大阪地方裁判所 昭和50年(ワ)479号 1978年12月11日
原告
松井英二
原告
小椋敏昭
右原告ら訴訟代理人弁護士
福山孔市良
(ほか三名)
被告
平野金属株式会社
右代表者代表取締役
長谷川善吾
右訴訟代理人弁護士
門間進
主文
一 原告松井英二は被告本社研究開発部研究開発課の従業員たる地位を有することを確認する。
二 被告は原告松井に対し別紙目録記載の金員を支払え。
三 原告松井英二のその余の請求および原告小椋敏昭の請求をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、原告小椋敏昭と被告との間においては、被告において生じた費用の二分の一を原告小椋敏昭の負担とし、その余は各自の負担とし、原告松井英二と被告との間においては全部被告の負担とする。
五 この判決の第二項は仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告松井英二は被告本社研究開発部研究開発課の従業員たる地位を有することを確認する。
2 被告は原告松井に対し金二六三万五三九九円および昭和四八年六月一三日から昭和四九年四月二〇日まで毎月二八日限り一か月金七万五六〇〇円の割合による金員を、同年四月二一日から昭和五〇年六月二〇日まで毎月二八日限り一か月金一〇万〇六〇〇円の割合による金員を、同年六月二一日から昭和五一年四月二〇日まで毎月二八日限り一か月金一一万円の割合による金員を、同年四月二一日から昭和五二年四月二〇日まで毎月二八日限り一か月金一二万〇四〇〇円の割合による金員を、同年四月二一日から同年一〇月二〇日まで毎月二八日限り一か月金一二万六三〇〇円の割合による金員を、同年一〇月二一日から毎月二八日限り一か月金一二万九七〇〇円の割合による金員をそれぞれ支払え。
3 原告小椋敏昭は被告八尾事業所製造部製機課の旋盤工であることを確認する。
4 被告は原告小椋敏昭に対し金二〇万円を支払え。
5 訴訟費用は被告の負担とする。
6 仮執行の宣言。
二 本案前の答弁
1 原告小椋敏昭の地位確認請求を却下する。
2 訴訟費用は原告小椋敏昭の負担とする。
三 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 仮執行免脱の宣言。
第二当事者の主張
(請求原因)
一 当事者
被告(以下会社ともいう。)は八尾市に本社および事業所を、奈良県河合町に奈良事業所を置き、布、紙等を対象とする各種乾燥機、熱処理機等を製造する株式会社である。
原告松井は昭和四六年三月京都工芸繊維大学生産機械工学科を卒業と同時に被告に入社し、三か月の試用期間を経て本社研究開発部研究開発課(一部一課で部長と課長は兼任)に配属され、主として乾燥能力テストや新しく開発すべき機械の設計などの仕事に従事してきた。
原告小椋は昭和三九年三月中学卒業と同時に被告に訓練生として入社し、昭和四二年三月から八尾事業所製造部製機課に旋盤工として配属され、機械旋盤の仕事に従事してきた。
二 原告らに対する転勤、配転命令および原告松井に対する諭旨解雇処分
被告は原告松井に対し昭和四八年四月一六日八尾事業所営業部東京営業所へ転勤するよう内示し、その後同年五月一五日、同月一日付をもって同原告に対し右東京営業所へ転勤するよう命令し(以下本件転勤命令ともいう)、同原告が右命令を拒否したことから被告は同年六月一三日同原告を諭旨解雇した。
被告は原告小椋に対し昭和四八年四月一三日八尾事業所サービス課への配転を内示し、その後同年五月一五日、同原告に対しサービス課への配転を命じた(以下本件配転命令ともいう)。同原告はやむなく同課において勤務している。
被告は原告松井を右諭旨解雇以後被告の研究開発部の従業員として取扱わず、原告小椋を右配転命令以後製造部製機課の旋盤工として取扱わない。
三 本件転勤、配転命令および解雇処分の違法性
1 本件転勤命令は原告らの思想、信条の自由、政治活動の自由を侵害し、原告らの思想、信条による不利益取扱いであり、また不当労働行為として無効である。
(一) 転勤、配転に至るまでの被告の労務政策と活動家排除
(1) 被告には同盟平野金属労働組合(以下同盟組合という)と総評全国金属労働組合平野金属支部(以下総評組合という)が存在するが、昭和四八年四月頃の組織人員は同盟組合員約四二〇名、総評組合員約二〇名であった。原告小椋は昭和四二年三月に、原告松井は昭和四六年六月にいずれも同盟組合に加入した。
被告は労働者の権利よりも被告の利益を重んじる労使協調路線をとる同盟組合と気脈を通じ、労使協調路線をとらず資本からの自主性を保持しようとする総評組合を嫌悪してこれに徹底した差別攻撃をしてきた。同時に、同盟組合内にあって被告と同組合のゆ着に批判的な組合員に対しても組合幹部と一体となって差別攻撃をし、被告外への排除をもくろんできた。
特に、昭和四七年頃から同盟組合内に民主青年同盟(以下民青ともいう)の勢力が飛躍的に強まると、同組合は実際上被告のために労働者を支配する組織となった。その背景には、組合員の中に以前から組合のあり方、体質に大きな不満を持ち、真に労働者の権利や生活を守る組合活動を願って執行部を批判する者が次第に増加している事実があった。
(2) 被告は総評組合結成以後一貫して同組合を同盟組合と差別し、総評組合つぶしに力を入れてきた。すなわち、被告は総評組合が昭和二九年に結成されるや一〇日後には職制を中心に分裂組合(同盟組合)を結成し、総評組合の組織破壊に乗出したのをはじめ、その後八尾工場と加美工場の二つの工場ができると総評組合員を二つの工場に分断して脱退工作をし、応じない組合員には職制にとりたてたり、海外出張をさせたりして懐柔策を行ない、昭和四七年には職能給を導入した機会に総評組合員を昇給昇格で徹底した差別をし、総評組合に加入している者は賃金が安いのは当然であるといった状態を作り出して現在に至っている。
(3) 被告は総評組合の孤立化、少数組合化に成功し、同盟組合の幹部を利用しながら労務政策を続けてきたが、その丸がかえした同盟組合の中に御用組合ではない自主的な組合活動を求める労働者があらわれこれに対処することを余儀なくされた。
その一つのあらわれが竹岡事件である。竹岡秀夫は昭和四三年入社し、同盟組合に加入して同組合強化のため積極的に活動したが、その後数々の嫌がらせをうけ、昭和四五年六月組合を除名された。そして、昭和四六年四月被告から東京営業所への配転を命じられたのであるが、これらの点はその後の原告松井と同様のパターンであることに注目する必要がある。竹岡も大学出の技術者であったが、異職種で、従業員三名の遠隔地に配転され、二か月後に退職を余儀なくされた。ただ、当時の職場における自覚的労働者は原告ら除名当時ほど多くはなかったうえ、民主勢力の全体的力量も弱く裁判闘争にまで至らなかった。しかし、竹岡が不当配転されたという意識が職場の共通のものであったことは、その後の原告松井らの行動に対し東京に島流し配転されるぞといった声がでていたことからも明らかである。
(4) 竹岡不当配転にもかかわらず、民青、共産党の力が伸び、組合の強化を求める声が同盟組合の中で強くなったので、被告はこれに対し昭和四七年頃から大々的に調査し、具体的に攻撃を展開する必要性を痛感し、同盟組合幹部と一体で手を打つことになった。
その一つとして、昭和四七年二月職場に「―反共宣伝から対決の運動へ―」というスローガンをもつ講習会の案内が回覧され、ここでは日共、民青、新左翼に対決する健全な職場(組合)リーダーの育成を取上げ、そのうえ民青分子の発見、隔離、脱退へ上手な説得の方法まで教えている。
右攻撃は同年八月末の同盟組合における青婦部役員選挙以後一層エスカレートしていった。すなわち原告小椋が青婦部長に立候補し、敗れたとはいえ七二対六一の小差にまで持込み、同原告と同じ民青の組合員が一票差で副部長に当選したのであるが、被告と同盟組合幹部は徹底的に反小椋宣伝を行ない、同盟組合員に対し原告小椋に投票するなと強要してまわり、それでも安心できずにこの役員選挙からは番号付投票用紙を使用し始めたのであり、このような反民主主義、民青敵視は目に余るものがあった。しかし、同年九月に行なわれた同盟組合代議員選挙では原告両名ほか、藤井、藤本、内倉、宮之原らいわゆる小椋派が代議員総数の三分の一近くを占めるまでになった。さらに、同年一〇月の同盟組合大会では公然と民青と対決するとの方針が出され、同月に開かれた青婦部大会では組合長から青婦部長を組合長の任命制にするとの案が提出されたが、これは圧倒的多数をもって否決された。
一方、被告では民青をいかに追放するかが部課長会議で論議され、同年一〇月末には職制クラス会議が被告と同盟組合の共催で開かれ、民青をいかに職場から追放するかが議論された。そして、職制を中心に従業員の思想調査をし、民青に入っているかと聞いてまわり、さらに、共産党の演説会に職制を動員して参加者の調査をさせたりして民青追放の活動を大々的に開始した。
(5) このような経過の後、同年一一月頃から被告と同盟組合が共催して総評組合に内密で時事問題講習会なるものを開催するようになり、表向きは時事問題を扱うという装いを取りながら総評組合や同組合委員長を公然と中傷誹謗した。右講習会は前記青婦部役員選挙における民青の進出に驚いた被告と同盟組合が反共教育、反共宣伝を組織的に行なう必要を感じて開かれたものであって、思想調査、民青への攻撃、圧迫は急増していった。
(6) 原告小椋と藤井は昭和四七年末の衆議院議員選挙に際して、日本共産党三谷秀治候補後援会々員として総評組合委員長石田と共に会社門前で同党の選挙法定ビラを配布したところ、同盟組合は昭和四八年二月二日右行為を理由に同人らを除名処分にした。さらに、同組合は原告松井が会社門前で春闘支援の赤旗号外を配布したことに対し、なんらの理由も示さず、組合規約にも違反して全組合員に記名投票を強要して同年四月一二日除名処分にした。このような原告小椋らのビラ配布事件をきっかけとして、被告、同盟組合の原告らに対する攻撃は質的に変化し、職場外に追放しようとするようになった。このとき原告小椋らは始めて共産党を名乗り、会社従業員らの前で選挙支援を訴えるビラをまいて公然と行動を開始したものであり、被告にとっても衝撃的なできごとであった。被告は右除名処分は知らないというが、係長が総評組合員一名を除いてすべて同盟組合員であるほか、いやしくも人事担当者が組合のかかる一大事を知らないはずはない。右除名処分をうけて被告が原告らに転勤、配転の内示を行なったのは、原告松井の除名処分後わずか四日のことである。被告と同盟組合は共に統制権と人事権の巧みな行使によって原告らを職場から追放したのである。
(7) 前記原告松井の除名事件が発生した昭和四八年四月頃、会社内から民青、共産党を追放することを唯一の目的とした被告と同盟組合の合体である同盟組合良識派なる反共集団が結成された。良識派は勤務時間中に原告両名、藤井らを職場から追放する署名運動を展開し、同盟組合員に賛成か反対かの態度表明を迫り、組合員の思想、信条の表明を強要するに至り、また、連日のように共産党、民青を攻撃、中傷するビラを配布して反共キャンペーンに乗出した。良識派の活動メンバーは係長が中心になり、従業員の中から工作してそのメンバーに加え、彼らは被告の労務政策の手先として日常的に民青、共産党を摘発し、だれとだれが付き合っているかの調査活動をしている。
(二) 原告らの活動と原告らに対する攻撃
(1) 原告らの活動
原告松井は入社以前から民青の活動家で、入社後半年程たってから徐々に親しい組合員に民青への加入をすすめるようになり、社内での影響を強め、その結果民青加入者も昭和四七年夏頃には四十数名に達した。被告が後に同原告が組合活動に熱心であり共産党を支援する者であることを知ったのは、主として同原告が民青を広げる運動をしていたことによる。のみならず、同原告は組合活動も活発で昭和四七年九月には代議員に選ばれ、さらに、前記原告小椋らの除名に徹底して反対した。
原告小椋は昭和四五年から代議員に選出され、昭和四六年には青婦部役員も兼ねるようになり、同盟組合の幹部として研修を受けるまでになった。そして、同原告が昭和四七年に青婦部長に立候補したこと、共産党のビラまきをしたことは前記のとおりであるが、前記良識派が小椋一派と名づけて民青攻撃を行なったことでも同原告の影響度がうかがわれる。
(2) 同盟組合変質の危機
原告小椋が立候補した青婦部選挙で獲得した六一票は激しい反民青宣伝の中で得たものであるだけに波紋は大きかった。青婦部の部長は自動的に同盟組合執行委員となるので、同盟組合長が青婦部長の任命制を提案したのは民青同盟員を執行部に入らせまいとしたことおよびこの選挙の影響を物語っている。
続いて実施された代議員選挙では小椋派が総数の三分の一近くを占めた。代議員総会は規約上臨時大会とされ、年一回開かれる定期大会に次ぐ決定機関である。このため同盟組合は代議員の任期が二年であるのに、奈良移転を口実にわずか半年後の昭和四八年二月一日代議員の改選を行なった。そして、小椋派の代議員のいるところだけ対立候補がでるという状況で民青同盟員と目されるものはほとんど落選することになった。原告松井の対立候補として宇敷が出てきたのもこのときである。この代議員改選の行なわれたのが時事問題講習会が開かれたり、思想調査が行なわれ、職場八分など被告の民青攻撃が徹底した時期であることを見逃すことはできない。被告と同盟組合幹部は原告の存在によって同盟組合が御用組合から脱皮していくことに非常な危機感を持っていたのである。
(3) 原告らに対する被告の差別攻撃
被告は原告松井を幹部候補生として入社させたのであるが、同原告がその期待に反して組合活動に熱心であり、共産党を支持するものであることを知るに及んで不利益扱いを開始した。すなわち、
昭和四七年暮同原告の上司である長谷川研究開発部長は、入社以来はじめて同原告を料亭に連れて行き、民青に加入しているかどうかの答えを強要し、同原告が答えないと、同部長は「自分の考えぐらい堂々と言えないのか。腹を割って話しているのにそういう非協調的態度をとるなら一緒に仕事ができないかも知れない。職能も協調性や皆からの信頼感が大きな問題になってきて上れないぞ。」と述べた。ここに本件転勤、解雇処分あるいは昇格差別の真相がある。この後、同じ部の者も同原告に対して仕事以外に話をせず、同原告と碁もしなくなったが、これは被告の同原告に対する職場における村八分政策である。さらに、被告は同原告からコラーゲンの仕事を徐々に取上げてゆき、転勤前には他人の仕事をときどき手伝わされる程度の仕事しか与えられないようになった。
また、被告において大学卒の従業員は採用と同時に職能等級(一ないし九級)の三級となり、その後二年を経過すれば自動的に四級に昇格することになっていた。これによれば同原告は昭和四八年四月に当然四級に昇格しなければならないのに、同原告だけが据置かれた。被告は昇格が遅れた理由として、(イ)設計図面の出図時期が遅れがちであったり、(ロ)外注不良の連絡を怠ったり、(ハ)I・E(品質管理)、V・A(原価管理)で積極的発言がなかったこと、(ニ)勤怠状況の悪かったことをあげている。しかし、同原告が転勤の内示を受けた頃昇格しない理由をただしたとき長谷川部長は(ハ)だけを指摘していたし、同原告から反論されるとたちまち人事の秘密を口実に返答を避けた。
他方、原告小椋に対する被告と同盟組合が一体になった攻撃も原告松井のそれより早い時期になされ、原告小椋がすぐれた組合活動家として頭角をあらわすにつれて、次第に露骨になってきた。すなわち、原告小椋の前記除名に際しての懲罰委員長である水谷課長(当時は係長)がその後同原告を自らの課であるサービス課への配転を被告首脳に推薦している。しかし、右水谷は同原告を秀れているといっておいて、サービス課にくるや早速人事考課の際に極端に低い点をつけていたことが明らかになっている。この事実だけでも本件配転が被告と同盟組合が一体となって差別的になしたことは明確に示している。
およそ、企業が攻撃の対象とするのは、一般的に自主的組合にあっては組合役員であり、三役経験者であるが、企業に丸がかえされた組合にあっては労働組合に自主性をもたらそうとする活動家である。
(三) 本件転勤、配転命令の不利益性
(1) 原告松井
(イ) 原告らは本件転勤、配転命令を受けた当時、同盟組合から除名され、裁判所に仮処分を申請する予定であり、その後除名処分が違法であるとしてその効力停止の仮処分申請をした。裁判闘争は申請後もたびたびの弁護士との打合わせ、裁判手続を進めるための経費が必要となるが、そのためには多くの人々に支持と理解を訴え、カンパ活動を行なうことなどが重要となる。また、同一の理由で除名され争っているのは原告らと藤井であるが、この者らが常に連絡を密にして裁判の準備をすることも必要である。さらに、被告従業員、とりわけ同盟組合員に政治活動の自由、思想信条の自由、労働組合活動と政治活動の違いなどをビラ、パンフレット、口頭で宣伝しなければならない。しかし、原告松井の場合東京営業所は距離も遠く、時間も作りにくいし、同原告の給料からみても経済的負担にも耐られず、前記活動は不可能に近い状態となる。
(ロ) そればかりか、本件転勤命令により同原告の今後の組合活動、政治活動の基盤が全く奪われてしまうことになる。すなわち、被告の組織は大阪が中心で従業員の大部分が本社および八尾、奈良の両事業所に集中している。ところが、東京営業所は八尾事業所営業部に属し、従業員は所長、女子事務員を含めて三名に過ぎず、実体からすれば島流しと同様である。
(ハ) さらに、仕事上の不利益性も大きいのであって、同原告は乾燥能力テストや新しく開発すべき機械の設計などの仕事に従事してきたが、東京営業所では海苔の乾燥機やゴルフ練習機の外回り販売が主な仕事である。このように人員も少なく仕事の内容も全く違うところに配属されることは同原告の能力を奪い、その意欲も減退させ、将来に対する希望を失なわせるものである。
(ニ) また、家庭生活上の不利益性も重要である。同原告は母親と二人暮しで、母親が病気がちのためその世話をし、物質的、精神的なささえとなってきた。ところが突然の転勤命令により、母親も動揺し、同原告の精神的打撃ははかり知れない。
(2) 原告小椋
(イ) 原告小椋も本件配転命令当時除名処分を争う裁判闘争をしていた。ところが、本件配転により現在勤務しているサービス課は納入した製品のアフターサービスとその機械修理が主な仕事であって、国内でも二、三日から一〇日位の出張があり、時には海外へ六か月内(ママ)もの長期出張が命ぜられ、社内での仕事が少くなり、このような状態になれば右裁判闘争やそれに伴う諸活動、原告松井との連絡、打合わせなども不可能に近い状態となる。
(ロ) また、原告小椋が出張の多いサービス課に移転されたことは、組合活動を引続き行なうことを不可能にするものである。
(ハ) さらに、同原告は旋盤工として二級の国家試験に合格しており、将来立派な旋盤工として働くことを願っていたのに、本件配転は同原告の希望を奪うものである。
(四) 本件転勤、配転以後の攻撃
本件転勤、配転以後も被告と同盟組合一体の民青同盟に対する攻撃は執ように続けられ、昭和四八年八月被告がなした原告小椋と藤井の門前ビラ配布に対する謹慎一日等の処分、同年九月の同盟組合における青婦部役選の投票妨害および昭和四九年二月唯一の民青と目されていた代議員島中の除名処分などがなされた。
特に、被告は昭和五〇年二月二五日同盟と総評の両組合に対し不況を理由として従業員を一五〇名縮少するとの申入れをし、同年三月二二日から四月三日まで希望退職の募集をした。この結果同日まで希望退職者は一三六名に達したが、被告は一五〇名にわずか一四名足らないとして原告小椋ら一四名を指名解雇した。解雇された同盟組合員八名はすべて同盟組合から統制処分をうけた者およびこれを公然と支持した岡林、藤本の両名であって、かねてより被告や同盟組合から小椋一派と目されていたものばかりである。そして、同盟組合も組合員の権利を守るという立場に立たず、むしろ、被告の一組織として八名を被告外に排除することに全力をあげてきたのであり、このことは被告が希望退職者の募集を発表してから一四名を指名解雇するに至る経過の中に余すところなくあらわれている。以上の事件について大阪地方裁判所は解雇を無効として地位保全の仮処分申請を認容する旨決定した。
(五) 結論
被告は原告らを共産党員、民青同盟員と目し、このような思想の持主が被告の本社のあるところにいて本社や八尾、奈良各事業所の従業員に影響を及ぼすことは被告として耐えられないことであり、原告松井に対しては知人、友人はもとより従業員もいないに等しい東京営業所に転勤させることによりその影響力を断ち切ろうとしたものであり、原告小椋については出張の多いサービス課に配転することにより同人の組合活動を封殺し、職場の従業員から切りはなしてその影響力を切断しようとしたものである。このような思想、信条を理由とする本件転勤、配転命令は憲法一四条、労基法三条に照して違法無効であり、労組法七条の不当労働行為として無効である。
2 本件転勤、配転命令は信義則に反し、権利の濫用であって無効である。
(一) 業務上の必要性の不存在と人選の不当性
(1) 原告松井
(イ) 被告は、昭和四八年頃から脱繊維の方向を積極的に打出し、繊維の八尾事業所、化工機部門の奈良事業所、果実、海産、レジャーのヒラキン製作株式会社(以下九州ヒラキンともいう)の三本柱を確立し、九州ヒラキンのレジャー部門の中で特にゴルフ練習機が画期的製品で関東方面を有力な販路としていたこと、東京営業所には九州ヒラキンのレジャー部門を担当する技術者が不足しており、技術セールスマンの派遣の必要性があったと主張する。
しかし、九州ヒラキンおよび被告にはそもそもレジャー部門など全く存在せず、この分野につき一定の人員や総合的計画もない。レジャー部門といってもゴルフ練習機を売出そうと考えていただけであって、これも思いつきに過ぎず、特に被告として重視していた形跡はなく、昭和四九年頃からは製造もしておらず、販売された台数も昭和四八年頃見本程度にわずかに売られたに過ぎない。しかも、関東方面を特に有望視していたといいながら昭和五〇年二月には東京営業所の廃止を打出し、同年秋には廃止したのである。
なお、当時九州ヒラキンは資本金八〇〇万円の小さな会社であり、被告は五億六〇〇〇万円の資本金の会社で、奈良事業所は六億円を投資して建設したものであって、その格差は大きく、八尾、奈良各事業所と並ぶ三本柱の一つとして九州ヒラキンを位置づけることはできない。しかも、小さな九州ヒラキンにレジャー部門を担当させる必要があるのか全く理解できず、もし、ゴルフ練習機を主力製品の一つとして全国的に販売するのであれば、九州ヒラキンにも奈良、八尾の各事業所にもそうした技術担当者を置いてあるのが通常であるのにそのような事実はなく、わずか三、四名の東京営業所にレジャー部門担当技術者を置くというのは、いかに被告の主張が机上のものであり、原告松井の転勤を合理化するための口実にすぎないことを示している。
(ロ) 被告は同原告がゴルフ練習機の設計図面を最初に作成した人物で、その中心であると主張するが、配転前同原告が同機についてしたことは上司である絹傘の指示による見取図作成の手伝いだけである。しかも、この見取図作成は単なる輸入品の模写であって専門的に勉強していなくても簡単にできる仕事である。ところが、社内報によると、同機の開発は本社企画部ヒラキン統括課を中心に進めていると書かれている。したがって、被告は同原告に輸入品の図面を数枚書かせて東京配転の理由づくりをする一方、同機の開発は全然別のヒラキン統括課の小森らに担当させて同原告の知らない間に開発を進めていたのである。もし、被告のいうように同機の販売に力を入れ、技術者が必要なら本来同機を開発したヒラキン統括課の従業員が一番適任であって、同原告を選任する理由はない。
同原告がゴルフ練習場の見取図を書かされた昭和四八年一月頃、同原告はコラーゲンの仕事を継続した課題として取組んでいたのであって、右見取図はコラーゲンの仕事の合間になんの前後の関連もなく突然書かされたものであり、その目的や内容を聞かされておらず、設計の要素などはなかったのである。ところが、被告は昭和四八年二月頃同原告から理由もなくコラーゲンの仕事を取上げた。これによって、被告の計画的な同原告の東京配転の理由作りをうかがうことができる。その後同原告には部分的な手伝いの仕事しか与えられず、助手的な内容のものに過ぎなかった。また、被告は同原告に海苔乾燥機も担当させたといっているが、これについては同原告は全く関与していない。
ゴルフ練習機は昭和四八年五月の同原告の配転当時製品として販売する段階には至っておらず、製作中の機械であった。製品として完成していないのに東京営業所などの小さなところに販売担当者をおくのも不合理である。
(ハ) 被告は研究開発部から人選せざるを得なかったと主張し、また、被告にとってゴルフ練習機の販売が最重要課題であって、セールスエンジニアが是非とも必要であるというが、もしそうであれば、セールスエンジニアにふさわしい人物を派遣するのが当然であろう。ところが、同原告が配転を拒否すると結局繊維の乾燥機しか知らない事務系の小酒井を東京へ配転した。
仮に研究開発部から配転するとしても同原告を選定しなければならない理由はなかったものである。
(2) 原告小椋
被告にとってサービス課が一番大切で、人員も補充強化しなければならず、そのために原告小椋を配転したというような事情は存在しない。同課改善計画の大きな眼目であった人員配置にしても同原告を配転しただけで、なんら改善は行なわれていない。同原告の配転前後で同課の人員は変っていないばかりか、協力会社の人員を含めれば減少している位である。また、被告が主張している溶接工は一人として同課に配転されていない。
同原告が同課に適任である理由として、被告は同原告が工業高校卒で訓練所も卒業し二級の国家旋盤免許証を持っていることおよび長年勤続によって社内の状況などもよくつかみ水谷課長も個人的に同原告をよく知っているからであるという。しかし、被告は昭和五〇年四月に実施された原告ら一四名の指名解雇において同原告を無能力者であるとし、まっさきに指名解雇しているのであって、同原告の必要性について数多くの事情を述べておきながら、同原告を解雇し、その後はその条件を兼ねそなわっていない社外工の小田に同じ仕事をさせているのは、矛盾であり、結局、必要であったはずの同原告一人だけをサービス課で解雇し、社外工の小田に替えただけという結果になった。
(二) 本件配転手続の不当性
被告では東京などの遠隔地配転はもちろん府下配転の場合でも二、三か月前に内示をするのが通例であった。しかるに、被告は原告松井に対してわずか二週間前の昭和四八年四月一六日に内示するという異例の措置をとった。また、被告は従前本人が内示に難色を示せば柔軟に考え直し、本人の意向を尊重するのが常であったにもかかわらず、内示を変更する意思はなく、これを一方的に強要した。同原告は内示後直ちに選考理由を尋ねたところ、東京拡充計画の一環であるとか、他に人がいるかどうかは被告が決めることだとしか答えず、最後までその理由を明らかにしなかった。同原告の東京転勤は在任期間を定めずになされたものであり、いつ本社、八尾事業所に復帰できるか分らないものであった。
(三) 結論
以上のとおり、原告松井を東京営業所に転勤させたこと、原告小椋をサービス課に配転させたことにはいずれも合理的理由がなく、業務上の必要性がない。それに比べて、原告らの受ける不利益は既に述べたように切実かつ緊急なものであり、不当にその生活上および活動上の利益を侵害するものである。しかも、本件転勤命令の内示の仕方も組合除名後直ちになされたものであり、原告らが被告に対してその不利益性を具体的に述べて再三再考を求めたのにかかわらず、被告の決定だからということだけで十分な配慮もなしに内示を押しつけたやり方は人事権の行使につき信義則に反し、権利を濫用するもので無効といわなければならない。
3 原告松井に対する転勤命令は労働契約に違反し無効である。およそ、使用者の配転権限は当該従業員との労働契約に基づくものであり、右権限の範囲は労働契約の内容によって一定の拘束を受け、労働契約に含まれない配転命令は当該労働者の同意を得ない限り許されない。そして、労働契約締結にあたって勤務場所、作業内容、職務範囲、作業方法などの労働条件はできるだけ具体的に明確にしなければならないし、労基法一五条もその明示を義務づけている。原告松井は八尾事業所において純然たる技術者として研究開発に従事していたところ、本件転勤で東京営業所の、しかも営業部門に従事することを命じられた。このような勤務場所および業務内容の変更は労働契約の要素である職務場所および内容に変更のある場合に該当し、同原告の同意がない限り無効である。
さらに、およそ今日では労使関係を契約関係とみる考え方をさらに押しすすめて、何が契約内容であるかについては労働者の生存保障、人間らしく生きる権利の保障からも厳密な判断を必要とするとされている。勤務場所および職務内容等がすでに労使間で合意されていると認められる場合もしくはその変更権が使用者に委ねられていると認めがたい場合には、使用者は原則として労働者の同意のない限りこれを一方的に変更することはできないというべきである。被告が必要と認めたときは配転することができるとの就業規則の規定は、同原告と被告間で定められた大阪府下勤務の契約内容と矛盾するものではない。右規定は単に人事権が被告にあることを一般的に承認したものに過ぎず、同原告の個別契約内容を一方的に変更しうることを認めるものとは解されない。就業規則の効力を重視して職種の変更、勤務場所の変更を伴う勤務命令を有効とすることは誤りである。
4 原告松井に対する解雇は前記のような被告の違法無効な転勤命令を拒否したことを唯一の理由とするから、これを前提とする解雇も無効である。
四 原告松井の賃金と原告らの損害
1 原告松井の賃金
(一) 被告は従業員に対し毎月二八日に前月二一日から当月二〇日までの賃金を支払っており、原告松井の昭和四九年四月二〇日当時の一か月の賃金は七万五六〇〇円である。
(二) 昭和四九年四月被告と同盟組合との間に賃金に関する協約が成立し、右協約によれば、昭和四九年四月二一日から三級該当者のベースアップ分は二万一八〇〇円、定期昇給分として三二〇〇円(考課査定Bの場合)の増額となった。
昭和五〇年六月三日被告と同盟組合との間に賃金に関する協約が成立し、右協約によれば、同年六月二一日から三級該当者のベースアップ分は四八〇〇円、定期昇給分として九四〇〇円(考課査定Bの場合)の増額となった。
昭和五一年四月三〇日被告と同盟組合との間に賃金に関する協約が成立し、右協約によれば、同月二一日から三級該当者のベースアップ分は一三〇〇円、定期昇給分は三六〇〇円(考課査定Bの場合)、勤続比分五五〇〇円(勤続五年の場合)の増額となった。
被告と同盟組合との間に昭和五二年度賃金に関する協約が成立し、右協約によれば、昭和五二年四月二一日から三級該当者のベースアップ分は九〇〇円、定期昇給分は三九〇〇円、勤続給四五〇〇円合計九三〇〇円の昇給となったが、その実施方法は四月二一日から五九〇〇円、同年一〇月二一日から三四〇〇円昇給することとしている。
(三) 原告松井は三級該当者であり、考課査定は平均のBとせざるを得ず、前記協約によって原告松井が被告から支給されるべき月額賃金は次のとおりである。
昭和四九年四月二一日以降一〇万〇六〇〇円
昭和五〇年六月二一日以降一一万円
昭和五一年四月二一日以降一二万〇四〇〇円
昭和五二年四月二一日以降一二万六三〇〇円
同年一〇月二一日以降一二万九七〇〇円
(四) 原告松井が被告から支給を受けるべき昭和四八年夏期一時金は一八万九五九一円、同年冬期一時金は二一万五二三七円、昭和四九年夏期一時金は二三万三一三六円、同年冬期一時金は二四万三三四二円である。
被告は全従業員に対し昭和五〇年六月臨時一時金として基本給比分基本給一万円につき二七四八円、一律分三五〇〇円とし、その合計額を同月二八日に支給した。同原告は右計算方法によれば二万九六六〇円が支給されるべきである。
被告は全従業員に対し昭和五〇年夏期一時金として、七月と九月の二回にわけ、七月には基本給比分を基本給一万円につき一万三四九九円、一律分を一万八九五〇円とし、九月には基本給一万円につき五三九九円、一律分を七五八〇円として支給した。同原告は右計算方法によれば七月に支給される一六万〇一四九円と九月に支給される六万四〇五三円の合計二二万四二〇二円が支給されるべきである。
被告は全従業員に対し昭和五〇年冬期一時金として基本給比分を基本給一万円につき一万九三四九円、一律分を二万七〇〇〇円とし、この合計額を同年一二月四日に支給した。同原告は右計算方法によれば二二万九四九〇円が支給されるべきである。
被告は昭和五一年夏期一時金として全従業員に対し基本給比分を基本給一万円につき一万八一五七円、一律分を二万七八七六円とし、金額一律一万五〇〇〇円とし、その合計額を同年七月に支給した。同原告は右計算方法によれば二四万九八六四円が支給されるべきである。
被告は同年冬期一時金として全従業員に対し基本給比分を基本給一万円につき一万九七九九円、一律分を三万〇六八〇円とし、その合計額を支給した。同原告は右計算方法によれば二五万八三六八円が支給されるべきである。
被告は昭和五二年夏期一時金内金として全従業員に対し一律一万四六九〇円、基本給一万円につき九〇〇〇円で算定されたものを同年七月に支給した。原告松井の基本給は一二万〇四〇〇円であったからその合計額は一二万三五〇〇円である。
被告は同年夏期一時金残金として全従業員に対し同年九月に同年夏期一時内金と同額のものを支給した。
被告は同年冬期一時金として全従業員に対し一律二万二六八〇円、基本給一万円につき一万三五〇二円とし、その合計額を支給した。同原告の基本給は一二万四三〇〇円であったから、その支給額は一九万〇五〇九円となる。
被告は昭和四八年一二月二九日全従業員に生産奨励金として第二級、三級の資格保有者に一律二万五〇〇〇円を支払った。
2 原告らの損害
前記のとおり、本件転勤、配転命令および原告松井に対する解雇処分は違法であり、被告は右処分が違法であることを認識していたし、少くとも認識しうる状況にあったものである。そのため、同原告は解雇されて仕事を奪われ、原告小椋は配転を余儀なくされた。被告の前記各行為は不法行為に該当するから、原告らに対しその損害を賠償する義務がある。そして被告は原告らに対し多大の精神的苦痛を与えたことは明白であり、その慰藉料は原告松井につき三〇万円、原告小椋につき二〇万円が相当である。
五 よって、請求の趣旨記載のとおり、原告松井は被告に対し被告本社研究開発部の従業員たる地位を有することの確認と賃金および慰藉料三〇万円の支払を求め、原告小椋は被告八尾事業所製造部製機課の旋盤工であることの確認と慰藉料二〇万円の支払を求める。
(本案前の答弁)
一 被告は昭和五〇年四月八日原告小椋を人員整理に基づき解雇した。したがって、同原告には請求の趣旨記載のような被告に雇用されていることを前提とした地位確認を請求するについて確認の利益を欠く。
二 原告小椋の本件請求は配転命令前の職場に勤務する従業員としての地位確認であるが、特定の勤務場所に勤務するということは確認の対象とはなりえない。同原告は通常の雇用契約によって被告の従業員となったものであり、かつ被告の就業規則一四条には「会社が必要と認めたときは転勤、転職、配置転換、駐在または出向を命ずることがある。前項を命ぜられたときは正当な理由がない限りこれを拒んではならない。」と明記されている。したがって、被告が同原告に指示した勤務場所の変更は被告の業務上の必要に基づく事実行為に過ぎず、原告小椋の確認請求は法律上の請求ということはできない。
(請求原因に対する認否および被告の主張)
一 請求原因一、二は認める。
同三の1の冒頭事実は争う。同(一)の(1)のうち、被告には同盟組合と総評組合が存することを認め、その余は否認する。同(2)ないし同(4)は否認する。同(5)のうち、被告が昭和四七年一一月頃から時事問題講習会を開催したことを認め、その余は否認する。同(6)のうち、原告らが同盟組合から除名されたことを認め、その余は否認する。同(7)は否認する。同(二)の(1)、(2)は不知、同(3)のうち、原告松井が昭和四八年四月に四級に昇格しなかったこと、被告が同原告の昇格が遅れた理由として原告主張の四点をあげていることを認め、その余は否認する。同(三)の(1)のうち、当時の東京営業所の従業員は所長、女子事務員を含めて三名であること、原告松井は乾燥能力テストや新しく開発すべき機械の設計等の仕事にも従事してきたこと、東京営業所では海苔の乾燥機やゴルフ練習機の外回り販売が主な仕事であること、原告松井が母親と暮していたことを認め、その余は否認する。同(2)のうち、サービス課は納入した製品のアフターサービスとその機械修理が主な仕事であり、国内でも二、三日から一〇日位の出張があること、原告小椋が旋盤工として二級の国家試験に合格していることを認め、その余は否認する。同(四)のうち、被告が昭和五〇年三月二二日から四月三日まで希望退職の募集をし、その結果同日まで希望退職者が一三六名に達したこと、原告小椋ら一四名を指名解雇したことを認め、その余は否認する。同(五)は否認する。
同2の(一)の(1)の(イ)のうち、昭和五〇年秋東京営業所を廃止したことを認め、その余の事実および同(ロ)、(ハ)は否認する。同(2)は否認する。同(二)のうち、被告が昭和四八年四月一六日に原告松井に転勤を内示したことを認め、その余は否認する。同(三)は否認する。
同3は否認する。
同四の1の(一)は認める。同(二)のうち、第二、三段は認め、その余は否認する。同(三)は否認する。同(四)のうち、被告は昭和五〇年六月臨時一時金、夏期、冬期一時金、昭和五一年夏期、冬期一時金を従業員に原告松井主張のとおり支給したことを認め、その余は否認する。同2は否認する。
同五は争う。
二 被告の主張
1 被告の概要
被告は肩書地(略)に本社を置き、同所に八尾事業所、奈良県河合町に奈良事業所、東京都港区新橋に東京営業所を配置し、あらゆる分野における熱風乾燥機や熱処理機の製造販売を営む産業機械メーカーである。被告の脱繊維化の一環として被告が資本金の三分の一を出資している九州ヒラキンがある。
2 原告らに対する転勤、配転の必要性
(一) 原告小椋
(1) サービス課の業務内容は納入先の機械のアフターサービスとユーザーの新機種に対する要望をつかみこれを新製品の開発に活用することが中心である。被告のこれまでの機械等の納入台数は約五〇〇〇台に達し、アフターサービス業務は増加の一途をたどっているが、これを迅速に処理することが次の受注に大きな影響を与えるので、同課の拡充強化は重要な課題であった。しかし、現実にはこの部署の改善整備は著しく遅れており、技術者の不足、社内サービス工場の不足などのために十分でなく、ユーザー側の要請に十分応えられなかった。昭和四七年一〇月同課改善に関して上申書が課内でまとめられ、昭和四八年一月には同課六級職の三名からなる効率的なサービス業務と題する研究も提出され、さらに、被告の奈良事業所が昭和四八年一月発足ということもあって同課内の体制の検討が進められていた。
同課の問題点は、(イ)社外に出張サービスを行なって帰ってきた課員の社内における作業体制に改善の必要があること、(ロ)サービス業務はユーザーの要請によって行なうためともすると変則的となる仕事のあり方を再検討する必要があること、(ハ)サービスに使用する部品の製作が飛び込み作業が多いためスムーズにゆかずユーザーの要請に応じられない場合が多発していること、などである。この改善の骨子としては、(イ)定期点検の体制を確立して、部品の磨耗度や故障場所の早期発見、(ロ)突発的なサービスや早期発見時に使用する部品加工は他課の本番工程を乱すことなく自主的、迅速に実施できる体制の確立、すなわち社内にサービス課独自の製作工場を設備すること、(ハ)部品加工は旋盤加工、ミーリング加工、部品集成、配管加工、鉄骨加工などで、それらに必要な機械の設置と要員の補充が必要であること、(ニ)要員が補充されれば社内外の作業力にも余裕が生じ、仕事の過重も解消できるので補充者には多能工として成長しうる人物が望ましいこと、(ホ)協力会社の従業員が増加の傾向にあり、これらの技能レベルを向上させること、などが検討されることとなった。
(2) サービス課改善の実施
これまでのサービス課の人員は、被告の従業員が課長以下一一名、協力会社の従業員が一五名であったが、前記改善のために一応被告の従業員を四名、協力会社の従業員を一〇名それぞれ増員する方針であった。被告従業員四名の増員は昭和四八年五月の定期異動で実現すべく計画していたが、同年一月の奈良事業所開設に伴う異動が二三名あり、さらに、同事業所への追加異動を最優先に実施したため、右定期異動ではとりあえず一名を同課にまわし、今後引続き調整しながら逐次増員してゆくこととなり、昭和四九年四月の定期異動で二名の増員が行なわれた。この配転は、サービス業務に国内向けと海外向けとがあり、従来同課は主として国内サービスを中心として行なっていたが、今後は海外サービスをも含めて行なうこととなった。ところが、現在の同課人員で海外サービスも行なうことは難しいので、他課から二名増加することとし、海外出張の経験者で多能工的人材としてもともと旋盤や仕上げを得意とする田中重男係長と松前進雄を配転した。また、八尾事業所内にサービス課所属の部品加工工場を建設することとなり、昭年四八年七月二〇日着工し、同年九月から操業した。右部品加工工場建設の着工が遅れたのはもとの第一事業部が奈良に移転したあとその建屋一棟を八尾事業所に移す予定であったが、最終的にその建屋を倉庫とすることに決定されたので、新たに建設することに計画が変更されたためである。
(3) 原告小椋が選任された事情
増員予定者一名についてのサービス課の要請は、若い熟練者で技能レベルは技能検定試験にパスしている程度の者で、さらに運転免許取得者が好ましく、社外の人々に技能指導する機会も多くなるので応用動作ができる者として訓練所ならびに工業高校卒業者が望ましいということであった。したがって、全般的な作業を修得している技能レベルの者から同課要員を人選することとなった。機械加工職場には当時係長以下が三三名いたが、そのうち訓練所ならびに工業高校卒業の該当者は原告を含め三名であった。そのうち水谷は長尺旋盤の特殊加工を専門としていてグループリーダー的立場にあり、今後の作業遂行上その職場での技術レベルが下るというので職場としては離しがたく、他の中筋は他の職場で事務などを二年にわたって行なっており、この作業遂行のレベルに達せず、運転免許も取得していない。右二名に比較して、原告は訓練所および工業高校(定時制)を卒業しており、基礎知識や対人的な態度も能力もあり、現場作業も十分マスターしていて、単なる旋盤工としてではなく、多能工として育成された者であるので最も適任であると判断し、選任された。
なお、訓練所を卒業した者で旋盤二級の国家試験に合格した者は当時被告に七名(訓練所卒業以外では一〇名で合計一七名)いたが、そのうち他課に配転した者も数多くおり、職場を固定的に考えるのは不合理である。同原告を最初に選んだのは水谷サービス課係長であるが、同係長は同原告の中学の先輩であり、訓練所の実習中に同原告を組立職場で教えていること、共に野球部に所属していたことから、同係長が同原告の仕事振り、人柄を知って選任したもので極めて順当な人選である。
(4) 配転後の原告小椋の勤務状況
原告小椋は被告の配転命令に従ってサービス課に勤務していたが、その後勤務をめぐって特段の問題は生じていない。同原告は同課で出張のない時、つまり日常は旋盤を使っており、旋盤中心の仕事をするという同原告の希望はそのまま実現されていたし、出張先では組立加工の仕事に従事していたが、この仕事は訓練所で実習のときに覚えたというのであって、同原告が多能工として同課で立派に仕事をこなしていたと言える。同原告は配転内示の段階から出張はいやだと言っていたが、業務上必要な出張が個人の恣意によって拒むことは許されない。しかし、被告も同原告の希望をとり入れて同原告を同課第二係に配属した。また、同原告は前記除名裁判が係属しているので配転に応じられないと述べていたが、同課への配転内示は除名裁判の仮処分申請がなされた昭和四八年五月九日より以前である。もとより、同原告に対する配転と除名裁判とは全く無関係であり、その後においても被告は同原告の除名裁判のためにたびたび特別の配慮を払っていた。そして、同原告も同課における業務のあり方、その重要性について十分理解し納得して勤務している。
(二) 原告松井
(1) 被告の脱繊維化と新製品、新市場の開発
被告は昭和四四年頃から被告製品の繊維依存から脱皮して企業の安定化と高成長をはかるべく計画を推進してきた。当時の被告の年間売上高は約二八億円で、そのうち繊維関係の染色仕上機は約八〇%を占めており、余りにも繊維関係への依存度が高く、将来への成長性という面で問題を残していた。このことは昭和四六年夏の対米繊維製品の輸出規制およびドルショック発生の際に業績に極めて明確なかげりを示したことによっても明らかで、一日も早く営業内容の多角化が望まれていた。
被告は脱繊維の第一歩として昭和四四年一二月佐賀県唐津市に子会社であるヒラキン製作株式会社(九州ヒラキン)を設立した。同社は設立当時ミカンの撰果機や自動梱包機などの製造が主力であったが、現在ではこれらの製品が軌道にのっているので果実、蔬菜関係、海産物の乾燥機、第三次部門であるレジャー部門へと具体化している。さらに、被告は昭和四六年七月奈良県河合町に新工場の建設を計画し、昭和四八年一月完成したが、右奈良事業所は化工機部門を中心とした専門工場で、将来被告の売上高の五〇%を占める計画であった。ここに、繊維の八尾事業所、果実、海産、レジャーの九州ヒラキンとともに被告の三本柱が確立された。
また、被告は昭和四八年一月奈良事業所発足とともに事業部制を導入し、事業所毎の責任体制を確立した。しかし、事業所毎に新製品や新市場の開発を分担することは不経済的であるので、本社に市場開発部を新設してこの部門が新市場の開発を担当することとなり、商品化の見通しがついた段階で各事業所へ製造と販売を移管することとなった。
被告の当時の新製品として画期的なものにゴルフ練習機があった。すなわち、被告は昭和四七年八月伊藤忠商事株式会社の紹介でロンドンのビスターゴルフ社を訪れ、同機の開発に着手した。当時同機はほとんどアメリカからの輸入品で、国産品は被告のものが初めてであり、当時市場に出回っていたのは約五〇〇台で、被告は月産二〇台約六〇〇〇万円の売上げを見込み、その販路として関東方面を特に有望視していた。また、海苔乾燥機は被告が昭和四三年頃開発した新製品で、既に販売台数は二〇〇台を越え、特に味付海苔用乾燥機として東京の山本海苔店との共同開発による新機種が開発されることとなった。海苔業者の実態は家内工業的な規模が多く、機械技術の知識は決して高くないので、この部門の成長は技術面での指導サービスが大きなウエイトを占めることになった。
(2) 東京営業所増員の必要性
前記のとおり、被告の脱繊維化の方向は紙、パルプの乾燥機、果実の撰果機、海産物の乾燥機そしてレジャー部門への進出であって、これが当面の最も重要な課題であったが、被告の関東方面の基地である東京営業所には当時所長以下三名の従業員がおり、阪本所長は八尾事業所の繊維関係の営業を、鈴木は奈良事業所の化工機関係をそれぞれ担当し、他の一名は女子事務員で全般の補助業務にたずさわっているのみで、被告のもう一本の柱である九州ヒラキンのレジャー部門を担当する技術者が不足していた。そこで、東京営業所ではかねてからこの方面の適当な技術セールスマンの派遣を本社に要請してきており、それが本件の定期異動で具体化することとなり、一名の増員が決定された。とりわけゴルフ練習機はC・Iゴルフとして伊藤忠商事株式会社(東京本社)物資部レジャー器材課が総販売元となっており、同機の中心となるコンピューターは富士電機株式会社川崎工場の製品であり、スライド映写機は東京のキャビン工業株式会社の製品である。そこで、これらを技術的にマスターして伊藤忠商事株式会社と常に連携しながらレイアウト、アフターサービスを業務とする技術セールスマンの東京派遣が伊藤忠商事株式会社からも強く要請されていた。
(3) 原告松井が選任された事情
東京営業所への増員は研究開発部から人選することとなったが、これは同部の業務がいわゆる技術研究と共に自らが手掛けた機械をまず商品化するために必要な協力を行なうことにあるからである。同部においては研究開発のレールにのった機種の商品化は同部自らが何としてでも軌道にのせるという経営戦略としては最も有効なシステムで活動しているのであって、このことは企業の不可欠な施策である。
研究開発部研究開発課(一部一課)の構成は昭和四八年五月当時部長兼課長以下女子従業員を含めて一〇名であったが、部長、試用期間中の者、研究現場作業員、女子従業員の各一名を除いた六名が東京営業所転勤要員として人選の対象となった。そして、右六名中、永田係長は係内の統轄が重要な仕事で当面転出が不可能であり、大倉は四年前からユニチカ株式会社と共同で溶剤処理加工機の基礎研究をしていて当面転出が難しく、宇敷は設計部から配転になった者であるが、対外折衝が不得手でむしろ基礎的研究に適している者であるので不適当であり、石田は昭和四七年秋から染色整理機器業界で最も重要な課題となっている連続染色装置の開発を手がけており、当時ようやくその一号機を納入する段階でユーザーからのクレーム処理などが予想され、当分転出できない状態であり、神出は昭和四七年入社の新人で実質的には同年一〇月配属されたばかりの技術的にも未だ不十分であった。
これらの者に比較して、原告松井は昭和四七年ゴルフ練習機の試験機をイギリスのビスターゴルフ社から購入したときこれをチェックして製造用設計図面を最初に作成した者であり、また、入社後二年を経過して一応社内事情も理解しており、最適任者と判断して東京営業所へ転勤を命じたのである。
以上のとおり、同原告の東京営業所への転勤は被告の業務上是非必要であり、同原告が適任者であることは同原告自身が昭和四八年四月二三日の話合いの中でも認めていたところであって、組合との除名問題に関する争いさえなければ応ずるであろうという意味の表現さえしていた。
ゴルフ練習機については研究開発部では同原告以外に担当した者もなく、ヒラキン統括課の小森も同機の設計等をしたことはないのであって、他社から購入して同機に使用するコンピューターやスクリーンを選定したり、改良を要請して使いやすい練習機にしたり、同機をどのような場所にどのように配置するかなど一つの商品として得意先に喜んでもらう技術的なとりまとめをすることは、東京営業所赴任後の同原告に課せられた使命なのである。また、主たる担当者の決定について一定の形式が定まっているわけではなく、当初から明確に本人に指示する場合もあるし、実務を担当しながら一定の開発の段階であらためて担当者にする旨説明する場合もあるし、特に担当者である旨明確に述べない場合もある。仮に、明確な指示がなかったとしても、研究開発部で同原告以外担当者がいなかったことは事実であり、実際は永田係長がスケッチを同原告に指示した際ゴルフ練習機に取組んでくれと頼んでいたのである。なお、ゴルフ練習機に関する業者との打合せに同原告が出席していなかったのは、当時の段階ではまだ当初のことであったため、市場開発部の中川部長が主としてこれに当っており、同原告の東京赴任後において初めてメーカーとの細かい技術的な打合せやユーザーの要望にこたえる技術的相談が出てくるのである。
(4) 東京営業所転勤の有利、不利
東京営業所は仕事の内容によって指揮系統が異なっており、阪本は八尾事業所営業部、鈴木は奈良事業所営業部の各指揮下に入るのであって、原告松井が赴任しておればヒラキン統括課の指揮に入ることになっていた。東京営業所への転勤は決して島流し同然といわれるものではなく、大阪に帰ってきた例も多い。また、東京営業所へ行けば単なる販売員となって同原告自らの技術に不利益になるということもなく、現に阪本はもと設計部の技術者であり、鈴木は旧制多賀工専機械科の出身であり、また、昭和四四年四月から昭和四六年一一月まで大阪から東京に転勤していた三好も同志社大学機械科を卒業している。セールスエンジニアは被告の特色であり、市場を知らずして研究開発はあり得ないのであって、被告においては営業部門に技術出身の管理者が十数名にも達している実状である。東京営業所に勤務する者には基準内賃金の三〇%が月額手当として支給され、住居は被告が借上げたうえ月額一〇〇〇円の低額家賃で貸与され、赴任にあたっては基本給の〇・五か月分が支給されるなど労働条件での不利益は全くなく、経済的にはむしろ好転するのであった。
原告松井は母親と二人暮しでしかも母親が病気がちであったと主張するが、同原告が被告に入社するまでの大学在学中はずっと一人暮らしであり、母親は同原告の入社当時から転勤発令に至るまで元気にオーサカサービスセンターに勤務しており、近くには同原告の長兄や姉も居住している。同原告の母親は被告に対し同原告の行動について恐縮している状態である。同原告には転勤に伴う家庭生活上の不利益などは全くあり得ない。
3 原告らに対する転勤、配転発令前後の経緯
(一) 原告小椋
サービス課の木村課長は昭和四八年四月一三日原告小椋に対しサービス業務改善の必要性を説明して配転の内示をし了承を求めた。これに対し同原告は旋盤が好きなのでできれば旋盤をやりたいと述べたが、強い反対の意思表示はなく、むしろ考えておくといった態度であった。同月一六日さらに同原告の意向を聞いたところ、同原告から業務内容の詳細な説明をしてほしいと言われたので、同月二〇日真鍋八尾事業所長、西端製造部長、木村課長が同席してサービス課の業務内容、同課の部品加工工場の計画、社内での旋盤作業の必要性などを説明した。同原告はこれに対しても特別な意思表示もせず、四月二一、二二日の連休に続いて四月二六日まで欠勤したので、同月二七日出勤したとき同課長が返事を督促したところ、同原告は出張はいやだ、身体が弱いと述べるなどあいまいな態度で終始し、同年五月に入って再度同課長が明確な意向を求めたところ、どうしても行けというのであれば不当だけれども仕方がないという態度であった。同月一二日総務部長、総務課長が同原告に対し配転について説明し、明確な返事を求めたところ、同原告は新たに除名反対運動の必要から困るという意見を述べた。しかし被告側は同原告の述べたことが配転拒否の正当理由にならないと判断して説得し、発令することになると述べた。その後被告は同月一五日同原告に対し社報六〇〇号で同月一日付をもってサービス課配転を発令し、同月二一日から同課で勤務するよう指示した。同原告は指示どおり同日から同課に勤務している。
(二) 原告松井
被告の昭和四八年の定期異動は役付者関係の調整が遅れたため、四月一九日になって内示すべき内容がまとまった。同月一六日上司の長谷川部長は原告松井に対して東京営業所強化の方針と同原告が最適任者であること、労働条件なども説明して内示し、転勤を了承するよう求めた。同原告は考えてみるとの態度であったので同月二〇日返事を求めたところ、家庭の事情があるのでできれば取り止めてほしいと答えた。長谷川部長は理由が極めて弱いと考え、人事配置の必要性を説明して再考を促したのに対し、同原告は同月二三日になってこれまで述べてきたことを変え、業務上の必要性はわかるが組合に対する除名問題があるから困ると述べたので、同日総務課長と同席のうえ、同原告の理由は被告の関知しないものであるからこれを認めることはできず、転勤に応ずるようにと説得したが、同原告は結論的には応じがたいとの態度であった。そこで、同年五月三日同原告に対して再度理由をくわしく述べて説得したが、同原告は終始一貫して拒否した。
その後、被告は他の定期異動計画もまとまったので同月一五日同原告に対し社報六〇〇号をもって東京営業所転勤を発令した。被告側は同日同原告に対し社報を示しながら一週間の準備期間をおいて五月二一日から東京営業所に出勤するよう指示し、同月一八日には転勤費用の仮払い、東京における宿舎の説明を行なったが、同原告は頭からこれを聞こうとせず、五月二一日には八尾事業所に出勤した。被告側は四月一六日以来これまで六回にわたって転勤に応ずるよう説得したが、同原告はこれを不当として受入れず、一方、被告も業務上の必要性からこれを取止めることができないので、五月二二日付総務部長名文書をもって別途指示あるまで自宅待機して再考するよう指示した。しかし、五月二三、二四日は八尾事業所に出社してきたので、自宅待機の趣旨を説明して退社させた。
被告は自宅待機の効果を期待しながらも同原告の東京転勤拒否の措置について検討せざるを得ず、その結果、(1)自宅待機は五月三一日までとし、六月四日正午までに東京営業所に出社するよう説得し、指示すること、(2)前項の説得にもかかわらず指示に従わない時は懲罰委員会に付議すること、(3)社長はその答申に基づいて最終決定を行なうとの結論になったので、五月三〇日同原告に出社を命じ、総務部長からさらに説得したが同原告の態度は変らないので、前記三点を記載した総務部長名文書を手渡した。その後同年六月四日正午も徒過したので、同月五日社長から懲罰委員の任命があり、同月六日懲罰委員会が開催され、経過を慎重に審議した結果、就業規則違反として諭旨解雇を妥当とする旨の答申を行なった。しかし、社長はこの答申を直ちに決裁することなく、同原告から直接話を聞いて再考を促したいと考え、同月一二日同原告に対し懲罰委員会が一つの答申を出してきたが、せっかく縁があって入社した以上は会社で生涯生活するつもりで、被告の正しい指示命令に従ってほしいと述べてじゅんじゅんと説得したが、同原告は考えは変らない、被告の転勤命令は不当で応じられないとの態度を変えなかった。そこで、社長はやむを得ず諭旨解雇する旨の決裁を下し、被告は翌一三日同原告に対して同日付をもって諭旨解雇する旨を伝えた。
4 その他の問題
(一) 原告松井の昇格問題について
原告松井は昭和四八年の職能等級審査において四級職へ昇給しなかったが、滞留年数を満たしながら四級職に昇格保留となった者は一八名もいる。昇格が人事考課や勤怠に基づいて実施される以上全員が無条件に昇格するということはない。同原告の場合、担当していた設計図面の出図時期が遅れがちであったり、外注製作品が入荷したときそのでき具合をチェックし、万一加工の悪い点があったとき外注先への連絡を怠ったり、I・E、V・Aの課内会議で大学卒でそれなりの力量があると思われながら積極的な発言がみられなかったこと、昭和四七年一二月から昭和四八年一月中旬頃までの間に予告なしの一時間以上の遅刻が再三あったことなどを総合判断して三級職としてはともかく大学卒の四級職としては今一歩の努力不足が感じられたので一年間保留して明年に期待するということが審査委員会で決定された。
(二) 時事問題講習会について
およそ、企業における従業員教育は単に直接生産に必要な技術面のみに限られるべきではない。企業全体の効率をたかめるために広汎な社会的視野にたって豊かな教養をつちかい、従業員のモラルの向上を目的とする教養面も重要である。被告のもとで実施した時事問題講習会もこうした観点から従業員の要望等も考慮に入れて行なわれたものであって、特定イデオロギーを植付けることを意図したものではない。講師も外部の第三者に依頼してその見解を聞くものであって、その講師の話によって被告が対策を講じるものではない。原告らがこれを共産党対策などというのは全く近視眼的見方である。
(三) 労働契約的違反について
原告松井は被告の求人申込票の勤務地欄の記載のみで、勤務地が労働契約の内容となっており、これを変更するには本人の同意を必要とする旨主張するが、この求人申込票の作成、配付経過、採用時の面接状況、入社前に就業規則を手渡し誓約書を提出していることを総合すると、この求人申込票は入社後しばらくの間の勤務場所を示したもので、労働契約の内容となりうるものでないことは明らかである。とりわけ、同原告は大学卒の定期採用者として入社し、将来は被告の幹部要員となることを期待されているもので、被告が同原告と大阪以外に転勤させないという労働契約を締結するはずはなく、したがって、被告と同原告との間に明確な特約が存しない限り、勤務地を労働契約の内容とはしていないといわなければならない。同原告は被告から東京転勤を説得されたときにもこの点について一言も触れていないのである。
(四) 原告らの思想、信条について
被告は原告らがいかなる思想、信条を抱き、いかなる労働組合観を有していたかは全く関知しておらず、原告らに対する本件転勤、配転命令は原告らの思想、信条とは無関係である。組合運動路線はどれが正しく、どれが間違いであると断定しうるものではなく、とりわけ階級的、民主的組合運動のみが真の組合運動であるという考えは独断である。組合運動の進め方は組合民主主義のもとに個々の組合員の意思を集大成して行なわれるべきであり、大多数の組合員の支持を受けている同盟組合の運動方針が原告らのイデオロギー等に合致しないからといって組合を非難することは当を得ない。被告は労働組合がいかなる組合運動路線を採るかについて関与しうるものではなく、その時の運動方針をもった組合と労働条件等の問題を誠実に交渉してゆくに過ぎず、労使一体となって原告らを嫌悪したということはあり得ない。仮に、原告らが共産党ないし民青同盟を支持するとしても、それゆえになんらかの特権を有しているわけではなく、特定思想を有していない一般の従業員と同様、業務上の必要がある場合は配転命令に従わなければならず、たとえそのことによって原告らの思想活動が不便になったとしても、被告の命令を拒否する正当事由とはならない。仮に、使用者が特定思想に好感を抱いていなかったとしても、そのことのみから使用者の特定思想を抱く従業員に対する業務命令がすべて思想、信条による差別につながるものではない。それゆえ、原告らに対する本件転勤、配転命令が専ら思想、信条を目的とし、それによって原告らに著しい不利益を与えるという事実が存しない限り、思想、信条による差別とはいえないのである。
(五) 原告らに対する本件転勤、配転命令はいずれも被告の有する人事権に基づくものであり、原告らは就業規則一四条によりこれに従わなければならない。被告においては転勤や配転にあたって本人の同意を要件としておらず、一方的に発令しうるのであるが、無用のトラブルを避けるため事前に内示して大体の了解を得るよう努めている。原告らに対しても業務上の必要性に基づいて内定し、これを内示して誠心誠意了解を得るべく努力したうえ発令しており、手続においても正当である。原告らは除名問題を反対理由としているが、除名問題は組合内における紛争に過ぎず、被告は全く関知しない。したがって、転勤や配転に業務上の必要性があるのに、ただ除名問題があるからという理由だけでその実施を取止めることは中立的立場に疑いを持たれる。しかも、原告らが本件転勤、配転命令に応じても除名問題に関する裁判の追行が不可能になるとは考えられない。
(六) 被告は昭和五〇年一〇月東京営業所を廃止した。これは同年四月に一五〇名の人員削減を行なうなどして不況乗切りのための合理化を行なわざるを得ない情勢となり、被告のレジャー部門への進出も転換せざるを得なくなったためである。しかし、このことから原告松井への転勤発令当時、レジャー部門の販売強化のために東京営業所の充実強化が必要でなかったということではない。昭和四八年四月当時、我国経済のその後の変化を予測した者は皆無であり、被告が東京営業所におけるレジャー部門の充実強化を考えていたのは間違いない。レジャー部門の営業は本社が直接担当するものであって、九州ヒラキンは製作を担当するに過ぎず、東京営業所にゴルフ練習機の担当者を配置したのは単に販売のみを重視したのではなく、東京において関連メーカーとの連携業務が必要であったためである。
(被告主張に対する認否)
1は認める。
2の(一)の(1)は不知、同(2)および(3)は否認する。同(4)のうち、被告が原告小椋に配転の内示をしたのは昭和四八年五月九日より以前であることを認め、その余は否認する。同(二)の(1)のうち、被告が子会社であるヒラキン製作株式会社を設立したこと、奈良県河合町に新工場を建設したこと、奈良事業所発足とともに事業部制を導入し、それに伴い本社に市場開発部を新設したこと、海苔乾燥機は被告が開発した新製品であることを認め、その余は不知。同(2)のうち、昭和四八年五月当時東京営業所には三名の従業員がいたことを認め、その余は否認する。同(3)のうち、研究開発部研究開発課の構成および永田係長、大倉、石田の担当していた業務がそれぞれ被告主張どおりであることを認め、その余は否認する。同(4)のうち、三好が同志社大学機械科を卒業していること、被告のセールスマンは単なる販売員ではないこと、東京営業所における待遇が被告主張どおりであることを認め、その余は否認する。東京営業所における勤務については残業手当が一切つかないので、経済的によくなるものではない。
3の(一)のうち、被告が原告小椋に対し昭和四八年五月一五日社報六〇〇号で同月一日付をもってサービス課配転を発令し、同月二一日から同課で勤務するよう指示したこと、同原告が同日から同課に勤務していることを認め、その余は否認する。同(二)のうち、被告が昭和四八年四月一六日に原告松井に対し東京営業所への転勤を内示し、同月二〇日同原告に返事を求めたこと、および同年五月一五日以降の主張につき、懲罰委員会に関すること、被告社長が原告を説得したことを除くその余の事実を認め、右以外の事実は否認する。
4の(一)のうち、原告松井が昭和四八年の職能等級審査において四級職に昇格しなかったことを認め、その余は否認する。同(二)のうち、時事問題講習会が開かれたことを認め、その余は否認する。同(三)ないし(五)はいずれも否認する。同(六)のうち、被告が昭和五〇年一〇月東京営業所を廃止したことを認め、その余は否認する。
第三証拠(略)
理由
一 被告の原告小椋に対する本案前の主張について
1 被告が昭和五〇年四月八日原告小椋を人員整理に基づき解雇したことは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、被告は右同日同原告の外に同盟組合員七名、総評組合員六名の各被告従業員を同じく人員整理に基づき解雇したが、同原告を含む右一四名はその後同盟組合員と総評組合員の二つのグループに分れ、それぞれ被告を相手方として大阪地方裁判所に対し従業員地位保全、金員支払の仮処分申請をなし、同裁判所は昭和五一年五月二六日および同年七月二〇日いずれも被告のなした右解雇は無効であるとして前記一四名の従業員がいずれも被告の従業員の地位を有することを定める旨の仮処分決定をしたことが認められ、これに対し、弁論の全趣旨によれば、被告は右決定に対して異議の申立をせず、本案訴訟も提起していないことが認められるし、また、被告は本訴において右各仮処分決定が誤りであって取消されるべきである旨の主張をせず、前記解雇が有効である旨の立証活動もしていないことが明らかである。これらの諸事情に照すと、被告のなした前記解雇処分は無効であると推認するのが相当であり、前記解雇が有効であることを前提とする被告の主張は失当である。
2 被告は、原告小椋の本件請求は配転命令前の職場に勤務する従業員としての地位確認であるが、被告が行なう勤務場所の変更は被告の業務上の必要に基づく事実行為に過ぎず、特定の勤務場所に勤務するということは確認の対象にならない旨主張する。しかしながら、およそ労働者にとってその勤務場所あるいは職務内容は賃金や労働時間などと共に重要な労働条件にあたり、労働契約の要素となりうるものであるから、一般的には配転命令が無効となることも存するのであり、特定の勤務場所に勤務することの確認を求める利益は実体判断に入るための一つの要件であって、実体判断の結果、すなわち配転命令の有効無効とは無関係に別個に判断すべきものであるから法律上の確認を求める利益があるものと言うべきである。それゆえ、被告の右主張も採用することができない。
二 原告小椋に対する配転命令の効力について
1 原告小椋に対する配転命令の必要性
(証拠略)によれば、被告八尾事業所サービス課改善の必要性、同課に配転すべき旋盤工として原告小椋を選定した事情、昭和四八年五月の人事異動における同課の機構改革および同原告の同課配転後の事情について次の事実が認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。
(一) サービス課改善の必要性
サービス課の業務は被告の納入した機械のアフターサービス、ユーザーの要望による補修、点検、部品の取替、機械の配置変更に伴う移設作業が主なものであるが、同課の業務について昭和四六年ないし昭和四七年頃から問題が生じてきた。すなわち、ユーザーに対するものとしては、アフターサービスがおろそかになったため突発事故が多発するという悪循環を繰返しており、また、部品の調達に長日時を要し、ユーザーの要望に迅速にこたえられないという事態があらわれ、社内的なものとして、同課の業務の性質上出張作業が多く、休日労働、時間外労働も多くなるので、そのため同課従業員の疲労が重なって家庭的問題が生じており、また、同課従業員は出張作業がないとき他課に応援に行っているが、突発事故が起った場合に突然その従業員を引上げるため、あるいは予告なしに部品の調達を依頼するため他課の作業を乱している。サービス課には協力会社の従業員が働いているが、それらの者も休日労働が多く、また、同課本来の業務がないときは雑務的作業に従事させるため作業意欲が低下し、被告に対する定着性が低いことが指摘される。
そこで、当時の同課サービス係と進渉係の両係長を兼務していた水谷要を中心として同課の業務改善に取組むこととなり、同課の業務の意義を根本的に見直し、これまでの消極的なサービス業務から積極的なサービス業務に転換させるべく改善策を検討し、これを「サービス課改善上申書」と題する報告書に取りまとめ、昭和四七年一〇月に八尾事業所長に提出し、一方、同課の三堂幸雄、藤原逸朗、小堀雄一郎は効率的なサービス業務というテーマで研究を行ない、その結果を昭和四八年一月二八日付論文にまとめ、これを上司に提出した。
右上申書と研究論文はほぼ同内容のものであって、その改善対策の重点は、(1)アフターサービスの効率的充実、(2)協力会社従業員の社内作業の確保、(3)月間出張計画、人員外の余員計画、(4)現業員の休日確保、(5)進渉方法の改善の五項目であり、それを行なう具体的施策として、(1)サービス課独自の部品加工設備を確保すること、(2)同課の人員および協力会社の従業員を増加させる、すなわち、現在配置されている協力会社従業員一五名を二五名に増員すること、被告従業員につき部品加工係を含めて四名増員し、これらの人員を突発事故による出張ならびに季節的出張の余員とすることであった。右提案は被告の上層部に受入れられ、昭和四八年一月から実施計画に入り、昭和四八年五月の人事異動で具体化されることとなった。
(二) サービス課に配転すべき旋盤工として原告小椋を選定した事情
サービス課増員の具体的人材として、若い旋盤工で旋盤二級の国家試験に合格しており、協力会社の若い従業員を指導することもあり、工業高校、できればその機械科を卒業し、また、旋盤のみならず各種の機械を扱うこととなるので多能工として育成された者であること、そのため機械を実地に勉強する機会のある被告の訓練所を卒業していること、出張の予備要員となるので自動車運転免許を取得している者を要望し、右条件を満す者として昭和四七年一二月末か昭和四八年一月頃水谷サービス係長は製機課機械加工係に所属する原告小椋を希望したこと、同原告は右条件に当てはまる人物であったこと、そして、水谷係長は同年二月中頃には同原告を希望どおり獲得できるのではないかという見通しを得た。
(三) 昭和四八年五月の人事異動におけるサービス課の機構改革および原告小椋の同課配転後の事情
昭和四八年五月の被告における人事異動の際にサービス課の内部機構が変わり、サービス係と進渉係の二係であったのが、工程係、サービス一係、サービス二係の三係となり、工程係はもとの進渉係をほぼ引継いだもので、サービス一係は出張専門要員が配置されて同課の本来的業務を担当し、サービス二係は部品加工を専門とし、突発的出張の要員にあてられることとなった。そして、原告小椋は昭和四八年五月の人事異動で同課サービス二係に配置され、同課専用の部品加工工場が昭和四八年九月九日に完成するまではもとの職場である機械加工係にいたが、仕事は専らサービス課の部品加工を担当した。
サービス課専用の部品加工工場としては、当初大阪市東住吉区加美鞍作町にあった加美第一事業部が奈良に移転した後の加美工場を利用する予定であったが、右建物を倉庫として他社に貸すこととなったので、八尾事業所の敷地内に新しく工場を建てることとなり、昭和四八年七月中旬右敷地内の製機課の職場から二〇ないし三〇メートル離れた場所において着工し、同年九月九日完成したので、予定された六尺旋盤二台、八尺旋盤一台、ミーリング一台を始め各種の機械を設置し、原告小椋を含めサービス課全体が右工場に移り、そこで同課の業務が始められた。このように同課の機構も改革され、サービス二係に同原告が配転され同課の部品加工を専ら担当することによって同課として円滑に部品が調達できるようになり、同課の業務体制も改善された。
原告小椋はサービス課に配転後は旋盤を使う部品加工が主たる仕事であり、その他サービス一係が忙しい時、あるいは突発的出張が入ったときにユーザーに出張することがあったが、配転前に同原告が予想していたよりも少なく、昭和四八年五月から昭和四九年四月までの出張日数は四十数日であり、さらに、被告は同原告に対して出張を命じた場合においても、同原告からその出張日程が同盟組合の除名処分の裁判に関する日程と重なるため、出張に行けないという申入れがあった場合には、被告は必ずしも出張のみにこだわらず、出張日程を変更したり、出張日程を短縮して同原告の便宜をはかったことも数回あり、そのため同課の他の従業員に、あるいは他課に応援を求めたりして出張業務を処理し、他に影響を与える事態も生じた。
2 サービス課改善策のその後の実施状況
前掲各証拠によれば、サービス課には昭和四七年一〇月頃同課長田中末市以下一二名の人員が配置されていたこと、昭和四八年一月一日当時のサービス課長は八尾事業所長が兼任し、当時二係あったサービス係と進渉係の係長は水谷要が兼任していたこと、進渉係は藤原と女子事務員の亀本が配置され、サービス係は三堂、小堀、吉本、浦方、片山、石見、松坂、三木の八名が配置され、同課の人員は八尾事業所長を除くと水谷係長以下一一名であったこと、同年五月の人事異動の際に同課の機構が改革され、右異動により水谷が同課長代理となり、工程係長も兼任したこと、工程係はもとの進渉係の藤原と亀本がそのまま配置され、サービス一係の係長代理に三堂幸雄が、その下に浦方、吉本、片山、松坂、石見が配置され、サービス二係の係長代理に小堀雄一郎が、その下に原告小椋、三木が配置されたこと、しかし、サービス二係の三木は出張要員としてサービス一係に出向いて専らサービス一係の業務を担当していたこと、同課の人員は水谷課長代理以下一二名となったことがそれぞれ認められる。
なお、(証拠略)によれば、昭和四九年四月一日付をもって組立課第一係長田中重雄がサービス課係長となり、同じく組立課の松前進雄が同課に異動し、同課の人員が二名増員となったことが認められるが、この点につき、被告は、サービス業務には国内向けと海外向けとがあり、従来サービス課は主として国内サービスを中心として行なっていたのを、今後は海外サービスを含めて行なうこととなったが、現在の同課人員で海外サービスも行なうことは難しいので、他課から二名増員することとし、海外出張の経験者で多能工的人材としてもともと旋盤や仕上げを得意とする田中重雄係長と松前進雄を配転したものである、と主張しており、前記二名の配転により国内向けサービスの増強、すなわち従来のサービス課が行なってきた業務の増強には役立っていないことは被告も自認するところである。
以上の認定事実によれば、昭和四七年一〇月頃のサービス課は課長以下一二名が配置されていたが、昭和四八年一月一日には水谷係長以下一一名となり、同年五月には原告小椋が増員されて水谷課長代理以下一二名となったこと、昭和四九年四月には二名の増員があったが、海外向けサービス業務の要員であり、従来の同課が行なってきた業務の増強に役立っていないのであって、結局同課は昭和四八年一月一日に比して実質的に同原告が増えたのみで、他の人員は一部地位が上ったということを除き全く変らなかったことが明らかである。
また、(証拠略)によれば、被告は製機課部品集成係に所属する石田に対しサービス二係の溶接工への配転を交渉したが、同人は総評組合の委員長であるという立場上サービス課で出張の多い仕事につくことは組合活動に支障をきたすという理由で拒否し、右配転は事実上行き詰まりになっていること、昭和四八年一月当時同課には被告従業員の外に協力会社の従業員が一五名配置され、同年五月のサービス二係発足当時には協力会社の従業員が旋盤担当として二名、ミーリング担当として一名がそれぞれ配置されたが、いずれもその後協力会社を退職して同課から離脱し、その後旋盤担当として協力会社従業員二名が配置されたが、その二名も昭和四九年一月には退職したため、サービス二係としては小堀係長代理を除き同原告のみとなったこと、サービス課改善策によれば協力会社従業員一五名を二五名に増員することが計画の一つとなっていたが、その後同課に所属する協力会社従業員はかえって減少したことが認められる。
以上のとおり、被告のサービス課改善策において、同課改善のために人員の増強が不可欠の要件であるとして被告従業員四名の増員を計画し、その一環として同原告が同課に配転されたのであるが、その外に人員が増加されたことはなく、また、被告は、溶接工として前記石田委員長に配転を拒否されて以来、そのままなんらの手段を講ずることなく前記サービス課の改善計画を推進させなかったのか、同課四名の増員について昭和四八年五月の人事異動にあたり同原告および前記石田委員長のほかに計画通り人員増加を実現しようとしたのか否か、実現しようとしたとすれば他にどのように働きかけてその結果どのような理由で実現不可能となったのかについてなんらの主張、立証もしないので不明であるというの外はない。このことはあたかも計画を途中で放棄し、原告小椋の配転実現をもって事足れりとしている疑すら抱かせるものである。
3 原告小椋のサービス課配転の経緯
水谷係長がサービス課の旋盤工として原告小椋を希望したのは昭和四七年一二月末か昭和四八年一月頃であり、同年二月中頃水谷係長の希望どおり同原告を獲得できるという見通しが立ったことは前記のとおりであり、(証拠略)によれば、同原告のサービス課への配転は他の人事異動と共に昭和四八年三月五日と同年四月五日に開催された部長代理以上で構成する経営会議において最終的に決定され、同月一三日右配転は製機課長木村および機械加工係長代理鶴森から同原告に内示されたこと、同月一六日眞鍋八尾事業所長、西端製造部長、木村課長は同原告に会い、眞鍋所長が配転の理由として「昨年一〇月頃から立てていた会社の計画としてサービス課にも旋盤などを設置して、納めた機械の修理部品を専門的に製作し、旋盤工などの人員を増やす必要がある。しかし、同課の工場ができるのは八月頃になる予定である。工場ができて旋盤を設置しても旋盤だけでなく現在行なわれている業務もやってもらわなくてはならない。」と述べたこと、同原告はこれに対して自分が選ばれた理由を問い正し、さらに、同課は出張があるから困ること、製機課の職場で旋盤工として働きたいこと、同盟組合から除名処分を受け、この除名処分に対して裁判闘争を行なううえからも出張が困ること、もし出張がないようなら考え直してもよい旨述べ、それに対して木村課長らは、中堅幹部として多能工が必要であり、同原告は訓練所も卒業しており、同課は旋盤のみならず、他の仕事もできるし、結局総合的な判断の結果選ばれたものであって、選ばれた以上行ってもらわなければ統制がとれない、除名裁判と被告は関係がない旨答え、原告と被告側はその後五月に入って二度話合ったが物別れとなったことが認められ、右認定に反する(証拠略)は措信できない。そして、その後昭和四八年五月一五日被告が同原告に対し配転を命じたことは前記のとおりである。
しかし、原告小椋がサービス課に配転後予想していたより出張が少なかったことは既に認定のとおりであり、右配転の経緯によれば、同課の機構が変って三係となることサービス一係と二係の業務分担、原告小椋が配転になった場合サービス二係に属し、そこは部品加工を主たる業務とし、出張はサービス一係が忙しい時あるいは突発的出張が入ったときに補充的に出張に行くことになるなど、配転の重要な内容について、被告は同原告に十分意をつくして説明しておらず、説得についても誠意をつくしていない面が見受けられる。
4 水谷係長と原告小椋の関係
原告小椋は昭和三九年三月に被告に入社し、昭和四二年三月から製造部製機課機械加工係に旋盤工として配属されたことは前記のとおり当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、同原告は訓練所を卒業した昭和四二年三月同盟組合に加入し、代議員、青年婦人部の役員を経験したこと、昭和四七年九月に行なわれた同盟組合の青婦部の役員選挙において青婦部長として立候補し、その結果七二票対六一票の僅差で敗れたこと、同原告は同年一二月一〇日施行された衆議院議員選挙に大阪四区から立候補した日本共産党公認三谷秀治の後援会々員として、同月八日午前八時頃から午前八時二五分頃までの間、被告本社の門前において同盟組合員藤井謙一および総評組合石田委員長と共に被告従業員を対象に日本共産党の選挙運動の法定ビラを配布したこと、同盟組合は直ちに同原告らの行為は組合員を混乱に陥れ、組合団結権の侵害であり、組合員の義務違反、統制違反で、かつ分派活動であるとして懲罰委員会に懲罰の発動を求め、昭和四八年二月二日懲罰委員会において同原告および藤井謙一を組合から除名する旨の決議があったこと、右懲罰委員会の委員長は同原告をサービス課に希望した同課係長の水谷要であり、他の懲罰委員もすべて係長であったこと、一方、水谷要は昭和二九年頃同盟組合に加入し、同盟組合の役職として執行委員、青婦部長、副組合長を経験し、同課係長の時に書記長のポストに就いていたことが認められる。
右認定事実によれば、水谷係長は同盟組合の幹部あるいは懲罰委員長として同原告の同盟組合における地位、同原告の思想傾向を十分承知していたものであり、また、同原告がサービス課配転の内示を受けた時除名問題に関して裁判闘争を行なううえから出張の多い職場は困ると述べて反対していたのであるから、同係長は除名問題に関する裁判闘争が行なわれた場合同課の業務にとって好ましくない事態が生じることになることも容易に予想することができる立場にあったものである。現に同原告が同課に配転後同課では除名裁判を理由に出張日程を変更したり、短縮したりして便宜をはかったために、他課やサービス課の他の従業員に影響を与えたことも前記認定のとおりである。
右のように、同原告が組合活動ないし裁判闘争をすることは少くともサービス課員としてマイナスの要素となることを考えると、水谷係長が同原告について右のことを承知しながら同課員として同原告を希望したということは、水谷係長はこのような同原告が有する同課員としての欠点をはるかに補う別の適性を同原告が備えていると考えていたものと推認せざるを得ない。しかし、その後被告が昭和五〇年四月九日同原告を人員整理に基づき解雇したことは前記のとおりであり、(証拠略)によれば、原告小椋の上司である水谷係長は人員整理にあたって同原告を業務成績が不良と評価して人員整理の対象としたことが認められる。右の事実によれば水谷係長の態度には原告小椋に対する評価に一貫性が見られず、その評価に恣意的なものすら感取されると言わなければならない。
5 権利濫用の有無
以上1ないし4において認定した事実によれば、被告がサービス課改善策の実施を最後まで行なわず、事実上途中で停止しており、水谷係長が原告小椋を希望した点に恣意的なものが感取されることは前記のとおりであるが、他面、被告のサービス課改善の必要性があったこと、具体的施策として同課専用の部品加工工場を確保し、同原告がサービス二係の部品加工担当として配転され、予備的に突発的出張の余員となったこと、同課の機構改革により同課として円滑に部品が調達できるようになってその効果があらわれていること、水谷係長が立てたサービス二係に配転すべき従業員の選定基準にはそれなりの合理性があり、同原告が選定基準に当てはまること、同原告がサービス二係に配転することによって勤務場所が特に変ることはなく、旋盤工としてやって行きたいという同原告の希望も満たされていること、出張に出かけることによって休日労働、時間外労働が多くなり、同原告の裁判闘争あるいは組合活動に事実上多少の支障をきたすけれども、被告がこの点について便宜をはかっていることなどの諸事情を考慮すると、被告のなした本件配転命令は人事権の行使として著しく裁量の範囲を越えているものとは言えず、従って、権利の濫用であると断定することはできない。
なお、同原告小椋は本人尋問において同原告と同じ職場に所属していた水谷耕三が自分はサービス課に行ってもかまわないと述べていたこと、被告の同課改善策については、人員的には結局同原告のみが同課に配転されたに過ぎず、そうであればもともと機械加工係に所属していた角江が同課の部品加工を第一次的に担当し、その仕事がないときに本番の仕事に従事していたのであるから、サービス二係の人材としては角江が行くべきであると思う旨述べているが、仮に、右水谷が同課への配転を希望していたとしても、もとより被告は従業員の希望にそって人事権を行使しなければならないものではないのみならず、角江については水谷係長が立てた選定基準に当てはまるかどうか不明であり、また、出張の予備員として適当であるかについても明らかでなく、角江を選定しなかったことが人事権の裁量の範囲を越えているということは言えない。
6 思想、信条による不利益取扱いおよび不当労働行為の有無
原告両名の各本人尋問の結果によれば、原告松井は京都工芸繊維大学に在学中から民青に加入し、被告に入社して昭和四六年頃から被告従業員に民青加入を勧めるようになったこと、同原告は原告小椋が共産党の選挙法定ビラを配布したことから同盟組合の懲罰委員会で懲罰されることとなった際に原告小椋の行動について弁護したこと、原告小椋も民青ないし共産党の支持者であったことが認められ、この事実に、サービス課はもともと出張が多く、そのため同課従業員は休日労働や時間外労働が多くなって家庭問題が生じていること、同原告が同課に配転された場合裁判闘争を行なううえで事実上多少の支障を生ずると推認されること、水谷係長がサービス二係に所属する旋盤工として同原告を希望したことについて恣意的なものが感取されること、被告がサービス二係の溶接工として総評組合委員長の石田を選定したこと、後記認定のとおり原告松井が命じられた転勤先の東京営業所は所長代理以下三名の職場であり、原告松井がそこへ転勤するならば、同原告は組合活動上あるいは民青活動を行なううえにおいて不利益になると推認されることなどの事情を総合すると、被告がこのようにサービス二係の旋盤工として原告小椋を、溶接工として石田委員長を、東京営業所に原告松井を選定したことについては、ある共通の意図があることを疑わせるものがあると言わなければならない。しかし、仮に、原告小椋の配転に思想、信条による不利益取扱いの意図あるいは不当労働行為意思があったとしても、他方同原告の配転については業務上の必要性、合理性があり、さらに、出張の少ないサービス二係に配転させ、出張についても同原告の希望にそって便宜をはかっていることも前記のとおりであって、同原告の受ける不利益性も相当小さくなっていることを考慮すると、被告が同原告をサービス課に配転したのは前記不利益取扱いの意図あるいは不当労働行為の意思が決定的動機となっているものとは言えず、その他全証拠によるも不利益取扱いの意図あるいは不当労働行為意思が本件配転の決定的動機となっていたと認めることはできない。
7 以上のとおり、原告小椋の主張はいずれも認められず、同原告の本訴請求は理由がない。
三 原告松井に対する転勤命令の効力について
1 原告松井を東京営業所へ転勤させる理由の有無
(証拠略)によれば、被告は昭和四七年九月頃伊藤忠商事株式会社から室内ゴルフ練習機の製作販売について話しを持ちかけられ、取りあえずイギリスのビスターゴルフ社製作の室内ゴルフ練習機であるビスターゴルフ一式を購入したこと、当初は外国から技術導入をして製作することを考えていたが、購入した右機械を種々検討した結果国内のメーカーと連携して独自に国産化に踏切ることとし、その中心をなすコンピューター部分は富士電機株式会社川崎工場に、スライド映写機部分は東京のキャビン工業株式会社に製作を依頼して前記ビスターゴルフをHK(平野金属の意)式なるものに改造し、これをC・Iゴルフという名称で製作販売することを決め、右国産化については里井常務取締役が統括し、被告本社市場開発部の中川久明部長が試作品製作を担当して、それを昭和四八年一月末までとして市場開発部、研究開発部、企画部ヒラキン統括課の従業員、そのうち少くともヒラキン統括課設計係の小森、市場開発係長絹傘が製作にあたったこと、予算は一台三五〇万円とし、当初月産二〇台を製作することを考えていたこと、同年三月頃近鉄百貨店でデモンストレーションをし、松阪屋、京都丸物百貨店でも展示PRを行なう予定であったこと、右三月頃までに十数台の注文があったこと、製造元は被告が、総発売元は伊藤忠商事株式会社(東京本社)物資部レジャー器材課が担当すること、東京営業所は八尾事業所営業部に属し、昭和四八年一月一日当時の東京営業所には阪本武司所長代理、鈴木、女子事務員桜田の三名がおり、阪本は八尾事業所関係のセールスエンジニア、鈴木は奈良事業所関係の紙、プラスチックなどの化工機のセールスエンジニアで、海苔乾燥機について援助していること、女子事務員は補助的作業や留守番をしていたことがそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。
ところで、(証拠略)によれば、被告本社企画部長の長谷川高雄は(九州ヒラキン社長兼務)、本件訴訟の仮処分審尋手続において、被告においては、昭和四八年春の人事異動前は九州ヒラキンが製作したものを東京方面で販売する担当者、特にゴルフ練習機を販売する者がいなかったので、被告の東京営業所に対し同機の販売の仕事もやってもらいたい旨申入れたところ、そのための要員を一人もらわないとできないと言われた、同機を製作するために実際に図面を引いたのは原告松井であり、同機の研究開発の主たる担当者も同原告である旨述べており、被告はそれを裏付ける証拠として乙一四号証の一ないし五の図面を提出している。
もし、右長谷川供述のように、原告松井がC・Iゴルフの研究開発の主たる担当者ということであるならば、被告の前記主張からみて研究開発部の他の者について種々検討するまでもなく同原告を東京営業所に転勤させることは合理性があると言えるのであるが、同原告は本件の本人尋問においても、また、仮処分審尋手続においても(<証拠略>)、自分はゴルフ練習機製作の中心人物ではなく、同機に関与したのは昭和四七年一二月末から昭和四八年一月初旬にかけてであるが、その間同機の開発についてどういう点を研究するかという話に加わったこともなく、絹傘正夫市場開発係長が前記ゴルフ練習機の見本であるビスターゴルフ一式を計測してそれを寸法どおりに図面にあらわし、乙一四号証の一ないし五を作成しただけであり、その他に小さな見取図のような図面を書いたこともあるが、全く設計の要素は入っていない旨述べて、自分がC・Iゴルフの研究開発ないし製作の主たる担当者であることを強く否定しており、前記甲三、四号証、乙一四号証の一ないし五によっても、同原告が作成した右図面は表示ランプケース、ブラケット、ブラシュマット枠、鉄骨部品、プレート等であって、鉄骨とプレートを組み合わせた比較的構造の簡単な部分の図面であり、同原告が作成した図面は右乙一四号証の一ないし五のみで、他には存在しないことが認められ、さらに進んで、乙一四号証の一ないし五の図面がどのような目的で作成され、ゴルフ練習機の国産化について具体的にどのように役立ったのか、どのような作業工程の流れの中に位置づけられるのかなどについては、被告はなんらの主張立証をしないから、この点については全く不明であり、それゆえ同原告が研究開発ないし製作の主たる担当者として具体的にどのようなことをしたのかについても不明と言わざるを得ない。
被告は脱繊維の方向としてレジャー部門への進出を企図し、これが当面の最も重要な課題であると主張しており、被告がゴルフ練習機の製作、販売に大きな期待を持ち、力をそそいできたことはその主張自体からも明らかであって、ゴルフ練習機の国産化については里井常務取締役が統括し、中川市場開発部長、ヒラキン統括課設計係の小森、絹傘市場開発係長が少くともその製作に関与したことは前記認定のとおりである。
しかしながら、およそ、企業が新しい製品を製作販売するに当っては開発のグループを編成し、そこで各方面から検討を加えて問題点を摘出し、その問題についてどのように解決するかについて十分検討する機会を持つのが一般であると思われるのに、里井常務取締役以下被告の関係者がいつ、どのような会合を持って、前記中川、小森、絹傘がどのようなことを検討し、誰がどのような役割を分担し、特にコンピューター部門を担当する富士電機株式会社、スライド映写機を担当するキャビン工業株式会社の担当者は誰で、それらの人とどのような打合せを行なったのか、それらについて原告松井が関係したのか、関係したとすればどのような役割を荷ったのかについて被告は全く立証をしていないので、これらの諸点もまた不明である。
のみならず、(証拠略)によれば、前記長谷川高雄はゴルフ練習機の研究開発ないし製作の詳細については把握していないことが認められるのであって、被告において、原告松井の自分はゴルフ練習機の主たる担当者でない旨の供述が事実に反すると言うのであれば、右長谷川以外でゴルフ練習機の製作に関与した者を証人申請すれば容易に同原告の右供述部分をくつがえすことが可能であると思われるのに被告はそのような立証活動もしていない。
そうだとすれば、前記長谷川高雄の原告松井がC・Iゴルフに関する研究開発の主たる担当者である旨の供述はなんら具体性がなく、たやすく措信し得ないものと言うべきである。
被告は、東京営業所の増員は研究開発部から人選することとなったが、これは同部の業務がいわゆる技術研究と共に自らが手掛けた製品をまず商品化するために必要な協力をすることにあり、研究開発部から一名技術者を転勤させるとすれば、所属従業員を種々検討したところ原告松井が適当であり、他の者は支障がある旨主張し、(証拠略)によれば、長谷川高雄の仮処分審尋手続には右主張にそう供述部分がある。
しかしながら、長谷川の前記供述によれば、被告におけるゴルフ練習機の試作品製作については、市場開発部の中川部長が担当し、それを市場開発部、研究開発部、企画部ヒラキン統括課の従業員が製作に当ったというのであるから、前記のような研究開発部から人選する趣旨、すなわち、同部の業務がいわゆる技術研究と共に自らが手掛けた製品をまず商品化するために必要な協力をするためとの理由からすれば、市場開発部、ヒラキン統括課の従業員でゴルフ練習機の製作に従事した者の中から人選してもなんら差支えない訳であって、これを研究開発部の従業員のみに限定する根拠に乏しいといわねばならず、同機の製作に従事した他の者がどのような理由で転勤の対象から外されたのかについてはなんらの主張、立証もないから、被告の右主張は同原告が東京営業所に転勤する適任者であると判断する理由として不十分であるといわなければならない。
2 原告松井の転勤拒否後の事情
(証拠略)によれば、原告松井が東京営業所への転勤を拒否したため、被告は原告松井のかわりとして八尾事業所営業部営業第一課に所属する小酒井を東京営業所に転勤させたこと、小酒井は技術系ではなく事務系の従業員であること、C・Iゴルフに関する富士電機株式会社あるいはキャビン工業株式会社の各担当者との製作に関する打合せは、右各担当者に大阪まで来てもらいヒラキン統括課の小森が行なっていること、被告は昭和五〇年四月に不況対策ということで人員整理を行なった際、東京営業所を廃止したことが認められる。
3 権利濫用の有無
転勤は一般的に当該労働者の生活に重大な影響を与えるものであるから、使用者は恣意的にこれを命じうるものではなく、転勤させるべき業務上の必要性、合理性を要するものと解すべきであり、さらに、転勤命令に業務上の必要性、合理性が存した場合でもその必要性、合理性の程度に比して当該労働者が受ける不利益性が著しく大きいと認められる特別の事情が存する場合には、転勤命令は人事権の裁量の範囲を逸脱するものとして権利の濫用となるのであって、右業務上の必要性、合理性が存しない場合には原則として転勤命令は人事権の恣意的行使という外はなく、同じく裁量の範囲を逸脱するものとして権利の濫用となると解すべきところ、前記1の認定事実によれば、被告が主張する本件転勤命令について合理的理由があるとは認められず、前記2に認定した転勤拒否後の事情によれば、そもそも東京営業所に技術系の従業員を一名増員する必要があったとの点について疑問が生ずるのであって、それらを総合すれば、被告が原告松井を東京営業所に転勤させようとしたことは、他になんらかの理由があったのではないかとも解され、そうだとすれば、被告の意図がどのようなものであったか、その他の事情について判断するまでもなく、被告のこのような人事権の行使はその裁量の範囲を逸脱したものであって、原告松井に対する本件転勤命令は権利の濫用として無効であることは明らかであると言わなければならない。従って、被告が本件転勤命令に従わないことを唯一の理由としてなした解雇処分もその前提を欠き無効であるというべきである。
4 以上のとおりであるから、原告松井のその余の主張を判断するまでもなく、原告松井の本社研究開発部研究開発課の従業員たる地位の確認請求は理由がある。
5 原告松井の金員請求について
(一) 慰藉料
被告が原告松井に対してなした本件転勤命令が合理的理由がなく人事権を濫用したものとして無効であり、それに引続く解雇処分も無効であることは前記のとおりであって、さらに、前記認定の事実によれば、被告は同原告を東京営業所に転勤を命ずる合理的理由がないことを承知していたものであって、本件転勤命令および解雇処分が無効であることを認識していたことが推認できる。従って、被告のなした本件転勤命令および解雇処分は不法行為を構成し、被告は同原告に対しそれによって生じた損害を賠償する義務がある。
そして、同原告は本件転勤命令および解雇処分によって従業員としての地位を奪われた結果、賃金収入による生活の手段もなくなり、その後地位保全等を求める仮処分を申請し、さらに本件訴訟を提起して長い間訴訟を遂行することを余儀なくされたことは明らかであり、同原告の受けた精神的苦痛はじん大なものがあったと言うべきであって、この苦痛は、同原告が本訴において勝訴し従業員としての地位を回復することによっても十分には慰藉し得ないものと言うべく、その精神的苦痛に対する慰藉料は三〇万円と認めるのが相当である。
(二) 賃金
被告は従業員に対し毎月二八日に前月二一日から当月二〇日までを一か月として毎月の賃金を支払っており、原告松井の昭和四八年四月二〇日当時の一か月の賃金が七万五六〇〇円であることは当事者間に争いがない。
(証拠略)によれば、被告は昭和四九年から昭和五二年まで毎年春に同盟組合および総評組合との間で各所属組合員の定期昇給およびベースアップにつき交渉し、その都度被告と両組合員間において同じ内容の協定が締結されたこと、右各協定におけるベースアップは職能等級別に一律に金額が定められ、定期昇給は被告が各従業員につき職能等級毎にA、B、Cの三段階に考課査定を行ない、職務等級およびA、B、Cの考課査定別に昇給額が定められていること、昭和五一年および五二年の協定においては右職能等級別ベースアップと定期昇給のほかに勤続年数と年令によって一律に支給額が定められる年令勤続別配分が設けられたこと、昭和四九年および五一年の各協定による新賃金は毎年三月二一日(四月分給料)から実施されたが、昭和五〇年は五月二一日(六月分給料)から実施され、昭和五二年については三月二一日(四月分給料)と九月二一日(一〇月分給料)の二回に分けて実施されたことが認められる。原告松井は昭和四八年六月一三日以降も被告従業員の地位を有していたものであるから、同盟組合員として右協定が適用されるものと解すべきである。ところで、同原告は定期昇給における考課査定はBである旨主張するが、被告が同原告をBに評価したことを認めるべき証拠はない。しかし、被告が従業員をC以下に評価することはないことを考慮すると、同原告の考課査定をCとして定期昇給の金額を定めるのが相当である。また、(証拠略)によれば、同原告は職能等級三級であることが認められる。
昭和五〇年の協定による三級のベースアップ額が四八〇〇円、昭和五一年の協定による三級のベースアップ額が一三〇〇円、同原告の年令勤続別配分額が五五〇〇円であることは当事者間に争いがなく、前記甲三六号証および五〇号証の一ないし八によれば、昭和四九年の協定による三級のベースアップ額が二万一八〇〇円、昭和五〇年の協定による三級C該当者の定期昇給額が四二〇〇円、昭和五一年の協定による三級C該当者の定期昇給額が三五〇〇円、昭和五二年の協定による三級のベースアップ額が九〇〇円、年令勤続別配分額が四五〇〇円であることが認められ、右認定を左右する証拠はない。なお、昭和四九年と昭和五二年の各協定による三級C該当者の定期昇給額を確定するに足りる証拠はない。
右事実によれば、原告松井の昭和四八年六月一三日以降の賃金は左の通りとなる。なお、昭和五二年の協定は三月二一日および九月二一日の二回に分けて実施されたことは前記のとおりであるが、定期昇給分とベースアップ分のうちどの分がいつから実施されるのか明らかにする証拠はないので、昭和五二年の賃金改訂については九月一二日から実施されたものとする外はない。
昭和四八年六月一三日から昭和四九年三月二〇日まで月額賃金七万五六〇〇円、基本給七万〇二〇〇円
昭和四九年三月二一日から昭和五〇年五月二〇日まで月額賃金九万七四〇〇円(75,600+21,800)、基本給九万二〇〇〇円(70,200+21,800)
昭和五〇年五月二一日から昭和五一年三月二〇日まで月額賃金一〇万六四〇〇円(97,400+4,800+4,200)、基本給一〇万一〇〇〇円(92,000+4,800+4,200)
昭和五一年三月二一日から昭和五二年九月二〇日まで月額賃金一一万六七〇〇円(106,400+1,300+3,500+5,500)、基本給一一万一三〇〇円(101,000+1,300+3,500+5,500)
昭和五二年九月二一日から月額賃金一二万二一〇〇円(116,700+900+4,500)、基本給一一万六七〇〇円(111,300+900+4,500)
それゆえ、被告は原告松井に対し昭和四八年六月一三日から同原告が従業員の地位を失うに至るまで毎月二八日限り前月二一日から当月二〇日までを一か月として前記月額賃金を支払う義務を有するが、同原告は昭和四九年の協定による新賃金の支払については同年四月二一日(五月分給料)から、昭和五〇年の協定による新賃金の支払については同年六月二一日(七月分給料)から、昭和五一年の協定による新賃金の支払については、同年四月二一日(五月分給料)から支払を求めているので、結局被告が同原告に対し支払義務を負う賃金は別紙目録記載の金員となる。
(三) 一時金
被告が昭和五〇年および五一年の各夏期・冬期一時金ならびに昭和五〇年六月臨時一時金につき同原告主張のとおり支給したことは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、被告は昭和四八年から昭和五二年まで夏期・冬期一時金につき同盟組合と総評組合との間で交渉し、その都度被告と両組合間において同じ内容の協定が締結されたこと、右協定における一時金は人数割に一律配分する金額と基本給比による按分比例配分する金額とに分けられており、昭和四八年夏期・冬期一時金についてはそのほかに勤続比分および扶養家族比分が加わっていることが認められ、同原告も被告従業員および同盟組合員として右協定の適用を受けるものと解される。
前記各証拠によれば、昭和四八年夏期一時金は同年五月二〇日における賃金を基準として同年七月五日に支給され、冬期一時金は同年一一月二〇日における賃金を基準として、同年一二月五日に支給されたこと、昭和四九年夏期一時金は同年五月二〇日における賃金を基準として同年七月一二日に支給され、同年冬期一時金は同年一一月二〇日における賃金を基準として同年一二月五日支給されたこと、昭和五〇年夏期一時金は同年七月一六日と九月末日の二回に分けて支給されたこと、同年冬期一時金については同年一二月一日に、昭和五一年夏期・冬期一時金については同年六月二五日と一一月一一日にそれぞれ協定が結ばれ、昭和五二年夏期一時金は同年七月八日と一一月上旬に二回に分けて支給され、同年冬期一時金についても協定が締結されたこと、昭和四八年夏期一時金の一律分は三万六七五〇円、同原告の勤続比分は三一四〇円、基本給比分は基本給一万円当り二万一三二五円であること(以下基本給比分といえば基本給一万円当りの金額をいう。)、同年冬期一時金の一律分は四万〇五〇〇円、基本給比分は二万四二六一円、同原告の勤続比分は四四二五円であること、昭和五〇年六月臨時一時金の一律分は三五〇〇円、基本給比分は二七四八円であること、同年七月に支給された夏期一時金の一律分は一万八九五〇円、基本給比分は一万三四九九円であること、同年九月に支給された夏期一時金の一律分は七五八〇円、基本給比分は五三九九円であること、同年冬期一時金の一律分は二万七一〇〇円、基本給比分は一万九三四九円であること、昭和五一年夏期一時金の一律分は二万七八七六円、金額一律分一万五〇〇〇円、基本給比分は一万七九九九円であること、同年冬期一時金の一律分は三万〇六八〇円、基本給比分は一万九七九九円であること、昭和五二年七月支給の夏期一時金の一律分は一万四六九〇円、基本給比分は九〇〇〇円であること、同年一一月支給の夏期一時金の支給割合も七月支給のそれと同じであること、同年冬期一時金の一律分は二万二六八〇円で、基本給比分は一万三五〇二円であることが認められ、右認定を左右する証拠はない。
右認定事実によれば、同原告の一時金は次のとおりである。
昭和四八年夏期一時金
一八万九五九一円
(36,750+785×4+21,325×7.02)
同年冬期一時金
二一万五二三七円
(40,500+885×5+24,261×7.02)
昭和四九年夏期一時金
二二万六二一六円
(27,800+21,567×9.2)
同年冬期一時金
二三万六一三八円
(29,000+22,515×9.2)
昭和五〇年六月臨時一時金
二万八七八一円
(3,500+2,748×9.2)
同年七月支給夏期一時金
一五万五二八九円
(18,950+13,499×10.1)
同年九月支給夏期一時金
六万二一〇九円
(7,580+5,399×10.1)
同年冬期一時金
二二万二五二四円
(27,100+19,349×10.1)
昭和五一年夏期一時金
二四万三二〇四円
(27,876+15,000+17,999×11.13)
同年冬期一時金
二五万一〇四二円
(30,680+19,799×11.13)
昭和五二年七月支給夏期一時金
一一万四八六〇円
(14,690+9,000×11.13)
同年一一月支給夏期一時金
一一万四八六〇円
(14,690+9,000×11.13)
同年冬期一時金
一八万〇二四八円
(22,680+13,502×11.67)
前記甲五〇号証の一〇によれば、被告は昭和四八年一二月二九日従業員に対し職能等級別に金額を定めて生産奨励金を支給したこと、三級該当者の生産奨励金は二万五〇〇〇円であったことが認められ、右事実によれば、同原告も二万五〇〇〇円の支払を受けることができるものと解される。
以上のとおり、同原告の一時金および生産奨励金の合計は二二六万五〇九九円であり、被告は同原告に対し右金員を支払う義務がある。
四 結論
以上のとおりであるから、原告松井の本訴請求は同原告の被告本社研究開発部研究開発課の従業員たる地位の確認および別紙目録記載の金員の支払を求める限度で理由があるから認容し、同原告のその余の請求および原告小椋の本訴請求はいずれも失当として棄却することとし訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 上田次郎 裁判官 安斎隆 裁判官 上垣猛)
目録
一 金九七五万八五〇八円
二 昭和五三年一一月二一日から毎翌月二八日限り前月二一日から当月二〇日までを一か月とし一か月金一二万二一〇〇円の割合による金員
(内訳)
1 慰藉料 三〇万円
2 昭和四八年から昭和五二年まで原告が支払を受けるべき一時金の合計二二六万五〇九九円
3 昭和四八年六月一三日から昭和四九年四月二〇日まで毎月二八日限り(昭和四九年四月二八日も含む)前月二一日から当月二〇日までを一か月として一か月七万五六〇〇円の割合による金員
合計一〇七万七九〇九円
75,600×8/31+75,600×14=1,077,909
4 昭和四九年五月から昭和五〇年六月まで毎月二八日限り九万七四〇〇円
97,400×14=1,363,600
合計一三六万三六〇〇円
5 昭和五〇年七月から昭和五一年四月まで毎月二八日限り一〇万六四〇〇円
106,400×10=1,064,000
合計一〇六万四〇〇〇円
6 昭和五一年五月から昭和五二年一〇月まで毎月二八日限り一一万六七〇〇円
116,700×18=2,100,600
合計二一〇万〇六〇〇円
7 昭和五二年一一月から昭和五三年一一月まで毎月二八日限り一二万二一〇〇円
122,100×13=1,587,300
合計一五八万七三〇〇円
8 昭和五三年一一月二一日から毎翌月二八日限り前月二一日から当月二〇日までを一か月とし一か月一二万二一〇〇円の割合による金員
前記1ないし7までの合計九七五万八五〇八円