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大阪地方裁判所 昭和59年(ワ)2965号 判決 1989年11月24日

主文

一  被告は原告に対し、金二八一八万五〇〇〇円及びこれに対する昭和五六年九月八日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その二を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

四  この判決は、原告の勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、五七〇〇万円及びこれに対する昭和五六年九月八日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告の未熟児網膜症発症に至る経緯

原告は未熟児網膜症(以下「本症」という。)に罹患し両眼とも失明するに至ったが、その経緯は、被告のカルテによれば次のとおりである。

(一) 原告は、昭和五六年五月一二日午前八時二〇分被告の経営する大阪府済生会吹田病院において出生したが、在胎週は二六週、体重は一〇三〇グラムしかなかった。そこで原告は直ちに保育器に収容され、昭和五六年五月三一日まで保育器において保育された。

(二) 昭和五六年五月一二日から同年六月二九日までの四九日間に原告は被告病院において酸素を毎分一ないし四リットル投与された。

(三) 同年五月二八日被告病院において、原告に対し坂口健医師による第一回目の眼底検査が行われたが、散瞳不十分のため検査不能とされた。

(四) 同年六月三〇日第二回目の眼底検査が行われ、異常なしと診断された。

(五) 同年七月三一日第三回目の眼底検査が行われ、眼底の徹照は可能だが数日後再検査の必要ありとされた。

(六) 同年八月四日第四回目の眼底検査が行われ、既に本症に罹患し、本症の活動期に入っていると診断された。

(七) 原告は同月八日と同月一四日大阪医科大学で、第五回目と第六回目の眼底検査を受けたが、いずれの検査においても既に本症の活動期4期の網膜剥離状態で両眼とも失明しており、治療不能と診断された。

2  本症について

(一) 本症の発生原因

胎児の網膜血管は、胎生四か月以降に硝子体血管より網膜内に血管が発達し、胎生八か月においては、網膜鼻側の血管は周辺まで発達しているが、耳側では未だ鋸歯状縁にまで発育するに至らない。従って在胎期間三〇週以下の未熟児の網膜血管の耳側部分は生後胎外において発育することになるが、この網膜血管は極めて酸素に敏感で、収縮しやすい。すなわち、未熟な網膜血管は、動脈血の酸素分圧が上昇すると、これによって強い収縮を起こし、ついに不可逆性の血管閉塞をきたす。その後に循環酸素濃度が低下し、酸素分圧が平常に戻ると閉塞された血管流域の組織は極度の酸素欠乏状態に陥り、これが異常刺激となって網膜静脈のうつ血と毛細血管の新生及び増殖をもたらす。この新生血管は透過性が強いため、血漿成分の管外漏出がおこり、この滲出性病変に続いて増殖性変化を起し、ついには瘢痕性収縮により網膜に破壊的変化をきたすものと考えられている。

(二) 本症の病型及び活動期病変の分類

厚生省未熟児網膜症研究班が昭和四九年に作成した「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」と題する報告書(以下「昭和四九年度報告」という。)及び同研究班が昭和五七年に作成した「未熟児網膜症の分類(厚生省未熟児網膜症診断基準、昭和四九年報告)の再検討について」と題する報告書(以下「昭和五七年度報告」という。)を踏まえると、次のとおりである。

(1) 本症の病型

本症は、臨床経過、予後の点から[1]型、[2]型に大別され、このほかに極めて少数ではあるが[1]、[2]型の中間型がある。

[1]型は、主として、耳側周辺に増殖性変化を起し、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内への滲出、増殖性変化、牽引性剥離へと段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強いものである。

これに対し、[2]型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、霞んだ状態のため、この無血管帯が不明瞭なことも多い、後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられる。[1]型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的早い経過で網膜剥離をおこすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良のものである。

(2) 本症[1]型の活動期病変の分類

1期(網膜内血管新生期)

周辺ことに耳側周辺部において、発育が完成していない網膜血管先端部に分岐過多型(異常分岐)、異常な怒張、蛇行、走行異常などが出現し、それより周辺部には明らかな無血管領域が存在する。後極部には変化が認められない。

2期(境界線形成期)

周辺ことに耳側周辺部において、血管新生領域とそれより周辺の無血管領域との境界部に、境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の蛇行、怒張を認めることがある。

3期(硝子体内滲出と増殖期)

硝子体内への滲出と血管及び支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の蛇行、怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

この3期は、初期、中期、後期の三段階に分ける。初期はごくわずかな硝子体への滲出、発芽を認めた段階、中期は明らかな硝子体への滲出、増殖性変化を認めた場合、後期は中期の所見に牽引性変化が加わった場合とする。

4期(部分的網膜剥離期)

3期の所見に加え、部分的網膜剥離の出現を認めた場合。

5期(全網膜剥離期)

網膜が全域にわたって完全に剥離した場合。

(3) 本症[2]型の活動期病変

[2]型は、主として極小低出生体重児の未熟性の強い眼に発症し、赤道部より後極側の領域で、全周にわたり未発達の血管先端領域に、異常吻合及び走行異常、出血などがみられ、それより周辺には広い無血管領域が存在する。網膜血管は、血管帯の全域にわたり著明な蛇行怒張を示す。以上の所見を認めた場合、[2]型の診断は確定的となる。進行とともに、網膜血管の蛇行怒張はますます著明になり、出血、滲出性変化が強く起こり、[1]型のような緩徐な段階的経過を経ることなく、急速に網膜剥離へと進む。

(三) 本症の治療方法等

(1) 治療の適応

本症は前記のとおり[1]型と[2]型に大別され、この二つの型における治療の適応方針には大差がある。

[1]型においては、その臨床経過が比較的緩徐であって、発症より段階的に進行する状態を検眼鏡的に追跡確認する時間的余裕があり、自然治癒傾向を示さない少数の重症例にのみ選択的に治療を施行すべきであるが、[2]型においては極小低出生体重児という全身条件に加えて網膜症が異常な速度で進行するために治療の適期判定や治療の施行そのものにも困難を伴うことが多い。したがって、[1]型においては治療の不要な症例に行き過ぎた治療を施さないように慎重な配慮が必要であり、[2]型においては失明を防ぐために治療時期を失わぬよう適切迅速な対策が望まれる。

(2) 治療の時期

[1]型の網膜症は、自然治癒傾向が強く、2期までの病期中に治癒すると将来の視力に影響を及ぼすと考えられるような痕跡を残さないので、2期までの病期のものに治療を行う必要はない。3期において更に進行の兆候が見られる時に初めて治療が問題となる。

但し、3期に入ったものでも自然治癒する可能性は少くないので進行の徴候が明らかでない時は治療に慎重であるべきである。この時期の進行傾向の確認には同一検者による規則的な経過観察が必要である。

[2]型の網膜症は、血管新生期から突然網膜剥離を起こしてくることが多いので[1]型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失うおそれがあり、治療の決断を早期に下さなければならない。この型の網膜症は極小低出生体重児で未熟性の強い眼に起こるので、このような条件を備えた例では、綿密な眼底検査を可及的早期より行うことが望ましい。無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する兆候が見えた場合は直ちに治療を行うべきである。

(3) 治療の方法

治療は良好な全身管理のもと、人工光線を眼底に焦点照射し焼灼して人工的に瘢痕を形成させることによって網膜剥離が拡がるのを防止する光凝固によって行う。

[1]型においては、無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し、後極部付近は凝固すべきではない。無血管領域の広い場合には境界領域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管領域に散発的に凝固を加えることもある。

[2]型においては、無血管領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に充分な注意が必要である。

この方法による本症の治療効果は、広く認められている。

(4) 定期的眼底検査の必要性

右に述べたとおり、適切な時期に治療を施し本症の罹患による失明を防止するためには、当該未熟児の眼底の状態を初期の段階から継続的に把握し、本症罹患の有無、病型の相違及び活動期病変の段階を的確に判断する必要がある。このためには定期的な眼底検査が不可欠である。

この点につき、昭和四九年度報告は、「検眼鏡的検査は、一八〇〇グラム以下の低出生体重児、在胎期間では三四週以前のものを主体とし、生後満三週以降において、定期的に眼底検査を施行し(一週一回)、三か月以降は、隔週または一か月に一回の頻度で六か月まで行う。発症を認めたら必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察する。」と述べている。

3  被告の責任

(一) 医療契約の成立

被告は、その経営する大阪府済生会吹田病院(以下「被告病院」という。)において、その担当者をして原告を保育器に収容して保育看護に当たらせていたものであり、原告との間で適切妥当な未熟児養育を内容とする医療契約が成立していた。

(二) 被告の医療機関としての義務

原告を保育器に収容して保育していた被告の担当医師は、当時、保育器を設置して未熟児の養育に当たる医療機関の担当医師として、本症との関係において、以下に述べるような注意義務を負っていた。

(1) 酸素管理義務

未熟児を保育器内に収容し酸素を投与する場合には、未熟児の全身状態を注意深く観察し、未熟児の状態等に照らし、酸素の投与を必要最小限に止めるものとし、流量計のみならず濃度計により正確に酸素の濃度を把握すべきである。

(2) 定期的眼底検査義務

未熟児保育に当たっては、定期的眼底検査(生後満三週以降において一週一回)を的確に実施し、本症の発症を認めたときは細心の注意をもって経過を観察し(必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察する。)、その症状を正確に把握すべきである。

(3) 治療義務ないしは転医指導義務

定期的眼底検査により本症が認められ、しかも自然治癒の経過をたどらない場合には、時期を失することなく自ら光凝固あるいは冷凍凝固等の外科的手術を施行するか、もしくは自己のもとでは適切な治療が困難な場合には、適当な医療機関に転医さすべく指導する義務がある。

(三) 被告の酸素管理義務違反

被告病院においては、原告に対し大量の酸素を投与しながら、適切な酸素濃度測定を行わず、漫然と酸素を投与し適切な酸素管理を怠った。

(四) 被告の定期的眼底検査義務違反

(1) 被告の担当医師が原告に対し実施した眼底検査は、前記のとおり、<1>昭和五六年五月二八日、<2>同年六月三〇日、<3>同年七月三一日、<4>同年八月四日の四回であり、被告の担当医師のカルテによっても第四回目の眼底検査では原告が本症に罹患していることが判明しており、その後に同年八月八日大阪医科大学で行った第五回目の眼底検査では既に両眼とも失明の状態に至っている。

(2) 被告の担当医師が行った右の眼底検査は、第一回目はともかくとして、第二回目、第三回目は一か月に一回という杜撰なものであって、前記定期的眼底検査義務を怠ったものであることは明らかである。また、第三回目の眼底検査では、被告の担当医師は原告が既に本症に罹患していることに気付いていたのであるから、毎日でも眼底検査をして眼底状況の変化を把握し、本症の型が何型であるかについて注意を払い、後述の光凝固の適期を逸することのないようにすべきであるにもかかわらず、これを怠ったものである。

以上のとおり、原告については、被告の担当医師の本症に関する知識不足か、あるいは杜撰な処置のため、七月三一日の時点で既に光凝固の適期を逸していたか、あるいは、その頃、毎日眼底検査を実施していれば発見しえた光凝固の適期を逸したものというべきである。

(3) なお、被告の担当医師は、検査毎の眼底所見をまったくカルテに記載していないため、原告の眼底所見の微妙な変化の把握が困難な状況にあった(カルテの記載が存しなければ、結局は前の所見との比較は当該医師の記憶によることになるが、記憶にのみ基づいて一か月もの期間をおいて眼底の微妙な病変を見分けることは無理である。)。

(五) 被告の治療義務ないしは転医指導義務違反

前記のとおり、原告は昭和五六年八月八日の第五回目の眼底検査の時点では既に本症により両眼とも失明の状態に至っているが、被告としては、少なくとも昭和五六年七月下旬ないし八月上旬の光凝固適応期(言い換えれば手遅れにならない時期)に光凝固装置のある病院に原告を転院させたうえ、光凝固を受けさせるべきであったにもかかわらず、これを怠ったものである。

(六) 被告の眼科管理態勢の瑕疵

このような被告の担当医師による眼底検査義務違反や治療義務違反の背後には、未熟児医療を取り扱っている被告病院の小児科と眼科の間の連携がうまくいっていなかったことや、医師の多忙、さらには本件眼底検査の結果の担当医師について見られるようなカルテの記載の欠落といった被告病院の眼科管理態勢の瑕疵が存する。

4  原告の被った損害

原告は前記のとおり、被告が医療機関としての義務を怠ったことによる債務不履行もしくは不法行為により、両眼失明に至ることを余儀なくされ、この結果、次のとおりの損害を被った。

(一) 一括損害として五〇〇〇万円

原告は、両眼失明により、終生にわたり労働能力を喪失したほか、少なくとも盲学校高等部を卒業するまでは日常生活の全般にわたり母親の介護を要することとなった。このように原告は失明により甚大な財産的損害を被ったばかりでなく、両親とともに筆舌に尽くしがたい苦痛を受けている。これに加えて原告は右の損害以外にも有形無形の損害を被っているのであるが、これらの諸損害は総額五〇〇〇万円を下らない。

(二) 仮に一括請求が認められないとしても、原告は次のとおり損害を被った。

(1) 逸失利益 三一六六万四〇四一円

原告は、本件失明により労働能力を一〇〇パーセント喪失(自賠法施行令別表第一級一号)したので、昭和六二年度の賃金センサスに基づき一八歳から一九歳の男子労働者の平均賃金年収一九二万八五〇〇円を基礎とし、一八歳から六七歳まで四九年間就労可能と考え、ホフマン方式(ホフマン係数一六・四一九)により中間利息を控除して逸失利益を計算すると次のとおりになる。

1,928,500×16.419=31,664,041

なお、原告については、障害として両眼失明の他に脳性麻痺が認められるが、原告の脳性麻痺はそもそも軽度であるとともに、これまでの訓練の経過に鑑み、その症状は今後も更に改善されることは必定である。このように、脳性麻痺による症状は改善される見込みが高いから、この症状により原告の労働能力が将来も長期間にわたり喪失すると認定することは根拠がなく、したがって、脳性麻痺を理由に原告の逸失利益の額を減ずることは相当ではない。

また、労災及び交通事故における損害賠償の実務においては、両眼の失明は最も重い後遺症の一つに認定されており、他の障害の有無にかかわらず、両眼の失明のみによって一〇〇パーセントの労働能力の喪失を認めている。

(2) 介護料 三三四六万四九五二円

原告は完全に失明しているため、原告自身どのように努力したとしても生涯にわたって他人の介護がなければ生活できない。一日の介護料を三〇〇〇円として七四歳まで(昭和五九年簡易生命表によれば〇歳男子の余命は七四・五四歳)の介護料をホフマン方式により中間利息を控除して計算すると次のとおりになる。

3,000×365×30.5616=33,464,952

(3) 慰謝料 二〇〇〇万円

父母など近親者の慰謝料も原告において代表して請求するものである。

以上合計八五一二万八九九三円

なお、本訴請求額はこの内金五〇〇〇万円である。

(三) 弁護士費用 七〇〇万円

原告は本件訴訟遂行を原告訴訟代理人に委任し、実費を別として着手金、報酬とも認容額の各七パーセント(合計一四パーセント)と約した。本件訴訟の性質上右費用はすべて被告の債務不履行もしくは不法行為と相当因果関係がある。

二  請求の原因に対する認否

1(一)  請求の原因1(一)の事実は認める。

(二)  同1(二)の事実は認める。

なお、原告に対する酸素の投与については、昭和五六年六月七日と同月一〇日の二度にわたって中止を試みたが、同月一三日には再開せざるをえなかったものである。

(三)  同1の(三)ないし(六)の事実は認める。

(四)  同1(七)の事実のうち、原告が大阪医科大学の眼科を受診したことと原告の本症が進行していたことは認めるが、その余は不知。

2(一)  同2(一)の本症の発生原因については争う。

原告の主張は、昭和四六年の古い見解に基づくもので、今日では酸素の分圧の上昇は本症の原因の一つにしかすぎず、他に多くの原因があるとされており、低酸素もその一つの原因にあげられている。

(二)  同2(二)の事実については、その主張の各報告書にその旨の記載があることは認める。

(三)(1) 同2(三)(1)の事実については、「[2]型においては失明を防ぐために」とある部分は争う。

(2) 同2(三)(2)の事実については、そのように説くもののあることは認める。

(3) 同2(三)(3)の事実のうち、光凝固による治療効果が広く認められているとの点は否認し、その余は認める。

本症の原因は、網膜の未熟性そのものにあり、後記三2(一)ないし(三)のとおり、光凝固によっても、本症による失明を完全に防止することは不可能である。

(4) 同2(三)(4)の事実については、昭和四九年度報告にその旨の記載があることは認める。

3(一)  同3(一)の事実のうち、被告がその経営する被告病院において原告を保育器に収容して保育看護に当たっていたことは認める。

(二)  同3(二)の事実は争う。

現在でも本症を完全に防止することは不可能であり、原告の場合のような激症例については光凝固も効を奏しないというべきである。

(三)  同3(三)の事実は否認する。

(四)(1) 同3(四)(1)の事実のうち、被告が原告主張のとおり四回にわたって眼底検査をしたことは認める。

右検査の具体的な内容は、後記三3(一)のとおりである。

(2) 同3(四)(2)の事実は否認する。

後記三2及び3記載のとおり、原告の本症による失明は、被告が眼底検査義務を尽くしたとしても回避できなかったものであり、原告の失明との関係では、被告に右義務違反は存しない。

(3) 同3(四)(3)の事実は否認する。

原告の主張は、原告の本症の進行が異常なものであったことを理解しようとせず、そのような変化があったことからすれば、それまでにその徴候があったはずであるという、具体的根拠に乏しく、具体的な証拠とも矛盾する憶測に基づくものでしかない。

(五)  同3(五)の事実は争う。

後記三3(三)ないし(五)記載のとおり、原告の本症の症状の発生は、第三回目の眼底検査のころで、それから症状が急激に進行したものとみられる。したがって、その約一週間前の無呼吸監視装置から離脱した時点で検査していても、まだ発症していなかったものであり、七月三一日の第三回目の所見でも、即座に転医を考えるようなものではなかった。原告の本症例は、この時点から急激に進行し、光凝固も奏効しない激症例であったと見るべきである。

(六)  同3(六)の事実は争う。

4  同4の事実は争う。

仮に原告の失明について被告に責任があるとしても、原告は、低酸素障害と無関係とはいえない運動麻痺障害を残しているし、知能障害も残しているのであって、これらの複合障害も被告の責任とされるなら格別、被告に問いうるのが失明についての責任に限られる以上、原告の損害額を確定するに当たっては、失明がこれらの障害に何を加えたのかという角度からの洗い直しが必要である。

三  被告の主張

1  昭和四九年度報告の評価

(一) 昭和四九年度報告の確定したもの

昭和四九年度報告の理解の仕方については、さまざまの議論が重ねられてきたが、右報告によって確定されたのは次のような事実である。

まず、それまでの文献で天理よろず相談所病院の永田誠医師らが主張していた光凝固の有効性が、基本的な病型の分類を知らないものであったこと、それまでに成功例として報告されていた光凝固成績の大部分は、自然治癒する[1]型網膜症への光凝固に過ぎず、失明防止という観点からは過剰であったことである。そして、このことから導かれるのは、まず、この報告までに積み重ねられてきた多数の追試報告で光凝固によって失明を防止しえたというものは、決して、それによって失明を防止できたといえるようなものではなかったということである。次に導かれるのは、光凝固治療の試みは、[1]型ではなく、[2]型あるいは混合型に重点を置くべきであるということである。後者については、自然治癒が期待できず、なんらかの治療の試みが必要であるが、[1]型のような段階的な進行をたどらないので、それについて説かれていたような治療開始時期をみていては対応できないこと、したがって早期の治療開始の必要なことが指摘されている。

(二) 昭和四九年度報告の残したもの

しかし、昭和四九年度報告によって確定されたのは、右(一)の事実までである。光凝固の実施については、具体的に、どのような症状のどの段階で、どのような方法で凝固すればよいのか、それが果たして有効であるのかは、すべて問題を将来に残すものであった。[1]型についても、活動期3期の段階的分類については、共同研究報告に参加した専門家の間でも一致した結論には達していないものであった。

(三) 昭和四九年度報告と国際的評価

昭和四九年度報告に対する右(一)、(二)のような認識は、今日では、医学常識になっている。そして、わが国の光凝固法の推進者であった永田医師らが、世界の一流の研究者を集めたワシントンの国際シンポジウムで、天理よろず相談所病院の光凝固法の成績について報告したのは、本件後の昭和五六年一二月四日から六日にかけてのことであったが、この報告に対しては、単なる実験に過ぎないという評価しか与えられなかったのである。

この本件当時までの一〇数年に及ぶ長期間の治療経験の総決算というべき永田医師の実験報告は、もちろん、この四九年度共同研究班報告をも踏まえたものであったことは、いうまでもない。しかし、世界的な否定的評価は、そのことをも織り込んだ上のものなのである。実際に、その批判は、[1]型、[2]型、混合型という共同研究班の病型分類そのものにも向けられていた。その批判が正当であったことは、厚生省ハイリスク母児管理研究班に属していた四九年度研究班のメンバーである植村恭夫、馬嶋昭生、永田誠の三氏が、昭和五八年二月の班会議で、同年九月に予定されていたカナダの国際会議を前に、旧分類基準の再検討を行ない、混合型を止めて中間型といい、[1]型活動期に前、中、後期という三分類を作り、各ステージについても修正するなどの作業をしたことが実証している。つまり、共同研究班報告の分類も、なお未完成であって、そのままでは世界に通用しないものだったのである。しかし、その修正を討議したメンバーの一部も参加した国際会議での共同研究の結果、この修正とも視点を変えた新しい国際病型分類ができたのである。

この国際分類は、活動期網膜症の病態の推移を客観的に捉えるのに有益なものであるが、それは、これまでのわが国の実験結果が、そのままでは国際的に通用しないことを意味している。このような新基準が、わが国の研究班の主力メンバーも参加して作成されたことの意味は重大である。そして、世界的にこの新国際基準による観察や、実験が開始され始めたというのが実情なのである。

(四) 本症の激症例と昭和四九年度報告

大阪高等裁判所における昭和五八年八月二六日の永田証言によれば、永田氏の指導を受けている医局員でさえも、病期の判定を誤ることのある事実だけではなく、本件当時の昭和五六年に、初めて自院保育の[2]型例に遭遇し、最初から観察していたにもかかわらず、一眼失明に終ったこと、その結果については、凝固の時期が遅かった、つまり凝固の適期の判断ができなかったという反省だけでなく、凝固の程度についても、自分は的確な判断ができず、むしろ、結果的には、医局員の判断の方が正しかったと考えられること、しかし、医局員の主張したような凝固をしても、視力を救い得たかどうかは分らないというのである。そして、このわが国の最高の権威者の一人も「もういかにして治療しても救い得ないケースがあるのはこれはやむを得ないこと」だと率直に告白されているのである。

このようにして、適期に適正な光凝固を行うことによって網膜症による失明を防止できるのであって、失明はこのような措置を怠ったためだというような論理が、医学的にも根拠のないものであることは、積極的な光凝固法推進者によっても明確に承認されている。そして、この証言でも、そのきざしは見えているが、その後の主張では、社会的には問題にならない瘢痕期二期にいたるのを防止するというところに光凝固法の意義の重点が置かれるようになっているのである。

2  光凝固の法的評価

(一) 光凝固の確かな部分

被告としては、今日でも、光凝固が全く無効だというつもりはない。そういい切るだけの資料を持ち合せていないからである。ただし、その効果については、永田医師も失明防止の点では限界があることを承認されている。その限界から漏れるものが決して例外的な事例ではなく、未熟性の高いものや、本件にその一例をみるように、長期間にわたって人工呼吸や酸素から離脱できないものでは、救うことのできない重症例が多いことも一般的に承認されている。

しかし、明らかなことは、まず、わが国の光凝固法は、本件当時に永田医師のような先端的研究者の実施したものでさえも、世界の眼科学界の大勢が科学的正当性を承認するようなものでなかったことである。そして、さらに、わが国でも、自らの光凝固の体験を踏まえて、光凝固の効果を実証されたものとして認めない専門家が現れている事実である。

(二) わが国の最近の医学的評価

かつては光凝固のもっとも有力な支持者であり、多くの網膜症裁判で数多くの論文が援用された植村教授は、最近では、もっとも深刻な懐疑者に転じている。関西では、もっとも早く有力な支持者となった塚原氏、積極的な追試者であった山本氏、永田医師の実験の際に身近かにいた菅氏の見解も同じなのである。

このような現状を直視すれば、本件当時の光凝固法についても、四〇年代半ばまでの時代遅れの実験報告を持ち出して、本件網膜症が適時に適切な光凝固をすれば、失明を回避できるようなものであったと主張できる根拠がないことは、明らかである。

たとえば、永田医師に最初から眼科管理を依頼し、網膜剥離前に光凝固を試みてもらうようなことをしていない本件では、そのような権威者の観察や凝固を受けていても、絶対に失明が不可避であったと断定することはできない。

(三) 光凝固の有効性立証の至難さ

原告としては、本件で光凝固によって失明が回避可能であったと断定できるはずはない。むしろ、光凝固の万能性が否定されてしまっている今日では、その困難は倍加されている。

網膜症を放置してもまず失明することのない[1]型があることを実証した馬嶋氏の有名な片眼凝固実験では、大部分の例は、凝固しない他眼が自然治癒したことによって、凝固が不要であったといえるのであるが、二例だけは他眼に進行がみられたので、両眼凝固している。しかし、この二例について両眼凝固に踏み切ったのは、放置すれば確実に失明したといえるからではなく、失明することによって問題が起きたら困るという配慮からであったという内輪話がある。つまり、その両眼凝固例が本当に放置すれば他眼失明にいたったかどうか解らないというのが実態なのである。永田氏も、前記の証言で明らかに、それを認めている。永田氏や馬嶋氏のような特別の専門家でも解らないのであるから、まして、医学の門外漢に過ぎない者に、その判断ができるはずはない。

このような状況の下では、それ以上に法律家が立入って、光凝固が本件に有効であり、それをしなかったために失明させたといえるはずはない。もともと、医学的に評価が定まらないような治療法を、実態を知ることのできない法律家が、一定の肯定的評価を与え、その実施を法的義務であるとしたり、その有効性を肯定して義務違反で結果を発生させたと説くことができるはずはない。まして、その医療行為の効果について医学的に深刻な争いがあり、否定的な批判者を誤りと決めつける知識も能力もない法律家が、その有効性を肯定して、それによって回避可能であったとして賠償責任を課するようなことがどうしてできるのであろうか。その答は明らかであろう。

網膜症裁判の教訓は、それが法律の介入してはならない医学専門的な限界のあることを教えたこと、その限界を犯すことが、どんなに重大な過誤を犯すことになるかを実証したところにある。実験の的確な評価がなかなかできなかった医学側の誤りも重大であったが、医学的に実験の評価の見直しの機運が顕著になってきているのに、無効だと判定できなければ有効として法的に義務づけるというような安易な法技術的論理が、司法関係者の大きな過誤の痕跡を残すことになったのである。

3  原告の本症の特異性と難治性

(一) 被告病院の行った眼底検査の具体的内容

被告病院の担当医師が原告に対し実施した眼底検査の具体的内容は次のとおりである。

(1) 第一回の検査は、生後一六日の五月二八日に行った。

結膜炎はあったが、瞼裂が小さく鈎がかからないので、眼底検査は不能に終わっている。

(2) 第二回目の検査は、生後四九日の六月三〇日に行った。

未熟眼底であって、周辺部に徹照不能な部分はあったが、眼底後極部に異常はなく、血管の異常な分岐、蛇行、走行は認められなかった。いわゆる[1]型[1]期にも達しておらず、追跡は必要であるが、被告病院の担当医師は、これまでの体験からみて、切迫した危険があるとは考えなかった。

(3) 第三回目の検査は、第二回目から一月後の七月三一日に行った。

後極部は徹照可能で著明な変化は認められなかったが、周辺部の混濁の状態が強くなっており、本症の発症を思わせた。窺われる範囲では、なお血管の異常は確認できなかったが、散瞳が完全とはいえなかったこともあって、近々に再検査することとした。

(4) 第四回目の検査は、第三回目の四日後の生後八三日、八月四日に行った。

後極部は徹照可能であったが、それまで鮮明であった視神経乳頭が不鮮明となっていて、症状の進行を思わせたので、なお、体重一二八〇グラムの状態であるが、移動可能なら大学病院で精査を受けるよう小児科に依頼した。

(5) そこで、被告病院の小児科から大阪医科大学との連絡を取り、了解をえて、八月八日には助教授の、同月一二日には教授の各診察を受けたが既に本症の活動期4期の状態になっていた。

(二) 第三回目の検査までの間隔と定期的眼底検査義務について

昭和四九年度報告によれば、原告のような未熟児については生後三週間以降において、一週間ごとに眼底検査を行うものとされているが、もともと週一回というのも機械的なものではなく、「ほぼ正常のものは二週に一回、定期的に検査し、3期に入った場合は週二回以上検査を行う」とする考え方もあり、しかも当該未熟児の危険を冒してまで実施しなければならないというものではないし、それぞれの経験によって間隔を空けることも十分に許されるものである。

これを、本件についてみると、確かに第二回目の検査と第三回目の検査の間隔は長すぎる。これは小児科と眼科の連携態勢に不十分なものがあったための空白である。ただ、第二回目は、酸素使用を中止した翌日のことであり、なお原告の予後は予断を許さない段階であったが、眼底そのものは、未熟眼底であるという外に、とくに警戒を要する所見がなかった。典型的な[2]型症例では、新生血管が後極部周辺で異常な形態・走行を示し、その周辺に大きな無血管帯を残すのであるが、そのような部位を超えて順調に新生血管が生育していったのである。

もちろん、被告病院の担当眼科医としては、だからといって手放しで楽観していたのではなく、一週間に一回程度の観察を続けるつもりであったが、それは、あくまでも原告の全身状態が検査による侵襲に耐えられるかどうかという小児科の判断が優先するべきであるという当然の前提から、小児科の連絡を待っていたものである。しかし、逆に小児科の側では、眼科が適当な時期に検査するものと考えていたというのである。このような行き違いを、連携不十分として非難されても仕方がない。それが、このような眼底検査の空白を作ってしまったのであるが、右に述べたとおり、この段階では二週間に一回でも十分であって、せめて七月中旬に検査するのが妥当であったというべきである。そして、もし、第四回目の検査の時点で病変が不可逆的な段階に突入していたなら、それでも有効に治療しうるものであったかどうかという問題は残るが、この検査の空白が、決定的な手落ちとして攻撃されても甘受する外はない。

しかし、本件では、そのような事態には至らなかった。したがってこの点の原告の攻撃は、単なる結果論からのものに過ぎないというべきである。検査をしなかったこと自体が問題なのではなく、しなかったことによって適時の対応ができず、そのために手遅れになったかどうかが問題であり、本件ではそのような事情は認められない。

(三) 第三回目の検査と被告の転医義務について

第三回目の通知書の記載が簡単であることはいうまでもないが、眼底が徹照可能であること、一週間後ではなく、数日後に再検査するというものであることは、明らかである。原告は、そこで緊急に特別の眼科専門医に渡すべきだと主張するようであるが、そのような眼底所見でないということは十分に表現されている。カルテに記載するとしても、周辺に軽い混濁があるが、網膜血管に異常な所見なしという程度でも充分である。

散瞳が十分でなかったため、網膜周辺の観察が完全にはできなかったのは事実であるが、典型的な[2]型の所見がないことは明白である。もし、そのような所見があったとすれば、原告が過剰だと攻撃する眼科医の認識からすれば、直ちに転医のための措置をとっている。むしろ、後極附近はもちろんのこと、眼底の新生血管に異常な走行や形態はみられていない。むしろ、境界線も確認されず、周辺に僅かの硝子体滲出がみられるという程度である。もっと切迫した状態であれば、翌日にでも再検査するのであるが、そのような緊急性がうかがわれるような所見でもなかったのである。結果論からすれば、第四回目の眼底検査結果と同様に、直ちに転医に向けて動くべきであったということは簡単である。しかし、現実に眼底所見がそのようなものであってみれば、一週間後ではなく、数日後に再検査するという対応を攻撃するのは筋違いである。

(四) 第四回目の検査と被告の転医義務について

この通知書にも、眼科から小児科へ与えられるべき情報は、十分に記載されている。未熟児網膜症の症状が進行しているようなので、大学眼科の精密検査を受けたいが、全身状態はそれに耐えるかというものである。全身状態が許せば、早急に大学に受診させたいというものである。原告は、第三回検査の結果、眼科医が、手術を要するかも知れないとか、大学に紹介する必要があるかも知れないと考えたということから、その時点で緊急の事態にあったというが、それは症状の進展によっては、という条件つきのものであることを度外視したものである。

しかし、この第四回の検査時点でも、直ちに送らねば失明するというような切迫した危険は認識していなかった。むしろ、眼底所見は、周辺の混濁が増してきていたという以外は前回と変らない。カルテに記載するとしても、周辺の混濁が増加しているが、眼底網膜血管は前回と同様というもので足る。それは、活動期三期の初期から中期というものであった。もちろん、中期の所見に牽引性変化が加わるとされる後期に入っているというようなものではない。原告は、抽象的に「光凝固の適期」であったとか、それを過ぎていたと主張しているが、[1]型の光凝固時期についてどのような見解が説かれていたかを無視した全く感情的な議論を重ねているだけである。

この点については、中期に入ると片眼凝固をして他眼の経過観察(馬嶋)、あるいは、中期に入ってなお進行の様子を見せるときに両眼凝固(永田)というのが当時の凝固基準であり、それに従うなら、第四回眼底検査の所見は、なお経過をみて、確定的に中期に入っているかどうかを確かめ、あるいは、その中期に入った後に更に進行するかどうかを確かめることを求めるものであり、被告病院眼科医は、まさにそのような対応をしているのである。この段階の所見は、光凝固を直ちに行なうべき状態ではない。このような所見で直ちに光凝固を必要とすると主張するような見解は存在しないのである。

(五) 原告の本症の異常な進行

現に本件で見られたように、その四日後には決定的な進行を示してしまっていたという予想外の転帰を辿った結果からすれば、たとえ、当時の文献的な基準がどうであれ、第四回目の検査の時点で直ちに凝固していれば、という思いが残るのは事実である。原告が攻撃しているのは、本例が全く予想外の急激な進行を示した未経験の症例であったことからすれば、もっと早急な対応をすべきであったという趣旨の当然の結果論的な感想を、「しかし、当時の所見や文献的知識からは予想できないものであったが、それを別とすれば」というもっとも重要な前提留保と切離して取り立てて、感情的な非難を結び付けているだけである。

実践医学の水準がどのようなものであったかを無視すれば、どんなことでもいえる。しかし、そのような無理解な押付け尋問に答えさせてみても、ここで問題となる医療水準での行動基準とは全く異る次元のものである。

ただ、第四回目の検査結果を、全身状態が搬送に耐えるかどうかを判断し、大学眼科への依頼を行う小児科医に直接行なったか、通知書と看護婦を介しての連絡であったかについては不明確なものが残っている。しかし、残念ながら、現実には八日に助教授の診察を仰いだ後、教授の診察を受けたのが、さらに四日後の一二日になったことも示すように、大学眼科でも、いつでも直ちに信頼できる専門医が診察に応じるような体制はできていない。このような条件下でもっとも早く診察してもらえたのが八日一番の診察であったことも、小児科医の証言するところである。

ただ、本件当時に、早期に専門医の診察を受けていれば的確な判断ができたのか、本例が当時の光凝固で進行を防止できるようなものであったのかは別の問題である。本件は典型的な[2]型ではなかったが、生後八七日の八日には致命的な進行を示していること自体からも、本例が激症例であったことは明らかであるし、とくに第四回検査の所見からすれば、その直後に急激な進行をみせたことも明らかである。本例のように呼吸状態が悪く長期間にわたって酸素使用を余儀なくされた例には、激症例が多いことも事実である。原告が弁護士会照会で入手しながら提出しなかった大学眼科記録の一部によれば、大阪医大では本例を急激な進行例としていることが明らかである。

第三  証拠<省略>

理由

第一  原告が本症に罹患し失明に至った経緯

一  請求の原因1(一)ないし(六)の事実並びに同1(七)の事実のうち、原告が大阪医科大学の眼科を受診したこと及び原告の本症が進行していたことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  右争いのない事実に、<証拠>を総合すれば次の事実を認めることができる。

1  原告の母親である上原順子は、懐妊後、昭和五五年一二月一六日から被告病院において診察を受けていたが、昭和五六年五月一一日分娩のため入院し、翌一二日午前八時二〇分原告を出産した。原告の出産予定日は昭和五六年八月一三日であり、出生時在胎週は二六週、生下体重は一〇三〇グラムのいわゆる極小未熟児であった。

2  被告病院の小児科には竹中一彰医長、円尾和子医師及び玉井浩医師の三人の医師がおり、右三名が協議しつつ原告に対する診療を担当した。原告は、出産直後から保育器に収容されたが、同年六月下旬ころまでは無呼吸発作が頻発し、同年五月一二日から六月二九日までの四九日間に原告は酸素を毎分一ないし四リットル投与された。なお、原告は、その後も昭和五六年八月三一日まで保育器で保育された。

3  一方、原告については、本症の発症の恐れがあったので、被告病院の勤務医で、眼科を担当していた坂口医師が、原告に対し、昭和五六年五月二八日(第一回目)、六月三〇日(第二回目)、七月三一日(第三回目)及び八月四日(第四回目)の四回にわたって眼底検査を実施した。そして、同医師は、その第四回目の眼底検査で原告が既に本症に罹患していると診断した。

4  その後、同年八月八日と同月一四日、原告は大阪医科大学の眼科で第五回目と第六回目の眼底検査を受けたが、その結果既に本症の活動期第4期の網膜剥離状態で両眼とも失明しており、治療不能と診断された。以上の事実が認められ<る>。

右の事実によれば、原告が本症により両眼とも失明したことが明らかである。

第二  原告と被告との間の医療契約の締結と本症の診断、治療に関する医療水準

一  原告と被告との間の医療契約の締結

請求の原因3(一)の事実のうち、被告がその経営する被告病院において原告を保育器に収容して保育看護に当たっていたことは当事者間に争いがなく、右事実に、<証拠>を総合すると、原告と被告との間に適切な未熟児保育を目的とする医療契約が成立したと認められる。

そして、医療機関は、人の生命身体の健康管理を目的とする医療行為に従事するものであるから、患者の診察、治療に際しては、その当時の実践における一般的医療水準としての専門的医学知識に基づいてその病状を把握し、治療を尽くすべき注意義務を負担しており、右注意義務を尽くして診療行為を行うことが医療契約の債務内容となると言うべきである。

二  本症に関する医療水準

そこで、まず、被告の注意義務違反の前提となる、原告が出生し被告病院において看護保育されていた昭和五六年五月から八月当時(以下「本件診療時」という。)の本症に関する医療水準について検討する。

1  昭和四九年度報告による本症の診断及び治療に関する基準

<証拠>によると、昭和四九年発足の、慶応義塾大学医学部眼科教授植村恭夫らからなる厚生省未熟児網膜症研究班は昭和五〇年に発表した報告(昭和四九年度報告)において、本症の診断及び治療に関し、次のとおりの基準を示していることが認められる。

(一) 本症の病型

本症は、臨床経過、予後の点から[1]型、[2]型に大別される。

[1]型は、主として耳側周辺に増殖性変化をおこし(鼻側と比べると耳側領域は血管発達が遅れるため、本症の病変は、耳側網膜に出現するという)、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型である。

これに対し、[2]型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、霞んだり朦朧としたりするため、この無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられ、[1]型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離をおこすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型である。

(二) 本件[1]型の臨床経過分類

1期(網膜内血管新生期)においては、周辺ことに耳側周辺部に、血管新生が出現し、それより周辺部は無血管領域で蒼白に見える。後極部には変化がないか、軽度の血管の迂曲、怒張を認める。

2期(境界線形成期)には、周辺ことに耳側周辺部に、血管新生領域とそれより周辺の無血管領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の蛇行、怒張を認める。

3期(硝子体内滲出と増殖期)は、硝子体内への滲出と血管及び支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の蛇行、怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

この3期については、これを前期、中期、後期の三段階に分ける見解があり、それによると、前期は、ごくわずかな硝子体への滲出、発芽を検眼鏡的に認めた段階、中期は、明らかな硝子体への滲出、増殖性変化を認めた段階、後期は、滲出性限局性剥離(境界線が後極側に向かう扁平剥離や、境界線がテント状に硝子体内にはりだす時期)とするものである。しかし、この時期は、かなり長い期間で、一部には活動性を示す部分と、一部ではすでに瘢痕化をおこしている部位が混在しているのがみられ、右3期の後期と次の4期の初期との区別は難しいとの意見もあり、現段階では、一応、硝子体内への滲出と増殖を目標として3期とする。

4期(網膜剥離期)は、明らかな牽引性網膜剥離の認められるもので、耳側の限局性剥離から全周剥離まで範囲にかかわらず明らかな牽引性剥離はこの期に含まれる。

(三) 本症[2]型の臨床経過分類

[2]型は、主として極小低出生体重児に発症し、未熟性の強い眼におこり、初発症状は、血管新生が後極よりにおこり、耳側のみならず鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広く、その領域は混濁のために不明瞭なことが多い。後局部の血管の迂曲怒張も著明となり滲出性変化もおこり[1]型の如き段階的経過をとることも少なく比較的急速に網膜剥離にと進む。

(四) 本症[1]、[2]型の混合型

以上の型の他に、極めて少数であるが[1]、[2]型の混合型ともいえるものがある。

(五) 本症の治療方法等

本症の治療には、未解決の問題点が残されているものの、光凝固あるいは冷凍凝固を適切に行うと治癒しうることが多くの研究者の経験から認められている。しかし、右の[1]型と[2]型における治療の適応方針には大差がある。

(1) 治療の適応

[1]型においては、その臨床経過が比較的緩徐であり、発症より段階的に進行する状態を検眼鏡的に追跡確認する時間的余裕があり、自然治癒傾向を示さない少数の重症例にのみ選択的に治療を施行すべきであるが、[2]型においては極小低出生体重児という全身条件に加えて網膜症が異常な速度で進行するために治療の適期判定や治療の施行そのものにも困難を伴うことが多い。したがって、[1]型においては治療の不要な症例に行き過ぎた治療を施さないように慎重な配慮が必要であり、[2]型においては失明を妨ぐために治療時期を失わぬよう適切迅速な対策が望まれる。

(2) 治療の時期

[1]型の網膜症は、自然治癒傾向が強く、2期までの病期中に治癒すると将来の視力に影響を及ぼすと考えられるような痕跡を残さないので、2期までの病期のものに治療を行う必要はない。3期において更に進行の徴候が見られる時に初めて治療が問題となる。

但し、3期に入ったものでも自然治癒する可能性は少なくないので進行の徴候が明らかでない時は治療に慎重であるべきである。この時期の進行傾向の確認には同一検者による規則的な経過観察が必要である。

[2]型の網膜症は、血管新生期から突然網膜剥離を起こしてくることが多いので[1]型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失うおそれがあり、治療の決断を早期に下さなければならない。この型の網膜症は極小低出生体重児で未熟性の強い眼に起こるので、このような条件を備えた例では、綿密な眼底検査を可及的早期より行うことが望ましい。無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する徴候が見えた場合は直ちに治療を行うべきである。

(3) 治療の方法

治療は良好な全身管理のもとに行うのが望ましい。全身状態不良の際は生命の安全が治療に優先するのは当然である。

光凝固は[1]型においては、無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し後極部付近は凝固すべきではない。無血管領域の広い場合には境界領域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管領域に散発的に凝固を加えることもある。

[2]型においては、無血管領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に充分な注意が必要である。

冷凍凝固も凝固部位は光凝固に準ずるが、一個当たりの凝固面積が大きいことを考慮して行う。冷凍凝固に際しては倒像検眼鏡で氷球の発生状況を確認しつつ行う必要がある。

初回の治療後症状の軽快が見られない場合には治療を繰り返すこともありうる。又全身状態によっては数回に分割して治療せざるを得ないこともありうる。

(4) 混合型について

混合型においては、治療の適応、時期、方法を[2]型に準じて行う。

(六) 定期的眼底検査

検眼鏡的検査は、一八〇〇グラム以下の低出生体重児、在胎期間では三四週以前のものを主体とし、生後満三週以降において、定期的に眼底検査を施行し(一週一回)、三か月以降は、隔週または一か月に一回の頻度で六か月まで行う。発症を認めたら必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察する。

2  本件診療時における医療水準

<証拠>によれば、昭和四九年度報告は、本件診療時には本症に関する体系書中でも紹介され、未熟児について本症の予防に当たる眼科医の間にも既に普及しており、被告病院の眼科医として原告の診療にあたった坂口医師自身もその基本的な内容を承知していたものと認められ、そして、前記のとおり昭和四九年度報告は主任研究者植村恭夫、分担研究者塚原勇、永田誠ほか九名らの、眼科医、小児科医、婦人科医等からなる厚生省の昭和四九年度研究班によって昭和五〇年三月に発表された本症に関する総合的な報告であることからすると、右報告の内容となった本症の診断及び治療に関する基準は、本件診療時には既に一般臨床科医にとってその診断及び治療の実践において前提とされるべきものとして認められていたというべきであり、右基準をもって本件診療時における医療水準を形成していたものと認めるのを相当とする。

次に、<証拠>によれば、本症の早期発見、早期治療には定期的な眼底検査が不可欠とされており、本件訴訟で特に問題となっている、本件診療時の未熟児に対する定期的眼底検査の目的、時期等についての医療水準は、右昭和四九年度報告のほか本件診療時には既に公刊されていた<証拠>によれば、つぎのとおりであったと認められる。

すなわち、未熟児に対する眼底検査は、本症の活動期の初発病変を捉えて、その経過を連続的に観察し、ヘイジイ・メデイア(眼底の中間が濁っている状態)の存在とその持続期間、未熟眼底と成熟眼底との鑑別、本症活動性病変の早期発見と[1]型、[2]型の判定等とを行い、これに基づいて治療方法を決定し、光凝固、冷凍凝固療法施行後においては予後合併症の追求をすること等を目的とするものである。そして、未熟児の眼底の未熟度の判定及び本症の発見のためには、生後できるだけ早期に、遅くとも三週以降眼底検査を開始し、本症の早期発見と進行の監視を行い、進行重症例へ最も適切な病期において光凝固ないしは冷凍凝固による治療を施すのが、実際的な対策であり、定期的な眼底検査の頻度については、昭和四九年度報告によれば、「生後満三週以降一週一回、三か月以降は、隔週または一か月に一回、六か月まで行い、発症を認めたときには、必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を実施し、その経過を観察することが必要」とされ、<証拠>によれば、「通常は一週一回、定期的に観察するが、必要な場合は毎日連続して観察する必要がある。」とされている。

なお、昭和四六年三月一日付けで天理病院小児科の金子純子ほか三名と同病院眼科の永田誠ほか一名が共同報告として発表した「天理病院における未熟児網膜症の対策と予後」と題する報告書(<書証番号略>)によれば、定期的眼底検査の程度については、「ほぼ正常なものは二週に一回、定期的に検査し、3期に入った場合は週二回以上検査を行う」との考えが示されているが、右報告は昭和四九年度報告以前のものであって、本件診療時における定期的眼底検査の実施に関する医療水準としては、右昭和四九年度報告によるべきものと認めるのが相当である。

また、被告は、右昭和四九年度報告が本症による失明を防止するのに有効な治療法として光凝固ないしは冷凍凝固をあげている点につき、右報告の時点でも光凝固ないしは冷凍凝固の有効性には疑問が存し、本件診療時の医療水準として光凝固ないしは冷凍凝固の有効性が認められていたとは言い難いかの如く主張するが、本件診療時以後に発表された昭和五七年度報告(<書証番号略>)によっても光凝固ないし冷凍凝固を有効とする昭和四九年度報告は維持されていることが認められること、更には、本症が放置すると患者の失明という重大な障害を来すのに対し、その結果を回避しうる可能性を有する治療法としては光凝固ないし冷凍凝固が唯一のものであって、現在に至るも他に有効な治療法が存しないことに照らしても、右被告の主張は採用できない(なお、光凝固等の有効性に関しては、後述の被告の注意義務違反と原告の失明の因果関係の項において検討する。)。

第三  被告の責任

一  被告担当医師の注意義務違反の有無

1  本件診療時に被告担当医師が原告を診察し、治療するに当たって負っていた本症に関する注意義務

右第二で認定したとおり、本件診療時の医療水準によれば、原告のような極小未熟児について、その診療を担当する医師ないし医療機関としては、本症に罹患し失明という重大な障害に至ることのあることを予測し、生後できるだけ早期、遅くとも三週以降眼底検査を開始し、一週一回定期的に眼底検査を施行して本症の早期発見に努め、本症の発症を認めた場合には、必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を施行し、[1]型か[2]型かの判別を行い、<1>[1]型と認められた場合には、その進行の監視を行い、臨床経過分類の3期に入り更に進行が認められるときに、<2>[2]型と認められた場合には、綿密な眼底検査を可及的早期より行い、無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管発生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する徴候が見えた場合は直ちに、いずれについても光凝固ないしは冷凍凝固による治療を施すべきであり、自らの手で右治療を施すことができない場合には、光凝固装置ないしは冷凍凝固装置のある病院に原告に転医させたうえ、光凝固ないしは冷凍凝固による治療を受けさせるべき注意義務を負っていたというべきである。

2  被告病院において原告に対し行った眼底検査

被告病院において原告の眼底検査を実施したのは、前記認定のとおり、被告病院の眼科を担当していた坂口医師であり、後掲証拠によれば同医師の経歴、被告病院における眼底検査の実施態勢、実施した眼底検査は次のとおりであったと認められる。

(一) 坂口医師の経歴等

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

坂口医師は、昭和三四年和歌山県立医科大学を卒業して昭和三五年に医師国家試験に合格し、その後、同大学の医局(眼科教室)に入るとともに眼科の大学院へ進み、卒業後紀北分院に勤務して眼科教室の講師を兼任していたが、昭和四一年六月に退職し、同年七月一日から被告病院に勤務していた。被告病院における眼科の担当医は坂口医師一人で、同医師が専ら診療に当たっていたが、被告病院に産婦人科が併設されている関係で、同医師は昭和四六年ころから産科で生まれた未熟児全員について、本症の予防も含め眼底検査を実施してきた。同医師は、昭和四九年度報告の内容も承知しており、本件診療時には、本症[1]型については、症状が進行し3期の中期以降に至った時は光凝固法を実施すべきであり、[2]型の場合には、[2]型と判明したら即光凝固法の実施を考慮すべきであると考えていた。同医師が本件診療時までに眼底検査を実施した未熟児(生下体重二五〇〇グラム未満のもの)は年間一〇〇人程度にのぼり、このうち原告と同じような極小未熟児の眼底検査も年間数例、多い時で一〇例近くを実施していたが、本症初期に至った程度のものは数例あったものの、未だ光凝固が必要な程重篤な症例には遭遇した経験はなかった。また、被告病院には光凝固装置がなかったため、坂口医師は光凝固法を施行した経験もなかった。

(二) 被告病院における未熟児に対する眼底検査の実施態勢

前記のとおり、被告病院では、昭和四六年頃から被告病院の産科で出生した未熟児に対し、眼底検査を定期的に行うようになったが、<証拠>によれば、右眼底検査の時期、方法等については、小児科の医師と眼科の医師との間に特別な取決めはなく、成熟児も含め、新生児全員に対し検査を実施していたこと、右検査の時期は、第一回目については、成熟児の場合は生後一週間後、未熟児の場合はその状態が落ち着いたと小児科の医師が判断した時点で小児科の医師が眼科に眼底検査の依頼の通知を回し、これに基づき検査が実施されていたことが認められる。

なお、第二回目以降の検査の時期については、眼科の坂口医師の証言によれば、小児科の方からの連絡を待って行う旨証言しているのに対し、小児科の玉井医師の証言では、二回目以降の眼底検査については、眼科の医師のほうで適当と認めた時期にこれを実施することになっていて、小児科のほうから眼科に検査を依頼することはなかった旨証言しており、小児科の認識と眼科の認識とに齟齬があったことが窺われる。

(三) 坂口医師が実施した眼底検査の実際

前記認定のとおり、坂口医師は、原告に対し、昭和五六年五月二八日(第一回目)、六月三〇日(第二回目)、七月三一日(第三回目)及び八月四日(第四回目)の四回にわたって眼底検査を実施しているが、その具体的状況については、<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(1) 五月二八日(第一回目・生後一三日目)

坂口医師は、昭和五六年五月二八日被告病院の小児科の担当医の依頼に基づき、散瞳して倒像鏡で覗く方法により原告の眼底検査を実施したが、原告の結膜炎を発見しただけで検査自体は不能に終わった。その際、同医師は眼科独自のカルテは作成せず、小児科に対する通知書(<書証番号略>)を作成してカルテに代用し、右通知書に「あまりに瞼裂が小さいので鈎がかからず、眼底検査は不能でした。」と記載した。

(2) 六月三〇日(第二回目・生後四九日目)

同年六月三〇日原告に対する二回目の眼底検査を実施した坂口医師は、網膜血管の異常な分岐、走行、蛇行、特に血管の新生を認めなかったため、原告は本症の[1]期にも至っていないと考え、前回同様小児科に対する通知書(<書証番号略>)に「眼底は透見可能で特に異常はない様です。ベビーがまだ未熟ですので今後さらに経過を観察します。」と記載した。

(3) 七月三一日(第三回目・生後七〇日目)

同年七月三一日原告に対する三回目の眼底検査を実施した坂口医師は、原告の硝子体とか中間透光体には異常がなく光が眼底まで透見しうる状態であり、見える範囲では特に血管の異常な変化を認めなかったが、周辺部には少し硝子体の滲出があるような感じがしたため前記通知書(<書証番号略>)に「HG(眼底)、徹照は可能ですが数日後再検します。」と記載した。

(4) 八月四日(第四回目・生後七四日)

同年八月四日原告に対する四回目の眼底検査を実施した坂口医師は、三回目の所見よりも更に混濁が強くなっており、硝子体内への滲出、増殖期に入っていると判断し、本症の進行(悪化)が窺われたので、大学病院での再検査が必要と考えたが、一方で、原告はまだ保育器に入っている状態で、移動させること自体生命に危険を及ぼす可能性もあると考え、前記通知書(<書証番号略>)に「七月三一日には散瞳が不充分でしたので本日再検しましたが、眼底の状態が悪くなっているように思います(未熟児網膜症)。動かせるものなら大学で眼底検査を受けて欲しいが無理でしょうか?」と記載した。

(5) なお、坂口医師は、前記のとおり眼科独自のカルテは作成しておらず、原告の眼底検査の結果についての客観的な記録としては、前記通知書と題する書面が唯一のものである。

3  被告担当医の実施した眼底検査とその注意義務違反

以上認定した事実によれば、被告病院の坂口医師は、極小未熟児として出生した原告に対し、本症の進行の予防のために眼底検査を実施するにあたり、第一回目については、これを生後一三日目に行っており、その時期自体には問題とすべきところはないが、第二回目以降については、第一回目と二回目、第二回目と三回目の間隔がほぼ一か月に及び、更に、坂口医師自身が原告につき本症の発症を疑ったと認められる第三回目以降の検査についても第四回目との間隔が四日に及んでいるのであり、このように間隔の生じた原因の一つに前記2(二)で認定したとおり、被告病院における小児科と眼科の本症の診療に関しての連携が適切になされていなかったことのあることを併せ考慮すると、坂口医師が原告に対し行った眼底検査には、原告のような極小未熟児の診療に当たる医療機関として負っている前記定期的眼底検査義務を怠った点のあることが明らかである。

なお、この点については、坂口医師自身も、一般論としては、初めのうちは一週間に一度ずつ、異常が認められたときにはもっと頻回に診るべきであり、極端な場合は毎日でもよいと考えており、原告についても第一回目の検査の後には小児科のほうに一週間後には診たいと伝えたが小児科のほうからの連絡がなくそのまま推移し、結果的に一か月の間隔があいてしまった旨証言しており、自らの行った原告に対する眼底検査が結果的にみて必ずしも適切でなかったことは否定していない。

また、昭和四九年度報告でも指摘されているとおり、原告のような極小未熟児については、治療は良好な全身管理のもとでなされなければならず、全身状態の不良なときには生命の安全が治療に優先すべきことはもとより当然であり、眼底検査の実施に当たってこの観点からの配慮も欠かすことができないというべきである。そして、原告の全身状態については、<証拠>によれば、五月中には、無呼吸発作が頻発し、人工呼吸器が使用され、光線療法も施され、更には低カルシウム血症や低蛋白血症も存したこと、六月中にも無呼吸発作に襲われていること、七月に入っても無呼吸監視装置を外せなかったこと、原告の体重も生下体重が一〇三〇グラムであったものが、生後二一日の六月二日には八〇五グラムと最低を記録し、生後七一日目である七月二三日になってやっと生下体重を上回り、一一二〇グラムに達したことが認められ、これらの事実に照らすとその全身状態の推移は必ずしも順調ではなかったというべきである。しかし、一方で、<証拠>によれば、ネオフィリン等の投与の効果もあり、原告の無呼吸発作の回数は五月から六月にかけて次第に減少傾向にあったこと、生後四八日目にあたる六月二九日には酸素の使用を最終的に止めていること、原告の体重も生後三七日目の六月一八日における八四〇グラム以降は一貫して増加傾向に転じていることといった事実も認められ、これらの事実を総合して考慮する限り、原告の全身状態は、未熟児であるがゆえの危機状態にあったとはいえ、常に生命の危険にさらされ、定期的な眼底検査の実施すら困難であったとまでは、到底認められず(坂口医師は、七月三一日の時点では、原告が保育器に入っており、身体も小さく、毎日外気に触れさせていいかどうかを懸念したため翌日の眼底検査は行わなかった旨証言するが、一方で原告の状態について小児科の医師に確認するといった措置をとっていないことも認めており、右懸念に確たる事実的根拠があると認めるべき証拠はない。)、他にこのような事実を認めるに足る証拠もない。

二  被告担当医の注意義務違反と原告の失明との因果関係

前記認定のとおり、被告担当医には原告に対する定期的眼底検査義務の履行につきこれを怠った点のあることが認められるので、進んで被告担当医が右検査義務を尽くしていれば原告の本症による失明を防止しえたか否かについて検討する。

まず、原告の本症が被告担当医師によって定期的眼底検査義務が尽くされていれば光凝固等の治療の適期を発見し得、右治療のための転医を勧めえたか否かあるいは右義務を尽くしてもなお失明を回避することが困難な症例であったか否かについて検討する。

1  原告が罹患した本症の病型及び進行状況について

原告の罹患した本症の病型及び進行状況については、坂口証言のほか鑑定人鶴岡祥彦による鑑定の結果(以下「鶴岡鑑定」という)が存するので以下順次検討する。

(一) 坂口証言とその評価

原告の眼底の状態に関する坂口医師の判断及び実質上カルテに代用されていた通知書の記載は前記認定のとおりであるが、原告の本症の病型及び活動期病変の分類について、坂口医師は、「二回目の六月三〇日の時点では特に血管の新生もなかったし、[1]型の1期にも至っていなかったような感じがした」、「三回目の七月三一日の時点では周辺部に滲出があるような感じがしたが、まだ後極部がよく見えていたから3期の初期かなという感じだった」旨証言し、更に、四回目の八月四日の時点における所見について、坂口医師は、被告代理人からの質問に対しては、「前回の所見よりもさらに混濁が強くなっており、3期の初期ないし中期という感じだった」旨、原告代理人からの質問に対しては「前回の状態と比べると3期の中期ぐらいじゃないかと思う」旨述べ、原告の本症の病型については、「自分が見たかぎりでは[2]型ではなく、全体的な経過からすると、急激に進行した激症例だと思う。」旨証言している。しかし、これらの証言は、坂口医師が原告に対する眼底検査を実施した時点から四年近く経過した後に述べられたものであり、しかも、前記認定のとおり、原告の眼底の状況に関する客観的な記録は通知書と題する書面に記載されたものしか存せず、その記載自体前記認定の程度の簡略なものであり、結局は右坂口医師の判断の根拠の大部分は同医師の記憶に頼らざるをえないものである。そして、確かに同医師は右証言の時点では本症の活動期病変についての判断に関し基本的な知識は有していたと認められるものの、右証言の結論が、「感じでした」「思います」といった推論ないしは推測程度のものに止まっており、しかも八月四日の状況に関する右証言自体からみても当時3期の初期か中期かの判断ができなかったのではないかともみる余地があるのである。また、坂口医師は、三回目検査の際には周辺部に滲出があるような感じがし3期の初期かなと感じたというのであるから、その時点で検眼鏡的に認められるべき3期の特徴である他の徴候(血管及び支持組織の増殖、後極部における血管の蛇行、怒張など)について、当然触れられてしかるべきであるのに、この点になぜ触れなかったのか疑問の残るところである。更に、<証拠>によれば、本症の活動期病変を捉えるに当たっては、本症が眼底の周辺部から始まるので、眼底周辺部の観察が必要であるところ、未熟児の眼底周辺部の観察は熟練を要する困難な作業であることが認められ、これまで重篤な症例に接していなかった坂口医師が、右周辺部の病変を見落した可能性も否定できない。そうであるとすれば、右本症の活動期病変に関する坂口証言はこれのみをもって直ちにその証言内容が事実に沿うものとは認め難いといわざるを得ないのである。

そこで、進んで、鶴岡鑑定について検討する。

(二) 鶴岡鑑定について

(1) 原告の本症の病型について

鶴岡鑑定は、原告の本症を、[1]型である可能性が強いとし、その理由として、次の六点を挙げる。

<1> [2]型の診断基準としては、a-血管の迂曲怒張、b-吻合形成、c-血管帯の位置が特殊な圏に存在することの三症状が挙げられるが、第[2]型の初期像は在胎週数に換算して三〇ないし三一週に認められ、初期変化から七ないし一四日を経て右三症状が出揃うのが一般であり、これを原告にあてはめると、原告の症例が[2]型であったとすれば、遅くとも六月三〇日には右三症状が出揃っているべきところ、前記六月三〇日の坂口医師の通知書には「特に異常はない様です」と記載されており、この点で[2]型であった可能性を否定できる。

<2> 鑑定人の経験によれば、[1]型の3期中期から後期にかけては、それまでよりももっと急速に進行し、3期後期から4期への進行も急速であって、3期後期から4期にあたる期間の進行が急速であることだけから、これを[2]型ないしは混合型とすることはできない。

<3> 第三回目の検査の際に通知書に記載された「徹照可能」とは、中間透光体に強い混濁が無いことのみを意味するものであって、網膜の詳細な所見を表現する言葉としては適切ではなく、眼底に異常があったか又は眼底を検査できなかったかという可能性を否定できない。

<4> 第二回目の検査の際に通知書に記載された「透見可能」とは眼底を観察できた趣旨と解されるが、眼底のどの部分を観察できたのかは不明であり、活動期病変が観察されず、発見されなかった可能性は、次の<5>からしても充分にありうる。

<5> 未熟児の眼底周辺部の観察は、困難な作業であり、これまで重篤な症例に遭遇していなかった坂口医師は、本症の活動期病変を発見できなかった可能性があり、また、病期の判定を誤った可能性もある。

<6> 坂口医師も原告の本症を[2]型ではないと証言している。

(2) 原告の本症の進行状況について

次に、鶴岡鑑定は、原告の本症の進行状況につき、昭和五六年七月三一日の三回目の眼底検査の時点では、[1]型3期後期に進行していたと考えられるとし、その理由として次の点を挙げる。

<1> 坂口医師の四回目の検査の際の通知書には、「七月三一日には散瞳が不充分でしたので……」との記載があるが、これは3期に入り、散瞳が不良になったためとも考えられ、散瞳が急に不良になってくるのは3期後期になってからであり、従って、七月三一日には3期後期に入っており光凝固の適期を過ぎていた可能性がある。

<2> <証拠>に紹介されている症例2、4、6及び10を参考にすると、六月一三日頃から七月二六日頃の間に光凝固を実施する必要があったと考えられる。なお、原告の本症は八月四日の検査の時点では[1]型3期後期あるいは4期に入っていたと推定される。

(三) 鶴岡鑑定の評価

(1) 原告の本症の病型について

<証拠>によれば、右鑑定を行った鶴岡祥彦医師は、昭和四四年に奈良県立医科大学を卒業して同年五月二一日医師国家試験に合格し、同年一一月から昭和五一年六月まで天理よろず相談所病院の眼科に所属し、その後昭和五三年三月まで大津赤十字病院の眼科の副部長を、昭和五九年一一月まで滋賀県医科大学の眼科の講師を、昭和六二年九月まで公立甲賀病院の眼科部長をそれぞれ経て、現在は眼科の開業医をしており、天理よろず相談所病院で永田医師とともに本症の治療に携わって以来、専門的に本症の治療に取り組み、既に二〇〇例以上の光凝固の手術を経験していることが認められる。右の事実によれば、鶴岡医師は、本症の治療、特に本症に罹患した患者に対する眼底検査及び光凝固の実施について、専門的知識を有し、しかも経験の極めて豊富な臨床医というべきである。

そして、鶴岡鑑定において同医師が、原告の本症が[1]型である可能性が強いとして挙げた理由<1>については、同医師の本症に関する豊富な臨床経験に基づくものであることのほか、鶴岡鑑定も引用している<証拠>によれば、国立小児病院眼科の森実秀子医師が観察した[2]型の症例七例は、いずれも在胎週に換算して三〇ないし三一週に初期病変が発症していること、<証拠>によれば、永田医師らが天理よろず相談所病院で昭和四二年から昭和五六年までの間に光凝固治療を行った症例は全部で一七例であるところ、このなかで[2]型とされるものは一例しかなく、この[2]型と認められた事例では在胎週数に換算して三一週目(実際には在胎週数は二六週で生後三一日目)に光凝固が施行されていること、<証拠>によれば、本症[2]型は「生後平均一ないし三週間在胎週数を延長して、ほぼ三〇ないし三一週で発症するものであり」と記載されていることが認められ、これらの事実をも併せ考慮すると、右鑑定の理由<1>の判断は充分に信頼に値するものというべきである。

なお、鶴岡鑑定人は、右理由<1>において本症を[1]型とする根拠として、これが[2]型であった場合には、第二回目の眼底検査が行われた六月三〇日において、[2]型の特徴とされるa-血管の迂曲怒張、b-吻合形成、c-血管帯の位置が特殊な圏に存在することの三症状が出揃っているべきところ、坂口医師の第二回目の通知書には「特に異常がない様です」と記載されていることを挙げて、同医師が右各症状を見逃すことのないことを前提とした判断をしているが、同鑑定人は一方で、鑑定の理由<3>及び<4>においては坂口医師が第二回目の眼底検査の際に活動期病変を見逃した可能性を考慮に入れているものであって、この間に矛盾があるようにも見える。しかし、昭和四九年度報告によれば、[2]型の初期症状は[1]型のそれに比べて顕著であることが指摘されているのであって、そうであるとすれば、坂口医師としては、[1]型の初期病変を見逃すことはありうるが[2]型のそれを見逃す可能性は少ないとみることができ、右鑑定人はこのような見地から前記判断を示しているとみうるので(鶴岡医師は、証人として被告代理人から坂口医師が経験が乏しいが故に[2]型を見落とした可能性があるかとの質問をうけた際に、「でも[2]型を見落としている可能性はまずないと思いますね。」と答えている。)、その意味において、右鑑定の根拠を肯定できるというべきである。

そして、鶴岡鑑定人が原告の本症が[1]型である可能性が強いとして挙げた理由の<2>ないし<5>の判断も、前記認定のとおり、原告の本症の病型に関する坂口証言の信用性に多分に疑問が存することをも考え併せると、鶴岡医師の豊富な臨床経験に基づくものとして信頼に値するというべきである。

以上の次第で、原告の本症が[1]型である可能性が強いとする鶴岡鑑定には合理性が認められ、一方坂口証言は信用性に乏しく、通知書の記載も簡略で、ほかに原告の本症が[1]型ではないことを認めるべき確たる客観的な証拠は存しないというべきである。

なお、本来であれば、[1]型か[2]型かの判定は、原告の客観的な眼底の変化についての所見(眼底の状態をスケッチしたカルテまたはこれに代わるもの)に基づいてなされるべきものである。しかし、前記認定のとおり、原告の眼底の状態についてはそのようなものは存しないし、唯一の記録である通知書の記載は簡略にすぎ、坂口証言も信用性に乏しく、そのような判断の資料としては用いえないものである。このような状況のもとでは、鶴岡鑑定のような手法によって原告の本症の病型を判断することもやむをえないところである。

また、鶴岡医師は、本件鑑定について証人として証言するに当たり、原告の本症が中間型(混合型)である可能性については、「可能性はありますけど、少ないんじゃないでしょうか。」と述べており、中間型である可能性を完全には否定していない。しかし、<証拠>によれば、永田医師らが天理よろず相談所病院で昭和四二年から昭和五六年までの間に光凝固治療を行った一七の症例のうち中間型(混合型)は七例であるところ、この七例については、生後三六日から五七日、在胎週数に換算して三二週から三七週目に光凝固が施行されていることが認められ、その点でも原告の罹患した本症は、中間型とは一線を画することができ、そもそも、昭和四九年度報告においても混合型は極めて少ないとされており、昭和六三年三月に日本眼科学会誌九二巻四号に発表された永田医師ほかによる「多施設による未熟児網膜症の研究」(<書証番号略>)によれば、永田医師らが調査した昭和五九年、同六〇年における本症の症例三六〇例のうち中間型は四例(一パーセント)にすぎなかったというのであり、このことに照らしても、前記のとおり坂口証言が信用性に乏しく、通知書の記載も簡略で、ほかに原告の本症が中間型であるとの確たる客観的な証拠の存しない本件においては、原告の本症が中間型であるとすることはできない。

(2) 原告の本症の進行状況について

鶴岡鑑定は、原告の本症は、昭和五六年七月三一日の時点では、既に[1]型3期後期に進行していたと考えられるとし、その理由として前記<1>、<2>の二点を挙げているが、<1>については、通知書の散瞳不充分との記載から直ちに散瞳不良とみること及び散瞳不良と3期中期とを結びつけることには、いずれも推_に飛躍ないしは無理があり、この点に関する理由づけには疑問の余地なしとしない。

また、理由<2>については、鶴岡鑑定人は<書証番号略>に紹介されている四つの症例を参考にし、それぞれの光凝固施行日が生後三六日から七六日までの間に分布していることを根拠として、これを原告の場合にあてはめ、生後三六日目にあたる六月一三日から七六日目にあたる七月二六日までの間に光凝固の適期があったと推論している。これに対しては、被告も指摘しているように、鶴岡鑑定人の引用する<書証番号略>に紹介されている症例が本症に関する初期のものであり、しかもその後の文献<書証番号略>とも対比すると一部症例(<書証番号略>の症例10)の記述の正確性に疑問の存するものがあることも事実である。しかし、仮に<書証番号略>の記述が正確でなく<書証番号略>の記述が正しかったとしても、光凝固の適期の分布は、生後六二日から七六日にあったということになるにすぎず、七月三一日には光凝固の適期を過ぎていたという推論そのものには影響を及ぼすものではない。また、<書証番号略>によれば、永田医師らが天理よろず相談所病院において昭和四二年から昭和五六年までの間に光凝固を実施した一七例が紹介されているところ、これによれば、右一七症例のうち[1]型は、九例であり、生後四四日から八〇日までの間に光凝固が施行されていることが認められ、これを原告の場合に当てはめると、七月三一日は生後七九日目に当たることになる。そうすると、これまでに認められたうち最もゆっくりした進行例を本件にあてはめても、同日が光凝固の適期にあたることになる。

そして、この様な推論自体には合理性が認められることに加え、鶴岡鑑定が原告の本症が[1]型である可能性が強いとして挙げた理由<2>ないし<5>、更には、後記のとおり、原告の本症が激症例であると認めるに足りる証拠の存しないことをも考え併せると、前記のとおり、坂口医師の本症の病型、進行状況に関する証言が信用性に乏しく、通知書の記載が簡略で他にこの点に関する客観的な資料の存しない本件においては、原告の本症の進行状況については、原告は生後七九日目である七月三一日には既に本症[1]型3期の中期を過ぎていた(後期に入っていた)かもしくは3期の中期にあり光凝固の適期にあったかのいずれかであった可能性が大きいものというべきである。

(四) 原告の本症が「激症例」である可能性について

被告は原告の本症が典型的な[2]型とは認められないとしても、坂口医師の第四回目の眼底検査の所見に照らし、生後八七日の八月八日には致命的な進行を示していることからすると、本件診療時の本症に対する医療水準のもとにおいてのみならず現在においても失明という結果を回避することの困難ないわゆる「激症例」であると主張する(なお、<証拠>によれば、「激症例」ないしは「ラッシュタイプ」という用語は、本症[2]型ないしは中間型の存在が明らかになる以前は、これらの急激に症状が進行する事例を総称して用いられていたようであるが、前記認定のとおり、原告の本症が[2]型ないしは中間型と認めるに足りる証拠は存しないので、被告のこの点に関する主張は<書証番号略>で永田医師も指摘しているような次の症例、すなわち[1]型の中に[2]型ないしは混合型に近く、症状の進行が急激で、定期的眼底検査義務を尽くしてもなお、光凝固ないしは冷凍凝固の適期を捉えられないか又は光凝固ないしは冷凍凝固を施行したとしてもなお失明に至ることを防ぎ得ないような症例があり、原告の場合がこれに当たるとの主張と解することとする。)。

被告は、原告の本症が激症例であるとする根拠として次のような点を挙げている。

<1> 前記第三回目及び第四回目の通知書並びに証人坂口の証言によれば、原告の本症は、坂口医師による第三回目と第四回目の検査の際には、光凝固の施行のための転医を考慮しなければならないような状況にまで進行しておらず、その後急激に症状が悪化したもので、坂口医師も全体的な経過に照らすと症状が急激に進行した激症例であることを認めている。

<2> <証拠>によれば、大阪医科大学で原告の治療に当たった東郁郎医師も激症例であることを認めている。

<3> <証拠>で永田医師も認めているとおり、[1]型についてはそのほとんどが自然治癒するのが実情であり、失明という結果にまで至った以上、原告の本症が[1]型のなかでも治療困難な激症例に当たるとみるべきである。

<4> <証拠>によれば、本症の治療のため昭和四五年から冷凍凝固を実施している山下由起子医師の紹介した症例の中には、生後一〇〇日を越えて冷凍凝固を施行した例や、3期に至った例もあり、八月四日(生後八三日)の段階では、未だそこまでの進行をみせていない症例があっても不思議はない。

確かに、<証拠>によれば、永田医師も[1]型の症例の中に当初は進行が緩やかだったものが、ある程度の期間を経過した後に急激に悪化するものが存在することを否定していないことが認められる。

しかし、既に認定したように、第三回目及び第四回目の検査の時点での原告の本症の進行状況に関する坂口医師の証言並びに通知書の記載は信用性に疑問があって、臨床経験が豊富で本症治療の専門家である鶴岡医師の鑑定結果に照らし事実とは認め難いものであり、これらが信用できることを前提とする右<1>は、その点で前提を欠くものである。<2>についても、東医師は八月八日以降の原告の症状を診たにすぎず、しかも、<書証番号略>の報告書が昭和五六年八月一二日付けで作成されていることからすると、同医師が原告の本症についてその全経過を詳細に検証したうえで激症例であるとの判断に至ったものとは考えられないから、その判断は、充分な根拠に基づくものとはいえず、直ちに採用し難いものである。また<3>、<4>については、それ自体としては、原告が激症例であることを直接根拠付けるものとはいえず、[1]型で失明に至ったものを直ちに治療困難な激症例であるとするには無理があるし(このような結論は光凝固ないし冷凍凝固の有効性そのものを否定しなければ導きえず、この点については後に検討する。)。前示のとおり、原告の本症の進行状況については、鶴岡鑑定の判断が信頼に値することからすると、これらのみをもって被告の主張を採用することはできないのである。

そして被告も認めるとおり、「激症例」は、本症の症例としては異常ないしは例外的なものであるところ、原告の本症がこのような例外的なものにあたり、八月四日から八月八日にかけて症状が急激に進行したとか、あるいは原告の本症がそもそも光凝固ないしは冷凍凝固が効を奏しないような症例であったとかいうような事実を認めるべき確たる証拠は存しないといわざるを得ないのである。

(五) 以上によれば、原告の本症は、[1]型で、昭和五六年七月三一日には既に本症[1]型3期の中期を過ぎていた(後期に入っていた)かもしくは3期の中期にあり光凝固の適期にあったかのいずれかであったものであり、被告担当医において前示のとおり当時の医療水準に基づく定期的眼底検査義務を尽くしておれば、光凝固等の適期を把握して転医を勧め、もって原告の失明を防ぎえたものというべきである。

2  光凝固の有効性について

もっとも、右は、光凝固または冷凍凝固の施行が、原告のような症例につき失明を防止するのに有効な手段であることを前提とするところ、右にみたように、右手段の有効性については当時の医療水準を顕すものというべき昭和四九年度報告においても前提とし、またその後の昭和五七年度報告においてもこれが前提とされているのであって、もはやその有効性は確立されているというべきである。しかしながら、この点に関し被告は、光凝固ないしはこれと作用機序をほぼ同じくする冷凍凝固は、その後の光凝固に対する評価の変遷をも考慮すると、本症による失明を回避するに足る有効な治療方法とはいえないとしてこれを争うので、検討する。

本件において光凝固の有効性に疑問を呈する見解を含む証拠としては、次のようなものがある。

<1> <証拠>によれば、光凝固の先駆者である永田医師は、昭和五一年一一月一〇日発行の日本眼科学会雑誌第八〇巻第一一号に「未熟児網膜症光凝固治療の適応と限界」と題する宿題報告を発表し、そのなかで、「同医師がそれまでに光凝固を実施してきた症例のうち重症瘢痕を残すものは恐らくそのうち五分の一ないし六分の一であったのではないかと推定され、従って、失明ないしは重症の瘢痕形成を防止することのみを主眼に考えれば、[1]型中期でなお進行の止まらないものを両眼凝固することは過剰治療といえぬことはない」として、[1]型中期に片眼光凝固という方針は当を得たものと述べている。

<2> <証拠>によれば、永田医師は、昭和五八年八月二六日大阪高等裁判所において、[1]型については、これを放置しておいてもその大多数は自然治癒し、これまでに同医師が光凝固を実施した例の中にも、実際には光凝固が不要であった例が含まれうるとの趣旨の証言をしている。

<3> <証拠>によれば、永田医師は、昭和五六年七月四日刊行の日本醫事新報において、「最近の本症による盲児は殆どが光凝固による治療にもかかわらず失明しており、しかも視力障害以外の重複障害をきわめて高率に伴っていることは、重症未熟児網膜症特に[2]型網膜症の治療に限界があることを示し、年間全国で推定五〇人程度の重度視覚障害児は今後も発生し続けることが予想される。Patzはアメリカで現在も年間二〇〇人程度の視覚障害児が発生していると推定しており、わが国の現状は欧米と比べて同程度、もしくはやや低率と考えられる。」と述べ、光凝固が行われているわが国と行われていないアメリカと同程度の失明が発生していることを認めている。

<4> <証拠>によれば、昭和四九年度報告の主任研究員でもある植村恭夫教授は、昭和五五年発行の産婦人科MOOK・NO‘9に掲載した「未熟児網膜症」と題する論述において「光凝固による治療については、批判が外国からも出され、本格的な再検討の時代になった。わが国での光凝固の適応例が少なくなった事実とあわせ、結局治療効果判定ができないままにこの治療法は使用されない時代に入っていくことが予測される。」と述べている。

<5> <証拠>によれば、植村教授は、昭和五六年四月一五日東京高等裁判所において、右報告における本症の治療法としての光凝固の位置づけについて、本症の予防法が確立されるまでの緊急避難的な治療法というものである旨証言している。

<6> <証拠>によれば植村教授は、米国及び英国では光凝固の実施には否定的であり、眼底検査の意義についても、患者の家族に子供の眼底の状態を告げることによって、子供の視力についての見通しをできるだけ早く家族に理解させることにある旨証言している。

<7> <証拠>によれば、塚原勇京都大学医学部教授は、昭和五五年一一月当庁において、[2]型に対する光凝固の有効性について「非常に治癒率が低いというのが多くの人の評価ですね。」と証言している。

<8> <証拠>によれば、天理よろず相談所病院眼科の副部長を経て京都大学医学部の非常勤講師をしている菅謙治医師は、昭和五八年一〇月、名古屋高等裁判所において、代理人からの「[1]型で最終的に網膜剥離に至るような例に対して、光凝固法は、証人は有効だとお考えなのかそれとも効かないというふうにお考えなのか、どうでしょうか。」という質問に対し、「今のところ分からないというのが本音です。」と証言し、さらに、光凝固が有効か否かはっきりしない理由として自然経過との比較がない(コントロールスタディがなされていない)ことを挙げている。

そして、以上の証拠によれば、現段階においては、永田医師自身本症[1]型の自然治癒率が極めて高く、自然治癒と治療による治癒との区別が困難であることを認めており、昭和四九年度報告の主任研究員として本症の治療方法としての光凝固ないしは冷凍凝固の有効性を主張していた植村教授自身がその有効性に懐疑的な意見を述べるなど、本症の治療方法としての光凝固ないしは冷凍凝固の有効性に疑問を投げかける見解があらわれていることが明らかである。そして、このような見解のあることを前提とする限り、現段階において、本症による失明の回避のための治療法として光凝固ないしは冷凍凝固が一〇〇パーセント確実なものとして認められているとすることはできないといわざるを得ない。

しかしながら、<証拠>において植村教授が指摘するとおり、医学一般においては、一〇〇パーセント予防、治療が可能かどうかを問うのは現実性に乏しい議論であり、治療法として有効か否かは、その有効であることが一般的な医療水準のもとで承認されているか否かによって決すべきものと考えられる。そうであるとすれば、前記認定のとおり、本件診療時の医療水準のもとでは、本症による失明という結果を回避するための唯一の治療方法として、定期的に眼底検査を行って適期に光凝固ないしは冷凍凝固を実施することが医師ないしは医療機関の義務として認められていたということに照らすと、本件診療時には光凝固が有効な治療方法として認められていたことは明らかであり、現時点で被告の定期的眼底検査義務の懈怠に基づく光凝固の不実施と原告の失明の相当因果関係を否定するためには、本件診療時後に明らかになった資料等によって光凝固が有効でないことが確定されなければならないものというべきである。

そこで、右のような観点から前記の<1>ないし<8>をみると、次の様なことがいえる。

前記<1>ないし<3>の永田医師の見解については、確かに従前の自己の見解を一部改め、光凝固の適用に当たってかなり慎重な姿勢に転じたことを窺わせるが、一方で同医師は<書証番号略>において、「[1]型については3期中期までは慎重な観察が必要であり、この時期でも片眼光凝固が考慮されてもよい」としながらも、「しかしながら私達自身は過去の成績の検討結果から今までの光凝固適応基準が誤っていたとは考えておらず、従来どおりに治療を行う方針である。」とし[2]型については、「一旦発症した場合は光凝固の絶対的適応があり、この際特に適応時期の選択は治療の成否を左右する最重要なポイントとなる。」と述べ、また、<書証番号略>においては、「[2]型についても全部の症例ではないが光凝固によって失明を回避する可能性がある。」「自分自身としては、本症の治療に光凝固を実施することは成功だったと思う。」旨証言している。更に、<書証番号略>によれば、永田医師ほか日本国内の一二施設一四病院の眼科専門医は、昭和五九年から六〇年にかけて扱った一五〇〇グラム以下の未熟児六〇〇例の眼科管理、治療成績について、日本眼科学会誌に「多施設による未熟児網膜症の研究」と題する論文を発表し、そのなかで、光凝固ないしは冷凍凝固を施行している施設と積極的治療をしないアメリカを含む他施設の治療成績の対比を行い、今後の検討に待つとの留保を付しつつも、現段階では、積極的に凝固治療をした場合のほうが視力障害が少ないとの研究結果を明らかにしていることが認められる。これらの文献に照らせば、同医師自身は、本症の治療に当たっての光凝固の有効性をむしろ確信しているものであって、これを否定しているものではないことが明らかである。

次に<4>ないし<6>については、植村教授自身光凝固をいわば緊急避難的治療法として位置づけ、<書証番号略>では、光凝固は「やむをえない激症例にのみ使用するにとどめるべきであろう。」としているが、一方で、本症による失明を回避するに足る治療法が他に確立されていないことは認めているのであって、このように例外的にであるとはいえ光凝固による治療法の意義自体はこれを認める以上、その有効性を完全に否定したものとまではいえない。

また、<8>については、菅医師は、<書証番号略>において、「実際に相当例経験している医師の中で光凝固が[1]型の網膜症に対し有効でないと言い切っているものがいるか。」との趣旨の代理人の質問に対し、「そういう話は聞いたことがない。」旨証言し、結局は自分としては有効か無効かはっきり言えないとしており、同医師自身光凝固が有効でないとまではしていない。また、同医師の指摘するコントロールスタディについても未だこれがなされていない以上、その結果によって光凝固の有効性が否定されたといえるものでもない。

以上のとおり光凝固の有効性に対しこれまで提出されている疑問は、必ずしもその有効性を完全に否定しているものではないというべきである。そして、前記のとおり光凝固ないし冷凍凝固を有効とする昭和四九年度報告が、昭和五七年度報告によっても維持されており、その後厚生省の特別研究班による同種の報告はなされておらず、<証拠>によれば、昭和五六年及び昭和六〇年にそれぞれ発行の医学書院「今日の治療指針」には本症の治療法として光凝固及び冷凍凝固が紹介されているといった実情をも考え併せると、本件訴訟に現れた各証拠に照らすかぎり、本件診療時において本症の治療法として認められていた光凝固ないしはこれと作用機序を同じくする治療法である冷凍凝固の有効性は、現段階においてもいまだ否定されるには至っていないというべきである。

3  以上によれば、結論として被告には本件診療契約に基づく債務の不履行が認められ、右債務の不履行と原告の失明の間には相当因果関係が認められることとなるから、被告は、原告が右失明の結果により被った損害を賠償する義務があるというべきである。

第四  原告の被った損害

1  一括損害について

原告は本件の損害として一括損害を主張する。しかしながら、債務不履行ないしは不法行為に基づく損害賠償額の算定に当たっては、その損害の内容について、各費用ごとに、それが将来にわたるものである時などには将来における予測につき諸種の統計表等の資料を利用し、経験則と良識を活用して合理的でかつ客観性のある額を算定すべきである。このような観点からすると、本件においては、後記のごとく損害の費目ごとに損害額を算出することが充分に可能であることに照らしても、右のような一括損害の請求は、損害額の算定過程の合理性を欠き、また裁判所の裁量に依存するところが大となって客観性にも疑問なしとしないこととなり、採用の限りではない。

そこで、以下、損害の費目ごとに原告の被った損害額について検討する。

2  逸失利益

原告が本症により両眼とも完全に失明に至ったことに照らせば、原告は将来にわたり、失明当時に原告が有していた労働能力の一〇〇パーセントを喪失したとみるのが相当である。

ところで、<証拠>によれば、原告は出生時から既に左上下肢の麻痺による運動障害を有しており、身体障害者手帳では、右運動障害による障害等級は三級と認定されていることが認められ、右身体障害による労働能力の喪失自体は被告の注意義務違反に起因すると認められない以上、原告が失明によって喪失した労働能力の算出に当たっては、右原告の運動障害の事実を考慮せざるを得ないというべきである。そして、障害等級三級のものの労働能力喪失率は一〇〇パーセントと認めるのが相当であるから、原告は本症による失明がなくとも既に労働能力を喪失していたものといわざるをえず、そうであるとすれば、原告については失明による逸失利益を認めることはできない。

3  介護料

原告は両眼とも完全に失明しているから、生涯他人の介護を要する点が多々あるものと認められるところ、成人までは近親者により介護されることが予想され、成人後は多少とも自助能力を有するに至るものと推認されるから介護料を一日二〇〇〇円、一年を三六五日として七三歳(昭和五六年簡易生命表によれば〇歳男子の余命は七三・七九歳)までライプニッツ式で中間利息を控除すると、その現価は一四一八万五〇〇〇円となる。

2,000×365×19.4321=14,185,433

4  慰謝料

原告は、本症による両眼失明のため、生涯にわたり社会生活のみならず日常生活においても決定的な制約を受けることを考えると、その精神的肉体的苦痛が極めて大きいであろうことは認めるに難くない。

しかし、また一方で、本症は生後間もない未熟児に発生するものであって、その主因は網膜自体の未熟性にあり、しかもその発症の原因自体完全に解明されたわけではなく、適期に治療がなされたとしてもなお失明に至った可能性も完全に否定できるものでなく、失明を免れたとしても瘢痕期病変の予測も困難である等果たして原告が両眼とも完全に視力を回復したかどうかについては不確定要素が全くないとはいえないから、これらを慰謝料額算定の一要素として考慮するのが相当である。

そして、以上のほか前記認定の被告の注意義務違反の程度その他本件訴訟にあらわれた一切の事情を斟酌すると、被告が原告に対して支払うべき慰謝料は一〇〇〇万円をもって相当と認める。

5  弁護士費用

本件事案の内容、訴訟の経過、認容額、その他諸般の事情を考慮すると被告が原告に賠償すべき弁護士費用は四〇〇万円をもって相当と認める。

第五  結論

よって、原告の被告に対する本訴請求は、被告に対し二八一八万五〇〇〇円及びこれに対する不法行為もしくは債務不履行の後である昭和五六年九月八日から支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中込秀樹 裁判官 西岡清一郎 裁判官 野路正典)

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