大阪地方裁判所 昭和51年(ヨ)3170号 1978年3月17日
申請人
田野内孝雄
右代理人弁護士
谷池洋
(ほか三名)
被申請人
品川工業株式会社
右代表者代表取締役
品川三代義
右代理人弁護士
駒井素之
主文
一 申請人が被申請人に対し被申請人会社の佐野安船渠株式会社本社工場構内出張所の従業員たる地位を有することを仮に定める。
二 被申請人は、申請人に対し、昭和五一年八月以降毎月末日限り金一六万円宛を仮に支払え。
三 その余の申請を却下する。
四 申請費用は被申請人の負担とする。
理由
一 本件申請の趣旨は「一、申請人が被申請人に対し、昭和五一年八月一一日以降も労働契約上の地位を有することを仮に定める。二、被申請人は申請人に対し、金一六万九八〇〇円および昭和五一年九月一日以降毎月末日限り金一六万一、〇五〇円の金員を仮に支払え。三、申請人が被申請人の佐野安船渠株式会社本社工場構内出張所の従業員である地位を有することを仮に定める。四、申請費用は被申請人の負担とする。」との裁判を求めるというもので、その申請理由の要旨は
「申請人は、昭和五〇年九月被申請人会社に入社し、佐野安船渠株式会社本社工場構内の被申請人会社出張所において新造船ブロックの電気溶接工として勤務していたものであるところ、被申請人は、申請人に対し昭和五一年七月五日、六日の両日にわたって肩書本社工場への配転を命じ、これを不当として拒否した申請人が就労を要求して佐野安船渠構内に入るのを同月七日以降拒否し続けた。そこで、申請人は、配転命令違背を理由に解雇されるという事態の発生を避けるため、同月一二日やむなく配転に異議をとどめて本社工場へ出頭し、いよいよ本社工場で就労しようとした矢先の同月一四日、被申請人は、申請人が配転命令に直ちに応じないで本社工場を無断欠勤したと称して、申請人を七月分から向う六ケ月間の減給及び七月一五日から二二日まで七日間の出勤停止に処し、始末書の提出を命ずるという懲戒処分に付した。しかし、配転命令が後述のとおり不当労働行為であり、異議をとどめての本社工場への出頭であったから、申請人としては右懲戒処分は承認できず、始末書の提出を拒んでいたところ、被申請人は、出勤停止期間経過後も始末書不提出を理由に申請人の本社工場における就労さえ拒否し続け、ついに同年八月一〇日、申請人に対し翌一一日付をもって解雇すると通告した。
しかし、右配転命令及び解雇の意思表示は無効である。すなわち、本件配転命令は申請人が総評大阪地域合同労働組合佐野安ドック下請労働者支部の組合員として佐野安船渠出張所において労働組合活動を展開するのを嫌悪してなされたもので不当労働行為として無効というほかなく、また、申請人は入社に際して佐野安船渠構内出張所に勤務することを条件として入社したものであるうえ、当時十数名いた同出張所従業員の中から申請人を本社工場へ配転しなければならない合理的理由は全くなく人事権の濫用として無効である。さらに、本件解雇は、被申請人の通告書によると、再三の要求にもかかわらず申請人が始末書を提出しないことを理由とするが、配転命令を不当として申請人は佐野安船渠での就労を要求していたのであり、右のとおり配転命令自体無効である以上何ら無断欠勤を理由に処分されるいわれはなく、始末書提出の義務を負っていたものではない。仮に始末書提出を命じた懲戒処分を前提にしても、始末書の提出命令は懲戒処分を実施するために発せられる命令に過ぎず、この命令に違反したことをもって更に新たな懲戒処分をすることは、結局同一懲戒事由で二重に処分することになり無効であるし、そもそも近代的雇用契約の下では労働者の意思の自由は最大限に尊重されるべきであり、このことからしても始末書不提出を理由に更に新たな懲戒処分をすることは許されない。かようにして、本件解雇もまた何ら理由のない解雇であり、前述の不当労働行為意思に出たものであって、無効である。
しかして、申請人は本件解雇前、毎月末日限り平均月額一六万一〇五〇円の賃金を被申請人から得て、これにより生活していたものであるが、昭和五一年七月七日以降一三万一二五〇円の賃金支払を受けたのみでそれ以外には賃金を支給されていないところ、申請人は被申請人に対し同年七月分賃金一四万円及び同年八月以降右平均賃金額の支払請求権を失なわないから、右七、八月分賃金額から受領済みの前記一三万一二五〇円を差し引いた残額一六万九八〇〇円及び九月分以降の賃金の仮払を求める」
というにある。
二 当事者間に争いのない事実及び疎明される事実を総合するとおよそつぎのような事実関係が認められる。
1 被申請人会社は、資本金五〇〇万円、従業員三〇名余をもって、造船ブロック、造船関係部品及び一般建築用鉄骨等の製造並びに造船関係の鉄工溶接を業とする会社で、肩書地(略)に本社工場を、大阪市西成区南津守五丁目にある佐野安船渠本社工場内及び三井造船藤永田船町工場内にそれぞれ出張所を置き、昭和五一年七月上旬現在、本社工場では造船ヤードに七名の工員を配して造船用ブロックその他造船部品を製造し、建築ヤードに下請の一社四人を入れて建築用鉄鋼材を製作すると共に、佐野安船渠出張所では一三名の従業員を配置し、佐野安船渠からの下請にかかる主として新造船のブロック溶接作業を行い、藤永田船町出張所では約一〇名の従業員を置いて主として三井造船から下請した修繕船の溶接作業を行っていた。
申請人は、溶接工として一五年以上の経験を有していたが、その頃新たな勤め先をさがしていた昭和五〇年九月、知人の紹介で被申請人会社佐野安船渠出張所の責任者佐加望彦と面接して被申請人会社の電気溶接工として採用され、同出張所において主として新造船ブロックの溶接作業に従事してきた。
2 申請人は昭和五一年八月一〇日被申請人会社本社において、専務取締役品川公男から翌八月一一日付をもって解雇する旨口頭告知を受け、爾後就労を拒否されて今日に至っているが、その前後の事情はつぎのとおりである。
申請人は、同年六月八日頃佐野安船渠出張所の責任者である佐加望彦から「あしたから藤永田船町工場の方へ行ってくれ」との口頭申入れを受けたが、藤永田の方へ行く理由がないとしてこれを拒否し、その後その話は沙汰止みとなっていたところ、七月二日頃になってまた佐加から「あしたから本社工場の方へ行ってくれないか」と言われ、自分は佐野安構内で働くということで採用されたとして右申入れを再び拒絶した。七月五日被申請人会社は、申請人に対し、佐加を通じて正式に期間等に限定のない本社工場への配転を命じ、「何んでぼくばっかりにいうんや」という申請人に対し佐加は「あんたは足が近い」(本社工場への通勤の便に恵まれている)とか「あんたはアカワン(赤腕章)を巻いているから行って貰う」などと述べて本社工場への配転に応じるよう求めた。しかし、申請人がこれに応じなかったため、翌六日品川公男専務は自ら佐野安船渠出張所に赴いて申請人に面接し、本社工場への配置転換を確認的に申し渡すとともに、「当社作業量の関係で六月八日口頭で申し渡したのち引き続き業務命令を拒否し、同様条件の者が他にもあるのに何故申請人だけが一時作業変更に応じないのか納得できない。従って七月七日以降当分の間佐野安船渠への入構を拒否する」旨を記載した「予告書」と題する書面を申請人に手交し、同日佐野安船渠に連絡して申請人の入門証を回収し、翌七日以降も従前どおり佐野安船渠に出向いた申請人の就労要求を被申請人会社は予告どおり拒否した。
被申請人会社は、さらに翌七月八日付内容証明郵便をもって、「来る七月一二日午後一二時までに本社工場に出頭すること、もしこの業務命令にも違反したときは就業規則により七月一三日付にて解雇する」旨を通告したため、申請人はやむなく七月一二日午後三時頃本社へ出頭したが、被申請人会社の役員は不在で(被申請人会社としては同日正午までに出頭を命じたつもりで、午前中は申請人の出頭を待機していた)、明日午前中に出頭するようにとの伝言であったため、翌一三日午前一一時過ぎ頃本社工場へ赴き、品川専務に対し、配転命令には不服であるが、生活していかなければならないから本社工場で就労する旨申入れ、「明日から本社で働いてくれ」ということになって翌一四日本社工場で就労したところ、被申請人会社は同日午後申請人に対し、口頭で、申請人がこれまで度々の申し渡しにもかかわらず、素直に配転に従わず、無断欠勤を重ねたことを不問に付するわけにはいかないとして、<1>始末書を提出させ、七月分から向う六ケ月間平均賃金の一〇分の一相当額の減給、<2>七月一五日から七月二二日まで七日間の出勤停止、という懲戒処分を言い渡した。
申請人は、出勤停止処分を受けたため、右停止期間のあけるのを待って、七月二三日本社工場に出勤して就労した。その日申請人は、専務から始末書の提出を求められたが、当日は始末書を用意しておらず、提出する気持も持っていなかったので、今日は忘れてきたなどと述べ、その場を取りつくろって提出しなかった。
翌二四日は家庭の都合で欠勤し、日曜日あけの二六日出勤した申請人に対し、専務は当然用意してきてくれたものと期待して始末書の提出を求めたが、申請人は、自分は佐野安船渠工場の方へ入ったのだから、佐野安船渠の方で働かせてくれ、減給処分や出勤停止処分まで受けたのだから始末書提出まではできない旨を述べて拒否したため、専務は始末書を提出しない以上働かせるわけにはいかないとして就労を拒否した。翌二七日にも、会社側は始末書提出を求めたが、これに対し申請人が専務に始末書の例文を書かせるなどしながら結局提出する意思が全然ない旨表明するに至ったため、専務は真に配転命令に従って本社工場で就労する誠意は認められないと怒り、同日以降の就労を拒否した。
申請人の始末書不提出、被申請人会社の就労拒否という状態が二週間にわたって続いたのち、八月一〇日前記のとおり申請人に解雇が言い渡され、翌一一日にも就労を要求して本社に出社した申請人に対し同趣旨の口頭告知があったが、会社側の解雇理由は、「七月一四日付での戒めにも従わず、七月二三日以降再々始末書を提出するよう申し入れたにもかかわらず、今日まで提出せず、情状酌量の余地なしとの判断に立ち、予告手当を支給の上解雇する」というものである。
そして、八月一一日午後八時ころ、品川専務と佐加望彦の両名が自宅に申請人を訪ね同夜一一時ころまで申請人と面談した。その際申請人は品川専務から解雇予告手当金として一三万一二五〇円を受領し、求めに応じてその旨の受領書を専務に手交したが、翌一二日午前後記所属労働組合の役員と共に被申請人会社を訪れ、右金員の受領は解雇を承認するものではなく、七月七日以降の不払賃金の一部として受領するものであり、従前の不当配転、不当懲戒処分、不当解雇予告に抗議し、これに関する団体交渉を要求する旨を記載した労働組合作成名義の「申入書」と題する文書を品川専務に手交した。
3 佐野安船渠本社工場では、昭和五一年三月当時約七〇〇名の本工と呼ばれる同社直傭工員と共に下請業者四十数社に雇用される下請工約九〇〇名が働いていたが、これら下請工は本工に比して劣悪な労働条件の下におかれていた。折から佐野安船渠にある二つの労働組合のうち少数派組合として同社に対し久しく激しい労働闘争を展開していた全日本造船機械労働組合佐野安船渠分会の指導と援助の下に、昭和五一年三月一七日右佐野安船渠の下請工一〇〇名余を組合員とする総評大阪地域合同労働組合佐野安ドック下請労働者支部(以下「組合」という)が結成された。組合は結成と共に、被申請人会社を含む下請、孫請業者の連合体である佐野安ドック下請事業協同組合に対し労働条件の改善を求めて団体交渉を要求すると共に、連日にわたり、下請工が客観的にいかに劣悪な労働条件の下に置かれているかを訴え、組合への加入を呼びかけるいわゆる教宣ビラを頒布したのに対し、使用者側は、組合結成日の翌日から一〇日余りは前記下請事業協同組合の名で、またそれ以降は「下請労働者を守る会」の名でこれまた連日にわたり、組合は一部過激分子の集りであり、その宣伝に乗せられて職場の平和と生活の基盤をそこなわないようにと呼びかけるビラを管理職らを動員して頒布し、これに組合を応援する前記佐野安船渠分会と分会を攻撃する「佐野安職場を守る会」の各教宣ビラが入り交って、同年八月九日に至るも相互に相手方を非難中傷するビラ合戦が続けられ、傷害事件にまで発展するこぜり合いが再三にわたって発生した。
その間下請事業協同組合は、組合脱退用紙を用意するなどして組合員の組合脱退を直接間接に勧奨し、二六名に上る脱退届をとりまとめて組合に届けるなどのことが行われ、その傘下の各事業所においても同年四月以降七月にかけて組合員(役員を含む)たる工員の配転、配転拒否を理由とする解雇予告等が相ついだため、組合は結成後数ケ月を経ない間にその勢力を減殺され、同年八月末ごろの残存組合員は、一部役員など極く少数の者に限られるに至った。
申請人は、同年四月八日組合に加入し(被申請人会社の従業員では他に一名的場貞夫が組合に加入した)同年五月一四日、孫請業者である株式会社新三有が組合員たる従業員三名に対して四月二二日に行った解雇予告に抗議する趣旨の赤腕章を着用して就労したところ、佐野安船渠の小島という本工から、地上勤務の電気溶接工で赤腕章をつけているのは申請人だけだ、「考え直して組合を脱退してくれんか」と言われ、その日の終業時刻頃にも他の下請業者から呼ばれ、組合に入るんだったら何故事前に相談してくれなかったかと言われ、その場へ来合せた被申請人会社の責任者佐加も、本社から職人をやめさせるように言ってきたときは、まず申請人にやめて貰うことになる、といった発言をした。またその頃佐加は、申請人と共に組合員となり赤腕章をつけていた的場貞夫に対しても、組合を脱退するよう働きかけた。更に六月二一日頃、申請人は下請業者岩下工業の職制入佐某(同人は「佐野安下請労働者を守る会」の代表者といわれていた)から「まだこんなもんつけているのか、はずさんか」といって着用していた腕章を引張られ、また同日頃佐野安船渠の現場指揮者である醒井某は申請人を就労時間中に「話があるんや」と呼んで、「田野内さん、組合やめて会社をやめるんなら、一ケ月分くらいの金を余分に払うと佐加さんがいうてるがどないや」と言った。
以上のような組合脱退勧奨に対して、申請人はこれを無視しあるいは反抗する態度を維持した(なお、前記的場貞夫は同年六月末被申請人会社を退職した)。
また組合は、佐加の申請人に対する右発言については、組合脱退強要であるとして文書で被申請人会社に抗議し、さきにみた申請人に対する同年七月以降の配転命令、佐野安船渠構内での就労拒否、懲戒処分、本件解雇等については、その都度内容証明郵便等の文書で抗議すると共に団体交渉を要求したが、被申請人会社は組合の要求には応じないままに終った。
以上のとおり一応認められる。
三 さて、以上の事実に基づいて、本件解雇処分及び配転命令の効力について以下検討することとするが、本件解雇は申請人の始末書不提出が直接の理由となっているところ、その始末書提出を被申請人会社が要求したのは、申請人が昭和五一年七月はじめの佐野安船渠出張所から本社工場への配転命令に素直に従わなかったことを理由とするものであるから、まず右配転命令の効力から判断する。
1 本件配転命令の効力について
被申請人は、申請人に配転を命じた理由について、<1>被申請人会社における従業員の雇入れは、本社又は各出張所毎に各別になされるものではなく、本社も営業所も一体としての雇入れであり、従業員には会社の作業都合により常時その職場を移転せしめているもので、申請人の雇用についても例外的合意はないこと、<2>佐野安船渠においては、造船業界の不況で、昭和四九年には八隻、総合計二九万五〇〇〇トンであった新造船量が、昭和五〇年は八隻二九万トン、昭和五一年は六隻二〇万七〇〇〇トンと減少し、昭和五一年中には船台一台が使用中止となる有様で、それに伴って被申請人会社の佐野安船渠における作業量も激減し、昭和五一年六月当時、昭和五二年の造船量はわずかに三隻八万二〇〇〇トンが決定をみている状況下で、被申請人会社は、同年六月末頃、経営維持の必要上建築関係(陸機部門)の工事量の増大をはかり、本社工場を充実することを当面の営業目標と定め、佐野安船渠出張所から二名、三井造船藤永田出張所から五名の合計七名を本社工場に勤務させることにしたこと、<3>佐野安船渠に働く一二名の工員のうちでは、通勤の便等を考慮して申請人が最も本社工場の勤務に適するものとして選定したこと、を主張するところ、右主張に副う疎明資料も一応はある。しかしながら、右会社の配転理由にはつぎのような問題点があることを看過することはできない。
(一) さきにもみたとおり、申請人は被申請人会社に入社するに際しては直接佐野安船渠出張所に赴いて責任者の佐加と面談し、佐加から報告を受けた被申請人会社は申請人の採用を了解するというかたちで、労働契約が成立しているが、右は極めて簡単な採用手続であって、採用に際して被申請人会社本社の人事担当者又は佐加が、申請人に対し、佐野安船渠における作業内容、就業時間、賃金等最小必要限度の説明をした以上に、被申請人会社の本社及び各事業所の業態、将来本社又は他の出張所等への配転がありうることを口頭であれ文書をもってであれ説明したと認められる疎明資料はない(使用者に就業場所についての説明義務があることにつき労働基準法施行規則五条一号参照)。他方、申請人が本社へではなく、佐野安船渠へ出向いて採用方を申入れたこと、本件配転を指示された際申請人が佐加や品川専務に対して、自分は佐野安船渠内工場を就業場所として採用されたものであるから佐野安船渠で働かせてくれ、と言って配転を拒否したことを考え合わせると、申請人は当初から佐野安船渠出張所を就業場所とする労働契約の申込をし、被申請人会社はこれを応諾した、と解することができる。尤も、申請人の入社後でかつ前記組合結成日の二日後である昭和五一年三月一九日、佐加の同意書を添付して阿部野労働基準監督署へ変更が届出られた佐野安船渠出張所に適用される被申請人会社就業規則第五二条は、勤務場所について「原則として佐野安船渠株式会社構内とする。但し、佐野安船渠株式会社及び品川工業株式会社の作業内容、作業量等により品川工業株式会社本社工場及び出張所に出向配属することがある。」と規定していることが認められるが、これは、昭和三九年一月二四日守口労働基準監督署に届出られかつその後変更手続を経ていないと思われる被申請人会の本社に適用される就業規則に、勤務場所に関する特段の条項が見当らない(たゞし他事業場での出張工事があることを前提とする規定はある)ことに照して、昭和五一年三月の規則変更に際して附加された条項であることが窺われるうえ、仮に右就業規則の効力自体に問題がないとしても、申請人と被申請人間の労働契約において、就労場所が、さきにみたとおり、佐野安船渠構内と特定されていると解すべきときは、右就業規則の定めにかかわらず、申請人の同意を得ないで配転することはできないと解さなければならない。
なお、被申請人会社における一時的、臨時的な他事業所への出向勤務は従前からかなりあったことが認められるが、それとても特定範囲の労働者について、その個別的同意を得てなされていたものであること、本件配転当時佐野安船渠出張所には、同出張所だけに勤務してきた労働者が多く、古いものでは入社以来一〇年に及ぶ者もいたことが疎明されるのであって、申請人が入社当初から本件のような期間につき無限定的な配転を予想しうる職場情況にあったとも認め難い。
(二) さらに、被申請人が主張するとおり、昭和五〇年頃から造船業界もいわゆる構造的不況に見舞われ、佐野安船渠の造船量も昭和五〇年、五一年と漸減し、先行きの見通しも暗くその下請業者である被申請人会社もそれ相当の影響を受けていたことが疎明されるところ、本件疎明中品川公男の陳述録取書によれば、被申請人会社は、昭和五一年春頃から造船部門から陸機部門への営業施策の転換をはかるべく、本社山西専務らが陸機部門の受注獲得に努力した結果、同年五月ごろから徐々に受注量増大の成果を生みつつあったので、同年六月末頃、佐野安、藤永田各出張所の余剰労力を本社工場建築ヤードへまわすことゝし、具体的には、三井造船藤永田出張所から溶接工二名、鉄工二名の四名、佐野安船渠出張所からは溶接工二名以上六名を配転するということを決め、その結果佐野安出張所からは申請人と、いま一人申請人と同様入社歴一年そこそこの西山武志を配転した、というのである。しかし、佐野安船渠から申請人と共に配転したという西山は、同年七月五日から五日ないし一週間本社工場に就労しただけで「本社工場の方でも手余りになり、佐加がこちらで働かせるからというので」(品川公男の供述)佐野安船渠の方へ帰したこと、藤永田工場からの人員もやがて「修繕船が入った関係で」(同供述)同工場へ帰したこと、当時被申請人会社の元従業員であった小坂なるものが独立して「丸建工業」を興し、女子事務員一名のほか工員九名をかかえて佐野安船渠の下請業者として佐野安構内に入っていたが、被申請人会社は、同年一〇月頃、経営合理化の観点から丸建工業をその工員と共に吸収合併したほか、その頃佐野安ドック下請事業協同組合の申入れで、経営難から解散の危機に瀕した同じく佐野安船渠の下請業者「尾形工業」の工員七名を、昭和五二年三月までの暫定的救済策としてではあったが、佐野安船渠出張所工員として引継ぎ雇用したことが疎明され、これらの事実を総合すると、被申請人がいう経営施策の転換及びこれに基づく配転計画なるものは極めて疑わしく、申請人を本社工場へ配転しなければならない合理的理由があったとは認め難い。
以上の考察によれば、本件申請人に対する配転命令は労働契約に反し、また合理的理由を欠き人事権の濫用として無効と解するほかない。のみならず、被申請人会社もその構成員である佐野安ドック下請事業協同組合が、佐野安船渠内でも過激な運動を展開していた全日本造船機械労働組合佐野安船渠分会の指導と援助の下に組合が結成されたことに強い衝撃を受け、佐野安船渠内の反分会勢力と一体となって、組合結成以降組合つぶしのための策動をしたことは、さきにみた組合結成以降の事実関係に照して明らかであり、本件配転に至るまでに申請人に対して加えられた佐加あるいは他の下請事業者らの組合脱退勧奨の背後にも被申請人会社の働きかけがあったと推量され、被申請人会社がそれ程の合理的理由も必要もないのに本件配転を強行しようとしたのも、申請人を佐野安船渠の職場から離脱させることによって組合員資格を奪いもしくは労働組合活動を事実上阻害する意図に出でたためと解され、従って本件配転は労働組合法七条に違反するもので、この点でも無効というほかない。
2 本件解雇の効力について
本件配転命令が右にみたとおり無効と解すべきものである以上、申請人が右配転命令に従って直ちに本社工場で就業しなかったことを理由として、その後被申請人会社が申請人に対してした減給、出勤停止、及び始末書提出という懲戒処分も処分の根拠を欠き無効というほかない。しかも、本社就業規則では、始末書提出は譴責処分の内容となっているだけで、減給、出勤停止処分に付された者に更に始末書の提出を求めうるという懲戒規定は見当らず、被申請人会社は佐野安船渠出張所における前記変更後の就業規則上の懲戒規定に基づいて申請人に対し始末書提出を要求したと解されるが、このような就業規則の適用は許されないというべきである(一般に配転前と配転後の各事業所に各別の就業規則があるときは、配転後は配転後の事業所の就業規則が適用されるのが原則であり、加えて本社就業規則に照すと会社が択一的であるべき出勤停止処分と減給処分を併科した点、五日以内であるべき出勤停止期間を七日とした点など本件懲戒処分には問題が多い)。
しかして、七月一三日以降は申請人が本件配転について異議をとどめながらも本社における就労を申し出ているにもかかわらず、かつまた、組合が申請人の配転及びその後の懲戒処分について団体交渉を申入れているにもかかわらず、労使交渉の場で紛争を解決する努力を一切せず、専ら申請人に対し根拠に乏しい始末書提出を要求した末、申請人がこれに応じないことを理由にした本件解雇の意思表示は、予告付のものであるとはいえ、解雇権の濫用として許されないものといわなければならない。
なお、申請人が解雇を確認的に告知された八月一一日夜自宅において解雇予告金一三万余円を受領し、その旨の領収証を専務に手交したことは、さきにみたとおりであるが、この点から被申請人は、本件解雇は終局的には合意退職に至った旨主張するので、この点について一言する。右八月一一日の事実経過をたどってみると、同日朝就労を要求して本社へ出社した申請人は、専務から解雇を言渡され、就労を拒否されてやむなく退社しようとした際、被申請人会社代表者品川三代義から呼び戻されて同人と面談したが、その際同人から、意地をはって懲戒解雇になったということでは申請人の将来にも不都合ではないか、この際組合とも縁を切り、自主退職ということにしてくれたら、将来のことについては、できるだけの力になるがどうか、といった趣旨の説得を受けたことが疎明され、その後専務らの来訪を受けて前記予告金等を受領したものであるところ、この点について申請人本人は、専務らが夜遅くまで帰らず困惑して引取ってもらうために受領したようにいうが、関係疎明資料を総合すると、当夜専務らが申請人に対し殊更受領を強要したとは認め難く、むしろ申請人が酒を出してすゝめるなどした上あれこれ世間話をしたり組合が一部幹部の独裁的運営に陥っているなどと組合の運動方針に対する不満をもらすなど、専務らに迎合的な応待をして時間を過したことが疎明されるのである。しかし、申請人が本件配転以降当日に至るまで被申請人会社にとってきた態度及び翌一二日直ちに組合役員と共に被申請人会社に出向いて前夜の金員の受領が解雇の承認するものでない旨申入れていることなどに鑑みると、解雇の承認ないし退職についての同意は申請人の真意に基づくものではなく、被申請人会社にあって一人組合員として留まり、出勤停止処分、始末書提出要求、就労拒否と打ち続くあつれきに苦しんだ末昼間の社長の説得もあって一時的に動揺した心理状態の下に退職に同意するかの如き言動をしたものと解するのが相当で、申請人が予告金を受領した一事をもって有効に退職についての合意が成立したとはいまだ認め難い。
四 以上のとおり本件配転及び解雇はいずれも無効というべきものであるから、申請人は被申請人に対し、依然として、佐野安船渠出張所を勤務場所とする被申請人会社従業員たる地位を有し、かつ本件解雇後も賃金支払請求権を有することになるところ、申請人は被申請人から受ける賃金に自己と妻子の生活を依存していたものであること、申請人は本件解雇前の昭和五一年三月から六月にかけて月額平均一六万円以上の賃金を被申請人から支給されていたこと、本件解雇により賃金収入を失い生活に支障を生ずるに至っていることが疎明される。ところで、申請人は、前述のとおり、昭和五一年八月一一日被申請人から受領した解雇予告金一三万一二五〇円を七月七日以降の未払賃金に充当するとして生活に費消したことが認められるので、同年八月以降毎月末日限り一ケ月につき前記一六万円の限度で仮払を認めれば、その生活維持に支障はないと考えられ、従って、本件申請のうちこれを超える金員仮払を求める部分はその必要性を欠くものということになる。
五 以上の次第で、本件仮処分申請は主文第一、二項の限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから却下し、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但書を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判官 香山高秀)