大阪地方裁判所 昭和53年(わ)4792号 判決 1981年3月26日
主文
被告人は無罪。
理由
一1 本件公訴事実の要旨は、
「被告人は、昭和五三年八月三一日、大阪府吹田市内の下宿にいたところ急に女性の身体に触れたいとの欲望を生じ、
第一 同日午後二時四〇分ころ、同府豊中市新千里東町一丁目五番二号所在の千里セルシー五階ミネルバ学園事務所北側女子便所において、A子(当時一九歳)が用便を済ませて便所から出ようとするのを認めるや、所携の刃体の長さ九・一センチメートルの果物ナイフを同女の喉元に突きつけ強いて同女を便所内に押し込み、『騒ぐな、騒ぐと刺すぞ。』『静かにしろ』『脱げ、脱げ、洋服を脱げ。』等と申し向けて脅迫し、同女をその場に押し倒し、同女の口を手で塞ぐ等の暴行を加え、同女のスカートを掴む等して、猥褻行為をしようとしたが、同女が抵抗したためその目的を遂げず、その際右暴行により同女に対し加療約五日間を要する右第一指、左第一指切創の傷害を負わせ、
第二 同日午後四時ころ、同府吹田市桃山台五丁目一番所在のC二〇棟千里開発センター桃山台住宅一階南側女子便所内において、B子(当時二四歳)が用便を済ませて便所から出ようとするのを認めるや、同女の左肩を押して同女を便所内に押し込み、『服を脱げ。』と申し向け、その場に座り込んで同女の頭髪を掴んで引張る等の暴行を加え、更に同女が大声で助けを求めるや同女の右頸部に所携の前記ナイフを突きつけ『声を出すな。』と申し向けて脅迫し、猥褻行為をしようとしたが、同女が右ナイフを手で掴み抵抗したためその目的を遂げず、その際右暴行により同女に対し加療一九日間を要する左拇指挫創の傷害を負わせ
たものである。」
というのである。
2 右の各事実は、被告人の当公判廷における供述、司法巡査作成の領置調書及び押収してある折りたたみ式ナイフ一丁に加え、右第一の事実について、《証拠省略》により、右第二の事実について、《証拠省略》により、それぞれこれを認めることができる。
二1 しかしながら、弁護人は、右各犯行当時被告人は精神分裂病に罹患しており、右各犯行はその影響のため心神喪失の状態でなされたものである旨主張し、検察官は、右各犯行当時被告人は精神分裂病に罹患していたとはいえその程度はさほど重篤なものではなく、右各犯行は心神耗弱の状態でなされたものである旨主張するので、以下この点について検討する。
2 《証拠省略》を総合すれば以下の事実が認められる。
被告人は、京都外国語大学在学中の昭和五〇年一〇月ころ、当時大阪府枚方市内に居住していた姉C子を訪問する途中、金縛りに遭い雷のようなものが落ちて来て身動きできなくなる異様な体験をし、また昭和五一年一二月ころ名神高速道路を歩行していて、トラックの運転手に保護されたことがあり、更に翌昭和五二年一月には「家族を滅茶滅茶にしてやる。僕の身体にキリストが乗り移っている。」と口走るなどの支離滅裂な言動を示していたところ、同年五月ころ郷里の鹿児島県出水市内において、「やりなさい。」という幻聴によりバスを待っている女性にいたずらをしようとして同女を押し倒したことからこれを契機に同市内の出水病院に通院するようになり、同年七月二〇日精神分裂病と診断されて同病院に入院し、同年一一月三〇日には不完全寛解のまま退院した後引続き同病院への通院加療を続けていたが、翌昭和五三年三月ころ当時休学していた関西大学文学部への復学を希望したため、右出水病院の今村医師から薬の服用と医師の定期診断を続けるように指示を受けて上阪した。ところが上阪後一週間位薬を服用したのみで、その後は右指示を守らなかった被告人は、同年七月二〇日ころ郷里に帰省した際、またもや夜中に家の回りを歩いたり、焼酎を飲んでうめいたり、「小さな子供が一番けだもののように見える。」と言うなどの異常な言動を示したため、被告人の父親らは被告人の上阪に危惧を抱いていたが、被告人はその反対を押し切って同年八月二六日ころ上阪し、同月三一日には公訴事実記載の各犯行に及び、本件保釈後の昭和五四年六月から翌昭和五五年二月までに右出水病院に精神分裂病の治療を受けるため再入院した。
3 以上認定の事実と《証拠省略》を総合すれば、被告人は、昭和五〇年一〇月ころから、著明な異常行動や幻覚妄想を伴い、亢奮と沈静を繰り返す急性経過型・妄想幻覚型の精神分裂病に罹患し、現実世界と病的世界に思考が分裂し、自我機能の減退により現実社会への適応能力を著しく欠く状態に陥り、右のような病勢はある程度の動揺がみられたもののほとんど不治のまま昭和五五年二月ころまで持続していたこと及び被告人には右期間を通じて、自分の意思やそれに基づく言動が、自己の力ではなく幻聴を伴う自己以外の他者の力で動かされてしまう、いわゆる作為体験の症状があらわれていたことが認められる。
4 そこでまず本件各犯行時における被告人の精神分裂病の程度についてみるに、前認定のとおり被告人は昭和五三年三月ころ上阪した際医師から薬の服用や通院加療が必要である旨指示されていたのに、上阪直後僅かの期間薬を服用した以外には、本件各犯行時までに通院加療をうけたことがないこと、また本件各犯行の直前郷里で種種の異常な言動を示したこと、更に後段認定のとおり被告人は本件各犯行当日作為体験のあったことなどの各事実と黒丸証言とを仔細に検討すると、本件各犯行時被告人は重症の精神分裂病に罹患していたことが認められる。
ところで、被告人は、本件各犯行の動機について捜査段階では取調官に対し、「事件当日正午ころ下宿にいたところ、突然頭の中に美しい女性の顔が浮かび無性に若く美しい女性の体にさわりたくなり、脅すためのナイフを持って外出した。そして公訴事実第一の犯行に及んだが失敗したためもう一度同じような方法でいたずらをしようと思い、公訴事実第二の犯行に及んだ。」旨供述し、作為体験のことについては何ら触れていないのに対し、当公判廷では「事件当日下宿にいる時、外へ出て行きなさいという女の人の声が聞えたのでナイフを持って外出した。」旨供述し(但し、犯意の発生時期やナイフを持ち出した理由については曖昧不明確な供述に終始している)、黒丸鑑定人の問診に対しても右公判供述と同旨の供述をしていることが窺えるので右のような作為体験の有無についてみるに、被告人は昭和五三年一〇月一一日に公訴事実第一の罪で緊急逮捕された際、「悪魔にとりつかれて女の人を傷つけました。」と述べていること、本件各犯行がその態様からみてかなり衝動的なものであること、被告人は昭和五二年五月ころにも作為体験により本件と同種の犯行に及んでいること等にも照らすと被告人の右公判供述ないし問診での供述は十分信用するに足るものであり、以上を総合考慮すれば被告人は「外に出て行きなさい。」との幻聴に支配されて外出し、本件各犯行に及んだものと認めることができる。なお検察官は、被告人に右の幻聴があったとしてもそれは単に本件各犯行の引き金となったに過ぎず、本件各犯行の動機やナイフの携行等は右幻聴と無関係である旨主張するが、被告人は事件当日の正午ころに右幻聴を聞き、その約三〇分後にはナイフを携行して外出し、午後二時四〇分ころと午後四時ころには右ナイフを使用して本件各犯行に及んでいるのであって、右一連の行動、特にその時間的接着性や黒丸鑑定書のナイフを持って出たのは尋常の人間が持って出ようというように自己決定したのではなく、作為的に声の力で持って出た、すなわち「持たされた」という傾向(作為体験としての傾向)が存在することは確かである旨の記載に鑑みれば、外出したことだけが作為体験によるもので、ナイフの携行や本件各犯行は作為体験に基づくものではないとの見解は到底採用し得ないところである。
以上のとおり、本件各犯行当時被告人は重症の精神分裂病に罹患しており、その一症状である作為体験に直接支配されて右各犯行に及んだものと認めるのが相当である。従って当時被告人に是非善悪を弁別し、且つそれに従って行動する能力が備わっていたとするには合理的な疑いが存するといわなければならない。
もっとも黒丸鑑定は前掲各事実を前提としながら、精神分裂病にも程度があるのであって精神分裂病であるからといって直ちに心神喪失であるとはいえないとし、本件各犯行当日の「出て行きなさい。」との声に対し被告人が苦しんでいること、犯行現場の便所で鍵をかけて犯行に及んでいること(各犯行につき)、被害者に騒がれて逃走していること(公訴事実第一の犯行につき)及び本件保釈後の入院加療により被告人の精神分裂病はほぼ寛解状態になっていること等の諸事実を根拠に、かすかながらも自己抑制力が残存していたと認められるので、被告人は本件各犯行当時心神喪失に近い心神耗弱の状態にあったとしているので、この点につき付言するに、なるほど精神分裂病であるからといってその症状如何にかかわりなく直ちに心神喪失であるとの見解を採り得ないことは黒丸鑑定所論のとおりであるけれども、被告人は本件各犯行時重症の精神分裂病に罹患し、本件各犯行はその一症状である作為体験に直接支配されてなされたものであることは前判示のとおり疑いの余地のないところであり、また黒丸証言自体、被告人が「出て行きなさい。」との声に苦しんだこと、すなわち行為の是非善悪の判断がある程度できたことを是認しながらも、さらに進んで、被告人自身その声に打ち勝って犯行を思い止まるだけの制御能力を有していたかどうかについては納得できる証言がなされていないこと、また前認定の本件各犯行の衝動性や前記精神分裂病と本件各犯行との結びつき及び思考が分裂し著しく情意が鈍麻する精神分裂病の特質等にも徴すれば、一見責任能力の存在を窺わせるような右諸事実も、是非善悪弁別能力をわずかながらでも肯定する根拠となり得ても、前記作為体験に直接支配された結果、右弁別に従って行動する能力がなかったのではないかとの疑問を払拭するに足るものとは認め難い。
三 以上の次第であるから、被告人は本件各犯行当時重症の精神分裂病に罹患していたため刑法三九条一項にいう心神喪失の状態にあったと認めるのが相当である。よって刑事訴訟法三三六条前段により被告人に対し無罪の言渡をすることとする。
(裁判長裁判官 大西一夫 裁判官平弘行、同氷室眞は転補のため署名押印できない。裁判長裁判官 大西一夫)