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大阪地方裁判所 昭和53年(ヨ)386号 1979年8月03日

申請人

峰平隆司

平井真樹男

右両名代理人弁護士

岡田義雄

(ほか四名)

被申請人

近江産業株式会社

右代表者代表取締役

小八木健次

右代理人弁護士

前田利明

(ほか三名)

主文

1  被申請人は申請人両名をいずれも被申請人の従業員として仮に取り扱え。

2  被申請人は、申請人峰平隆司に対し三八万一、六七七円並びに昭和五三年一月から同年三月まで毎月二六日限り二〇万四、一五四円、同年四月以降毎月二六日限り二〇万九、〇七四円を、申請人平井真樹男に対し三三万二、三六三円並びに昭和五三年一月から同年三月まで毎月二六日限り一五万四、九七五円、同年四月以降毎月二六日限り一五万九、二七九円をそれぞれ仮に支払え。

3  申請人らのその余の申請をいずれも却下する。

4  申請費用は被申請人の負担とする。

理由

第一当事者の求めた裁判

一  申請人ら

主文第1項及び第4項と同旨並びに「被申請人は、申請人峰平隆司に対し四九万八、一二五円並びに昭和五三年一月から同年三月まで毎月二六日限り二〇万四、一五四円及び同年四月以降毎月二六日限り二一万〇、七七四円を、申請人平井真樹男に対し四三万三、七四五円並びに昭和五三年一月から同年三月まで毎月二六日限り一五万四、九七五円及び同年四月以降毎月二六日限り一六万〇、七七九円をそれぞれ仮に支払え。」

二  被申請人

申請人らの申請をいずれも却下する。

第二当事者の主張

一  申請理由の要旨

1  被申請人は、昭和二五年に設立され、資本金二億円、年商約一四億円、従業員約七〇名を擁する鉄鋼の第一、二次製品の加工及び卸・小売を業とする株式会社(以下、単に会社という。)であるところ、申請人峰平は昭和四一年四月会社に入社し、商品知識等についての研修を受けた後、同年夏頃本社内の営業部厚板課に配属され、その後昭和四九年三月末本社建材部条鋼課に配属され、同時に課長代理に昇任して現在に至っており、申請人平井は昭和四三年四月会社に入社し、商品知識についての研修を受けた後同年秋頃本社内の営業部薄板課に配属され、その後昭和四八年五月右条鋼課に配属されて現在に至っているが、右申請人両名はいずれも昭和四九年五月一七日会社従業員で組織された総評全国一般労働組合大阪地方連合会近江産業労働組合(以下、単に組合という。)の組合員であり、申請人峰平は執行委員、申請人平井は教宣部員の地位にある。

2  会社は申請人両名に対し、昭和五二年一二月二七日午後四時三〇分頃いずれも本社営業部条鋼課から鶴浜鉄鋼センターへの配置転換を命ずる旨の意思表示(以下、本件配転命令という。)をなし、翌二八日午前九時前頃申請人らがこれに応ぜられない旨回答するや、会社は右両名に対し、右配転命令の拒否が就業規則六三条三号の「業務上の指示命令に不当に従わず職場の秩序を紊し又は紊そうとしたとき」に該当するとして、いずれも同日付で懲戒解雇する旨の意思表示(以下、本件解雇という。)をなした。

3  しかしながら本件解雇は次の理由により無効である。

(一) 本件解雇は、本件配転命令拒否を理由になされたものであるところ、本件配転命令は、(1)申請人両名はいずれも営業部員として会社に採用され、以来一貫して営業職に従事してきたものであって、会社との間には労働契約上職種の定があったのに拘らず、申請人両名の同意なしになされたものであり、(2)その配転先も単に鶴浜鉄鋼センターの現業部門というのみで、配転の理由はもとより配転後の具体的な勤務内容及び労働条件の明示もないもので、全く業務上の必要性を欠くものであり、かつ配転命令に対する考慮期間もわずか一六時間余という極めて短時間しか与えられなかったもので権利の濫用というべきものであり、(3)組合と会社との間において、昭和四九年六月一日開催の団体交渉で確認された組合の執行委員及び三役の解雇、配転については事前に組合に通告したうえ、その余の組合員については該組合員から異議があった場合にそれぞれ組合と協議するという事前協議等の約束に反するものであり、右いずれの点からするも、無効であるから、右配転命令の有効であることを前提とする本件解雇は無効である。

(二) 本件配転命令及び本件解雇は、その真の目的が、会社が申請人両名の正当な組合活動を嫌悪し、右両名を会社から排除することにより組合の弱体化を企図せんとするところにあったもので、労働組合法七条一号、三号の不当労働行為に該当し無効である。

(三) 本件解雇は、就業規則六〇条所定の懲戒のための「委員会」の開設、協議もなく行われたものでありまた前記事前協議等の約束に反して行われたものであるから無効である。

4  申請人両名は、会社から毎月二六日に賃金(本件解雇当時は、申請人峰平が二〇万四、一五四円、申請人平井が一五万四、九七五円、昭和五二年四月以降は、昭和五四年五月二八日の賃上げ妥結により申請人峰平が二一万〇、七七四円、申請人平井が一六万〇、七七九円)を、毎年夏と末に各一時金(昭和五三年夏期一時金は、昭和五三年八月三日の妥結により申請人峰平が二三万五、一三五円、申請人平井が二〇万四、七五五円、同年末一時金は、同年一二月一四日の妥結により申請人峰平が二六万二、九九〇円、申請人平井が二二万八、九九〇円)をそれぞれ支給されてきたが、会社は本件解雇を有効として昭和五三年一月以降の賃金及び各一時金を支払わないところ、申請人両名は、いずれも地位確認及び賃金等支払いの本案を提起すべく準備中であるが、会社から支給される賃金以外に生計を維持する手段をもたない労働者であるから、本案判決の確定をまっていては回復できない損害を蒙むることになるので、本件仮処分申請に及んだ。

二  申請理由に対する答弁の要旨

1  申請理由第1項のうち、申請人平井が組合の教宣部員であるとの点は不知、その余はすべて認める。

2  申請人両名に対する懲戒解雇の理由は次のとおりであり、本件解雇は有効である。

(一) 本件配転命令は、条鋼課が昭和五二年八月末をもって廃止されたことに伴って発せられたものであり、その正当性は次のとおりである。

(1) 条鋼課は、普通鋼鋼材のうち「丸棒」といわれる商品の販売を昭和三三年頃から手がけてきたところ、昭和四九年頃迄は順調にその売上げを伸してきたが、同年秋頃より市況不況の兆候が激しくなり、全社的に売上げが低下し、なかでも条鋼課、薄板課、九条営業所の成績低下は甚しく、そのため薄板課を廃し厚板課と合併させて鋼板課を一本とし、九条営業所は実質的に廃止した。また条鋼課については、昭和四九年度は前年度を下廻る売上高であり、更に同五〇年度は対前年度比五〇・八パーセントとなって売上げは半減し、更に同五一年度においては他の営業部門では全体として一応の回復をみたにも拘わらず、回復の兆しは全然つかめず(過去二年間の概算では荒利益五、一二二万円に対し金利約五、五〇〇万円、課の営業費七、二〇〇万円、貸倒金一、二〇〇万円、差引八、八七八万円の赤字)、課としての存続維持はもはや困難な状況となり、条鋼課としては廃止ないしは抜本的対策の検討を迫られたので、昭和五二年一月に条鋼課大橋課長に対し課の抜本的対策を検討するよう指示したところ、右大橋から四月末迄右回答を待って欲しい旨の要望があった。

(2) ところが同年三月下旬条鋼課の販売先である野山鉄筋が、同年四月一四日同じく大洋基礎があい次いで倒産し、合計約一、八五〇万円の売掛金債権が回収不能となったので、会社としては、早急に販売先の与信供与の見直し検討が必要となったところ、前記抜本的対策案の提出期限も間近であったことから、一時新規の販売契約をとることを中止させ、至急右抜本的対策案を提出するよう指示した。

(3) しかしながら右対策案の提出はなく、ようやく七月に入って、課員を三名に減じて従来どおりの営業を行うという縮少案が大橋課長から提出されたが、申請人両名の反対により右案は具体化しなかった。

(4) このように何ら抜本的対策の具体案が提出されないままの状態が続いていた七月中頃、課の売上げの六〇パーセント前後の販売実績を有していた栗田課長代理から退社の申出がなされるに至り、会社の慰留説得にも拘らず、同人は八月一日に退社した。このことに責任を感じた大橋課長も同月一三日退社を申出てきたので、会社は、同月一六日これ以上条鋼課の営業を継続することは無理であると判断し、右営業を全面的に停止し、八月末日をもって条鋼課を廃止することに決定した。

(5) 以上のとおり、捧杭の市況不振による売上げ減少が条鋼課の廃止の要因ではあるが、申請人平井については条鋼課中最低の売上げ成績であり、客観的な数値のみでも営業マンとしての能力がないといわざるをえないところ、前記大洋基礎倒産による損害も担当者であった同人の責任によるものである。また申請人峰平も課長代理として条鋼課に配転されてきたのに、その売上げは最下位から二番目であるうえ右配転に際し特に前任者川崎の手がけていた土木基礎工事用のシートパイル、鋼管杭の拡販任務(以下、特命事項という。)に携わるよう指示されていたが、これに十分応えられず、その販売実績は零であった。更に昭和五二年五月中旬大橋課長から右特命事項について責任を追求されたところ、同人は「労使関係が悪いから成績が上らないのだ」とうそぶき、また前記のとおり課存続を決める重大な時期においても、あたら管理職との融和協調を欠き、同僚との意見調整にも何らなすところがなかったもので、申請人両名は、営業マンとして根本的にその資質が問われるべきで、栗田、大橋の抜けた後を申請人らにまかせて課を存続させることは到底できなかったものである。

(二) 条鋼課廃止後、組合は会社に対し、申請人両名の処遇につき、両名を他の営業部門ないしは内勤事務職に配転するよう申し入れてきたので、会社は、人事につき組合との間に事前協議約款を締結してはいないが、円満に交渉すべく数回の団交の席上で、現在営業部門では人員余剰があり、内勤事務職も該当職がないとの理由で右要求には応ぜられない旨回答してきたが、昭和五二年一二月二〇日及び同月二三日の団交の席で、組合は「現場作業員でなければ本人達も了解している。」旨述べたので、会社は同月二七日まず組合三役に折衝のうえ、申請人両名に対し「鶴浜鉄鋼センターの管理部門事務職へ配転する。」旨の意思表示をしたが、右意思表示は申請人両名の将来及び組合の要求にも沿ったものであった。

このように本件配転命令は業務上の必要性があったから行ったもので、申請人らの主張する如き職種の変更に当るものではなく(仮に職種の変更に当るとしても前記のとおり申請人両名の営業マンとしての資質、能力のない点からすれば、就業規則七条により職種の変更が一切できないことはない。)、まして権利の濫用にも事前協議等の約束違反にも当らない正当なものであった。

(三) しかるに、申請人両名は翌二八日右配転命令を拒否したので、就業規則六三条三号を適用して右両名をいずれも懲解戒雇したもので、本件解雇はもとより正当である。

3  申請人らは、本件解雇が就業規則六〇条所定の手続を経ていないから無効であると主張するが、申請人らには右手続違反を問責するだけの資格はない。即ち申請人両名は昭和五二年一二月二八日組合三役を伴って本件配転命令を拒否したのであるが、その際組合並びに申請人両名は会社に対し「配転される覚えもないし、だからといって解雇される覚えもない。これが申請人両名の回答であるから、後は会社でどのように解釈していただいても結構です。」と返事をしたのであり、会社の「もう一度考え直してみないのか。」という再度の協調にも「その必要はない。」旨言明したものであって、右は就業規則六〇条所定の委員会の開催をも拒否したものであり、今になって右規則違反をいうのは信義則上許されない。

4  仮に本件解雇が就業規則六〇条に違反して無効であったとしても、会社は申請人両名に対し、昭和五三年二月一四日就業規則一六条六項に基づき普通解雇の意思表示をなしたので、申請人両名は右以降会社の従業員たる地位を有しないものである。

5  申請人ら主張の賃金については、本件解雇当時主張どおりの賃金を支給されていたこと及び申請人両名が昭和五三年一月以降賃金を支給されていないことは認める。

三  申請人らの反論

1  被申請人は、条鋼課廃止の正当性の理由として、(一)昭和四九年秋頃からの不況のため、まず薄板課と九条営業所を廃止したと主張するが、右薄板課の廃止は、当時の薄板課の課長浜野の組合加入を嫌って同人を降格させたうえ原職復帰をさせないためにしたものであり、また九条営業所の廃止も、同営業所の設置されていた西区境川が公害防止のため鉄関係の仕事が許されなくなり、住之江区南港に移転したにすぎない。因みに同営業所周辺の同業者も同様に集団で南港に移転している。(二)また条鋼課の抜本的対策検討の主張についても、会社が右検討を指示したのは、被申請人主張によっても昭和五二年一月に入ってからであり、申請人両名が右指示のあったことや右指示につき大橋課長が四月迄検討する期間を要求したことなどは一切知らされておらず、ただ同年二月一六日の条鋼課会議の席で、大橋課長から同課の成績につき社長が文句をいっていると聞かされたのみである。そして右会議において、同課長は申請人峰平に対し同人の得意先のうち五、六社を自ら今後訪問する旨一方的に宣言し、申請人平井に対しては営業に積極的に出ず出荷を重点的に担当するよう指示した。このことは、この時から申請人両名を条鋼課から排斥しようとする意図があったことを窺わせるものである。(三)会社は昭和五二年四月条鋼課の営業を停止させたが、被申請人はその理由として右抜本的対策の早急なる検討のためと主張する。しかし、長期化する不況下しかも取引先の倒産という火急時に営業活動を停止することは取引先に不信感を与え、会社の信用を失墜させるだけで、会社としては自殺行為に等しく、倒産による被害を最少限に食い止めるべく努力することがまず肝要であって、抜本的対策の検討はその後または並行しても十分可能である。しかも抜本的対策検討のための会議は五二年五月三〇日、六月八日、二四日、七月一日の四回しか開かれていないのであって、会社が真剣に条鋼課の建て直しを考えておらず、真の目的が他にあったことを裏書きしている。(四)被申請人主張の如く抜本的対策案として大橋課長から縮少案が提示され、申請人両名がこれに反対したことは認めるが、申請人両名が反対したのは、削減される課員の身分保障につき会社及び大橋課長が何ら具体案を有していなかったからである。(五)また栗田課長代理が退社したことは認めるが、これは、同人が四月以来の営業停止で取引先に多大の迷惑をかけていることに責任を感じ、このままの状態を放置している会社に絶望したからに他ならないものであるが、同人は退社後幸田鋼業という社名で会社の得意先をそのまま引き継ぎ営業している。更に大橋課長も退社したが、同人は退社後大照鉄鋼株式会社を設立し、昭和五二年一一月上旬より開業しているところ、同年一一月五日退職した条鋼課員宮後を入社させ、条鋼課で担当していたのと同一の営業を担当させている。しかも取引先は会社のものを引き継いでいる。(六)条鋼課員の売上成績については、売上高それのみを取りあげれば被申請人主張のとおりであるが、栗田は昭和四三年同課発足以来の生え抜きの課員であり得意先との結びつきも強いのに対し、申請人平井は昭和四八年五月、申請人峰平は昭和四九年三月からの条鋼課員であり、しかも右時期は不況の影響が出始め新しい販路の拡大もままならぬ時期であったのであるから、栗田と申請人両名との売上成績のみの比較でその能力を判断し、右両名を無能呼ばわりするのは不公正であり、悪質な中傷という他はない。しかも申請人両名の営業成績言々をいいだしたのは昭和五二年八月一六日以降のことである。(七)会社は売上減少を強調するが、岡山営業所の売上は、昭和五一年八月段階では同五〇年八月の水準にまで回復できずに低迷しているのに、同営業所は廃止されていないが、条鋼課は、昭和五一年八月段階で同五〇年八月の水準まで回復し、その後も昭和五三年三月まで若干ではあるが上向きの傾向にあった。(八)申請人峰平に対する特命事項についても、同人が条鋼課に配属された際に一般的な指示を受けたことはあるが、その後具体的な指示を受けたことはなく、当時条鋼課では殆んど実績のない商品であった。会社は昭和五二年夏の一時金交渉の際に右特命事項を強調し始めたものである。

2  組合は条鋼課の廃止を了解したことは一度もなく、廃止に異議あることを留保しつつ、円満解決のため譲歩し、申請人両名につき本社内配転を申し入れたもので、他の営業部門への配転の申し入れは昭和五二年九月三日口頭で、同年一〇月二七日文書でした。ところが会社は同年二月一〇日以降にもたれた年末一時金についての数回の団交の席で、暗に申請人両名をさして「仕事をしない人がいるから、連帯責任として一時金は出せない。」、「両名の退職を承認しなければ一時金を出せない。」等という有様で、会社が申請人両名の処遇につき真剣に考慮した形跡は全くなく、このことは条鋼課廃止が昭和五二年八月であったにも拘らず、本件配転命令が同年一二月二七日であったということからも窺える。

このように条鋼課の廃止は何ら合理性のないものである。

第三当裁判所の判断

一  前提となる事実

当事者間に争いのない事実及び疎明資料によれば、次の事実が一応認められる。

1  会社は、昭和二五年に設立され、鉄鋼の第一、二次製品の加工及び卸・小売を業とし、資本金二億円、年商約一四億円、従業員約七〇名、肩書地(略)に本社及び工場、大阪市住之江区南港に南港鋼板センター兼営業所(以下、単に南港センターという。)を、大阪市天満と岡山市内に各営業所を、大阪市大正区三軒家に賃貸倉庫をそれぞれ有している。会社の役員構成は、代表取締役に小八木健次(以下、社長という。)、取締役に社長の妹婿である藤原正教(以下、専務という。)、社長の長男である小八木康之(以下、常務という。)、大木正人、庄司静央(昭和五三年八月退任)、松永行雄がそれぞれ就任しているが、株式の九〇パーセント以上が社長及びその親族によって保持されており、いわゆる同族会社であって、社長がその実権を把握している。

申請人峰平は、昭和四一年三月大阪市立大学商学部を卒業し、同年四月営業部員として会社に入社し、商品知識等についての研修を受けた後、同年夏頃営業部厚板課に配属され、その後昭和四九年三月末建材課条鋼課に配属され、同時に課長代理に抜擢され、後記のとおり条鋼課が廃止されるまで同課で営業活動をしてきたもの、申請人平井は、昭和四三年三月関西学院大学経済学部を卒業し、同年四月に営業部員として会社に入社し、商品知識等について研修を受けた後、同年秋頃営業部薄板課に配属され、その後昭和四八年五月右条鋼課に配属され、条鋼課廃止に至るまで同課に存在したものであるところ、申請人らはいずれも昭和四九年六月一七日結成された組合の結成以来からの組合員であり、申請人峰平は執行委員、申請人平井は教宣部員の地位にあるものである。

2  会社の就業規則六三条には、「業務上の指示命令に不当に従わず職場の秩序を紊し又は紊そうとしたとき」(三号)は懲戒解雇できる旨の規定があるところ、会社は申請人両名に対し、昭和五二年一二月二八日申請人両名にいずれも右規定に該当する行為があったとして、同規定に則り懲戒解雇する旨の意思表示をした。

二  本件解雇に至る経緯

当事者間に争いのない事実及び疎明資料によれば、次の事実が一応認められる。

1  昭和五〇年ないし同五二年一月頃当時における会社機構及び条鋼課の構成は別紙(略)会社機構及び条鋼課の構成員記載のとおりであった。

2  会社は、いわゆるオイルショックによる不況により昭和四九年秋頃から全社的に売上げが低下し、昭和五〇年度の総売上げは同四八年度の総売上の五割を多少上廻る程度に陥り、これを営業部門についてみれば五割にも達しなかった。そして右不況の影響は続き、昭和五一年度においても前年度総売上げの約一・四倍(営業部門については約一・五倍)程度の売上げしか上げえず、約一億五、〇〇〇万円(貿易部を除くと約二億円)の赤字を出した。

ところで、右赤字のうち各課の占める割合は、厚板が約五〇ないし五五パーセント、薄板が約一〇ないし一五パーセント、建材課が約一五パーセント、岡山営業所が約五パーセント、条鋼課が約一五パーセントであって、このうち売買差益がでているのは条鋼課のみであった。このように昭和五一年度においては、鋼板課や建材課についても条鋼課と同程度か或いはそれ以上の赤字が見込まれていた。因みに岡山営業所の売上げについては、昭和五一年八月時点においても同五〇年八月の水準にまで回復できていなかった。

3  昭和五二年一月二一日会社は大橋課長に対し、条鋼課の「抜本的対策」なるものの検討を指示し、同課長の要望により同年四月末日まで右検討の猶予期間を与えていたところ、同年三月下旬頃条鋼課の取引先であった野山鉄筋が、同年四月一四日同じく大洋基礎が相次いで倒産し、合計約一、八五〇万円の不良債権をかかえることとなったので、早急に販売先に対する与信供与の見直しを検討する必要にせまられた。このようなこともあってか、同日条鋼課の営業活動を、既に受注のあったものは除き、新規の販売活動についてはこれを停止する旨の指示を出し、右「抜本的対策」案の検討を急がせることにした。

4  ところで条鋼課では、通常毎月一回の割合で課内会議をもち、当月の営業成績等の確認や今後の販売方針を建てたりしてきたが、昭和五二年に入り五月までの間には一月と二月に各一回宛会議をもったに過ぎなかった。そして会社は、昭和五二年一月以降は「丸棒」の市況が好転するとの判断から仕入量を増加していたので、右各会議では販路を拡大することが指示されたに過ぎなかった。昭和五二年五月三〇日同年に入って三回目の課内会議が開かれたが、右会議において、大橋課長から各課員に対し、社長から右「抜本的対策」の検討を求められている旨の説明が始めてなされた。しかし大橋課長はもとより会社においても「抜本的対策」の具体案を何ら持っていなかったため、その時は具体案がでないまま終了し、次いで同年六月八日に開かれた会議においても前回と同様具体案がでなかったが、同年六月二八日に開かれた会議において、大橋課長から「課長を含めて三名で課を従前どおり運営していきたい。」旨の条鋼課縮少案が提示されたが、減員される課員の身分保障につき、大橋課長及び会社が具体案をもっていなかったため、右縮少案は課員の賛同をえられず具体化しなかった。次いで七月一日に再度会議が開かれたが、具体案はでなかった。そしてその後は一度も会議は開かれなかった。

5  前記条鋼課の営業停止の状態は右会議がもたれなくなった同年七月一日以降も依然として続いたが、同年八月一日まず栗田課長代理が会社を退職するに至り、同月一三日には大橋課長も右栗田課長代理の退職に責任を感じるとして退職するに至った。そこで会社は、同月一六日開かれた役員会議で残った申請人両名及び宮後では、その営業マンとしての資質、能力に欠けるところがあり、これらの者では条鋼課を存続維持させていくことはできないとして、条鋼課を廃止する旨決定した。

ところで、申請人両名の営業マンとしての能力、資質の有無については、その売上げ額のみを比較すれば、他の課員のそれに劣っていることは認められるが、得意先の量、質、経験年数、販売活動をした時期における市況等を比較勘案すれば、栗田課長代理が秀れた営業マンであることは認められるものの、その他の課員よりもその資質、能力が劣っていると断定することは到底できず、ましてその資質、能力が全くないなどとは到底いえない。

6  このように、会社は昭和五二年八月一六日条鋼課の廃止を決定しておきながら、これを条鋼課員及び組合に発表することもせず、同日社長は、申請人峰平の父親と面談し、同人に対し、「息子さんは入社以来組合ができるまではよく仕事をしたが、組合ができてからは仕事をしなくなった。今の状態では見込みがない。この際身を引いてもらいたい。その際はできるだけのことはする。」等と申請人峰平を退職させることの説得方を依頼し、これに対する同月一九、二〇日の両日に亘る組合の抗議にも申請人峰平の将来を思っての親心からしたことで批判されることはないとの態度をとり、同月二二日には再度申請人峰平の父親を訪ね、右同様退職説得方を依頼したが、いずれも効を奏さなかった。

7  会社は、同月二七日開催の団交の席で初めて「条鋼課を廃止する、残務整理を宮後にさせる。申請人両名は退社されたい。円満退社に応じられなければ解雇の途しかない。」と述べた。組合はその後条鋼課員三名の処遇につき団交を申入れていたが、会社からは何らの返答もなく同年九月三日になったが、同日社長は組合役員に対し「地連に盲従している組合の路線は会社とは相入れない。」等と組合を誹謗、中傷した。

8  組合は会社に対し、同年九月五日右申請人両名に対する退職勧奨、組合誹謗に対し抗議するとともに、同月一八日大阪府地方労働委員会に対し不当労働行為救済命令を申立てたが、右申立後においても、社長は申請人峰平の父親に対し数回に亘り退職説得方を依頼した。

9  会社は、その間申請人両名及び宮後に対し何らの業務指示を与えず放置していたので、組合は同年一〇月二七日右三名を他の営業課に配転さすよう文書で申入れたが、会社は何ら返答をしなかった。

10  昭和五二年一一月一一日組合と会社とは昭和五二年度年末一時金につき団交を行ったが、その席上会社は「仕事をしない人がいるから連帯責任として一時金は出せない。」と暗に仕事をしない人として申請人両名を指す発言をし、申請人峰平については、同人が条鋼課に配属された際に指示されたシートパイル、鋼管杭の販売という特命事項は今でも生きている旨発言したが、こういいながらもその後、申請人両名に対しては退職を勧奨し、組合に対しては右退職を黙認するよう要求してきた。しかしながら、組合が同年一二月九日右要求に応ぜられない旨回答したところ、会社は次回団交で最終結論をだすが、解雇もありうる旨回答した。

11  組合は、会社のかかる態度から申請人両名に対する解雇の蓋然性は高いとみて、同年一二月一二日前記地労委に対し、申請人両名の地位保全のため実行確保の申立をしたところ、翌一三日組合及び会社に対し公益委員による事情聴取がなされ、会社は公益委員の申請人両名の解雇については慎重に取扱うようにとの意見を入れ、一応申請人両名に対する解雇を断念したが、会社の申請人両名に対する処遇としては、なお配転ということではなく、あくまでも任意退職に応じさせるというものであった。

12  同年一二月二〇日開かれた団交において、会社は組合から従前要求されていた前記配転要求に対し、これに応じられないと回答したが、この際、組合は会社から現業職への配転を拒否する理由につき釈明を求められた。

13  同年一二月二六日社長は再度峰平の父親を訪ね、同人に対し前同様の退職の説得方を依頼した。

14  翌二七日午後四時頃会社は組合三役に対し、申請人両名の処遇につき「申請人峰平については課長代理の職を降りてもらう。申請人両名とも鶴浜鉄鋼センターへ配転する、仕事の具体的な内容は大木常務の指示に従え。」と述べ、右見解をめぐる約三〇分間に亘るやりとりの後、申請人両名に対し「峰平君については課長代理の職を降りてもらう、今後は鶴浜鉄鋼センターで仕事をしていただく、その具体的な職務内容は大木常務がみてくれる。」旨、申請人峰平に対しては降格並びに本件配転命令を、申請人平井に対しては本件配転命令をなした。そしてその理由として、組合から要求されていた配転についてはいずれも配転先の職場に余力があって無理である。申請人両名がもっている能力を再度発揮できる場所として鶴浜鉄鋼センターは適所であるから、将来同センターの管理職としての途を歩んでもらいたい旨を述べ、即座に諾否の返答を求めたが、申請人峰平の抗議により右返答を翌二八日の始業時前まで延期した。

15  翌二八日午前九時前頃申請人両名及び組合は会社に対し、本件配転命令に応ぜられない旨を回答すると、会社は、一度は再考して本件配転命令に応じるよう意留(ママ)したが、申請人両名及び組合が右意留を拒否するや、申請人両名に対し昭和五三年一月四日からは出社しなくてもよい旨の解雇の意思表示をした。

三  会社における労使関係

当事者間に争いのない事実及び疎明資料によれば、一応次の事実が認められる。

1  会社においては、従来から賃金、勤務時間、休暇等の労働条件が劣悪であったことや、無免許者によるクレーン運転、積載重量制限に違反したクレーン操作等労働安全衛生規則違反が行われ、そのうえいわゆる強制貯金を実施したり、本社においては食堂、更衣室、休憩室等の厚生設備が不備であったため、かねがね従業員間に不満があったところ、前記のとおりの同族会社的性格、社長のワンマン的性格による会社の体質からすれば、かかる劣悪な労働条件等を改善するには労働組合を結成する以外に方法はないと決心し、昭和四九年五月一七日九九名の従業員をもって労働組合を結成し、総評全国一般大阪地方連合会に所属して、前記のとおり同連合会近江産業労働組合と称した。

2  組合は、昭和四九年五月一七日会社に対し組合結成通知をなすと同時に賃金、勤務時間、休暇等の労働条件の改善、強制貯金の廃止、組合事務所の設置、組合員の解雇、配転等についての事前協議等九項目につき要求し、直ちに交渉に入り、その後も三日ないし四日に一回の割で交渉を重ねたところ、昭和四九年六月一日の団交において、賃上げ、組合事務所の設置、集会場の利用等を除き、労働時間については、平日は午前九時から午後五時まで、土曜日は午前九時から午後三時まで、但し第三土曜日は一斎休日とする、年次有給休暇、生理休暇についてはこれを認める。強制貯金についてはこれを廃止する等労働基準法に関する事項についての妥結をみ、同月一九日その旨の協定書が取り交わされたが、事前協議については、組合がいわゆる同意約款の定立まで望んだため、組合の執行委員及び三役の解雇、配転についてはこれを組合に事前に通知し、その余の組合員については当該組合員から異議のあった場合にそれぞれ組合と協議する旨確認するにとどまった。更にその後も団交を重ねた結果、賃金については昭和五二年七月一二日初任給を引き上げること及び賃上げを一律二万〇、〇〇〇円プラス年令加算額とすることで妥結し協定書を取り交わした。

3  このような組合の活発な活動に対し、会社は表面上話し合う姿勢をとっていたが、昭和四九年六月一七日社長は当時の組合副委員長川崎及び組合員大森に対し、「組合のできた会社なんか来るのはいやだ、お前らの顔なんかみたくない。お前らの机の位置をかえろ。」等と暴言を吐くなど、組合嫌悪の感情を示したことがあった。

4  組合が引続き前記未解決の要求事項につき会社と交渉に入ろうとしていた矢先の昭和四九年七月六日、会社の幹部会議の席上、社長は組合結成当時から組合加入の意思を有していた浜野鋼板部薄板課長に対し、組合のスパイである旨発言したので、これに対し、同課長がそう言われるのであれば組合に加入する旨述べたところ、社長は直ちに浜野を課長から降格させる旨申し渡し、同年七月二六日には厚板課と薄板課とを統合して鋼板課とし、浜野を鋼板課の一員としたが、組合が会社の右一連の措置を労働組合法七条一号、三号に該当するとして、大阪府地方労働委員会に対し昭和五〇年(不)第五号事件をもって、救済申立をなしたところ、同委員会は昭和五〇年一二月二五日組合の主張を全面的に認めて、会社に対し浜野を原職相当職に復帰させること、それまでの課長手当相当額の支払いを命ずる命令を発した。

5  組合は昭和四九年七月一三日会社に対し、昭和四九年夏期一時金につき現行の基本給プラス勤務手当の六・二か月プラス年令加算額の一時金を要求し、以降週一回の割で交渉を行ってきたが、同四九年九月一九日になってようやく昭和四九年の一時金総額を一人平均一〇八万〇、〇〇〇円とすることで合意に達し、同年一〇月二一日付で協定書を取り交わした。

6  会社は同四九年九月十号倉庫及び南港工場の建設に着工したが、その具体的計画や利用方法については、組合の要求に拘らず何一つ回答しなかった。

また組合員に対しても個別的に脱退工作を行い、同年八月末頃夜間大学に通学していた組合員の父親に対し、「同組合員は組合結成後組合活動を熱心に行っていて大学へ行かなくなった。会社としては責任がもてないから、父親からいって会社を退めさせて欲しい。」と退社を強要した。

7  会社は昭和五〇年一月二六日かねて縁故入社させて夜間高校に進学させていた天理教信者の子弟五名に対し、組合加入を理由に親を通じ組合脱退、退職強要を行い、同年三月特別退職金として各一〇万円を支払い組合を脱退、退職させてしまった。

8  組合は昭和五〇年三月一一日会社に対し、春斗の賃上げ要求をしたが、一か月余も後である同年四月一八日一人平均一万三、五八〇円の回答をし、これ以上一銭の上積みもできないという姿勢をとり続け、懸案であった組合事務所の設置等の事項については、最早検討の余地がないと回答する有様であった。また同五〇年三月末に前記十号倉庫、南港工場が完成したが、これら施設の利用方法等についての組合の申入れに対しても何らの回答もせず、以後遊休施設として放置した。

9  このような会社の態度に、組合は腕章斗争を行うなどして抗議したが、却って会社は腕章の着用を禁止した。

10  会社は前記賃上げにつき、昭和五〇年五月の連休明けに至っても前記回答以上のものを出そうとはせず、また組合事務所の設置等についても何一つ前進しなかった。そこで組合としては、これ以上話し合いで解決することは困難であるとして、週に一回短時間の抗議ストライキ、抗議集会、デモ等具体的な行動を起した。その間の五月三〇日会社九条女子寮において現金盗難事件が発生したが、会社はこれを奇貨としてまたしても親を通じて退職勧奨をした。

11  会社は昭和五〇年七月一六日の団交において、ようやく前記賃上げについて一人平均二、〇二〇円の上積み回答をし、次回七月二三日の団交において右賃上げについて解決し、一時金についても七月中に解決することを双方で確認し合っていたところ、同年七月一九日会社は、昭和五〇年八月期の売上予想額が同四九年八月期のそれの約半分強に落ち込み財産を処分しなければ決算できない憂慮すべき事態に陥ったとして、突然本社を閉鎖し、これを当時の大阪市南区塩町通四丁目六番地から鶴浜鉄鋼センターに移転した。しかし右本社移転は、組合及び従業員に対し事前に一切通告もしないで同月一九日深夜から翌二〇日未明にかけて行われたもので、その必要性には多分に疑問があった。組合はこれに対し、当庁昭和五〇年(ヨ)第二、九二一号配転命令禁止仮処分申請事件をもって、本社から鶴浜鉄鋼センターへの配転の意思表示の効力停止を求めたところ、昭和五二年七月一八日当裁判所において、会社は和解成立後五年以内に本社を旧大阪市内であって、現行の大阪市北区、南区、東区、西区内の旧本社と立地条件が同一程度の都心部に移転し組合員らを新本社に就労させることを約する旨の和解が成立した。しかし右本社移転のため、この間に本社、岡山営業所、鶴浜鉄鋼センターの各組合員計一四名が組合を脱退するに至った。

12  会社は右本社移転に伴ない昭和五〇年七月一九日組合に対し、大阪市大正区鶴浜通三丁目一七番地(鶴浜鉄鋼センターの入口から約一〇〇メートル離れた場所)に組合事務所を設置したからこれを使用してもらってもよい旨通知してきたので、組合は昭和五一年四月頃これを使用しようとしたところ、会社は「組合事務所使用貸借協定書(案)」を提示し、右使用につき種々の条件をつけてきたが、中でも上部団体の出入禁止をいってきたのでこれに抗議するや、会社は右条件がのめなければこれを使用させないといってきた。

13  本社移転後同五〇年一一月一〇日、一三日、三〇日と三回に亘り社長と組合三役が懇談したが、社長は、その席上「全国一般は会社をつぶす、全国一般に指導されている組合も同じだ。こんな路線の組合とはたとえ会社がつぶれても対決する。しかし組合が路線を変更するのであれば将来の君達の生活はわしが保障する。」と述べ、更に同年一一月一九日に開かれた団交では、会社は人員整理を含む配転、就業規則の改正、争議行為の停止等の提案をなし、この提案を受けられなければ、会社の閉鎖もありうる旨を述べた。しかし会社は、昭和五一年の春斗までは右合理化案を何ら具体化しなかったが、組合が昭和五一年三月春斗要求を掲げて賃上げ交渉に入るや、会社は営業を強化するためとの理由で営業員を中心とした一五名の解雇を提案し、組合がこれを認めなければ賃上げの検討はしないという仕末で、組合が右提案を拒否するや、会社は同五一年五月一七日一方的に特別退職金を支給するといって希望退職者を募り、その結果組合員二名が組合を脱退、退職するに至った。そして会社は、右希望退職により岡山営業所は従業員が二名しかいなくなったとして、組合員四五名を岡山営業所へ配転するなどといいだした。このような労使関係が続いたため昭和五一年春斗の賃上げは結局同五一年一二月に同五一年末一時金と合わせて解決する仕末であった。

14  会社は、南港工場を昭和五一年八月に稼動させたが、これについては組合に何んの連絡もなく、「岡山営業所への転勤に組合が協力してくれなかったので、南港工場については組合の協力を求めない。」といい、組合員は一人も派遣せず、すべで新規採用者でまかなっている。

15  会社は昭和五二年六月本社にあった薄板部門を南港工場内に移転したが、薄板課員四名の中非組合員二名のみを南港工場へ配属して組合員二名を本社に残し、また同五二年八月貿易部を、当時の組合員を全員排除したうえ、独立させ、オーミインダストリーという別会社をつくり、更に昭和五三年一〇月には天満営業所を新設し、ここに営業担当の組合員のみ九名を配属した。

四  本件解雇の効力

上記認定にかかる本件解雇に至る経緯をみれば、まず条鋼課廃止の前提となる「抜本的対策」の検討という指示が、被申請人主張のように果して発せられていたのかに疑問があるが、仮に右指示が発せられていたとしても、申請人両名を条鋼課に残存させたうえでの「抜本的対策」なるものは考えられず、換言すれば、申請人両名が条鋼課に残留する限り条鋼課は廃止せざるをえないというものであった、とみられても仕方のないものであったということができ、また条鋼課廃止の原因の一つである栗田課長代理、大橋課長の退職についても、疎明資料によれば、いずれも退職後、栗田課長代理は幸田鋼業という社名で、少なくとも同人が担当していた会社の得意先をそのまま引き継ぎ「丸棒」の販売営業を行い、大橋課長も大照鉄鋼株式会社を設立し、会社の取引先を引き継ぎ昭和五二年一一月上旬より開業しているが、同年一一月五日に会社を退職した宮後を入社させ、条鋼課で担当させていたのと同じ営業を担当させていることが窺え、右事実によれば、右三名の各退職も会社の退職勧奨に基づくものであったとみれなくはなく、そうだとすれば条鋼課廃止については未だ合理性を認め難いといわざるをえない。従って、右廃止を前提とする本件配転命令もまた合理性を認め難く、右配転命令拒否を理由とする本件解雇も理由がなく認められないことになるが、仮に右条鋼課の廃止、本件配転命令に合理性が認められるとしても、上記認定にかかる会社における労使関係に現われた諸事実からすれば、会社の行った条鋼課廃止、本件配転命令、本件解雇という一連の行為は、申請人両名を会社から排除し、組合を脱退させ、組合の弱体化を企図したもので、労働組合法七条一号、三号に該当する不当労働行為ということができる。従って、申請人らのその余の主張につき判断するまでもなく、申請人両名に対する本件配転命令(申請人峰平については降格についても)及び本件解雇は無効である。

そうすると、申請人両名は依然として会社の従業員たる地位を保有し、会社に対し賃金請求権を有するというべきである。

五  賃金

当事者間に争いのない事実及び疎明資料によれば、次の事実が一応認められる。

1  申請人両名は、いずれも昭和五三年一月以降賃金等の支払を受けていないところ、本件解雇当時毎月二六日に別紙賃金表(一)記載の各賃金を支給されていた。なお右賃金のうちの精勤手当は第一基本給の四〇パーセントとの定めによるものである。

2  会社と組合との間で、昭和五三年八月三日昭和五三年夏期一時金につき、同年一二月一四日同年末一時金につき、また昭和五四年五月二八日昭和五三年四月以降の賃上げにつきそれぞれ次のとおり妥結し、協定書が取り交わされた。

(一) 昭和五三年夏期一時金

支給額は各人の昭和五二年度の第一基本給×平均一・五五か月とし、査定を一・九一か月、一・七三か月、一・五五か月、一・三七か月、一・一九か月の五ランクとする。

(二) 昭和五三年末一時金

支給額は支給対象期間中に在籍した従業員に対し「昭和五二年度賃金+昭和五三年度賃上額」の各人の第一基本給×平均一・七か月とし、査定は二・一か月、一・九か月、一・五か月、一・三か月の四ランクとする。

(三) 昭和五三年四月以降の賃上げ

昭和五二年三月末日の各人の第一基本給×平均四・三パーセント(但し、一〇〇円未満切捨て)とし、査定は五・三パーセント、四・四パーセント、三・八パーセント、三・二パーセントとする。配分は一律二パーセントを第一基本給に、残りを第二基本給に加算する。

3  ところで右各査定は各人の出勤成績、業務成績、能力伸長の総合判定によりなされるものであるが、申請人両名に対する昭和五〇年末一時金以降同五二年末一時金までの各一時金及び昇給についての査定実績は概ね最下位のランクかせいぜい最下位から二番目のランクに査定されており、前記認定のとおり会社の組合嫌悪の態度からすれば、右査定が果して適切であったか否かにつき疑問なしといえないが、右査定実績及び会社の体質からすれば、会社は、申請人両名に対する昭和五三年の各一時金及び昭和五三年四月以降の賃上げについての各査定については最低ランクの査定をしたであろうと推測できるから、右各一時金及び賃上げ額の算出については、査定基準の最低ランクに基づき算出せざるをえない。

よって、右各事実を前提に申請人両名の昭和五三年四月以降の賃金及び同五三年の各一時金をそれぞれ算出すると、別紙賃金表(二)及び同一時金計算表記載のとおりとなる。

六  保全の必要性

申請人両名は、会社から支給される賃金以外に生計を維持する手段をもたない労働者であり、他に資産のないことは、これを窺うに難くないから、本案判決の確定を待っていては回復し難い損害を蒙むるおそれがある。

七  むすび

以上によれば、本件仮処分申請は、主文第1、2項の限度で理由があるから、これを右限度で認容し、その余は理由がないから、これを却下することとし、申請費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 最上侃二)

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