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大阪地方裁判所 昭和56年(ヨ)1029号 1983年1月24日

申請人

野田保

右代理人弁護士

下村忠利

三上陸

沼田悦治

被申請人

株式会社三和電器製作所

右代表者代表取締役

甲斐貳夫

右代理人弁護士

山口一男

山崎武徳

右当事者間の頭書地位保全等仮処分申請事件について、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件仮処分申請をいずれも却下する。

申請費用は申請人の負担とする。

理由

第一当事者の求める裁判

一  申請人

1  申請人が被申請人に対して、従業員たる地位を有することを仮に定める。

2  申請人が、被申請人会社名古屋出張所に勤務する義務のないことを仮に定める。

3  被申請人は申請人に対し、昭和五六年三月一七日以降本案判決確定に至るまで、毎月二八日限り一か月金一三万六〇三五円の金員を仮に支払え。

二  被申請人

主文と同旨

第二当裁判所の判断

一  当事者間に争いのない事実

次の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

1  当事者

被申請人(以下「会社」という。)は、配線プリント基板等電器製品の製造販売を目的とする資本金五〇〇〇万円、従業員約二三〇名の会社であり、肩書地(略)に本社及び桑津第一工場(以下「第一工場」という。)、同じ桑津町内に桑津第二工場(以下「第二工場」という。)を有し、第一工場(従業員約一一〇名)では配線プリント基板のうち両面スルホース基板を、第二工場(同約八〇名)では片面プリント基板を主として製造している。

申請人は、阿倍野職業安定所で会社を紹介され、面接を受けて昭和五〇年一月会社に入社し、第二工場生産課に配属され、外注係、仕上係を経て、同五三年六月から仕上出荷検査係として会社に勤務してきた。昭和五〇年八月会社内に総評全国金属労働組合三和電器支部(以下「組合」という。)が結成されたが、申請人は、組合結成当初から昭和五四年八月まで組合の書記長を務めた。

2  本件配転命令の存在

会社は、昭和五六年一月二六日申請人に対し予め内示したうえ、同年二月一日申請人に対し、申請人を同年四月名古屋市内に開設予定の第一工場所属名古屋出張所営業係に配置転換する旨の業務命令(以下「本件配転命令」という。)を発した。

3  本件懲戒解雇の存在

これに対し、申請人は、内示の段階から本件配転命令に反対の意思を表明し、右配転命令発令後はこれを無効であるとして拒否し、従前どおりの就労を続けたところ、会社は、同年三月一七日申請人に対し、申請人の本件配転命令拒否は会社の就業規則五四条一〇号所定の「その他前各号に準ずる行為のあったとき」に該当するとして、申請人を懲戒解雇する旨の意思表示(以下「本件懲戒解雇」という。)をした。

二  本件配転命令及び本件懲戒解雇に至る経緯等

申請人は、本件配転命令及び本件懲戒解雇の無効理由として、後記三の1ないし6の各(一)のとおり主張し、被申請人はこれをいずれも争うので、まず、右争点についての判断に必要な限度で、以下、申請人と会社間の労働契約締結の状況、本件配転命令及び本件懲戒解雇に至る経緯、申請人の組合活動等これに対する会社の対応、本件配転命令によって被る申請人の不利益などの事実を認定することとする。

疎明資料によれば、次の事実が一応認められる(一部、当事者間に争いのない事実を含む)。

1  申請人と会社間の労働契約締結の状況

(一) 申請人の会社採用に至る経緯

会社は、昭和四九年の後半頃から特に第二工場関係製品の需要が回復し、業務を拡張しなければ受注に追い付かない状況になったため、従業員を約二〇名程度増員してこれに対処する必要があると考え、会社の意思決定機関である部工場長会議(代表取締役専務、総務部長兼人事部長、技術部長、機構部品部長、海外部長及びプリント基板部の第一、第二各工場長の七名によって組織されるもの)の決定に基づき、半数は社内の異動で賄ない、残余を一般募集することとし、人事部から職業安定所に新入社員のあっせんを依頼した。一方、申請人は、京都市所在の同志社大学に在学中、工場の製造現場で汗を流して働きたいとの気持を抱き、昭和四九年秋頃同大学を中途退学し、大阪市に移住して西成区内の浪華サドルという会社の工場で約一か月間アルバイトとして稼働したが、翌五〇年三月に結婚することになったため、同年一月早々阿倍野職業安定所を訪れて製造工として働ける就職先のあっせんを申し込んだところ、申請人の居住地に最も近い会社を紹介された。

そこで、申請人は、同年一月九日会社において、人事部長から委任を受けた第二工場業務課の森本信雄労務担当(以下「森本労務担当」という。)により履歴書(ちなみに、申請人は、履歴書に故意に大学入学及び中退の事実を記入せず、経歴を一部偽っていた。)や健康状態等の確認等に重点を置いた第一次面接を受け、次いで同月一三日同じく会社において、人事部長から委任を受けた高谷光男第二工場長(以下「高谷工場長」という。)及び森本労務担当により履歴書の再確認や本人の特技・能力の調査等に重点を置いた第二次面接を受けるとともに、第二工場の作業現場を一とおり見学して回ったが、その際同工場長から、入社後は右現場の何れかの仕事を担当して貰うことになる旨言われた。そして、申請人は、同月一四日部工場長会議の決定に基づき、会社に従業員として採用された。

(二) 申請人の会社における職務歴

申請人は、会社に採用後、第二工場生産課外注係に配属されて、ボール盤にガイド穴を空けるドリル工程の作業のほか、右作業のうち社内で消化できない分を近所の内職先(主婦)に外注するため器材や加工品の運搬・積卸し作業に従事した。右運搬・積卸し作業には、本来の荷役作業以外に、例えば外注先から代価についての苦情があればこれを執り成したり、あるいは外注先に対し、約束の納期に遅れないよう加工作業の督促をしたり、不良品が出ないよう品質面の指導・管理をするなど、多少なりとも外注先との間で折衝するような業務も伴っていた。その後申請人は、昭和五三年二月同課仕上係に変わり、プリント基板の銅の表面を酸洗いし、ニスを塗って完成品に仕上げる工程の作業に携わったが、更に同年六月頃同課仕上出荷検査係(リーダー)に配置替えされ、それ以来、仕上工程の作業及び完成品に不良品がないかどうかを機械又は目視によりチェックする工程の作業に従事し、そのかたわらリーダーとして職場の従業員を取りまとめる役を担当してきた。

(三) 勤務地、職種に関する労働契約締結の状況

申請人は、入社直後会社からの指示に基づき、昭和五〇年一月二〇日付で会社に対し、「今回貴社に入社致しましたに就いては就業規則その他の諸規定等を堅く守り職務に勉励致します(以下略)」旨の誓約書を提出した。会社の就業規則二九条には、「(1)業務の都合により必要がある場合は、従業員に異動(配置転換・転勤・出向等)を命じ、または担当業務に就かせることがある。(2)前項の場合、従業員は正当な理由なくこれを拒否してはならない。」旨規定されている。

申請人は、入社に際し会社から、営業所を含む会社全体の組織概要や将来の異動(配置転換・転勤等)に関する説明を受けたことがなく、また、会社に対し、転勤せずに将来とも大阪で働きたいとか、営業業務ではなくあくまで現場の製造業務を担当したいとかの申入れをしたことはなかった。そして、入社後本件配転命令に至るまでの間においても、会社との間で、申請人の勤務地を大阪市に限定したり、担当職務を現場の製造業務に限定する趣旨の明示的な話合いをしたことは全くなかった。ちなみに、会社では、従業員の採用時に、勤務地とか職種等を特別に限定して従業員を雇い入れるようなことは一切していなかった。

2  本件配転命令に至る経緯

(一) 名古屋出張所開設の必要性

会社は、名古屋地区においても昭和四六年頃からプリント基板の販売取引を始めたが、同四八年に起きたオイルショック後は右取引を一時中断していた。しかし、経営全般からみて営業活動の範囲を拡大していく必要があると考え、昭和五三年頃から再び名古屋地区にも頻繁に営業活動に出かけるようになった。名古屋地区における会社の月商額は、昭和五三年が二〇〇万円、同五四年が五〇〇万円、同五五年が七〇〇万円と次第に増加してきたが、同地区に営業所を開設し人員を配置して営業活動をするには少なくとも月商一五〇〇万円以上の売上げがなければ採算に合わないと見込まれた。ところが、当時の客観的状況としては、昭和五〇年前後から産業用ブリント基板の新たな業種としてミシン、工作機械、ロボット、自動車等が出現し、近い将来(昭和六〇年)その需要が大幅に増大することが予想され、しかも、ブラザー、山崎鉄工、大隅鉄工、スター精密、トヨタ自動車等右需要業種の大手企業は名古屋を中心とする中部、東海地区に集中していた。そこで、会社は、右の客観的状況に着目し、今後は名古屋地区において会社製品のプリント基板を大々的に販売しシェアを拡大していくことが緊要であり、そのためには名古屋に出張所を新設し、ここを拠点として右地区での新規大口の需要先を開拓していく必要があると判断した。また、プリント基板の製作はすべてオーダーメードであるため、まず設計段階において注文先との間で綿密な打合せをする必要があり、更に製作段階に入っても修正や変更を加えるための協議等をしなければならないことが多く、従来は大阪から一々名古屋地区に出向いてこれらの用件を果たしてはいたものの、地理的なハンディキャップが大きく、地元に拠点を有する同業他社に後れをとることが少なくなかったところから、この点でも、新規の大口の需要先を獲得するには是非とも名古屋に出張所を開設することが必要であると判断した。

かくて、昭和五五年一一月二〇日に開かれた部工場長会議において、昭和五六年度事業計画(第一工場関係)中の名古屋出張所開設の案件が討議され、城戸康弘第一工場長(以下「城戸工場長」という。)から、「名古屋地区におけるプリント基板の市況がきわめて好調な進展振りを示しており、将来も一層需要の増大が見込まれ、同地区が会社にとって現在及び将来にわたりきわめて有望な販路である。会社の同地区向けの売上げも逐年増加しているので、この際懸案の名古屋出張所の開設に踏み切り、本腰を入れて同地区での販売に取り組む態勢を作る必要がある。」旨の発言があり、部工場長間で、同地区における現在の売上げの内容や将来の発売計画等について具体的な質疑応答がなされた結果、森本一利代表取締役専務(以下「森本専務」という。)の決裁により昭和五六年四月一日予定で名古屋出張所を開設することが決定され、その開設日程、場所、所要人員、売上目標等の細目については、城戸工場長にその具体案の作成が命じられた。

(二) 名古屋出張所の計画概要

昭和五五年一二月九日城戸工場長から森本専務に対し、名古屋出張所の具体的な計画概要案(城戸試案)が報告され、同月二三日開かれた部工場長会議において、右城戸試案について討議された結果、名古屋出張所の計画概要として、要旨、次の事項が決定された。

(1) 出張所の管轄(担当)は第一工場、設置場所は名古屋市内(千種区が良い)、開業日時は昭和五六年四月一日とする。

(2) 出張所要員は二名とし、第一工場から一名(責任者又は所長)、第二工場から一名を出す。

(3) 出張所の担当区域は静岡、愛知、岐阜、三重とする。

出張所要員を二名としたのは、一名が需要先の新規開拓に当たり、もう一名がこれをフォローしてきめ細かくサービスをする必要があり、一名ではとうてい取引先を回り切れないと考えられたこと、及び他の営業所の人員との兼ね合いを考慮したことによるものである。また、名古屋出張所を第一工場の管轄下に置きながら、第一、第二工場から各一名を派遣することとしたのは、開設後の受注商品について第一、第二工場の生産比率の見通しが立っていなかったこと、かねて会社のトップの方から効率の悪いセクショナリズムを廃するよう指示が出ていたこと、及び機構部品部管轄の群馬営業所が第一工場、第二工場及び機構部品部所属の各一名で構成されていたこと等によるものである。

なお、会社では、名古屋出張所の開設により、名古屋地区における平均月商額は昭和五七年三月頃には三〇〇〇万円に増大するものと見込んでいた。

(三) 三個の人選基準を設けた理由

また、前記一二月二三日の部工場長会議において、名古屋出張所要員の人選基準についても種々意見交換がなされた結果、次の三個の人選基準を設け、これに従って人選することが決定され、具体的な人選については総務部に付託された。

(1) 名古屋地区出身者で名古屋の地理及び地域的特質に詳しいこと(以下「出身地の基準」という。)

(2) 少なくとも三年以上の会社業歴があること(プリント基板に詳しいこと)(以下「社歴の基準」という。)

(3) 営業マンとして素質、能力を有すること(以下「素質の基準」という。)

まず、出身地の基準を設けたのは、一般常識的にみて名古屋地区が閉鎖性、排他性の強い地域であることは周知の事実であることや、名古屋市出身で過去同地区の営業を担当してきた城戸工場長の経験に照らしても、名古屋地区では他地区出身の営業担当者は取引先から余所者扱いされる傾向があるのに反し、地元出身者は取引先から可愛がられ信頼される傾向のあることが実証されていたことから、名古屋地区出身者で名古屋の地理及び地域的特質に詳しい者が取引上断然有利であると考えられたためである。次に、社歴の基準を設けたのは、プリント基板はすべてオーダーメードによって製造される特殊な商品であるため、具体的な製造工程等の知識、経験を有する者でなければ、顧客に対し十分に説明したり説得することは困難であるところから、新規開拓の営業を担当するには会社に少なくとも三年以上在籍経験のあることが必要であると考えられたためである。更に、素質の基準を設けたのは、新規の大口の需要先を開拓して名古屋地区における予定の売上目標を達成するためには当然必要な基本的な条件であると考えられたためである。

なお、右部工場長会議において、名古屋出張所要員の人選方法に関し、高木恕司人事部長兼総務部長(以下「高木部長」という。)から、現地採用を検討することはできないのかという意見が出されたが、現地採用ではプリント基板の製造工程等について十分な知識、経験を備えた者が確保し難いとの理由により、右意見は取り上げられなかった。

(四) 申請人を人選した理由

高谷工場長は、総務部の高木部長から、第二工場から派遣すべき名古屋出張所要員の人選を指示されたため、できるだけ営業担当者の中から人選するようにとの同部長の意向に沿って、同部長と相談しながら右要員の具体的人選に当たった。まず、第二工場所属の正規の営業課員六名(課長一名、係長代理二名、課員三名)について個別的に検討したが、その中には前記三個の人選基準を兼ね備えた者は一人もいなかった。ただ、係長代理二名のうち、松岡係長代理は、名古屋地区出身者ではなかったが、もと機構部品部において約一年間名古屋地区の営業を担当した経験があったので、同人を同地区出身者に準じて考えることができるとすれば、前記三個の人選基準にすべて適合することになるため、最有力候補に挙げることができた。しかし、もう一名の長束稔係長代理は、昭和五六年一月末日限りで会社を退職することに決定しており、その後任として同五五年一二月にSRC課から一名営業課に配転して同人を指導中で、現実には四名で営業を担当している状態であり、当時約六〇〇〇万円(ちなみに、一名の平均月商能力は三〇〇〇ないし四〇〇〇万円であった。)の月商額を挙げていた営業経験一〇年のベテラン営業マンである松岡係長代理を外すことになると、第二工場の月商額約二億一〇〇〇万円を維持することはとうてい困難であると判断された。そこで、営業課員以外の従業員の中から営業の素質、能力を有する者を物色したところ、生産課外注係の千福勉係長代理と同課仕上出荷検査係の申請人の二名が選び出された。しかし、外注係については、当時堀淳久係員が病気療養中で、実際は千福係長代理が一人で当該業務を行っており、同係長代理を外すことになると、当該業務が完全に行き詰まるおそれがあったため、同係長代理を外すことはできない状況にあった。一方、仕上出荷検査係については、昭和五五年に仕上処理部門が機械化され、検査部門も自動チェッカーの導入により合理化されていたため、申請人を当該業務から外したとしても、すぐその補充をしなければならない必要性はなく、特に支障となるような点は見当たらなかった。

ところで、申請人を営業課に配転し、同課の松岡係長代理を名古屋出張所に派遣することは、前にも述べたとおり右両名の月商能力の差異からいってとうてい従来の月商額を維持することはできず、第二工場の経営が深刻な打撃を受けるおそれがあった。一方、申請人を直接名古屋出張所に派遣することは、申請人が愛知県尾西市の出身で、出身地の基準に適合していること、申請人が六年以上会社の第二工場生産課に勤務して製造業務を担当しており、社歴の基準を充足していること、また、申請人は生産課外注係として多少なりとも外部と折衝する業務に携わっており、その仕事振りや人に対する説得力からみても営業の素質、適性を有するものと認められたうえ、申請人の営業実績の欠如については、配転前の研修によってこれを或る程度補充することが可能であるし、配転後は第一工場から派遣予定のベテラン営業マンによるマン・ツー・マン的営業指導を受ければ、比較的早く出張所要員として活躍できるのではないかと期待されたところから、素質の基準についても特に支障はないと考えられたこと、以上のとおり、申請人は、名古屋出張所要員として会社の設けた三個の人選基準をすべて具備しており、会社にとって最も適当な者であると判断された。

かくて、総務部は、名古屋出張所の要員として、第二工場からは右のような検討過程を経て申請人を人選し、第一工場からは松本隆司営業係長を人選し、昭和五六年一月一三日開かれた部工場長会議において、その具体的人選の結果が報告され、承認決定された。右会議においては、森本専務から、第二工場からの派遣要員につき、何故営業担当者を人選しなかったのか質疑がなされたが、これに対しては、高木部長や高谷工場長から前記人選の経過、理由が詳しく説明され、右専務の納得を得た。

(五) 本件同意約款所定手続の履践状況

会社と組合との間には、事前協議制に関する協定の一つとして、昭和五〇年八月二九日「会社は労働条件の変更、雇入、解雇、昇給、配置転換に関しては、組合の同意なしには行いません。」との協定(以下「本件同意約款」という。)が締結されていた。

会社は、本件同意約款に基づき、昭和五六年一月一四日組合に対し、「出張所新設並びに人事異動の件」と題する書面を提出したうえ、名古屋出張所の新設及び派遣要員に関し、出張所新設の必要性、派遣要員数、人選基準等を具体的に説明して組合の同意を求めた。これに対し、組合は、組合の執行機関である執行委員会及び大会に次ぐ決議機関である代議員会にかけ、その議決を経て、同月二三日会社に対し、右提出書面の末尾余白に組合の職印だけ押捺してこれを会社に返還する方法により、同意の回答をした(ちなみに、従来、会社が本件同意約款に基づき組合に対し文書で同意を求めた場合、組合がこれに同意を与える方法については、別に一定の方式はなく、かつては右文書に同意すると記載し、その下に組合の職印を押捺してこれを会社に返還する方法によるのが原則であったが、昭和五一年以降になると、同意するとの記載を省略し、組合の職印だけ押捺して返還する方法をとる場合が殆どであり、文書を返還せず、口頭で同意の回答をする方法をとる場合が右に次いで多く、中には文書や口頭で明示の回答は一切せず、暗黙に同意の趣旨を表わし、会社において同意があったものと取り扱うような場合もあった)。

更に会社は、本件同意約款に基づき、同年一月二六日午前九時頃組合に対し、「人事異動に関する人撰の件」と題する書面を提出したうえ、申請人を含む従業員一四名の配転に関し、特に名古屋出張所要員として第一工場から松本隆司営業係長、第二工場から申請人を人選したこと及びその人選の具体的理由等を説明して同意を求めた。当時、組合は、会社から、本件同意約款に基づき、組合員の配転について同意を求められた場合には、組合組織の維持強化と組合員の不利益防止の観点から、(1)事前協議制が無視された場合、(2)組合の組織を弱めることを目的とした場合、(3)当該組合員の能力を全く無視し退職に追い込むようなことになる場合、(4)その他一般常識を逸脱している場合には同意を拒否するが、それ以外の場合には原則として同意する方針をとっており、事前に当該組合員から直接本人の意思や事情を聴取することも、昭和五四、五年頃以降は行っていなかった。そこで、組合は、会社からの右同意要求に対し、同日開かれた執行委員会及び代議員会にかけ、組合の右基本方針に従い配転内容を個別に検討した結果、申請人を含む対象者全員について同意を拒否する理由がないものと認め、同日午後二時頃会社に対し、前記同様の方法により、同意の回答をした。

(六) 本件配転命令の発令状況

高谷工場長は、高木部長の指示に基づき、昭和五六年一月二六日第二工場の応接室において、森本労務担当立会のうえ、申請人に対し、「会社は、組合の同意を得て四月一日を目標に名古屋出張所を開設することになった。第一工場の松本係長と共に申請人を同出張所要員の最適任者と決定し、二月一日付で転任辞令を交付する。転任期間は三年の予定である。申請人を最適任者として選んだ理由は、名古屋地区に地理的に詳しく、六年間の仕事振りから営業センスがあると見込んだためである。」旨告げ、合わせて名古屋出張所の開設の必要性や計画概要、申請人の今後の研修計画案等を説明して本件配転命令を内示した。申請人は、名古屋出張所の開設計画については、一月二三日組合員から聞いて既に知っていたが、申請人がその要員として人選されたことについては、あらかじめ組合から知らされたり、意向を打診されたようなことはなく、会社から右命令の内示を受けて初めて知った。申請人は、会社から本件配転命令の内示を受けるや、その場で、「転任は個人的理由のためお断りしたい。今のところ大阪から離れたくない。」などと述べてこれを拒否した。そこで、高谷工場長は、申請人に対し、「急な内示のため今すぐ返事もでき難いと思うが、質問事項及び待遇等について希望があれば、明日返事して欲しい。」、「転任すべく承諾して欲しい。」などと要請したが、申請人は、条件の問題ではないとして右要請をきっぱり断った。

高谷工場長は、その後同月二七日、三〇日、三一日と三回にわたり、前同様、本件配転の件で申請人と話合いの機会をもち、同人に対しこれに応ずるよう重ねて説得し、拒否の理由があれば具体的に明示して欲しいと要求したが、申請人は、「自分としては大阪を離れる意思はない。条件とか仕事のことではなく、個人的理由のためである。」、「どうして自分が行かねばならないのか。他に適任者を選んで貰えないのか。」などと、同じような言辞を繰り返すばかりで、拒否の理由を具体的に示さず、本件配転を拒否する態度に終始した。

なお、会社は、昭和五六年一月三〇日組合に対し、「名古屋出張所担当者に対する処遇について」と題する書面を交付し、同出張所要員の処遇に関し、「(1)担当期間中調整手当として一万円を支給する。(2)社宅を住居として用意する。(3)給料の支払は銀行振込みとする。(4)その他については会社規定に従って本人と話合のうえ決定する。」旨の条件を提示した。

高谷工場長は、高木部長の指示に基づき、休日空けの同年二月二日午前前記応接室において、森本労務担当立会のうえ、申請人に対し、本件配転命令を発令するとともに、その準備業務として研修計画を提示し、同月二日から同月一四日まで第二工場、同月一六日から三月二〇日まで第一工場で研修するよう命令(以下「本件研修命令」という。)を発した。しかし、申請人は、本件配転命令及び本件研修命令をいずれも拒否した。同工場長は、同日午後申請人に対し、会社の業務命令に従うよう促したが、申請人は右拒否の態度を変えなかった。

3  本件懲戒解雇に至る経緯

(一) 会社の説得と申請人の態度

会社は、申請人が昭和五六年二月二日本件配転命令を拒否したので、高木部長、高谷工場長らが森本労務担当立会のうえ、次のとおり同月三日から翌三月九日までの間、頻繁に申請人に対し、右配転命令に応ずるよう説得を重ねたが、申請人は、頑強にこれを拒否し続けた。

二月三日午前、会社側は、申請人に対し、本件配転命令拒否の理由を問い質し、申請人を最適任者と認めて人選したので我儘を言わずに同命令に応じて欲しい旨要請したが、申請人は、右配転命令拒否の理由として、「大阪で生活したい。名古屋に行きたくない。自分は適任ではない。」などと述べたほか、初めて家庭の事情を持ち出し、「今、妻と別居して生活することはできない。妻は今、保育園の古株で、組合の委員長もしており、今の勤めを変えられない。」などと述べ、更に組合が申請人個人の意思も聞かずに会社に対し本件同意約款に基づく同意を与えたことを非難した。同日午後は、高谷工場長が申請人に対し、説得に当たった。

同月四日午前も前日と同じような押し問答が繰り返され、同日午後は高谷工場長が説得に当たった。

同月五日、申請人は、高木部長宛に「(1)本件配転命令は、組合及び会社から本人に対し一言の事情聴取や連絡もなされぬまま同意、決定され、直ちに本人に内示したもので、手続上重大な問題がある。(2)本件配転命令は、生活条件、生活基盤の重大な変更を伴う転勤であり、既に長年大阪に居住、生活しており、大阪在住を前提として会社に入社、勤続してきた本人にとっては耐え難い苦痛を伴うものである。(3)現在、妻が保育所に勤務し(七年勤続)、保育業務並びに労働組合活動上重要な立場にあり、とうてい本人と共に名古屋に赴くことができず、別居を余儀なくされ、生活上及び精神的、肉体的に極度の犠牲を強いられることになる。(4)しかるに、会社のいう配転理由が名古屋出身であり、営業センスがあると思われるという副次的及び主観的な内容のみであり、かかる犠牲を耐え忍んででもどうしても申請人でなければならない理由とはなり得ず、ましてや今後の受注活動上重要といわれる名古屋出張所開設の任に、入社以来六年間現場作業経験のみの本人を担当とされるのは常識的にみても不合理である。(5)申請人が本件配転命令に応じられない旨強い意思表示を再三にわたり口頭でしているのに、本人の同意を得ることなく、二月二日辞令を強行され、以降業務命令を出されている。申請人としては、本件配転命令についてはどうしても承諾できず、重ねて応じられない旨明らかにすると共に会社の再考と善処方強く要望するものである。」旨の要望書を提出した。同日午前、会社側は、申請人に対し、「右要望書の記載事項のうち、組合の同意手続については今まで全く同じ慣例に則って手続をしており、大阪在住を前提として入社したとの点については会社は入社時にそんな約束は一切していない。既に二月三日話合いをしたとおりで、辛抱して行って貰いたい。」、「既に調整手当は一万円を提示しているし、社宅を当てがうことも検討している。」などと述べ、本件配転命令に従うよう何度も再考を求めたが、申請人は、条件面ではないとして、右配転命令に応ずることを拒否した。

その後も会社側は、二月七日午後、九日午前、一二日午前、一三日午前、一四日午前、一六日午前、二〇日午後、二三日午前、二五日午前、二七日午後、三月二日午前、四日午後、九日午前と頻繁に申請人と面接したうえ、申請人に対し、本件配転命令を承諾するよう、また、本件研修命令に従って研修を行うよう要請し、根気強く説得を重ねた。その間、申請人に対し、二月二五日には、「最大の配慮をして、名古屋からは月二回社費で大阪(自宅)に帰れるよう約束をする。」旨の申し出をし、更に三月四日には、第一工場から名古屋出張所に派遣される予定であった松本係長が自己都合により三月末で退職することになったので、その代わりに機構部品部の宮崎営業課長が第一工場の営業課長に変わり、名古屋出張所長を兼務することに決まったことを伝えるとともに、「夫婦揃って名古屋に転勤して頂けるなら、夫人のために何とか名古屋地区で幼稚園に勤務できるよう就職のあっせんの努力もしたい。」旨の申し出をした。これに対し、申請人は、二月一九日会社を相手どり、大阪府地方労働委員会に本件配転命令の撤回及びポスト・ノーティス命令を求めて不当労働行為救済の申立を行うなどして、あくまで本件配転命令拒否の態度を貫徹したため、会社と申請人との間は膠着状態のまま推移し、最後には感情的な対立さえ生まれるような険悪な状況に陥った。

そこで、会社は、やむなく三月九日部工場長会議を開いて、申請人の本件配転命令拒否に対する処分問題について協議したが、その際、高谷工場長から、懲戒解雇の重い処分は心情的に忍びないとして、出勤停止の軽い処分で済ませてやって欲しい旨の意見が述べられたものの、協議の結果、申請人の場合は出勤停止の軽い処分に止めるだけの情状が皆無であり、もし出勤停止の軽い処分に止めれば、今後他の従業員についても配転命令を拒否するケースが続発し、会社の企業秩序の維持が困難になるおそれがあるとして右意見は斥けられ、申請人の本件配転命令拒否は会社の業務命令に対する重大な違反行為であり、申請人を懲戒解雇に付することもやむを得ないと決定された。

(二) 本件同意約款所定手続の履践状況

会社は、本件同意約款に基づき、同年三月九日午後三時頃組合に対し、申請人に対する懲戒解雇の件について組合の同意を得るべく、口頭で協議方を申し入れたが、組合からは、右申入れに対する明確な回答を得られなかった。

その後同月一二日労使間で団体交渉が行われたが、その席上、組合三役は、申請人に対する懲戒解雇についての組合側の同意に関して、山本書記長が高木部長、村田稔総務課長兼人事課長らに対し、「申請人の配転には同意しているもんな。」と発言し、佃執行委員長ら他の二役もこれに相づちを打つ形で組合側の意思を表明したものの、それ以外に組合が申請人に対する懲戒解雇について同意しない旨の言動を一切示さなかった。そのため、高木部長ら会社側は、従来組合が本件同意約款に基づく同意の方法として口頭で回答してくる場合もあったことから、組合三役の右言動をもって、組合が申請人に対する懲戒解雇には反対しない、すなわちこれに同意する趣旨を婉曲的に表現したものだと受け取った。

しかし、高木部長は、組合の同意が得られたものと取り扱うには多少不安があったため、翌一三日午前一〇時頃組合三役のもとに赴いて佃執行委員長及び山本書記長に対し、申請人に対する懲戒解雇について組合の明確な同意が欲しい旨申し入れたところ、山本書記長が同部長に対し、「会社の裁定でやらんかいな。」と述べ、会社側の同意要求を執拗であると思っているような態度をとったが、その際にも組合が申請人に対する懲戒解雇について同意しない旨の言動を一切示さなかった。そのため、同部長は、組合三役がここまで態度で表明しても会社は組合の意向(同意の意思)が判らないのかと言っているように受け取った。

会社は、右両日にわたる組合三役の発言や態度からみて、申請人に対する懲戒解雇につき組合から口頭による同意が得られたものと判断したものの、これを文書に残すため、同月一六日組合に対し、申請人を翌一七日付をもって就業規則五四条一〇号に基づき懲戒解雇に付する旨の通知書を発送したが、これに対して組合からは何らの返答もなかった。

ちなみに、申請人は、本件懲戒解雇後会社の門前でビラを配布するなどして解雇撤回斗争を始めたが、組合及びその上部団体は、同月二七日の団体交渉の席上で会社に対し、組合は申請人の解雇には反対していない、したがって申請人の解雇撤回斗争を支援しない旨表明した。

(三) 会社の再説得と本件懲戒解雇の通告状況

会社は、同年三月九日部工場長会議において申請人を懲戒解雇に付することを決定したものの、何とか申請人に本件配転命令拒否の態度を翻して貰うよう最後の説得に当たることとし、同月一二日午後高木部長、高谷工場長らが申請人に対し、名古屋出張所の準備も進んでいるので、早く決心して貰いたいなどと述べて半ば頼むような恰好で説得したが、申請人は、本件配転命令は不当労働行為であるなどと述べて拒否の態度を翻さなかった。同月一六日午後にも高木部長らが申請人を説得し、申請人が拒否を続ければ今後正常な業務の遂行に重大な支障を来たし、更には会社の秩序維持ができなくなるので、直ちに本件配転命令に応ずるよう勧告したが、依然として効果がなかったため、一晩考えて翌日回答せよと言い放って最後通告をした。

翌一七日午前、高木部長、高谷工場長らは、申請人に対し、最終的に本件配転命令に対する諾否を確認したが、申請人は、最後まで拒否の態度を変えなかったので、高木部長は、やむなく「申請人の本件配転命令拒否は就業規則五四条一〇号に該当するので、同規則五四条に基づき本日付をもって申請人を懲戒解雇する。」旨の通告書を読み上げて、申請人に対し本件懲戒解雇を通告したうえ、一か月の予告手当と二月二一日から当日までの日割計算による給料及び右通告書を同人に手渡そうとした。しかし、申請人は、それらの受領を拒否し、席を蹴って退出したので、会社は、申請人に対しそれらを郵送した。

4  申請人の組合活動等とこれに対する会社の対応

(一) 組合の結成とこれに対する会社の対応

申請人は、会社に入社後生産課外注係において同僚の堀淳久とペアを組んで前記運搬等の作業に従事していたが、昭和五〇年六月頃同人と相談のうえ、当時未だ低かった会社従業員の労働条件を改善するため労働組合を結成しようと思い立ち、同人と協力して第二工場の若い従業員に参加を呼びかけるなどして準備活動をした結果、同年八月二〇日第二工場の従業員約六〇名余りをもって組合(総評全国金属労働組合三和電器支部)が結成され、初代の執行委員長に堀淳久、副執行委員長に桑田佳伸と岩本政彦、書記長に申請人がそれぞれ選出された。

ところが、会社は、同月二一日午前組合から組合結成の通知を受けるや、同日午後には係長級の下級職制を集めて電機労連加盟の労使協調的な路線をとる第二組合を結成するよう慫慂し、その夕方には高谷工場長が急遽異例の終礼を行って第二工場の従業員に対し、「外の組合に入ったら会社がつぶれる。組合はつくってもいいが、会社の中だけでやって欲しい。」などと発言し、更に夕方から夜にかけては、下級職制らが手分けをして従業員の自宅を訪問し、従業員に対し第二組合に加入するよう勧誘して回り、組合の切り崩しを敢行した。これに対し、堀を中心とする組合員ら(申請人は当日欠勤していた。)は、同じく従業員の自宅を訪問して組合の団結を呼びかける一方、同月二二日午前一時頃総評全国金属労働組合南大阪地区協議会西成ブロック所属の労働組合の組合員らと共に会社本社の社長室に抗議に赴き、甲斐貳夫代表取締役社長(以下「甲斐社長」という。)以下会社の幹部クラスが集っている中で、会社側に対し会社の慫慂による第二組合結成の動きを非難し、その責任を追及したところ、甲斐社長は、その非を認めて第二組合の結成は取り止めさせると約束し、その場において、尾畑力総務部長との連名で、組合を会社における唯一の交渉団体であることを確認するとともに、電機労連への加盟を勧めてきたことを深く陳謝する旨の謝罪文を作成してこれを組合側に提出し、高谷工場長も、同日早朝の朝礼において、同工場がした前日の発言について陳謝の意を表明した。

(二) 組合結成直後の団体交渉の経過

会社は、同年八月二二日の第一回団体交渉において、組合に対し、組合を唯一の交渉団体と認める旨の唯一交渉団体約款やユニオン・ショップ協定の締結には異存のないことを表明したほか、組合事務所の便宜供与、いわゆる人事に関する同意約款その他基本的な労働条件についての組合側の諸要求を大部分承諾する旨の回答をした。次いで、同月二七日の第二回団体交渉において、住宅手当、結婚一時金に関する組合側の要求について回答を示したが、その内容は、前向きに検討するとの前回の回答の趣旨に反するものであった。しかし、翌二八日の第三回団体交渉において、会社が回答を留保していた組合側の諸要求の一部をほぼ認める旨の回答をしたので、組合は、翌二九日組合の最高の決議機関である大会においてその線でほぼ妥結しようとの意思決定をし、その旨会社に通告していた。ところが、協定調印の予定期日であった同月三〇日になって、団体交渉の席に甲斐社長、森本専務の両名が出席せず、会社側から右期日の延期方を要請されたため、組合は、やむなくこれを入れてその期日を九月一日午前九時まで延期したものの、当日になって会社側から更に期日を同日午後に延期して欲しいと要請されたため、会社にはもはや協定を締結する意思がないものと判断して同日午後ストライキに突入した。その中で、午後二時頃から団体交渉がもたれたが、会社側が組合側に対し、前記同意約款を協議約款に変更して欲しいとか、生理休暇を有給から無給に変更して欲しいなどと要求したため、組合側はこれを強く糾弾する態度に出、長時間にわたる交渉の末、遂に同日午後七時頃会社と組合及びその上部団体との間において、会社が組合の諸要求をほぼそのまま受け容れた形で唯一交渉団体約款、ユニオン・ショップ協定、本件同意約款など二九項目にわたる協定が締結され、会社は組合に対し、解決金として一〇〇万円を支払う旨約した。

(三) 昭和五〇年秋闘時の労使紛争

組合は、昭和五〇年の秋闘において、労災補償や退職金問題、更には経営事項変更にかかる事前同意約款の締結等の権利要求を掲げて、同年一〇月三日頃から一七日頃までの間、前後五回にわたり、会社との間で団体交渉を行ったが、右要求に対する会社側の回答はきわめて厳しく、要求にはほど遠いものであったうえ、甲斐社長は最初から、森本専務は途中から団体交渉には出席しないという状況であったため、組合も、やむなくストライキを決行するなどして、ねばり強く団体交渉を進めた。

そして、組合は、前記西成ブロック所属の労働組合の支援を得て、同年一〇月二一日会社の前面において西成ブロックの総決起集会を挙行し、その会場に組合員約一五〇名のほか同地区所属の労働組合の組合員約二、三百名を集結させた。これに対し、会社は、機動隊を導入させ、閉門及び貼札により関係者以外の会社構内への立入を禁止し、立入った組合員を逮捕するという挙に出たため、労使間は長期争議の状況に陥った。憤慨した組合員は、同月二九日部分ストを中心に実力闘争に入ったが、翌三〇日夕方になって、一時姿をくらましていた社長が会社に戻り、組合に対し不在中に事態が大きくなったことを謝罪したうえ、組合との団体交渉に応じ、会社が組合の掲げた諸要求を受諾して協定を締結したため、ここにようやく労使間の紛争は終結をみるに至った。

(四) 組合内部の対立と執行部役員の更迭

当初約六〇名余りの従業員をもって結成された組合は、結成後数週間のうちに一五〇名を超える組合員数に膨れ上がり、昭和五一年六月頃には係長級の下級職制も組合に加入するようになり、ほぼ全従業員を組織するまでになった。組合は、最高の決議機関である大会、大会に次ぐ決議機関である代議員会及び執行機関である執行委員会によって運営され、更に執行委員会(以下「執行部」という。)は、正・副執行委員長、書記長、会計、執行委員で構成され、大会及び代議員会の決定に従って組合業務及び組合活動の執行等を行っていた。

組合結成の中心メンバーである堀執行委員長や書記長の申請人らによって構成された執行部は、上部団体である総評全国金属労働組合の基本方針の下に、あくまで会社とは一線を画し、強硬な活動方針を堅持しながら、前記のような華々しい組合活動を行ってきたが、昭和五一年以降になると、このような組合執行部の行き方に対し、一部職制の間に批判的な言動が現われ、同年二、三月頃には第二工場の三谷元労務課長らを中心としてリバーサイドホテル等で再び第二組合結成を呼び掛ける会合がもたれたり、堀執行委員長に対しては「年が若いから無茶苦茶する。」、申請人に対しては「野田は会社をつぶす男である。」などと個人的に非難、誹謗がなされるようになった。しかし、堀執行委員長に対する右の非難、誹謗は、当時満二四歳であった同委員長が昭和五一年六月一七日の団体交渉の席上において、甲斐社長に対し所持していた部厚いノートで同社長の左頬ないし耳を殴打する暴行を加え、加療一〇日間を要する左カタル性中耳炎等の傷害を負わせた行為に向けられたもののようである。

(ちなみに、申請人は、会社は昭和五一年以降会社に協調的な人物の育成とその連携を強めて行ったとし、千福、柏野、野村が会社の費用負担で高木部長、村田課長と共に大阪府労働部内大阪労働大学講座協議会主宰の昭和五一年度の大阪労働大学講座を受講したのは、その一例であると主張するが、疎明資料によれば、千福ほか二名が高木部長らとは別個に自己の費用負担で右講座を受講したことは一応認められるものの、その余の右主張事実については、本件全疎明資料によっても、これを認めるに足りない。)

そして、申請人らによって構成された組合執行部に対する批判は、次第に組合員の間にも広まり、役員選挙の度毎に堀執行委員長や申請人ら現職役員が次々と労使協調的な考え方を持つ対立候補にやぶれ、組合の内部に、かつて組合結成の中心メンバーであり、その後若手層を中心に学習会グループを組織した申請人らによって率いられる強硬な活動方針を堅持する指導勢力(以下「野田グループ」という。)と、これに対する批判勢力として下級職制層の中から拾頭してきた佃信彦現執行委員長らによって率いられる労使協調的な路線をとる指導勢力(以下「執行部派」という。)との対立が生じ、組合執行部の役員は昭和五四年一二月時点では完全に野田グループから執行部派に更迭するに至った。

すなわち、昭和五二年八月の役員選挙では、現職の堀執行委員長と今まで積極的に組合活動をしたことのなかった佃信彦第二工場係長とが執行委員長の席を争った結果、堀は佃に六二票対一〇六票の差でやぶれて執行委員長の席を同人に譲り渡した。また、同五四年八月の書記長選挙では、現職の申請人と今まで積極的に組合活動をしたことのなかった長束稔第二工場営業係長が立候補したが、選挙の結果両名の得票数がいずれも八五票で同点となり、選挙管理委員会の判定により両名とも失格となったため、申請人はその時点で書記長の席を失い、以後同年一二月に新書記長が誕生するまで書記長のポストは空席のままであった。更に、同年一二月には書記長の補充選挙のほか、現職の会計が書記長に、現職の執行委員が会計にそれぞれ立候補して空席となるため、会計及び執行委員の選挙も同時に行われた。書記長選挙には、申請人が西成ブロックの意向もあって出馬を断念したため、堀初代執行委員長と山本会計が立候補し、また、会計選挙には大原と今村執行委員が、執行委員選挙には井上裕と松原秀雄がそれぞれ立候補したが、選挙の結果いずれも執行部派の後者が当選した。

(五) 一部職制の組合役員選挙への介入

当時第一工場の経理課長であった松尾剛忍は、昭和五二年八月の組合役員(執行委員長)選挙の際、休憩時間中の小林や小池ら女子組合員に対し、また、生産課の大塚係長は、右選挙の際、作業場で残業中の井上裕組合員に対し、それぞれ労使協調派の佃信彦に投票するよう依頼した。更に、松尾元経理課長は、同五三年八月の組合役員選挙の数日前に谷恒夫組合員に対し、同じ事務所で勤務していた平田至孝営業係長に投票するよう依頼し、選挙後の九月上旬頃右謝礼として同組合員にガソリン券三枚(一二リットル分)を交付した。

しかし、右各役員選挙において執行部派の佃、平田が対立候補である野田グループの堀執行委員長、松本直義職場代議員をやぶって当選したのは、組合員の多数が堀や申請人ないし野田グループによる組合の運営を批判した結果の現れであって、松尾課長らの右投票依頼によるものとは認め難く、ましてや会社が職制機構(ちなみに職制は当時約四三名いた。)を通じて選挙工作をしたことに起因するとの事実を疎明するに足りる資料は存しない。

なお、大塚係長は組合員であったところ、組合の選挙に関する規定の上では、組合員が特定の候補者を当選させるため選挙運動をすることは特に禁止されていなかった。

(六) 高木部長らによる申請人の養家先訪問

高木部長は、社用のため岐阜市にある三洋電機株式会社岐阜工場に出張した機会を利用し、昭和五四年六月八日森本労務担当と同道のうえ、愛知県尾西市にある申請人の養家先に立ち寄り、申請人の養親に当たる野田安年らと面談した。会社では、従来、従業員の企業人としての育成に関心を寄せ、社是として、機会があれば、特に従業員が長男、一人息子である場合は一層配意して、従業員の実家を訪問し、その両親との間で従業員の将来の計画について十分な意思の疎通を図ることに努めてきたが、高木部長らによる申請人の養家先訪問は、会社が従来実施してきた右実家訪問の一環として行われたものである。とりわけ申請人の場合は、一人息子であったうえ、その入社に際し、森本労務担当が工場長の指示に基づき申請人の養父の野田安年に電話をかけて将来の計画について問い合わせをした際、同人から、「将来は自分の跡(同人は、毛織物製造業を目的とする野田安毛織株式会社を経営していた。)を継がす積もりだが、経験を積み重ねるため、三ないし四年は他人の飯を食わす積もりだ。よろしく頼む。」旨依頼された経緯があり、折柄その年限が来ていたため、是非とも養親の真意を確認しておく必要があった。ところが、高木部長らは、野田安年との話合いの際、同人から、申請人が同志社大学に在学していたとの意外な事実を聞かされたため、帰社後早速申請人の履歴書を確かめたところ、履歴書には大学在学の事実が秘してあったので、一層不審の念を強め、あらためて右事実について調査確認をするため、再び同月一九日森本労務担当と同道のうえ、申請人の養家先を訪問し、野田安年らと面談のうえ、右調査確認をした。

(ちなみに、申請人は、高木部長らによる二度にわたる申請人の養家先訪問は、申請人の組合活動に制約を与えるという明確な労務政策上の目的を持ち、その実現のため家族に動揺を与えるためであったと主張するが、本件全疎明資料によっても、右主張事実を認めるに足りない。)

(七) 申請人の組合活動歴

申請人は、堀初代執行委員長と協力して昭和五〇年八月組合を結成し、それ以来同五四年八月まで四期にわたり組合書記長の要職を務め、組合の中心的メンバーとして会社とはあくまで一線を画する積極的な組合活動を展開し、とりわけ組合結成当初の頃は前記認定のとおり組合側の要求を貫徹するためきわめて強力な姿勢で会社側との団体交渉に臨み、本件同意約款を含む協定の締結など数々の成果を収めた。しかし、昭和五四年八月の役員選挙において書記長の地位を失うや、以後書記長に立候補することを断念し、同年一二月には職場の第二工場Aグループ(当時約一七名)の職場代議員に選出された。ちなみに、職場代議員は、組合の役員の一つで、常に職場を掌握し職場の意見を執行部に反映させるように努める責務を負っており、そのため、大会に次ぐ決議機関である代議員会に出席し、必要事項の審議、会社との協議及び交渉議案の審議、職場集会の運営に関する事項、執行部の決定事項の徹底並びにその実行及び点検、組合員の統制・秩序に関する事項等に関する任務と権限をもつものである。そして、代議員会は、執行部役員のほか約二〇名の代議員で構成され、原則として毎月一回定期に開催され、所定の付議事項(疑義を生じた規約の解釈、臨時組合費と臨時賦課金の徴収、規定及び細則の制定改廃、大会から委任された事項等)が付議されていた。

申請人は、昭和五四年一二月以降はもっぱら職場代議員の立場で、かたわら組合執行部に批判的な野田グループのリーダーとして、職場における設備改善等の要求の実現を目指す活動をしたり、新設備機械の導入に伴う組合員の負担増の防止や配転等の合理化問題に関して会社側と交渉したり、あるいは日常業務における残業の割当ての不平等を防止するため会社側と交渉するなど、職場組合員の利益の擁護と団結強化のため積極的な組合活動を継続してきた。のみならず、現組合執行部の労使協調的な姿勢を批判する立場から、執行部が昭和五五年春闘の方針として打ち出した男女差別配分を盛り込んだ賃上げ要求を取り上げ、これを厳しく批判するとともに、その撤廃を求めて猛烈な反対運動を行ったり、また、各時期の経済闘争においてより強力な戦術を行使して高額獲得を目指すべきであると主張したりした。

(八) 一部職制の申請人に対する非難、誹謗

前記のような申請人の積極的な組合活動等に対して、城戸工場長は、昭和五四年二月頃すし屋「大喜」で開かれた新入社員の歓迎会の席上において、「野田は革命家だ。三和電器で革命を起こそうと企んでいる。」、「野田、松村は会社を無茶苦茶にする奴だ。」などと話した。

城戸工場長や第一工場の田中労務課長は、同年四月二一日新入社員の中瀬摩佐美に対し、暗に申請人らを指して、組合員のごく一部の人で会社をつぶそうとしている人達がいるので気を付けるようにと注意し、田中労務課長、大塚係長、今村係長らは、同年七月頃右中瀬から始末書の提出を求めた際同人に対し、前同様、「会社をつぶそうとしている人達とは付き合わないように。そういう仲間に入らないように。」と言った。

また、城戸工場長は、同年九月小豆島方面への社内慰安旅行中、旅先の旅館において、第一工場プレス係の上野常重に対し、「野田という男の考え方を知っているか。彼奴は三和電器をつぶしに来たんや」。などと言い、同年末に近い頃第一工場プレス作業場において右上野に対し、「野田は会社をつぶす男だ。前に浪華サドルという会社をつぶしてきた男だ。」などと言って立ち去った。

更に、田中労務課長は、昭和五五年二月初め頃会社の食堂において右上野に対し、「三和に七人の悪い奴がいる。野田、堀、井上、他に三ないし四人いる。彼等は会社をつぶそうとしている。」などと言った。

5  本件配転命令によって被る申請人の不利益

(一) 生活上の不利益

申請人は、昭和五〇年三月に結婚した妻幸子と共に現在肩書住居(略)に同居して生活しているところ、妻は、昭和四九年頃から七年以上にわたり住居近くにある社会福祉法人暁光会ひかり学園に保母として勤務し、地域社会の中で重要な地位を占め、また、昭和五二年一〇月ひかり学園労働組合を結成して三年余りの間執行委員長を務めたのち、昭和五六年三月以降は書記長を務めており、住居を離れられない状況にある。したがって、申請人に対する本件配転命令は、夫婦の別居を強いる結果となり、申請人にとって生活上の不利益がある。

(二) 精神上の不利益

申請人は、大阪市内の工場において製造工として稼働したいとの気持を抱き、これを満足させてくれるものと期待して会社に入社したものであるところ、本件配転命令は、申請人の右希望勤務地と異る名古屋市に、かつ右希望職種と異る営業担当として配転を命ずるものであり、申請人に対し精神的苦痛を与えるものである。したがって、本件配転命令は、申請人にとって精神上の不利益がある。

(三) 組合活動上の不利益

申請人は、昭和五四年一二月以降組合の職場代議員として現執行部に批判的な組合活動を続けているところ、本件配転命令は、申請人の右組合活動、殊に日常的な組合活動を事実上不可能にするものであるから、申請人にとって組合活動上の不利益がある。

三  本件配転命令及び本件懲戒解雇の効力

そこで、前記認定事実に基づいて、以下、申請人の主張にかかる本件配転命令及び本件懲戒解雇の無効理由について、順次、判断することとする。

1  本件配転命令は労働契約内容改訂の申入れにすぎないとの主張の当否

(一) 申請人は、「一般に使用者が従業員に対し配転をなし得るのは、労働契約において明示又は黙示に約定された労働の種類、態様、場所の範囲内においてのみであって、この範囲を超える配転命令は単なる契約内容改訂の申入れにすぎず、労働者の個別的同意のない限り、何らの法的効果を生じないものと解すべきである。会社と申請人間の労働契約は、大阪における現業職従業員として勤務する内容をもっているものであるところ、本件配転命令は、右労働契約において約定された労働の種類、態様、場所の範囲を超えるものであるから、単なる契約内容改訂の申入れにすぎないものであって、就業規則二九条にいう異動(配置転換等)の命令に該当しないものである。したがって、申請人には本件配転命令に応ずる義務はなく、申請人がこれに応じなかったからといって、それが懲戒解雇事由となるわけはないから、本件懲戒解雇は効力を有しないものである。」旨主張する。

(二) しかしながら、前記二1認定のとおり、会社の就業規則二九条には、業務の都合により必要がある場合は従業員に転勤・職種の変更等を命ずることがあり、この場合従業員は正当な理由なくこれを拒否してはならない旨規定されていたこと、申請人は、入社直後会社からの指示に基づき、就業規則その他の諸規定を堅く遵守する旨の誓約書を提出していること、申請人は、入社に際して、ないしその後本件配転命令に至るまでの間に、会社との間で、労働の種類、態様を現場の製造業務、労働の場所を大阪の会社工場にそれぞれ限定する趣旨の明示的な話合いをしたことは全くなかったこと、などの事実に徴すると、申請人は、入社に際して、労働の種類、態様、場所を決定または変更する権限を会社に委ねたものというべきであり、会社から業務上の必要性があって、転勤、職種の変更等を命じられた場合には、正当な理由がなければこれを拒むことができず、これに従う義務を負ったものというべきである。本件配転命令は、右の会社が申請人から委ねられた労働の種類、場所等を変更する権限に基づき、就業規則二九条所定の異動の命令として、申請人に対し名古屋出張所への転勤及びこれに伴う職種の変更を命じたものであることは明らかであるから、申請人は、正当な理由なくこれを拒否しえず、これに従う義務を負うものである。

したがって、本件配転命令が単なる労働契約内容改訂の申入れにすぎないとし、これを根拠に申請人には右配転命令に応ずる義務はなく、申請人がこれに応じないことを理由とする本件懲戒解雇は効力を有しない旨の申請人の前記主張は、理由がないといわなければならない。

2  不当労働行為の成否

(一) 申請人は、「本件配転命令は、申請人の正当な組合活動を嫌悪し、同人を排除するためになされたものであり(労働組合法七条一号)、また、会社の従業員で構成する組合の運営に介入するものである(同法七条三号)。すなわち、会社は、申請人に対し、(1)組合活動の中心人物を配転することによって、申請人の影響力を断ち切ろうという不当労働行為意思をもって、(2)業務上の明確な必然性が全くないのに、(3)人選について合理的な選定基準もないまま、(4)本人に対する意向聴取はおろか、十分な説明もなく、(5)従来の職種と全く異なる職務のために、(6)遠隔地に配転し、(7)生活上も多大の精神的、経済的苦痛を課し、(8)やむなく退社することないしは当然予想される配転拒否により懲戒解雇処分の口実をつくることを期待して、本件配転命令を業務命令として、ねらい撃ち的、見せしめ的に発したものである。このように、本件配転命令が不当労働行為であって違法、無効である以上、申請人がこれを正当な理由(就業規則二九条二項)によって拒否したことをもって本件懲戒解雇の事由となるものではない。」旨主張するのに対し、被申請人は、「本件配転命令は、名古屋出張所の新設に伴う人事異動であり、会社業務の遂行上まさに必要不可欠のものであって、不当労働行為には当たらない。」旨主張する。

(二) そこで、主として前記二4認定の事実等を踏まえて、本件配転命令が不当労働行為に該当するか否かについて判断するに、会社は、組合結成当初ないし昭和五〇年の秋闘時までは、組合を嫌悪して第二組合の結成を援助しようとしたり、一時的ではあるが組合との団体交渉を拒否するなどして、露骨な反組合的言動及び態度をとったことが認められる。しかし、これは、会社が、当時労働組合について十分な知識、経験を持ち合わせなかったため、組合の結成や組合側の諸要求に対して経営上の危機感を募らせ、周章狼狽の余り起こした軽挙妄動であったとみるのが相当であり、組合結成当初ないし昭和五〇年の秋闘時までに見せた会社の組合嫌悪、敵視の姿勢は、右秋闘が終結した昭和五〇年一〇月三〇日の段階で一応一段落したものと認めるのが相当である。

また、昭和五二年以降、組合の役員選挙において、組合結成の中心メンバーであった堀執行委員長や書記長の申請人らが労使協調派の対立候補に次々とやぶれ、昭和五五年以降、組合の執行部役員が野田グループから執行部派に更迭しているところ、その間、会社職制のごく一部が申請人らを個人的に批難、誹謗したり、役員選挙の際に一部組合員に対し執行部派の特定の立候補者に投票するよう依頼するなどしていることが認められる。しかし、右組合執行部が更迭した要因は、右一部職制の言動や選挙運動に起因しているというよりも、むしろ組合員の多数が堀や申請人ないし野田グループの強硬な活動方針や姿勢を批判し、労使協調的な組合運営を望んだ結果であると考えるのが相当であり、他に、会社が組合の執行部役員を野田グループから執行部派に更迭すべく、職制機構を通じて組合の役員選挙に介入し、その他組合工作をしたことを疎明するに足りる資料は存しない。

申請人は、昭和五四年八月に組合の書記長の地位を失ってからは、組合の中心的指導者の立場から遠去かり、同年一二月以降はもっぱら職場代議員として、また野田グループのリーダーとして、執行部派の役員で占められた執行部に厳しい批判を加えながら独自の組合活動を続けてきたところ、会社職制のごく一部は、相変らず申請人のことを同人は会社をつぶす男であるなどと個人的に非難、誹謗していることが認められる。しかし、これは、当時における全職制約四三名のうちの二、三名の特定の職制が、会社の意を体してというよりもその職責上の立場から、申請人の会社に対する姿勢、考え方そのものを危険視し、これを批判して、他の従業員に自重することを訴えた発言であることがうかがわれ、他に会社の取締役や監査役、その余の会社職制が申請人の昭和五四年一二月以降における組合活動等を嫌悪し、これを掣肘するような言動をとっていることを疎明するに足りる資料は見当たらない。

一方前記二2で認定のとおり、会社が、当時プリント基板の有望な市場と見込まれる名古屋地区において、新規大口の需要先を開拓し、会社製品の販売シェアを拡大することが緊要であると判断したこと、そして、この判断に基づき、種々検討の結果、販売の拠点として新たに名古屋出張所の開設を決定し、前記認定のような同出張所の具体的な計画概要を策定したことは、プリント基板の製作販売を主要な営業目的とする会社としては、当時の業界における客観的状況からみて、時宜を得た合理的な経営判断であったと考えられる。また、会社が名古屋出張所の要員を人選するため設けた三個の人選基準は、名古屋地区の土地柄、名古屋出張所開設の目的や計画概要、プリント基板の特殊な製作販売方法等に照らし、それなりに諒解し得る合理的な人選基準であるということができ、これに基づき申請人を人選した点についても、当時における第一工場内の関係部課の業務処理の実情や人員配置の状況、申請人の人選基準の適合性(ちなみに、前記二2(四)認定のとおり、申請人は、過去営業業務を担当した経験が全くなかったが、外注係として多少なりとも折衝的な業務に携わっており、その仕事振り等からみても営業マンとしての素質、能力を十分に備えていたものと認められ、更に事前の研修や第一工場から派遣されるベテランの営業マンの指導によりその点の補充ができるものと期待されていたものである。)、申請人を人選した場合と他の候補者を人選した場合との利害得失の比較考量等に照らすと、やむを得ない人選であったといわざるを得ない。このように、本件配転命令については、申請人を名古屋出張所の要員として配転しなければならない業務上の必要性の存したことが明らかである。

以上のとおりであって、申請人の組合活動等とこれに対する会社の対応や一部職制の申請人に対する非難、誹謗等の言動などを重視する観点からみれば、会社の申請人に対する本件配転命令は、申請人が組合の組合員であること、組合の正当な行為をしたことを理由としてなされたものと一応推認し得る余地があるけれども、他方、名古屋出張所の開設の必要性やその要員として申請人を人選した経過、理由など本件配転命令に至る経緯を具さに考察するときは、本件配転命令は、申請人を名古屋出張所の要員として配転しなければならない業務上の必要性に基づいてなされたものと一応認められるところ、これを総合的に検討すると、本件配転命令をもって、前者の理由すなわち申請人の組合活動等を直接的、決定的な理由としてなされた不利益取扱であるとは断定し難く、また、組合の弱体化を狙った組合の運営に対する支配介入であると断ずることもできないから、本件配転命令は不当労働行為には該当しないものというべきである。

しかるに、申請人は、前記二2(六)及び同3(一)(三)認定のとおり、本件配転命令を拒否し、会社の度重なる説得、勧告にもかかわらず、頑強にこれを拒否し続けたため、業務命令違反として本件懲戒解雇を受けるに至ったものであり、このような本件懲戒解雇に至る経緯にかんがみれば、本件懲戒解雇もまた不当労働行為に当たらないことは多言を要しない。

したがって、本件配転命令及び本件懲戒解雇が不当労働行為に該当し無効であるとの申請人の前記主張は、理由がないといわなければならない。

3  労働基準法三条違反の有無

(一) 申請人は、「本件配転命令及び本件懲戒解雇は、申請人の思想、信条の故になされた差別的取扱であって、労働基準法三条に違反し、無効である。すなわち、申請人は、書記長職を降りてからも、いわゆる野田グループの中心として、労働者の基本的な要求を組織していくべきとの思想、信条をもって活動し、組合執行部の批判も続けた。本件配転命令は、申請人の右思想、信条を理由として、同人を職場の仲間から隔離して孤立せしめ、その活動を事実上不可能ならしめることを企図した差別的取扱に外ならない。」旨主張する。

(二) なる程、前記二4認定の事実によると、申請人は、昭和五四年八月に組合の書記長職を降りてからも、同年一二月以降は職場代議員として、また野田グループのリーダーとして、従来と同じく労使協調的な考え方を排し、あくまで会社とは一線を画したうえ、強硬な活動方針を堅持して労働運動を進めることを思想上の信念としていることがうかがわれる。

しかしながら、前記二23認定のような本件配転命令及び本件懲戒解雇に至る経緯、同4認定のような申請人の組合活動等とこれに対する会社の対応、その他諸般の事情を彼此総合的に考慮してみても、申請人の右思想、信条が本件配転命令、本件懲戒解雇の決定的原因になっていると認めることは困難であり、他に当該事実を疎明するに足りる資料は存しない。

したがって、本件配転命令及び本件懲戒解雇が申請人の思想、信条を理由とする差別的取扱であり、労働基準法三条に違反し無効であるとの申請人の前記主張は、理由がないものといわなければならない。

4  本件同意約款違反の有無

(一) 申請人は、「本件配転命令及び本件懲戒解雇は、会社と組合との間の本件同意約款に実質的に違反するものであって、無効である。特に懲戒解雇という重要な処分についていかに組合内部に事情があろうとも、形式的にも同意のないまま同意があったものと見なすという会社の態度は認められるべきものではない。」旨主張する。

(二) しかしながら、前記二2(五)及び同3(二)認定の事実によると、会社は、本件同意約款に基づき組合から、本件配転命令については、昭和五六年一月二三日と二六日の二回にわたり、従来慣例として行われていた同意要求文書に組合の職印を押捺してこれを会社に返還する方法により同意を得ており、本件懲戒解雇についても、同年三月一二日から遅くとも同月一七日の右懲戒解雇の直前までの間に、黙示ではあるが、口頭により同意を得たものと認めるのが相当である。

もっとも、疎明資料によれば、組合が会社との間で本件同意約款を締結した本来の趣旨は、配転等は労働者の労働条件や生活条件に重大な影響を及ぼしかねないものであるところ、会社が配転等にあたって直接組合員からその意向や事情を聴取することを認めると、弱い立場にある組合員の意思が抑圧ないし強制され、十分にその利益を擁護できないおそれが生ずるので、組合が当該組合員に代わって同人の意向や事情を最大限に尊重する立場で会社との間で折衝し、当該組合員の利益を擁護することにあったこと、申請人が書記長を務めていた時代は、組合が会社から組合員の配転等について同意を求められた場合、当該組合員から事前にその意思や事情を聴取しないで会社に同意を与えたことはほとんどなかったこと、しかるに、本件配転命令の場合は、組合は、申請人から事前に本人の意思や事情を全く聴取することなく、右配転命令につき会社に同意を与えていること、以上の事実が一応認められる。右認定事実によると、本件配転命令についてなされた組合の同意は、実質的にみて組合員個人の利益を擁護するという本件同意約款の本来の趣旨に反しており、全く形式的な取扱となっているため、本件配転命令について本件同意約款に基づく同意の効力が有効に生じたとするにはいささか疑問がないわけではない。

しかしながら、他方、前記二2(五)認定のとおり、組合は、申請人ら野田グループに代わって執行部派が執行部の役員を占めるようになってからは、会社から組合員の配転について本件同意約款に基づく同意を求められた場合、例えば当該組合員の能力を全く無視し退職に追い込むようなことになるなど一定の例外的な基準に該当しなければ、原則として同意する方針をとっており、当該組合員から事前に直接本人の意思や事情を聴取することは全く行っておらず、むしろこの取扱が常態となっていたこと、組合において、現執行部に対する批判勢力の中心人物である申請人を大阪から排除し、その活動を困難にするため、会社と結託し、あるいは会社に迎合して本件同意約款に基づく同意権を濫用したとの事実を疎明するに足りる資料は存しないこと、会社としては、本件同意約款所定の手続を忠実に履践していながら、会社の全く与り知らない組合内部の事情によって配転命令の効力が左右されるようなことは、企業運営上とうてい耐え難いと考えられること、以上の諸点を合わせ考えると、前記のような事情が存在するからといって、本件配転命令についてなされた組合の同意の効力を否定することは相当ではないと考える。

したがって、本件配転命令及び本件懲戒解雇は本件同意約款に実質的に違反し無効であるとの申請人の前記主張は、理由がないものといわなければならない。

5  人事権の濫用の有無

(一) 申請人は、「本件配転命令は、次のとおり全く合理性を欠くものであって、人事権の濫用として無効である。すなわち、本件配転命令は勤務地の大幅な変更及び著しい職種の変更を伴う場合であるところ、(1)会社の経営方針の点からいっても、大阪からの距離的範囲の点からいっても、名古屋出張所の開設の必要性は全くなく、申請人を配転しなければならない業務上の必要性はなかったこと、(2)会社が設けた人選基準は恣意的で根拠がなく、申請人は営業マンとして不適格であり、申請人選定の合理性がないこと、(3)未経験の営業業務担当による精神的肉体的苦痛、夫婦別居による精神的経済的苦痛、一切の組合活動が不可能になることによる回復不可能な損失など、申請人が本件配転命令によって被る不利益の程度が著しいこと、(4)申請人の入社の動機、担当職務、同種配転事例の不存在からみて、本件配転の予測の可能性は皆無であること、その他、(5)会社は、申請人の意向を聴取したり、事情を全く考慮することなく、本件配転命令を一方的に押し付けようとしたこと、などの諸事情を考慮すると、本件配転命令は、客観的にみて相当性を欠いており、その効力を有しないものである。したがって、申請人が本件配転命令を拒否したことには正当な理由があり、何ら懲戒解雇事由となるべきものではない。」旨主張する。

(二) 確かに、申請人は、前記二5で認定のとおり、本件配転命令によって、夫婦別居の生活を強いられ、希望意思に反する勤務地において希望職種と異なる未経験の営業業務の担当を余儀なくされるばかりでなく、組合の職場代議員等としての日常的な組合活動が事実上不可能になるなど、生活上、精神上のみならず組合活動上においても、かなりの不利益を被ることが明らかである。更に、疎明資料によれば、申請人は、本件配転命令直前においては、大阪の会社工場で継続して製造業務を担当させて貰えるものと期待しており、まさか名古屋出張所が開設され、同出張所の営業担当として配転を命じられるとは予測していなかったことが一応うかがわれる。

しかしながら、前記三2(二)において既に検討したように、名古屋出張所の開設は、当時の業界における客観的状況からみて、会社の時宜を得た合理的な経営判断に基づくものであったこと、会社が設けた三個の人選基準は、それなりに諒解し得る合理的な人選基準であるということができ、右人選基準に基づき申請人を人選した点についても、当時の社内の業務や人員配置の実情等に照らし、やむを得ないものであったこと、前記三1(二)で説示のとおり、申請人は、入社に際して就業規則等を遵守する旨の誓約書を会社に提出しており、正当な理由がなければ、本件配転命令を拒否することができず、これに従うべき義務を負っていたこと、疎明資料によれば、会社は、組合員の配転にあたって、本件同意約款の趣旨に反して事前に直接組合員からその意向や事情を聴取することは許されていなかったことが一応認められること、前記二2(六)及び同3(一)認定のとおり、本件配転の期間は三年の予定であり、会社ではその間月に二回社費で大阪に帰省できるように配慮する旨の条件を提示していたこと、などの諸事情を考え合わせると、本件配転命令が客観的にみて合理性、相当性を欠いており、権利の濫用であると目することは困難である。

したがって、本件配転命令が全く合理性を欠き、人事権の濫用として無効であり、申請人の右配転命令拒否が懲戒解雇事由とはならない旨の申請人の前記主張は、これまた理由のないものといわなければならない。

6  懲戒処分権の濫用の有無

(一) 申請人は、「仮に本件配転命令が無効でなかったとしても、本件懲戒解雇は、次のとおり懲戒処分権の濫用であるので、無効である。すなわち、本件懲戒解雇は就業規則五四条一〇号を理由としているが、右条項は特定性を欠きあいまいであること、本件懲戒解雇は行政官庁の認定を受けていないこと、申請人には出勤停止に止めるに足りる情状が存在したこと、本件は過去の懲戒解雇事例とは本質的に事情を異にすること、その他諸般の事情を考慮すれば、本件懲戒解雇は、著しい権利の濫用に当たることが明らかである。更に、会社には、内示の段階で申請人の態度がはっきりしているにもかかわらず、本件配転命令の発令を強行して申請人にこれを拒否させ、研修なるものを強要し、敢えて申請人が業務命令を軽視しているという処分の口実をことさらにつくっていくなど、信義則違反の事実があり、会社の不当労働行為意思、本件配転の不合理性、申請人の被る不利益等の各事実と合わせて考慮すると、本件懲戒解雇はとうてい許されないものである。」旨主張する。

(二) しかしながら、前記三1(二)で説示のとおり、申請人は、就業規則上、会社から業務上の必要性に基づいて転勤、職種の変更等を命じられた場合には、正当な理由がなければこれを拒むことができず、これに従う義務を負っていたものであり、しかも、前記三2(二)で説示のとおり、本件配転命令には、会社がその営業目的遂行のため合理的な経営判断に基づいて開設を決定した名古屋出張所の要員として申請人を配転しなければならない業務上の必要性があったにもかかわらず、前記二2(六)及び同3(一)(三)認定のとおり、申請人は、本件配転命令を正当な理由なく拒否し、会社からの度重なる説得や条件の提示にもかかわらず、終始一貫頑強にこれを拒否する態度を固執し続けたものであり、申請人の右行為は、会社の業務命令に対する違反行為であって、会社の人事等の企業秩序にかかわる重大な義務違反行為であるといわなければならない。

申請人は、就業規則五四条一〇号は特定性を欠きあいまいであると主張する。同条号には、「その他前各号に準ずる行為のあったとき」と規定されているが、これは、同条一ないし九号の具体的懲戒解雇事由に準ずるような懲戒解雇事由を網羅的に規定したものであって、特定性を欠いているとはいえず、会社の業務命令に違反する行為は同条一〇号所定の行為に該当すると解釈して妨げないものと解すべきである。

また、申請人は、本件懲戒解雇は行政官庁の認定を受けていないと主張する。疎明資料によれば、就業規則五四条には、「従業員が次の各号の一に該当するときは、行政官庁の認定を受けて懲戒解雇に処する。」旨規定されていることが一応認められるが、右の条項は、労働基準監督署長の認定を解雇の要件とするものではなく、懲戒解雇が労働基準法二〇条一項但書に該当する場合に、会社が労働基準監督署長の認定を受けるべき公法上の義務のあることを明らかにした趣旨にすぎないものと解するのが相当である。

次いで、申請人は、出勤停止に止めるに足りる情状が存在したと主張するが、前記のような申請人の本件配転命令拒否の態度や、それが会社の企業秩序にかかわる重大な義務違反行為であることにかんがみると、会社が出勤停止に止めず本件懲戒解雇に踏み切ったことはやむを得ない措置であったと考える。

更に、申請人は、会社には申請人を本件懲戒解雇に付するまでの過程に信義則違反の事実があると主張するが、本件配転命令の内示の段階から右配転命令の発令を経て本件懲戒解雇に至る経緯については、前記二2(六)及び同3において詳細に認定したとおりであって、会社に信義則違反の事実があるとは認められないうえ、会社の職制のうちごく一部が申請人の組合活動等を問題にしていたことがあったにせよ、本件配転命令が不当労働行為にまでは当たらず業務上の必要性に基づいてなされたやむを得ない業務命令であったことを考慮すると、本件配転命令によって申請人がかなりの不利益を被るとしても、これをもって会社が懲戒解雇権を濫用したものとは認め難い。

したがって、本件懲戒解雇が懲戒処分権の濫用であり無効であるとの申請人の前記主張もまた、理由がないものである。

四  結論

よって、本件配転命令及び本件懲戒解雇の無効を前提とする申請人の本件仮処分申請は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも被保全権利がないことに帰し、疎明に代わる保証を立てさせてこれを認容することも相当でないから、いずれもこれを却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 竹原俊一)

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