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大阪地方裁判所 昭和56年(ワ)2661号 判決 1983年8月03日

原告

盆野邦夫

原告

盆野邦広

原告

盆野由紀子

右原告盆野邦広、同盆野由紀子

法定代理人親権者父

盆野邦夫

右原告三名訴訟代理人

武藤達雄

被告

大阪市

右代表者市長

大島靖

右訴訟代理人

石井通洋

夏住要一郎

間石成人

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一原告盆野邦夫が亡万里香の夫、原告盆野邦広及び同由紀子がその子であること、亡万里香が昭和五一年四月七日被告病院婦人科において子宮膣部癌のため子宮及び全付属物(卵巣を含む。)の摘除手術を受け、同年六月一二日退院し、その後通院を続けていたこと、亡万里香が昭和五三年三月二三日被告病院内において大量出血による失血のため死亡したことは当事者間に争いがない。

二<証拠>によれば次の事実が認められる。

1  亡万里香の手術前における子宮膣部癌は臨床的な治療基準の二期(子宮の頸部まで浸潤が広がつている状態。)ないし三期(骨盤壁まで浸潤が広がつている状態。)に該当し、肉眼による内診の結果それとわかるほどに相当進行した症例であつた。右の癌について通常摘除手術が可能なのは二期までであるが、術前の抗癌剤の投与等の化学療法によつて、亡万里香の経過が良好であつたため、被告病院の後藤田医師は手術可能と判断して前認定の手術を実施した。

手術は一応成功し、その後の経過も良好であつたため亡万里香は昭和五一年六月一二日退院を許可された。

2  亡万里香は退院後昭和五一年一〇月まではほぼ週一回、同年一一月以降はほぼ二週間に一回の割合で被告病院に通院し、主に同病院の小山医師が癌の再発の早期発見と防止のため、内診と抗癌剤の投与による治療を維持した。昭和五二年四月、膣断端に腫瘍らしきものが触れるようになつたことから、右小山医師は癌の再発を疑い、病理組織学的検査を実施したところ、同年五月膣断端癌が再発していることが明らかになつた。

3  そこで、亡万里香の初診当初の主治医であり、前記摘除手術を執刀した後藤田医師が、昭和五二年六月二日から、再び同人の診察を担当することになつた。同医師は患者本人に与える心理的影響を慮つて、亡万里香には癌の再発を告げなかつた。そして、同医師は亡万里香に入院を勧めたところ同人は家庭の事情から「子供もいるし、とても入院することはできない。」と強く拒絶したこともあり、同人の場合は家族に対する責任感がかえつて生命力を振起すると判断したことから、同医師は通院のまま経過を見ることとした。

昭和五二年一〇月二七日から通院の頻度をほぼ週一回とし、抗癌剤による治療を継続した。同医師は昭和五三年二月九日膣断端の糜爛を認め、下腹痛、腰痛の発現等から癌は相当進行しているものと判断し、従前の抗癌剤エンドキサンに加えてピシュバニールの筋注をも併用することとした。同年二月一六日膣断端が崩れて潰瘍型となつていることが認められた。亡万里香は症状の悪化に伴い同年二月二〇日、二三日、二七日、三月二日、六日、九日、一三日、一六日と被告病院に頻繁に来院した。

同年三月二〇日も来院予定日であつたが、亡万里香から「三日前から全身の捲怠感が強く起きられない。左下腹痛がある。食事が摂取できない状態である。」との電話があり、同医師は当日は安静にして、次回来院予定日の三月二三日に来院するよう指示した。

4  昭和五三年三月二三日亡万里香は被告病院に来院し、後藤田医師が診察にあたつた。亡万里香は同日午前一〇時一五分ころ内診台に上がつて、同医師の問診に対し、先日来食欲がなく強度の左下腹痛があると述べた。そして、同医師が膣洗施行のためクスコを亡万里香の膣腔に挿入して膣腔を開いて洗浄しようとした途端に膣断端から噴出状に動脈性の大出血がおこつた。そこで、同医師は直ちに丁字帯を装着し下腹部の圧迫、緊縛により止血をはかるとともに、止血剤の投与をもおこなつて止血に努力したが、出血は持続し、亡万里香は急速に顔面蒼白、意識不明となり、脈拍も触れず、チェーン・ストークス型呼吸となつた。直ちに輸送車で病室に運び、酸素吸入をおこなうとともに輸血のため血管確保を試みたが不能であり亡万里香は同日午前一〇時三六分、失血により死亡した。

5  ところで、膣鏡は産婦人科における内診の際日常的に使用される不可欠な道具であつて、膣内に挿入して、閉じている膣腔を広げ、その内部を観察するためのものであり後藤田医師の使用したクスコは、産婦人科医の間において一般に広く使われているものである。クスコはその構造からして通常七、八センチメートルの奥行のある膣に対して、五、六センチメートルの深さまでしか挿入できない仕組みになつており、膣断端にまでは到達しえないものである。また、クスコによつて広げることのできる膣の幅は僅かに約四センチメートルに過ぎない。

以上の事実が認められ、右事実に反する証拠はない。

三原告らは診療中担当看護婦が後藤田医師の指示により亡万里香の膣に膣鏡を挿入した際、腟鏡の操作を誤り同人の動脈を切断し大出血をひきおこしよつて死亡させた旨主張するが、前記認定のとおり、クスコの挿入にあたつては、後藤田医師自らこれをなしており、また、前記クスコの構造機能からして、到底これにより亡万里香の動脈を切断できるものではないというべきであつて、右認定を覆して原告らの主張を認めるに足りる証拠は何もない。

もつとも、後藤田医師の膣内へのクスコ挿入と亡万里香の動脈性の大出血が時を同じくして起きていることは前認定のとおりであるが、<証拠>を総合すれば、亡万里香の死亡当時同人の膣断端内部の旁結合組織には再発した癌が広く浸潤し、末期の様相を呈していたこと、一般に癌細胞を栄養するためには沢山の血管が網の目のように癌細胞周辺に呼びこまれること、癌浸潤により右の網の目のように張り巡らされた血管や細胞が、精神的肉体的緊張等何らかの契機により、あるいは自然に崩れることによつて連鎖的に崩れ落ち、動脈性の大出血を起こして死亡することが稀にありうること、右の大出血については予測ができないことが認められ、右事実によると、他の特段の事情も認められない本件においては、亡万里香の動脈性の大出血は右の事例にあたると推認することができるものである。そして、仮に後藤田医師の内診をうけるにあたつての亡万里香の精神的緊張や、同医師のクスコの挿入が右の大出血について何らかの誘因になつたものとしても、予測が不可能であり右について同医師に何ら責められるべき事由のないことはいうまでもない。

四なお、原告らは亡万里香の健康状態等について前記のとおり、被告の主張に対し縷々反論し、証人盆野シズノの証言中には一部原告らの右主張に副う部分もあるが、これをもつてしても、前記認定を覆すことはできない。

五以上のとおり、本訴請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(林繁 上原理子 生島弘康)

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