意図したものであろうから、ほとんど拡がりをもたないで点在する汚染物質に対しては、測定日、測定場所以外に高い汚染が存在したとしても、それに関する情報を提供するものでないから、汚染の可能性を完全に否定できないことはいうまでもないし、さらに本件作業日における原子炉建物一階(ドライウェルチェンジングプレースを除く)の表面密度の測定記録はないものである。

(4) その他

イ 前掲甲第五〇号証によれば、本件パイプの取外作業(五月二五日)を行なつた関電興業の作業員計一四名の総被曝線量が三二ミリレムであり、本件パイプ取付作業(同月二八日)を行なつた同作業員計一四名の総被曝線量が六七ミリレムであることが認められるけれども、同号証によれば、右各作業員は、本件パイプの取外、取付作業当日、それ以外の作業(汚染区域内の作業も含む、但し、いかなる作業かは明確でない)にも従事しており、その作業時の被曝線量を含めた値が前記認定の数値であることも認められ、この事実に照らせば、前記認定の数値の差から単純に本件パイプに五月二八日に汚染があつたことを推認することはできない。

ロ ズック靴の汚れ

原子炉建物内の汚染は、ズック靴に付着することが推認できるのであつて、ズック靴の汚れについて検討してみることは、当時の汚染状況を知る手がかりとなる。

そこで、<証拠>によれば、五月二八日にズック靴のサーベイ測定が行なわれ、一二六足が洗濯され、うち一〇〇足が新品と取替えられたこと、翌二九日にもズック靴のサーベイ測定が行なわれたこと、なおズック靴のサーベイ測定は五日間隔で行なうのが原則であることが認められる。

右事実のうちズック靴一〇〇足が新品と取替えられたことや五日間隔でズック靴のサーベイ測定を行なうのが原則であるのに、三日続けてサーベイ測定が行なわれている点は、それがいずれも原告が本件作業を行なつた翌日と翌々日のことだけに汚染を疑わしめる材料の一つであることは動かない。しかし他方、新品と取替えられたズック靴がちようど一〇〇足であることや<証拠>によれば、ズック靴のサーベイ測定は、二八日が一分間三〇〇カウント以下、二九日が一分間五〇〇カウント以下であり、いずれも除染を必要とする一分間五〇〇カウント以上の値ではなかつたことも認められるのであるから、前記各事実をもつてズック靴や作業現場の汚染を推認するには足りない。

(四)  結論

原告の作業環境の面から考察した限りでは、未だ原告の患部につき被曝の具体的危険性ありとはいえない。

2  個別的側面における具体的危険性

さきに認定した原子炉建物内における原告の行動や患部の位置、その行動等にかかわるものとして指摘した原告本人の供述及びさきに説示した急性放射線皮膚炎としての発症の条件に照らすと、原告の疾患が放射線被曝による急性放射線皮膚炎とした場合の蓋然性ある被曝態様は、かなり限局されるといつてよく、この意味で、原告が原子炉建物内を歩き回つたとしても、それだけでは右膝内側の被曝は考えられず、原告が本件パイプに加工している過程で、或る時間継続して、かなり高線量のべーター線を患部に浴びたことによる接触性の局部被曝と推認するのが相当であり、証人久米三四郎の証言(第二回)も、この推定を裏付けるものといつてよいであろう。しかも、この接触性の局部被曝として、①本件パイプ外表面、又は角材等に付着していた放射性物質により患部上の衣服が汚染し、該衣服に浸透するか、または衣服を隔てて被曝する、②汚染水が本件パイプ以外の何かを媒体として患部上の衣服に浸透して被曝する、といつた局面が想定される(そのほかにも、種々の場合が想定されないわけではないが、単なる可能性の域を出るものではない)。従つて、以下では本件パイプ及び角材等並びに汚染水を中心に検討を加える。

(一)  本件パイプ等

本件パイプの機能や同パイプに原告が加工した前後の経過等については、すでに説示したところであつて、もしも本件パイプの外表面が放射性物質により汚染されていたとすれば、同物質が他からそれに付着することによる以外に考えられないところ、原告が作業に取りかかる直前、即ち、原告が本件パイプを作業現場に転がして移動させた直後には、同パイプの放射線量率ないし放射性物質密度の検査は行われていない。もつとも、証人小林和夫の証言によると、直前でないことは明らかであるが、とにかく事前検査を実施したというのである。しかし、その点の記録がないのはもとより、検査の時期や方法が明確性を欠き、同証言は容易く採用できず、事前検査がなされたとの保証はない。従つて、この面からは、汚染があつたとも、なかつたとしても断定し得ないというべきである。ただ、作業環境の面からみた限りでは、汚染の徴表がなかつた点に鑑み、右が直ちに具体的危険性に結びつくとはいえない。

これと同様に、原告が本件作業に用いた角材等の汚染も直ちに具体的危険性に結びつくとはいえない。

なお、本件パイプや右角材等に何らかの汚染があつたとしたら、原告の被曝部位が限局されていることに、経験則上の不自然さがみられることも指摘しておく必要がある。

(二)  汚染水

原告が穿孔作業をするに際し、原告の指示により水がバケツ様の容器で運ばれて来たこと、原告がワイヤブラシで本件パイプ外表面の汚れを落し、水で濡らしたウエスで拭つたうえ、水圧テスト用に右の水約二リットルを使つたことは、前記認定のとおりであり、そのほか、原告本人の供述中に、作業終了後作業服の右膝部分が濡れていることに気が付いた旨の一節があることも、すでに指摘したとおりであるところ、この供述内容は、右認定の作業の過程で十分に起りうることであるから、これによる被曝が考えられるか、否かについて検討する。

証人久米三四郎の証言(第二回)からもいえることであるが、ここでまず考慮の対象とされるべきことは、右バケツ様の容器で運ばれて来た水が一次冷却水か否かである。この点について右久米証人は、自己の研究の過程における経験を例として挙げながら、運ばれて来た水が一次冷却水である疑は濃いというのである。しかし、同証人の経験が敦賀発電所に妥当するとは到底考えられない。のみならず、<証拠>(労働技官が昭和四九年四月二日原告から録取した書面)によると、原告は建屋内にある普通の水道口より汲水したというのであり、証人小林和夫は消火栓から汲水したと証言するところからして、いずれにしてもその種の設備からの汲水と認めるのが相当である。そして、右の如き設備の水が純水と称され、放射性物質による汚染があり得ないものであることは、証人小林和夫、同板倉哲郎、同菊地雄の各証言並びに経験則に照らして疑の余地がないというべきである。従つて、バケツ様の容器内の水による被曝の線は排除されなければならない。

なお、仮にバケツ様の容器内の水が一次冷却水であつたとし、それが原告の患部にかかつたとしてみても(患部だけに限局してかかるということは、あり得ない想定であるが)、その水がそのまま患部にとどまるということはあり得ないところであるから、その水中の放射線物質が患部に付着する割合も限られていると解さざるを得ない。そうだとすれば、<証拠>により認められる当時における一次冷却水の放射性物質濃度に鑑みれば、原告の患部に付着した放射性物質が、前記原告の症状に見合う一〇ミリキュリーに達するとは到底認められない。従つて、この点からも右水による被曝とはいえない。

なお、本件パイプについては、前項で指摘したように、汚染の有無の事前検査が尽されていなかつたのであるから、同パイプが別に存在していた一次冷却水によつて汚染されていたことも考えられなくはないが、その汚染水の量は微々たるものであろうから、原告の被曝をそれによるとみることはできない。

(三)  ポケット線量計及びハンドフットモニター

以上のとおり、本件パイプ及び角材等並びに汚染水からは、被曝の具体的危険性を窺うことはできないのであるが、当時原告は、自己の身体に対する被曝線量を明らかにするため、ポケット線量計を携帯し、ハンドフットモニターによる検査を受けたこと、そして、原告が原子炉建物から退出した際のポケット線量計による被曝線量は一ミリレム、助手の渡辺道治のそれは〇ミリレムと記録されていること、またハンドフットモニターによる検査でも異常を告げられることがなかつたことは、すでに説示のとおりであるから、これに則して前二項の説示の当否を考察する。

ところで、原告は、自己が携帯していたポケット線量計は振切れていたとか、右記録された数値が信頼できないというのであるが、そういつた事実を推測しうるような事情は窺えない。ただ、<証拠>によれば、ポケット線量計は二〇〇ミリレムまで測定できること、ただし目盛の単位は一〇ミリレムであることが認められるので、同目盛の単位に照らせば、少なくとも一ないし二ミリレムの範囲において読み取り誤差が生じることは、考慮して置く必要がある。従つて、原告のポケット線量計の数値は、右誤差の範囲内で正しい数値を示すものというべきでいる。そうだとすれば、原告の患部の症状を惹起するような線量の放射線被曝があつたとは認められない。

次に、ハンドフットモニターの関係であるが、<証拠>によれば、原告の膝に1.6マイクロキュリー程度の汚染があれば、原告の使用したハンドフットモニターにより検知可能であることが認められる(もつとも、衣服を隔てた被曝を想定した場合に、該衣服を脱げば検知できないことが多いであろう)。従つて、原告の膝に付着したと想定すべき汚染は一〇ミリキュリー或いはその二分の一程度であつたとしても、ハンドフットモニターが正常に機能していたとすれば、当然に汚染の事実が検知される筈で、その反応がない以上原告が被曝した事実は直ちに否定されなければならない。そこで残る問題は、ハンドフットモニターが正常に作動したか否かであるが、弁論の全趣旨によれば、同モニターが作動するためには、被検者が同モニターに手を突込まなければならず、もし突込み方が浅ければ、同モニターが作動しないことが認められる。原告が同モニターにその作動可能の深さまで手を突込んだか否かは、これを確認できる証拠はないので、同モニターが異常を示さなかつたことから直ちに原告の被曝を否定することはできないが、右のように手の突込み方が浅かつたと推認することは、相当に困難というべきである。

(四)  結論

以上の次第であるから、個別的側面からの観察によつても、原告の患部の被曝を推認しうるような具体的危険性は認め難い。

八被曝原因のまとめ

以上のとおり、本章冒頭で説示した前提に立つて被曝原因を検討した結果、原告の作業前の事前検査の形式的及び実質的不備や、ズック靴の汚染検査にまつわる疑問、原告が持ち込んだ機械工具類の事後検査が行われたかどうか確定できないなどの管理上の不行届が散見されるけれども、原告の患部の症状を急性放射線被曝とした場合に推測される被曝線量に相当するような放射能量の存在、更にそれによる被曝の具体的危険性は、作業環境の面からも、個別的側面からの観察によつても、これを窺い知ることができなかつた。

第三章 結論

第一章において原告の患部の症状の側面から、それが敦賀発電所における作業中の被曝による放射線皮膚炎であると認められるかについて検討したところ、症状の側面からだけでは、これを直ちに認め難いとの結論に達した。しかし、原告の阪大病院初診時の患部の症状に放射線皮膚炎の疑が残つているので、第二章において被曝原因の側面から検討したのであつたが、被曝につながる具体的危険性を窺い知ることができず、症状の側面から解明しきれなかつた点を補充するに足る事情を認めるに至らなかつた。

以上の次第であるから、原告が敦賀発電所での作業中に被曝したことを認めるに足りる証拠はないことに帰する。

よつて、原告の本訴請求は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(石田眞 島田清次郎 塚本伊平)

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