大阪地方裁判所 昭和54年(ヨ)1965号 判決 1981年5月08日
申請人
林田時夫
外八名
右申請人九名代理人
小林保夫
外五名
被申請人
株式会社名村造船所
右代表者
小野塚一郎
右被申請人代理人
山田忠史
外二名
主文
一 申請人らが被申請人の従業員たる地位を有することを仮に定める。
二 被申請人は、申請人らに対し、それぞれ昭和五四年四月一六日以降本案事件の第一審判決言渡に至るまで、毎月二五日限り、別紙(一)賃金目録記載の金員を仮に支払え。
三 申請人らのその余の仮処分申請を却下する。
四 申請費用は被申請人の負担とする。
事実《省略》
理由
一請求原因1、2の事実(当事者および解雇の意思表示)は、当事者間に争いがない。
二本件指名解雇は、会社がその経営の苦況を克服するため人員整理の必要なことを理由とし、いわゆる整理解雇として実施されたものであることは当事者の主張自体から明らかである。しかして、整理解雇が労働者側にとつて企業から放逐されるにつき何ら責むべき事情がないにもかかわらず、使用者側の経営の苦況克服という一方的事情により、生活の糧を得る唯一の手段とも言うべき従業員としての地位を失なわせるものであることに鑑みれば、整理解雇が有効とされるためには、次の要件を必要とすると解すべきである。すなわち、先ず第一に企業が客観的にみて厳しい経営危機に陥り、解雇回避のため相当の手段を講じたにもかかわらずなおかつ解雇による人員削減が必要やむをえなかつたと認められること、第二に被解雇者の選定基準が合理的であつて、その具体的な運用も客観的かつ公平に行われたこと、第三に解雇に至る過程において従業員またはその組織する労働組合と十分協議を尽くしたことの各要件を充足することを要し、右要件を欠く場合には、その整理解雇は信義則に違背し、ないしは解雇権濫用として無効のものと解すべきである。
三そこで、本件につき考えるに、先ず第一の要件である本件指名解雇の必要性の存否について以下検討を加える。
1 会社が、事実欄「被申請人の主張」2において主張する「人員整理の必要性」は疎明によりすべてこれを一応認めることができる。すなわち、「被申請人の主張」2(一)の事実は、<証拠>を総合すると次の事実を一応認めることができる。
(一) 本件雇傭調整(「減員方法に関する協定」の実施)前の経緯は次のとおりである。
(1) 定期採用の中止
会社は、昭和五一年四月以降学卒者の定期採用を中止した。
(2) 生産構造改善計画
会社は、経営危機打開策の第一歩として、昭和五二年一一月生産構造改善計画を発表した。その大略は、①大阪工場での新造船を廃し、伊万里工場に集約すること、②昭和五三年度、同五四年度の操業度(直接現業職が生産のため消費する実労働時間数をいう)の予定を次のとおりとする。
③昭和五二年一一月二九日現在で二三二九名の人員をかかえる職制機構を縮小し、その結果生じる本社一二四名、大阪工場五〇四名、計六二八名の剰員のうち、改組後の大阪工場鉄構部門に一四八名、修繕部門に一〇八名、さらに伊万里工場へ一九一名配転するが、なお吸収しきれない一八一名については他会社への出向、一時帰休または希望退職を実施すること、④大阪にある不動産を売却すること、というものである。また同年一一月より整員課を設け、出向先会社の開拓に努めた。
(3) 下請契約の解除
会社は、昭和五二年一二月より同五三年二月にかけて、大阪工場新造船部門における下請会社との契約を解除し、同年一月には臨時従業員の雇止めを実施した。
(4) 伊万里配転
前記構造改善計画に基づき伊万里配転を行ない、一〇六名が転勤した。
(5) 希望退職の実施
しかしながら、前記構造改善計画において会社が予想したよりもはるかに低い操業度しか維持しえない見通しとなり、鉄構、修繕部門及び伊万里工場へ吸収できる人員が減じ、それに加えて出向先として予定していたダイハツ工業株式会社が人員の受入れを拒むに至つた。そのため会社は、昭和五三年一月ころ、右計画の要員計画を修正する必要に迫られ、その結果四三八名(本社、大阪工場三三二名、伊万里工場一〇六名)が余剰人員となることが判明し、希望退職の実施を計画した。希望退職募集は、同年二月六日、組合との間に合意に達し、同月一三日から二三日までの間、全従業員を対象に、募集人員を三九〇名(本社、大阪工場二九七名、伊万里工場九三名)として行なわれた。そして応募者は募集人員を大きく上回る八三七名に達した。
(6) 新経営改革計画
会社は、昭和五三年五月ころ経営改革計画を策定したが、その計画を実施に移す暇なく、同年八月新経営改革計画を策定公表した。右計画の骨子は次のとおりである。
① 基本方針
(a) 昭和五四年度採算 営業損失二〇億円未満とすること、
(b) 特定不況産業安定臨時措置法に基づく大阪工場新造船地区の売却と修繕船部門の分社経営、
(c) 運輸省操業規則により、操業度を昭和五一年(ピーク時)の五〇%以下とする。すなわち、昭和五四年度操業時間を新造船部門一三五万時間、鉄構部門三〇万時間、計一六五万時間とし、売上額一五四億円を目途とした経営体質とする。
② 基本施策
(a) 年間所定労働時間を現行の二〇二五時間から二二四〇時間にする。
(b) 部門費の縮減
(イ) 間接員(事技職、間接員)を、直接工化、出向、帰休、自然減等により現状の約半分とする。
(ロ) その他の部門費の縮減
(ハ) 遊休資産の売却
(c) 材料費を昭和五三年度実績より一三%以上低減する。
(d) 経費節減
(e) 伊万里工場における海洋陸機部門の体制強化と受注拡大をはかり、船舶と海洋陸機の事業の比を五〇対五〇にする。
③ 勤労関係のアクションプラン
(a) 定時操業体制
代休制度、フレックスタイム制度など
(b) 体操、ミーティングの時間外実施
(c) 年間所定労働時間を二〇二五時間から二二四〇時間にする。
(d) 間接員の現場直接作業従事
(e) 一時帰休条件の見直し
(f) 事技職員の給与規定の基準を現業職にあわせる。
(g) 給与計算期間変更
(h) 従業員慰安大会の三年間休止
(7) 日本コンクリート出向
会社は、昭和五三年八月二五日、組合に対して日本コンクリートへの出向を前記新経営改革計画と一括して提案し、同年九月八日組合の同意を得た。その内容は次のとおりである。
① 勤務場所 茨城県下館市所在日本コンクリート川島工場
② 出向人員 男子一〇〇名(第一陣六〇名は伊万里工場から、第二陣四〇名は本社、大阪工場及び伊万里工場から人選する。)
③ 出向期間 六〇名(昭和五三年一〇月二二日から一年間)
四〇名(昭和五四年一月八日から一年間)
④ 仕事内容 コンクリート電柱、コンクリートパイルの製造工程
この結果、本社、大阪工場から一六名、伊万里工場から七五名、計九一名が出向した。
(8) 日本コンクリート以外の出向
会社は次の出向先を確保し、労働組合との間に協定を締結した。
① 住特電子材料株式会社(昭和五三年一一月一五日合意)
佐賀県杵島郡大町町大字福母二八二
伊万里工場から男子二五名
② 石田コピーセンター株式会社(同日合意)
佐賀県伊万里市塩屋五番地の一
伊万里工場から女子二名
③ 平野金属株式会社奈良工場(昭和五四年一月二〇日合意)
奈良県北葛城郡河合町川合一〇一−一本社、大阪工場から男子一〇名以内
④ 古河金属株式会社大阪伸鋼所(同日合意)
尼崎市道意町七丁目六番地
本社、大阪工場から男子一〇名以内
⑤ 株式会社メックス(同年二月一四日合意)
大阪市住之江区柴谷一丁目二番三二号男子一五名程度、但し設計ができる者
⑥ 株式会社協電カットコア製作所(同月五日合意)
伊万里市黒川町真手野
伊万里工場から男子六名
⑦ 日窒工業株式会社松浦工場(同年三月一五日合意)
長崎県松浦市志佐町浦免三七−一
伊万里工場から三八名
会社は、右各出向先について従業員に出向を勧奨し、約八〇名の従業員がこれに応じて出向した。なお本社、大阪工場関係の出向先である平野金属について、五名くらいの従業員に打診した結果三名が出向し、同じく古河金属については一五名くらいに打診した結果五名が出向した。メックスについても本社において三名に打診したが拒まれ、結局伊万里工場から一名のみが出向した。
(9) 定時操業体制、フレックスタイム制度の実施
(10) 多能化推進
直間比率(直接員と間接員との比率)の不均衡を是正するため、多能化推進のための協定を締結し、間接員を現業直接作業に従事させるよう努めた。
(11) その他社外的緊急措置として
① 設備資金返済猶予(昭和五二年〜五三年) 一、九三一百万円
② 設備延払支払猶予(同) 三億五八〇〇万円
③ 輸出前貸金返済猶予(同) 七八億五六〇〇万円
④ 不足運転資金緊急借入
(昭和五二年度)七四億五四〇〇万円
(昭和五三年度)五六億六六〇〇万円
(二) 会社は、昭和五四年一月二六日、前記のような各種の不況対策の策定実施にかかわらず、さらに業績が悪化したことを理由に、一〇四名の剰員調整を必要とする旨の要員計画(別紙(五)参照)を発表した。右要員計画は、昭和五四年度の年間操業時間を新造船一三九万時間鉄構三二万時間修繕四八万時間、計二一九万時間とし、この操業度に必要な人員数を求めて計画人員としたものである。右剰員調整の経緯は次のとおりである。
(1) 会社は、同日右要員計画に基づく剰員調整の方法について組合に提案し、数次の交渉を経て組合の了承を得、同年二月二六日「減員方法に関する協定」を締結した。その骨子は別紙(三)のとおりである。尚転進退職の場合通常の自己都合退職の場合の五〜六倍の退職手当が支払われる。
(2) 会社は、右協定に基づいて転進援助制度を実施することとしたが、昭和五三年二月の希望退職時と異なり、職制からの説明等積極的に募集をすすめることはしなかつた。
(3) 会社は、減員協定別紙(三)一2(1)、(2)のとおり転進対象者の基準(以下「転進基準」という)を設けた。しかし右(三)一2前文に記載があるように、本件転進制度は、右(1)、(2)の基準に該当しさえすれば直ちに転進援助をするという趣旨のものではなかつた。すなわち、会社は転進基準第(1)項「男子事務技術職員及び間接業務に従事している者」に該当する者を、さらに会社にとつて必要な人員と不要な人員に分類し、後者のグループと転進基準第(2)項該当者(指名退職基準該当者)の中からの転進申出のみを認めることとしていた。その結果会社は、会社に見切りをつけ転進を申出た従業員に対し、その者が転進基準第(1)項に該当しているにもかかわらず、極力慰留に努め、翻意しない場合は「転進退職」として認めず、自己都合退職として取扱つている。
(4) 転進援助募集は、昭和五四年三月一日から一〇日間実施された。特に転進勧奨をする前に、二三名の自発的な転進応募者(そのうち一一名が指名退職基準該当者)があらわれ、同月六日現在において会社が転進勧奨すべき者は、指名退職基準に該当する申請人ら九名のみとなつた。このため会社は同日申請人ら九名に対し文書で転進を勧奨したが、申請人らはいずれもこれに応じなかつた。そこで会社は募集期間を延長し、同月一二日ころ再度勧奨したが、申請人らはいずれもこれにも応じなかつた。
(5) ところで会社は、一〇四名の余剰人員の解消のため一方では出向勧奨に努め、同月一五日までの間に一二名(指名退職基準該当者一名を含む)が出向を承諾した。また同じ期間に、五一名の自己都合退職による自然減がみられ、前記転進応募者二三名とあわせ、同日現在八六名の剰員が解消されたが、なお一八名の余剰枠が残存した。ここにおいて会社は、申請人ら九名に対し、別表(四)のとおり、指名退職基準に該当することを理由として、同日指名解雇する旨意思表示した。
(三) 指名解雇後の状況
(1) 昭和五四年度は造船業界も不況から脱出し始め、昭和五四年度の船舶建造許可実績は、国内船、輸出船を合わせ、三九一隻八九四万総トン、契約金額一兆三一六七億円となつた。これは造船不況の底である五三年度の総トンヘースで2.78倍という著しい伸びであり、水準としては四九、五〇年度の中間いわゆるオイルショック直前の好況期の水準に戻つたことを示している。
(2) 会社は、昭和五四年五月、同年四月一日現在一〇七、一名(出向中の者を除く)の人員を同年一〇月一日に二〇二七名(出向中の者を除く)とする要員計画を含む再建計画を立案し、組合の同意を得て実施した。その一環として同年八月から一二月までの間第二次転進援助取扱いを施行したが、その骨子は次のとおりである。
①(目的) 再建計画に基づき修繕部門分社、陸機部門集約並びに機構縮小を円滑に推進し、当面の操業度に見合つた要員計画確立のため
②(対象者) 次の各号のいずれかに該当し、この取扱いによつて退職を申し出た者
(イ) 会社が内示した転勤(修繕新会社への転籍は除く)に応じられない理由があり会社から止むを得ないと認められた者
(ロ) 本社、大阪工場から出向中の者で会社が本人の退職をやむを得ないと認め、かつ出向先の了承を得られた者
(ハ) この際、当社を退職して当社以外へ転進してはどうかと会社から勧奨を受けた者
右の第二次転進援助により八〇名(大阪関係七七名)が退職した。
(3) 昭和五四年一〇月、最も安定している(操業度は毎年一二〇%をこえる)修繕船部門は分社され名村重機船渠株式会社として発足した。従来の修繕部門の従業員は原則として右会社に移籍した。
(4) 業界全体が景気回復するに伴ない、会社も徐々に経営危機を脱しつつある。昭和五四年度の経営実態は、収益面においてみると既往の低船価受注船が売上に計上されたため、三六億四二〇〇万円の経常損失となつた。しかし大阪工場の売却利益等でこれをカバーし、当期利益九億六八〇〇万円を計上した。特に受注は活発で新造船一四隻五八六億八五〇〇万円、修繕船九億三〇〇〇万円、鉄構その他一一億三九〇〇万円、計六〇七億五四〇〇万円となり、前記比の三四四%の増加となつた。
(5) 右の業績復調により、会社は新規採用を再開し、同年九月以降五月雨式に約四〇名を採用し、昭和五五年一二月末現在の会社人員は、本社約四〇名、大阪における海洋陸機一五名、伊万里工場約八九七名、計九五二名程度である。さらに同年四月には二〇名の高卒者を採用する予定であつたが、それでも一二〇名程度の直接工が不足する見通しであつた。なおその他に名村重機に移籍した人員が一〇八名存在する。そして同年九月末現在の会社の従業員数は九九一名になつた。なお、伊万里工場における下請工は、同年一月ころ、約一三〇名であつたが、同年四月ころにはおよそ二三〇名に増加した。また、昭和五四年六月定時操業体制による残業規制を緩和し、全社的に一カ月六〇時間の残業を認めるに至つた。
3 結論
整理解雇の必要性があると認められるためには企業が客観的にみて厳しい経営危機に陥りそれまでに解雇回避の手段が十分採られたにもかかわらず、解雇の時点においてなお人員が余剰となり、その余剰人員を解雇することが企業の存続上必要やむをえないという事情の存することが必要であると解せられる。
(一) 前記1認定のとおり、会社は昭和四八年以降経営危機に陥つて人員消滅を含む抜本的な経営合理化の必要に迫られることになり、現に前記2(一)で一応認定したとおり、相当程度の経営改善の努力を尽くし、かつ昭和五三年二月以来希望退職、出向等余剰労働力解消の手段を講じ、その結果、昭和五二年一二月二九日現在二三二九名の人員数が前記要員計画(別紙(五))策定当時の同五四年一月一五日には一一八二名(その他に出向者一一四名)に減じたことが認められる。
(二) そこで右以上になお一〇四名の人員削減さらに引き続いての本件整理解雇の必要性があつたか否かについて検討するに、会社は、昭和五四年度の年間操業時間を二一九万時間(新造船一三九万時間、鉄構(陸機)三二万時間、修繕四八万時間)と見込み、その操業度に必要な直接工の人員を割出して前記要員計画を立案したと主張しているが、右人員を割出すに至る具体的な過程、及び直接工以外の要員計画の根拠については一切明らかにされていないこと、右要員計画に先立つ新経営改革計画においては、新造船と鉄構の操業時間を右要員計画より少ない新造船一三五万時間、鉄構(陸機)三〇万時間と見込みながら、特に解雇を含む人員計画を立案していないこと、転進募集に関しては会社側は概して消極的であり、積極的に転進勧奨をしたのは結局のところ申請人ら九名のみであること、会社は、一部の転進申出者に対し慰留に努めていること(もつとも右転進申出者は会社にとつてどうしても必要な人材であつたとの証言もあるが、具体的立証はなく、また必要な人材うんぬんを持ち出すのであれば直接工にも枠を広げること自体矛盾するように思われる。)指名解雇後の会社経営状態の好転、とりわけ受注が激増したこと、その結果昭和五四年九月以降同五五年九月末までに少なくとも八〇名の人員を採用し、同日現在九九一名の従業員をかかえ、分社した名村重機を含めると解雇前のレベルまで復調していること、しかも同年一月ころ約一三〇名であつた下請工を同年四月ころには二三〇名程度まで増員していること、残業規制が緩和され残業が増加していること、再建計画にともなう第二次転進の目的は剰員削減というむしろ陸機部門の伊万里工場集約化に伴う伊万里配転に応じられない者に対する退職援助という色彩が強く、いわば配転の次元の問題であつて指名退職扱いを前提としたものではないこと等の事情を総合すると、一〇四名の人員削減の必要性についてはなお払拭しがたい疑問が残るといわざるをえない。
さらに考察をすすめるにそもそも人員削減が必要になつたとしても、会社としては前述したように直ちに解雇の手段をとるべきではなく、まず希望退職、出向等解雇を回避するための方策を講ずるべきであり、このことは解雇以外の方途を採用しても減員出来る見込みがないなど特段の事情のないかぎり、それ以前において相当の解雇回避策がとられていたとしても変るところがないと考えられる。これを本件についてみると、前記認定のように、会社は一〇四名の余剰労働力を吸収するため、一方では出向を進めつつも、基本的には転進制度を設け、これにより減員を全うする計画であつたが、この制度は本質的には希望退職ではなく、会社にとつて余剰人員と判断されるグループ(その基準は特になく職制の判断であるとする)の中から退職させようとする制度であつて、制度自体その合理性に疑問があるうえ、本件解雇までに五一名、解雇後二週間のうちに一五名もの自己都合退職者が出ていること、慰留に応じて退職を思いとどまつた者が少なくとも一、二名はあつたこと(この事実は証人盛山昭雄の証言により認められる。)等の事情に照らせば指名解雇という最終手段に訴えるまでもなく減員することが可能であつたと考えられるのであつて、これらの事情に鑑みると、会社に十分な解雇回避努力があつたと言えるか否かこの点でも疑問があると言わざるを得ない。
四整理解雇基準の合理性について
本件解雇の人選基準が別表(1)の二1(イ)項ないし(ト)項であること、申請人ら九名がそれぞれ別表(2)のとおり指名解雇基準に該当することを理由として解雇されたことは前記三2(二)において一応認定した通りである。そこで、以下申請人らの指名解雇基準該当事項についてそれぞれ検討を加える。
1 (イ)項について
出向は本来使用者に対して給付すべき労働力を第三者の指揮命令下におくことを内容とし、しかも出向により労働者は職種、職務内容、就労場所の変更を余儀なくされるなど実質的不利益を受けることが通常であるから、原則として労働者の同意が必要であると解される。しかしながら企業が客観的に厳しい経営危機に陥り、その克服のため人員削減がやむをえないと認められるような状況において整理解雇回避のため、やむなく労働者に対し出向を要請する場合であつて、出向者の選定も合理性があり、労働者側とも十分協議を経ていて、しかも出向を拒否しなければならない特段の事情が存しないときには、出向につき同意を与えないことが同意権の濫用と評価される余地があると考えられる。けだし、企業が経営危機克服策を講ずる際において、これに協力しないことは一種の信頼関係を破壊するものであり、また解雇防止のため企業に出向の努力を要求しながら労働者においてこれに一切協力しないことを認めるのは公平を欠くといわなければならないからである。そして同意権の濫用にわたる場合には、出向拒否者を整理解雇の対象とする基準を設け指名解雇することは社会通念上相当であり許容されなければならない。そのことは出向要請が単なる打診の形をとつていたとしても変わるところはないと解せられる。
2 (ヘ)項について
整理解雇が人員を削減することによつて経営危機を打開することを目的としていることに鑑みれば、会社に対する貢献度の低い者を排除する基準を設けること自体は合理性があるといわなければならない。そして欠勤日数を整理解雇の基準とすることは、客観的な欠勤日数に着目して会社に対する貢献度を判断しようというもので具体的な判断に当つては個々人の事情も十分斟酌すべきであるが、一般的基準としては社会通念上合理的であると考えられる。
3 (ト)項について
前項と同様の理由から過去の懲戒処分歴を、従業員の会社への貢献度、勤労意欲、職場秩序維持への協力度の重要な徴表として把え、処分歴を有する者を排除しようとすることは合理性を有し、社会通念上相当と認められる。もちろんこの場合においても、具体的な判断においては当該処分の内容や合理性について十分な検討を要することは言うまでもない。
五指名解雇基準運用の合理性
1 申請人らの指名解雇基準該当性
(一) (イ)項該当について
申請人古川を除くその余の申請人が、会社から日本コンクリート及び古河金属に対する出向の要請を受けたが、これを拒んだことは、前記2(三)(出向の経緯)において認定したとおりである。
(二) (ヘ)内項該当について
<証拠>によれば、申請人林田、同山脇、同古川、同追杉の指名解雇基準(ヘ)項所定の期間における欠勤日数は、有給休暇を消化したうえで次のとおりであり、同人らはいずれも右基準に該当する。
50.10.16
~51.10.15
51.10.16
~52.10.15
52.10.16
~53.10.15
林田
二七日
一六日
二八日
山脇
一九日
一一日
七日
古川
一〇日
一〇日
三四日
追杉
一七日
一二日
二四日
(三) (ト)項該当について
<証拠>によれば、申請人林田は、昭和五〇年一〇月一五日から同年一一月一日まで欠勤したが、真に出勤出来ない病状であるか疑わしいこと及び当初に簡単な電話連絡をしたのみで同日まで診断書の提出もなくまた何らの届出もしなかつたことを理由として、同月八日譴責処分を受けていること、申請人追杉は昭和五二年五月二五日昼休みに私用外出したまま帰社せず、午後四時すぎにようやく帰社出来ぬ旨連絡したのみであつたことを理由として同年六月二五日譴責処分を受けていること、申請人阿部は、昭和五三年四月一〇日昼食後就業時間中である午后二時二五分ころまで睡眠し続けていたことを理由として同月二〇日譴責処分を受けていること、申請人馬野は住所移転を届出ず昭和五〇年五月から昭和五一年七月三一日まで不正に会社支給定期券を受領していたことを理由に同年八月七日出勤停止五日間の処分を受けていることが一応認められ、右認定に反する<証拠>は採用できないから、右申請人らは指名解雇基準(ト)項に該当する。
2 以上のように本件指名解雇基準(イ)、(ヘ)、(ト)の各項は基準としての合理性を持ち得ると解せられ、しかも申請人らは右各項のいずれかに該当している。しかしながら、整理解雇が認められるためには被解雇者が合理的な基準に基づいて選定されたことだけでは足らず、さらにその基準が公平かつ客観的に運用されていなければならない。しかも基準の運用に際して、運用者である企業が基準以外の要素とりわけ被解雇者の労働組合での活動歴、思想信条を考慮したものでないことが要求されると解される。そして企業が基準以外の要素を考慮することによつて被解雇者を選定したと認められる場合は、たとえ基準自体に合理性があり、被解雇者がその基準に該当していたとしても、基準の運用が合理的であるとは認められず、結局当該整理解雇はその効力を否定されると解さざるを得ない。
3 会社の申請人らに対する排除意図
(一) 申請人らの組合活動及び会社の対応
<証拠>を総合すると次の事実を一応認めることができる。
(1) 昭和四五年に統一されるまでの間、会社の従業員で組織する労働組合は同じ同盟系造船総連傘下でありながら、現業職で組織する労働組合と事技職で組織する職員組合に分かれ組合運動もさして活発ではなかつた。申請人林田は昭和四二年に、同盛本は昭和四三年に入社し、職員組合青年婦人部の中心となつて活動し、両組合の合同機関紙の発行、合同キャンプや文化祭の実行などを積極的に推進し、その成果をあげていた。申請人渡具知、同馬野、同川上、同古川、同山脇も右活動に積極的に参加していた。また昭和四四年に導入された一時金等級系数制度に反対し、一定の成果をあげた。
(2) こうしたなか昭和四五年春闘において執行部の妥結提案が両組合の拡大闘争委員会で否決され、翌日再提案されて妥結するという事態が生じた。そして、昭和四五年の両組合の統一がなつた直後の四六年春闘においては、執行部提案が拡大闘争委員会で二度にわたつて否決され、最終的には組合員一律三〇〇〇円の解決一時金を獲得するという事態が現出した。申請人林田、同盛本らはこれら各春闘に際し、妥結に反対の立場から積極的に発言した。これに対して申請人林田の上司武川財務部次長は、申請人林田を再三呼出し「一生懸命やつても結局他人の給料をあげて自分は損をするのだから、もつと自分中心に考えるように。」「平沢常務(当時)が『林田は思想的におかしい。アカではないか。林田の家はアカの商工団体に入つている。ちやんと調べてある。何とかやめさせることはできないか?』とまで言つている。」などと説得した。
(3) 昭和四六年七月一日、申請人林田は子会社名和産業株式会社への出向を、また同盛本は神戸事務所への配転をそれぞれ命せられた。同人らは、会社が組合統一以後急速に高揚しつつある労働運動を危惧し、その中心となつて活動する同人らを他の労働者から隔離するために右各命令を出したものであると考え、同月六日大阪地方裁判所に対し出向配転命令効力停止の仮処分を申請した。同月九日同裁判所は申請人林田について「財務部管財課書記として仮に取り扱え」との仮処分決定を発した。しかし会社は本案訴訟に係争を移したうえ同人の就労を拒否し、構内への立入りを一切認めなかつた。他方申請人盛本は、神戸事務所に勤務しつつ、右仮処分訴訟を続けていたが、昭和四八年一二月一八日同人を「本社修繕部機関課所属の従業員として仮に取り扱え」との大阪地方裁判所仮処分判決が出された。しかしながら、会社は以後同人に対し自宅待機と称して就労及び構内立入りを右判決に対して控訴した。
(4) 申請人林田らの右仮処分申請を支援するため、申請人山脇、同渡具知、同川上、同馬野、同古川は、同年七月一五日「守る会」を結成し、申請人追杉が昭和四七年春より、同阿部が同年末ころより参加した。「守る会」は申請人山脇が会長となつて裁判の経過及び支援要請を載せたビラ「守る会ニュース」の郵送、裁判傍聴、カンパ募集等を中心に活動し、また申請人林田、同盛本が会社門前でビラを配布するなどした。そして昭和四八年四月ころから申請人林田の本訴へ向けて署名活動を開始し同時に申請人ら全員の手による門前ビラの配布が行なわれるようになつた。「守る会」は、次第に春闘や一時金闘争、伊万里工場建設に伴う配転問題についても積極的に活動するようになつた。また申請人らは共産党木津川地区造船所支部の名においてビラを作成し、当初は、申請人ら以外の者により、次いで昭和四九年一一月二一日からは申請人らの手によつて門前で配布するようになつた。
(5) 右のような申請人らの活動は根本的には労使協調路線を歩む組合の政策に反するものであつた。しかし申請人らは昭和四七年より四九年にかけて、組合役員の選挙に立候補し、いずれも当選こそ果たせなかつたが、組合員のかなりの支持を集めるに至つた。
(6) 申請人らの活動に対する会社の対応は次のようなものであつた。
① 裁判傍聴参加者に対して会社の上司が「林田は共産党で弁護士も同じである」「何故裁判に行つたか。盛本との関係は?」「家族は知つているのか。又家族と話し合いたい。」「今後も行くのなら休暇届に印を押さない。」「平日に裁判に行くのは職場放棄とみなす。」「休暇の理由が家事都合であるのに裁判に行つたのは処分に値する。」「裁判に行つたからには今後の昇給その他に関係してくる。」「多くの人が傍聴に行つたのは、各部が暇であるらしいので大改造の必要がある」等発言した。
② 昭和四七年四月二七日、大阪地方裁判所は、当時構内立入りを阻まれていた申請人林田の仮処分申請を認め、組合活動のために入構することの妨害禁止の仮処分決定を発した。しかし会社は、組合活動の内容及び面会者について届け出なければ入構を認めず、また入構を認めた場合でも守衛をつけて看視させた。
③ 申請人らが会社門前においてビラを配布した場合、会社は配布者の名前を確認し、時によつては写真撮影することもあつた。またビラに対する反論書を掲示したが、その中で「『守る会』は日本共産党住吉地区造船所支部と一体関係にあるらしい」「会社の政策はすべてケナし、これに反対する集団であるらしい。」等と述べ、さらに門前ビラの配布者の氏名及び所属を発表した。その中には申請人林田、同盛本、同山脇、同川上、同渡具知、同馬野の名があげられていた。
④ 申請人渡具知が賃上げ一時金の考課の低いことについてその上司である大東作業長に問いただした際、同作業長は「現場で平均の一〇〇をつけても勤労で減らされる。」と語つた。
⑤ 申請人阿部の上司首藤係長は、昭和五〇年一〇月ころ同阿部に対し「まだ林田らとつき会つているのか。彼らは“アカ”や。中国やソ連を見てみろ、自由がないやないか。それに彼らとつきあつていたら昇格もできないし、給料も上がらない。嫌な所へ配転させられる。川上、渡具知、山脇を見てみろ配転させられただろう。林田らはいずれ議員にでも立候補するつもりだろうが、君はそうはいかないだろう。『守る会』をやめるのだつたら言つてくれ。勤労部へ一緒について行つてやつて、阿部君は『守る会』をやめましたからとわしからちやんと言つてやる。」と述べた。
(7) 申請人林田の出向命令に関する係争は、その場を本案訴訟に移してなおも続いたが、昭和四八年八月一六日、同人の訴えを認容する判決が出た。会社は右判決につき控訴して争つたが、昭和五〇年五月二〇日両者の間に和解が成立し、同人は昭和五二年一月一日付をもつて、会社の大阪本社資材部材料課に復帰することになつた。また、申請人盛本の配転命令に関する訴訟についても、大阪高裁において和解が成立し、同人は同年四月一日付をもつて大阪工場造船部検査課へ復帰することとなつた。
(8) 会社は前記三1に認定した通りの不況に対処するため、一連の合理化政策をとつた。その内容については前記三2において認定したとおりである。申請人らは、会社の合理化に反対し、次のような活動を行なつた。
① 申請人らは、昭和五一年三月より守る会ニュースを引継ぐものとして、名村造船所日本共産党議員後援会の名称を用いて職場新聞「起重機」を発刊した。申請人らは、右紙上及び前記日本共産党住吉地区委員会造船所支部発行にかかるビラにおいて春闘及び一時金闘争につき諸要求を掲げて労働者に訴え、また、会社の合理化案には極力反対した。
② 会社の構造改善計画に対しては、申請人らは、会社が当時五〇億円の内部留保(引当金等)を有していることを根拠に、労働者への犠牲転嫁の不当を訴えた。そして伊万里工場への新造船集約に反対し、伊万里工場へ移籍した新造船二隻を当初の計画通り大阪工場で建造することによつて大阪工場での雇傭を確保せよと主張すると同時に、伊万里転勤につき本人の同意の尊重、単身赴任反対、支度金等の転勤条件の改善を主張した。
③ 昭和五三年二月の希望退職募集に際しても、会社の強引な「肩たたき」に反対し、「誰もが自由に残れる雇傭の確保」と「退職条件の大幅改善」を主張した。
④ また申請人らは新経営改革計画に対し、右計画が労働者への犠牲転嫁であると主張し、フレックスタイム制度等の不当性を訴えた。同時に日本コンクリートへの出向問題でも「出向拒否の一〇ケ条」を掲載してこれに反対した。
(9) 会社は右の申請人らの活動に対して反論書を掲示し、「共産党や外部の不当な介入とは断乎として闘う」旨表明した。
以上一応認定した事実を総合すると、会社は、申請人らが組織した「守る会」を共産党ないしはその強い影響下にある集団とみなし強く嫌悪していたこと、申請人らを一括して「守る会」の構成員またはその同調者として認識していたこと、「守る会」解消後も、申請人らが集団として会社の企図する合理化策に反対し、その遂行を妨げつつあつたことから、依然として申請人らに対し一個の集団として嫌悪の念をもつて看視していたことを一応推認することができる。
(二) 希望退職における申請人らの排除
<証拠>を総合すると次の事実を一応認めることができ<る。>
(構造改善計画の実施から希望退職に至る経緯)
(1) 会社は、昭和五二年一一月構造改善計画を発表し、実施した。その骨子は、前記三2(一)(2)において認定した通りである。会社はまず、本社、大阪工場の剰員六二八名を、出来るだけ、存置する大阪工場鉄構、修繕部門に吸収することをはかり(特に直接職の増員が計画され、鉄構では零から九二人へ、修繕では三二名から、一一八名になる予定であつた。)、大阪要員として吸収し切れない人員のうち一九一名は伊万里工場へ配転させることとしたが、なお一八一名の余剰人員が見込まれた。この余剰人員については出向、一時帰休、希望退職によつて解消することを計画していたが、出向先の開拓状況からみて、希望退職の実施は避けられない見通しであつた。
(2) 右構造改善計画に基づいて、会社は、同年一二月ころより伊万里への配転打診を行なつた。特に直接工は伊万里工場でも不足している状況であつた。打診は、大阪で存置される修繕、鉄構関係を除く、殆んどの部門で行なわれ、殊に造船部門では殆んどの従業員に対して実施した。しかし、伊万里配転は難航したため、同月二八日頃から修繕、鉄構部門にも対象者を拡充した。結局一〇六名が配転に応じ伊万里へ転勤することとなつたが、なお予定人員には満たないまま事情変更が生じたとして配転打診を終えた。以上の経過にもかかわらず、申請人らに対しては、伊万里工場への配転打診は一切なかつた。
(3) 構造改善計画はその後修正を余儀なくされ、余剰人員も合計四三八名に増加したことから、会社は、昭和五三年一月一三日、余剰人員を削減するため希望退職者を募集することを提案した。
しかし、修正後の構造改善計画においても、大阪工場の鉄構、修繕部門を拡大するという基本路線は貫かれ、鉄構部門では事技職が三〇名、現業職が九四名、修繕部門では事技職が一六名、現業職が五〇名それぞれ増員予定であつた。そして、遅くともこの段階において、会社は計画修正後の大阪要員(以下単に大阪要員という)の人選をすませており、申請人らは大阪要員に含まれないことが明らかとなつていた。
(4) 次に会社は、同月末ころ職制を通じて、本社、大阪工場の従業員に対し、各個別に大阪要員の内示を行なつた。しかし申請人らはいずれも大阪要員としての内示を受けなかつた。
(5) 同年二月、三九〇名の希望退職募集が実施され、その結果八三七名の応募者をみた。なお、申請人らには希望退職の勧奨があつたが、同人らはこれを拒んだ。
(申請人らの個別的状況)
(1) 申請人林田は、当時資材部材料課に所属していた。同課所属員一九名中、結婚退職予定の一名を除けば同人のみが、伊万里転勤打診もされず、また、大阪要員ともされなかつた。
(2) 申請人盛本は、造船部検査課に所属していたが、同課技師九名中、定年延長中の二名を除くと同人のみが伊万里転勤打診も受けず、大阪要員ともされなかつた。なお希望退職募集後の機構改革によつて同課は消滅し、同人以外の技師は陸機事業部またはS―四五四建造課へ配属されたが、同人の所属はなかなか決まらず、同年三月三日ようやく一人のみ工場長付とされ、橋本造船との連絡業務を命ぜられた。
(3) 申請人渡具知は、造船部機装課機械ステージ所属の直接工であつたが、同ステージ構成員一三名(但し臨時職二名を除いている。)中、身体障害者一名を除くと、同人のみが伊万里転勤打診もされずまた大阪要員ともされなかつた。
(4) 申請人馬野は、造船部機装課仕上(機装)ステージの直接工であつた。同ステージのうちの艤装グループ構成員一三名中、同人を含め二名が伊万里転勤打診もされず、大阪要員ともされなかつた。
(5) 申請人川上は、鉄構部営業課工事係であつたが、同係の五名(全て事技職又は間接工である)のなかで、同人のみが伊万里転勤打診もされず、大阪要員ともされなかつた。
(6) 申請人阿部は、船舶技術部生産設計課機装グループに所属していたが、同グループ構成員一二名中、同人のみが伊万里転勤打診もなく、大阪要員ともされなかつた。
希望退職募集後の機構改革にともない生産設計課は消滅したが、同人の所属及び席は決まらなかつた。そのため同人は上司に尋ねたところ、「君が希望退職で辞めるものと思つていた。」と言われ、なかなか席を決めてもらえず、ようやく決めてくれた席は、スチール製キャビネットで仕切られた場所に置かれており、他の課員から一人だけ隔離された。しかも他の課員には仕事が与えられているにもかかわらず、同人は所属すら決まらない状態に置かれた。同年三月中ころ、同人が勤労部盛山管理課長に申立てたところ、「生産設計課はなくなつた。君の所属はしいて言えば名村造船所付だ。」と言われた。その数日後、同人は盛山課長から呼び出され、勤労部管理課配属を言い渡された。その仕事内容は、従業員の浴場及び更衣室の清掃等であつた。
(7) 申請人追杉は、造船部船殻課組立ステージ鉄工グループに所属する直接工であつたが、同グループ一二名(但し臨時工二名を除いている)中、同人のみが伊万里転勤打診もされず、大阪要員ともされなかつた。
(8) 申請人山脇は、造船部鉄構設計課所属であつたが、同課員一一名中、同人のみが伊万里転勤打診もされず、大阪要員ともされなかつた。
(9) 申請人古川は、昭和五二年一二月一日付でそれまで所属していた本社総務部庶務課より名和寮へ配転命令を受け、配転に応じなければ「余剰」と言われ、やむなく名和寮への配転を応諾したが、それからわずか二ケ月で名和寮の職員中、定年退職者を除きただ一人伊万里転勤打診もされず、大阪要員ともされなかつた。
以上一応認定のように、申請人ら九名は伊万里要員とはされず、また、昭和五三年一月一三日の構造改善計画修正の段階において、大阪要員でもないことが明らかとなつていたこと、特に廃止予定の大阪工場造船部では、殆んどの従業員に対して配転打診を実施し、また伊万里工場では少なくとも構造改善計画時においては、直接工が不足しているうえ、打診自体が修繕、鉄構部門に対象者を拡張しなければならないほど難航していたというにもかかわらず、造船部所属の直接工である申請人追杉、同渡具知、同馬野に対しては、伊万里配転を打診していないこと、しかも大阪工場でも修繕、鉄構部門については拡充予定で、とりわけこの部門に限つては計画修正後も直接工は大幅な増員を計画しているのに、直接工であつて若年労働力たる右三名の申請人を大阪要員ともしなかつたこと、また修繕、鉄構部門は原則として大阪工場で存続し、さらに拡大させる計画であるにもかかわらず、間接工とはいえ、もともと右部門に在籍していた申請人山脇、同川上を大阪要員としなかつたこと、申請人ら所属の各職場においても、伊万里要員でもなく、また大阪要員ともならなかつた者は例外的であつて、各職場において一人だけ(申請人馬野の職場では二人)であるところ、申請人らは全員その中に含まれていること、希望退職募集後、申請人盛本、同阿部がしばらく放置され、とりわけ同阿部は、約一カ月間所属も席も決まらず、他従業員と隔離されるなどの取扱いを受けたこと等の事情を鑑みれば、会社は申請人らを特に選定して当初から余剰人員の中に割り振り、きたるべき希望退職により申請人らを会社から排除しようと企図していたものと一応推認することができる。
(三) 出向打診時における申請人らの排除
<証拠>によれば、次の事実を一応認めることができ<る。>
(出向の経緯)
(1) 前記三2(一)(7)で一応認定したとおり、会社は日本コンクリートへの出向に関して組合の了解を得たあと別紙(六)の基準に従い、具体的な人選作業に入つた。当初出向対象者は事技間接職とされ、本社、大阪工場においても昭和五三年一〇月ころより人選が開始されたが、同年一二月一三日現在において四三名の事技間接職従業員に出向打診し、一一名のみがこれに応じるという状況であつた。そのため、会社は組合の了解を得て、同月一五日以降直接職へも出向人選範囲を拡大し、九名程度の直接工に打診し、五名がこれに応じたため、結局、本社、大阪工場からは一六名が出向した。
会社は、同年一〇月下旬から一一月中旬にかけ、申請人林田、同盛本、同阿部、同山脇に対し、相次いで出向を打診したが、右申請人らはいずれもこれを拒絶した。次に会社は、出向人選範囲拡大後である同年一二月一八日から二〇日ころにかけて、申請人渡具知、同馬野、同川上、同追杉に対し出向を打診したが、右申請人らもこれを拒んだ。その後会社は、右申請人ら八名に対し、出向拒否理由書の提出を要求し、申請人らは同年一一月一八日から翌五四年一月二二日にかけて提出した。
(2) 会社は、日本コンクリートへの出向拒否者に対し、すでに退職した者、転進希望を表明している者及び事技間接職から直接職に職種転換した者を除いて、第二次出向を打診した。本社、大阪工場においては、古河金属一〇名、平野金属一〇名、メックス一五名程度が出向予定人員であつたが、古河金属については、一五名くらいに打診して五名出向に応じ、平野金属については五名くらいに打診して三名出向に応じ、メックスについては三名に打診したが全員これを拒んだという状況であつた。
会社は、昭和五四年一月下旬、申請人ら(申請人古川を除く)に対し、古河金属への出向を勧奨したが、申請人らはいずれも右勧奨を拒んだ。
なお、第二次出向の打診時、会社側は申請人らに対し、もし出向を拒否すれば指名退職扱いとなることについては告知しなかつた(転進について組合へ提案したのは同年一月二六日であり、申請人らに対する打診時にはほぼその大略は決まつていたはずである)。
(3) 当時の本社、大阪工場における事技間接職は、二七九名、直接職は、修繕事業部一六名、造船課二八名、陸機事業部二九名、計七三名であつた(但し、昭和五四年一月一五日現在)。
(申請人ら八名の個別的状況)
(1) 申請人林田は、出向打診を受けた当時、業務部材料課に勤務していたところ、会社は、同人のほか同課所属課員吉岡幸三、同堀口泰照、同大塚祝雄に対して日本コンクリートへの出向を勧奨したが、いずれも右勧奨を拒否した。申請人林田の拒否理由の骨子は、(a)喘息の持病を持ち、健康に自信がないこと、(b)別居を余儀なくされること、(c)職場復帰に不安があること、(d)差別的人選であること、の四点であるが、会社は、(a)点について、これまで社内定期健康診断で就業制限の指摘を受けたことがなく、また気管支喘息につき診断書を提出したことがなかつたことを理由に、特に検査を受けさせる等の処置をとらず、除外基準(別紙(六))に該当しないと判断した。しかしながら、同人は、昭和五〇年一〇月の欠勤の際、喘息発作の診断書を会社に対し提出し、また、公害認定患者医療手帳を職制に預けている。ところで、課員吉岡幸三は心臓病を理由に出向を拒否したのであるが、なお、病状について医師より確認したうえで、出向除外基準に該当すると判断されている。
(2) 申請人盛本は入社以来造船部検査技師であつたが、昭和五四年三月一日付で、大阪工場付に配置転換されたため、出向打診を受けた当時の職場には他の職員はいなかつた。
(3) 申請人渡具知は出向打診を受けた当時、造船課機装グループ機械ステージに属する直接工があるが、同ステージの人員は四名であり、同人のみが出向を打診された。
(4) 申請人馬野は出向打診を受けた当時、造船課機装グループ仕上(機装)ステージに属する直接工であつたが、同ステージの人員は六名であつたところ、同人のみが出向を打診された。
(5) 申請人川上は、当初陸機事業部製作課工事係に属していた間接職であつたが、昭和五三年一〇月ころ同係は直課し、その結果同人も直接職に転換された。出向打診を受けた当時の工事係には六名属していたが、そのうちで同人のみが出向打診された。
(6) 申請人阿部は、入社以来船舶設計課に所属していたが、昭和五三年三月中ころ勤労部管理課に配転となつた。同課では、同人のほか三名に出向が打診された。
(7) 申請人追杉は、造船課船殻グループ組立班に属し直接工とされていたが、同班五名の構成員の中で、同人のみが出向を打診された。
(8) 申請人山脇は、陸機事業部設計課に技師として所属していたが、同課所属技師九名中同人のみが出向打診を受けた。
以上一応認定した事実のとおり、日本コンクリート出向打診に際し、会社は当時二八〇名程度存在していた事技間接職のうちわずかに四三名にしか打診していないにもかかわらず、打診難航を理由に直接工へ範囲を拡張していること、当時事技職について余剰は存在していたが、直接職の余剰はなかつたこと(新経営改革計画の要員計画は、事技間接職の現状員数を半数にすることだけである。また第二次出向打診は直課した者に対しては行なつていない)、しかも範囲拡張後打診した直接工(面接工扱いも含む)はわずかに九名程度であるのに、申請人ら四名(追杉、渡具知、馬野、川上)がその中に含まれているうえ、その当時殆んど仕事がないという造船課直接工二八名の大部分には打診していないこと、また会社は、第一次出向打診の拒否者のうち、直課した者については第二次出向打診をしていないとするが、申請人川上は第一次出向打診前に直課しており、第一次出向打診後の直課者との間に径庭がないこと、申請人らの各職場においても出向打診を受けた者は少数であるのに、申請人ら八名はいずれもその中に入つていること、また申請人らの出向拒否理由を一蹴していること、例えば申請人林田の拒否理由のうち前記(a)は、場合によれば会社の設定する出向除外基準にも該当する可能性があるのに、これを問題にもせず、同人と同じ職場の吉岡幸三に対する取扱いとの間に著しい差があること、出向打診者の選定については会社勤労部が関与していたこと(被申請人は、出向打診者の選定は各職制の判断で、了承した者を勤労部へ通知するだけと主張するが、それならば理由書を書かせる必要はない)、第二次出向打診の前に指名退職基準として、(イ)項が決定されていたとみられるのに、申請人らに対しては、それを知らせないまま出向打診したこと、等の事情に照らせば、会社は出向打診対象者として申請人らを特に抽出して選定したものと一応推認することができる。
4 以上述べてきたように、会社は申請人らが思想傾向を同じくしながら「守る会」をはじめとする様々な活動を行ない、会社が推進しようとしていた種々の施策に反対してきたことから、申請人らを一個の集団と認識したうえで全員に対し嫌悪の念を抱いていたこと、希望退職や出向を通じ一貫して申請人らを特に選定して排除しようとしていたこと、本件整理解雇の必要性そのものについて前記三のとおり、なお払拭しがたい疑問が存し、とりわけ直接工については解雇時も余剰が存在しないこと(指名解雇基準によれば、直接工は指名解雇の対象となつていない)、本件解雇の対象者のうち直接工ないしは、直接工扱いが四名も含まれ、主たる解雇理由である出向拒否の前提である出向を打診されたのは右四名のほかわずか五名にすぎなかつた事実が認められ、これらを総合勘案すれば、会社は経営不振打開のため人員削減を必要とする状況にあることを奇貨として、嫌悪する申請人らを排除することを主たる狙いとして申請人らを被解雇者として選定したものと認めるのが相当である。
以上のとおりであれば、指名解雇基準の運用の合理性の存在を肯定することが出来ないことに帰し、結局整理解雇の第二の要件を充足しえず、第三の要件を判断するまでもなく、本件整理解雇の効力は否定されざるを得ない。
六以上判断の結果によれば、申請人らのその余の主張について検討を加えるまでもなく、会社が申請人らに対して為した本件解雇の意思表示はその効力が生じないものというべきであり、そうであれば、申請人らと会社との間には、現在なお雇傭関係が存続していることとなる。よつて、申請人らは、昭和五四年四月一六日以降毎月二五日限り別紙(一)賃金目録記載の金員の支払を受ける権利を有する。<以下、省略>
(大久保敏雄 廣澤哲朗 森宏司)
別紙(一)~(六)<省略>