大阪地方裁判所 昭和54年(ワ)3031号 判決 1983年6月30日
原告
呉本満治こと呉伊壽
右訴訟代理人
大深忠延
中村悟
山崎昌穂
被告
今村勇
右訴訟代理人
前川信夫
被告
日本赤十字社
右代表者社長
林敬三
被告
辻岡實
右両名訴訟代理人
森恕
鶴田正信
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、各自、原告に対し、二八四〇万六四八五円及びこれに対する昭和五三年六月二三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は、被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する被告らの答弁
主文と同旨。<以下、省略>
理由
一請求原因1(当事者)の事実について
被告今村が医師であり、大阪府知事により救急告示病院に指定されている今村病院を肩書地で開業していることは、原告と被告今村との間に争いがなく、被告日本赤十字社が事業の執行につき大阪赤十字病院を開設し、被告辻岡を使用していること及び被告辻岡が同病院に勤務する医師であることは、原告と被告日本赤十字社及び被告辻岡との間に争いがない。
原告が英粉(昭和三一年三月九日生)の父であることについては、<証拠>により、これを認めることができる。
二請求原因2(英粉の死亡に至る経緯)の事実について
1 <証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができ<る。>
(一) 英粉は、昭和五三年六月二二日午後零時ころ、大阪市生野区勝山北二丁目五番四号所在の自宅便所でめまいを起こして倒れた。英粉の父である原告は、英粉の苦しむ声に気がつき、便所に行つてみると、英粉は、意識がもうろうとして、顔面蒼白の状態だつた。そこで、原告は、英粉を部屋に連れて行つて寝かせ、救急車の出動を要請した。数分後、救急車が到着し、救急隊員は、担架を用いて英粉を救急車に乗せ、毛布で保温をし、今村病院に搬送した。このとき英粉は、顔面蒼白であり、下腹部に激しい痛みを訴えていた。
(二) 英粉は、同日午後零時三〇分ころ、今村病院に到着し、移送車により診察室に運ばれ、診察台に寝かされた。そして、看護婦が英粉の体温、血圧及び脈拍を測定したところ、体温は35.1度、血圧は最高が一〇〇ミリメートル水銀柱、最低が六六ミリメートル水銀柱、脈拍は一分間に八四であつた。
被告今村は、その後、診察室に入り、英粉を診察した。被告今村は、英粉に対し病歴聴取を行つたところ、英粉は、当日腹痛及び性器出血があつた旨及び最終月経は前月二八日から三一日までであつた旨応答した。被告今村は、更に、聴診、触診を行つたところ、下腹部に圧痛を認めたが、他に異常はなかつた。
そして、被告今村は、英粉の一般状態から貧血気味であることは認めたが、主として月経困難症を疑い、血液検査のための採血を行うとともに、鎮痛剤(ベンタジン一五CC及びバルビン一アンプル)の注射を実施し、鎮痛のための内服薬(ボンタール錠及びボルタレン錠)二日分を投与し、英粉及び付き添つていた原告に対し、月経困難症と思われるから婦人科専門医の診察を受けること及び自宅で安静にすることを指示した。
(三) 英粉は、その後しばらくの間今村病院で休み、同日(昭和五三年六月二二日)午後二時ころ、落着きを取り戻したので、タクシーで帰宅した。しかし、英粉は、自宅で寝ていても食欲がなく、吐気をもよおし、頭痛を訴えた。そこで、英粉は、同日午後六時ころ、原告及び妹の呉貞淑(以下「貞淑」という。)に付き添われて昧木病院に行き、同病院の医師奥田の診察を受けた。
奥田は、英粉について、顔色が悪く、非常に疲れており、高度の貧血に陥つているのではないかという印象を持つた。そして、奥田は、英粉及び原告から、以前より晩にうなされることがあつたこと、当日より生理が始まつたこと、当日の昼自宅便所で一〇分ないし一五分間意識を喪失したこと及び意識回復後も頭痛、吐気、全身倦怠があつたことを聴取した。そこで、奥田は、聴打診をしたところ、胸部には異常がなかつたが、下腹部に抵抗を認めた。また、血圧を測定したところ、最高が一〇八ミリメートル水銀柱、最低が六〇ミリメートル水銀柱だつた。更に、胸部レントゲン撮影をしたところ、肺には異常がなく、心陰影もやや拡張している程度で、異常と認められるほどではなかつた。また、心電図検査を実施し、その結果、心拍数は一分間に約六〇であり、脈波は正常だが、T波が逆転したり平低の部分があり、また、STの下降もあると判断し、そのことから、心筋虚血に陥つているものと判断した。そして、奥田は、以上を総合し、低血圧、冠不全、高度貧血症と診断した。
そこで、奥田は、血液検査のために採血を行うとともに、血液の循環をよくするため二〇パーセントブドー糖液二〇CCとテオエスベリベン一アンプルの静脈注射をし、また、冠拡張剤(インテンザイン六錠)及び昇圧剤(エホチール六錠)を投薬し、英粉及び原告に対し、高度貧血症に陥つている旨告げ、翌日の来院を指示した。
英粉は、同日午後七時ころ、帰宅したが、同夜も食欲がなかつた。
(四) 英粉は、翌二三日午前四時ころ、睡眠中、呼吸困難に陥り、顔面蒼白となり、意識を喪失し、失禁した。そこで、英粉は、再度救急車で今村病院に搬送され、原告及び貞淑がこれに付き添つた。救急車が来た時には、英粉は、意識を回復していたが、顔面蒼白であり、呼吸困難を訴え、精神状態がやや不安定であり、救急車内では、毛布で保温され、酸素吸入が行われた。
(五) 英粉は、同日午前四時三七分ころ、再度今村病院において被告今村の診察を受け、ここに被告今村との間で診療契約が成立した。なお、この時には、前日採取した血液の検査結果が判明しており、それによると、赤血球数及び白血球数は、正常値の範囲内だつたが、血色素量及びヘマトクリット値は、正常値よりも低い値だつた。
被告今村は、英粉及び原告から、便所に行こうとしたら立ちくらみをして倒れたこと及び前日夕方昧木病院で受診したことを聴取した。このときの英粉の状態は、顔面がやや青白く貧血気味だつたが、それほど衰弱しているようには見えず、聴診所見には異常がなかつた。そして、被告今村は、血圧及び脈拍を測定したところ、血圧は最高が八四ミリメートル水銀柱、最低が六〇ミリメートル水銀柱であり、脈拍は一分間に八四で規則正しく打つていた。
被告今村は、以上の診察から、前日の月経困難症の診断を維持し、貧血及び立ちくらみについては、月経困難症に随伴して発生した脳虚血発作と判断した。また、精神病の疑いも持つた。そこで、被告今村は、体力強化のために五〇パーセントブドー糖液二〇CCとアリナミンF五〇ミリグラムを静脈内に注射した。更に、被告今村は、強心剤(カルニゲン)の注射を考慮したが、英粉の疾患につき明確な診断のできないこの段階で強心剤を注射することは危険であるため、右注射を実施しなかつた。そして、被告今村は、英粉及び原告に対し、婦人科専門医の診察を受けるように指示した。これに対し、原告及び貞淑は、被告今村及び看護婦に対し、英粉の入院を要請したが、被告今村及び看護婦から拒絶された。
(六) 英粉は、同日午前五時三〇分ころ、今村病院からタクシーで帰宅したが、病状は好転しなかつた。そこで、貞淑は、同日午前六時四〇分ころ、昧木病院に架電し、英粉の入院を要請したが、空床がないので救急病院に行つた方がよい旨指示された。しかし、原告及び貞淑は、同日午前八時ころ、英粉の知人の自動車により、英粉を昧木病院に連れていつた。
(七) 英粉は、同日午前八時二五分ころ、奥田の診察を受けた。このときの英粉は、衰弱していて一人で歩ける状態ではなく、原告及び貞淑に両側から抱えられて診察室に入り、座つていることもできず、顔面は前日よりひどい蒼白であり、非常に寒がり、不安感を訴え、神経過敏な状態だつた。
そこで、奥田は、血圧及び体温を測定したところ、血圧は最高が一〇四ミリメートル水銀柱、最低が五〇ミリメートル水銀柱であり、体温は36.0度だつた。また、胸部には特記すべき所見がなく、腹部所見も前日と同様だつた。
奥田は、英粉の症状により、高度な貧血に陥つているものと判断し、それに対する処置として、二〇パーセントネオラミン三Bを注射した。また、奥田は、経過観察のため入院を要すると判断したが、昧木病院には空床がないため、被告日本赤十字社の大阪赤十字病院を紹介することにした。そこで、奥田は、自分の名刺に、高度の貧血のため入院を要する旨を記載し、その名刺を原告に手交した。しかし、死の危険性のあるような緊急の状態とまでは考えず、看護婦を大阪赤十字病院まで付き添わせたり、経過を詳細に記載した文書を持参させることまではしなかつた。
(八) 英粉は、同日午前九時三〇分ころ、昧木病院の自家用車で大阪赤十字病院に搬送されて同病院に到着すると、原告に背負われて同病院内に入り、更に、移送車に乗せられ、診察を待つた。この間、貞淑は、英粉が診察を受けるための手続を済ませ、ここにおいて、英粉と被告日本赤十字社との間で診療契約が成立した。
被告辻岡は、同日午前一〇時ないし一一時ころ、英粉を診察した。すなわち、奥田の前記名刺を確認するとともに、英粉を椅子に座らせ、英粉に対し病歴聴取を行つたところ、英粉は、既往歴としては虫垂を切除したこと以外には特にない旨、睡眠障害がある旨、前日夕方に急にめまいがして倒れたがすぐに回復した旨及び近所の病院で受診したら貧血と言われた旨応答した。そこで、被告辻岡は、英粉について、視診、触診、打診、聴診等を行つたところ、栄養は中程度であり、頸部及び胸部には異常がなく、脈拍は一分間に七〇で規則正しく打つていた。また、血圧を測定したところ、最高が一一〇ミリメートル水銀柱、最低が七〇ミリメートル水銀柱であつた。更に、貧血の程度を確認するため、目や口の粘膜を調べた結果、貧血の程度は軽いと判断した。
被告辻岡は、以上の診察の結果、軽度の貧血は認められるが、主たる疾病は神経症であると診断した。そして、被告辻岡は、英粉及び原告に対し、血液検査のために別室で血液を採取すること及び薬(精神安定剤であるホリゾン八ミリグラム)を投与することを伝え、翌週の来院を指示した。これに対し、原告は、被告辻岡に英粉の入院を要請したが拒絶され、また、原告及び貞淑は、看護婦との間でも英粉の入院について押問答を行つたが、入院を拒絶された。
(九) そこで、原告は、英粉の採血を済ませ、薬を受け取ると、英粉の知人が事務長をしている生野病院に行くことを決意し、英粉をタクシーに乗せ、生野病院に向かつた。
ところが、英粉は、右タクシーの中で呼吸困難に陥り、更に、生野病院に到着して同病院の廊下で診察を待つている間に意識を喪失した。直ちに、同病院の医師が廊下で診察したところ、呼吸が停止し、心音がなく、失禁しており、瞳孔は散大し、対光反射がなくなつていた。そこで、ベルサンチン一アンプル及びビタカンファー一アンプルを注射し、心臓マッサージを実施し、酸素吸入を行つたが、英粉は、同日午後零時一〇分ころ、死亡するに至つた。
2 <証拠>を総合すれば、英粉の心筋の一部に軽度の線維化が認められたこと、心筋の線維化という状態は、低酸素症又は低栄養症により生じた心筋の壊死が修復された状態であること、英粉の死因としては、右のような心筋の異常以外には考えられないこと、英粉の冠動脈には軽度のアテローム変性が認められるが、その程度からみて、これが心筋の異常の原因となつているとは認められず、また、英粉は鉄欠乏性貧血に罹患していたが、その程度からみて、これが心筋の異常に影響していると断定することもできず、その他英粉に対する各検査所見からは、英粉の心筋の異常の原因は不明であること、そうすると、英粉の死因は、原因の不明な心筋疾患、すなわち、特発性心筋症とみるべきであること、特発性心筋症は一般的に拡張型心筋症と肥大型心筋症に分類されるが、英粉の死因についてはいずれとも認定できないこと、以上の事実を認めることができ<る。>
三請求原因3(被告らの責任)の事実について
1 <証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができ<る。>
(一) 心筋の病的状態には、心筋に対する仕事量の増加による障害と心筋そのものの障害との二つがある。いわゆる心筋疾患(広義の心筋症)は、後者であり、これは、更に、原因の明らかな心筋疾患(続発性心筋症)と原因の不明な心筋疾患(特発性心筋症。狭義の心筋症はこれである。)とに分けられる。また、特発性心筋症は、拡張型と肥大型とに分類されるが、どちらにも当たらない特発性心筋症の存在も指摘されている。
(二) 特発性心筋症は、通常の臨床診断法では心筋疾患について断定的に診断することが困難なため、まず、心筋疾患であるかを診断し、次に、心筋疾患以外の心臓疾患を除外し、そのうえで、心筋疾患が全身性疾患の部分症状として起こつているものを除外する、という方法で診断が行われている。
(三) 心臓疾患を疑わせる自覚症状としては、呼吸困難、息切れ、動悸、胸痛、胸部圧迫感、浮腫、不整脈、めまい、失神、せき、腹部腫脹等が挙げられるが、これらは、心臓疾患に固有の症状ではなく、呼吸器疾患、腎臓疾患、貧血、神経症等の疾患においてもみられることが指摘されている。したがつて、右自覚症状が心臓疾患によるものであることの判断は、視診、触診、打診、聴診、心電図検査、胸部レントゲン検査等の結果を総合して、他の疾患に起因するものか否かをも考慮しながら行うことになる。
ところで、右心臓疾患の自覚症状としてのめまいは、大部分、高度の不整脈により生じるものである。すなわち、不整脈により心臓からの血液拍出が一時的に極度に減少ないし停止し、一過性に脳虚血を生じて、めまいないし失神をきたすのである。したがつて、めまいが心臓疾患によるものであるときは、診察所見において、不整脈を認めるか、又は不整脈を疑わせる動悸等の自覚症状が存するのが一般的であり、これらの診察所見が存するときは、めまいは、心臓疾患による可能性が大であるといえる。
(四) 次に、右(三)に指摘した各自覚症状が心臓疾患によるものであると診断された場合であつても、右心臓疾患がいかなる種類の心臓疾患であるかは、更に、聴診、心電図検査、胸部レントゲン検査等の結果を詳しく検討したうえ、総合して判断する必要がある。
そして、特発性心筋症の場合については、次のような指摘がされている。すなわち、心電図検査をすると、ほとんどの患者について、ST、T変化を始めとする心電図異常が表われる。また、胸部レントゲン撮影をすると、拡張型心筋症の場合は、心陰影拡大の著明な例が多く、これに対し、肥大型心筋症の場合は、心陰影は正常な形態をとることが多い。そして、聴診所見では、第Ⅲ音、第Ⅳ音や収縮期雑音が聴取されることが多い。
(五) 奥田が英粉について行つた心電図検査の結果によれば、不整脈は認められないが、I、V1、V2、V3、V4及びV5の各誘導においてT波が逆転しており、また、QT(Q波とT波との間の時間の長さ)が正常心電図に比べ長くなつている。この心電図検査結果は、英粉が心臓疾患、その中でも特に心筋疾患に罹患していることを示唆するものであるが、右心電図から、そのことを読み取るためには、心臓病学に関する専門的知識及び経験の集積が必要である。
次に、奥田が英粉について行つた胸部レントゲン撮影によれば、心陰影がやや拡大しているものの、異常と認められる程度の心拡張にまで至つていない。
(六) 心臓疾患により不整脈が生じる場合には、二つの種類がある。一つは、心臓の拍動数が極めて少なくなるか又は心拍動が一時的に停止する場合であり、他は、逆に心拍動が病的に亢進する場合である。そして、前者の場合には、筋肉の運動を高める治療を行い、後者の場合には、筋肉の運動を弱める治療を行う必要がある。したがつて、両者に対する治療法は全く相反するものとなる。そのため、投薬等の心臓に対する特殊治療は、不整脈の種類が、どちらのものであるかを十分確認してから行うべきである。
(七) 特発性心筋症に対する治療としては、現在の医学では、原因的療法を実施することができず、対症療法によらざるをえない。
(八) 月経困難症は、月経時に月経に伴つて生じる不快な症状を総称したものである。症状としては、下腹痛、腰痛が主なものであるが、頭痛、めまい、いら立ち、抑うつ、吐気、嘔吐、疲労感、倦怠等の全身症状を伴うことも多い。
2(一) 被告今村本人尋問の結果によれば、被告今村の専門は外科であることが認められる。
(二) 被告辻岡本人尋問の結果によれば、被告辻岡は内科が専門であり、大阪赤十字病院においては循環器関係の患者の診療を週一日担当していることが認められる。
3 右1及び2で認定した事実並びに前記二で認定した事実(英粉の死亡に至る経緯)に基づき、被告らの責任の有無について判断する。
(一) 被告今村の責任
前記認定のとおり、英粉は、昭和五三年六月二三日午前四時三七分ころ被告今村の二回目の診察を受けるまでに、二回にわたり倒れ、心臓疾患をも疑わせる自覚症状であるめまい、失神、呼吸困難の状態に陥つたのであるから、被告今村は、遅くても二回目の診察の際には右の各自覚症状をくまなく聴取するよう十分に問診すべきであつたにもかかわらず、実際には、右自覚症状のうち立ちくらみをして倒れたことを聴取したにすぎなかつたのであり、問診義務を十分に尽くしたとはいえないというべきである。
しかしながら、他方、仮に被告今村が右問診義務を十分に尽くしたとしても、英粉の右自覚症状は、前示のとおり、心臓疾患に固有の症状ではなく、右自覚症状から直ちに英粉が心臓疾患に罹患しているものと判断することはできない。そして、前記認定のとおり、英粉については、不整脈が認められず、胸部聴診所見にも異常は認められていない。また、前記認定のとおり、奥田が実施した胸部レントゲン検査の結果からは、心臓疾患を疑わせる程度の異常は認められなかつたのであるから、仮に被告今村が胸部レントゲン撮影を行つたとしても、心臓疾患を疑わせる所見は得られなかつたものと推認される。もつとも、仮に被告今村が心電図検査を行つていたとすれば、奥田が得た心電図と同様の結果が得られたものと推認することができ、そして、それは、前示のとおり、英粉が心臓疾患に罹患していることを示唆するものである。しかしながら、前示のとおり、右心電図から心臓疾患の可能性を読み取るためには心臓病学に関する専門的知識及び経験の集積が必要とされるところ、被告今村の専門は外科であるから、被告今村が、右心電図から英粉が心臓疾患に罹患している可能性を読み取ることは不可能であつたというべきであり、また、これを期待することは相当でないというべきである。そして、前記認定のとおり、英粉は、性器出血があり、かつ、月経困難症の症状でもある腹痛、めまい等があつた旨訴えていたのであるから、被告今村が、英粉を月経困難症と診断し、英粉が心臓疾患に罹患している可能性を考慮しなかつたことはやむをえない措置というべきである。したがつて、被告今村には、英粉の死について過失及び不完全履行による責任は存しないものといわざるをえない。
(二) 被告辻岡の責任
(1) 前記認定のとおり、英粉は、昭和五三年六月二二日午後零時ころから同月二三日午前一〇時ないし一一時ころ被告辻岡の診察を受けるまでの間に、二回にわたり倒れ、心臓疾患をも疑わせる自覚症状であるめまい、失神、呼吸困難の状態に陥り、被告今村及び奥田の診療を各二回受けたのであるから、被告辻岡は、問診により右自覚症状及び診療経過を十分に聴取し把握すべきであつたにもかかわらず、実際には、右事実のうちめまいで倒れたこと(回数の確認はしていない。)及び近所の病院で受診したら貧血と言われたことを聴取したにすぎなかつたのであり、問診義務を十分に尽くしたとはいえないというべきである。
また、被告辻岡は、前示のとおり、高度貧血のため入院を要する旨記載された奥田の名刺を受け取つていたのであるから、これに右問診義務を尽くしたならば知りえたであろう英粉の自覚症状を併せ考慮すれば、英粉について心臓疾患の可能性を一応疑い、胸部レントゲン検査及び心電図検査をすべきであつたというべきところ、これをしなかつたのであり、右検査義務についても懈怠があるものといわなければならない。
また、仮に被告辻岡が右各検査を実施していたとすれば、前示の奥田の実施した検査結果と同様の結果が得られたものと推認することができるのであり、そうすると、胸部レントゲン検査によつては、心臓疾患を疑わせる異常は認められなかつたであろうが、心電図検査によれば、不整脈は認められないものの、心臓疾患、その中でも特に心筋疾患の罹患を示唆する心電図が得られたものということができる。そして、前示のとおり、被告辻岡は、内科が専門であり、しかも、循環器関係の患者の診療を週一日担当していたことにかんがみれば、被告辻岡としては、右心電図から、英粉が心臓疾患、その中でも特に心筋疾患に罹患していた可能性を疑うべきであつたというべきところ、被告辻岡は、問診及び検査(特に心電図検査)を怠つた結果、英粉が心臓疾患、その中でも特に心筋疾患に罹患している可能性を看過してしまつたものである。
なお、英粉が特発性心筋症に罹患している可能性まで診断しえた資料が被告辻岡の診療時までに存在したことを認めるに足りる証拠はない。
(2) 被告辻岡は、右のように、問診及び検査を怠り、その結果英粉が心臓疾患、その中でも特に心筋疾患に罹患している可能性を看過して診断を誤つたものであるが、被告辻岡が英粉の死につき過失責任があるというためには、更に進んで英粉の死につき具体的な予見可能性の存したことが肯定されなければならない。
そして、この点についてみると、被告辻岡は、問診義務を尽くしていたとすれば、前示のとおり、英粉が昭和五三年六月二二日午後零時ころから翌二三日午前一〇時ないし一一時ころまでの間に、二回にわたり倒れ、めまい、失神及び呼吸困難の状態に陥り、被告今村及び奥田の診察を各二回受けたことを認識しえたはずであり、また、被告辻岡は、高度貧血のため入院を要する旨記載された奥田の名刺を受け取つており、更に、英粉は、大阪赤十字病院に到着してから移送車に乗せられて被告辻岡の診察を待つていたのであつて、以上の事実を考慮すると、被告辻岡は、英粉の症状の重篤性を認識しえたものということができる。しかしながら、他方、前記認定のとおり、英粉は、椅子に座つて被告辻岡の診察を受けられる状態にあつたのであり、また、英粉について入院を要すると判断した奥田も、心臓疾患自体の重篤性については認識しえず、しかも、死に至ることを考慮しなければならない程度にまで英粉が重篤な症状に陥つていたとは判断していない。また、前記認定事実によれば、被告辻岡が十分な検査を実施したとしても、英粉について不整脈を発見することはできなかつたものと推認せざるをえない。更に、前示のとおり、英粉が特発性心筋症に罹患している可能性を診断するに足りる資料も存在しなかつた。以上を総合すれば、確かに、英粉の症状はかなり重篤ではあつたが、被告辻岡が前記問診及び検査を尽くしていたとしても英粉の死について具体的にこれを予見できたとまで認定することはできず、その他英粉の死について予見可能性があつたことを認めるに足りる証拠はない。
そうすると、被告辻岡についても、英粉の死について過失責任は存しないものといわなければならない。
(3) なお、原告は、被告辻岡は英粉を入院させて経過観察をしなかつたことにつき過失があると主張する。確かに、被告辻岡が英粉を大阪赤十字病院に入院させる措置を採つていたならば、英粉がその後呼吸困難、意識喪失の状態に陥つた時点で速かな酸素吸入、心臓マッサージ等の措置を採ることができ、あるいは救命又は延命ができたのではないかという可能性を全く否定し去ることはできない。しかしながら、前示のとおり、被告辻岡の診察時点においては英粉の死について具体的に予見可能性があつたとまでは認められないのであるから、被告辻岡が英粉につき治療又は経過観察のため入院措置を採らなかつたからといつて、英粉の死について過失責任を肯定することはできない。
(三) 被告日本赤十字社の責任
被告辻岡の責任に関し右(二)に説示したところによれば、被告日本赤十字社についてもまた、英粉の死につき不完全履行及び民法七一五条による責任は存しないものといわざるをえない。
<以下、省略>
(石井健吾 平澤雄二 森一岳)