大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和61年(わ)5546号 判決 1991年4月24日

《目次》

主文

理由

〔はじめに〕

第一捜査及び公判審理等の概要

一饗応事件の捜査の端緒

二現金供与事件の捜査の端緒

三捜査の進展と被告人らの起訴等

四公判審理の概要

五補充捜査

第二検察官の主張の概要

第三弁護人の主張の概要

第四当裁判所の理由説明の順序

第五関係者の捜査段階における供述の信用性を判断するに当たって考慮すべき諸事情

一関係者の捜査段階における供述の信用性を肯定する方向に働く諸事情の概要

二関係者の捜査段階における供述の信用性を否定する方向に働く諸事情の概要

第六本件当時のH1らによる甲に対する支援活動等の存在

第七本件以前のH1後援会の活動状況と四月の三回の会合開催の問題

一開催時期および会費徴収の問題

二四月二六日会合への非後援会員たる真光教関係者の出席の問題

第八三月下旬会合の関係者の捜査段階における供述の概要

第九三月下旬会合の関係者の捜査段階における供述の検討

一H1方で行われた二月二五日、二六日開催の天神祭の会合及び六月一五日開催のH1後援会の役員会の存在

二三月下旬会合において現金三万円とともに出席者に配られたとされる菓子の調達先の問題

三三月下旬会合の開催日に関連する諸問題

四四月の三回の会合の日取りに関する三月下旬会合当日のH1の発言振りの問題

五三月下旬会合当日の出来事に関する一部出席者の供述

六現金の準備状況に関するH1及びH13の供述

七被告人K1の樫田地区からの三月下旬会合出席者に関する供述

八被告人P1の供述及びH1方到着ころの状況に関する被告人らの供述

九被告人N1の三月下旬会合に遅参した状況や宴席における会話の状況に関する供述

一〇三月下旬会合におけるH14及びH15の出席の有無

一一確定者Y7の供述

一二受供与金品の確認状況等に関する一部被告人の供述

一三T22、M10、O17、被告人T13、D5、O12、H16及びE11の供述

第一〇四月の三回の会合当日の甲1の足取りの問題

第一一四月の三回の会合の関係者の捜査段階における供述の概要

第一二四月の三回の会合の関係者の捜査段階における供述の検討

一捜査段階におけるH1の供述の変遷及び変遷事項に関する関係者の供述

二四月の三回の会合当日の甲の退出状況等に関する関係者の供述

三A3巡査部長の饗応事件の捜査の端緒に関する証言及び同巡査部長の内偵捜査の結果が七月七日以降の捜査に与えた影響

四H14及びH15の供述

第一三捜査段階における「罪証隠滅工作」の存在

一七月一〇日会合

二七月一一日会合

第一四確定者の存在

第一五捜査段階における弁護人の関与

第一六七月一八日官能警部補に面会した際のH13らの言動及びその際同警部補がH13らに手渡したメモの問題

第一七四月の三回の会合には甲が出席していなかった可能性に関する検察官の主張について

第一八結語

別紙被告人目録

主文

各被告人は、いずれも無罪。

理由

〔はじめに〕

被告人H1に対する昭和六一年八月四日付起訴状記載の公訴事実(訴因変更後)の要旨は、

「被告人は、昭和六一年七月六日施行の参議院議員通常選挙に際し、甲が大阪府選挙区から立候補する決意を有することを知り、同人に当選を得させる目的で、いまだ右甲の立候補届出のない同年四月七日、大阪府高槻市大字田能小字的谷二番地所在宴会・宿泊施設『高槻森林観光センター槻の郷荘』において、同選挙区の選挙人であるD2ほか四四名に対し、同候補者のため投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬として一人当たり四一一八円相当の酒食の饗応接待をし、一面立候補届出前の選挙運動をしたものである。」

というものであり、同被告人に対する同年八月一三日付起訴状記載の公訴事実(第三事実につき訴因変更後)の要旨は、

「被告人は、昭和六一年七月六日施行の参議院議員通常選挙に際し、甲が大阪府選挙区から立候補する決意を有することを知り、同人に当選を得させる目的で

第一  いまだ同人の立候補届出のない同年三月下旬ころ、大阪府高槻市古曽部町二丁目二番三号の被告人方において、同選挙区の選挙人であるM1ほか二六名に対し、右甲のため投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬として、現金三万円を供与し

第二  いまだ右甲の立候補届出のない同年四月一六日、前記『高槻森林観光センター槻の郷荘』において、同選挙区の選挙人であるH6ほか五一名に対し、右甲のため投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬として一人当たり三八三〇円相当の酒食の饗応接待をし

第三  いまだ右甲の立候補届出のない同年四月二六日、前記『高槻森林観光センター槻の郷荘』において、同選挙区の選挙人であるN13ほか四五名に対し、右甲のため投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬として一人当たり三七七九円相当の酒食の饗応接待をし

それぞれ一面立候補届出前の選挙運動をしたものである。」

というものであり、

別紙被告人目録記載の番号二ないし八、一一ないし一七、一九ないし二七の各被告人に対する各公訴事実の要旨は、

「被告人は、昭和六一年七月六日施行の参議院議員通常選挙に際し大阪府選挙区の選挙人であるが、昭和六一年三月下旬ころ、前記H1方において、同選挙区から立候補を決意していた甲の選挙運動者である右H1から、右甲に当選を得させる目的で、同人のため、投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬として供与されるものであることを知りながら、現金三万円の供与を受けたものである。」

というものであり、

別紙被告人目録記載の番号二八ないし四一、四三ないし四八、五〇、五二ないし五四、五六ないし五九、及び一三五の各被告人に対する各公訴事実の要旨は、

「被告人は、昭和六一年七月六日施行の参議院議員通常選挙に際し大阪府選挙区の選挙人であるが、昭和六一年四月七日、前記『高槻森林観光センター槻の郷荘』において、同選挙区から立候補を決意していた甲の選挙運動者であるH1から、右甲に当選を得させる目的で、同人のため、投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬としてもてなされるものであることを知りながら、一人当たり四一一八円相当の酒食の饗応接待を受けたものである。」

というものであり、

別紙被告人目録記載の番号六〇、六一、六三ないし七六、七八ないし九九の各被告人に対する各公訴事実の要旨は、

「被告人は、昭和六一年七月六日施行の参議院議員通常選挙に際し大阪府選挙区の選挙人であるが、昭和六一年四月一六日、前記『高槻森林観光センター槻の郷荘』において、同選挙区から立候補を決意していた甲の選挙運動者であるH1から、右甲に当選を得させる目的で、同人のため、投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬としてもてなされるものであることを知りながら、一人当たり三八三〇円相当の酒食の饗応接待を受けたものである。」

というものであり、

別紙被告人目録記載の番号一〇一ないし一〇九、一一一ないし一三四の各被告人に対する各公訴事実の要旨は、

「被告人は、昭和六一年七月六日施行の参議院議員通常選挙に際し大阪府選挙区の選挙人であるが、昭和六一年四月二六日、前記『高槻森林観光センター槻の郷荘』において、同選挙区から立候補を決意していた甲の選挙運動者であるH1から、右甲に当選を得させる目的で、同人のため、投票及び投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬としてもてなされるものであることを知りながら、一人当たり三七七九円相当の酒食の饗応接待を受けたものである。」

というものである。

当裁判所は、審理の結果各被告人はいずれも無罪であるとの判断に到達したが、その理由は、以下に述べるとおりである。

なお、説明の便宜上、事件名、会合名、関係者名等について多くの略称を用い、証拠の引用に当たっても簡易な略語を使用するなど、以下のとおりの表示方法を用いることとする。

(事件名)

現金供与事件……被告人H1に対する昭和六一年八月一三日付起訴状記載の公訴事実第一及びこれに対応する別紙被告人目録記載の番号二ないし八、一一ないし一七、一九ないし二七の各被告人に対する各公訴事実を示す。

四月七日事件……被告人H1に対する同月四日付起訴状記載の公訴事実(訴因変更後)並びにこれに対応する別紙被告人目録記載の番号二八ないし四一、四三ないし四八、五〇、五二ないし五四、五六ないし五九、及び一三五の各被告人に対する各公訴事実を示す。

四月一六日事件……被告人H1に対する同月一三日付起訴状記載の公訴事実第二及びこれに対応する別紙被告人目録記載の番号六〇、六一、六三ないし七六、七八ないし九九の各被告人に対する各公訴事実を示す。

四月二六日事件……被告人H1に対する同月一三日付起訴状記載の公訴事実第三(訴因変更後)及びこれに対応する別紙被告人目録記載の番号一〇一ないし一〇九、一一一ないし一三四の各被告人に対する各公訴事実を示す。

饗応事件……四月七日事件、四月一六日事件及び四月二六日事件全体を示す。

(会合名)

三月中旬会合……検察官が、三月下旬会合に先立ち被告人H1ほか六名が出席し同被告人方で開催された、と主張する会合を示す。

三月下旬会合……検察官が、現金供与事件の発生した当日被告人H1方で開催された、と主張する会合を示す。

四月七日会合……同年四月七日、大阪府高槻市大字田能小字的谷二番地所在宴会・宿泊施設「高槻森林観光センター槻の郷荘」において、被告人H1ほかが出席して開催された会合を示す。

四月一六日会合……同月一六日、右「高槻森林観光センター槻の郷荘」において、被告人H1ほかが出席して開催された会合を示す。

四月二六日会合……同月二六日、右「高槻森林観光センター槻の郷荘」において、被告人H1ほかが出席して開催された会合を示す。

(被告人、相被告人、死亡した被告人及び確定者の表示について)

被告人については、混同の生ずるおそれのない限り「被告人」の肩書と姓のみで表示するが、「被告人」の肩書を省略することもある。

別紙被告人目録記載の各被告人と併合審理をしてきたが、平成三年四月二四日までに判決の宣告をしていないK18及びM9については、個別に表示する場合には、混同の生ずるおそれのない限り「相被告人」の肩書と姓のみで表示するが、「相被告人」の肩書を省略することもある。なお、複数の者を示す趣旨で「被告人」、「被告人ら」、「各被告人」等の表示を用いる場合には、これら相被告人を含むことがある。

また、本件においては、平成三年四月二四日までに当裁判所が知り得た限りにおいて、検察官の公訴提起後、O14、E10、O16、K23、K22、V1、K21、T24及びH18の九名の被告人が死亡しているところ、これらの者については、混同の生ずるおそれのない限り「死亡被告人」の肩書と姓のみで表示するが、「死亡被告人」の肩書を省略することもある。

さらに、本件においては、現金供与事件と同様の事実について一名、四月七日事件と同様の事実について六名、四月一六日事件と同様の事実について五名、それぞれ略式命令が確定しているところ、これらの者については、混同のおそれのない限り「確定者」の肩書と姓のみで表示するが、「確定者」の肩書を省略することもある。

(捜査官等の身分の表示について)

捜査官等の身分は、すべて本件当時のものである。

(証拠の引用に関する略語等)

認定に用いた証拠は、適宜、文中又は文尾にその標目を引用するが、その際、次のような略語を使用する(なお、供述を引用するに当たっては、適宜、明らかな誤字、脱字及び送り仮名の誤り等を訂正するほか、句点、読点を補う)。

一 司法巡査、司法警察員及び検察官に対する供述調書

それぞれ巡面、員面及び検面と略称する。また、日付については、例えば七月七日付員面を、単に7.7員面と表示する。

二 公判廷における被告人及び死亡被告人の供述並びに証人の証言

被告人及び死亡被告人の公判廷における供述については、当公判廷における供述(第五三回公判期日以降)と公判調書中の供述記載とを区別せず、例えば、第一九回公判調書中の被告人H1の供述記載部分及び同被告人の第六二回公判における供述を、それぞれ単に「一九回H1供述」、「六二回H1供述」と表示する。

同様に、証人についても、例えば、第五回公判調書中の証人甲の供述記載部分及び同証人の第六八回公判における供述を、それぞれ単に「五回甲証言」、「六八回甲証言」と表示する。

三 当裁判所の押収した証拠物(昭和六二年押第四五五号の1ないし53)の押収番号については、「昭和六二年押第四五五号」の表示を省略し、例えば、「昭和六二年押第四五五号の1」を、単に、「符1」と表示する。

(年月日)

「昭和六一年」の表示は原則として省略する。年月日のうち年を表示していないものはすべて昭和六一年である。

第一  捜査及び公判審理等の概要

一  饗応事件の捜査の端緒

証人A3は、第三一回公判において、被告人らに対する任意の取調べが本格的に開始された、七月六日施行の参議院議員通常選挙(以下、単に参院選という)の投票日の翌日である七月七日以前、饗応事件に関し同人の行った内偵捜査等に関して証言している。同証言の信用性については別途慎重に吟味する必要のあるところであるが、同証人の行った内偵捜査の本件における重要性に鑑み、ここでは、右の点をひとまず置き、その証言の大要を示すこととする(三一回A3証言)。

1 大阪府高槻警察署に勤務していたA3巡査部長(以下、単にA3ともいう)は、参院選に関する公職選挙法違反事件の内偵捜査に従事していたが、昭和六〇年暮れころ、甲(以下、単に甲ともいう)の同選挙への出馬がほぼ堅いとの認識を持った。情報収集の過程で、甲の顔写真と名前が印刷されたテレホンカードを入手したり、昭和六一年五月末ころ大阪府高槻市(以下、大阪府の記載を省略することがある)内の山水館で戦没者遺族会の北摂ブロックの定例会が開催され、その場に甲が出席し参院選に立候補する旨の挨拶をし、同人が同会合に一万円を寄付した事実を把握したこともあった。

2 A3は、六月七日、以前から接触のあった被告人T2の自宅を訪問し、同被告人から、情報収集源として、高槻市原に居住するK19、及び、被告人N1の紹介を受けた。

3 A3は、六月一一日ころ、右K19の自宅を訪問し、同人から、二か月程前同人方を被告人T20が訪れ、同被告人から近々大阪府高槻市大字田能小字的谷二番地所在宴会・宿泊施設「高槻森林観光センター槻の郷荘」(以下、単に槻の郷荘という)で開催される被告人H1の後援会(以下、単にH1後援会という)の世話人総会への出席方を依頼されたこと、K19は同会合に出席しなかったが、近隣の者から同会合が盛況であった旨聞いたことを聴取した。A3は、H1は、昭和四六年から四期連続して高槻市議会議員選挙に当選し、市議会議長を務めたこともあり、翌年四月に次期選挙を控えているものの、右会合がH1後援会の後援会活動であることに疑問を持った。

4 そこで、A3は、六月一二日ころ、槻の郷荘へ赴き、事務員の田中育子に会って予約受付簿を閲覧し、四月七日、四月一六日、四月二六日の三回にわたってH1によって会合の開催が予約されていること、及び、五月一七日にも会合が予約されていることを了知した。

5 次いでA3は、樫田駐在所から槻の郷荘の従業員名簿を入手し、料理を担当しているT3、受付を担当しているT21、接待を担当しているK20を選んで接触することとした。

6 A3は、六月中ころ、右T3の自宅を訪れ事情を聴取したが、T3は、四月ころH1の会合があったことは知っているが、会合の目的やその様子は知らないということであった。

7 A3は、前記T21の自宅も訪問して事情を聴取し、同女から、四月中に、被告人H1の妻H13(以下、単にH13ともいう)がある紳士を槻の郷荘の一階入口まで送り、玄関口で片膝をついてその紳士を見送ったこと、三月末か四月初めころH1から電話があり、高槻森林観光センター職員の田中一嘉が応対したが、同人はH1との会話の中で甲先生云々という話をしており、電話が終わって同女が「予約ですか」と尋ねると、T3は「いや違う、今度な、府会議員の甲先生が会合に来るらしいわ」と話していたこと、及び、五月の会合には二〇名くらいの婦人が集まったが、槻の郷荘従業員から、その席に甲の妻である甲2が出席していたらしく、甲が選挙で落ちても食堂かなにか店をやっており、生活はやっていけるという話があったこと、を聞いた。右のようなT21の話を聞き、A3は、H1が開催した会合は甲のために行われた会合である可能性を強く認識した。

8 そこでA3は、四月の三回の宴会を体験した者から更に事情を聴取した方がよいと判断し、まず六月二〇日ころ、前記K20の自宅を訪問した。当初、同女は情報提供を拒否したが、A3の説得により、四月初めと四月末の会合の接待を担当したが、H1が会場まである紳士を導き、会合が始まるとカラオケのマイクを使い参院選に出馬する甲を招いているという紹介をし、その後甲もマイクで挨拶したこと、その内容については、H1が、甲は今回参院選に出馬するが非常に知名度が低く苦戦を強いられている、皆さん一つよろしくと挨拶したこと、甲が、H1が言ったとおり非常に激戦で苦戦を強いられているので皆さんの力添えをよろしくと挨拶したこと、を話した。

さらに同女は、五月の会合では、甲の妻である甲2を見たことを話した。

9 A3は、さらに石橋をたたく意味で、会合出席者から事情を聴取することとし、まず、被告人T5に接触した。同女には、六月二一日ころ自宅で事情を聞いたが、同女は、会合に出席したことは認めたものの、会合の趣旨や目的についてはちょっとここでは言えないと述べた。A3は、同女から五、六名の出席者を教えてもらった。

10 A3は、T5から教えたもらった出席者の身辺捜査を行い、元国鉄職員すなわち公務員であったことに着目して、確定者M8から事情を聞くことにし、六月二二日ころ、当時行動を共にしていた山下武史刑事とともにM8の自宅を訪問した。

M8は、当初は供述を渋ったが、A3の説得により、会合で甲支援の挨拶があったことを述べた。A3は、当日もM8が同様の供述をするならばM8の供述はほぼ間違いのないものであろうと考え、その日はあえて供述調書の録取をせず、翌日再びM8宅を訪れた。翌日もM8の供述内容は変わらず、A3は会合の模様、挨拶の内容、御馳走の内容等を録取して供述調書を作成し、また、M8が甲の座った位置を記入した見取図を書いたので、調書に添付した(なお、M8のA3に対する供述調書の日付は六月二三日である)。

なお、この段階では、M8は会合の日付を四月二六日ころと記憶している、しかし定かではない、四月中であったことは間違いないと供述していたが、その後七月七日、A3が再度M8を取り調べた際には、同人が四月七日と訂正した。

また、M8から事情聴取をする際には、同人の妻が終始同席していた。

二  現金供与事件の捜査の端緒

また、A3は、第三一回及び第三二回公判において、現金供与事件の捜査の端緒となったという、七月一九日の被告人K1に対する取調べ状況についても証言しているので、以下、その大要を示すこととする(<証拠>)。

1 七月一九日は、午前九時一五分から午後五時ころまでK1を取り調べた。

2 三月下旬に開催された役員会(当裁判所注・三月下旬会合を指す)にK1が出席していることは既に判明していたので、同役員会の話を聞いていったが、取調べを開始して二時間くらいたった昼前くらいのことと思うが、(役員会が)終わって腰を上げて帰る段(の話)になると、(K1の)話し振りがぎくしゃくし、しどろもどろとなり、何か動作がおかしくなった(なお、「終わって腰を上げて帰る段」というのは、七月一九日の取調べが「終わって腰を上げて帰る段」という意味ではなく、事件当時の状況を述べたものである(<証拠>))。それを見て、A3は、『これは何か隠しておるな』と直感したが、すぐにそれに飛び付くと得てして自分のやったことに対する怖さというかそういう意識が働き、話ができなくなる場合があるので、冷静さを保ちながら静かに聞いていったところ、(K1が)実は、帰り際にH12から呼び止められ、白地で何か模様の入った紙の包みをもらったということを話してくれた。(A3が)その包みには、何が入っていたかと聞くと、(K1は)一つは、バームクーヘンとかいう菓子が入っており、その包みを出すと、袋の底の方に、もう一つ長方形の封筒が入っており、その封筒を取り出し、中をのぞくと、手の切れそうな新札で現金三万円が入っていた、という話をした。

3 K1は、それまで捜査官が全く知らない話を初めてしたものであり、A3としては、同人自身心証を取るために、慎重を期したいということで、当時帳場にいた別の係長を呼び、二人で最初から通して再度、一五分から二〇分間、K1の話を聞き、心証をつかんだ。

4 その際、K1は、H13からもらったときの状況について、玄関を上がった二畳くらいの部屋の辺りまで来たときに、H13に呼び止められ、「ちょっと、K1さん、待って」と言われた、立ち止まると、H13は、T24に対して、「T22さん、ちょっと出して」と指示し、T24が白い紙包みを一つ持ってきてH13に渡し、H13が、その包みを「今日はえらい御苦労さん」と言ってK1に渡した、と供述した。

三  捜査の進展と被告人らの起訴等

関係各証拠によると、前記A3の内偵捜査に続くその後の捜査の進展状況及び被告人らの起訴の状況は、大要、次のとおりである。

1 参院選の投票日である七月六日夕方、審査員が高槻署に集められ、高槻署に勤務する藤川新次郎警部補から、本件の概要や、翌七月七日に任意出頭を求める者及びその取調官の配置等についての説明があった。なお、警察における本件捜査の主任は、大阪府警察本部刑事部捜査第二課に勤務していたE12警部(以下、単にE12ともいう)であった。

2 七月七日早朝、取調官が、被告人H1ほか四月七日会合出席者のうち同日任意出頭を求める者七、八名の住居に赴き、取調場所へ同行し、任意の取調べが開始された。また、翌七月八日には、H1の自宅及びこれに隣接するH12が代表取締役を務めるH1建設の事務所の捜査が行われた。

3 七月七日付で、甲の四月七日会合への出席並びに同人に対する支援を求めるH1及び甲本人の挨拶の事実を認める自白調書が作成されたのは、確定者M8及び同O13のみである。ただし、被告人T6及び確定者T19の両名につき、甲の出欠には触れることなく、H1が甲に対する支援を求める挨拶をしたことを供述した七月七日付員面が録取されている。

その後、七月二〇日までに、右三名を含む合計四五名の、被告人H1を除く被告人、死亡被告人及び確定者につき、甲の四月七日会合への出席並びに同人に対する支援を求めるH1及び甲本人の挨拶の事実を認めた員面が録取され、七月二六日までに、右四五名のうち被告人S9を除く合計四四名につき、右趣旨の検面が録取され、被告人S9については、九月三日に右趣旨の検面が録取されている。

4 四月一六日会合出席者に対する任意の取調べがいつ開始されたのかは、証拠上明らかでないが、まず、七月一三日付で、被告人K7及びH6について、甲の四月一六日会合への出席並びに同人に対する支援を求めるH1及び甲本人の挨拶の事実を認めた員面が作成されている。

そして、七月二六日までに、右二名を含む合計五二名の、被告人H1を除く被告人、相被告人、死亡被告人及び確定者につき、甲の四月一六日会合への出席並びに同人に対する支援を求めるH1及び甲本人の挨拶の事実を認めた員面ないし巡面が録取され、八月七日までに、右趣旨の検面が録取されている。

5 四月二六日会合出席者に対する任意の取調べがいつ開始されたのかは、証拠上明らかでないが、まず、七月一四日付で、被告人T2、同N3及び死亡被告人O14について、甲の四月二六日会合への出席並びに同人に対する支援を求めるH1及び甲本人の挨拶の事実を認めた員面が作成されている。ただし、被告人T2については、甲の出欠には触れることなく、H1が甲に対する支援を求める挨拶をしたことを供述した七月一〇日付員面が録取されている。

そして、八月七日までに、右三名を含み被告人S8を除く合計四六名の、被告人H1を除く被告人、死亡被告人及び確定者につき、甲の四月二六日会合への出席者並びに同人に対する支援を求めるH1及び甲本人の挨拶の事実を認めた員面が録取され、被告人S8については八月一三日に右趣旨の員面が録取されている。また、八月八日までに、右四六名の右趣旨の検面が録取され、被告人S8については、八月二六日に右趣旨の検面が録取されている。

6 また、四月の三回の会合に先立ち、H1後援会の主要メンバーによって右会合に関する事前の謀議が行われたのではないかとの疑いを持った捜査官により、右の点に関する被告人らの取調べが行われた。

被告人らの員面の記載によると、三月中旬会合につき、まず、七月一四日、被告人D1及び同T2がその開催事実を認める供述をし、三月下旬会合についても、同日D1が、その開催事実を認める供述をしている。その後、T20も七月一六日に三月下旬会合の開催事実を認める供述をしたほか、検察官が、D1及びT2以外に、三月中旬会合に出席したと主張している(ただし、被告人H1を除く)被告人D2、同T20、死亡被告人O14、同E10の四名が、七月二〇日までにこれら会合の開催事実を認める供述をしている。

そして、被告人らの員面の記載によると、七月一九日、被告人K1が、初めて現金供与事件についてその事実を認める供述をしている。次いで、被告人D1について、翌二〇日、右事実を認める員面が作成されている。

その後、七月二八日までに、右二名を含み被告人S1を除く合計二六名の、被告人H1を除く被告人、死亡被告人及び確定者につき、現金供与事件についてその事実を認めた員面が録取され、被告人S1については、八月六日に右趣旨の員面が録取されている。また、八月八日までに被告人S1を含む合計二七名の右趣旨の検面が録取されている。

7 一方、被告人H1については、七月七日から同月一四日まで、連日、同被告人に任意出頭を求め、大阪府警察本部刑事部捜査第二課の松園繁巡査部長(以下、単に松園ともいう)によって、主として四月の三回の会合開催に至る経緯や四月七日会合の状況についての取調べが行われたが、この段階では、H1は甲の同会合への出席並びに同人に対する支援を求める同被告人及び甲本人の挨拶の事実を否認していたところ、七月一四日夜、四月七日事件を被疑事実とする逮捕状の執行を受け、大阪府警察本部留置場に身柄を拘束された。

供述調書の記載によると、H1は、その後、七月二三日、本件の主任検事である大阪地方検察庁特別捜査部の矢田次男検事に対し、現金供与事件、四月七日事件、四月一六日事件及び四月二六日事件のすべてについてこれを認める供述をし、その後捜査官の取調べを経た後、八月四日、四月七日事件について起訴され、同月一三日、現金供与事件、四月一六日事件及び四月二六日事件について起訴されている。

8 また、H13に対しても、七月八日、九日、一〇日と任意出頭を求めた上で、大阪府警察本部刑事部捜査第二課の官能慎一警部補(以下、単に官能ともいう)によって、主として四月七日会合の状況についての取調べが行われたが、この段階では、H13は、甲の同会合への出席並びに同人に対する支援を求めるH1及び甲本人の挨拶の事実を否認していた。

その後、H13は、八月二日、当時入院していた病院の病室内で矢田検事の取調べを受け、本件各公訴事実につき、検察官の主張に沿う供述をしたほか、同月四日、同月一一日にも同所で矢田検事の取調べを受け、供述調書が作成されている。

9 H1の長男であるH14(以下、単にH14ともいう)については、八月六日付で、五木田彬検事によって、四月の三回の会合に甲が出席したことを認める検面が作成されている。

また、H14の妻であるH15(以下、単にH15ともいう)については、八月七日付で、城祐一郎検事により検面が作成されているが、四月の三回の会合につき、いずれも甲の出欠を断定しない供述が録取されている。

10 その他、槻の郷荘従業員K20、H1家雑役婦M10、H1建設事務員兼雑役婦T22、H1建設事務員O17、被告人H2の妻H16、被告人O3の妻O12、被告人D2の妻D5、H1家出入りの魚屋E11につき、捜査段階で、いずれも、検察官の主張に沿う員面が作成され、その後同趣旨の検面が作成されている(ただし、D5については、証拠上員面の存否は不明である)。

11 甲については、七月三〇日、前記E12警部が事情を聴取し、その際には甲は四月の三回の会合への出席を否認していたところ、八月一日、矢田検事の取調べにおいては、右各会合への出席を認めたほか、検察官の主張に沿う供述をし、検面が作成されている。

また、検察官が、四月の三回の会合に際し、甲の運転手として同人を槻の郷荘まで送り届けたと主張しているM11は、八月八日、城検事の取調べを受け、検察官の主張に沿う供述をし、検面が作成されている。

12 被告人H1以外の被告人、相被告人、死亡被告人及び確定者については、被告人S8及び同S9を除き、八月二一日、S8については、八月三〇日、S9については、九月九日、検察官が公訴を提起するとともに略式命令の請求をした。

略式命令の告知に対し、現金供与事件についてY7、四月七日事件についてT19、T18、M8、F7及びO15、四月一六日事件についてN14、U6、T17、K17及びE9の合計一一名は、正式裁判の請求をせず、各略式命令が確定した。被告人H1以外の被告人、相被告人、死亡被告人及びO13は、正式裁判の請求をしたが、その後平成二年三月七日、右O13は正式裁判の請求を取り下げ、同人に対する四月七日事件についての略式命令が確定した。

四  公判審理の概要

1 冒頭手続において、現金供与事件で起訴された被告人のすべてが、三月下旬会合の存在そのものを否定して無罪を主張し、また、四月七日事件、四月一六日事件及び四月二六日事件で起訴された被告人のすべてが、四月七日会合、四月一六日会合及び四月二六日会合の存在及び酒食の提供を受けた事実を認めた上、右各会合は、H1後援会の会合であり、甲は出席しておらず、甲及びH1が、参院選における甲に対する支援を求める挨拶をした事実はないとして、いずれも無罪を主張した。

2 検察官は、各起訴状記載の公訴事実においては、現金供与事件のあった三月下旬会合の日付について、「三月下旬ころ」と特定していたが、第四回公判において、「三月一八日から四月三日までの間の一日」であると釈明したほか、冒頭陳述で四月七日会合の開始時刻は午後零時ころであり、そのころ甲も出席していると主張し、また、第五回公判において、四月一六日会合の開始時刻は午後零時ころ、四月二六日会合の開始時刻は午後二時三〇分ころから午後三時ころまでの間であり、両日とも甲は会合の開始前後ころこれに出席した、と釈明した。

また、検察官は、論告においては、従前の主張を変更し、三月下旬会合の日付について、「三月二九日ころ」であると主張している。

3 当裁判所は、第五回公判から証人の取調べを開始し、甲等の証人、被告人H1ほかの被告人並びに死亡被告人O14及び同E10を取り調べたほか、公判廷で被告人質問を行わなかった被告人については、被告人質問に代え、その供述書を取り調べた。

以下の審理を通じ、捜査官を除く甲ほかの各証人、H1ほかの各被告人並びに死亡被告人O14及び同E9は、公判廷において、いずれも検察官の主張に沿う捜査段階での供述は、虚偽であると述べた。また、公判廷で被告人質問を行わなかった被告人も、供述書中で、検察官の主張に沿う捜査段階での供述は虚偽であると述べている。

五  補充捜査

第五回ないし第六回公判において、甲が四月の三回の会合当日の同人の足取りにつき証言したことから、検察官は、公判審理進行中の昭和六三年八月、四月の三回の会合当日における甲の足取りに関する走行テストや、甲の立ち寄り先関係者の事情聴取等を行うなどの補充捜査を行っている。

第二  検察官の主張の概要

検察官は、論告において、本件においては、捜査段階において、多数の関係者(被告人、相被告人及び確定者を含む本件関係者を総称する。以下同じ。)ほぼ全員が検察官の主張に沿う供述をしているところ、その供述は、いずれも具体的かつ詳細で臨場感に富み、十分信用するに値するものである一方、公判段階におけるこれらの者の検察官の主張に反する弁解は、いずれも不自然、不合理である上、証拠上明らかな本件犯行前後の被告人H1を取り巻く状況、ことにH1と甲等との関係、H1後援会の活動状況等に照らすと、本件各公訴事実の存在は、いずれも優にこれを認定することができるものであると主張する。

さらに、検察官は、本件においては、合計一二名にのぼる略式命令確定者が存在しており、かつ、これらの者が公判段階で述べる弁解、ことに正式裁判の請求をしなかった理由に関する供述は、いずれもおよそ納得できるようなものではないこと、本件においては、捜査段階で罪証隠滅工作が行われていること等の諸事情に論及し、被告人らが本件各犯行に及んだことは明らかであると主張する。

第三  弁護人の主張の概要

弁護人は、弁論において、本件においては、捜査段階において、多数の関係者の検察官の主張に沿う供述が録取されているが、右供述が、捜査官の見込みに基づき、その欲するままに被告人らに供述を押し付けた結果録取された虚偽の供述であることは、公判廷における被告人及び死亡被告人の供述、確定者を含む証人の証言並びに被告人作成の供述書に照らし、明らかであると主張する。

さらに、弁護人は、本件においては、捜査段階における多数の関係者の供述を裏付ける物的証拠は存在せず、被告人らの無罪は明らかであると主張する。

第四  当裁判所の理由説明の順序

本件の特徴は、捜査段階において、一五〇名を超える者が、細部はともかくおおむね検察官の主張に沿う供述をしたにもかかわらず、公判段階においては、すべての者がこれを翻し、検察官の主張に反する供述をした点にある(なお、確定者Y7は、公判廷において、一部検察官の主張に沿う証言をしているが、その評価については第九―一一で検討する)。

したがって、最終的には被告人らの捜査段階における供述が信用できるものかどうかが本件の核心であるが、当裁判所としては、まず、関係者の捜査段階における供述の信用性を判断するに当たって考慮すべき諸事情を、右供述の信用性を肯定する方向に働く諸事情と、右供述の信用性を否定する方向に働く諸事情に分けて俯瞰することとし、その後、右供述の信用性を肯定する方向に働く諸事情のうち、本件当時のH1らによる甲に対する支援活動等の存在の問題、及び、本件以前のH1後援会の活動状況からみた四月の三回の会合の開催の問題点を検討し、次いで、本件の時系列に従って(検察官の主張によると、因果の流れに沿うことにもなる)、三月下旬会合における現金供与事件について検討を加え、次いで、饗応事件全体にかかわる問題として、四月の三回の会合当日の甲の足取りについて検討し、しかるのち、饗応事件、捜査段階における「罪証隠滅工作」の問題、確定者の存在の問題等について検討することとする。

なお、現金供与事件及び饗応事件の双方にまたがる重要な問題点については、関係者の捜査段階における供述の信用性を判断するに当たって考慮すべき諸事情を検討する際に、詳細な検討を加えることとする。

第五  関係者の捜査段階における供述の信用性を判断するに当たって考慮すべき諸事情

一  関係者の捜査段階における供述の信用性を肯定する方向に働く諸事情の概要

1 捜査段階におけるほぼ関係者全員の検察官の主張に沿う供述の存在

検察官が論告で主張するとおり、本件においては、捜査段階において、被告人一二四名、相被告人二名、死亡被告人九名、確定者一二名及び甲を含む関係者のうち、H15を除くすべての者が検察官の主張に沿う供述をしている。

そして、これらの者の供述をみると、具体性や臨場感に富み、通常、事実を真実体験した者でなければなし得ないのではないかと思われるものが少なくないことは、検察官が論告において詳細に指摘するとおりである。

これらの者の供述は、相互に証明力を補強する関係に立つものであり、一般論として、このように多数の者が、検察官の主張に沿う供述をしていることは、それ自体、関係者の捜査段階における供述の信用性を肯定する方向に働く事情というべきであろう。

しかし、当然のことながら、まず吟味すべきは、関係者一人一人の供述の信用性であることはいうまでもない。その際必要なのは、特定の供述者の供述に着目し、供述が、それ自体経験則に反しないものであるかどうか、不自然、不合理なものではないかどうか、さらに、時期を異にする供述に前後矛盾するものがないかどうか、矛盾する場合には、供述の変遷に合理的な理由が認められるのかどうか、という、言わば供述の縦の面の検討と、複数の供述者の供述に着目し、特定の事項に関する各供述が、相互に矛盾するものではないかどうかという、言わば供述の横の面の検討である。特に、本件においては、現金供与事件、饗応事件のそれぞれにつき、多数の者が、H1の発言や甲の発言を含む会合の状況について、同一の体験をしているはずであり、後者の検討が前者に劣らず重要な意味を持つといわなければならない。

2 本件当時のH1らによる甲に対する支援活動等の存在

検察官は、論告において、本件各証拠によると、本件前後、H1が参院選に出馬する甲を支援する会合に出席した事実、甲が参院選での支援を求めてH1方を訪れた事実、H17代議士から、H1に対し、甲に対する支援を求める依頼のあった事実、H13が甲2の依頼により同女とともに高槻市内を挨拶回りした事実等を認めることができるところ、これらの各事実と、検察官主張のとおりの内容を持つ三月下旬会合及び四月の三回の会合の開催は、自然な事実の流れの中に位置付けることができるものであると主張する。

右のような事実の存否及びその評価については、別途第六において検討することとする。

3 本件以前のH1後援会の活動状況

検察官は、論告において、本件各証拠によって認めることのできる本件までのH1後援会の活動状況に照らすと、四月の三回の会合は、開催時期、会費徴収の有無、出席者の身分(H1後援会会員でない○○教関係者の出席)等の諸点において、従前のH1後援会の活動の枠を超えていると認められるところ、この事実は、公判廷におけるH1らの弁解、すなわち、四月の三回の会合はH1後援会の親睦会にすぎないとする弁解とは、相いれないものであり、したがって、三月下旬会合における現金供与の事実及び四月の三回の会合における饗応の事実を推認させる事実であると主張する。

これらの諸点については、別途第七において検討することとする。

4 確定者の存在

第一―三―12で述べたとおり、本件においては、現金供与事件について一名、四月七日事件について六名、四月一六日事件について五名の、合計一二名にのぼる略式命令確定者がある。

このように、相当数の確定者が存在することは、通常、検察官が論告で主張するとおり、それ自体、本件各公訴事実の存在を推認させる事情といい得るものであろう。

さらに、検察官は、このうちY7は、公判廷で三月下旬会合の存在を認めていると主張するほか、各確定者の公判廷における証言をみると、いずれも極めて不自然、不可解で、到底信用できないと主張している。

Y7の三月下旬会合に関する証言については、別途第九―一一において検討し、確定者の存在及び略式命令に対し正式裁判の申立てをしなかった、又は、後にこれを取り下げた理由に関する証言の評価については、別途第一四において検討することとする。

5 捜査段階における「罪証隠滅工作」の存在

(一) 七月一一日夜の下條集会所における会合

本件各証拠によると、七月一一日夜、被告人T20及び確定者T18の呼びかけにより、四月七日会合出席者の一部が大阪府高槻市原二四六番地所在の原下條集会所に参集して会合を開き(以下、単に七月一一日会合ともいう)、警察に対して、四月七日会合には甲は出席していなかったことを記載した書面を提出することを決め、その後、現実にその旨の上申書二通(<証拠>)が作成され、最終的に捜査官に押収されたことは明らかである。

検察官は、論告において、七月一一日会合の状況に関する同会合出席者の捜査段階における供述や、同会合に出席したものの右上申書に署名しなかった理由等に関する一部の同会合出席者の捜査段階における供述によると、右会合が、真実は四月七日会合に甲が出席したにもかかわらず、出席しなかったことに口裏を合せるための会合であることは、明らかであると主張する。

七月一一日会合の開催、右上申書の作成及び警察への提出等が、検察官主張のとおり、被告人らによる罪証隠滅工作と断定できるものであるか否かについては、別途第一三―二において検討することとする。

(二) 七月一〇日夜の古曽部町立公民館における会合

また、本件各証拠によると、七月一〇日夜、被告人D2らの呼びかけにより、四月七日会合出席者の一部が、大阪府高槻市古曽部町一丁目二六番二六号所在の古曽部町立公民館に参集して会合を聞き(以下、単に七月一〇日会合ともいう)、四月七日会合への甲の出席の有無等について話し合ったことを認めることができる。

七月一〇日会合については、検察官は論告の中で何ら主張していない。しかし、関係者の捜査段階における供述によると、右会合も、真実は四月七日会合に甲が出席したにもかかわらず、出席しなかったことに口裏を合わせるための会合であったというのである。

七月一〇日会合の状況に関する関係者の捜査段階における供述が真実であるとすれば、四月七日事件の存在は明らかである。そこで、当裁判所としては、七月一〇日会合に関しても、別途第一三―一において検討することとする。

二  関係者の捜査段階における供述の信用性を否定する方向に働く諸事情の概要

1 公判段階における関係者全員の検察官の主張に反する供述の存在

既に指摘したとおり、本件においては、被告人、相被告人及び死亡被告人のみならず、略式命令確定者を含め、捜査段階において検察官の主張に沿う供述をした関係者全員が、公判段階においては、右供述を翻している。

このように、多数の関係者が、一名の例外もなく、捜査段階における供述を翻していること自体、その捜査段階における供述の証拠価値を考えるに当たって、右公判段階における供述の存在を無視できない事情というべきであろうが、具体的な関係者の公判供述(証言)の評価については、関係箇所で随時検討することとする。

2 客観的証拠の欠如又は未解明事実の存在

本件においては、捜査段階において、H15を除くすべての関係者が検察官の主張に沿う供述をしているにもかかわらず、重要な事実に関する客観的証拠が欠けている点や、重要な事実に関して未解明な点がある。主なものは、

① 現金供与事件及び饗応事件の資金の問題

② 検察官において、三月下旬会合において現金三万円とともに配られたと主張している菓子の調達先の問題

③ 三月下旬会合の開催日の特定の問題

④ 饗応事件に関するH1と甲との間の事前共謀の問題

である。

(一) 現金供与事件及び饗応事件の資金の問題

(1) 検察官の主張によると、三月下旬会合に出席して現金三万円の供与を受けた者は、起訴された二六名と確定者Y7の合計二七名であるから、合計八一万円の現金が必要であったことになる。また、検察官の主張によると、四月の三回の会合の費用については、五月一七日、H13が槻の郷荘に対して八五万円を支払っている。したがって、合計一六六万円の費用がかかったことになる。

(2) これらの資金の出所については、捜査官としては、甲側から流れたものであろうと推測していたものであり(<証拠>)、H1らの開設していた銀行口座等については、捜査段階で十全の捜査が行われたものと考えられる。しかしながら、検察官から物的な証拠に基づく何らの立証もなかったのであるから、結局物的な証拠は収集できなかったものと考えられる。ただし、本件のような犯罪が敢行される際、関係者において、犯行の発覚防止のため、資金の流れに関する物的な証拠のように、犯行に直接結び付く物的な証拠が残らないようにすることは、むしろ当然のことであり、資金の流れについて物的な証拠が収集されていない事実自体をもって、関係者の捜査段階における供述の信用性を否定する方向に働く事情と評価することはできない。

(3) 一方、資金の流れについてのH1の捜査段階における供述をみると、まず、七月一七日、松園巡査部長に対し、三月一五日ころ、H1の自宅で、甲の弟から五〇万円を受領した旨供述した(「私は甲さんの運動員ではありませんが」で始まるメモ、<証拠>)後、同日中に、三月中ころか末ころ、H13が甲2から二〇〇万円を受領した旨を供述したが(「三月前半でありました」で始まるメモ)、七月二五日には、松園に対し、現金供与事件に使った九〇万円くらいの金は、H13が自分の寝室から持ってきた旨供述し(<証拠>)、八月八日、矢田検事に対し、四月の三回の会合の費用は、とりあえずH1が負担し、選挙後甲が金を持ってくるものと思っていた旨供述し(<証拠>)、八月九日、同検事に対し、現金供与事件に使った金も四月の三回の会合の費用も選挙後甲からもらうつもりであった旨供述し(<証拠>)、八月一一日、松園に対しても八月九日の矢田検事に対するのと同様の供述をしている(<証拠>)。

(4) 一方、H13は、資金の流れについては、現金供与事件について、寝室のたんすの引き出しにあった金を使った旨(<証拠>)、四月の三回の会合についても、寝室のたんすの引き出しに入れておいたH1夫婦の金で支払いをした旨(<証拠>)、それぞれ供述するのみである。

(5) 四月の三回の会合が、検察官の主張するとおりの経緯で開催されたものであるとすれば、合計一六六万円にのぼる費用をH1が負担するのは不自然である。検察官も、論告で、供述調書上は、自宅のたんす内に保管していた現金を使ったことになるのであるが、甲から無理に頼まれてやる選挙運動の費用をH1が負担するというのは、仮にこれが一時的なものであったとしても極めて不合理であって信用できるものではなく、菓子の問題と同様、H13の供述調書及びH1の供述調書の記載は信用できないといわなければならず、この点については、むしろH1が自供書(右(3)のメモを指す)で述べているように、甲から金が送られてきたとの供述が合理的であって、信用できるものであるといわなければならない、と主張している。

(6) しかるに、捜査段階では、七月一七日という比較的早い時期に、H1が甲側からの資金の流れを認めた前記メモを作成しながら、その後結局甲側からH1側への資金の流れは解明されず、前記のとおり、この点に関するH1の最終的な供述は、選挙後甲が金を持ってくることを期待したH1において、言わば一方的に立替え払いをしたものであるというに止まっている。

(7) 七月一七日という早い時期に、H1が甲側からの資金の流れを認めた前記メモを作成しながら、その後H1の供述が右のようなものに変遷した理由については、H1の供述調書をみても、何ら録取されていない。七月一七日の供述に関しては、右(5)で引用したように、検察官自身、論告で、甲から金が送られたとする点で信用できるものと断定しているのであり、七月一七日のH1の供述を受け、甲の弟や甲2からの金員の流れの具体的な状況について、H1らを追及するのが当然と考えられるのに、供述調書上これを窺わせる記載は全くないのである。

この点については、H1において甲に累の及ぶことを恐れ、一旦、七月一七日には甲側からH1側への資金の流れを認める供述をしたものの、その後は、ついに真相を自白しなかったというのも一つの説明であろう。

しかしながら、一方、H1は、同被告人に対する追起訴の前日であり捜査が最終段階を迎えた八月一二日、矢田検事に対して、甲がH1方を訪れた際、「いずれ四月にでも後援会の役員達を集めようと思っておりますので出席されたらいかがですか。実は高槻の森林観光センターに温泉が出ましたんで温泉に入りがてら名物のかしわすき焼きを食べてもうて懇談会をやろうと思うてるんですわ」と打ち明けたところ、甲も同会合への出席を快諾した旨供述しているところ(<証拠>)、H1の右供述は、会合出席者から費用を徴収していないことを明言してはいないものの、その趣旨であることは十分に窺い知ることのできる内容になっていると評価する余地があるのであって、饗応事件について、H1と甲との間に事前共謀があったことを推認するについてのH1側の極めて重要な供述証拠であると評価できよう。

してみると、八月一二日の段階においては、右のような供述をしたH1としては、取調官から甲側からH1側への資金の流れに関する事実を追及された場合、これを秘匿し続けるのが困難であったのではないかとも考えられるところ、H1の検面の記載によると、矢田検事において、その段階で、更にH1を追及し、右資金の流れを解明しようとした形跡が見受けられないのは、いささか不可解というべきであろう。

(8) 一方、甲側の関係者に対する捜査の状況をみると、甲は、八月一日の取調べにおいて、矢田検事に対し、甲自身は、槻の郷荘で宴会が行われるということは分からず、また、後援会の会合だと思っていたから、費用は当然後援会で出すなり、出席者から徴収しているものと思っていた旨供述している(<証拠>)。

そして、前記のように、H1から、甲も四月の三回の会合においては出席者にかしわのすき焼きを食べてもらうことを知っていたことになる供述を得た八月一二日の翌日である同月一三日、矢田検事が甲を取り調べたが、甲の八月一三日付検面には、甲2がH13に案内されて高槻市内を挨拶回りしていたことや、これに対する甲2のH13宛て礼状の件が録取されているだけであると認められる(<証拠>)。

また、七月一七日の段階で、H1が、甲側からH1側に対する資金の流れの当事者として供述している甲2や甲の弟に対し、この点に関する取調べが行われた形跡も証拠上全くない(甲2に対する取調べにつき、(<証拠>)。

(9) まとめ

以上の検討によると、現金供与事件及び饗応事件の資金関係については、未解明のうちに捜査が終了したと評さざるを得ず、結局、右の点に関する捜査段階におけるH1の供述がるる変遷し、かつ、最終的な供述が不合理なものに止まっていることは、四月の三回の会合が参院選に出馬する予定であった甲に対する支援を訴えるものであったとする、H1の捜査段階における供述の信用性に疑問を投げかけるものであるというべきであろう。

(二) 三月下旬会合において現金三万円とともに出席者に配られたとされる菓子の調達先の問題

(1) 検察官は、冒頭陳述においては、H13らの捜査段階における供述に基づき、三月下旬会合の際供与された封筒入りの現金三万円は、会合の前日か前々日H1から指示を受けたH13が購入した菓子とともに、紙袋に入れて各受供与者に手渡されたものであると主張していた。

(2) ところが、H13の矢田検事に対する捜査段階における供述等に基づき、菓子の購入状況について、捜査官が高槻市内の多数の店舗及び吹田市内にあるバームクーヘンの配送センターに赴き、裏付捜査を行ったにもかかわらず、結局、本件菓子の購入に関する裏付けは取れなかった(<証拠>)。

(3) また、菓子の購入状況に関するH13の矢田検事に対する捜査段階における供述には、基本的な点で変遷していると認められる等の問題点がある。

(4) 以上のとおり、本件菓子については、購入状況について客観的な裏付けが取れなかった上、H13の捜査段階における供述自体についても問題点があるところ、検察官は、論告においては、H13の捜査段階における供述内容は真実ではなく、真相は、高槻市内以外のところから特別なルートをたどって配達させたものか、甲の関係者から届けられたものかのどちらかであると考えるのが合理的である、と主張するに至っている。

(5) 当裁判所も、検察官主張のとおり、菓子の購入状況に関するH13の捜査段階の供述は虚偽であるとの心証に達したが、その理由及びH13が虚偽の供述をした点の評価については、別途第九―二において詳細に検討することとする。

(三) 三月下旬会合の開催日に関連する諸問題

(1) 三月下旬会合の開催日について、検察官は、起訴状記載の公訴事実においては、「三月下旬ころ」と主張し、第四回公判において、「三月一八日から四月三日までの間の一日」であると釈明していたが、論告においては、「三月二九日ころ」と主張するに至っている。

(2) 検察官が、本件各証拠を総合評価の上、「三月二九日ころ」と特定するに至ったことは、論告の内容から明らかである。一方、弁護人が弁論で指摘するとおり、本件においては、本件当時関係者が使用し、又は、記載していた、手帳、ノート、カレンダー等、相当数に上る物証が存在しながら、それらの証拠の中には、三月下旬会合の開催、又は、同会合への出席を窺わせる記載が全く存在しない。

(3) 右の点が、三月下旬会合に関する関係者の捜査段階における供述の信用性を否定する方向に働く事情であることは明らかであるが、この点に関する詳細な検討、及び、検察官が論告において、「三月二九日ころ」と特定するに用いた各証拠の評価については、別途第九―三においてこれを行うこととする。

(四) 饗応事件に関するH1と甲との間の事前共謀の問題

H1は、同被告人に対する追起訴の前日であり捜査が最終段階を迎えた八月一二日、矢田検事に対して、甲がH1方を訪れた際、四月に槻の郷荘に後援会会員を集め、かしわのすき焼きを食べてもらう懇談会を計画していることを打ち明け、甲も同会合への出席を快諾した旨供述しているところ(<証拠>)、H1の右供述は、饗応事件について、H1と甲との間に事前共謀があったことを推認するについてのH1側の重要な証拠であると評価できることは、既に前記(一)―(7)で指摘したとおりである。

また、同月一三日、矢田検事が甲を取り調べたが、甲の八月一三日付検面には、甲2がH13に案内されて高槻市内を挨拶回りしたことや、これに対する甲2のH13宛て礼状の件が録取されているだけであると認められることも、既に前記(一)―(8)で指摘したとおりである。

もっとも、矢田検事は、八月一三日、八月一二日のH1の供述を踏まえ、甲がH1方を訪れた際の両名の会話の状況についても、甲を取り調べた可能性を肯定しているが、一方、H1と甲との間の共謀関係についての取調べを行ったことは間違いないが、その時期については、八月一三日であったか、それ以前であったか定かな記憶がないとも証言している(<証拠>)ところ、甲は、八月一三日の矢田検事の取調べの際、右会話の状況を質問されたことはないと証言しており(<証拠>)、少なくとも、八月一二日、甲が本件饗応事件の共犯であることを推認するのに資するH1の具体的な供述を得ながら、翌一三日、矢田検事において、右の点について、矢田検事及び甲の双方に具体的な記憶として残るほどの追及はしていないことは明らかであり、このような矢田検事の捜査については、いささか腑に落ちない点があるというほかない。

いずれにしても、本件においては、饗応事件に関し、H1から甲との間の事前共謀を推認するのに資する具体的な供述を得ながら、H1及び甲に対し更に追及がなされることなく、未解明の部分が残されていると評さざるを得ないのである。

第六  本件当時のH1らによる甲に対する支援活動等の存在

検察官は、言わば本件の背景事情として、昭和六〇年から昭和六一年にかけての、被告人H1らと甲との接触状況及び平野らによる本件以外の甲に対する支援活動として、種々の事実を指摘している。そこで、本件各証拠に基づき、H1や甲の経歴、昭和六〇年から昭和六一年にかけてのH1らと甲らとの接触状況やH1らによる甲の支援活動等について検討することとする。

一〜七<省略>

八 検討

1  以上みたとおり、被告人H1が、昭和六〇年一〇月に開催された甲の演説会に出席しその場で挨拶した事実、昭和六一年二月末か三月初め甲がH1方を訪れ参院選の支援を依頼した事実、同年六月H1の安岡寺事務所で開催された集会にH17代議士のほか甲の関係者も出席した事実、H13が三月一四日、甲2を高槻市内の挨拶回りに案内した事実等、昭和六〇年から翌六一年にかけて、H1自身及びH13が甲の選挙運動にかかわりを持ったことは明らかである。

2  一方、H1は、高槻市原で生まれ、本件起訴後転居するまで同市古曽部町に居住し、高槻市北部を選挙地盤としており、また、国政レベルの政治家としては、専ら、高槻市をその選挙区の一部としている大阪三区選出のH17代議士とのつながりがあるものと認められるところ、本件各証拠を検討しても、昭和六〇年一〇月に開催された前記会合に出席するまでは、高槻市議会議員と大阪府議会議員という一般的な関係を越えた甲との政治的な関係のあったことや、甲の支援活動をしたような形跡は認められない。

3  また、二月末ないし三月初めに甲がH1方を訪れた際の状況について、甲は、捜査段階から、甲の挨拶に対し、H1が「そうですか。まあしっかりがんばって下さい」と言ってくれたが、あまり甲のことを積極的に応援してやろうという雰囲気は見えなかったと述べている(<証拠>。なお、既に第五―二―2―(一)及び(四)で指摘したとおり、H1は、同被告人に対する追起訴の前日であり、捜査が最終段階を迎えた八月一二日、矢田検事に対し、甲がH1方を訪れた際、四月に高槻森林観光センターに後援会会員を集め、かしわのすき焼きを食べてもらう懇談会を開催することを計画している旨を打ち明け、甲も同会合への出席を快諾した旨供述しているところ、右供述が真実であるとすれば、甲がH1方を訪れた際の状況は、甲が捜査段階で述べた右のような状況とは全く異なったものとなる。しかしながら、八月一二日段階のH1の供述の問題点については、第五―二―2―(四)で指摘したとおりであり、当裁判所としては、H1の八月一二日段階の供述を基礎として甲がH1方を訪れた際の状況を認定することはできないと判断する)。

検察官が主張するH17からのH1への働きかけの行われた時期が、甲がH1方を訪れた後であるとすると、甲が挨拶に訪れた際には右のような決して積極的とはいえない応対をしていたH1において、その後積極的に甲を支援するようになったことも不自然ではないが、H17からのH1への働きかけそのものが、証拠上断定できるものではないことは既に述べたとおりである。

4  さらに、本件各証拠によると、六月の安岡寺のH1事務所での演説会も、H17を応援する目的で開催したものであり、甲の関係者はその機会をとらえて出席したにすぎないものというべきであろう。

5  以上の検討を総合すると、検察官が本件の背景事情ないし動機形成に関し大きな意味を持つものとして主張する事実のうち、本件各証拠上認定し得る事実をみても、それ自体として本件各公訴事実の存在を強く推認させるような性質のものではなく、単に、一連の状況証拠としての意味を持つに止まるものというべきである。

第七  本件以前のH1後援会の活動状況と四月の三回の会合開催の問題

検察官は、弁護人において、四月の三回の会合はH1後援会の後援会活動としての会合であると主張しているところ、七月六日に参院選を控えた四月に三回の会合が開催された事実、四月の三回の会合において会費が徴収されていない事実及び四月二六日の会合には非後援会員である○○教関係者が出席している事実は、右各会合が弁護人の主張するような趣旨の会合ではなく、検察官主張のとおり、甲を支援するための会合であることの証左であると主張している。そこで、以下、これらの点について検討する。

一  開催時期及び会費徴収の問題

1 H1の捜査の最終段階における供述によると、同被告人が四月の三回の会合を開催する決意をした経緯は、大要、二月末ないし三月初めころ、H17から甲の応援を依頼する電話を受け、さらに、別用でH17の自宅を訪ねた際も同様の依頼を受けたため、H17に対する義理や恩返しのつもりで甲を応援することとしたが、「選挙が近づくと人の口がうるさくなる」と思っていたので、選挙の公示前に金を使うことにし、槻の郷荘での饗応を考えていたところ、三月初めころ甲の訪問を受け、右計画を打ち明けたところ甲から出席を快諾された、また四月の三回の会合開催は、H1自身の選挙のためにもなると考えていた、というものである(<証拠>)。

2 これに対し、H1は、公判廷では、槻の郷荘に温泉の設備ができたので、二月か三月ころ、後援会会員の親睦を図るとともに、槻の郷荘を宣伝する目的で四月の三回の会合を開催することを考え、費用の捻出についてH13の了解を取った後、槻の郷荘に電話して予約をした、また、会費については、従前の会合に比較し一人当たりの予想費用が低額であり、徴収しないことにした、と供述している(<証拠>)。なお、H13は、H1から四月の三回の会合開催の話を初めて聞いたのは、二月二五日及び二六日にH1方で開かれた天神祭の会合の前であったと証言している(<証拠>)。

3 ところで、昭和五六年一〇月以降、一五〇名程度以上の者を集め、H1方以外で開催され、または、開催される予定であった会合の、開催日、開催場所、参加人数及び会費徴収の状況は、次のとおりである(<証拠>)。

番号

開催日

(昭和年月日)

開催場所

人数

(約名)

会費

56.10.17

高槻市民会館三階会議室

二五〇

二〇〇〇円程度徴収

57.7.18

有馬温泉兵衛向陽閣

一五〇

三〇〇〇円程度徴収

59.11.25

錦松鶴

二九〇

二〇〇〇円程度徴収

61.9.13

高槻市民会館

未定

二〇〇〇円徴収予定

4 また、証拠によると、右3の④の会合については、H1が、一月二日の時点で開催を予定していたこと(その時点では九月二八日を予定)、及び、その時点では、H1は四月の三回の会合の開催を予定していなかったことを認めることができる(<証拠>)。

5 さらに、後に第八―五で指摘するとおり、槻の郷荘に温泉設備が開催されたのは、昭和六一年一月二二日ころのことであること、H1が四月の三回の会合開催のため、高槻森林観光センター職員T23に施設の空きを尋ねたのが三月一五日を少し過ぎたころであること、四月七日及び四月一六日を予約したのが三月二〇日過ぎころであること、四月二六日を予約したのが三月二五日前後ころであること、をそれぞれ認めることができる(<証拠>)。

6 右3によると、昭和五六年以降、H1後援会においては、一五〇名程度以上の者を集めてH1方以外で開く会合は、年間一回弱の間隔で開催され、その都度二〇〇〇円ないし三〇〇〇円の会費を徴収していること、このような会合は同じ年に二回は開催されていないこと、をそれぞれ認めることができる。

そうすると、四月の三回の会合の開催については、昭和六一年中にこのような会合を二回開催することになることや、会費を徴収していないことに照らすと、従前の会合開催に比較し、開催自体や会費の徴収の有無について、変則的な面があることは否定できないところであると認められる。したがって、四月の三回の会合開催について他に何らかの合理的な説明のない限り、これらの点をとらえ、四月の三回の会合は、H1後援会の後援会活動としての会合ではなく、七月の参院選に出馬する甲を支援するための会合であったとする検察官の主張にも相当の理由があるというべきであろう。

7 しかしながら、まず、四月の三回の会合の開催自体や開催時期に関しては、槻の郷荘に温泉の設備ができたのは、右5で指摘したとおり、昭和六一年一月二二日ころのことであり、また、高槻森林観光センターを含む樫田地区の種々の施設の建設については、国の補助金の交付をH17に陳情するなどH1が尽力していることが認められるところ(<証拠>)、温泉設備のできた槻の郷荘の宣伝も兼ね、本件当時後援会の会合を開催することとしたというH1の公判廷での供述(<証拠>)には、槻の郷荘に温泉設備ができて間もない時期に会合を開催することとした点からみると、一応の合理的理由がある。

また、会費を徴収しなかった点に関しては、H1は、公判廷で、その理由として、高槻市民会館(同所での会合は、前記3の会合中、一人当たりの費用が最も低額であると考えられる)で開催した場合一人当たり七〇〇〇円ないし八〇〇〇円の費用がかかるのに対し、槻の郷荘で開催する場合には、料理は一人当たり二〇〇〇円程度であり、酒類を入れても一人当たり合計四〇〇〇円程度で済むと考えていたので会費は徴収しないことにしたと述べている(<証拠>)ところ、この点についても一応の合理的理由を認めることができるのである(関係各証拠によると、四月の三回の会合において現実に要した費用は、料理(かしわすき)が一人当たり二五〇〇円、酒類を入れた飲食代金合計が一人当たり四〇〇〇円程度である(ただし、土産の山菜代金、バス代金、税金等を含め、H13が槻の郷荘に支払ったのは、合計八五万円である))。

8 まとめ

以上の検討によると、四月の三回の会合の開催時期及び同会合において会費を徴収していないことは、四月の三回の会合は、H1後援会の後援会活動としての会合ではなく、甲を支援するための会合であったことの証左であるとする検察官の主張にも相当の理由があるが、同時に、これらの点に関するH1の公判廷での供述も合理性を欠くものとはいえず、結局、右の点から、四月の三回の会合は、甲を支援するための会合であったと断定することはできず、かつ、H1の公判廷での説明が合理性を持つものである以上、右の点について、四月の三回の会合は、甲を支援するための会合であったという検察官の主張を支える状況証拠として高い証拠価値を認めることはできないというべきである。

二  四月二六日会合への非後援会員たる○○教関係者の出席の問題

1〜7<省略>

8 まとめ

以上の検討によると、四月二六日会合にH1後援会の会員でない相当数の○○教信者が出席した事実は証拠上明らかであるものの、そのことをもって、四月二六日会合、ひいてはその余の四月七日会合及び四月一六日会合もH1後援会のための会合ではなく、甲を支援するための会合であったことの証左であると評価することはできないというべきである。

第八  三月下旬会合の関係者の捜査段階における供述の概要

一  H1の供述の概要<省略>

二  H13の供述の概要<省略>

三  H1を除く現金供与事件の各被告人、死亡被告人及び確定者Y7の供述の概要<省略>

四  T22、M10、O17、被告人T13、D5、O12、H16及びE11の供述の概要<省略>

五  四月の三回の会合の予約状況に関するT23の供述の概要

1 T23は、高槻森林観光センターの職員であるが、H1による四月の三回の会合の予約状況等について、検察官に対し、次のとおり供述している(<証拠>)。

(一) 槻の郷荘が開設されたのは、昭和六〇年四月二五日ころのことであり、岩風呂の温泉が開設されたのは、昭和六一年一月二二日ころである。

(二) 三月一五日を少し過ぎたころの午後ころH1から電話があり、H1が、「四月に五〇名くらいで三回利用したいので部屋が空いているか。一〇時から二時半ころまでの時間帯で使いたい」と言うので、T23が、予約受付簿を見て空いている日を言うと、H1は、「よし分かった。日を決めてから後日予約する」と述べた。

(三) それから四、五日後の三月二〇日過ぎの午後、H1から電話があり、H1が、「この前言うたことやが、四月七日と四月一六日いけるか」、「とりあえず二日間だけ決めとくが、あとの一日はまた連絡する」と言うので、T23は、予約受付簿の四月七日欄と四月一六日欄に記入するとともに、H1の依頼により、出席者を乗せるバスを片山自動車に手配した。

(四) その四日くらい後の三月二五日前後ころ、H1から電話があり、H1が、「三回目の予約をするから、空いている日を言うてくれ」と言うので、T23が予約受付簿を見て空いている日を言うと、H1は、一旦電話を切り、二、三〇分してまた電話をかけてきて、「四月二六日、二時から六時ということで頼むわ。人数は約五〇名でこの日もかしわのすき焼きで用意してくれ。バスも頼むわ」というので、T23が予約受付簿の四月二六日欄に記入し、バスを片山自動車に手配した。

2 右T23の供述内容は、それ自体としては、被告人らの有利にも不利にもならない客観的事実に関するものであり、T23において、ことさらに事実を歪曲して供述すべき動機は全く認められず、高い信用性を持つものと考えられる。なお、T237・31検面に添付された予約受付簿の四月七日、四月一六日及び四月二六日欄を見ると、予約内容とともに予約のあった日が記入されているものがあるが、H1からの予約については、予約のあった日の記載はない。

3 そうすると、H1は、三月二五日前後ころまでには、四月の三回の会合の予約を終えたことを認定することができる。

第九  三月下旬会合の関係者の捜査段階における供述の検討

一  H1方で行われた二月二五日、二六日開催の天神祭の会合及び六月一五日開催のH1後援会の役員会の存在

1 二月二五日、二六日開催の天神祭の会合

(一) 二月二五日と二六日の両日にわたり、H1方で天神祭の会合が開催されたことは、本件各証拠により十分認定し得るところである。

(二) 当日、H1方では、酒や酒の肴として刺身等が振る舞われたほか、帰り際、出席者に対して、三笠饅頭、蒲鉾、煮しめなどが土産として渡されたことも、本件各証拠により十分認定し得るところである。

2 六月一五日開催のH1後援会の役員会

(一) 六月一五日、H1方で、H1において昭和六一年秋に開催を予定していたH1後援会総会の準備のための役員会が開催されたこともまた、本件各証拠により十分認定し得るところである。

(二) また、本件各証拠によると、六月一五日の役員会は、同日午後開催され、会議の後、酒や酒の肴として刺身等が振る舞われたが、出席者に手土産が渡された事実はないことを認めることができる。

3 二月二五日、二六日開催の天神祭の会合及び六月一五日開催のH1後援会の役員会の出席者については、証拠上、これを確定することはできない(府政ノート(符3)七〇頁ないし七一頁の記載及び「昭和五十二年後援会資料 事務局」と表書のあるバインダー(符40)中の天神祭の会合に関する名簿の記載も、現実に各会合に参加した者を記載したものとまでみることはできない)。しかしながら、個々の出席者については、捜査段階における供述や公判廷での供述等によって、各会合への出席事実を認定できる者がある。

4 ところで、検察官は、論告において、H1は、三月下旬会合は、六月一五日の会合がすり替えられたものである旨供述しているが、右府政ノートによれば、六月一五日の会合の出席者は、関係者の捜査段階における供述に基づく三月下旬会合の出席者とは異なっている上、六月一五日の会合の際は、手土産を持たせておらず、いかなる点からみても、すり替えることは不可能と考えられるのである、と主張し、さらに、被告人らは、三月下旬会合は全く存在しなかったから、その会合については、天神祭の会合を念頭において供述した旨供述しているが、三月下旬会合の出席者と天神祭の会合の出席者とは、前記バインダー中の六一年二月天神祭会と題する名簿の記載によると、全く異なっており、その際の手土産も三月下旬会合の際は、洋菓子であるのに対し、二月の天神祭の会合の際は、ばら寿司、蒲鉾、和菓子であって、全く異なっており、天神祭の会合を念頭において供述できるようなものではないことは明白であると主張している。

5 検察官が指摘するように、天神祭の会合及び六月一五日の会合の各出席者並びに検察官において三月下旬会合に出席したと主張している者が一致しているわけではないこと、天神祭の会合の祭に渡された手土産と検察官において三月下旬会合の際に渡されたと主張している手土産が相違していることは、本件各証拠上明らかである。

しかしながら、検察官において三月下旬会合に出席したと主張している者のうち、天神祭の会合や六月一五日の会合に出席したと証拠上認定できる者があることは明らかであり、そのような者が、捜査段階において三月下旬会合当日の種々の出来事に関する供述をする際、天神祭の会合や六月一五日の会合に出席した際さまざまな事実を経験したことが、供述内容に影響を与えるようなものであったかどうかは、各人ごとの、個々具体的な供述内容に照らして判断すべき事柄であると考えられる。

したがって、当裁判所としては、関係者の捜査段階における供述の信用性を判断するに当たっては、右のような見地から、天神祭の会合や六月一五日の会合における出来事も視野に入れた上で検討することとする。

二  三月下旬会合において現金三万円とともに出席者に配られたとされる菓子の調達先の問題

1 検察官の主張

三月下旬会合出席者に対し、現金三万円とともに配られた菓子の調達先について、検察官は、冒頭陳述においては、捜査段階におけるH13の供述に基礎を置いた主張をしていたところ、論告においては、H13の右供述の信用性を否定し、真相は、高槻市内以外のところから特別なルートをたどって配達させたものか、甲の関係者から届けられたものかのどちらかであると考えるのが合理的であり、菓子の購入先が解明できなかったこと自体から直ちに菓子を配付した事実がないと推認することはできない、と主張するに至っている。

2 捜査段階におけるH1及びH13の供述<省略>

3 その他の関係者の捜査段階における供述<省略>

4 検討

(一) 冒頭陳述における検察官の主張は、主としてH13の捜査段階における供述に基礎を置くものであるが、菓子を購入した側のH13の供述を重視すべきことは当然であろう。

(二) ところで、H13らの供述に基づき、捜査官が西武高槻等の菓子売り場に赴いて裏付捜査をしたにもかかわらず、H13が購入した事実を裏付ける証拠を発見するには至らなかったものと認められることは、既に第五―二―2―(二)で指摘したとおりである。

(三) もっとも、H13は、複数の種類の菓子を複数の店舗で購入した可能性もある旨供述しており(<証拠>)、仮にこれが真実であるとすれば、捜査官の裏付捜査が功を奏さなかったことも首肯できないわけではない。

(四) しかしながら、H13の菓子の購入に関する前記供述自体を見ても、一人で少なくとも二七個の菓子を購入した点からみて、この買いもの自体がH13の記憶に残りやすいものであったと考えられ、したがって、購入した店舗の数が一つか複数か程度の記憶は残ってしかるべきであると考えられるにもかかわらず、八月二日の段階では、購入したのが一つの店舗であることを当然の前提にしていると思われる供述をしていたところ、八月四日の段階では、複数の店舗で購入した可能性を述べるなど、基本的な事項において供述に変遷がある上、右のとおり、購入した店舗の数すら特定できず、さらに、受供与者らの供述する菓子や菓子箱の大きさに照らすと、少なくとも二七個にのぼる菓子を一人で自宅まで持ち帰るのには相当苦労したのではないかと思われるにもかかわらず、その点に関する供述が全く録取されていないなど、供述に甚だ具体性を欠いているという問題点があるのである(H13の供述の具体性の乏しさに着目すると、同女が複数の店舗で購入したことが原因で捜査官の裏付捜査が功を奏さなかったのではなく、逆に捜査官の裏付捜査が功を奏さなかったために、矢田検事によって、八月四日の供述が録取される結果となったのではないかとの疑いを払拭できないというべきであろう)。

(五) 以上の検討によると、検察官が三月下旬会合において現金三万円とともに配られたと主張する菓子の購入先に関するH1及びH13の捜査段階における供述は、信用できないものというべきである。

(六) 次に、検察官の論告における主張であるが、右主張は、具体的な証拠に基づく主張ではなく、検察官においても、H13の捜査段階における供述は信用性を欠くものであるとの判断に立った上で、推測を述べているものといわざるを得ない。

5 まとめ

以上のとおり、検察官が三月下旬会合において現金三万円とともに配られたと主張する菓子の調達先に関するH1及びH13の捜査段階における供述は、信用できないものというべきであり、この事実は、現金供与事件に関するH1及びH13の捜査段階における一連の供述の信用性を減殺するものとして評価すべきものであると考えられるのである。

三  三月下旬会合の開催日に関連する諸問題

1 三月下旬会合の開催日についての検察官の主張

第五―二―2―(三)―(1)で指摘したとおり、検察官は、三月下旬会合の開催日について、起訴状記載の公訴事実においては、「三月下旬ころ」と主張し、第四回公判において、「三月一八日から四月三日までの間の一日」であると釈明していたが、論告においては、「三月二九日ころ」と主張するに至っている。

2 客観的証拠の不存在

本件に関しては、捜査段階において、被告人らから、本件当時関係者が使用し又は記載していた、手帳、ノート、カレンダーや日記帳等が押収され、当裁判所でもこれら証拠を取り調べている。そこで、これらの証拠について、検討する。

(一) H1関係の物証<省略>

(二) H13関係の物証<省略>

(三) 被告人K1及び同被告人の妻の関係の物証<省略>

(四) 被告人T2関係の物証<省略>

(五) 死亡被告人O14関係の物証<省略>

(六) 被告人N1関係の物証<省略>

(七) 被告人M1関係の物証

M1が記載していたものとしては、日記帳(符9)があり、その一月一〇日欄に「古曽部公民館H1氏互助会に出席す(11時)2時頃終了」ほかの、二月二五日欄に「11時前よりH1氏へ 天神祭に御馳走になる 2時頃迄」ほかの、四月七日欄に「朝からは9時頃より樫田森林センターへH1議員後援会に出席し3時頃帰り」ほかの、それぞれ記載があるが、同日記帳には、三月下旬会合への出席を窺わせる記載はない。

なお、前記府政ノートの七〇頁の「出席者(予定)」欄にも、七一頁の「出席予定者名」欄にも、M1の氏名の記載はない。

(八) 被告人O2関係の物証<省略>

(九) 以上の検討の意味

(1) 以上、検討したとおり、本件当時、関係者が使用し又は記載していた各物証をみても、三月下旬会合の開催又は同会合への出席を窺わせる記載は、全く存在しない。

(2) もっとも、そのうち、H1が使用し又は記載していた前記手帳(符2)には、六月一五日の会合の記載がなく、また前記カレンダー(符4)には、右会合及び二月二五日、二六日に開催された天神祭の会合の記載がないから、仮に、三月下旬会合が存在するとしても、その記載のないことに不自然さはないというべきである。

また、O14が使用していた前記カレンダー(符48)には、六月一五日の会合に出席したことを窺わせる記載がないところ、前記(五)で指摘したとおり、前記府政ノート(符3)の記載によると、O14は六月一五日の会合に出席した可能性が高く、してみると、仮に、三月下旬会合が存在したとしても、O14において、同会合に関する記載をしていなかった可能性を否定できないというべきであろう。

さらに、O2が記載していた前記手帳(符45)には、二月二五日、二六日に開催された天神祭の会合に関する記載はないところ、同被告人は、公判廷において、二月二五日の同会合に出席した旨供述しており(<証拠>)、六月一五日の会合については右手帳に記載があるものの、仮に、三月下旬会合が存在したとしても、同被告人において、同会合に関する記載をしなかった可能性を完全に否定することはできないというべきであろう。

また、O2が記載していた日記帳(符8)には、六月一五日の会合に出席したことを窺わせる記載がないところ、前記(八)で指摘したとおり、前記府政ノート(符3)の記載によると、同被告人が六月一五日の会合に出席した可能性を完全には否定できず、してみると、仮に、三月下旬会合が存在したとしても、同被告人において、同会合に関する記載をしていなかった可能性を否定できないというべきであろう(ただし、右日記帳の六月一五日欄には、「曇 田見まわり 山へ草引 眞竹掘る 後家にて休 日暮に田見まる」との、H1方へは行っていないことを窺わせる記載がある)。

(3) その他の物証に関しては、それぞれの関係者が関与した他の会合についての記載がないという事情はなく、H1が記載していた府政ノート、H13が使用していたカレンダー、K1及びその妻が記載していたダイアリーや日記帳、T2が記載していたダイアリー、M1が記載していた日記帳のいずれをみても、三月下旬会合の開催を窺わせる記載のないことは、同会合の存在を疑わせる事情と評価すべきであろう(なお、M1についても、同被告人が記載していた日記帳には、六月一五日の会合に出席したことを窺わせる記載がないところ、前記(七)で指摘したとおり、前記府政ノートの記載によると、同被告人が六月一五日の会合に出席した可能性は低く、かつ、右日記帳の六月一五日欄には、発動機の修理を行い、漸く(午後)三時ころ修復し、昼食を食べた旨の記載があり、同被告人は、六月一五日の会合には出席しなかったものと認定し得るというべきである)。

もっとも、H1は、捜査段階で、捜査官から前記手帳を示され、何ら行事等を書いていない日があるが、特に記載しなければいけないような用事がなかったし、書いて後日人に見られたら都合の悪いことは故意に書いていない旨供述している(<証拠>)。

しかしながら、H1以外の者については、捜査段階で右H18・7員面にあるような供述は録取されておらず、その他本件各証拠を検討しても、これらの者において各記載の当時、将来において、三月下旬会合の存在が捜査官に発覚することを防止するため、三月下旬会合の開催を窺わせるような記載をすることを見合わせたという状況は窺われないのである(なお、一旦記載されたが後に抹消された形跡もない)。

3 開催不可能な日

三月下旬会合の開催日につき、検察官が、論告において、「三月二九日ころ」と主張するに至ったことは、既に指摘したとおりである。

当裁判所としても、本件各証拠を総合すると、仮に三月下旬会合が存在するとすれば、その開催日は、三月二九日としか考えられないとの心証に達したものであるが、ここでは、まず、被告人らの供述そのもののみに依拠することなく、第四回公判において、検察官の釈明した期間、すなわち、三月一八日から四月三日までの間の、検察官主張の時間帯(冒頭陳述において、午後一時ないし二時ころから開催されたと主張)には、H1方で検察官主張の出席者による会合を開催することができないものと認定し得る日について検討する。

(一) H1の高槻市議会出席日<省略>

(二) 被告人K1及びその妻の日誌の記載<省略>

(三) 被告人T1の山代温泉旅行<省略>

(四) 被告人T2の大味株式会社への出勤<省略>

(五) 被告人O2の日誌の記載<省略>

(六) まとめ

以上の検討によると、本件各証拠により、被告人らの供述そのもののみに依拠することなく、三月下旬会合の開催可能な日を絞り込んでいくと、三月二九日の午後しかその可能性が残らないのである。

4 被告人らの供述及びその評価

(一) 被告人H1の供述

(1) H1は、七月二三日、矢田検事に対し、三月下旬会合を「三月下旬ころ」開催した旨供述して以来、一貫してその旨供述し、例えば八月九日には、矢田検事に対し、「三月下旬ころであるが詳しい日にちは忘れた」旨供述していたが(<証拠>)、追起訴当日の八月一三日に至り、矢田検事に対し、「日にちについては、私なりの記憶で申し上げますと、三月二九日だったような気がします。要するに月末の土曜日の気がするのです」、「少なくともその日であれば、私は公的にも私的にも体があいており、この日にみんなを集めることは十分可能でした」、「その点は、今回押収された私の手帳やカレンダーを見て当時のことを思い出してはっきり言えることです」と供述している(<証拠>)。

(2) ところで、H1は、三月下旬会合の主催者であり、同会合の開催日を決定するに当たっては、三月二七日、二八日に高槻市議会の本会議も予定されていたのであるから、そのころの同被告人の予定を十分勘案したはずであることは、容易に推察し得るところであり、一年以上も前の出来事であればともかく、捜査当時から四か月程度以前の三月下旬会合の開催日を明確に思い出せないこと自体極めて不可解なことというべきである。

しかも、「月末の土曜日の気がする」根拠は、手帳やカレンダーをみて、その日であれば、H1の体があいているという、消極的な理由に止まっている。月末の土曜日、すなわち三月二九日は、高槻市議会の本会議が終了した三月二八日の翌日であり、このことと結び付けて比較的記憶に残りやすい日ではないかと思われるのであるが、検面の記載をみても、矢田検事において、当時の出来事と関連付けてH1を問い質した形跡はなく、結局、H1の述べる「月末の土曜日の気がする」根拠が、右のようなものに止まることもまた不可解というほかないのである。

(二) H13の供述

(1) H13は、八月二日、矢田検事に対し、三月下旬会合が開かれたのは「三月下旬ころ」であるが、「その時期については、詳しい日にちは忘れましたが、彼岸の入りが三月一八日で、彼岸の中日が二一日であることを基準に思い出すと、大体そのころか、その後くらいのことでした。この点については、もう少し思い出してみたいと思います」と供述していたが(<証拠>)、八月四日には、矢田検事に対し、「日にちについては、どうしても思い出せません」、「しかし、いずれにせよ、本年三月下旬ころのことであることには間違いはなく、仮に多少時期がずれたとしても、三月下旬の後半か、四月初旬の前半ころのはずです」と供述し(<証拠>)、同日、別調書で、「日にちについてはよく覚えておりませんが、ひょっとしたら、参考になるかもしれないことがあります」、「それは、その会合の時に誰かが『N1さんは、何か仏事があるので遅れるか来られない』というような話をしていたような気がします」、「その当日に仏事があるのか、そうではなくて仏事の準備があるというような話だったのか正確なことは覚えておりません」、「どんな仏事だったかも忘れました」との供述を録取されている(<証拠>)。

(2) 右のとおり、H13は、八月二日には、「彼岸の中日を基準にして思い出すと、三月二一日ころか、その後くらいのこと」であり、「もう少し思い出してみたい」旨供述しながら、八月四日には、「日にちについては、どうしても思い出せません」、「しかし、いずれにせよ、本年三月下旬ころのことであることに間違いはなく、仮に多少時期がずれたとしても、三月中旬の後半か、四月初旬の前半ころのことです」と、二日の供述よりも、かなり幅を持たせた供述をしているが、どうしてそのような供述をするに至ったかについては、特段の説明はしていない。

慎重に記憶を喚起した結果、供述がかえって漠然としたものになる余地もないわけではないが、H13の八月四日の供述は、およそ開催日の特定を放棄したかのような供述であり、不自然さは否定できないところである。してみると、八月二日の供述内容では、その当時捜査官において収集済の証拠から推認し得る三月下旬会合の開催日に合致しないため、八月四日、矢田検事が、H13からより幅を持たせた供述を録取したのではないかとの疑いを払拭しきれないのである。

(三) 被告人K1の供述

(1) K1は、七月一九日、A3巡査部長に対し、三月下旬会合が開催されたのは「三月下旬ころ」と供述し(<証拠>)、七月二三日には、A3に対し、「三月末ころ」と供述していた(<証拠>)が、その後、七月二九日、ダイアリー(符43)及び日記帳(符44)を大阪地方検察庁宛て任意提出したところ(<証拠>)、八月三日、同ダイアリー及び日記帳の記載を分析したA3の取調べを受け、三月二〇日から四月一日までの間の行動を説明し、三月二八日午後と三月二九日午後の行動が明らかでなく、この両日のいずれかの日に三月下旬会合が開催され、K1も出席した旨供述していたのであるが(<証拠>、なお、同員面には、A3において、同ダイアリー及び日記帳の記載を分析した結果をまとめた、「被買収被疑者K1の行動表」と題する書面が添付されている)、八月五日の五木田検事の取調べにおいては、右ダイアリー及び日記帳の内容に関し何ら供述を録取されることなく、単に「三月下旬ころ」という供述を録取されている(<証拠>)。

(2) 八月五日の取調べの状況に関して、五木田検事は、当時、右ダイアリー及び日記帳を見たというはっきりした記憶はないこと、K18・3員面は見ていると思うこと、K1は、8・3員面どおりの供述をしたと思うこと、K18・3員面に添付された「被買収被疑者K1の行動表」と題する書面の内容についてどのように尋ねたかはっきり記憶していないこと、主任検事である矢田検事から、三月下旬会合の開催日の特定は、客観的な裏付けを待って行うので、個々の供述による特定は無理をするな、という指示があり、八月五日、K1は、二八日か二九日のどちらかであるという供述をしたと思うが、供述のみで絞り込むのはよくないと判断し、K18・5検面(28丁のもの)に録取した供述を録取したこと、をそれぞれ証言している(<証拠>)。

右のとおり、八月三日の時点では、三月二八日午後ないし三月二九日午後の行動が明らかでなく、三月下旬会合は、この両日のいずれかに開催されたと供述していたK1が、何故八月五日に至り、再び三月下旬ころという供述を録取されたのかについては、矢田検事の捜査方針を背景とするものであると認められる。しかしながら、右ダイアリーや日記帳の記載は、取調べ当時の単なる供述とは質を異にしていることは明らかであって、言わば、準客観的な証拠ともいうべきものであり、八月五日、五木田検事において、同ダイアリーや日記帳の記載の真実性についてK1を吟味した形跡がないのは、いささか腑に落ちないところである。

(四) 被告人T2の供述

(1) T2は、七月一〇日、A3巡査部長に対し、「三月初めころにH1先生の居宅に本部役員約二二〜二三名くらいが集合し、間近に迫った参議院選挙に大阪選挙区から出馬している甲先生をどのような方法でバックアップしようかという話し合いをしております」、「その後三月二七、八日ころに二回目の会合をやる旨の連絡を受けておりましたが、H1先生の都合でこの会合が流れてしまい、二回目の会合は、四月初めころに行われました。この時もやはり、H1先生の居宅に……(中略)……六〜七名が集まりました」と供述していたが(<証拠>)、七月一四日には、A3に対し、三月中ごろ、六名の会合があった旨を認め(<証拠>)、さらに七月一六日にはA3に対し、三月中ごろの会合と三月下旬の会合の存在を認める供述をし(<証拠>)、その後は、三月下旬会合の開催日につき、三月末ころと述べたり、三月下旬ころと述べたりしているものの、おおむね供述を維持していたところ、八月七日に至り、A3によって、同被告人の記載していたダイアリー(符47)に虚偽記載をした点についての取調べを受けた後(<証拠>)、樫本副検事に対して、「役員会があったのは、三月二九日に間違いありません」、「私がその会合があった日を三月二九日と記憶していたのは、その日が三月の最後の土曜日であったと記憶していたからです」と供述した上、右ダイアリーに虚偽記載をした時期及びその内容について説明している(<証拠>)。

(2) 右のとおり、T2も、八月七日に至り、H1同様、突然、「その日が三月の最後の土曜日であったと記憶していたから」、「三月二九日に間違いありません」と供述しているのである(<証拠>)。

T2は、8・7検面(7丁のもの)において、ダイアリー(符47)に虚偽の記載をしていた旨述べた上、右供述をしているところ、関係証拠によると、T2において、本件捜査開始後右ダイアリーに虚偽ではないかと疑われる記載をしていたことは明らかであり、供述時の状況としては、右供述内容の信用性を高めるような状況であったといいうるであろう。

しかし、T2は、七月一四日、A3に対し、三月下旬会合の存在を認め、七月一六日には、A3に対し、三月中旬会合及び三月下旬会合の存在を認め、その後は、一貫して、三月下旬会合の存在を認めている点に照らすと、仮に、真実T2において、三月下旬会合の開催日が、「三月の最後の土曜日であったと記憶していた」のであれば、何故より早い段階でそのような供述をしなかったか疑問が残るといわざるを得ないのである(なお、右ダイアリーの三月二八日右欄には、この日が三月下旬会合の開催日であったかの記載があり、T2は右検面で、三月二八日には高槻市議会があり、H1がいないことを知っていたため虚偽の記載をした旨供述しているが、T2の各供述調書の記載をみても、同被告人が三月下旬会合の開催日が三月二八日であると供述した形跡はない)。

(五) 被告人D2の供述<省略>

(六) 被告人O1の供述<省略>

(七) 被告人N1の供述

(1) N1は、七月二四日、桝永敏幸警部補に対し、三月下旬会合の開催日を「三月下旬ころ」と供述し(<省略>)、七月三〇日の宮本寅造副検事の取調べにおいては、三月下旬会合の三日くらいあとの三月二九日に埼玉県に在住する娘が孫三人を連れて帰省する予定になっていたので、H1方でもらった菓子を孫に食べさせようと思って台所のテーブルの横に置いていたが、それから三日くらいあとの三月二九日の夕方に、予定どおり娘と孫三人が来たので孫に右菓子を食べさせた、その際紙袋の下にあった現金三万円入りの封筒に気が付いたと供述していたところ(<証拠>)、八月六日に至り、酒井海山巡査部長に対し、N1の手帳(符45)の三月二九日欄には、「コミュニティ市民会議幹事会午後二時から」と書いてあるが、右会議はN1の亡妻の仏事を三月三〇日に予定していたことと、二九日、右仏事のため娘が帰省することになっていたことから、被告人K13に代わって出席してもらった旨、二九日は、仏事の準備のため、朝から忙しくバタバタしていたが、昼過ぎにちょっと時間が空いたので、欠席する予定にしていたH1方で開かれる役員会に出席することにした旨、H1宅には午後二時ころ着いたが、既にH1等の挨拶は終わっており、被告人D1から会議の内容について詳しく聞いた旨、先日娘に電話したところ、娘が着いたのは夕方ころだったと聞いた旨等を供述した上、三月下旬会合が開かれたのは三月二九日であった旨、供述している(<証拠>)。

ところが、N1は、八月八日の五木田検事の取調べに対しては、まず、七月三〇日、宮本副検事に対し、三月下旬会合の三日くらいあとの三月二九日に娘らが帰省したと述べた点については記憶に自信がなく、三日という日にちは特に根拠があるわけではないから供述を訂正し撤回したい旨供述し、三月三〇日に亡妻の仏事があり、その前日ころに娘らが帰省した事実は間違いなく、三月下旬会合はちょうどこのころ開催されたと述べ、結局三月下旬会合の日付については、三月下旬ころとしか言えないと供述を後退させているのである(<証拠>)。

(2) 右のとおり、三月下旬会合の開催日に関する捜査段階におけるN1の供述は、かなり変遷しているといわざるを得ない。

ところで、関係各証拠によると、N1は、手帳(符45)を、七月三〇日、大阪地方検察庁宛て任意提出していること(N1作成の同日付任意提出書)、右手帳を領置したのは、同日、宮本副検事によるN1の取調べに立ち会った栗山博文検察事務官であること(<証拠>、検察事務官栗山博文作成の同日付領置調書)、八月一日付で、三月二九日午後二時から高槻市民会館で開催された高槻市コミュニティ市民会議代表幹事会には、N1の代理としてK13が出席していることを復命する書面が作成されていること(司法警察員作成の「昭和六十一年三月二十九日開催昭和六十年度高槻市コミュニティ市民会議代表幹事会の開催状況について復命」と題する書面)、八月二日付で、K13から右を裏付ける供述が得られたこと(<証拠>)、をそれぞれ認めることができる。また、既に指摘したとおり、三月二九日の三日前の三月二六日及びその前日の三月二五日は、被告人T1において、山代温泉に行っていた事実があり、捜査官は、七月三一日には、その裏付けも取っているのである(第九―三―3―(三))。

そうすると、まず、酒井巡査部長が、八月六日になって重ねてN1を取り調べているのは、N17・30検面に録取された三月下旬会合の開催日によると、右T1の三月二五日、二六日のアリバイと矛盾してしまうため、再びN1から事情を聴取する必要が生じたためではないかと推測される。

また、酒井としては、N1の右手帳には、三月二九日二時からのコミュニティ市民会議開催の予定が記載されているが、同被告人は同会議には出席せず、その裏付けも取れていることを事前に知った上、八月六日の取調べに当たり、右に指摘したとおり、三月下旬会合の開催日は三月二九日であったとするかなり具体的な供述を録取したのではないかと考えられるのである。

8・6員面の供述に比較すると、8・8検面におけるN1の供述は、二日前に8・6員面に録取されたような供述をしたにしてはあいまいな内容になっている。八月八日のN1の取調べ状況について、五木田検事は、矢田検事から、宮本副検事に対するN1の供述を吟味してくれという指示を受けたこと、酒井巡査部長の録取した員面は見ていたと思うこと、五木田検事の取調べに対し、当初N1は宮本副検事に述べたようなことを供述したと思うが、(三月下旬会合があったのは、娘らの帰省した三月二九日の)「三日くらい前」という供述について、何か根拠があるのか、二日前ではなくて三日前なのか、一週間前ではなくて三日前なのか、と質問していくと、N1は、三日というのは、ちょっと前というか、感覚的に言った日数で確たるものがあって言ったものではないこと、正確な記憶としては自信がないこと、娘らの帰省した日と三月下旬会合の日が同一の日であることも考えられること等を供述したため、五木田検事としては、これ以上追及しても、正確な記憶は蘇らないと判断し、「三月下旬ころ」という供述を録取することとしたこと、を証言している(<証拠>)。

以上みたとおり、N1の捜査段階における供述は、七月二四日の桝永警部補に対する「三月下旬ころ」、七月三〇日の宮本副検事に対する「三月二九日の三日くらい前」、八月六日の酒井巡査部長に対する「三月二九日」、八月八日の五木田検事に対する「三月下旬ころ」と変遷しているところ、右五木田証言は一応もっともである。しかし、八月六日、酒井巡査部長に対し、「三月二九日」であると供述しておきながら、八月八日の五木田検事の取調べにおいては、その当初N1の供述が七月三〇日段階の供述(「三月二九日の三日くらい前」)と同様であったというのはいささか理解に苦しむ。さらに、当時娘らの帰省や亡妻の法事という出来事があり、娘らの帰省は三月二九日、亡妻の法事は三月三〇日と、一応日付が確定できたのであるから、N1において、三月下旬会合の開催日についての記憶が喚起できなかったことに不自然さが残ることは否定できないところである。

(八) 被告人N2の供述

(1) N2は、七月二四日、田中宣明巡査部長に対し、三月下旬会合当日、午前七時半ころ、勤務先である大阪府高槻市所在の大阪医科大学付属病院に出勤し、昼食後、H1方へ行ったが、H1方を辞去した後、勤務先に戻り、そこからバスで家に帰った旨供述していたが(<証拠>)、その後七月三〇日の五木田検事の取調べに対しては、「三月下旬ころの当日、私は勤務先の病院から歩いてH1さんの家へ行きました」、「この日は平日で、私の勤務時間中でしたが、時間中に外出することは比較的自由でした。ふだんの時も勤務時間中に買物に出たりしており、こういうことは比較的自由で、上の人も認めてくれていたのです」、「H1さんの家を出て、一旦病院に戻り、間もなく病院から自宅へ帰りました」と供述し、三月下旬会合の開催日が平日である旨述べていたのであるが(<証拠>)、八月一二日には、五木田検事に対し、「よく記憶を整理してみると、三月下旬の日にちが平日だったと断定する自信はありません」、「私の記憶では、三月下旬ころの当日、勤務先の病院から歩いてH1さんの家へ行きましたから、日曜日ではなかったと思います。ただ、土曜日だったかもしれません。土曜日であれば、私の勤務時間は午前中だけですから、午後H1さんの家で開かれた会合に出席した際『勤務時間中』だったとは言えません」、「こういうことを考えると、今年の三月下旬ころのH1さんの自宅で開かれた会合に私が出席し、選挙違反の計画を相談したり、甲さんへの投票などを依頼されてH1さんから現金三万円をもらったことは事実ですが、その日が平日で私の行った時間が勤務時間中だったとは言い切れませんので、このことを付け加えておきます」、「ただ、私の記憶としては、日付がはっきりしませんので、私が間違いなく言えることは、行った日が平日だったかもしれないし、土曜日だったかもしれず、また、私の勤務時間中だったかもしれないし、そうでなかったかもしれないということなのです」と述べ、土曜日であったのか平日であったのかよく分からないという趣旨の供述を録取されている(<証拠>)。

(2) このように、N2は、七月三〇日には、五木田検事に対し、三月下旬会合当日、同被告人は、会合の後勤務先に戻ったと供述した上、三月下旬会合は平日に開催されたと述べていたのであるが、八月一二日に至り、同検事に対し、三月下旬会合の後、勤務先に戻ったか否かについて触れないまま、その日が平日であったか土曜日であったか分からない旨供述を変更させている。

してみると、八月一二日の取調べについては、当時、捜査官において、七月三〇日のN2の供述によると、土曜日である三月二九日に三月下旬会合が開催された可能性を否定することとなるため、再度同被告人を取調べ、三月二九日に同会合が開催された余地を残す供述を録取したのではないかと推測されるのである。

(九) 被告人T3の供述

(1) T3は、七月二五日、桝永警部補に対し、三月下旬会合が開催されたのは「三月下旬ころ」であると供述した上、株式会社××工務店の営業部長という立場上、部下の従業員が働いているのに、一人だけ帰るわけにもいかないので、午後三時三〇分ころにH1方での会合が終わった後、午後四時過ぎころ会社に帰ったが、まだ皆営業に出たり、建築現場に出たままだったので、自分の事務机でH13からもらった土産を開けた後、午後六時三〇分ころ退社し、現金三万円の臨時収入も入ったので、阪急高槻駅南側のスナック「モンクス」に寄った旨供述し(<証拠>)、七月二九日、樫本正博副検事に対しても、三月下旬会合当日、午後四時過ぎころ会社に戻り、午後六時半ころ退社し、その後高槻駅近くの行きつけのスナックやラウンジに行って現金三万円を費消した旨供述していたところ(<証拠>)、八月八日に至って、矢田検事の取調べを受け、「三月下旬ころのいつだったかという日にちについては正確な記憶はありません」、「ただ私なりの記憶で一番可能性が高いと思っているのは月末の土曜日だったという気がしますので、三月二九日です」、「絶対にこの日だったという確信はありませんが、月末の土曜日だった気がしますのでそう思うのです」、「当時の行動を記録したようなものは何もありません」と述べ、それまでH1方を辞去して以降の行動について一貫した供述をしていたにもかかわらず、その点には全く触れることなく、三月下旬会合の開催日を月末の土曜日である三月二九日であると思う旨の供述を録取されている(<証拠>)。

(2) このように、T3は、七月二五日及び七月二九日の取調べにおいては、三月下旬会合の開催日について「三月下旬ころ」と述べた上、同会合当日、午後四時ころ、勤務先に戻り、午後六時ころ退社した旨述べ、特に七月二五日の取調べにおいては、部下の従業員がまだ仕事に出ていたので勤務先に戻り、午後六時ころまで会社にいた旨供述していたのである(<証拠>)。

しかるに、T3は、八月八日に至り、突然、「月末の土曜日だったという気がしますので、三月二九日です」と述べている。当時、T3の勤務していた高槻市上本町<住所略>所在の株式会社××工務店の土曜日における勤務体制は、証拠上明らかでない。三月二九日におけるT3やその他の同工務店従業員の具体的な勤務状況もまた、不明であり、三月下旬会合終了後、一旦勤務先に戻り、午後六時ころ退社したという七月二九日の供述の信用性が直ちに疑われるわけではない。しかし、土曜日の午後は勤務のないのが通常であり、八月八日以前には、当日の勤務状況と絡めて供述が録取されていたのであるから、矢田検事において、8.8検面を録取するに当たり、当日のT3の勤務状況を質することなく、単に、「月末の土曜日だったという気がしますので、三月二九日です」という供述を録取するに止まっていることは、いささか腑に落ちないといわざるを得ないのである。

(一〇) 被告人H3の供述<省略>

(一一) 被告人Y1の供述

(1) Y1は、七月二六日、田中次郎巡査に対し、三月下旬会合は「三月末ころ」開催されたが、その前日くらいに被告人E5がY1方を訪れ、「明日、H1後援会の役員会が午前一一時ころからH1さんとこであるんや。わしは今度、五月に叙勲を受けることでその準備に忙しいので、あんた代わりに行ってくれへんか」と言ってきたのでこれを了承した旨供述し(<証拠>)、その後、七月三一日、宮本副検事に対しても、「三月下旬ころ」開催されたが、その前日くらいにE5がY1方に来て、「明日H1後援会の役員会が午後一時からH1さんのお宅で開催されるが、私は五月に叙勲を受けることでその準備等で何かと忙しいので副支部長のあんたが代わりに行ってくれんか」と言うのでこれを了承した旨供述している(<証拠>)。

(2) ところで、司法警察員作成の八月四日付「公職選挙法違反E5の叙勲内示日の捜査について」と題する書面によると、淀川右岸水防事務組合からE5に対し叙勲の内示のあったのは、三月二九日の午前中であると認めることができる。したがって、右の事実と、右Y17.31検面(14丁のもの)9項に録取された供述内容とを併せ考えると、三月下旬会合の開催日は、三月三〇日になる。三月三〇日に三月下旬会合が開催されたとすると、前記3における認定事実とは矛盾することになることが明らかである。Y1は、その後、八月七日に、酒井巡査部長の取調べを受け、「私は、先日は、E5が叙勲を受けることの連絡を受けた前の日に、E5さんから後援会の役員会に出席するよう連絡を受けたとお話ししていますが、よく考えてみますと岩本さんから連絡を受けたのは叙勲の内示のあった日で、午前一〇時ころに電話で言ってきています」、「E5さんは、私に代わりに出席してくれと頼んだ後、『まだ内示で正式なものではないので正式に言ってくるまで他の人には黙っていてな』と言ったことをよく記憶しています」という供述を録取されている(<証拠>)が、右酒井の取調べは、右司法警察員作成の八月四日付「公職選挙法違反E5の叙勲内示日の捜査について」と題する書面によって明らかになったE5の叙勲の内示の日付と、七月三一日段階までのY1の供述との矛盾を解消するためのものであったと思われる。

(一二) 被告人N3の供述<省略>

(一三) 被告人H4の供述<省略>

(一四) 被告人B1の供述<省略>

(一五) その余の被告人ら及び関係者の供述<省略>

(一六) 検討

(1) 関係者の三月下旬会合の開催日に関する供述について、まず目に付くのは、多数の被告人、死亡被告人やその他の関係者がいるにもかかわらず、その当時の他の出来事と関連付けて積極的に同会合の開催日を特定したのは、妻の法事や娘らの帰省に関連付けた前記N1の酒井巡査部長に対する供述と、E5の叙勲の内示に関連付けた前記Y1の供述のみであることである。しかも、N1は、その後五木田検事に対し、酒井に対する供述を実質的に訂正する供述をしていること、Y1も、叙勲の内示のあった当日であったか翌日であったかについては、供述を変遷させていることは、既にみたとおりである。

被告人らやその他の関係者は、現金受供与の事実や三月下旬会合の開催事実等、いずれも捜査段階で検察官の主張に沿う供述をしているのであり、三月下旬会合がいつ開催されたのかに限って秘匿しなければならない理由は見当たらない。にもかかわらず、三月下旬会合の開催日に関する被告人らやその他の関係者の供述が各検面に録取された程度のものに止まっているのは、それ自体不自然というほかないのである。

(2) さらに、三月下旬会合の開催日に関する、H1及びH13の供述に問題点のあることや、K1、N1、N2及びT3の供述にいささか不自然な変遷が認められることも、既に指摘したとおりである。

(3) また、「三月二九日」と特定する、H1、T2、T3は、いずれも、「月末の土曜日という記憶があるから」と述べている(8.6員面で「三月二九日」と供述しながら、8.8検面で「三月下旬ころとしかいえない」と供述したN1を除く)。しかし、そのような記憶があったのであれば、より早い時期から供述してもよさそうであるのに、そのような供述をしていた形跡は供述調書の記載からは全く窺われず(T3にあっては、「月末の土曜日」であることと矛盾しかねない供述をしていたことは、既に指摘したとおりである)、八月七日にT2、八月八日にT3、八月一三日にH1と、捜査の最終段階に至り、「月末の土曜日という記憶があるから」という理由で、突然このような供述を録取されていることもまた、不自然というほかない。

(4) 三月下旬会合について供述する際、次男の看病と関連付けているO1、亡妻の法事や娘らの帰省と関連付けているN1、E5の叙勲の内示と関連付けているY1、土砂崩れにより田に土砂の入ったことや演芸大会開催と関連付けているH4、日光旅行と関連付けているB1の各供述の存在は、証拠上特に不審な点のない具体的事実と関連付けた供述である点で、三月下旬会合の開催日についてはともかく、同会合の存在については、一応、これを推認させる方向に働く事情というべきであろう。

しかし、捜査官が三月下旬会合に関する取調べをする際、後のアリバイ立証にも備え、同会合のみではなく、そのころあったその他の出来事についても事情を聴取するであろうことは、容易に想像することができるのであって(右出来事については、供述者は、抵抗することなく供述するものと考えられる)、仮に、三月下旬会合の開催そのものについての関係者の供述が虚偽であるとしても、その他の出来事と関連させる形で三月下旬会合に関する供述が録取されていることは不自然とはいえないであろう。

したがって、証拠上特に不審な点のない具体的事実と関連付けた供述であるからといって、その全体について直ちに高度の証明力あるものと考えるわけにはいかないというべきである。

(5) 以上のとおり、三月下旬会合の開催日に関する被告人ら及びその他の関係者の供述については、真実、同会合が存在したにしては不十分なものに止まっており、かつ、不自然な点も多々みられるといわざるを得ないのである。

5 まとめ

以上、検討したとおり、仮に三月下旬会合が存在するとすれば、その開催日については、関係者の供述のみによることなく関係証拠に基づきいわゆる消去法によってこれを特定すると、三月二九日であると考えられるのであるが、本件当時関係者が使用し又は記載していた手帳、ノート、カレンダー等をみても、同会合の開催事実や同会合に出席した事実を窺わせる記載は全く存在せず、さらに、三月下旬会合の開催日に関する関係者の捜査段階における供述をみても、真実、同会合が存在したにしては不十分なものに止まっており、かつ、不自然な点も多々みられるといわざるを得ないのである。

三月下旬会合の開催日に関する証拠が以上のようなものに止まっていることは、三月下旬会合の存在そのものを疑わせる重要な事情というべきである。

四  四月の三回の会合の日取りに関する三月下旬会合当日のH1の発言振りの問題

1 三月下旬会合出席者の、四月の三回の会合の日取りに関する三月下旬会合当日のH1の説明状況についての、捜査段階における検察官に対する供述は、要旨、次のとおりである。

(一)〜(一八)<省略>

(一九) 被告人O2(<証拠>)

そして、誰も反対の意見を言う人がいなかったので、その方法で甲を支援することになり、日程などについては、H1に任せるということに決まった。H1は「日曜日は、おそらく取れんだろうと思うので、平日になったらそれで辛抱してください」などということも言っていたように思う。

(二〇) 被告人Y1(<証拠>)<省略>

(二一) 被告人N3(<証拠>)<省略>

(二二) 被告人O3(<証拠>)

(H1が)「日程については私の方で予約を取り付けます。日曜日はおそらく満席やと思うので平日になると思います。それから費用は私の方でちゃんとしますので会費はいりません。細かいことは後で連絡します」と言った。

(二三) 被告人M2(<証拠>)<省略>

(二四) 被告人B1(<証拠>)<省略>

(二五) 被告人Y7(<証拠>)<省略>

2 四月の三回の会合の予約状況に関する、T23の検察官に対する供述内容については、既に第八―五で指摘したとおりであり、同人の供述によると、H1は、三月二五日前後ころまでには四月の三回の会合の予約を終わっていたことを認めることができる。

3 三月下旬会合の状況に関するH1の捜査段階における供述の概要は、既に第八―一で触れたとおりであるが、H1は、八月九日、矢田検事に対し、槻の郷荘での三回の会合開催についての三月下旬会合出席者の了解が取れた後、被告人D2か誰かから、「『人は各支部で大体どれくらい集めるんですか。森林センターへはどうやって行くんですか』などという質問がありました。それで私は、当時自分なりに腹案を持っておりましたので、メモを見ながら各支部ごとの人数や地区割りともいうべき一回目はどこの人で二回目はどこの人というような案を説明してやりました」と供述し、さらに、同検事から、「昭和五十二年H1後援資料 事務局会員役員その他集会出席者資料」と表書のあるバインダー(メモ在中)(符7)中のメモ二枚を示された上、「私が見ていたメモはただ今お示しのメモであり、これは私が書いたものです。このメモを見て分かる通り訂正もしておりますので三月下旬ころの役員会で発表した人数は正確に何人とは申し上げることはできません。いずれにせよ私がこのメモのようにいろいろ人数の計画をしていたことは確かです。ただこの役員会ではいろいろな意見が出たりしたため、私が発表した人数等は確定したものではなく、細かいことは後で連絡するという言い方をしてやりました。私はその場でみんなに『細かい日程等は、また連絡しますが、人選は皆さんの方にお任せします』と言ってやりました」と供述している(<証拠>)。

4 検討

(一) 右3の二枚のメモのうち、右H18.9検面(40丁のもの)の末尾添付書面中、二枚目に添付されたものは、四月七日と四月一六日の各会合について、その順序で、日付、地区名及び人数等の記載があり、三枚目に添付されたものは、四月二六日、四月七日、四月一六日の各会合について、その順序で、日付、時刻、地区名及び人数等の記載があるところ、右各メモの記載の体裁をみると、地区名及び人数を先に記載し、その後「四月七日」等の日付を記載したものとは思われないものとなっている。また、右3でみたとおり、H1自身も、右メモに関し、三月下旬会合当日、右メモに四月の三回の会合の日付が入っていなかったとは供述していないのである。

(二) ところで、既に詳細に検討したように、三月下旬会合が存在するとすれば、三月二九日に開催されたとしか考えられないこと(第九―三―3参照)、及び、右2に指摘したとおり、四月の三回の会合に関するH1の予約が三月二五日前後ころには終わっていたことからすると、三月下旬会合当日には、既にH1は四月の三回の会合の予約を終わっていたことになる。

(三) そうすると、三月下旬会合当日、H1は、既に四月の三回の会合の予約を終わり、前記のとおり、四月七日、四月一六日、四月二六日の日付の入ったメモを手にして発言しながら、あえて各会合の日付を三月下旬会合出席者に伝えなかったということになるのであるが、何故そのような行動をとったのかについては、H1の捜査段階の供述をみても何ら触れるところがない。

その上、前記1で検討した者のうち、とりわけ被告人O2及び同O3の供述をみると、三月下旬会合当日、H1は、既に槻の郷荘の予約を終わっていたにもかかわらず、明らかに当時H1においていまだ槻の郷荘の予約を終わっていないと装ったとしか考えられない発言をしていることや、H1において日曜日以外の三日を予約し、日曜日の予約は取れなかったにもかかわらず(四月七日は月曜日、四月一六日は水曜日、四月二六日は土曜日である)、そうなった場合にも了承してもらいたい旨発言しているのは、理解し難いところである。

(四) 以上の点を検察官の立場に立って説明するとすれば、三月下旬会合当日、同会合出席者に対し、予約済の四月の三回の会合の日取りを伝達することにより、その日では出席できない者から日取りについて異議を唱えられることを恐れたH1において、あえて予約済の日取りを明らかにしなかったとでも推察する以外ない。しかし、H1の捜査段階における供述によると、H1は、四月の三回の会合の予約を取るに当たり、三月中旬会合に出席したH1後援会の幹部六名にすら相談した形跡は全くないのであって、H1が右の点を配慮し、あえて予約済の四月の三回の会合の日取りを秘匿していたとは考え難く、結局、当時四月の三回の会合の予約を了していながら、H1において、あたかも日取りは未定であるかのように発言したことになる、前記1の各被告人及び確定者Y7の各供述並びに前記3のH1の供述には、不自然な点があるといわざるを得ないのである。

五  三月下旬会合当日の出来事に関する一部出席者の供述

三月下旬会合出席者の捜査段階における供述をみると、数名の者が供述しているに止まるが、供述そのものとしては、具体性、迫真性、臨場感に富むものがあり、このような供述の存在は、その限りにおいては、自白の真実性を肯定する方向に働く事情であるといえよう。

しかしながら、これらの供述の中には、一部の供述者が供述しているような出来事があったとすれば、全出席者、少なくとも多くの出席者の記憶に残ってしかるべきものと考えられるものがあり、そのような出来事について、一部の者が供述するに止まっているのは、むしろ、不自然であり、何らかの理由により、真実でない供述が録取されたのではないかと考える余地のある供述もあるのである。

そこで、以下、

① 甲関係の文書(パンフレット)の配付の問題

② 供与に関するH1の発言振りの問題

について、検討することとする。

1 甲関係の文書の配付の問題

(一) 三月下旬会合出席者のうち、捜査段階において、検察官に対し、三月下旬会合当日、甲関係の文書が配付された旨供述しているのは、被告人T20、同K2の二名である。

(1) 被告人T20は、七月二四日、五木田検事に対し、「続いて、D1会長が、『それでは、どのような方法で甲さんを応援していくのか皆さんのお考えを聞かせてほしい』と言い、応援の具体的な方法について話し合うことになりました。出席者の中から『甲さんの顔も知らん人が多いやろから、一度席をもうけて甲さんに来てもらったらどうや。』とか『甲さんのパンフレットかチラシでもあれば顔も経歴も分かるやろから、そういうものを配ったらどうや。』などという意見が出ました。これを聞いていたH1さんが席を立って、甲さんの写真などが出ているパンフレットを持ってきて、二人に一部くらいの割合で配り、私達みんなに見せてくれました」と供述した上、同検事から、司法警察員作成の「参議院選挙立候補予定甲のパンフレット入手について」と題する捜査復命書添付の「甲の素顔」と題するパンフレットを示されたのに対し、「お示しのパンフレットと同じものをこの時H1さんから配られて見ました」と供述している(<証拠>)。

なお、T20は、七月二三日、中西康之巡査部長に対しても、ほぼ同様の供述をしていることが認められる(<証拠>)。

(2) 被告人K2は、七月二九日、城検事に対し、三月下旬会合においては、まず、甲を応援することが決まったが、その後の状況について、「いずれにしてもその場は甲さんを応援するということになり、その後、甲さんを応援するための方法についてみんなが何か意見を述べていたように思いますが、私自身甲さんに対して応援することに余り興味を持っていませんでしたから、よくは聞いておりませんでした。ただ、その時甲さんのパンフレットを配るとかどうするとかいう話が出て、私の席の方にも甲さんの写真などが出ているパンフレットが回ってきたりしました」と供述した上、五木田検事がT20に示したのと同じパンフレットを城検事から示され、「お示しのパンフレットと同じものをこの時、私はH1先生から配られて見ました」と供述している(<証拠>)。

なお、K2は、員面においては、H1から、甲のパンフレットを配られ、これを見た旨の供述は録取されていない。

(二) 三月下旬会合当日、出席者の多くがその顔すら知らない甲の応援方法を相談している最中、H1によって、甲のパンフレットが配られたとする右両名の検察官に対する供述は、それ自体としては、極めて自然であるというべきであろう。

しかしながら、仮に、そのような出来事があったとすれば、同会合において応援することを決めた、甲本人の顔写真を見たというのであるから、多くの出席者の記憶に残ってもよさそうであるが、現実に検察官に対し右の状況を供述しているのは右二名に止まる上、右二名の供述によると、甲のパンフレットを配付したのはほかならぬH1自身であるところ、H1の捜査段階の供述調書には、右の状況に関する供述が何ら録取されていないのは、不自然というほかなく、このように、関係証拠を総合すると、かえって、右二名の各供述の信用性に疑いを抱かざるを得ないのである。そして、このような言わば「過剰な自白」の存在は、被告人T20及び同K2の三月下旬会合に関する捜査段階における供述全体の信用性にも影響を与えるものというべきであろう。

なお、被告人D1は、七月一八日、秋山巡査部長に対し、三月中旬会合において、H1から甲関係の文書を持って帰るように言われた旨、三月下旬会合においても、H14が甲の選挙のことを印刷した文書の入った封筒を出席者に配って回った旨をそれぞれ供述している(<証拠>)が、D1の検面には、右に関する状況は何ら録取されていない。

2 供与に関するH1の発言振りの問題

(一) 三月下旬会合出席者の中には、次のとおり、捜査段階において、検察官に対し、三月下旬会合当日、H1から供与を予告する旨の発言があった旨供述している者がある。

(1) 被告人K1(<証拠>)

この飲食が始まる前だったか、始まった後だったか、はっきりしないが、H1が、私達に、「今日、皆さんに渡したいものがありますので、帰る際に持って帰ってください。しかしもらったことは誰にも言わないでほしい」というふうに言ってきた記憶がある。

私は、H1が何か土産でもくれるのかと思い、その時は特に気にも留めなかったが、後で話すとおり、帰りがけにもらった土産の中には現金三万円が入っており、H1が「もらったことは誰にも言わないでほしい」と言っていたのは、実は、この三万円だったことが分かった。

(2) 被告人T1(<証拠>)<省略>

(3) 被告人T2

ア 7.27検面5項

その宴会の途中だったか、役員会の終わりかけの時だったかに、H1が、私達に、「実は皆さんに今日持って帰ってもらうものがありますが、これについては人には黙っとってください。もし人に知れるとえらいことになりますから」と言った。

イ 同検面6項

それで私は、その言い方からして、『自分らに甲のことを頼んだことから、お礼の印にちょっと値の張る土産でもくれるんかいな』と思った。

(4) 被告人D2<省略>

(5) 被告人T20

ア 7.24検面15項

話し合いが終わったところで、H1が、私達に向かって改まった口調で、「実は今日、皆さんにお礼として渡すものがありますが、これについては決して口外しないよう頼みます。これがバレると、甲さんが当選したとしても、選挙違反に問われて大変なことになりますので、絶対に口外しないでください」というふうに言ってきた。私は、これを聞いて、『ははあ、今日は甲さんの選挙運動のためにこうして寄ったんやから、土産の中にでも現金が入っているのと違うか』と思った。

H1が、私達に対して、「参議院選挙の際には、甲さんに投票してほしい、そして知り合いの人などに対しても甲さんに投票するよう働きかけてほしい」という依頼をし、私達がその依頼に応ずることへのお礼の意味で私達に現金をくれるのだと思った。

そして、その現金は、H1の方か、あるいは甲の方から出ているのだろうと思った。

私だけでなく、この時出席していた人は、このようなH1の話を聞いて、みんな同じように考えたと思う。

イ 同検面16項

……(略)……中を見たところ、一万円札三枚で三万円の現金が入っていた。

私は、これがH1の言っていた現金だとすぐ分かった。

(6) 被告人K2

ア 7.29検面(24丁のもの)7項

その話し合いが終わった後、H1が、私達に対し、「皆さんにお礼として渡すものがあります。これについては決して口外しないようお願いします。ばれたりしたら大変なことになりますから口外しないよう、よろしく頼みます」と思わせぶりなことを割りと改まったような感じで言っていた。

私は、『また何を改まって言ってるのか。何か表に出るとまずいものをくれるのか』と思った。

これまで、この会合でH1が言っていたことは、選挙違反につながるようなことばかりだったから、そのような話を聞いても特に驚いたりはしなかったが、多分会合に出た人達に対し、金か何かを配り、私達にも、甲への投票や、知り合いの人などに対する甲への投票の働きかけを活発にしてほしいという意味でくれるんだろうと思った。

既に、後援会の会員を大勢槻の郷荘でただで接待するという話がまとまった後だったから、H1から違反になるようなものを持ってってもらうと言われても何かもう感覚が麻痺したような感じで、もらうものはもらっておけばいいやというような気持ちになっていた。

イ 同検面8項

私は、渡された土産が私に対する甲への投票の依頼や私の家族などに甲への投票を働きかけるなどのお礼の趣旨で出されているものであると十分分かっていたが、今まで選挙違反に絡む話は随分していたから、今更どうといったことはないやといった軽い気持で受け取った。

また、先程H1が強く口外を禁じて、何か渡すと言っていたから、ひょっとしたらこの土産の中に金でも入っているんではないかとも思ったが、みんなももらって帰っているようだったし、見付かることもないだろうからかまいはしないと思っていた。

(中略)

私は、その封筒を見て、パンフレットか何かチラシかとも思ったが、すぐにH1が選挙違反になるから渡すものを口外しないでくれと言った言葉を思い出し、これはきっと現金でも入っているんじゃないかと思った。

(中略)

私は、やっぱり現金が入っとるのか、みんなもどうせもらっとることだし返しに行くのも難儀やから、まあもらっておけばええやと思った。

(7) 被告人M2

ア 7.30検面(18丁のもの)8項

この宴会の途中で、H1が、「実は今日、皆さんに来ていただいたお礼として、手土産を持って帰ってもらいます。このことは、一つ、口外しないようにお願いします」と言った。

これを聞いて、私は、H1が、集まった役員達に、甲への投票や投票のための働きかけを頼んだので、そのお礼として土産まで用意してくれていると思ったが、まさか現金が入っているとは思ってもみなかったので、H1はちょっとたいそうに言いはるなと、その時思った。

イ 同検面9項

それで、私は、宴会の時にH1が、「お土産のことを口外しないように頼みます」と言ったのは、この三万円のことを言っているのだということが、その時分かった。

(8) 確定者Y7(<証拠>)<省略>

(二) ところで、H1も、既に第八―一―2―(七)で指摘したとおり、八月九日、矢田検事に対し、H1が、出席者に対し、「今日は本当にありがとうございました。今日はつまらないものですが、ちょっとお渡しするものがありますので持って帰ってください。それとこれについては、余り人に言わんようにしてください」と言った、金が入っていたのでそのように言った、金が入っていることまでは分からなかったかもしれない、と供述している(<証拠>)。

(三) 一方、前記(一)で指摘した八名及びH1以外の、検察官において三月下旬会合に出席したと主張する一九名は、いずれも、供与を予告し、さらに、これについての口外を禁ずるH1の発言について供述していない。

H1の発言が、単に、手土産を渡すから受け取るように、という程度のものに止まるものであれば、あるいは、二七名の出席者のうち、八名の記憶にしか残らなかったとしても、直ちに不自然ということはできないかもしれない。

しかし、H1自身や、前記(一)で指摘した八名のうち、K1、T2、T20、K2、M2の五名は、H1において、単に、手土産を渡すというに止まらず、その事実を口外しないよう出席者に頼んだと供述し、しかも、T20及びK2に至っては、H1の発言の当時、既に現金供与の可能性にも気が付いているのであり、そのようなH1の発言があったとすれば、出席者としては、一体H1がどんな物を渡すのだろうかと気になるのが普通であって、極めて記憶に残りやすい事柄であると考えられるのである。にもかかわらず、出席者全体の三分の二を超える者が、H1の右発言について何ら供述していないのは、不自然といわざるを得ない。

通常、供述者において、捜査官に対し自己の体験した事実のすべてを語るわけではなく、供述が捜査官に尋ねられた事項に限定してなされる場合のあることは否定できないとしても、三月下旬会合の出席者の捜査段階における供述は、いずれも、時系列に従い、会合での出来事を逐一再現するという態様のものであり、真実H1において、供与を予告し、更に、これについての口外を禁ずる発言をしたとすれば、多数の者の記憶に残り、供述が録取されていてしかるべきではなかろうか。

以上の次第であり、H1及び右(一)で指摘した八名においては、三月下旬会合当日、H1において、供与を予告し、更に、そのうちH1及び右(一)で指摘した八名のうち五名は、H1がこれについて口外することを禁ずる発言をしたと供述している一方、残りの三月下旬会合出席者が右の点について何ら供述していない点については、不自然さがあることを否定できないのである。

六  現金の準備状況に関するH1及びH13の供述

1 検察官の主張

検察官は、論告において、捜査段階におけるH13の現金三万円を封筒に入れる作業をした供述(<証拠>)は、とても取調官では思い付かないような生々しいものであり、信用性の高いことは明らかであるし、また、H1の右状況等に関する捜査段階における供述(<証拠>)も、極めて臨場感あふれるものであって、到底H1が公判廷で述べるような取調官の作文であると考えることはできない、と主張している。

2 捜査段階におけるH1の供述<省略>

3 捜査段階におけるH13の供述<省略>

4 公判廷におけるH1の供述<省略>

5 公判廷におけるH13の証言<省略>

6 検討

(一) 検察官が論告において主張するとおり、現金の準備状況に関するH1及びH13の捜査段階における前記各供述は、具体的で臨場感に富む内容となっているところ、通常、供述者が真実は供述していないのに、録取者において「作文」し得るような内容とは言いにくく、このような供述が存在すること自体は、検察官の主張に沿う両名の捜査段階における供述の信用性を肯定する方向に働く事情というべきである。

(二) しかし、H1及びH13の右各供述にも、以下のとおり、不審な点がある。

(1) 第一は、前記のとおり、H1は、七月二三日の矢田検事の取調べにおいては、大した動きをしそうにない人間には二万円渡すことにした、ほとんどが三万円であり、二万円入れたのは、O3の分とK2の分だけぐらいだったような記憶であると、例外的に二万円を供与した者を具体的にその氏名をあげて供述していたのに、八月九日の同検事の取調べにおいては、H13に対する気兼ねから、「こいつは二万円でええかなあ」と一人言のように言ったりもしたが、人によって差別すると後で分かった時に問題になると思い「やっぱり同じだけ入れなあかん」と言って全員三万円を入れたと供述を変遷させている点である。

ア O3及びK2は、捜査段階において、いずれも三月下旬会合の際供与を受けた現金は三万円であると供述している(<証拠>)ほか、検察官において、三月下旬会合当日、H1から現金の供与を受けたと主張している者は、捜査段階ですべてその金額を三万円と供述している。

また、H1も、前記のとおり、矢田検事に右のとおり供述した翌日の七月二四日以降は、二万円を供与した者がいるとは供述していないのである。

ところで、右のようなH1の供述経過に照らすと、例外的に二万円を供与した者があり、しかもその相手を具体的に特定した七月二三日段階の供述は、一部の者には二万円を供与することを考えたという八月九日段階の供述に変容したものと評価できようが、仮に供述が真実を述べたものであるとすれば、H1の内心の問題に止まらず、外形的な事実として現れるという点や、相手方が具体的に特定されているという点からみて、前者の供述の方が証拠価値が高いことは明らかであろう。したがって、捜査官としては、七月二三日段階の供述を変えたH1に対し、当然その理由を追及してよいはずであるのに、その後録取された供述調書をみても、右理由は全く録取されていないし、また、この点についてH1を追及した形跡もない。

もっとも、警察側は、あるいは7.23検面の内容を了知していなかった可能性もあろう。しかし、矢田検事については、自己に対してもっともらしい虚偽を述べたH1を追及しなかったのはいささか腑に落ちないといわざるを得ないのである。

イ また、前記のとおり、H18.9検面14項によると、同被告人は、H13からしきりに文句を言われ、「こいつは二万円でええかなあ」と言ったとされているところ、H1の発した右の言葉は、H13の供述とも一致している(<証拠>)。

ところで、H13、H1を含む現金供与事件の各被告人及び死亡被告人並びに確定者Y7の捜査段階における検察官に対する供述をみても、現金三万円の入った封筒に、受供与者の識別が可能となるような記載のなされた形跡はない。一方、H1及びH13の捜査段階における前記供述に照らすと、H1は、封筒に現金を入れる作業をする際、「こいつは二万円でええかなあ」と言ったことになると考えられるのであるが、右のとおり、封筒には、受供与者の識別が可能となるような記載のなされた形跡はないのであるから、H1が当該封筒に入った現金を供与されることになる者が特定できることを前提にしているものと思われる「こいつは二万円でええかなあ」という言葉を発したとされているのは、いささか釈然としないのである。

(2) 第二は、現金を封筒に詰める際、「こんなもん本当はいらんのに」とか「もっと少のうしてもええやないか」などと言ってぼやくH13に対し、H1において、捜査段階で供述するような、現金供与を行うについての資金の調達方についてのH1自身の思惑を、一言も述べていない点である。

もっとも、前記3―(二)で指摘した、H13が「またでっかいなあ」と言ったことについては、矢田検事は、「買収がまたでっかいなあというニュアンスではありませんから、いろんなめんどくさいこと、日常の何かめんどくさい、そういうことをわたしに頼むという趣旨ですから、買収、前にも同じような買収をしたという意味じゃありませんから」と証言している(<証拠>)。

しかしながら、H13が「またでっかいなあ」と述べた点については、H13自身公判廷において矢田検事に供述したことを肯定しているし(前記5―(二))、同検事の右のような説明ももっともであるが、その後、実際に両名で現金三万円を封筒に入れた際に、「なんで金までやらなあかんのや。もっと少のうてもええやないか。うちんとこ選挙でもこんなことをしやへんのに」などとぼやくH13に対するH1の対応は、「それで私は何となく妻に対して申し訳ないような気にもなり、余り積極的に動かないのではないかと思っていた二、三人の人間については、二万円入れようかという気にもなり『こいつは二万円でええかなあ』と一人言のように言ったりもした。しかし、人によって差別すると後で分かった時に問題になると思い『やっぱり同じだけ入れなあかん』と言って全員三万円を入れた」というものであり(前記2―(三)―(7))、H1において金銭的な問題としてH13が文句を言っていると理解していた、としか考えられない対応振りなのである。

H1は、現金三万円を封筒に入れた際、ぼやくH13に対するH1の対応についての供述を録取されたのと同一の検面(<証拠>)で、「ここで使う金については、ひとまずは自分で出しておき、選挙が終わってから甲からもらうつもりでいた。槻の郷荘の招待でも、それなりの金を使うので、甲からは、ある程度まとまった金がくると思っていたから、私自身自腹を切って損をすることはないと思っていた」(前記2―(三)―(1)、<証拠>)、「妻とは三五年間連れ添っており、その間私の選挙でいろいろ辛いことや法に触れることもしているので、妻にはすべて正直に相談をすることができた」(前記2―(三)―(2)、<証拠>)という供述を録取されているのであるから、H13に対して、供与資金の調達方についてのH1の思惑を説明して納得を得ようとしていないのは不自然であるというべきであろう(H1の捜査段階における供述によると、当時現実に供与資金が甲側からH1側に流れていたわけではなく、H1において、一方的に供与資金を立替え、選挙後甲側から金が流れて来るのを期待していたというのであるから、H1がH13の口を通じて将来甲に累の及ぶことを警戒し、H13にすら同被告人の思惑を述べることができなかったと解釈する余地はほとんどなかろう)。

(三) そうすると、結局、現金の準備状況に関するH1及びH13の供述についても、H1及びH13の、公判廷における前記弁解を直ちに排斥することはできないのではないかと考えられるのである。

七  被告人K1の樫田地区からの三月下旬会合出席者に関する供述

1 K1の供述を吟味することの一般的な重要性

現金供与事件の捜査の端緒に関するA3巡査部長の証言の大要は、既に第一―二で指摘したとおりである。被告人らの公判廷における供述や、被告人ら作成の供述書によると、捜査段階において自白をした理由につき、多くの者が、捜査官から、既に自供したものがあると言われて追及されたことをあげており、現金供与事件の捜査の端緒となったK1の捜査段階における供述の信用性の検討は、特に重要な意味を持つということができる。

2 七月一九日におけるK1のA3巡査部長に対する供述

K1は、七月一九日、A3によって、初めて員面を録取されているが、その内容は、現金供与事件及び四月一六日事件を自白するものであるところ、そのうち現金供与事件に関する供述記載の概要は、次のとおりである(<証拠>)。

(一) 三月下旬会合の二〜三日前ころ、H1から直接電話で、「○月○日○時より、後援会の総会を開くので、土地の地区の自治会長等にも連絡して来てくれ」と言ってきたので、K1は、快くこの要請に応じた(<証拠>)。

(二) 会合開催日の三月下旬ころには、樫田地区の五つの現自治会長である、

① 杉生自治会長 N6

② 出灰自治会長 K12

③ 中畑自治会長 H7

④ 二料自治会長 O6

⑤ 田能自治会長 K1

と、前自治会長の、

⑥ 杉生前自治会長 T10

⑦ 出灰前自治会長 H9

⑧ 中畑前自治会長 N8

⑨ 二料前自治会長 O7

の、合計九名でH1方に行った(同員面5項、ただし、①等の数字は当裁判所で付したものである)。

(三)〜(五)<省略>

(六) 午後四時過ぎころ、同じ樫田地区のN8と二人で帰ろうと、会場の方から出ると、出た付近の廊下に、H13とT22の二人がおり、H13から「御苦労さん、これ持って帰って」と言って、白色の手提付きの紙袋をもらった。受け取ったときの感触からすると、何かの書類ではなく、『お礼の意味で何か食べる物でも』と思ったが、中身を確認したのは、帰宅してからであり、この中には、現金三万円、一万円札三枚の入った白色封筒と、洋菓子(確かバームクーヘン)の入った紙箱が入っていた(同員面6項)。

(七) <省略>

3 その後のK1に対する供述録取状況

七月一九日の最初の自白以降、K1は、7.23員面(録取者A3)で三月下旬会合について、7.24員面(4丁のもの、録取者佐藤孝敬巡査)で身上、経歴について、同日付員面(14丁のもの、録取者佐藤)で四月一六日会合について、8.3員面(録取者A3)で三月下旬ころのK1の行動について、8.5検面(28丁のもの、録取者五木田検事)で三月下旬会合について、同日付検面(16丁のもの、録取者五木田)で四月一六日会合について、同日付検面(5丁のもの、録取者五木田)で三月下旬会合の出席者の訂正について、それぞれ供述を録取されている。

これらの各供述調書の記載をみると、大筋で七月一九日のA3に対する供述が維持されていることを認めることができるものの、K1の供述は、樫田地区からの三月下旬会合出席者に関し、大きく変遷している事実を認めることができる。

4 樫田地区からの三月下旬会合出席者に関するK1の供述の変遷及び捜査段階における同被告人の右供述の変遷に関する説明

(一) 樫田地区からの三月下旬会合の出席者について、七月一九日、K1が、樫田地区の五つの自治会の新旧会長の合計九名と供述していたことは、前記2―(二)において指摘したとおりである。

(二) 樫田地区からの三月下旬会合の出席者等について、七月二三日、A3の録取したK1の供述は、次のとおりである(<証拠>)。

(1) H1からの電話の後、当時の自治会長であったT10、H9、N8、O7の四名に対して、H1からの要請を伝えると、全員が出席する旨の回答であった。三月下旬会合当日、K1がH1方に到着すると、樫田地区から出席しているO7、N8等四名が座っていた(なお、K1は、A3から示されたH1方の見取図に、K1のほか、右T10、H9、N8、O7の着席位置を記入している)。(<証拠>及び添付図面)

(2) 宴会終了後N8とともに席を立ち、玄関に向かった。N8には、H13が渡したのか、T22が渡したのか、K1は見ていないが、玄関口でH13に挨拶して帰る際には、N8も確かにK1と同じ紙袋を所持していた。(<証拠>)

(3) 七月一九日には、現自治会長の、N6、K12、H7、O6も出席していたと供述したが、四月一六日会合の出席メンバーと混同して供述したものであり、この四名は三月下旬会合には出席していない。(<証拠>)

(三) ところが、8.5検面(28丁のもの)には、三月下旬会合への出席を求めるH1からの電話のあった事実は録取されているものの、樫田地区の自治会長に対する出席の依頼等の事実は何ら録取されていないばかりか、7.23員面でも維持されていたT10、H9、N8、O7の三月下旬会合への出席の事実も何ら録取されていないのである。

(四) そして、この間の事情について、K1は、8.5検面(5丁のもの)において、以前、道野副検事に三月下旬会合に関する調書を作成してもらったこと、同調書の中で、三月下旬ころの集まりの際に、H1の依頼を受けて、K1が、樫田地区の自治会長T10、H9、N8、O7に連絡をし、三月下旬会合当日も、これらの者がK1とともにH1方の集まりに出席したと録取してもらったのは、K1が、その前にH1方で開催された天神祭か何かの集まりの時のことと混同して述べたものであること、同調書録取の際、図面を書き調書に添付してもらったが、その記載も、K1の右勘違いがそのまま現れたものになってしまったこと、をそれぞれ録取されている。

(五) 樫田地区からの三月下旬会合の出席者に関するK1の供述の経過は以上のとおりであり、七月一九日に供述した、K1以外の出席者八名については、まず、七月二三日の段階で、四月一六日会合の出席者と混同していたという理由で、N6、K12、H7、O6の四名が出席しなかったとされ、次いで、八月五日の段階で、天神祭の会合か何かの会合の出席者と混同していたという理由で、T10、H9、N8、O7の四名も出席しなかったとされ、結局、樫田地区からの出席者はK1のみということになっているのである。

(六) ところで、七月二三日の段階で出席者から除かれたN6、K12、H7、O6の四名が四月一六日会合の出席者であることは、本件各証拠からも明らかである。また、T10、H9、N8、O7の四名については、「昭和五十二年後援会資料事務局」という表書のあるバインダー(符40)に綴り込まれた、二月二五日開催の天神祭の会合の出席予定者の名簿に記載されていることからすると、これらの者が同日開催の天神祭の会合に出席していた可能性は高いと考えられる(同名簿が、現実の出席者ではなく、出席予定者を記載したものであることにつき、六三回H1供述)。したがって、K1の三月下旬会合への出席者に関する訂正供述は、他の会合における八名の者の出席状況と矛盾するものではないといってよい。

5 樫田地区からの三月下旬会合出席者に関するK1の供述の変遷に関する検察官の主張及びこれを基礎付ける証拠

(一) 樫田地区からの三月下旬会合出席者に関するK1の供述の変遷に関し、検察官は、論告において、K1が当初供述した八名については、その後、七月二〇日にO6、七月二一日にN6、O7、七月二二日にH7、七月二三日にK12、H9、N8、七月二四日にT10と順次取調べ、三月下旬会合への出席の有無を確認していった結果、出席の事実のないことが判明した(その点については供述調書まで作成していない)が、その一方で、H1らの供述(H17.23検面、大阪府警察供述用二号用紙に記載されたメモ(符51))から、出席者の氏名が判明し、それらの者の自白も得られたことから、正確な出席者名や、当初のK1供述が虚偽であることが明らかになっていったものである、K1は、七月一九日のA3の取調べに際して、良心の呵責に耐えられず思わず現金三万円の受供与の事実の真相を自白したものの、出席者については、捜査のかく乱を狙ってことさら虚偽の供述をしたのではないかと思われ、この点はK1の元警察官の経歴等に照らしてみて推察し得るのである、と主張している。

(二) 検察官の右主張を基礎付ける証拠としては、E12作成の平成二年八月二一日付の報告書(以下、単にE12報告書という)や右大阪府警察供述用二号用紙に記載されたメモ(符51)がある。

(1) E12報告書は、同報告書の記載によると、当時の記憶及び捜査資料に基づいて作成されたものであるが、その内容は、大要、次のとおりである。

ア 七月一九日、K1が、三月下旬会合において、菓子袋に入った現金三万円入りの封筒をもらった旨供述したところ、その際、K1は、三月下旬会合には、O6、O7、N6、H7、N8、K12、H9、T10も出席していたと供述した。

イ そこで、警察において、これら八名の者を次のとおり取り調べたところ、八名は、いずれも三月下旬会合への出席の事実を否定した(ただし、次表のうち、「員面」の欄は、当裁判所において、取調べの行われたとされる日と同一の作成日付の員面の有無を、ある場合には○、ない場合には×の表示で示したものであり、E12報告書の記載に基づくものではない。なお、各被告人に対する員面はいずれも二通あるが、一通は身上及び経歴に関するもの、他の一通は四月一六日会合に関するものであり、三月下旬会合への出席事実に関する供述は、何ら録取されていない)。

氏名

取調べ日時

取調官

員面

O6

七月一九日

九時三〇分~一九時〇〇分

上杉一治

×

七月二〇日

一〇時三〇分~二〇時〇五分

上杉一治

O7

七月二一日

一一時〇五分~一七時三〇分

赤松昭雄

N6

七月二一日

九時一五分~一七時〇〇分

池内英夫

H7

七月二二日

一一時二五分~一八時〇〇分

中村昭一

N8

七月二三日

九時一五分~一九時三八分

岩田謙一

七月二四日

一〇時三〇分~一九時〇〇分

上杉一治

×

七月二六日

九時四五分~一七時〇〇分

池内英夫

×

七月二七日

九時一五分~一六時〇〇分

池内英夫

×

K12

七月二三日

一二時五〇分~

祁答院康規

H9

七月二三日

一二時五〇分~

美延尚徳

T10

七月二四日

九時一五分~一七時〇〇分

西田満宏

七月二五日

九時一五分~二〇時〇〇分

赤松昭雄

×

ウ K1の七月一九日における供述を受け、松園巡査部長に対し、H1の取調べを指示したところ、H1は、七月二〇日ころ、三月下旬会合の存在を認め始め、七月二三日の矢田検事の取調べにおいて、現金供与事件についてほぼ全面的に自供し、七月二四日には、三月下旬会合出席者の名簿(符51)を作成して松園に提出した。

エ その後、H1が現金三万円の受供与者として供述した関連被疑者を七月二〇日以降取り調べたところ、二六名の者が現金供与事件について自供した。

オ 以上の捜査により、現金供与事件に関し、K1が七月一九日において供述した八名については、三月下旬会合に出席していないことが判明し、H1及び現金三万円の受供与者の取調べ等からも、右八名は三月下旬会合に出席していないことが確認され、K1の七月一九日における右八名が三月下旬会合に出席したとの供述は、記憶違いによるものと考えられた。

カ そのため、K1の再度の取調べが必要であったが、主任検事(当裁判所注・矢田検事)から「その点についての取調べは検察庁で行うから警察では行わなくてよい」との指示があったので、取調べは実施しなかった。後に、主任検事からは、「K1の警察での供述は、四月一六日の槻の郷荘での宴会出席者と混同していたもので、検察庁ではH1供述と同一の出席者を供述している」との連絡を受けている。

(2) 次に、大阪府警察供述用二号用紙に記載されたメモ(符51)であるが、同メモには、黒色ボールペン様のものを用いたと思われる合計三四名の氏名の記載等があるところ、そのうちD1、D2、T2、K2、H2、T3、M1、T1、T20、O14、O16、N2、K1、H3、S2、O2、N1、Y1、O1、N3、S1、Y7、H4、O3、M2、E10、E3、の二七名については、氏名の上方に鉛筆様のものを用いて○印が付されている。また、S10、B1、E13、E14、E15、H12の七名については、右○印が付されておらず、E15、E3の二名については、氏名の上方にボールペン様のものを用いて小さな○印が付されている。また、Rについては、「R君は勤務時間の都合で会ギが約一時間オクレタノデ帰りました」との記載がある。

ところで、右メモに関しては、松園巡査部長が、平成二年八月六日付で「第一四回参議院議員通常選挙甲派選挙違反被告人H1が作成した現金三万円供与者名簿の作成経過報告書」を作成しているところ、同報告書には、次の趣旨の記載がある。

ア 同メモは、七月二四日、H1が黒色ボールペンを用いて作成したものであること

イ 氏名上方の○印については、松園がH1に対し三万円の受供与者として間違いがないかどうか再確認したところ、間違いないと供述したので、松園においてシャープペンシルで氏名の上方に○印を付したものであること

ウ 氏名上方の○印のないS10、B1、E13、E14、E15、H12、については、H1が、「現金を供与したかどうか自信がないので本人に聞いてほしい」と供述したこと

エ E3については、H1が、「現金三万円を供与したと思うが自信がない」と供述したこと

6 検討

(一) そこで、まず、検察官が、七月二〇日にO6、七月二一日にN6、O7、七月二二日にH7、七月二三日にK12、H9、N8、七月二四日にT10と順次取調べ、三月下旬会合への出席を確認していった結果、出席事実のないことが判明したと主張する部分について検討することとする。

(1) 前記E12報告書について

ア まず、E12報告書は、記載内容の根拠として「記憶と捜査資料」をあげているところ、同報告書の記載のうち、八名の被告人に対し前記5―(二)―(1)―イのとおりの日時に、前記5―(二)―(1)―イのとおりの取調官が取調べを行ったことについては、証人中西康之が、公判廷において、高槻署に、各被疑者について取調べをした捜査官とその日時を記載した日誌があることを証言し(<証拠>)、証人池内英夫において、公判廷で、当時取調べ開始時刻と終了時刻を捜査本部に報告していたこと、被疑者の取調べ開始時刻と終了時刻を公判廷で証言できたのは、同証人において右報告の写しを閲覧してきたからであることを証言しているところ(<証拠>)、右各証言によると、取調官及び取調べ日時の記載については、「捜査資料」の存在することを推認することができ、また、これらの点に関してはその他関係各証拠に照らし不審な点はなく、十分信用できるものと考えられる。

イ しかしながら、E12報告書の記載のうち、各取調官が各被告人に対し、三月下旬会合への出席事実を確認したとする部分については、本件各証拠をみても、「捜査資料」があるのか否か、どのような内容の「捜査資料」なのかは全く明らかでない。

ウ 一方、七月二一日、N6を取り調べた池内巡査部長は、公判廷において、七月二一日朝、藤川警部補から四月一六日事件について同被告人を取り調べるよう指示を受け、午前九時一五分から午後五時まで取り調べたが、同日、藤川から、現金供与事件について事情を聴取してくれという指示を受けたことはない旨証言している(<証拠>)。してみると、右池内証言に照らし、E12報告書中、七月二一日の取調べにおいて、池内がN6に対し、三月下旬会合への出席事実の有無を確認したとする部分は首肯し得ないのである(なお、E12報告書によると、N6の取調べは七月二一日の一日だけであるから、池内以外の捜査官が三月下旬会合への出席事実の有無について確認した可能性はないと考えられる)。

エ このように、E12報告書中、各取調官において、各被告人に対し三月下旬会合への出席事実を確認していったとする部分については、本件証拠上、その旨の記載のある各取調官作成に係る取調べ状況報告書等の捜査資料が存在するか否か明らかでない上、七月二一日の池内によるN6の取調べについては右のような事情が認められるのであるから、結局、N6以外の七名の被告人についても、E12報告書に基づいて、取調官において三月下旬会合への出席事実を確認したと認定することは困難であるというほかない。

(2) 前記八名の被告人が作成した供述書

一方、前記八名の者が作成した供述書によると、O6及びT10を除く六名は、三月下旬会合への出席事実について取調べを受けたか否かについて何ら述べていないが、O6及びT10の両名は、次のとおり、三月下旬会合への出席事実について捜査官から追及を受けた旨述べているところ、両名において、現金供与事件に関する取調べを受けたか否かに関し、取調べを受けていないのにもかかわらず、受けたかのように供述するとは考え難く、右両名が現金供与事件についての取調べを受けたことは十分認定し得るところである。

ア O6は、七月一九日、四月一六日事件について上杉巡査部長の取調べを受けていた際、「係長」とA4刑事(当裁判所注・A3の誤記と思われる)が取調べ室に入り、現金供与事件の追及を受けたこと、翌七月二〇日、再び「係長」から現金供与事件の追及を受けたが否認を通したこと、その後上杉が取調べ室に入り、現金供与事件には触れず、四月一六日事件についての追及を受け、自白調書に署名したことを述べている(O6作成の昭和六三年九月六日付供述書)。

イ T10は、七月二四日、四月一六日事件についての取調べを受けて自白調書に署名し、翌七月二五日、茨木署において、刑事から現金供与事件についての取調べを受けたことを述べている(T10作成の昭和六三年九月六日付供述書(E12報告書によると、T10が供述書において述べる、七月二五日、現金供与事件について同被告人を取り調べた刑事は、赤松巡査部長であると考えられる))。

(3) 池内及び上杉の証言

ところで、当裁判所は、前記八名の者の員面録取者のうち、既に指摘した七月二一日にN6を取り調べた池内巡査部長のほか、七月一九日及び七月二〇日にO6を取り調べた上杉巡査部長を証人として取り調べた。その際の、現金供与事件に関する取調べについての池内の証言は、既に指摘したとおりであるが(前記(1)―ウ)、上杉の証言の概要は、次のとおりである(三八回上杉証言。なお、上杉に対する証人尋問の行われた三八回、三九回公判を通じ、上杉は、同証人自身がO6に対し現金供与事件に関する取調べを行ったか否かについては何ら証言していない)。

ア 七月一九日、上杉は、O6を取り調べた。取調べの途中、上杉が席をはずしたことはあり得るが、通常、一人の捜査官が取り調べている最中、他の捜査官が取調べ室に入って横から取り調べるということはない。証言前、(O6が供述書中で「係長」といっているのは、藤川警部補ではないか、藤川、A3の両名に取調べ室への入室等について尋ねてほしい旨)検察官に言われ、藤川警部補に入室の有無を尋ねてみたが、記憶にない様子だった。A3には連絡が取れていない。

イ 七月二〇日、上杉は、午前一〇時半ころからO6を取り調べた。上杉が取調べを開始する以前のことは分からないが、上杉が取調べを開始した以降、他の刑事がO6を取り調べたということはない。

(4) 検討

ア 以上の諸点に照らすと、O6が七月一九日及び七月二〇日、T10が七月二五日、それぞれ三月下旬会合への出席事実に関する取調べを受けたこと、及び、N6が三月下旬会合への出席事実に関する取調べを受けていないことは、証拠上十分認定し得るところである。

イ 残りの五名については、それぞれ供述書中では、現金供与事件(三月下旬会合への出席事実)についての取調べを受けた事実を供述していない。しかし、当裁判所は、七月二一日にO7を取り調べた赤松昭雄巡査部長、七月二二日にH7を取り調べた中村昭一巡査、七月二三日にK12を取り調べた祁答院康規巡査部長、H9を取り調べた美延尚徳巡査部長、N8を取り調べた岩田謙一巡査、さらに、藤川警部補の取り調べをしておらず、供述書中で現金供与事件(三月下旬会合への出席事実)について取調べを受けた事実を述べていないからといって、直ちに、当時、これら五名が現金供与事件に関する取調べを受けなかったとは断定できないというべきであろう。特に、N8に関しては、前記のとおり、四月一六日事件についての自白調書は、七月二三日に岩田が録取済みであるところ、E12報告書によると、同被告人に対しては、その後七月二四日、七月二六日、七月二七日と取調べが続けられているのであるから、その際には、現金供与事件についての取調べが行われ、同被告人において三月下旬会合への出席事実を否定した可能性が高いと思われる。

ウ そうすると、検察官の前記5―(一)の主張のうち、本件証拠上、N6に対し、七月二一日に三月下旬会合への出席事実を確認したとする部分は採用できないが、O6及びT10に対し、三月下旬会合への出席事実を確認したとする部分は証拠上これを認めることができ、また、仮に、N8に対し三月下旬会合への出席事実を確認した日付はともかく、N6、O6及びT10を除く五名の被告人につき、順次三月下旬会合への出席事実を確認していったという検察官の主張が真実に合致したものであるとすると、七月二三日までに取調べの終わったO6、O7、H7、K12、H9の取調べ状況(三月下旬会合への出席を否定した事実)を了知したA3において、七月二三日中に、K1に対し、このうちO6、H7、K12の三名の出席事実を再確認し、K1がこれらの被告人に加えN6についても三月下旬会合への出席事実を訂正する供述をし、これをA3が録取したという捜査経過が考えられないではない。

エ しかし、検察官主張のとおり、仮に、O7が七月二一日の、H9が七月二三日の、それぞれ取調べにおいて、三月下旬会合への出席を否定する供述をしていたとすれば、この両名についても、同日、A3において、K1に三月下旬会合への出席事実を再確認するのが自然であり、かつ、その後のK1の供述の変遷に照らすと、仮に右両名自身の供述結果を踏まえ、両名の三月下旬会合への出席事実について再確認されていれば、K1としても同日供述を訂正したはずであると思われるのに、既に指摘したK17.23員面の記載から明らかなとおり、そのような事実はなく、かえってK1は、両名も三月下旬会合に出席した旨供述し、A3から示された見取図に両名の着席位置を記入しているのである(前記4―(二)―(1)。七月二三日に取調べの行われたH9については、A3において、同日のK1の取調べ前に、三月下旬会合への出席の有無に関する供述状況を了知できなかったものとも考えられるが、同じく七月二三日に取り調べられているK12は、同日のK1供述において訂正の対象になっている。また、七月二一日に取調べの行われたO7については、このような時間的な問題も存しないのである)。

オ また、七月二三日の段階では、何らかの合理的な理由に基づき、K1の訂正供述の録取は、O6、H7、K12、N6の四名の三月下旬会合への出席事実に限定されたとしても、その後、T10は、七月二五日、警察官によって現金供与事件(三月下旬会合への出席事実)に関する取調べを受けており、仮に、検察官主張のとおり、O7、N8、H9の三名についても、当時、真実三月下旬会合への出席事実の確認が行われたとすれば、確認したのは警察官なのであるから、右四名が出席していたと供述したのは二月二五日の天神祭の会合か何かの会合の出席者と混同し勘違いしたものであるとのK1の訂正供述は、検察官ではなく、まず、A3又はその他の警察官によって録取されてしかるべきであると考えられるのである。

カ しかるに、現実には、K1は、その後の道野副検事の取調べに対しても、O7、N8、H9、T10の三月下旬会合への出席事実を供述していたところ(<証拠>)。なお、ダイアリー(符43)には、七月二七日欄に、K1が大阪地方検察庁で取調べを受けた旨の記載があり、また、K1は、公判廷において、道野副検事に対し「日誌を見てくれ」と述べたところ、同副検事から「明日日誌を持ってこい」と言われた旨供述し(<証拠>)、かつ、七月二九日、K1が右ダイアリー及び日記帳(符44)を大阪地方検察庁宛て任意提出している(K1作成の同日付任意提出書)ことからすると、道野副検事の取調べは、少なくとも七月二八日及び七月二九日には行われたものと認めることができる)、結局、K1において、右四名の出席につき訂正供述をしたのは八月五日の五木田検事の取調べの際のことなのであって、仮に、検察官主張のとおりの捜査経緯をたどったものとすれば、警察官による訂正供述の録取を経なかったのは、不可解であるといわざるを得ないのである。

キ もっとも、E12報告書によると、警察において、K1の再度の取調べが必要であると判断したが、主任検事(当裁判所注・矢田検事)から、「その点についての取調べは検察庁で行うから警察では行わなくてよい」との指示があり、後に主任検事から「K1の警察での供述は、四月一六日の槻の郷荘での宴会出席者と混同していたもので、検察庁ではH1供述と同一の出席者を供述している」との連絡を受けたとされている。

ところで、E12報告書のとおり、警察において、K1の再度の取調べの必要性を認め、矢田検事の指示を仰いだとすれば、その際、被告人らが、警察官の取調べに対し、三月下旬会合への出席事実を否定する供述をしたことを伝えているはずである。また、一方、既に指摘したとおり、道野副検事のK1に対する取調べは、少なくとも七月二八日及び二九日には行われたものと推認することができ、しかも、その際道野副検事の録取したとされている検面においては、八月五日の段階では訂正されることとなるO7、N8、H9、T10の三月下旬会合への出席事実を認めるK1の供述が録取されているのである(<証拠>)。これらの事実を併せ考えると、結局、警察からの矢田検事への連絡及び矢田検事から警察に対する前記指示があったとしても、七月二八日及び七月二九日の道野副検事によるK1の取調べ以降になされたと考えるのが自然である。

そうすると、七月二三日には、O6、N6、H7、K12の三月下旬会合への出席事実についてK1から訂正供述を録取したにもかかわらず、T10において三月下旬会合の出席事実を否定した七月二五日ころまでに、何故警察において、独自の判断に基づいて、K1の再取調べをせず(既に指摘したとおり、N8に対しては、七月二三日、岩田巡査部長によって四月一六日事件の自白調書が録取されており、同被告人の取調べは、七月二四日、七月二六日、七月二七日と続けられてはいるが、七月二四日以降は現金供与事件に関する取調べが行われたと推認されるところ、同被告人は七月二四日の時点で三月下旬会合への出席事実を否定したものと思われ、K1に同被告人の出席事実を再度尋ねる必要性は、七月二四日の段階で生じていたものと思われる)、その後七月二九日以降になって、何故矢田検事に対してK1の再取調べに関する指示を仰いだのか、甚だ釈然としないといわざるを得ないのである。

また、E12報告書によると、その後矢田検事から、K1の警察段階における供述は、四月一六日会合の出席者と混同していた旨の連絡があったとされているが、既に指摘したとおり、八月五日、K1は、五木田検事に対し、「その前にH1方で開催された天神祭か何かの集まりの時のことと混同して述べた」として、O7、N8、H9、T10の三月下旬会合への出席事実を訂正したのであり、右連絡内容は、事実に反することが明らかであり、この点においても、E12報告書の内容は疑わしいのである。

なお、真実右四名の者が、警察段階で三月下旬会合への出席事実を否定していたとすれば、矢田検事から、五木田検事に対し、その旨の情報提供があったのではないかと考えられるが、五木田検事は、八月五日のK1の取調べに関し、「警察の調書に書かれている出席者は調べる前の段階で見ていたと思いますが、変動があったということは、その出席メンバーですね、の記憶自体が余りはっきりしてないんだろうなという印象は持ったと思いますが、ですから、間違いのないと言うか、本人の記憶として自信のあると言いますか、そういうところを聞こうという、そういう意識で聞いていったと思います」、「(右四名本人の三月下旬会合への出席に関する供述については)具体的な記憶としてはないのですが、そういう材料もあったと思います、確か」と証言するに止まっている(<証拠>)。

ク したがって、結局、検察官において、七月二〇日にO6、七月二一日にN6、O7、七月二二日にH7、七月二三日にK12、H9、N8、七月二四日にT10と順次取調べ、三月下旬会合への出席を確認していった、と主張する部分については、O6、T10及びN8を除く五名については、にわかに首肯できず(ただし、N8については七月二四日以降、T10については七月二五日、三月下旬会合への出席事実の確認が行われたと思われる)、八月五日に至り五木田検事がK1を取り調べ、O7、N8、H9、T10の三月下旬会合への出席事実を訂正する供述(七月二八日ないし七月二九日ころのK1の道野副検事に対する供述を訂正する供述)を録取したのは、捜査官において、前記5―(二)―(2)で指摘したH1作成のメモ(符51)等、当時のその他の証拠関係からみて、右四名も三月下旬会合に出席したとするK1の供述に疑問を持ったからではないかと推察されるのである。

(二) 次に、検察官が、K1において、捜査のかく乱を狙ってことさら虚偽の供述をしたのではないかと主張する点については、K1が三月下旬会合の出席者として供述すれば、出席者として名指しされた樫田地区の者は、捜査官から現金受供与の嫌疑をかけられることは明らかであり、当時、樫田地区の連合自治会長を務めるなど、地域の有力者であるK1が、ことさら同地区の者の名前をあげて捜査のかく乱を図ったとはにわかに考え難い。

さらに、仮に、検察官の右主張が真実に合致したものであるとすると、当時、捜査官としても、K1の供述の変遷の理由について、作為的なものではないかとの疑いを持ち、同被告人を厳しく追及してもよさそうなものであるが、前記のとおり、八月五日の取調官である五木田検事がそのような取調べ態度で同日K1を取り調べたものでないことは、五木田検事自身が証言するとおりであり(前記五五回五木田証言)、かつ、E12報告書によると、捜査当時、E12警部は、K1の供述の変遷を記憶違いによるものと評価していたというのであり(前記5―(二)―(1)―オ)、また、供述調書の記載を見ても、二度にわたるK1の供述の訂正がいずれも単なる記憶違いとして処理されている点は、いささか釈然としないのである。

(三) 一方、K1は、樫田地区からの出席者について、公判廷において、A3に対しては二月二五日の天神祭の会合における出席者を述べた旨供述している(<証拠>)。

しかし、K1が七月一九日A3に供述した八名のうち、既に指摘したとおり(前記4―(六)参照)、O7、N8、H9、T10の四名については、「昭和五十二年後援会資料事務局」という表書のあるバインダー(符40)に綴り込まれた、二月二五日開催の天神祭の会合の出席予定者の名簿に氏名の記載があり、同日開催の天神祭の会合に出席した可能性が高いと認められるが、残るO6、N6、H7、K12の四名については、右名簿には記載されておらず、その他、本件各証拠をみても、右四名の同会合への出席事実を裏付ける証拠は存しないのである。

また、K1の公判廷における供述については、その他、検察官も論告で指摘するとおり、現実に存在する員面の作成日付(七月一九日、七月二三日、七月二四日)と前記ダイアリー(符43)における警察の取調べを受けた旨の記載のある日(七月一九日、七月二三日、七月二四日)とが一致しているにもかかわらず、公判廷においては、取調べ日時や供述調書の作成の有無についてこれと異なる供述をしている上、その供述に変遷が見られること(しかも、第二六回公判における供述が、第二七回公判において変遷しているのである。二六回、二七回K1供述)等、不審な点もある。

したがって、同被告人の公判廷における供述については、全面的にこれを信用するわけにはいかないのであって、七月一九日、A3に対し、二月二五日の天神祭の会合の出席者を述べたとする点も、直ちに信用することはできないというべきである。

(四) しかしながら、このようにK17.19員面に前記八名の者が録取された経緯に関するK1の公判廷における供述が、直ちに信用することができないものであるとはいっても、樫田地区からの三月下旬会合の出席者に関するK1の供述の変遷は、変遷事項やその程度からみて、いかにも不自然なものであることは否定できず、また、この点に関する検察官の論告における主張も首肯するに足るものとはいえないことは既に述べたとおりであり、結局、右のような変遷が認められることは、検察官の主張に沿う捜査段階のK1の検面調書の信用性を強く疑わせる事情であると評価すべきであると考えられるのである。

八  被告人Rの供述及びH1方到着ころの状況に関する被告人らの供述

1 検察官は、論告において、四月二六日事件の被告人Rは、捜査段階において、三月下旬会合につき、任意の供述であることを強く推定させるような供述をしているところ、右供述の信用性は、H13の捜査段階における供述によっても裏付けられている、と主張している。

2 捜査段階における、三月下旬会合に関するRの供述の概要は、次のとおりである(<証拠>)。

(一) 三月下旬会合当日の少し前、H1から、役員会をやるので出席してくれ、という連絡を受けた。時間は午後一時ころということだった(<証拠>)。

(二) Rは、高槻市交通部に勤務しているが、勤務中にちょっと顔を出すか、あるいは、勤務のスケジュールからみて、短時間ならば顔を出せる状況だったと思う。当日、勤務の合間をみて顔を出すか、勤務時間が始まる前の時間をみるかして、H1方へ行った。Rの勤務は交通部なので、毎日決まった時間というわけではなく、ごく簡単にいえば、早い勤務時間と遅い勤務時間がローテーションになっている。(<証拠>)

(三) 三月下旬会合当日は、時間を作ってH1方に顔を出した。H1方の仏壇のある部屋とその隣の部屋が二間続きで会場となっており、H1後援会の役員などが顔を出していた。覚えている人は、D1、T20、T2、O14などで、そのほかにもいた。もちろん、H1、H13もいた。台所には、H1の家の手伝いのおばあちゃんもいた。(<証拠>)

(四) 三月下旬会合に顔を出したが、勤務中であったか、勤務時間が迫っていたために、この日のメンバーがみんなそろって会合が始まるまで待つことができず、先に帰った。顔は出したが、話し合いには出席せず、したがってどんな話し合いが行われたかも知らない。帰り際に土産のようなものをもらった覚えはない。(<証拠>)

(五) このようなことは、その後の六月一五日にもあった。六月のことは、三月よりも新しいので、日にちも覚えているが、この日も午後一時ころからH1方で後援会の役員会が開かれた。ちょうどこの日は、勤務が午後三時半から一一時半までの夜勤なので、午後一時からの集まりならば、夜勤に出る前に出席できるだろうと思った。当日、午後一時ころ、H1方へ行ったが、D1(当裁判所注・D1)会長か誰かが遅れたため、午後二時近くになっても会合が始まらなかった。勤務に遅れてしまうので、三月下旬会合同様、話し合いが始まる前に帰った。(<証拠>)

(六) 同じようなことが二回あった。六月一五日のときも、土産をもらった覚えはない。(<証拠>)

3 H1及びH13は、捜査段階において、次のとおり、Rの右供述に沿う供述をしている。

(一)(二)<省略>

4 一方、H1及びH13は、捜査段階において、三月下旬会合当日、RがH1方を早く辞去した旨供述したことに関し、公判廷において、次のとおり供述又は証言している。

(一)(二)<省略>

5 H1方到着後の状況に関する被告人らの供述

ところで、捜査段階における被告人Rの前記供述は、三月下旬会合当日、H1方に到着して以降話し合いの始まるまでの状況に関する供述であるところ、検察官が三月下旬会合に出席したと主張する者のうち、一部の被告人及び確定者Y7においても、三月下旬会合当日、H1方に到着して以降話し合いの始まるまでの状況に関して供述しているので、まず、その大要を示すこととする。

(一) 被告人T1(7.29検面(12ないし14項))<省略>

6 検討

(一) 検察官が論告において主張するとおり、前記2で指摘した被告人Rの捜査段階における供述は、当日の具体的な出来事を述べるものである上、H1及びH13の捜査段階における供述とも符号しており、通常、高い証拠価値を認める余地のある供述というべきである。

(二) しかしながら、前記4―(一)で指摘したとおり、H1は、公判廷において、六月一五日開催の役員会の際の出来事が、三月下旬会合の際にもあったように供述が録取されたものである、すなわち、六月一五日の役員会は午前一〇時開催予定であり、Rは、午前中一一時ころまで上司に暇をもらい出席したが、D1が会議に一時間ほど遅れるということだったので、会議の始まる前に帰ったが、同様の出来事が、三月下旬会合の際にもあったように供述が録取された旨供述している。

(三) 一方、検察官がその主張の根拠とする、R8.7検面にも、六月一五日開催の役員会は、午後一時開催予定であったが、D1会長か誰かが遅れたため、午後二時近くになっても会議が始まらず、勤務に遅れてしまうため、Rは会議が始まる前にH1方を辞去した旨の供述が録取されている(<証拠>)。

(四) そうすると、六月一五日開催の役員会が、D1が遅刻したため、開催予定時刻を一時間ほど経過しても開催されず、勤務時間の都合でRが会議の始まる前にH1方を辞去した事実は、R8.7検面やH1の右公判供述により、十分これを認定することができるというべきである。右両名の供述は、六月一五日の役員会の開催予定時刻において、相違しているが、府政ノート(符3)七〇頁の記載によると、午後一時とするRの供述が正しく、H1の公判廷における供述は記憶違いによるものであろう。

(五) ところで、本件各証拠上、Rが、三月下旬会合当日、会議が始まる前にH1方を辞去した旨の最初の供述は、前記3―(一)で指摘した七月二四日のH1による自筆のメモ(符51)の作成を通じての供述であるところ、同メモ上には「R君は勤務時間の都合で会ギが約一時間オクレタノデ帰りました」との記載がある。すなわち、H1は、関係者の中で初めて、Rが三月下旬会合当日会議開始前にH1方を辞去したという事実を供述した際には、「会議が約一時間遅れた」ことが、Rが会議開始前にH1方を辞去した理由であると述べていたのである。

H1の右供述内容が、右(四)で指摘した六月一五日開催の役員会当日の出来事と符号することは明らかである。一方、三月下旬会合については、関係者の捜査段階における供述を検討しても、会合の開催予定時刻そのものがあいまいであり、実際に会議の始まった時刻については、前記5で指摘した関係者の供述等をみれば明らかなとおり、これもまたあいまいである。しかし、少なくとも、関係者の捜査段階における供述をみる限り、三月下旬会合の開始時刻が予定時刻を大幅に遅延したという趣旨の供述は録取されておらず、右メモの記載に沿う三月下旬会合出席者の供述は存在しないのである。

してみると、三月下旬会合当日、Rが会議の開始前H1方を辞去したという供述を録取された経緯に関する前記H1の公判廷における供述にも、相当の合理性があるというべきである。

(六) 被告人Rの供述と被告人H4の供述

Rの前記供述によると、同被告人は、H1方の会場にD1、T20、T2、O14などの後援会の役員が集まったころまでは、H1方にいたことになるが、会合が始まる前に帰りH13から土産はもらっていないという。一方、前記5―(一〇)で指摘したH4の供述は、内容の具体性、詳細さからみると、通常高い信用性を認める余地のある供述であるが、右供述によると、同被告人は、H1方の会場にH1及び一、二人の役員がいたにすぎない段階でH1と会話を交わし、その後すぐにH1方を辞去しているのに、H13から土産として手提げの紙袋をもらっているのである。

H4に対しては土産を渡していることからすると、実際に話し合いに参加したかどうかは、土産を渡すか否かの基準にはなっていなかったものと考えられる上、R及びH4の供述するH1方に既に集まっていた役員の数からみると、H4は、Rよりも更に早くH1方を後にしているのではないかと思われる。一方、H13の前記供述をみると、H13は、Rが帰ったことを知らなかったとは供述しておらず、むしろ、その供述振りからすると、Rが帰ったこと自体は、その当時から認識していたものと考えるのが自然であり、してみると、H13としては、Rに対しても土産を渡してもよさそうであり、「すぐに帰ったから土産を渡していない」というH13の前記供述は釈然としないといわざるを得ないのである。

このように、R及びH13の捜査段階における供述と、H4の捜査段階の供述は、相互に矛盾する疑いがあるといわざるを得ない。

(七) なお、当裁判所としては、以上のとおり述べたからといって、H4の供述に信用性があると判断しているわけではない。検察官が捜査段階において録取した検面相互間の問題点を指摘したにすぎない。

例えば、H4の前記供述にしても、同被告人が三月下旬会合の会場に入った段階でH1及び一、二人の役員が既に着席していたとされているが、これは、午後一時二〇分ころ、二〇名から二五名の出席者が集まった段階で、H1、D1、T2、T3らが会場に入ったとするT3の前記供述(前記5―(五))とは一見矛盾する。また、そもそも会議が始まる前にH1方を辞去した旨の供述は、三月下旬会合当日の出席としてH4の名前を上げ、座席まではっきり記憶しているとするO3の前記供述(前記5―(二))と矛盾するのである。

しかし、一方、T3の供述についても、H1方居間でT3とともに役員の参集を待っていたとされているH1、D1、T2は、三月下旬会合当日、H1方居間でT3とともに役員の参集するのを待っていたという趣旨の供述は録取されていないという問題点がある。

当裁判所としても、真実同一の体験をした者であっても、時間の経過とともに正確な記憶が失われ、相互に矛盾する記憶が残存し、これが供述調書に録取される可能性を否定するものではないが、右にみたとおり、Rの供述を巡る関係者の供述状況をみると、相互に看過し得ない矛盾点があるといわざるを得ないのである。

九  被告人N1の三月下旬会合に遅参した状況や宴席における会話の状況に関する供述<省略>

一〇  三月下旬会合におけるH14及びH15の出席の有無

1 被告人T2の供述に関する検察官の主張

検察官は、論告において、捜査段階における被告人T2の、検察官に対する、「このようなことで、この会議は終わり、午後二時半ころに閉会して後は酒や刺身等の料理が出され、みんなで酒宴になりました。この席にはH1先生の息子夫婦も出て、みんなに酒を勧めたりしておりました。そしてその間、息子夫婦のどっちかがビールの栓をどんどん抜いたためか、H1先生が『そんなにビールを余計抜くな。いるだけずつ抜け』と怒っており、何というケチくさいことを言うのかと思いました。私もビールといろいろなつまみを御馳走になりました。この宴席は午後四時半ころに終わった記憶です。」という供述(T27.18検面(録取者矢田検事)27項)のうち、「息子夫婦のどっちかがビールの栓をどんどん抜いたためか、H1先生が『そんなにビールを余計抜くな。いるだけずつ抜け』と怒っており、何というケチくさいことを言うのかと思いました」という部分を引用し、取調官では容易に思い付かないような生々しい供述をしており、その供述内容の信憑性は高いと言わなければならない、と主張している。

2 一方、T2は、公判廷においては、検察官から、捜査段階における右供述について問われ、そのような出来事があったのは、六月一五日の役員会のことであること、H1は、怒ったというよりも、無駄にしないようにと言ったものであること、を供述している(<証拠>)。

3 ところで、検察官は、T2の供述を引用する右1の主張を除き、冒頭陳述においても、論告においても、H14やH15が、三月下旬会合に出席した、あるいは、三月下旬会合当日H1方にいたとは主張していない。

T2を除く関係者の捜査段階における検察官に対する供述をみると、後に述べるとおり、被告人T3において宴席になってH14も顔を見せていた旨、M10及びT22においてH15が料理の手伝いをした旨、それぞれ供述している以外、H14及びH15本人を含め、検察官に対し、H14やH15が三月下旬会合に出席した、あるいは、三月下旬会合当日H1方にいたという供述をしている者はいない。検察官が、T2の供述を引用する右1の主張を除き、冒頭陳述においても、論告においても、H14やH15が、三月下旬会合に出席した、あるいは、三月下旬会合当日H1方にいたとは主張していないのは、関係者の右のような供述状況に基づくものかとも考えられる。

しかしながら、関係者の員面には、H14やH15が三月下旬会合に出席した、あるいは、三月下旬会合当日H1方にいたという供述記載が多くみられる。また、H15については、関係証拠の中には、仮に三月下旬会合が存在したとすれば、宴会の準備等の手伝いをするためH1方に来ていた可能性が高いのではないかと推認させるものもある。

そこで、以下、三月下旬会合におけるH14及びH15の出席の有無を巡る証拠関係や、検察官が前記1で主張するT2の捜査段階における供述をどう評価すべきかについて検討することとする。

4 関係者の捜査段階における供述<省略>

5 現金供与事件に関するH14及びH15の取調べ状況についての両名及びその取調官の公判廷における証言<省略>

6 検討

(一) まず、三月下旬会合当日、H14やH15がH1方にいたかどうかに関連する捜査段階における関係者の供述録取状況を整理しておくと、前記4―(二)で指摘したとおり、員面において、三月下旬会合当日、H14やH15がH1方にいたとの供述を録取された者は、両名がいたとするH1、T2、D2、H2、O1、O16、O2、O3の八名、H14がいたとするD1、O14、T3の三名、H15がいたとするT11、M10の二名である。しかし、このうち、検面においても、右供述が維持されているのは、T2、T3、M10、T11の四名のみであることは、前記1―及び4―(一)で指摘したとおりである。

右四名以外の九名については、検面をみても、H14らがH1方にいたとの供述が録取されずに終わった理由に関する供述は録取されていない。

(二) H14については、関係者の員面のみならず、検面においても、五木田検事のH14に対する取調べ以前、三月下旬会合当日H1方にいたという供述が録取されていることや、H14はH1の長男であるという身分関係及びH14が自民党員であったことに照らしても、三月下旬会合への出席事実に関して、十分な取調べが行われてしかるべきであったと考えられる。にもかかわらず、取調官の五木田検事の記憶が、前記5―(一)―(2)で指摘した程度のものに止まっているのは、いささか不可解であり、むしろ、三月下旬会合への出席に関するH14の取調べはほとんど行われなかったのではないかと推察されるのである。そして、仮にこれが真相であったとすると、捜査経緯としては、不自然さを否定できないというべきであろう(もっとも、五木田検事において、前記T3らの供述内容を了知していなかった可能性はあろう)。

(三) H15についても、関係者の員面のみならず、検面においても、三月下旬会合当日H1方にいたという供述が録取されており(ただし、M10及びT22のうち、T22については、右趣旨の供述を含む検面の録取は、城検事によるH15の取調べ後である)、三月下旬会合への出席事実に関して、十分な取調べが行われてしかるべきであったと考えられるところ、前記5―(二)―(1)で指摘したH15の公判廷における証言のうち、具体的な、取調べ態様やH15の応答振りに関する証言の真実性はひとまず措き、城検事から三月下旬会合当日H1方にいたのではないかとの取調べを受けたと証言する部分は、自然である(同検事から、H15が土産を配るとき手伝っていたと事務員の女の人が供述していると言われた旨のH15の証言は、前記4―(二)―(12)で指摘したT22の7.27員面の4項供述内容に沿うものである)。また、前記5―(二)―(2)で指摘したとおり、城検事も、この点に関する取調べ事実を否定はしていないのであって、H15に対しては、三月下旬会合への出席事実に関する取調べが行われたことは十分認定し得るところである。

そうすると、H158.7検面に録取された供述内容を併せ考えると、城検事による三月下旬会合への出席事実に関する取調べに対しては、H15が最後までこれを認めなかったものの、この点に関する供述の録取は行われなかったものと認めることができる。

(四) ところで、府政ノート(符3)七一頁には、当初七月二〇日に予定され、実際には六月一五日に開催されたH1後援会の役員会の出席予定者名が記載され、その中には、「事務局」の記載の下に、「H14」、「H15」の記載もあるところ、H15は、前記のとおり、公判廷において、六月一五日開催の役員会当日、H1方にいた旨証言している。

さらに、H15は、前記のとおり、公判廷において、H1方で後援会の会合が開催される場合には、H13の求めに応じH1方で手伝いをしていた旨証言しているが、H13も、二月二五日、二六日の天神祭の会合及び六月一五日の役員会については、H15に手伝いをしてもらった旨証言しているのである(<証拠>)。

そうすると、仮に三月下旬会合が開催されたとすると、H13からH1方に手伝いに来るよう依頼があったはずであるとする、H15の公判廷における前記証言が説得力を持つことは否定できないところである。

(五) 以上の検討を総合すると、まず、H14及びH15が三月下旬会合当日、H1方にいたか否かに関しては、警察官の取調べにおいては、H1を含む相当数の者がこれを肯定する員面を録取されたが、検察官の取調べにおいては、これを肯定する検面を録取されたものは、その理由は詳らかでないが、四名に止まっていること、一方、H14自身に対しては、この点について取調べ検事が、当裁判所における証言当時まで同検事の記憶に残るほどの追及をした事実はないこと、H15に対しては、この点に関する取調べが行われたが、H15は否認を通したこと、三月下旬会合が開催されたとすれば、H15はH13から手伝いに来るよう依頼されるのが自然であること、を認めることができる。

ところで、H14及びH15が三月下旬会合当日H1方にいたか否かに関しては、前記1、3で指摘したとおり、検察官の主張自体が明確でない(前記1のとおり、論告において、T2の検察官に対する供述の一部を引用し、その信憑性の高いことを主張していることからすると、少なくともH14又はH15のいずれかは三月下旬会合に出席していたと主張しているものと考えられる)。そこで、この点に関するさまざまな可能性の下での証拠上の問題点についてみることとする。

① まず、仮に、三月下旬会合当日H14及びH15の両名がH1方にいたとすると、この点に関する三月下旬会合関係者の供述が前記のようなものに止まっているのは、いささか不可解というべきであろう。

② 次いで、仮に、三月下旬会合当日H14のみがH1方にいたとすると、この点に関する三月下旬会合関係者の供述が前記のようなものに止まっているのはいささか不可解というべきであろう。また、H13が、何故、H15に対し、三月下旬会合当日H1方に手伝いに来るよう依頼しなかったのかという疑問がある上、三月下旬会合当日H15がH1方で手伝いをしたという、前記M10及びT22の検察官に対する供述は、真実でないことになる。

③ 最後に、仮に、三月下旬会合当日H15のみがH1方にいたとすると、三月下旬会合当日H14がいたとする前記T2及びT3の検察官に対する供述は、真実でないことになる。

このように、いずれの場合を想定しても、検察官の主張を支える関係者の検面の信用性に疑いを生ずるという証拠上の問題点が残るといわざるを得ないのである。

(六) このように、検察官は、論告において、T2の検察官に対する供述の一部を引用し、この信憑性が高いと主張するのであるが、右供述に含まれる三月下旬会合当日、H14及びH15がH1方にいたという点については、関係者の捜査段階における供述を検討すると、多々問題があるといわざるを得ないのである。

もっとも、三月下旬会合当日、H14やH15がH1方にいたかどうかについては、天神祭の会合や六月一五日の役員会において、H14やH15がH1方におり、その事実が関係者の捜査段階における供述に混乱を生じさせたと考える余地がないわけではない。しかしながら、仮にそのような解釈を採用するとすれば、既に、第九―一で指摘したことに関連し、関係者が捜査段階において三月下旬会合当日の種々の出来事を供述する際、天神祭の会合や六月一五日の役員会に出席した際さまざまな経験をしたことが、少なくともH14やH15がH1方にいたかどうかについての供述内容に影響を与えていることを認めたことになるのであり、右の事情がそれ以外の供述事項にも影響を与えた可能性を否定するのは困難であろう。

一一  確定者Y7の供述

1 検察官の主張

検察官は、論告において、検察官の主張に沿う確定者Y7の捜査段階における供述が信用できる根拠として、

① 捜査段階において、三月下旬会合及びH13から現金をもらった際の状況について、具体的かつ詳細な供述をしていること

② 第八回公判において、現金をもらったことは否認しているものの、三月下旬会合があったこと、H1から甲を一遍頼むと言われたことは明確に認めているのであって、証言の状況からみて、到底、別のことと勘違いしているとは考えられないこと

③ 第八回公判において、四月の会合に甲が出席したこと及び三月下旬に現金三万円の供与を受けたことは否認しているが、右は、他の被告人らの圧力のしからしめるところであって、右②の証言にこそ注目すべきであり、第八回公判で②で指摘したとおり証言したのは、他の被告人からの指示が不徹底であったため、真相を吐露する証言をしたものとも考えられること

④ ②の証言に関し、第六七回公判では、全然記憶がないなどと言って証言を回避しているが、第八回公判の証言内容と変わってしまったのは、H1らの面前では真相を供述できないか、あるいは他の被告人からの圧力がかかっていたためであると推測されること

⑤ 正式裁判を申し立てず、略式命令を確定させた理由に関する証言は、その内容自体のほか、Y7が裁判所書記官の経歴を有することに照らすと、不可解というほかなく、同人が正式裁判を申し立てなかったことは、事実の存在が明らかであることの有力な証左であること

⑥ 酒井海山巡査部長の証言する、同証人のY7に対する取調べ状況によると、同人はごく自然に自供したものと認められるところ、同証人の証言内容は具体的かつ自然で信憑性に富むものであること

を、それぞれ主張している。

2 そこで、まず、第八回公判(昭和六二年四月一七日)におけるY7の証言のうち、三月下旬会合に関する部分を引用することとする。傍線部分は、検察官が右論告における主張の根拠として、「論告要旨」に引用した部分である。<省略>

3 Y7は、第六七回公判においては、昭和六一年当時の記憶の失われたことを強調し、第八回公判における同証人の証言内容を踏まえた検察官の尋問に対し、実質的にみて意味のある証言をしていない。また、弁護人からの、H1から甲の応援を頼まれたことはあるのかという尋問に対し、これを否定し、裁判所からの、天神祭の会合に出席したことはないかという尋問に対しても、これを否定する証言をしている(<省略>)。

ところで、「昭和五十二年後援会資料事務局」という表書のあるバインダー(符40)に綴りこまれた二月二五日開催の天神祭の会合の出席予定者の名簿を見ると、Y7の氏名が記載されており、また、六月一五日に開催されたH1後援会の役員会に関する記載と認められる府政ノート(符3)の七〇頁の「出席者(予定)」欄にはY7の氏名が記載されており、七一頁の「出席予定者名」欄にもY7の氏名が記載された上、○印も付されている。

4 一方、H1は、公判廷において、四月の三回の会合の開催について、金がかかるため、事前にH13に相談したことはあるが、同会合の開催を決め槻の郷荘の予約をする以前にH13以外の者に同会合の開催について相談したことはないこと、また、六月一五日の役員会の場を含め、H1後援会会員にも、家族にも、甲に対する支援を要請したことはないこと、を供述している(<証拠>)。

5 そこで、第八回公判における三月下旬会合に関する前記Y7の証言について検討するに、同証人は、昭和六一年当時、他の者とともにH1方に集まったことがあること、及び、H1方で、H1から甲を応援してくれと一回頼まれたことがあるという点については、一貫して証言しているものと認められる。また、四月七日会合の前にH1方で開催された役員会に出席し、槻の郷荘での会合について相談したという点も比較的明快に証言している。

一方、Y7の証言の特徴は、右各点について、一貫して供述し、又は、比較的明快に証言しているとはいっても、それぞれの点について、そのような出来事に至る経緯、そのような出来事のあった時期及びその際の具体的な状況等については、ほとんど証言していないことである。特に、時期に関する記憶のないことは、同証人自らが繰り返し強調しており、してみると、検察官は、論告において、Y7は三月下旬会合の存在については明確にこれを認めていると主張しているが、前記のような証言内容に照らすと、検察官が「論告要旨」において引用する部分の問答も、同証人において、時期の点も含めて尋問されていることを十分意識して答えたものかどうかについては疑問を入れる余地があるというべきである。

しかも、右3で指摘した証拠に照らすと、Y7は、二月二五日開催の天神祭の会合や、六月一五日に開催された役員会に出席した可能性が高いと考えられるのであるが、同証人は右会合に出席したか否かの記憶がはっきりしていない旨証言しているのであって、証言したのが昭和六二年四月一七日のことであることを考慮しても、本件当時の出来事に関する同証人の記憶の確かさについては大きな問題があるといわざるを得ないのである。

そうすると、Y7の証言のうち、H1から甲を応援してくれと一回頼まれたことがあるという点や、四月七日会合の前にH1方で開催された役員会に出席し、槻の郷荘での会合について相談したという点も、その信用性を直ちに肯定するのは躊躇せざるを得ないのである。

6 なお、第八回公判及び第六七回公判におけるY7の証言のうち、正式裁判の申立てをしなかった理由を述べる部分の評価については、他の確定者の証言とともに後に第一四においてまとめて検討することとする。

一二  受供与金品の確認状況等に関する一部被告人の供述

1 検察官は、論告において、三月下旬会合当日H1から現金三万円の供与を受けた者のうち、被告人T20、死亡被告人O14、被告人K2、同M1、同H3、同H4は、捜査段階において、金品を供与された状況や供与された金品の確認状況等について、具体的であり、かつ、臨場感に富み、実際に経験した者でなければ到底なし得ないと考えられる供述をしているところ、これらの供述を録取された状況に関する右各被告人及び死亡被告人の公判廷における弁解をみても、到底納得し得るものではなく、したがって、右各被告人及び死亡被告人の捜査段階における供述の信憑性は高い、と主張する。

2 右各被告人及び死亡被告人の捜査段階における金品を供与された状況や供与された金品の確認状況に関する供述、及び、そのような供述が録取された経緯等に関する公判廷での供述は、以下のとおりである。

(一) 被告人T20

(1) T20は、右状況等について、捜査段階において、検察官に対し、大要、次のとおり供述している(<証拠>)。なお、T20は、七月二三日、中西康之巡査部長に対し、ほぼ同様の供述をしている(<証拠>)。

ア 私は、少し料理を食べ、酒を飲んだが、血圧の関係か胸が押さえられるような感じになってきたので、H1に声をかけ、皆より一足先に席を立った。勝手口から出るため、台所へ行くと、手伝いのおばちゃんから、土産として紙の手提げ袋をもらった。

イ 円筒形の包みで、菓子らしいものが入っていたが、H1の言っていた現金もどこかに入っているだろうと思った。

ウ H1の家を出て、西武百貨店前のバス停へ行ったが、その辺りで紙袋の中をよく見たところ、菓子らしい包みと紙袋の間に、縦長の白い封筒があったので、中を見たところ、一万円札三枚で三万円の現金が入っていた。私は、これがH1の言っていた現金だとすぐ分かった。現金三万円は、着ていた背広の内ポケットにしまい、封筒は近くのゴミ箱に捨てた。

エ そして、午後四時ころのバスに乗り、途中で買物をし、家に帰った。家で紙袋の中の包みを開けると、丸いケーキのようなものが一〇個入っていた。

オ この時もらった三万円は、私のタバコ代やその他の小遣いに使った。

(2) T20は、公判廷においては、取調べ刑事から誘導されて調書が出来上がったが、T207.23員面に録取された供与された金品の確認状況等に関する供述がどのようにして録取されることとなったのか、その経緯については分からない旨供述している(<証拠>)。

(二) 死亡被告人O14

(1) O14は、前記状況等について、捜査段階において、検察官に対し、大要、次のとおり供述している(<証拠>)。なお、O14は、七月二三日、田中宣明巡査部長に対し、ほぼ同様の供述をしている(<証拠>)。

ア 私はビールを注いでもらったが、胃が悪かったので口を付けず、宴会が始まって間もなく帰宅するため席を立った。そして、台所へ行ってH13に「相変わらず体の具合が悪いんで、先に帰ります」と声をかけると、H13は「すまなんだね」と言っていた。

イ 私は、台所から勝手口を通って出て、H1建設事務所の脇の駐車場の所にある自転車置場へ行った。乗ってきた自転車を出してまたがり、帰ろうとしたところ、H13が追いかけてきて、「O14さん、ご苦労さんでした。これ持って帰ってや」というふうに言って、手提げの紙袋一個を私の自転車の前かごに入れてくれた。

ウ 見ると、中には包装紙に包まれた細長い箱が一つ入っていたので、土産に菓子でもくれるのだろうと思い、私は、H13に「それはどうも」とお礼を言い、そのまま自転車で帰宅した。

(2) O14は、公判廷においては、取調べ刑事に対し、昭和六〇年まではH1方での天神祭の会合に出席したことを供述したことはある、調書は、刑事の作文であり、O147.23員面に録取された金品を供与された状況や金品の確認状況等に関する供述がどのようにして録取されることとなったのか、その経緯については分からない旨供述している(<証拠>)。

(三) 被告人K2

(1) K2は、前記状況等について、捜査段階において、検察官に対し、大要、次のとおり供述した上(<証拠>)、紙袋の中を確認した場所について図面を作成している。ただし、K2は、七月二三日及び七月二四日の赤松昭雄巡査部長の取調べに対しては、単にH1方から表に出てから袋の中身を確認した旨供述しているのみである(<証拠>)。

ア 私は、その紙袋を持って表の道路を通って、H1方のガレージに戻り、自転車に乗ってH1方を出た。

イ 私は、自転車に乗って事務所に帰るため、南向きに走り、東海道本線の踏切の所まで来た。H1の所からは、距離にして二〇〇メートルくらいではないかと思う。

ウ 私がその踏切の所まで来た時、遮断機が降りていたので、自転車をとめ、その際H1の所でもらった紙袋の中を見ると、縦二、三〇センチメートルくらい、横二、三〇センチメートルくらい、厚さ五、六センチメートルくらいの包装紙に包まれた洋菓子と思われる箱と、その箱と袋との間に白っぽい普通の郵便封筒が入っていた。

エ 私は、その封筒を見てパンフレットか何かチラシかとも思ったが、すぐにH1が選挙違反になるから渡すものを口外しないでくれと言った言葉を思い出し、これはきっと現金でも入っているんじゃないかと思った。

オ 私は、その封筒を手に取ると、その封筒には糊付けなど封はしてなく、中を開いて確かめてみると、一万円札で三枚、合計三万円の現金が入っているのが見えた。

カ その場で、すぐに封筒から三万円の現金を抜き出してズボンの右後ろに入れてある札入れにしまい込んだ。そして封筒については、その場で丸めて捨ててしまった。

(2) K2は、公判廷においては、取調官に対し、三万円の供与を受けた事実を供述したことはなく、図面については、H1方に行くときにはどう行くのかと言われて作成し、図面中の三万円の確認場所の記載についても、取調官から書かされたものであると供述している(<証拠>)。

(四) 被告人M1

(1) M1は、前記状況等について、捜査段階において、検察官に対し、大要、次のとおり供述している(<証拠>)。なお、M1は、七月二八日及び七月二九日、中西康之巡査部長に対し、ほぼ同様の供述をし(<証拠>)、七月二九日にも、自宅の庭の図面を作成した上、紙袋の中身を確認した状況について供述している。

ア 私は、自宅に帰って玄関を入る前に、庭の便所で小便を済ませた。小便をする時に便所の前のドラム缶の上に、H1から受け取った紙袋を置いて小便をした。

イ そのあと、このドラム缶の上で、紙袋の中身を確かめた。その状況が分かるように私方庭の見取図を書いて提出する。この図面のドラム缶の上で紙袋の中身を確認した。中には、菓子箱のようなものが入っていたので、それを取り出そうとしたところ、この紙袋の底の方に白い封筒が入っていた。これを見て何やろうかと思い、その封筒を取り出して、中を見たところ、中には割と新しい一万円札三枚、三万円が入っていた。この封筒の三万円はその場でズボンの後ろポケットにしまった。

(2) M1は、公判廷においては、取調官に対し、三万円の供与を受けたことを認めた後、外出先から土産を持って帰るときには、ドラム缶の上に土産を置いて小用を足すことがあるので、家に帰って紙袋をドラム缶の上に置いて小便をしたなどと述べたところ、右のような供述を録取される結果となった旨供述している(<証拠>)。

(五) 被告人H3

(1) H3は、前記状況等について、捜査段階において、検察官に対し、大要、次のとおり供述している(<証拠>)。なお、H3は、七月二六日、酒井海山巡査部長に対しても、ほぼ同様の供述をしている(<証拠>)。

ア 私は、H1方を出てから、天神さんにお参りして帰ろうと思い、歩いて天神さんの方に向かった。

イ 七、八分ほど歩いて途中で立ち止まり、手提げ袋の中を確かめた。中には、菓子が入っていると思われる縦横二五センチくらい、高さ八センチか九センチくらいの包装された箱があった。その箱を取り出して、ふと袋の底の方を見ると、白い普通の封筒一つが入っているのが分かった。封筒には何も書いてなかった。何だろうと思って封筒を取り出し、中を見ると、一万円札が入っているのが目に付いた。取り出してみると、新しい一万円札三枚の現金三万円だった。

(2) H3は、公判廷においては、右供述がどのようにして録取されることとなったのか、心当たりは特にないが、二月二五日ころH1方で開かれた天神祭の会合には出席して土産をもらっており、また、天神祭の際H1方に行くときにはその前か後に天神さんにお参りすることがある旨供述している(六九回H3供述)。

(六) 被告人H4

(1) H4は、前記状況等について、捜査段階において、検察官に対し、大要、次のとおり供述している(<証拠>)。なお、H4は、七月二七日、兵藤史朗巡査部長に対し、ほぼ同様の供述をしている(<証拠>)。

ア 私は、その紙袋を単車の前かごに入れたまま、自宅に帰り、自宅の車庫の所に単車をとめ、紙袋をそのままの状態で放っておいて、その足で田んぼに行き、また土砂を出す作業をした。

イ そして、日も暮れた後の午後七時ころ、家に戻り、車庫の中に入って電気を付けた。そして、私は、単車の前かごに入れてあったH1方でもらった紙袋を広げて中を見た。中には、縦横それぞれ二〜三〇センチくらい、厚さ七〜八センチくらいの洋菓子らしい包装紙にくるまれた箱が入っていた。

ウ 私は、何気なく、その箱を手に取って袋からちょっと出してみると、袋の底に白い封筒のようなものが見えた。私はそれを見て役員会の書類か何か入っているのかなと思い、菓子箱を持っている手と反対の手で、その封筒を取り出し、菓子箱の方を袋に戻してその封筒を開けようとした。

エ その封筒は、普通に郵便局で手紙を出すときに使う封筒であり、白地で何も書いてなかった。そして、特に糊付けなど封もしてなかった。私は、封筒を開け、中に指を入れて入っているものを表に出して見た。すると、その封筒の中に入っていたものは、ほとんどまっさらに近いような一万円札であり、しかも三枚入っていた。札が新しかったので、くっ付いていたような感じだったが、取り出したときのその厚みからして一枚ではないという感じだったから、よく数えてみると三枚あった。

オ 私は、その三万円をズボンのポケットに入れ、封筒については、すぐに破り捨てて、車庫の近くに置いてあるドラム缶のごみ箱に捨てた。

(2) H4は、公判廷においては、取調官から「皆が言うてる」などと追及され、外出先で何かもらったときに、すぐに取り出さないで単車に載せたまま農作業をし、その後中を見ることがあるので、自分から調書に録取されたような供述をした旨供述している<証拠>。

3 検討

(一) 以上みたとおり、被告人T20、死亡被告人O14、被告人K2、同M1、同H3、同H4の、捜査段階における、金品を供与された状況や供与された金品の確認状況等に関する各供述は、その内容に照らし、検察官が論告において主張するとおり、具体性があり、かつ、臨場感に富み、通常、実際に経験した者でなければなし得ないのではないかと考えられる面を持つことは明らかである。

(二) しかしながら、右各供述のうち、T20、K2、M1、H3及びH4の各供述は、いずれも、当該被告人の体験として供述されているだけであって、他の第三者が目撃しているわけでもなく、何らかの客観的証拠によって裏付けられているわけでもない。

(三) また、O14の供述については、これに沿うH13の供述は何ら録取されていない上、O14は、H1方を出る前にわざわざ台所に寄ってH13に挨拶しているのであるから、H13としてはその際O14を引き止め、土産を渡せばよいものを、わざわざ自転車置場までO14を追いかけ、土産を渡しているのはいささか不自然であるということができよう。

(四) H3の供述については、その内容や同被告人の公判廷での供述によると、天神祭の会合の際の体験に影響を受けた供述ではないかと疑う余地がある。

(五) さらに、これらの者の捜査段階における供述のうち、T20の供述の問題点(第九―五―1及び2)、K2の供述の問題点(第九―五―1及び、2)、H4の供述の問題点(第9―八―6―(七))については、既に指摘したとおりであり、その他関係者の捜査段階における供述に多々問題点があることもまた明らかであって、これらの者の前記供述については、右(一)に述べた点を認めることができ、したがって、これらの供述の存在は、検察官の主張に沿うこれらの者の捜査段階における供述の信用性を高める方向に働く事情というべきであるとはいっても、関係者の捜査段階における供述の信用性を判断するに当たって決定的な価値を有するものではなく、あくまで一つの事情として評価の対象とすべき性質のものであると考える。

一三  T22、M10、O17、被告人T13、D5、O12、H16及びE11の供述<省略>

第一〇  四月の三回の会合当日の甲の足取りの問題

一  検察官は、論告において、四月の三回の会合当日の甲の足取りについては、当時の甲の運転手M11の捜査段階における供述(<証拠>)が存在するところ、同供述は、実際に槻の郷荘に行った者でなければ到底なし得ないものであることは明らかであり、かつ、右供述の裏付けとして行った警察官の走行実験によると、おおむねM11が供述するとおりの時間で走行できることが判明しており、M11の供述が真相を物語ることは明白である、と主張し、さらに、四月の三回の会合当日のアリバイに関する甲の公判廷における証言については、自己の行動を分単位で証言していることの不自然さ、四月の三回の会合当日の甲の立ち寄り先関係者の各供述、O18の公判廷における証言等に照らすと、全く信用性がない旨主張している。

これに対し、弁護人は、弁論において、四月の三回の会合当日、甲が槻の郷荘に行ったことを否定するM11の公判廷における証言、特に、検察官の取調べ当時、M118.8検面(本文15丁のもの)に添付された四月の三回の会合当日の甲の行動に関するメモ(関係各証拠によると、同メモは、甲側において作成し、七月三〇日のH12警部の事情聴取の際、甲がH12に手交したものであることを認めることができる)を示され、四月七日には上本町のさかえ倶楽部の会合と淀川区の勝共連合の会合へ出席した間に、四月一六日には大阪市中央卸売市場での挨拶回りと生野区民センターでの会合へ出席した間に、四月二六日には中崎町のホテルグリーンプラザでの会合と寝屋川市民会館での会合へ出席した間に、それぞれ槻の郷荘へ行ったことにするという、時間的にみて不可能なはめ込みをすることに難儀した状況に関する証言は、具体的かつ詳細であり、十分信用できる旨主張している。

ところで、本件審判においては、甲の証言を前提とした上での、弁護側による甲のアリバイに関する突っ込んだ立証は行われなかった(弁護人は、弁論において、この点に関し、第六九回公判において甲のアリバイ立証のための証人尋問の請求を撤回したのは、既に取り調べた証拠によって被告人らが無罪であることは明らかであり、弁護人としては、早期結審を望んだためであると説明している)。

そこで、当裁判所としては、まず、検察官において真相を供述していると主張するM11の捜査段階における供述のほか、四月の三回の会合当日の甲の立ち寄り先関係者の各供述、O18の公判廷における証言等、検察官申請の証拠により、四月の三回の会合当日、甲が検察官主張の時刻に槻の郷荘に立ち寄ることが可能であることが立証されたといいうるか否か、という観点から、四月の三回の会合当日の甲の足取りに関し検討し、しかる後、右に関するM11の捜査段階における供述の信用性について検討することとする。

二  四月七日の甲の足取り

1 槻の郷荘到着まで

(一) M11が捜査段階で供述する、四月七日槻の郷荘に到着するまでの甲の足取りは、以下のとおりである(<証拠>。なお、所在地については、他の関係各証拠によって補った(以下同じ))。

〔都ホテル大阪(大阪市天王寺区上本町六―一―五五)〕

〔阪神高速道路・上本町〕

〔阪神高速道路・守口〕

〔国道一号線〕

〔国道一七〇号線〕

〔枚方大橋〕

〔高槻市内〕

〔八丁畷交差点〕

〔槻の郷荘〕

(二) M11は、都ホテルを出て、四〇分ないし五〇分で槻の郷荘に到着したと供述している。一方、捜査官が昭和六三年八月八日午後一時一五分から実施した走行テストの結果によると、M11の供述する都ホテル大阪から槻の郷荘までの46.3キロメートルの走行に一時間一〇分を要しているものと認められる。ただし、右捜査官は、走行スピードを上げれば一〇分から一五分の短縮は可能という意見を述べている。(司法警察員作成の昭和六三年八月八日付「参考人M11の供述に対する捜査結果復命書(都ホテルから槻の郷荘の間)」と題する書面)

(三) さかえ倶楽部事務局長T25は、検察官に対し、四月七日、甲は、都ホテル大阪内の同倶楽部例会会場に午前一一時一〇分ころ入り、一〇分か一五分くらいおり、間もなく会場を出ていき、すぐ帰った、甲が午前一一時三〇分までに帰ったことは間違いない、と供述している(<証拠>)。

(四) 右(三)によると、甲が都ホテル大阪内で行われたさかえ倶楽部の主催した会合の開催会場から帰ったのは、早くて午前一一時二〇分、遅くとも午前一一時三〇分ということになる。

そうすると、右(二)のとおり、M11の供述する都ホテル大阪から槻の郷荘までの所要時間は四〇分ないし五〇分であるから、槻の郷荘への到着時刻は、午後零時ちょうどから午後零時二〇分の間という計算になる。一方、捜査官の走行テストの結果を計算の基礎にすると、右(二)のとおり、所要時間は一時間一〇分であるから、槻の郷荘への到着時刻は、午後零時三〇分から午後零時四〇分の間という計算になる。ただし、右捜査官が述べるとおり、走行スピードを上げれば一〇分から一五分の短縮は可能であるとすると、その場合には、午後零時一五分から午後零時三〇分の間ということになる。

(五) ところで、検察官は、冒頭陳述で、四月七日会合には、甲も午後零時ころ参集したと主張している(なお、H1が捜査段階において供述する甲の到着時刻は、ほぼ午後零時ころである<証拠>)。そうすると、M11が捜査段階で供述する都ホテル大阪から槻の郷荘までの所要時間で到着したのであれば、検察官の右主張は十分成り立つ余地があるというべきである。また、走行テストの結果に即して考えても、午後零時一五分ころには到着した可能性がないわけではなく、その場合には、検察官の主張する甲の到着時刻である午後零時ころの範疇に入っていないとはいえないであろう。

2 槻の郷荘からホテルオークスまで

(一) M11が捜査段階で供述する、四月七日槻の郷荘を出発後、次に甲が下車した場所であるホテルまでの甲の足取りは、以下のとおりである(<証拠>)。

なお、M11は、単にホテルとしか供述していないが、右ホテルは、ホテルオークスであると認められる(司法警察員作成の平成二年六月二五日付「ホテルオークス(生野会総合カルチャーセンター)の所在確認について」と題する書面)。

〔槻の郷荘〕

〔高槻市内〕

〔名神高速道路の北側の道路〕

〔国道一七一号線にぶつかった後裏道〕

〔吹田市南千里〕

〔新御堂筋〕

〔西中島〕

〔ホテルオークス(大阪市淀川区西中島一―一一―三四)〕

(二) M11は、ホテルオークスがなかなか見付からず随分苦労して捜したこと、名神高速道路に沿って北側に走る道路や北千里までの裏道は、よほど詳しく道路を知っている者でないと分からないこと、知らない者は国道一七一号線から新御堂筋に入ろうとするが、国道一七一号線はかなり混むので時間がかかること、をそれぞれ供述した上、槻の郷荘からホテルオークスまで一時間とかからなかったと供述している。

一方、捜査官が昭和六三年八月一九日午後一時一五分から実施した走行テストの結果によると、槻の郷荘からホテルオークスまでの37.3キロメートルの走行に一時間〇〇分を要しているものと認められる。ただし、右捜査官は、M11の供述する裏道が分からず、テストの際には、名神高速道路北側の交差点を右折、高槻市群家新町交差点を右折、茨木市太田交差点を左折して国道一七一号線に入り、茨木警察署前を通って中央環状線に西進し、南千里から新御堂筋に入る道路を走行したものである。右に関し、捜査官は、地図上及び道路状況等からみて最適と思料されるルートを見分走行したと述べている。(司法警察員作成の昭和六三年八月一九日付「参考人M11の供述に対する捜査結果復命書(槻の郷荘からホテル「オークス」の間)」と題する書面)

(三) ところで、甲出席の上ホテルオークスで開催された会合は、国際勝共連合の婦人部の集いであるところ、同会合に出席したO18は、公判廷で、大要、次のとおり証言している(<証拠>)。

(1)  O18は、昭和六一年正月過ぎから、一年間ほど、地下鉄御堂筋線西中島南方駅に近い「生野会総合カルチャーセンター」の生け花の講習に、一週間に一度、毎週月曜日の午前中に出席していた。

(2)  午前一〇時三〇分ころから三々五々受講者が集まり、午前一一時ころから生け始めて昼ころまで、一時間ほどで生け終わり、帰宅するのが通常であるが、時々は、生け終わった後、O18の場合には講習場所に向かう途中買ったパンなどを食べながら、その場に残った者とおしゃべりをしていたこともあり、午後の二時ころまでその場にいたこともあった。

(3)  講習のあった日、他の講習参加者を含め甲の講演に参加するよう話があり、さらにO18は年長ということで、甲の話の後甲に花束を渡すように依頼されてこれを承諾し、講習の行われる部屋から同じ階にあった別の部屋に移動し、その後現れた甲の話を聞いた後、用意された花束を甲に渡したことがある。その日どのくらいの時間甲の話を聞いていたかは記憶していない。

(4)  当日、甲の話を聞くよう依頼があったのは、午前中、生け花をしている途中の出来事だったと思う。甲に花束を渡した後、生け花を続けたと思うが、はっきりした記憶はない。

(5)  八月一〇日付の証言書を自分で書き、署名押印したことがある。証言書の内容は、四月七日、午後零時ころから三〇分くらい甲の話を聞き、花束を渡したというものであるが、内容については、証言書の作成を依頼された時、このとおり書いてくださいと言って見せられた書面のとおり書いたものである。証言書を書いたのは、生け花の講習が行われた場所であるが、証言書を書くよう依頼した者の名前や、証言書にいつ押印したかは記憶していない。

(四) O18の右証言、特に甲の話を聞くように依頼された時間帯に関しては、検察官においても記憶の確かさについて念入りに尋問した結果、断定することはできないとしながらも、一貫して生け花をしていた途中であると述べていることからすると、甲の挨拶を聞くように依頼され、O18ほかの者が別室に移動したのは、遅くとも午後零時ころまでのことである可能性が高いものと認定するのが相当であろう。

一方、既に述べたとおり、T25の検面によると、甲が都ホテル大阪を出発したのは、早くても午前一一時二〇分であり、M11の供述する都ホテル大阪から槻の郷荘まで最少所要時間は、四〇分であるから、甲が槻の郷荘に到着する時刻は早くても午後零時である。また、M11は、槻の郷荘での会合に出席した後、一時間かからずにホテルオークスに到着したと供述しているのであるから、甲が槻の郷荘にいた時間を考慮に入れないとしても、甲がホテルオークスに到着するのは、午後一時ころになるのである。

そうすると、公判廷における証言時のO18の記憶を前提にする限り、四月七日、甲が午後零時ころ槻の郷荘に現れたという検察官の主張は成立しない疑いがあるといわなければならない。

3 その後、M11は、ホテルオークスから、鶴見区放出のH1方を訪れ、その後、高津神社、総合結婚式場月華殿(大阪市天王寺区寺田町一―七―七)を回ったと供述しているが、この点は、四月七日午後零時ころ甲が槻の郷荘に行くことができたか否かには関係がない。

三 四月一六日の甲の足取り

1  槻の郷荘到着まで

(一) M11が捜査段階で供述する、四月一六日槻の郷荘に到着するまでの甲の足取りは、以下のとおりである(<証拠>)。

〔大阪市中央卸売市場(大阪市福島区野田一―一)〕

〔阪神高速道路・堂島〕

〔阪神高速道路・守口〕

〔国道一号線〕

〔国道一七〇号線〕

〔枚方大橋〕

〔高槻市内〕

〔八丁畷交差点〕

〔槻の郷荘〕

(二) M11は、大阪市中央卸売市場を出て、一時間くらいで槻の郷荘に到着したと供述している。一方、捜査官が昭和六三年八月一七日午前一一時〇〇分から実施した走行テストの結果によると、M11の供述する大阪市中央卸売市場から槻の郷荘までの43.4キロメートルの走行に一時間一四分を要しているものと認められる。ただし、右捜査官は、走行スピードを少し上げていれば一〇分から一五分の短縮は充分に可能という意見を述べている。(司法警察員作成の昭和六三年八月一七日付「参考人M11の供述に対する捜査結果復命書(中央卸売市場から槻の郷荘及び槻の郷荘から生野区民センターの間)」と題する書面)

(三) ところで、大阪市中央卸売市場の中にある大坂中央青果株式会社の総務部長E16は、検察官に対し、四月一六日当時同人の付けていた卓上日誌(符15)の同日分を示された上で、

①  右半分に、一一時二〇分、甲氏来社、約一〇分間来社の件、四月一一日一四時、府会S11よりTELあり、と記載されているとおり、S11大阪府議会議員より電話があり、四月一六日午前一一時二〇分に、S11の案内で甲が同社を訪問する予定であったこと

②  四月一六日、甲が現実にいつ来たのかについては正確な記憶がないが、約束の午前一一時二〇分よりも若干遅れたという記憶のあること(ただし、これも正確にどうかと言われれば、はっきりしないという)

③  左半分には、実際に来訪のあった時刻を書き入れているところ、甲が来た時刻については「12:05 甲氏S11他 (専ム 社長 中島)」の記載があり、もともとは午前一一時台の時刻が記載されていたが、総務部の誰かに言われて一二時〇五分になぞり書きで訂正したこと

を、それぞれ供述している(<証拠>)。

右③については、技術吏員高田徹作成の平成二年四月六日付鑑定書によると、右卓上日誌の四月一六日欄左側(四月一五日用紙の裏側)にある「12:05」の記載は、もともと一一時台であったのが「11」の部分がなぞり書きで「12」に直されたことが明らかであるが、「05」の部分についてはもともと何と記載されていたかは不明であるとされている。

この点に関し、検察官は、論告において、E16が元の記載を改竄した旨主張している。右主張が、E16が罪証隠滅の意図に基づいて元の記載に手を加えたという趣旨であるか否かは必ずしも明確でないが、仮に検察官の主張がそのような趣旨であったとする場合、同主張は、右記載自体から推測しているものであって、他にこれを裏付ける具体的な証拠があるわけではない。また、右記載は、一見すれば後に何らかの手を加えたことが分かる体裁となっており、将来捜査官の目に触れることを予想し、罪証隠滅の意図を持って元の記載に手を加えたにしては、余りに稚拙な改竄態様であると思われる。

しかしながら、訂正後の記載の正しさを裏付ける他の証拠があるわけでもないから、訂正の経緯に関する右③の供述に照らしても、訂正後の記載が真実であると断定することもできないというべきであろう。

一方、右①については、何ら不審な点はなく、また、本件各証拠に照らしても、四月一六日当日、当初の予定より早く甲が大阪中央青果株式会社の事務所に現れた形跡はないから、甲が同事務所に現れたのが午前一一時二〇分以降であることは、十分認定し得るところである。

(四) 検察官は、第五回公判で、四月一六日会合の開催時刻は、午後零時ころであり、甲の出席時刻は会合開始前後ころと釈明している(なお、H1は、捜査段階において、午後零時ころ出席者がそろい、その後甲が来てすぐに会合が始まることになったと供述している<証拠>)。

ところで、右(三)で検討したとおり、甲が大阪中央青果株式会社の事務所に現れたのは午前一一時二〇分以降のことであるから、大阪市中央卸売市場から槻の郷荘まで一時間くらいかかったとするM11の供述を前提とすると、甲が槻の郷荘に到着するのは、早くても午後零時二〇分ころになる。一方、捜査官の走行テストの結果によると、大阪市中央卸売市場から槻の郷荘まで所要時間は一時間一四分であり、これを計算の基礎とすると、甲の槻の郷荘到着時刻は、早くても午後零時三五分ころになる。また、前記(三)で指摘したE16の供述中、四月一六日の予定を示す①のとおり、仮に甲が大阪中央青果株式会社の事務所で約一〇分間を費やしたとすると、甲の槻の郷荘到着時刻は、M11の供述を前提としても、早くても午後零時三〇分ころであり、捜査官の走行テストの結果を前提とすると、早くても午後零時四五分ころになるのである。

検察官の釈明した甲の槻の郷荘到着時刻は午後零時ころであるが、同釈明の範疇に入るのは、大阪市中央卸売市場から槻の郷荘までの所要時間に関してはM11の供述を前提にし、かつ、甲が大阪中央青果株式会社の事務所ではほとんど時間を費やさなかった場合といえるであろう。

2 槻の郷荘から生野区民センターまで

(一)  M11が捜査段階で供述する、四月一六日槻の郷荘を出発後、次に甲が下車した場所である生野区民センターまでの甲の足取りは、以下のとおりである(<証拠>)。

〔槻の郷荘〕

〔阪神高速道路・守口〕

〔阪神高速道路・天王寺〕

〔生野区民センター(大阪市生野区勝山北三―一三―三〇)〕

(二) M11は、槻の郷荘を出て、一時間一〇分ないし二〇分くらいで生野区民センターに到着したと供述している。一方、捜査官が昭和六三年八月一七日午後一時〇〇分から実施した走行テストの結果によると、槻の郷荘から生野区民センターまでの48.0キロメートルの走行に一時間九分を要しているものと認められる。(司法警察員作成の昭和六三年八月一七日付「参考人M11の供述に対する捜査結果復命書(中央卸売市場から槻の郷荘間及び槻の郷荘から生野区民センターの間)」と題する書面)。

3 その後、M11は、生野区民センターから、東大阪市民会館(東大阪市永和二―一―一)に行き、その後、新阪急ホテルに回ったと供述しているが、この点は、四月一六日午後零時ころ甲が槻の郷荘に行くことができたか否かには関係がない。

四 四月二六日の甲の足取り<省略>

五 M11の公判廷における証言

1 M11は、第一〇回公判において、大要、次のとおり証言している<証拠>。

(一) 昭和六〇年一〇月ころから、昭和六一年七月六日まで、甲の運転手をしていた。その後は、タクシーの運転手をしていたが、現在は、モータープールの管理人をしている。

(二) 検察官の取調べは二回受けたが、そのころ、甲と電話で話をした際、甲から、実際は槻の郷荘には行っていないが、行ったように話をしてくれと言われ、最初M11は、行っていないのだから突っ張りましょうと言ったが、甲から、そうすると何遍も(検察庁に)行かなければならないし、合わせてくれれば、それで済む問題だから、と言われ、槻の郷荘に行った旨供述することにした。また、甲から、(検察庁に)行ったら、日程表があるから、それに合わせてくれ、と言われた。

(三) 検察庁に行くと、四月の三回の会合当日の甲の行動に関するメモ(当裁判所注・M118.8検面(本文15丁のもの)に添付されたメモをさす)や地図を示されたので、同メモに記載された行程に槻の郷荘に行ったことを割り込ませて供述をしたが、槻の郷荘に行ったことを無理矢理割り込ませるのには、大分難儀をした。

(四)〜(六)<省略>

2 なお、甲も、公判廷において、八月一日の矢田検事の取調べの際、同検事からM11にも協力するように言ってくれ、と依頼され、M11に対し、もし呼出しがあったら協力してやってもらいたいと言った記憶がある旨証言している(<証拠>)。

六 検討

1 以上の検討から明らかなとおり、まず、検察官申請の証拠に基づいて、四月の三回の会合当日、甲が検察官主張の時刻に槻の郷荘に立ち寄ることが可能か否か、という観点から甲の足取りを検討しても、四月七日の都ホテル大阪から槻の郷荘を経てホテルオークスに至る足取りについては、前記O18の公判廷における証言等に照らすと、槻の郷荘に立ち寄ることが可能であったとする検察官の主張には重大な疑問があるといわざるを得ないのである。

2 次に、以上の検討を踏まえ、M11の捜査段階における供述の信用性について検討する。

(一) まず、検察官は、論告において、M11の証言によると、同人は、四月の三回の会合当日の具体的な走行ルートについて、事前に甲と打ち合せた事実はないところ、検察官に対する供述内容は、四月の三回の会合当日現実に槻の郷荘に行った者でなければ到底説明できないコース内容であり、かつ、M118.8検面(本文15丁のもの)に添付されたメモには、槻の郷荘に行った事実が抜いて記載されているのであって、M11がそのようなメモに合わせて四月の三回の会合当日のコースを供述できるはずがない、と主張している。

確かに、四月七日当日、槻の郷荘からホテルオークスに至る間、名神高速道路北側の裏道を通行したと供述するなど、M11の捜査段階における供述には、実際走行した者でなければ供述できないと考えられる点があると認められる。しかしながら、M11は、「生まれも育ちも大阪で、昔、タクシーの運転手をしていたこともあって、大阪の道には詳しかったので(M118.8検面(本文10丁のもの)2項)」、甲の運転手として採用され、本件当時も半年以上にわたって運転手として甲と行動を共にしていたのであるから、甲の立ち寄り先を検察官から示されれば、それまでの経験に基づき、地図に基づいて、具体的な走行ルートを供述することが不可能であったとは思われない。

(二) 次に、M11が公判廷において、四月の三回の会合当日の甲の行動に関するメモや地図を示されたので、同メモに記載された行程に槻の郷荘に行ったことを割り込ませて供述をしたが、槻の郷荘に行ったことを無理矢理割り込ませるのには、大分難儀をした、と証言していることは、前記五―1―(三)で指摘したとおりである。

ところで、四月の三回の会合当日、甲の立ち寄ったとされる場所から次の目的地までの所要時間に関する、M11の供述と、捜査官の走行テストの結果をまとめると、次のとおりである。

起点

目的地

M11供述(分)

捜査官の走行 テスト(分)

結果

短縮可能時間等

都ホテル 大阪

槻の郷荘

四〇~五〇

七〇

一〇~一五

槻の郷荘

ホテルオークス

六〇弱

六〇

大阪市中央卸売市場

槻の郷荘

六〇

七四

一〇~一五

槻の郷荘

生野区民センター

七〇~八〇

六九

世界救世教枚方布教所

ホテルグリーンプラザ

三〇

四四

交通渋滞で八分ロス

ホテルグリーンプラザ

槻の郷荘

六〇余

七五

槻の郷荘

寝屋川市民会館

四〇

四八

五~一〇

このように、M11の供述する所要時間と、捜査官の走行テストの結果による所要時間を比較すると、同テストの結果現実にかかった時間を前提とする限り、槻の郷荘から生野区民センターまでの間を除き、いずれもM11の供述する所要時間の方が短いことが明らかである。してみると、四月の三回の会合は、昭和六一年四月の出来事であり、捜査官の走行テストは、昭和六三年八月に行われており、この間、車両が増加し、本件で問題となる走行区間の車両通行量も増大し、したがって同区間の走行所要時間も長くなっている可能性があるとはいっても、M11の右証言は、捜査官の走行テストによって一応裏付けされた結果となっているのである。

(三) また、前記五―1―(二)及び五―2で指摘したとおり、捜査段階において虚偽の供述をすることについてのM11の動機も一応説明されている。

(四) しかも、四月七日会合については、関係各証拠、特にO18の証言によると、M11が捜査段階で供述する所要時間を前提としても、甲が槻の郷荘に立ち寄ることが可能であったとする検察官の主張には重大な疑問があるといわざるを得ないことは、前記1で指摘したとおりなのである。

(五) 以上の諸点を併せ考えると、捜査段階における供述の信用性を否定するM11の公判廷における証言の信用性を直ちに否定することはできないのではないか、と考えられるのである。

第一一 四月の三回の会合の関係者の捜査段階における供述の概要

一 H1の供述の概要<省略>

二 H13の供述の概略<省略>

三 饗応事件の各被告人及び死亡被告人、四月の三回の会合に出席したH1を除く現金供与事件の各被告人及び死亡被告人、並びに、各確定者(現金供与事件に関する確定者Y7を含む)の供述の概要(これらの者の各検面)

四 甲の供述の概要<省略>

五 H14の供述の概要<省略>

六 H15の供述の概要<省略>

七 K20の供述の概要<省略>

第一二 四月の三回の会合の関係者の捜査段階における供述の検討

一 捜査段階におけるH1の供述の変遷及び変遷事項に関する関係者の供述

饗応事件に至る経緯や、四月の三回の会合の際の出来事に関するH1の捜査段階における供述をみると、次のような事項について供述が変遷していることを認めることができる。

① 資金に関する供述

② 甲側の人物との接触状況に関する供述

③ 四月の三回の会合の開催日時及び場所の連絡に関する供述

④ 甲の出迎えに関する供述

⑤ 甲の退出状況に関する供述

そこで、これらの事項に関するH1の供述を吟味するとともに、H1の供述と関係者の供述を対比し、これらに含まれる問題点について検討することとする。なお、右⑤については、広く四月の三回の会合出席者の供述をも考慮する必要があるので、別途第一二―二において検討することとする。

1 資金に関する供述

本件饗応事件(及び現金供与事件)の資金に関するH1の捜査段階における供述が変遷していること、かつ、最終的な供述の信用性にも疑問があり、結局本件捜査を通じ、この点が解明されたとはいえないことは、既に第五―二―2―(1)で指摘したとおりである。

2 甲側の人物との接触状況に関する供述

(一) 二月から三月にかけ、H1が甲側の人物と接触した状況に関するH1の捜査段階における供述の概要は、次のとおりである。<省略>

(二) 一方、甲の捜査段階における供述は、次のとおりである(<証拠>)。

(1)(2)<省略>

(三) 検討

(1) 右にみたとおり、H1は、七月二七日の段階までは、H1の接触した甲側の人物は、甲の弟であると供述していたのであるが、七月二九日からは、三月初旬ころ、甲自身がH1方を挨拶に訪れたことを認め、さらに、捜査の最終段階(追起訴の前日)である八月一二日には、甲がH1方を訪れた際、四月の三回の会合の計画を甲に打ち明けた旨供述するに至っているのである。

(2) まず、二月ないし三月、甲が参院選出馬の挨拶のためH1方を訪れたことについては、甲が公判廷においてこれを認めている上(<証拠>)、七月三一日の接見時のH1の供述に関する平田弁護人の公判廷における証言内容(第一五―三―2―(二)―④参照)に照らしても、優にこれを認定し得るところである。しかも、本件各証拠をみても、H1が供述する以前に捜査官において右甲のH1方来訪事実について了知していた形跡はないから、H1において、七月二七日の段階までは、甲自身がH1方を来訪した事実を秘匿していたことは明らかである。この点をどのように評価すべきであろうか。

(3) まず、第一に、仮に、四月の三回の会合には甲が出席しておらず、饗応の事実がないのであれば、甲自身がH1方を来訪した事実を秘匿する理由はなく、その旨真実を述べればよいのであって、七月二七日の段階までH1が右事実を秘匿したのは、饗応事件について、甲自身に嫌疑が及ぶことを恐れたからではないか、と考える余地があることはいうまでもない(なお、松園巡査部長は、公判廷において、当時H1は、甲本人の名前を出せなかった理由について、名前を出せば甲本人に迷惑がかかる、と供述していた旨証言している(<証拠>))。

(4) しかしながら、四月の三回の会合には甲が出席しておらず、饗応の事実が存在しなかったと仮定した場合にも、H1において、当時、同被告人の供述によって甲に対し(真実は存在しない)饗応事件に関する嫌疑が及ぶことを避けようという心理が働き、七月二七日の段階まで甲がH1方を来訪した事実を秘匿したと解する余地があることも否定できないと思われる(名前を出せば甲本人に迷惑がかかるのは、饗応事件が真実存在する場合だけには限らないと考えられる)。

(5) また、H1は、公判廷において、いずれも「甲事務所 秘書」の肩書のある「K24」の名刺(符34)及び「M12」の名刺(符36)を見たことがあるが六月三〇日ころの安岡寺のH1事務所での会合には、甲の弟か秘書が来たところ、その際名刺をもらったものか、H1の留守中、K24やM12がH1方を訪れ名刺を置いていったものかは分からないことを供述した上、H1の接触した人物として甲の弟を上げた点については、六月三〇日ころの安岡寺のH1事務所での会合に来たのが甲の弟でありH1が同人を見た可能性があることや、H1方に甲の弟の名刺がありこれを見たことがあるからではないかと思うこと、を供述している(<証拠>。なお、前記各名刺は、八月四日のH1方に対する捜索によって発見、押収されている(名刺二枚(符34、36)、司法警察員作成の八月四日付捜索差押調書(謄本))から、取調官から甲の弟やM12を具体的に取り上げてH1を追及したものではなく、H1からこれらの者につき供述を始めたことは明らかである)。

(6) そうすると、七月二七日までの段階において、H1が専ら甲の弟との接触について供述し、甲がH1方を訪れた事実を供述しなかったことをもって、検察官の主張に沿う捜査段階における供述は虚偽であるとするH1の公判廷における弁解の信用性を決定的に減殺するものとまではいえないというべきである。

(7) なお、八月一二日のH1の供述の問題点については、第五―二―2―(四)で指摘したとおりである。

3 四月の三回の会合の開催日時及び場所の連絡に関する供述

(一) 四月の三回の会合の開催日時及び場所を、甲側にどのように連絡したかに関するH1の捜査段階における供述の概要は、次のとおりである。

(1)〜(9)<省略>

(二) H13は、右の点に関し、八月一一日、矢田検事に対し、次のとおり供述している(<証拠>)。

(1)〜(4)<省略>

(三) 一方、甲は、次のとおり供述している(<証拠>)。<省略>

(四) 検討

(1) 右にみたとおり、H1は、七月二七日の段階までは、四月の三回の会合の開催場所及び日時については、H1自身が甲側(甲の弟)に連絡した旨供述していたのであるが、七月二九日以降は、H13に指示して連絡させた旨供述を変更し、その後矢田検事の取調べを受けたH13及び甲も、いずれも右変更後のH1の供述に沿う供述をしているのである。

(2) H1が当初H13の名前を出さなかったことについては、H1において、妻のH13が饗応事件に関与したことを疑わせる事実を秘匿しようと考えたのではないかとも考えられる。

しかしながら、H1は、七月二三日、矢田検事の取調べに対して、現金供与事件及び饗応事件の大筋を認める供述をした際、三月下旬会合出席者に供与した現金は、H13に準備させた菓子を入れた菓子袋とともに供与したものであることや、現金を封筒に入れる作業はH1がH13とともに行ったことを供述している(<証拠>)のであって、少なくとも客観的にみると、四月の三回の会合の開催場所及び日時についてH13が甲側に連絡したことを秘匿することにそれほどの意味があったとは考えにくいのである。

(3) ところで、四月の三回の会合に甲自身が出席し、参院選における支援を求める挨拶をすることは、単に会合の成果を上げるというに止まらず、既に検討したとおり、H1の捜査段階における供述によると、同被告人は、饗応事件及び現金供与事件の資金については、とりあえず同被告人自身が負担するが、選挙後甲側から流れてくるのを期待していたというのであるから、右資金回収のためにも是非とも必要なことであったと考えられる(なお、右資金に関するH1の供述は虚偽であり、H1が槻の郷荘に四月の三回の会合を予約する前、既に甲側からH1側に現実に資金が流れていたり、又は、そのころ、甲側とH1側との間で、選挙後甲側からH1側に資金を流す旨の約束があったとすれば、同会合の日取りを甲の出席が可能な日にすることは、当然の要請であったと考えられよう)。

そうすると、当時甲が挨拶回り等に忙しいスケジュールをこなしていることは、その経緯等に照らし、H1においても十分知っていたと考えられる上、槻の郷荘は、大阪市内からは相当離れた高槻市北部にあり、行き帰りに相当の時間を要することは明らかであるから、四月の三回の会合の開催日及び開催時刻を決定し予約をするについては、あらかじめ甲のスケジュールを確認するなどの配慮をするのが合理的な行動であると思われる。

しかるに、前記のとおり、H1の捜査段階における供述によると、同会合の予約をするに当たり、各会合の開催日及び開催時刻につき、H1において甲のスケジュールを確認するなど、甲の出席が可能かどうかを配慮した形跡がないのは、不可解というほかない。また、仮に、事前に甲のスケジュールを確認するまでの配慮が働かなかったとしても、既に第八―五で指摘したとおり、H1は、三月二〇日過ぎころ四月七日会合及び四月一六日会合の予約をし、三月二五日前後ころ四月二六日会合の予約をしたものと認めることができるところ、前記H1及びH13の捜査段階における供述によると、H1において、開催日の迫った四月七日会合の開催日時の連絡を急ぐことなく、四月二六日会合の予約後、H13に対し甲側への四月の三回の会合の開催日時及び場所の連絡を指示しているのも、理解に苦しむところである(前記(二)―(3)のH13の供述によると、H13は言わば飛び込みで四月の三回の会合開催の件を甲の選挙対策事務所に持ち込んだにもかかわらず、「少し間をおいて」甲が出席する旨の返事があったというのであるから、仮に、関係者の捜査段階における供述が真実であるとすると、四月の三回の会合の開催日時は、たまたま甲側の既決のスケジュールと衝突しなかったと解釈するのが自然であろう)。

さらに、H13の、捜査段階における、甲側に対する四月の三回の会合の開催日時及び場所の連絡状況に関する供述をみても、甲の選挙対策事務所に電話をしたと述べるに止まり、電話番号が何番だったのか、どうして知ったのかに関する供述が録取されていないこと、H13の電話に応対した者については、「誰か忘れた」との供述が録取されているに止まっていること等の事情に照らすと、真実電話をかけたにしては、具体性が乏しいというべきである。

(4) このように、右(2)のとおり、それまでの供述内容に照らし、H13の名を秘匿することにさほどの意味はないのではないかと考えられること及び右(3)の問題点等に照らすと、甲側に四月の三回の会合の開催日時及び場所を連絡した点に関する捜査段階におけるH1の供述については、これに沿うH13及び甲の捜査段階における各供述が録取されているとはいっても、その信用性に疑問なしとしないのである。

4 甲の出迎えに関する供述

(一) 四月の三回の会合において、槻の郷荘を訪れた甲をどのように出迎えたかに関するH1の捜査段階における供述の概要は、次のとおりである。

(1)〜(6)<省略>

(二) 一方、H14は、右の点に関し、捜査段階において、次のとおり供述している(<証拠>)。<省略>

(三) 一方、甲は、捜査段階において、四月七日会合に関し、昼ころ現地に着いたところ、確かH1の息子だという人が出迎えてくれて二階の大広間へ案内された、と供述しているのみであり、H14の出迎え位置等について具体的な供述はしていない。また、四月一六日会合及び四月二六日会合については、H1側の出迎えの状況に関しては何ら供述していない。(<証拠>)

(四) また、M11の捜査段階における供述調書をみると、槻の郷荘到着時の状況については、「パンフレット(当裁判所注・M118.8検面(本文10丁のもの)に添付された高槻森林観光センター及び槻の郷荘に関するパンフレットを指す)の建物(当裁判所注・槻の郷荘を指すものと考えられる)の前辺りで甲さんを降ろし、私は、その付近の駐車場で車をとめ、甲さんが戻ってくるのを待っておりました(<証拠>)」、「(四月七日について、)森林観光センターの真新しそうな感じの建物の前で降ろし、私は、その辺りの駐車場で、甲さんが帰ってくるのを待っておりました(<証拠>)」という供述が録取されているのみであり、かつ、M11は、同人が高槻森林観光センターに行ったのは、甲を乗せていった三回だけであり、それ以外にはM11個人で行ったことや他の者を連れていったことはないと供述している(<証拠>)ところ、四月の三回の会合当日、特に最初の会合の開かれた四月七日、府道枚方高槻亀岡線から同センターのある方向にスムーズに右折することができたのかどうか、H14の出迎えを受けたのかどうか等に関する到着時の具体的な状況については、何ら供述が録取されていない。

(五) 検討

(1) このように、H1は、七月二七日の段階では、四月七日会合においては、H14に指示して緑ケ丘病院前で甲を出迎えた旨、七月二八日の段階では、四月一六日会合及び四月二六日会合においては、H14に指示していずれも高槻森林観光センター入口の橋付近で甲を出迎えた旨供述していたのであるが、七月二九日に至って、まず、七月二七日の供述を撤回している。

七月二九日に、七月二七日段階の供述を変更した点については、前記2で指摘したとおり、四月の三回の会合の開催場所及び日時の連絡態様に関する供述自体が訂正されており、これにともなって出迎えに関する供述についても訂正の上真相を語ることになったと考える余地もないではない。

しかし、七月二九日における供述の変更は、七月二八日の供述、すなわち四月一六日会合及び四月二六日会合においては、いずれもH1がH14に対し、同センター入口の所の橋の付近まで出迎えに行くよう指示したという供述には何ら影響を与えないものである。

(2) しかるに、H1は、七月三一日には、矢田検事に対し、四月七日会合においては、H14は「槻の郷荘の玄関かそこいら」まで出迎えた旨供述し(H17.31検面15項)、八月六日には、松園巡査部長に対し、再び、四月七日会合においてはH14が高槻森林観光センター入口付近まで出迎えた旨供述し(<証拠>)、さらに、八月九日には、矢田検事に対し、四月一六日会合に関し、H14に対し「玄関だったか道路に通ずる橋の辺りだったかへ行くよう指示したと思うが、それは最初の四月七日の時だけだったかもしれない」と供述しているのである(<証拠>、なお、四月二六日会合における出迎え場所については、同検面には、何ら録取されていない)。

(3) 七月三一日以降のH1の供述の変遷のうち、八月九日の供述については、現実に甲を出迎えたH14に対する事情聴取を踏まえて矢田検事がH1を取り調べた結果、記憶の鮮明でなかったH1において供述を訂正したと考える余地がある(H14の供述調書の録取が行われたのは、八月六日である)。また、七月三一日の供述についても、もともと甲の出迎え場所に関するH1の記憶があいまいであったと考える余地がないわけではない。

(4) ところで、H1及びH14の捜査段階における供述によると、四月の三回の会合のうちいずれかの会合において(合理的に考えると、最初の会合、すなわち少なくとも四月七日会合は含まれることになろう)、H14が高槻森林観光センターの入口の橋の所まで出て甲が来るのを出迎えたことを認めることができようが、右場所において甲を出迎えたのは、H14の供述によると、同センターは、「道路からちょっと奥まった所にあり、看板は出ているが、初めて来る場合は入口を見落としてしまうことがよくあるので、入口の橋の所まで迎えに出ておく方がよい」からであるとされている(<証拠>)。すなわち、単に、大阪府議会議員が来るからとか、参院選立候補予定者が来るからという理由ではなく、同センターへの入口を見落とす可能性があるという現実的な理由があって、右場所で出迎えたとされているのである。

しかし、捜査段階におけるH1やH14の供述をみても、甲がどのような車で同センターに来るのか等、出迎える側にとって甲の乗車した車両を識別するのに役立つ情報を、H1側が事前に甲側から入手しようとした形跡はなく、かつ、七月二七日の段階のH1の供述においては、H1側から甲側に対し、H14が迎えに出るとの情報が伝えられたとされていたが、七月二八日以降のH1の供述においては、H14が迎えに出ることについて甲側に連絡した形跡もないのである。

もっとも、関係者が、客観的にみて常に合理的な行動をとるとは限らず、ただ単にH14が高槻森林観光センター入口の橋の付近で出迎えたという捜査段階におけるH14らの供述が、それ自体不自然であると断定することはできないであろう。

しかし、H148.6検面7項によると、H14は、M11運転車両に乗車中の甲の顔を見て、目的車両であると識別したことになるところ、そのような識別が可能であったとすれば、同車両は相当程度走行スピードを落としていたものと考えられるが、前記のとおり、甲やM11の捜査段階における供述をみても、これを窺わせるものはない(むしろ、M11は、同センターに向かっての走行態様について、「山の中の道は、相当に曲がりくねっておりましたが、道路は舗装してありましたからタイヤをきしませながらもハンドルを右へ左へと忙しく切って、かなりの高速度で走れました。そして、そのパンフレットの建物の前辺りで甲さんを降ろし、私は、その付近の駐車場で車を停め、甲さんが戻ってくるのを待っておりました」と述べ、槻の郷荘に至るまで相当の高速度で走行した旨のみを強調する供述をしているのである(<証拠>))。

右の点に関する供述が録取されていないからといって、そのような事実がなかったと断定することはできないが、この点を含め、槻の郷荘到着前後に関する甲やM11の捜査段階における供述は、甚だ具体性に乏しいものといわざるを得ないであろう(もちろん、甲やM11にとっては、仮に、四月の三回の会合当日槻の郷荘に行っていたとしても、当時、忙しく走り回って行っていた挨拶回りの一こまにすぎない。しかし、槻の郷荘は、所在場所や周囲の環境からみて、挨拶回りの場所としては印象に残りやすい場所であると思われるし、関係者の捜査段階における供述によると、四月七日会合当日は、槻の郷荘付近では季節外れの小雪がちらついたということであり、特に同日の出来事は記憶に残りやすいものではなかったかと思われるのである)。

(5) このように、H1の捜査段階における甲の出迎えに関する供述がるる変遷していることについては、そもそもH1の記憶があいまいであった可能性があることや実際に出迎えたH14の供述の影響によるものとして、説明できないわけではないが、変遷の程度が小さくないことや、これに関連して右(4)の問題点があることに照らすと、H1の右供述がるる変遷している点に関しては、そもそも四月の三回の会合には甲が出席しておらず、したがってまたH14が甲を出迎えた事実も存在しなかったからではないかとの疑いを入れる余地があるといわざるを得ないのである。

二 四月の三回の会合当日の甲の退出状況等に関する関係者の供述

1 問題の所在

H1を除く被告人、相被告人、死亡被告人及び確定者の四月の三回の会合に関する検面をみると、それぞれ、おおむね、①供述者の身上・経歴、②H1との関係、H1後援会の会員か否か、③槻の郷荘での会合に出席するようになった経緯、④四月の三回の会合当日の出来事(槻の郷荘に参集した状況、出席者の着席位置、司会者、H1及び甲の挨拶、会合の趣旨を了解したこと、乾杯の状況、その後の宴会の状況、供述者が槻の郷荘から帰った状況)、⑤会合の費用を負担していないこと、⑥会合後家族等に甲に対する支援を依頼した状況が録取されている(矢田検事は、関係者に対する取調べに当たり、同検事が尋問事項のメモを作成して各取調べ検察官に配付し、聞き漏らしがないように配慮した旨証言している(<証拠>))。

ところで、関係者の検面をみて注目されるのは、四月の三回の会合における乾杯後宴会開始時以降の甲の動静、特に、同人が宴会の会場から退出した状況に関する供述がほとんど録取されていない点である。そこで、以下、この点について検討することとする。

2 乾杯後宴会が始まって以降の甲の動静、特に、同人が宴会の会場から退出した状況に関する関係者の捜査段階における供述

(一) 甲<省略>

(二) H1<省略>

(三) H13<省略>

(四) H14<省略>

(五) H15<省略>

(六) K20<省略>

(七) 四月七日会合に出席したH1を除く被告人、死亡被告人及び確定者

(1)〜(3)<省略>

(八) 四月一六日会合に出席したH1を除く被告人、相被告人、死亡被告人及び確定者<省略>

(九) 四月二六日会合に出席したH1を除く被告人及び死亡被告人<省略>

3 検討

(一) 以上のような、四月の三回の会合出席者の捜査段階における供述に照らすと、甲は、各会合において、乾杯の後間もなく、出席者の多くには気付かれることなく会場を退出し、かつ、槻の郷荘の一階玄関等までH1やH13らに伴われることもなく高槻森林観光センターから立ち去ったということになろう(捜査段階において、甲の退出状況について何ら供述していない者が存在するとはいっても、現実に供述が録取されていない以上、右認定を左右するものではないというべきである)。

そうすると、問題は、右認定とは矛盾する、又は実質的に相反すると考えられる、①甲退出の折り、出席者皆で大きな拍手をし「頑張れよ」などと叫ぶ者もいたという、四月七日会合における甲の退出状況に関するH1の供述(前記2―(二)―(1))、②甲はH1の案内で帰ったという、四月七日会合及び四月二六日会合における甲の退出状況に関するK20の供述(前記2―(六))、③乾杯後甲及びH1が退出し、H1だけが戻ってきたという、被告人M4(ただし、同被告人はH1だけが戻ってきた点についての供述は録取されていない)及び同D4の四月七日会合における甲の退出状況に関する各供述(前記2―(七)―(1)―ウ及びエ)、並びに、同趣旨の同K16の四月二六日会合における甲の退出状況に関する供述(前記2―(九)―(1)―ウ)、④挨拶後乾杯前に甲が退出したという、確定者O15の四月七日会合における甲の退出状況に関する供述(前記2―(七)―(1)―カ)、⑤「H1先生と甲先生は、飲み食いが始まってからはあちこちに移動した記憶です」という、確定者M8の四月七日会合における乾杯後の宴会の状況に関する供述(前記2―(七)―(1)―キ)、⑥「甲さんやH1さんは、会員に『よろしくお願いします』と言ってビールや酒を勧めており、甲さんは、三〇分くらい後に宴会場を出て行きました」という被告人H6の四月一六日会合における乾杯後の宴会の状況や甲の退出状況に関する供述(前記2―(八)―(1)―イ)をどのように評価すべきかである。

このうち、⑤及び⑥については、四月の三回の会合出席者の検面をみると、乾杯後、H1やH13が宴席を回って酌をしていたことはあきらかであり、これらの者の行動と混同したという説明ができないではないであろう。また、④についても単純な記憶違いの余地があると考えられないではない。

②及び③は、いずれもH1が甲を見送ったという趣旨の供述であるが、これらの供述によると、乾杯後H1が甲とともに会場を出たことになるところ、その場の中心的な存在であるH1及び甲の両名が席をはずしたのであれば、より多くの四月七日会合出席者及び四月二六日会合出席者がその事実に気付くのが自然であると思われるが、前記のとおり、多くの右各会合出席者は右事実について何ら具体的に供述していないのは不自然であるといわざるを得ない。

①の供述が真実であるとすると、相当数の四月七日会合出席者が甲の退出に気付かなかった旨供述している(前記2―(七)―(2))のはいかにも不自然である。そうすると、H1自身の供述が誤りであるということになる。しかしながら、甲が退出する際、出席者が拍手で送ったかどうか、さらに、「頑張れよ」などと叫ぶ者がいたかどうかというような事実は、H1において記憶違いをするような事実とも思われないのである。してみると、H1が、他の多くの会合出席者の供述と矛盾するとしか考えられない①の供述を録取されている事実は、そもそも四月七日会合に甲が出席したという検察官の主張に疑問を抱かせる余地のあるものというべきであろう。

(二) ところで、(一)で述べたとおり、四月の三回の会合出席者の捜査段階における供述によると、甲は、各会合において、乾杯の後間もなく、出席者の多くには気付かれることなく会場を退出し、かつ、槻の郷荘の一階玄関等までH1やH13らに伴われることもなく高槻森林観光センターから立ち去ったということになるのであるが、そもそもこのような事実経過は、いささか不自然ではなかろうか。

甲が各会合を早々に退出した理由については、第一一―二―3で指摘したとおり、H138.4検面(「一、本年四月七日、一六日、二六日に……」で始まる3丁のもの)に当時の同女の考えが録取されているところ、それ自体としては不自然、不合理であるとはいえないであろう。既に第一〇で検討したとおり、四月の三回の会合当日、特に四月七日及び四月一六日における甲のスケジュールは立て込んでおり、同人が槻の郷荘で時間を費やす余裕はなかったものと思われる(もっとも、四月七日については、関係各証拠によると、甲が検察官の主張のとおり午後零時ころ槻の郷荘に現れることが可能であったとすることには重大な疑問があることは、既に第一〇で指摘したとおりである)。

しかしながら、まず、関係者の捜査段階における供述によると、四月の三回の会合において、H1及び甲が挨拶した位置は、司法警察員作成の昭和六一年七月一九日付「公職選挙法違反被疑事件の饗応場所の見分結果並びに饗応接待がなされた際の座敷机の配置状況等について」と題する書面に添付された、槻の郷荘二階大広間についての見取図第3号に⑨と記載された同大広間南隅付近と考えられるところ、同大広間南隅床の間と宴会のため配置された座敷机との間隔はわずか一三〇センチメートル程度しかなかったものと認めることができる。また、死亡被告人O14が四月二六日会合当時撮影した弁護人請求番号二三の一ないし三の各写真、特に、同番号二三の一ないし三の各写真、特に、同番号二三の二及び三の各写真を見ると、H1及び甲が挨拶した位置のごく近くに会合出席者が座っていたことを認めることができる。

そうすると、甲が四月の三回の会合の開催された会場を退出したのは、宴会が始まって間もなくのことであり、出席者が既に酩酊していたとは考えられないのであるから、甲がH1を除く出席者に対しては何ら挨拶することなく会場を出たとしても、相当数の出席者がこれに気が付くのが自然ではないかと思われるのである。

さらに、甲としても、四月の三回の会合当日、乾杯後、間を措かずに次の目的地に向かう必要があったにせよ、会合出席者に好印象を抱いてもらおうと考え、少なくとも早々に会場から退出しなければならない事情を説明し、さらには再度参院選に向けての支援を求めた上、退出するのが自然ではなかろうか。

また、H1としても、わざわざ多数のH1後援会会員らを集めて宴会を開いたわけであり、将来甲が国会議員に就任する可能性を考え、同人を丁重に見送るのが自然であり、宴会会場に座ったまま甲が退出するのに任せたというのはいささか不自然ではなかろうか(なお、H1は、松園巡査部長に対しては、四月の三回の会合において、いずれもH1らが玄関先まで甲を見送りに出た旨供述していたことは、前記2―(二)で指摘したとおりであるが、矢田検事の録取したH1の検面をみても、記憶に残りやすいと思われる、甲を見送ったという自己の作為に関する供述を、不作為の供述に変更しているにもかかわらず、右の点について供述を変更する理由は何ら録取されていないのである)。

このように甲にしてもH1にしても、長く政治に携わっていた人物であり、右に指摘した程度の配慮を働かせるのが自然ではないかと思われるのである。

してみると、翻って、各会合において、甲が、乾杯の後間もなく、出席者の多くには気付かれることなく会場を退出し、かつ、槻の郷荘の一階玄関等までH1やH13らに伴われることもなく高槻森林観光センターから立ち去ったことになる、甲の退出状況に関する各会合出席者の捜査段階における供述については、疑問があるといわざるを得ないのである。

(三) 以上のとおり、大多数の被告人らの検面には、四月の三回の会合当日における甲の言動について、その挨拶の状況が録取されているほかは、退出状況を含めこれといった具体的な内容の供述記載がなく、甲の存在感に乏しい内容になっていて、右各検面のみをもってしては、いまだ甲が右各会合に出席したことについての十分な心証を獲得するには至らないというべきである。

三 A3巡査部長の饗応事件の捜査の端緒に関する証言及び同巡査部長の内偵捜査の結果が七月七日以降の捜査に与えた影響

1 A3の証言を吟味することの一般的な重要性

本件饗応事件の捜査の端緒となった高槻警察署勤務のA3巡査部長の内偵捜査の経緯・内容に関する同証人の証言の大要は、既に第一―一で指摘したとおりである。被告人らの公判廷における供述や確定者らの公判廷における証言、被告人ら作成の供述書によると、捜査段階において自白をした理由につき、多くの者が、捜査官から、既に自供した者があると言われて追及されたことをあげているところ、内偵捜査の段階において、関係者の中で最も早く四月の三回の会合に甲が出席した旨認めた槻の郷荘従業員K20及び確定者M8は、いずれもA3の事情聴取を受けて右事実を認めるに至ったものであり、内偵捜査の経緯・内容に関するA3の証言の吟味は、極めて重要な意味を持つといわなければならない。

2 T21に対するA3の事情聴取

(一) 第一―一―7で指摘したとおり、A3証言によると、同証人が、四月の三回の会合は甲の応援のための会合ではないかとの疑いを強めたのは、槻の郷荘で受付を担当していたT21に対する事情聴取の結果であるという。

(二) A3証言によると、T21は、A3に対し、

① 四月中に、H13がある紳士を槻の郷荘の一階入口まで送り、玄関口で片膝をついてその紳士を見送ったこと

② 三月末か、四月初めころH1から電話があり、高槻森林観光センター職員のT23が応対したが、同人はH1との会話の中で甲先生云々という話をしており、電話が終わってT21が「予約ですか」と尋ねると、T23は「いや違う、今度な、府会議員の甲先生が来るらしいわ」と話していたこと

③ 五月の会合には二〇名くらいの婦人が集まったが、槻の郷荘の従業員から、その席に甲の妻である甲2が出席していたらしく、甲が選挙に落ちても食堂か何か店をやっており、生活はやっていけるという話があったことを聞いたこと

を供述し、A3としては、四月の三回の会合が甲のために行われた会合である可能性を強く認識したという。

(三) 検討

(1) まず、右(二)―①ないし③を通じ、真実T21がA3に対し、これらの供述をしたとするならば、その重要性からみて、A3において、何故正式に供述調書の形でT21の供述を証拠化しておかなかったのであろうか。しかも、T21については、七月一七日付でA3自身が員面を録取しているのであるから、その機会を利用してでも、T21の右供述を録取する機会は十分にあったといわなければならない(なお、T217.17員面においては、四月の三回の会合の代金の内訳や、五月一七日、すなわち婦人部の会合があった日、T21がH13から右代金の支払いを受けた事実等が録取されているにすぎない)。

(2) さらに、(二)―①については、H13の公判廷における証言(六五回H13証言)に照らすと、T21が目撃したのは、H13が四月二六日会合に出席した江村高槻市長を見送った際の状況として十分説明の付くことであると思われる。

(3) 次に、(二)―②については、T21の供述を調書化しなかったのみならず、何故、H1からの電話に応対したT23自身から事情を聴取し、調書化しなかったのか、これもまた理解に苦しむところである。なお、T23については、員面の存在は不明であるが、H1による四月の三回の会合の予約状況を録取した七月三一日付の検面が存在することは、既に第八―五で指摘したとおりであるが、同検面には、前記(二)―②に沿う供述は何ら録取されていない。

(4) 最後に(二)―③であるが、H13は公判廷において、五月一七日の会合は、参院選とは無関係の自民党高槻支部婦人部の集いであり、甲2は出席していなかった旨証言し(六五回H13証言)、甲2も公判廷において、五月一七日の槻の郷荘での会合には出席したことはないと明確に証言している(六八回甲2証言)のであって、検察官から五月一七日の槻の郷荘での会合に甲2が出席していたというその他の立証がない以上、同会合に甲2が出席していたと認定することはできないというほかないのである。

(5) 以上の検討によると、A3において、四月の三回の会合が甲のための会合であるとの可能性を強く認識することになったという、A3に対するT21の供述は、それ自体証拠化されているわけでもなく、また、本件各証拠によってその内容が裏付けられているわけでもないのである。したがって、T21の供述に関するA3の証言に証拠価値を認めることはできないというほかない。

3 K20に対するA3の事情聴取

(一) 第一―一―7及び8で指摘したとおり、A3証言によると、同証人は、前記T21の供述により、四月の三回の会合は甲のために行われた会合である可能性を強く認識したところ、四月の三回の宴会を体験した者から更に事情を聴取した方がよいと判断し、六月二〇日ころ、K20の自宅を訪問したという。

(二) A3証言によると、当初情報提供を拒否したものの、K20は、A3の説得により、

① K20は、四月初めと四月末の会合の接待を担当したが、H1が会場まである紳士を導き、会合が始まると、カラオケのマイクを使い参院選に出馬する甲を招いているという紹介をし、その後甲もマイクで挨拶したこと

② H1は、甲は今回参院選に出馬するが非常に知名度が低く苦戦を強いられている、皆さん一つよろしく、と挨拶し、甲は、H1が言ったとおり非常に激戦で苦戦を強いられているので皆さんの力添えをよろしくと挨拶したこと

③ 五月の会合では、甲の妻である甲2を見たこと

を、供述したという。

(三) 検討

(1) まず、六月二〇日ころの事情聴取当時、何故、A3がK20の右(二)―①ないし③の供述を証拠化しなかったのかという疑問の残ることは、T21に対する事情聴取について検討したところと同様である。

(2) 次に、A3は、七月九日、高槻警察署においてK20を取調べ、供述を録取しているところ、K207.9員面の記載をみると、四月初旬ころと四月下旬ころの二回、H1の主催したそれぞれ約五〇名ほどの出席者の宴会の接待をしたこと、その席にはH1に伴われて甲が出席したこと、五月の会合には、婦人約二〇名が出席し、この中にはH13やH14夫婦がいたが、出席者は政治の話など随分難しい話をしていたこと等を録取されていることは認められるものの、右(二)―①ないし③の内容に沿う供述は、全く録取されていないのである。

仮に、A3の証言が真実であり、六月二〇日ころの事情聴取において、K20が右(二)―①ないし③の供述をしていたとすれば、これらの供述は、K20の供述する四月初旬及び下旬の会合並びに五月の会合が、甲のための会合であったことを推認させる意味を持つことは明らかであり、A3としては当然七月九日の取調べ時においてもK20を追及し、右(二)―①ないし③に沿う供述を引き出そうとするのが自然であり、そのような追及が行われれば、六月二〇日ころの事情聴取においては供述していたのであるから、K20としても右(二)―①ないし③に沿う供述をしたはずであると思われるのである。

しかるに、右のとおり、K207.9員面に、右(二)―①ないし③に沿う供述が何ら録取されていないのは、不可解というほかない(なお、K20は、七月二一日、矢田検事の取調べを受け、同日付の検面が作成されているが、同調書中で録取された、H1及び甲の挨拶の内容は、四月七日会合及び四月二六日会合を通じ、それぞれ、「今度の参議院選挙ではここにおられる甲先生をよろしくお願いします」、「私が甲です。参議院の選挙に出ようと思っておりますのでよろしくお願いします」というものであり、これもまた、右(二)―②に沿う内容ではない(<証拠>))。

(3) また、五月の会合への甲2の出席事実も、各証拠によると、認定できるものではないことは、既に指摘したとおりである。

(4) そうすると、A3の証言する、六月二〇日ころのK20のA3に対する供述内容についても、にわかに措信することはできないというべきである。

4 確定者M8に対するA3の事情聴取

(一) 第一―一―9及び10で指摘したとおり、A3証言によると、K20の事情聴取を終えた同証人は、更に石橋をたたく意味で、会合出席者から事情を聴取することとし、まず被告人T5に接触して五、六名の会合出席者を教えてもらい、これらの者の身辺捜査を行った上、元国鉄職員すなわち公務員であったことに着目して、確定者M8から事情を聴取することとし、六月二二日ころ、当時行動を共にしていた山下武史刑事とともにM8の自宅を訪問したという。

(二) A3の証言によると、その際、M8は、当初供述を渋ったが、A3の説得により、槻の郷荘での会合で甲支援の挨拶があったことを述べたところ、A3としては、翌日もM8が同様の供述をするならばM8の供述はほぼ間違いのないものであろうと考え、その日はあえて供述調書の録取をせず、翌日再びM8方を訪れて事情を聞くと、M8の供述内容が変わらなかったので、会合の模様、挨拶の内容、御馳走の内容等を録取して供述調書を作成し、また、M8が甲の座った位置を記入した見取図を書いたので、調書に添付したという。

(三) A3の録取したM86.23員面の存在及びその記載からすると、六月二三日、A3がM8方を訪れた際、槻の郷荘での会合に甲が出席し、H1及び甲が参院選における甲に対する支援を訴える挨拶をした旨のM8の供述が録取されたことは明らかである。

(四) 一方、M8は、第一四回公判及び第六二回公判において、捜査段階において作成された供述調書に関し、四月七日会合に甲が出席したことや同会合においてH1及び甲が参院選における甲に対する支援を求める挨拶をしたという部分は、いずれも虚偽であると証言している(<証拠>)ところ、右6.23員面が録取された経緯については、第六二回公判において、次のとおり証言している(<証拠>)。<省略>

(五) これに対し、A3は、公判廷において、事情聴取の当初M8は会合の内容等教えてくれなかったが、M8は元国鉄職員であり、責任感は持っていると思い、その責任についてM8に自覚させ悪いことは悪いことだということで説得していくと、話せば話すほどM8はA3らの使命を理解してくれ、大分時間がかかり苦労したが、(結局真相を)話してくれた旨証言している(<証拠>)。

(六) 検討

(1) 前記のとおり、六月二三日ころM8の自宅で行われた同人に対する事情聴取の状況に関するA3の証言内容とM8の証言内容は、著しく相違している。

(2) ところで、M86.23員面の記載をみると、M8が出席したのは、四月二六日ころの会合であった旨の供述が録取されている(<証拠>)ところ、M87.7員面の記載によると、七月七日のA3の取調べにおいては、M8が出席した会合の日付について、四月六日の日曜日に行われた原地区の村祭りの翌日であったとする供述を録取されていることが明らかである(<証拠>)。

この間の事情について、A3は、公判廷において、検察官の尋問に対し、「当初、本人は四月の二六日ごろと記憶しておる、しかし、その日にちは定かでない、四月中であったことには間違いないが、ということで、調書のほうは四月二六日ごろと作成しましたが、七月七日、再度本人を呼び出し調べた結果、あれは私の記憶違いで四月の最初に行われた四月の七日に私は出席したという訂正がありました」と証言している(<証拠>)。

しかしながら、四月七日はM8の居住する原地区の村祭りのあった翌日であり、四月七日の会合に出席したということは、M8の記憶に残りやすいものであったと考えられること、仮にA3の証言が真実であるとすると、自分の出席した会合の日付すら記憶していなかったM8において、自分の出席しなかった四月二六日会合の日付を記憶していたとはおよそ考えられないこと、M8に対する事情聴取を行った当時、既にA3は槻の郷荘において予約受付簿を閲覧し、四月七日、四月一六日、四月二六日の三日についてH1が会合の予約をしたことを了知していたこと(第一―一―4参照)等の事情に照らすと、M86.23員面においてM8の出席した会合の日付が四月二六日ころと録取される結果となったのは、六月二三日当時、A3において、M8の出席した会合の日付について同人から十分事情を聴取しなかったためであると推察されるのである。

(3) また、第六二回公判におけるM8の証言をみると、同証人は、6.23員面に録取された、甲が四月七日会合に出席した事実並びにH1及び甲が参院選における甲に対する支援を求める挨拶をした事実が虚偽であることを証言する一方で、A3の追及に対し、甲の顔を知らなかったので、甲が出席していたかどうかは分からないと答えた旨証言していることや、刑事から「来てた」と言われると「ほんまに来てはったんかな」と思ったかのような証言をしていることが注目される。

もっとも、M8は、四月七日会合以前、はっきりはしないが甲の顔写真の出ているポスターを見たことがある旨証言している(<証拠>)。したがって、四月七日会合当時甲の顔を知らなかったという第六二回公判におけるM8の証言の信用性には、疑問を差しはさむ余地がないではないが、M8の証言によると、同証人は、バスの中から五、六メートルないし一〇メートルの距離を置いて右ポスターを見たことがあるにすぎず、第六二回公判における四月七日会合当時甲の顔を知らなかったという証言も、当時甲の素顔は見たことがなく、ポスターで見た顔についても鮮明な印象までは残っていなかったという趣旨であると解することができるというべきであろう(なお、<証拠>において、M8は、四月七日会合以前、甲のポスターを見たことがあり、甲の名前と参院選に立候補予定であることは知っていたが、顔を見たのは四月七日会合が初めてであるとの供述を録取されている)。

(4) そうすると、まず、右(2)の事情に照らすと、六月二三日ころの事情聴取の状況、特にその際のM8の供述態度に関するA3の公判廷における証言を全面的には信用することはできないというべきであろう。そして、第六二回公判におけるM8の証言態度に照らすと、右(3)で指摘した証言内容からみて、六月二三日ころのM8の自宅で行われた同人に対する事情聴取については、A3から、甲が出席していたのではないかと厳しく追及されたM8において、槻の郷荘での会合に甲が出席していなかったと断定することもできず、結局、当初の甲が出席していたかどうか分からないという供述を維持することができず、最終的には甲の出席事実を認める供述を録取される結果となったのではないかという疑いを払拭できないのである(なお、確定者T17も、第一二回公判において、「(警察官が、甲が)来とったんや、言うから、四、五〇人おられてほとんど知らん人ばっかりやから、その中におったんかいなと思った」と証言しているところ、このような取調べ当時の心理状態に関するT17の証言は、M8の前記証言と同趣旨のものと評価できよう)。

(5) なお、M8の捜査段階における供述については、その他、七月二二日の矢田検事の取調べに対し、出席者の着席状況に関する図面を作成した上、「H1先生と甲先生は飲み食いが始まってからはあちこちに移動した記憶です」と供述している点が注目される(<証拠>。員面には、これに沿う供述は録取されていない(<証拠>))が、この点に関しては、第一二―二で検討したとおりである。

5 まとめ

以上、検討した結果によると、内偵捜査の経緯・内容に関するA3証言のうち、当時のT21及びK20の供述状況に関する部分は、いずれも信用性に疑問があるといわざるを得ず、また、M8の供述状況に関する部分も、これを全面的には信用することはできないといわざるを得ない。

そして、M8の供述経緯については、前記4―(六)―(4)で述べたようなものではなかったかという疑いがあるのである。

6 A3の内偵捜査の結果が七月七日以降の捜査に与えた影響

(一)〜(七)<省略>

(八) このように、本件饗応事件の捜査については、A3巡査部長の内偵捜査、特に確定者M8の自白調書(M86.23員面)の作成により、七月七日、本格的な捜査に着手する以前から、警察側の捜査主任であるE12警部が「十分な心証を取っていた」ほか、各捜査官においても、それぞれが捜査に着手する以前、捜査情報の提供を受け、さらには、現実にM8の右自白調書を閲覧した(官能警部補及び松園巡査部長)結果、四月の三回の会合に甲が出席していたのは、少なくともほぼ間違いのない事実であるとの認識を持っていたのではないかと推察されるのである。

しかるに、M86.23員面を閲覧すれば、捜査官としては、前記のとおり官能警部補が公判廷で証言するように、「違反した人が言っているのだから、間違いない」との心証を抱くのはむしろ自然の成り行きであり、そのような心証を抱くことができたからこそ、七月七日以降本格的な捜査に着手したのであろうが、このような結果を生ずることとなったと推察されるA3巡査部長の内偵捜査が、種々の問題点を持つものであったことは、既にるる指摘したとおりなのである。

四 H14及びH15の供述

1 問題の所在

捜査段階において、H14は、四月一六日会合ではH1や甲の挨拶が始まる前にH15とともに槻の郷荘から帰った旨、四月二六日会合ではH1や甲の挨拶は聞いていなかったかもしれない旨、それぞれ供述し、H15は、四月の三回の会合に関し、甲の出席事実を肯定も否定もしない供述をするに止まっている。

そこで、以下、H14及びH15の供述が右のようなものに止まっていることをどのように評価すべきかについて検討することとする。

2 H14の捜査段階における供述の概要は、既に、第一一―五で指摘したとおりであるが、注目されるのは、次のとおり、末尾部分でそれまでの供述を相当訂正する旨の供述を録取されていることである(<証拠>)。

①②<省略>

3 H15の捜査段階における供述の概要は、既に、第一一―六で指摘したとおりであるが、注目されるのは、三日間ともH15が二階の会場に入った時には、宴会は既に始まっており、H15はH1らの挨拶を聞いたことはなく、甲が各会合に出席していたかどうかは分からない旨供述していることである(<証拠>)。

4 検察官の取調べを受けるまでにH14及びH15が知り得た事情について

ところで、本件各証拠によると、H14及びH15は、検察官の取調べを受ける前、七月七日以降の捜査の進捗状況や、H1やH13の取調官に対する供述状況について、次のとおり、相当の知識を持っていたと認めることができる。

① 七月一八日ころ、H13とともに山根弁護人に面会した際、同弁護人から、四月七日会合に出席した者五〇人中四五人の者が、甲が槻の郷荘に来たことを認めている旨聞かされたこと(<証拠>)

② H13の入院先の内藤病院において、七月二九日及び七月三一日高野弁護人が、七月三一日平田弁護人が、それぞれその日H1に接見した際に、H1から依頼のあった伝言内容をH13らに伝えた際、H14及びH14も同席していた可能性が高いと考えられること(<証拠>。なお、七月三〇日平田弁護人がH14及びH15から事情聴取した際のH14らの言動に関する平田弁護人の証言内容(<証拠>)に照らすと、七月二九日、高野弁護人が、同日H1に接見した後、同被告人から依頼のあった伝言内容をH13らに伝えた際、H14らが同席していたことは明らかである)

③ 八月二日、内藤病院において、H13が矢田検事の取調べを受けた後、H14及びH15は、平田弁護人とともにH13の病室に入り、H13から、同検事の取調べにおいて、同女が、四月の三回の会合に甲が出席したこと及び(三月下旬会合において)現金を供与したことを認める旨の供述調書を録取されたことを聞かされたこと(<証拠>)

5 検討

(一) H148.6検面の末尾部分におけるそれまでに録取された供述の訂正と、H158.7検面に共通するのは、H14やH15が、四月の三回の会合当日、甲の挨拶の現場にい合わせたり、甲を出迎えたり、会合開始時ころに宴会会場にいたりなど、両名が甲と接触する機会のあったことを肯定することになる供述が録取されることを回避する方向で、供述が録取されていることである。

(二) ところで、検察官主張のとおり、四月の三回の会合に甲が出席していたのであれば、いずれの会合においても甲の出席事実に気が付かなかったという趣旨のH15の捜査段階の供述に不自然さがあることは否めないところである。また、右会合の主催者であるH1の息子であり、自分自身自民党に所属するH14が、四月一六日会合や四月二六日会合においては、甲の挨拶の現場にいなかったかの供述(訂正供述)をしているのも、いささか腑に落ちないところである。

(三) もっとも、仮に、H14及びH15に対する検察官の取調べが、H1やH13等において、いまだ捜査官に対し饗応事件を否認している時期に行われたというのであれば、H14やH15の捜査段階における供述が右のようなものに止まっていることも、肉親をかばうものとして理解することができよう。

しかし、右4で検討したとおり、H14やH15は、検察官の取調べ当時、既に、H13や四月七日会合出席者のうちほとんどの者が、捜査官に対し、槻の郷荘での会合に甲が出席したことを認めたことを知っていたものと認定し得る上、更に、H1に接見した弁護人から、同被告人からの、四月の三回の会合には甲が出席していたこと等を捜査官に供述するようにとの伝言(第一五―二、三参照)を聞いていたものと認めることができるのである。

したがって、検察官の取調べ当時、H14やH15において、H1、H13やその他事件関係者の存在を考慮して、検察官に対し虚偽の供述をしなければならない理由は見出しにくいといわざるを得ないのである。

(四) 以上の検討に照らすと、前記のとおり、検察官の取調べに対し、H14が甲との接触の機会のあったことを回避する方向で供述の訂正をし、また、H15が甲の出席を検察官の取調べの最後まで認めなかったのは、当時両名が把握していたと考えられる関係者の供述状況等からみて、両名が真相を述べなかったからではなく、本件各公訴事実が存在しなかったからではないかとの疑問を否定できないのである。

第一三 捜査段階における「罪証隠滅工作」の存在

検察官が、論告において、七月一一日会合は、真実は四月七日会合に甲が出席したにもかかわらず、出席しなかったことに口裏を合わせるための会合であると主張していることは、既に、第五―一―5―(一)で指摘したとおりである。

一般論として、罪証隠滅活動が行われたとすれば、その事実は、犯罪事実の認定に当たり極めて有力な状況証拠となり得るものであることはいうまでもないことであろう。しかし、問題となる被告人らの行動が、真に罪証隠滅を目的とするものであったと断定し得るか否か、換言すれば、犯罪事実が存在しないと仮定した場合、問題となる被告人らの行動が、罪証隠滅目的以外の目的で行われたことについて合理的な説明が可能か否かについては、これを慎重に吟味すべきことはいうまでもないところである。そこで、以下、このような視点に立って、七月一〇日会合及び七月一一日会合について検討を加えることとする。

一 七月一〇日会合

1〜6<省略>

7 まとめ

以上検討したところによると、七月一〇日会合が口裏合わせのための会合であるとの供述を初めて録取した池内巡査部長の七月一一日の被告人D2の供述状況に関する証言は信用し難く、一方、仮に四月七日会合に甲が出席していなかった場合、七月一〇日会合の開催経緯やその状況に関するD2の公判廷における供述も合理性を有するのであるから、結局、七月一〇日会合が罪証隠滅目的以外の目的で開催されたとみる余地があることは否定できないというべきである。

二 七月一一日会合

1〜4<省略>

5 まとめ

以上検討したところによると、七月一一日会合に出席しながら、上申書に署名捺印しなかった者が存在することや、同会合に出席するよう誘いを受けながら現実には同会合に出席しなかった者がいることを考慮してもなお、七月一一日会合の状況や上申書の作成及び提出に関する被告人らの弁解にも、一応の合理性があるのであるから、結局、四月七日会合に甲が出席しなかったと仮定した場合、七月一一日会合が罪証隠滅目的以外の目的で開催されたとみる余地があることは否定できないというべきである。

第一四 確定者の存在

一 問題の所在

本件においては、現金供与事件について、Y7、饗応事件のうち四月七日事件について、T19、T18、M8、F7、O15及びO13、四月一六日事件について、N14、T17、K17、U6及びE9の、それぞれ確定者が存在するところ、これら確定者は、いずれも、捜査段階においては検察官の主張に沿う供述をしていたものの、公判廷においては、右供述は虚偽である旨証言している。

ところで、このように、相当数の確定者が存在することは、通常、それ自体本件各公訴事実の存在を推認させる事情というべきものである(四月二六日事件については確定者は存在しないが、現金供与事件、四月七日事件及び四月一六日事件について確定者が存在することは、検察官の主張する現金供与事件及び饗応事件に至る経緯及びその態様に照らし、ひいて四月二六日事件についても有力な間接事実になるものと考えられる)。

そこで、以下、略式命令に対して正式裁判の申立てをしなかった経緯及び理由並びに正式裁判の申立てをしたものの後にこれを取り下げた経緯及び理由に関する、公判廷における各確定者の証言内容について検討することとする。

二 確定者Y7<省略>

三 確定者T19<省略>

四 確定者T18<省略>

五 確定者N14<省略>

六 確定者T17<省略>

七 確定者K17<省略>

八 確定者U6<省略>

九 確定者M8<省略>

一〇 確定者F7<省略>

一一 確定者E9<省略>

一二 確定者O15<省略>

一三 確定者O13<省略>

一四 検討

1 まず、正式裁判を申し立てながら、後にこれを取り下げた理由に関するO13の公判廷における前記証言は、同証人に対する罰金額(二万円)及び追徴金額(四一一八円)に照らすと、経験則上、十分合理性を持つものと考えられる。

2 次に、O13を除く各確定者の公判廷における前記証言をみると、これらの者が略式命令に対し正式裁判を申し立てなかった理由につては、大要、以下のとおり整理することができよう。

① 正式裁判をするとなると、本件の決着までに相当長期間を要することが予想され、その間の心理的ないし経済的負担が大きく、早く決着を付け本件を忘れたいという気持ちがあった。

② これに対し、罰金額は小額である。

③ 内容がどうであれ(真実でないとはいっても)、警察、検察庁で録取された調書に署名した責任がある。

④ 四月七日会合又は四月一六日会合において、費用を負担せず、ただで飲食したことは事実である。

⑤ ①に関し、本人の年齢又は健康状態を考えた。

3 ところで、これら各確定者なりの理由があったにせよ、本件の真相を知っているのは、ほかならぬ各確定者自身であり、無実の罪に服するはずはないではないか、という疑問があることは否定できない。

4 しかしながら、一方、各確定者については、本件各証拠をみても、特に刑事事件に関し法律的な知識や経験のある者ではないと認められるところ(なお、Y7には、昭和二年から二年間ほど京都地方裁判所に勤務した経歴があると認められるが、同証人は、当時、戦後法務省に移管された登記事務に従事していたものであって、刑事事件や民事事件に関する書記官事務に従事していたものではない(<証拠>))、前記①、③ないし⑤の理由をみると、それ自体不自然、不合理な理由としてその信用性を直ちに否定し得るようなものではないと考えられる。

また、各確定者が納めた金額は、Y7が一〇万円(罰金七万円及び追徴金三万円、同証人は、罰金額と追徴金額の合計金額を罰金額として証言している)、T19、T18、M8、F7及びO15が二万四一一八円(罰金二万円及び追徴金四一一八円)、N14、T17、K17、U6及びE9が二万三八三〇円(罰金二万円及び追徴金三八三〇円)であるところ、②の理由をあげるT18、T17及びU6の弁解も、理解できないではない(なお、M8、F7及びO15の証言にも、②のニュアンスが含まれているものと思われる)。

5 そうすると、結局、O15を除く各確定者の存在については、それ自体、本件各公訴事実の存在を推認させる事情であるということはできるものの、仮に、各確定者の出席した四月七日会合又は四月一六日会合には甲が出席しておらず、各会合が参院選における甲の支援を求める趣旨のものではなかったとした場合、各確定者において、そのような各会合の真相を知っていたにもかかわらず(もっとも、確定者M8及びT17が、捜査官による取調べ当時の心理状態について、警察官から、甲が槻の郷荘での会合に来ていたと言われ、「来ていたのではないか」と思った旨証言している(<証拠>)ことは、既に第一二―三―4で指摘したとおりである)、前記①ないし⑤の理由により、略式命令に対し正式裁判を申し立てなかったことも、経験則上あり得ないことであると断定することはできないと思われるのである。

6 なお、第六六回及び第六七回公判において証人尋問を行った者のうち、Y7、T19、N14、T17及びU6は、前記のとおり、検察官の尋問に対し、いずれも現段階においてもなお本件を争う意思のない旨証言しているが、Y7及びN14の証言内容をみると、検察官の尋問の趣旨を理解しているかどうか疑わしいといわざるを得ないし、その他の者についても、再審手続に関し十分理解をした上で証言しているかどうかについては疑問なしとしないのである。したがって、右各証言を考慮しても、前記5の結論は影響を受けないというべきである。

第一五 捜査段階における弁護人の関与

本件においては、捜査の比較的初期の段階からH1に弁護人が選任されたほか(記録によると、山根弁護人に関する弁護人選任届の作成日付は、七月一六日(同日大阪地方検察庁受理)、高野弁護人に関する弁護人選任届の作成日付は、七月二九日(同月三〇日同庁受理)、平田弁護人に関する弁護人選任届の作成日付は、七月三〇日(同月三一日同庁受理)である)、関係各証拠によると、捜査段階でその余の一部の被告人についても弁護人が選任されているようである(<証拠>)。

この事情は、一般的には、捜査段階での自白、特に弁護人選任後の自白について、その信用性を肯定する方向に働く有力な事情であるというべきである。

しかしながら、本件においては、捜査段階で選任された弁護人の助言その他の活動が、結果的に、関係者に虚偽の供述を開始させる端緒を与えることとなったのではないかと疑われる点が認められる。そこで、以下、この点について検討することとする。

一 七月一七日の山根弁護人のH1に対する接見

1 矢田検事の証言によると、七月一七日午前一〇時三八分から午前一〇時五八分まで、本件におけるH1の主任弁護人である山根弁護人がH1に接見した事実を認めることができる(<証拠>)。

2 H1の取調べを担当した松園巡査部長は、公判廷において、H1が捜査段階において槻の郷荘での会合への甲の出席を認める供述を初めてしたのは、七月一七日であること、七月一七日午前一〇時過ぎ、山根弁護人がH1に接見し「事実を申し上げろ」と忠告したこと、その後、同日午前中H1は、「甲本人は(槻の郷荘に)来ていない。H1が選挙運動の投票依頼の挨拶をした」旨供述したこと、同日午後H1は、「甲本人が来て三回とも選挙の挨拶をした」旨供述したこと、その後H1は、「甲の弟から五〇万円受領した」旨供述したこと、同日夜になってH1は、「甲2からH13が二〇〇万円を受領した」旨供述したこと、及び、これらの供述に関し、H1が自筆のメモを作成したことを証言している(<証拠>)ところ、右メモ四通(「一、私は今回警察に取り調べを受けましたことにつきまして申し上げます」で始まるもの(符52)、「私は甲さんの運動員ではありませんが」で始まるもの(符53)、「当日の私の挨拶の内容について申し上げます」で始まるもの及び「三月前半でありました」で始まるもの)には、おおむね松園が供述するとおりの記載があり、H1において右各メモを作成したこと自体は、H1も公判廷で認めているところである(<証拠>)。

3 一方、H1は、公判廷で、山根弁護人との接見時、「『五〇人のうち、四五人が甲が来たと言っているからその辺をよく考えはったらええのん違いますか』というような進言があったと思います」と供述し、さらに右「進言」が、H1において、甲が槻の郷荘に来たことを認める供述を始めたことに影響があった旨供述している(六二回H1供述)ところ、この点の供述は、右供述中、山根弁護人のH1に対する助言の内容について、「私は甲さんの運動員ではありませんが」で始まる前記メモ(符53)に、「本日山根弁護士先生に約二十分間面接して先生より現在までの警察捜査の経過を聞され又事実の事を早く云った方がよいと注告されました」という記載があることや、H14において、七月一八日ころ、H13及びH15とともに山根弁護人と会った際のこととして、「山根先生が聞いてきはったんかどうか知りませんけども、五〇人のうち四五人の人がしゃべってると、今火事がぼうぼう燃えてんねんやと、要するに火が大きいならんうちに消さなあかんと、だからぼくが行って甲が来てましたというふうに言うて、親父に会わしてもらえと、要するに親父がしゃべってないねやったら、ぼくのほうから説得するから、接見禁止なってるやろうけど、それとなく会わしてもらえるんやったら、ぼくのほうから親父を説得するからというふうに府警本部へ行って言うてこい、と言われた」ことを証言していること(<証拠>、なお、H13もH14と同趣旨の証言をしている(<証拠>))に照らし、十分信用できるものというべきである。

4 以上のように、接見に訪れた弁護人の、単に真実を供述しなさいという助言を越え、それまでの警察による捜査の進展状況を告げ、H1においては、捜査官に対し被疑事実を認めるよう示唆されたものと受け取ったのではないかと解する余地のある、右のような言動の直後、日を置かずして、H1が捜査官に対し初めて甲の出席を認める等の供述をしている事実は、仮にH1の捜査段階における自白が真実である場合に、自白開始の端緒となり得るものであると同時に、仮にH1の捜査段階における自白が虚偽である場合にも、虚偽の自白を開始する動機付けを与えたものとして評価し得るものというべきであろう。

二 七月二九日及び七月三一日の高野弁護人のH1に対する接見並びにH13らに対する伝言

1 高野弁護人の証言の信用性

高野弁護人は、本件訴訟の当事者であり、一般論として、当事者の証言の信用性については、これを特に慎重に検討すべきことはいうまでもないことである。

しかしながら、本件においては、七月二九日及び七月三一日のH1に対する接見当時、同弁護人の記載していた接見メモ二枚(符21及び22)が存在しているところ、右各メモの作成経過に関する同弁護人の証言には何ら不審を抱かせる点はなく、かつ、右各メモの記載自体をみても、改竄等その内容に何ら不審を抱かせる点はない。したがって、右各メモの記載内容は、接見の際のH1の供述内容をほぼ正確に再現していると認めることができ、したがって、右各メモの記載内容に沿う同弁護人の当公判廷における供述もまた、極めて高い信用性を有するというべきである。

また、右各メモには記載されていない点に関する同弁護人の証言も、右各メモに記載されている点に関する同弁護人の接見時におけるH1の供述内容及び同弁護人の証言態度等に照らし、十分信用するに値するというべきである。

2 七月二九日の接見状況及び伝言状況

(一) 矢田検事の証言によると、七月二九日午後四時二五分から午後四時四〇分まで、本件におけるH1の弁護人である高野弁護人がH1に接見した事実を認めることができる(<証拠>)。

(二) 高野弁護人の証言(<証拠>)及び同弁護人作成の接見メモ(符21)によると、その際、H1が、次の点をH13らに伝言するように同弁護人に依頼したことを認めることができる。

① 捜査官に対し、甲が四月の三回の会合に出席したことを認めること

② 捜査官に対し、H14が高槻森林観光センターの橋まで甲を迎えに出たことを供述すること

③ 捜査官に対し、四月の三回の会合について、会合当日H13が甲に連絡したことを供述すること

④ 捜査官に対し、三月下旬会合の際、H1の指示で、H13が田辺、西武、松阪屋のいずれかで買った菓子の土産の中に三万円を入れて出席者に渡したことを供述すること

⑤ 捜査官に対し、聞かれるとおりに供述すること。会合出席者一五〇名のうち一〇〇名が甲が来ていると供述している。

⑥ 捜査官に合わせて、甲2からH13がもらった土産の中に二〇〇万円が入っていたと供述すること

⑦ 捜査官に対し、H14が四月の三回の会合において廊下でうろうろしていたと供述すること

⑧ H14は(捜査官から)隠れるな

⑨ 甲2からH13に、役員三〇名に三万円(ずつ)の金員が流れたこと

(三) 高野弁護人の右証言及びH13の証言(<証拠>)によると、高野弁護人は、H1に接見した七月二九日当日、内藤病院に入院中のH13を訪ね、同女らにH1からの伝言内容を伝えたことを認めることができる。

3 七月三一日の接見状況及び伝言状況

(一) 矢田検事の証言によると、七月三一日午前一一時五一分から午後零時〇五分まで、高野弁護人がH1に接見した事実を認めることができる(<証拠>)。

(二) 高野弁護人の証言(<証拠>)及び同弁護人作成のメモ(符22)によると、その際、H1は、次の点をH13らに伝言するように同弁護人に依頼したことを認めることができる。

① 捜査官に対し、H14が、高槻森林観光センターの橋のたもとまで甲を出迎え、会場に案内したことを供述すること

② 捜査官に対し、三月末の役員会で三〇人にバームクーヘン、カステラを渡したことを供述すること

③ 捜査官に対し、封筒に三万(円)入れて渡したと供述すること

④ 捜査官に対し、二〇〇万円はH1家の金で払うが、後でお礼として(甲から)返ってくるはず、と適当に、(甲2と話を付けたように)供述すること

⑤ 捜査官に対し、(菓子は)バームクーヘン、三万(円)を入れたが、金はH1家で用意したと供述すること(右②のとおり、H1がカステラとかバームクーヘンとか言うので、高野弁護人が最後に確認したところ、H1は、バームクーヘンと述べた)

⑥ (H1は)心身の限界(にある)

⑦ (H13が捜査官にH1からの伝言内容を)言わないと(H1が留置場から)出られない

(三) 高野弁護人の右証言によると、その他、接見時にH1は次の点も述べていたことを認めることができる。

① 後援会の人が自殺する恐れもあるから、早く事件を終結させたい。

② 警察では(捜査官に)合わせた供述をし、法廷で争う。

(四) 高野弁護人の右証言及びH13の前記証言によると、高野弁護人は、H1に接見した七月三一日当日、内藤病院にH13を訪ね、同女らにH1からの伝言内容を伝えたことを認めることができる(なお、高野弁護人の右証言によると、遅くとも七月三一日までに、同弁護人において、接見メモ二枚(符21及び22)をH13に手渡したことを認めることができる)。

4 高野弁護人は、弁論において、(本件各公訴事実が存在し)仮にH1からの伝言内容が真実であれば、「事実のとおり言ってほしい」とだけ伝言すればよいものを、「橋のたもとまで出迎えた」とか「贈り物はバームクーヘン、カステラである」とか、買った先は「田辺屋、西武、松阪屋である」などと伝言する必要は全くない、と主張している。

一方、検察官は、論告において、仮に高野弁護人の証言するような内容のH1からの伝言の依頼があったとしても、H1の自白内容、捜査段階におけるH13及びH14の供述内容は、それぞれ異なっていて、無理に符合させている事実は見当たらないと主張する。

しかしながら、例えば、検察官が現金三万円とともに三月下旬会合出席者に配られたと主張する、菓子の調達先に関するH13の捜査段階における供述については、検察官においても、論告において信用できないと主張しており、当裁判所としても、同様の判断に達したことは、既に第九―二で論及したとおりであるところ、H13が捜査段階においてそのような供述をしたことについては、同女の捜査段階における供述内容に照らすと、H1からの伝言が影響を与えているとしか考えられないのである。したがって、検察官の右主張は、到底採用することができない。

もっとも、H1が、単に「事実のとおり言ってほしい」と伝言せず、既にみたとおり、相当程度具体的な伝言をしたからといって、そのことから直ちに、右伝言のなされた事実をもって、本件各公訴事実が存在しないものと推認させる事情と断定することはできないと考えられる。というのは、本件各公訴事実が存在すると仮定した場合、高野弁護人との接見時、H1は、本件各公訴事実の存在を否定していたのであるから、高野弁護人から、「H1は無実であると言っている」旨の報告を受けるとともに、H1から「事実のとおり言ってほしい」との伝言を頼まれた旨聞かされれば、H13らとしては、本件各公訴事実は存在するにもかかわらず、H1の真意は、捜査官に対し、否認を続けるようにと指示したものと受け取る可能性があり、高野弁護人との接見当時、捜査段階においては本件各公訴事実の存在を認め、公判段階において争うことに決めていたH1の方針に反することとなるため、H1において、それまで捜査官に対して供述していた事実のうち、H13らが供述してもかまわないとH1において判断した真実の供述部分(例えば、四月の三回の会合に甲が出席したこと)と、H1としては、積極的に自分自身の供述と符合させてほしいと考えていた虚偽の供述部分(例えば、前記菓子をH13が購入したこと)を折り混ぜた伝言を依頼したと解釈する余地を否定することはできないと考えられるからである。H1が虚偽の供述部分をも伝言した理由については、同被告人において、将来の公判段階における審理を考え、裁判所に、捜査段階におけるH1らの供述には虚偽の部分があるとの心証を抱かせ、ひいて裁判所の本件公訴事実全体に関する心証形成に影響を与えようとした可能性と、甲側に累が及ぶことを回避することを考えた可能性を考えることができよう。

しかしながら、まず、第一に、伝言当時、真実H1が、将来の公判段階における審理を考え、裁判所に、捜査段階におけるH1らの供述には虚偽の部分があるとの心証を抱かせ、ひいて裁判所の本件公訴事実全体に関する心証形成に影響を与えようと意図していたのであれば、虚偽の供述部分については、H13らと的確に口裏を合わせるため、その具体的内容を確定した上伝言するのが自然であると考えられる。しかし、H1の前記伝言内容をみると、菓子の点については、その種類やH13の購入先についてあいまいな内容となっているし、甲側からの資金の流れについては、七月二九日段階の高野弁護人に対する伝言内容と、七月三一日段階の同弁護人に対する伝言内容に変遷がみられるのである。さらに、第二に、伝言当時、真実H1が、甲側に累が及ぶことを回避することを意図していたのであれば、資金の流れについて、甲2の関与を認めているのは、いささか腑に落ちないのである。

そうすると、このような事情に加え、既にるる検討したとおり、本件関係者の捜査段階における供述をみると、H1の前記伝言にかかわるH1、H13及びH14の供述以外にも、多々信用性に疑問のある供述が存在するという証拠上の問題点を総合して考えると、結局、H1の前記伝言内容は、すべてH13らが真実体験したものではなかったのではないかという疑問を払拭できないというべきである。そして、仮に本件各公訴事実が存在しなかったとすれば、高野弁護人を通じて、H1からH13らに対し前記のような内容の伝言の行われた事実は、捜査段階において、H13らが虚偽の供述をするに至った決定的な事情と評価し得ることは明らかであろう。

三 七月三一日の平田弁護人のH1に対する接見とH13らに対する伝言

1 平田弁護人の証言の信用性

平田弁護人の証言の信用性に関しても、既に検討した高野弁護人の供述と同様の事情がある。すなわち、本件においては、七月三一日のH1に対する接見当時、平田弁護人の記載していたメモが存在しているところ(接見メモ、符17)、右メモの作成経過に関する同弁護人の証言には何ら不審を抱かせる点はなく、かつ、右各メモの記載自体をみても、改竄等その内容に何ら不審を抱かせる点はない。したがって、右メモの記載内容に沿う同弁護人の当公判廷における証言は、極めて高い信用性を有するというべきである。

また、右メモには記載されていない点に関する同弁護人の証言も、右メモに記載されている点に関する同弁護人の接見時におけるH1の供述内容、同弁護人の証言態度等に照らし、十分信用するに値するものというべきである。

2 七月三一日の接見状況及び伝言状況

(一) 矢田検事の証言によると、七月三一日午前一〇時四四分から午前一一時〇四分まで、本件におけるH1らの弁護人である平田弁護人がH1に接見した事実を認めることができる(<証拠>)。

(二) 平田弁護人の証言(<証拠>)及び同弁護人作成の前記メモによると、右接見時の、平田弁護人の質問に対するH1の供述状況は、大要、次のとおりであったと認めることができる。

① 四月の三回の会合に甲は来ていない。

② H14が、高槻森林観光センターの前まで(甲を)出迎えに行ったことはない。

③ H13が、甲に連絡して(甲に)出席してもらったことはない。

④ 甲は、二月の終わりか三月ころにH1宅に挨拶に来た。

⑤ 温泉が出たからということで後援会を開いた。会費は取っていない。度々後援会をやっているが、普通お金はもらっていない。

⑥ 三月末にH1方に三〇人くらい招き、バームクーヘンの下に三万円ずつ入れて渡したことはない。

⑦ (バームクーヘンはどこで誰が買ったか、という質問に対し)分からない。

⑧ 二月二五日ころH1宅で天神祭の集まりあり。

⑨ 甲2から二〇〇万円もらったことはない。

⑩ (甲に対しH1は非常に反感を持っている様子で)甲に対して全く好感持たず。支持なんかしていない。

(三) 平田弁護人の証言(五九回、六〇回平田証言)及び同弁護人作成の前記接見メモによると、平田弁護人の質問に対して右のとおり答えた後、H1は、次の点をH13に伝言するように同弁護人に依頼したことを認めることができる。

① 甲が槻の郷荘へ来たこと

② H14が、高槻森林観光センターの前まで甲を迎えに出たこと

③ H13が甲が会合に出られるように(甲側に)連絡したこと

(四) そして、平田弁護人の右証言によると、同弁護人が、自分が虚偽のことを述べるだけでなく、H13に対してまでそのような伝言をさせるとは、ということで怒ると、H1は泣き出した上、次のように述べたことを認めることができる。

① 後援会は一番大切なもの。

② H13が否認していると、後援会員をもう一回調べ直すことになる(と捜査官から言われている)。

③ そんなことをされると、(H1後援会の)D1会長は自殺するかもしれない。

④ 後援会長に自殺などされたら、(H1の)家族は高槻に住めなくなる。

⑤ (H13が)否認を続けると、H13も逮捕されるかもしれない。

(五) 平田弁護人の証言(六〇回平田証言)及びH13の前記証言によると、七月三一日午後、平田弁護人は、内藤病院で、H14及びH15ら同席の上、H13に対し、前記接見メモに基づいてH1からの伝言を伝えたことを認めることができる。

3 H1から、平田弁護人を通じてH13に対し伝言が行われた事実については、その伝言内容には、前記二―4で指摘した菓子の点や甲2からの資金の流れの点は含まれていないものの、同一時期に行われた伝言が異なる意図に基づくものであったとは考え難く、結局、高野弁護人を通じて行われた伝言と同様に評価することができよう。

また、H1において、平田弁護人に対し、右伝言を依頼した際の心境について、右2―(四)のように述べている点については、その内容は、H1が公判廷で供述する、捜査段階で虚偽の供述をした理由とほぼ一致しているのであって、七月三一日当時から、H1が右2―(四)のように述べていたことは、公判廷におけるH1の右供述の信用性を補強する事情というべきであろう。

四 玉井弁護士の○○教関係者に対する助言

1 H1において、○○教関係者に四月二六日会合に出席してもらおうと考え、H1後援会会員であり、同会高槻中央支部支部長をしていた○○教信者の被告人S1を通じて、○○教高槻お浄め所所長の被告人S5を、四月三日、大阪府高槻市白梅町四番一号所在の西武百貨店六階にある京料理店「たん熊」に呼び出し、H1、S5及びS1の三名で飲食を共にし、その席で、H1がS5に対し、○○教関係者の右会合への出席方を依頼したこと、S5がこれを受諾し、同被告人のほか、被告人F4、同M6、同E8、同S6、同F5、同F6、同U5、同M7、同S8の合計一〇名の○○教関係者が同会合に出席したことは、本件各証拠により十分認めることができるところである。

2 ところで、本件記録によると、昭和六二年一〇月五日に辞任するまでH1を除く本件各被告人の弁護人であった玉井弁護士は、四月二六日会合に出席した○○教関係者に対する同弁護士の助言の状況及び○○教関係者に対する取調べの状況等について、大要、次のとおり証言している(<証拠>)。

(一) 七月二七日夜又は二八日に被告人E7から相談を受け、二八日E7とともに大阪府警察本部へ行き、E12警部と会った。E12から、「事件関係者百何十人すべてが認めている、H1自身も認めている」と言われた。E7には実際に自分が体験したことを言うように、と助言した。同日、E7は、四月二六日会合への甲の出席を認める供述をした(なお、<証拠>によると、同日、同被告人が、同会合への甲の出席を認める供述をしたことを認めることができる)。

(二) 七月二九日、E7の紹介により、被告人S1から、○○教関係者の弁護を依頼された。

(三) 同日夜、○○教高槻お浄所に七、八人の関係者(S1以外は女性であった)が集合し、事情を尋ねたところ、全員が四月二六日会合への甲の出席を否定した。同日捜査官に甲の出席を認めた被告人E8は、隅で小さくなっていた(なお、<証拠>によると、同日、同女が、同会合への甲の出席を認める供述をしたことを認めることができる)。玉井弁護士は、既に呼出しを受けている者には、出頭し、(甲が同会合に出席していたのではないかという)同じ話の繰り返しであれば、警察から帰るように指示した。

(四) 七月三一日ころ、高槻署に弁護人選任届を提出し、同署の藤川警部補に対し、出頭を拒否させる旨の話をした。その後、警察からの呼出しはがきが玉井弁護士の事務所に来るようになった。

(五) その後、被告人S5(連続して出頭)、同M7を除いて警察署への出頭を拒否した。M7については、八月二日付で、槻の郷荘で甲を見たことはないという旨の調書が作成された(なお、<証拠>によると、同日、同被告人は、槻の郷荘で甲を見たことはない旨の供述をしたことを認めることができる)。

(六) 八月四日、玉井弁護士は、大阪府警察本部でE12警部に会った。井上は、「他の人が認めているのに、○○教関係者が認めないのであれば、逮捕せざるを得ない」旨述べた。

(七) 同日、引き続き玉井弁護士は、大阪地方検察庁で矢田検事に会った。同検事は、「甲も認めている。○○教関係者が否認して逃げ得することは許せない、それなりの手続をする」という趣旨を述べた。玉井弁護士は、○○教関係者から逮捕者が出るかもしれないという懸念を持った。

(八) 同日、玉井弁護士は、甲の弁護士である徳矢弁護士に電話し、同弁護士から、甲が捜査官に対し、槻の郷荘で開催された会合に出席した事実を認めたことを確認した。

(九) 同日夜、玉井弁護士は、○○教高槻お浄所に集合した○○教関係者に対し、大要次のとおり、状況を説明し、助言した。

① このまま出頭拒否を続ければ、逮捕者が出るかもしれない。

② 出頭し、ないものはないと最後まで頑張りなさい。

③ 大の男が一生懸命頑張っても、結局落とされている。あなた方が頑張っても限界がある、どうしてもだめだという人は次善の策として一応(捜査官)に合わせ、その上で正式裁判の申立てをしよう。

(一〇) その後、二、三日でほとんどの者の自白調書が作成された(なお、○○教関係被告人の、四月二六日会合への甲の出席等を認める旨の員面の作成日付は、日付の早い順に、F4七月二八日、E8七月二九日、M6、S5、S6、F5、F6及びU5八月五日、M7八月七日、S8八月一三日である)。

3 以上のような、玉井弁護士の証言が、細部に至るまですべて事実に合致したものであるか否かはともかく、関係者の捜査段階及び公判段階の各供述によれば、八月四日夜の高槻お浄所の集会の存在は明らかである。そして、○○教関係者被告人の多くが、四月二六日会合への甲の出席に関する警察官の事情聴取に対し、当初頑強に出席を否認していたことは、E12警部の証言(<証拠>)や、被告人S5を取り調べた高藤巡査部長の証言(<証拠>)、捜査段階における自白調書の作成日付等から明らかであるところ、玉井弁護士の八月四日夜の高槻お浄所における助言のあった翌五日、六名の者が一転して甲の出席を認めるに至り、八月七日には、八月二日付で、槻の郷荘で甲を見たことはない旨の供述調書を作成されていたM7が同じく甲の出席を認めた経緯については、玉井弁護士の助言が影響したものとしか考えることができない。

以上のように、弁護人から、2―(九)のような助言を受けた直後、それまでの捜査官の事情聴取に対し、頑強に四月二六日会合への甲の出席を否認していた○○教関係者の多くが、捜査官に対し、甲の出席や、甲及びH1の甲に対する支援の挨拶があった事実を認める供述をしている事実に照らすと、右助言は、仮に○○教関係者の捜査段階における自白が真実である場合に、自白開始の端緒となり得るものがあるが、仮に○○教関係者の捜査段階における自白が虚偽である場合には、虚偽の自白を開始する動機付けを与えたものとして評価し得るものというべきであろう。

第一六 七月一八日官能警部補に面会した際のH13らの言動及びその際同警部補がH13らに手渡したメモの問題<省略>

第一七 四月の三回の会合には甲が出席していなかった可能性に関する検察官の主張について

一 検察官は、論告において、H1の第六二回公判における供述及びH1作成のメモ四通(「一、私は今回警察に取り調べを受けましたことにつきまして申し上げます」で始まるもの(符52)、「私は甲さんの運動員ではありませんが」で始まるもの(符53)、「当日の私の挨拶の内容について申し上げます」で始まるもの及び「三月前半でありました」で始まるもの)によると、捜査段階において、H1は、まず、甲が四月の三回の会合に出席したかどうかについては触れないまま、各会合の際、H1自身が甲のため挨拶したことを認めたものと認定し得るところ、「一、私は今回警察に取り調べを受けましたことにつきまして申し上げます」で始まるメモ(符52)の内容に照らすと、H1が公判廷において弁解するように、仮に甲が各会合に出席していなかったとしても、H1の挨拶内容を聞いた各会合の出席者は、各会合が甲への投票及び甲のための選挙運動を依頼するためのものであることを認識の上、本件各饗応に応じたことは明白であるといえる、と主張している。

二 「一、私は今回警察に取り調べを受けましたことにつきまして申し上げます」で始まるメモ(符52)及び「私は甲さんの運動員ではありませんが」で始まるメモ(符53)の記載内容、並びに、第三六回及び第三七回公判における松園巡査部長の証言によると、検察官主張のとおり、七月一七日、H1は、まず午前中に、甲の出席事実については何ら記載することなく、四月の三回の会合でH1自身が甲に対する支援を求める趣旨の挨拶をした事実をメモ(符52)に記載し、(ただし、松園巡査部長は、第三六回公判において、右メモを作成した当時、H1は、「甲本人は来てないけど、わたしが選挙運動の投票依頼の挨拶をしました」と供述した旨証言している(三六回松園証言))、その後午後になって、四月の三回の会合に甲が出席した事実及び同人も同人に対する支援を求める趣旨の挨拶をした事実をメモ(符53)に記載したことを認めることができる。

また、検察官主張のとおり、仮に甲が四月の三回の会合に出席していなかったとしても、各会合において、H1が参院選における甲に対する支援を求める趣旨の挨拶をしたのであれば、各会合出席者において、同会合が甲への投票及び甲のための選挙運動を依頼するためのものであることを認識したものと推認する余地が十分にあるといえよう。

三 しかしながら、本件関係者の捜査段階における供述を精査しても、甲の四月の三回の会合への出席事実を否定した上で、H1において、各会合において参院選における甲に対する支援を求める挨拶をしたという事実を述べたものは存在しない。したがって、検察官の前記一の主張に直接沿う証拠は存在しないといわざるを得ないのである。

四 論告における検察官の前記一の主張は、ごく簡潔なものであり、右主張がどのような証拠評価に依拠するものであるのか、特に、検察官において、H1以外の関係者の捜査段階における供述をどのように評価しようとするものであるかは全く明らかでない。推察するに、検察官の右主張は、甲を含む四月の三回の会合に出席した本件関係者の捜査段階における供述は、四月の三回の会合への甲の出席事実、並びに、同会合におけるH1及び甲の参院選における同人に対する支援を求める趣旨の挨拶の事実を中核とするものであるところ、そのうち、甲の出席事実及び同人の挨拶があったとする部分についてはその信用性に合理的な疑いを差しはさむ余地があるとの前提をとった場合にも、H1の挨拶があったことについてはその信用性に合理的な疑いを差しはさむ余地はないという証拠評価に依拠するものなのであろうか。

しかしながら、本件関係者の捜査段階における供述においては、H1の挨拶内容は、すべて甲の四月の三回の会合への出席事実を前提とするものとなっているから(前記符52のH1作成のメモを除く。ただし、同メモには、H1の挨拶の具体的な内容は記載されていない)、甲の出席を前提としないH1の挨拶は、証拠上(符52を除く)、これを認定することができないといわざるを得ず、そもそも右のような方法の証拠評価は成り立ち得ないのではないかという疑問がある(本件関係者が捜査段階において供述する甲が出席した上でのH1の挨拶と、甲が出席をしなかった場合のH1の挨拶は、その趣旨は同一であるとはいっても、具体的な内容に関しては、全く別のものになることは明らかであり、証拠上、言わば前者が後者を包含する関係にあるとはいえないのではないかという疑問がある)。

さらに、仮に、H1の挨拶の部分については、甲の出席という信用性に疑いを差しはさむ余地のある供述部分に影響され、結果的に真相とは異なる内容の供述が録取されることとなったが、要するに参院選における甲に対する支援を求める趣旨のH1の挨拶があったという限度では、証拠として用いることができるという解釈が許されるとしよう。

しかしながら、このような解釈が許されるとしても、さきに述べたように、甲を含む四月の三回の会合に出席した本件関係者の捜査段階における供述は、四月の三回の会合への甲の出席事実、並びに、同会合におけるH1及び甲の参院選における同人に対する支援を求める趣旨の挨拶の事実を中核とするものであるところ、何故、甲の出席事実及び同人の挨拶の事実に関する供述については、その信用性に合理的な疑いを差しはさむ余地があるとしながら、H1の挨拶の事実に関する供述については、その信用性に合理的な疑いを差しはさむ余地がないとの証拠評価をすることができるのか、検察官の主張をみても、この点には何ら論及するところがなく、当裁判所としては、右のような証拠評価に関しては疑問を持たざるを得ないのである。

五 もっとも、検察官が主張するとおり、七月一七日午前中、H1は、甲の出席事実に触れないまま、H1自身が参院選における甲に対する支援を求める趣旨の挨拶をしたことを認めている(符52)から、検察官の主張は、専ら右証拠に基づき、甲は四月の三回の会合に出席していなかったが、各会合において、H1は右挨拶をしたことを認定し得る、という趣旨であろうか(なお、本件審理においては、弁護人から、本件関係者の各員面につき、立証趣旨を「供述経過」とする証拠調べ請求がなされ、当裁判所はこれを採用したところ、被告人らに対する任意の取調べが本格的に開始された七月七日に録取された被告人T67・7員面5項及び確定者T197・7員面9項並びに七月一〇日に録取された被告人T27・10員面6項には、右「一、私は今回警察に取り調べを受けましたことにつきまして申し上げます」で始まるメモ(符52)同様、甲の出席事実には触れないまま、H1が参院選における甲に対する支援を求める趣旨の挨拶をした旨の供述が録取されている。しかし、当裁判所としては、立証趣旨を右に限定した上で各員面を採用したものであり、右T67・7員面、T197・7員面及びT27・10員面に録取された右供述そのものを、検察官の前記一の主張に沿う証拠として事実認定の用に供することは許されないというほかない)。

前記二で指摘したとおり、松園は、第三六回公判において、七月一七日午前中符52のメモを作成する当時、メモにはその記載はないが、H1は、槻の郷荘における会合への甲の出席事実を否定していた旨証言している(<証拠>)。したがって、符52のメモの作成を通じてのH1の供述を、同メモ自体にはその記載はないが、甲の同会合への出席事実は否定し、かつ、H1自身は同会合において参院選における甲に対する支援を求める挨拶をしたことを認めた自白であると解釈する余地はあるといえよう。

しかしながら、H1は、七月一七日午前中、符52のメモを作成した後、同日午後には四月の三回の会合における甲の出席事実を認めている上、甲、M11及びK20を含む四月の三回の会合関係者(ただし、H15を除く)は、いずれも甲が各会合に出席したことを認めているところ、仮に、検察官の前記一の主張が、七月一七日午前中のH1の符52のメモの作成を通じてのH1自白に根拠を置くものであるとしても、結局のところ、甲は四月の三回の会合に出席していなかったが、H1は参院選における甲に対する支援を求める趣旨の挨拶をしたとするものであって、実質的にみて前記四の最終段落で指摘したのと同様の問題があるといわざるを得ない。

六 したがって、当裁判所としては、検察官の前記第一の主張には、到底左袒することができないというほかないのである。

第一八 結語

一 以上、詳細に検討したところによると、本件各公訴事実に関する検察官立証の主要な問題点として、次の諸点を指摘し得るであろう。

① 現金供与事件及び饗応事件の資金の流れがいかなるものであったかは、結局明らかにされず、この点に関する捜査段階におけるH1の供述は大きく変遷し、かつ、最終的な供述は不自然、不合理なものに止まっていること(第五―二―2―(一)参照)

② 現金供与事件については、

ア 検察官において現金とともに配られたと主張する菓子の調達先は結局明らかにされず、この点に関する捜査段階におけるH13の供述には、基本的な事項に変遷があり、かつ、具体性を欠き、信用し難いこと(第九―二参照)

イ 関係者の日記、手帳、カレンダー等をみても、三月下旬会合が開催された痕跡を留めるものがなく、かつ、同会合の開催日に関する捜査段階における関係者の供述には不自然な供述経過をたどっているものが多い上、最終的な供述も不十分なものに止まっていること(第九―三参照)

ウ 三月下旬会合当日の出来事に関する捜査段階における関係者の供述の中には、不自然なものがある上、同会合出席者は同一の体験をしたはずであるのに、印象に残りやすいと考えられる事項について看過し難い供述のばらつきがあること(第九―四、五参照)

エ 捜査の端緒となった被告人K25の捜査段階における供述には、樫田地区からの三月下旬会合出席者に関し、看過し難い変遷があること(第九―七参照)

等の問題点がある上、検察官が主張するとおり、以下の供述は、具体的かつ詳細であり、臨場感に富むものではあるが、

オ 現金の準備状況に関するH1及びH13の捜査段階における供述については、子細に検討してみると、不審な点があると認められること(第九―六参照)

カ 三月下旬会合開始前にH1方から退出したという被告人Rの捜査段階における供述については、六月一五日開催の役員会の存在が右供述に影響を与えた疑いを払拭することができず、かつ、右供述を巡る捜査段階における関係者の供述をみると、相互に矛盾する点があること(第九―八参照)

③ 饗応事件については、

ア 検察官申請証拠を前提にしても、検察官において、四月七日会合当日、甲が検察官の主張する時刻に槻の郷荘に現れることができたと主張している点については、重大な疑問があること(第一〇参照)

イ 四月の三回の会合の開催日時・場所の甲側に対する連絡や、甲の出迎え状況・退出状況等に関する捜査段階における関係者の供述には、多くの変遷がみられる上、不自然な点を含むものや、具体性に乏しいものが少なくないこと(第一二―一―3、4、第一二―二参照)

ウ 内偵捜査に関するA3巡査部長の証言には、その信用性に疑いを抱く余地のある部分が多いこと(第一二―三参照)

二 そして、その他検察官が有利な事情として援用する諸点についても、当裁判所としては、次のような判断が相当であると考える。

① 本件当時のH1らによる甲に対する支援活動等をみても、それ自体、本件各公訴事実の存在を強く推認させるものではないこと(第六参照)

② 従前のH1後援会の活動状況に照らすと、四月の三回の会合の開催に特異な面が認められないわけではないが、この点に関するH1の公判廷における供述も合理性を有するものと認められること(第七参照)

③ 七月一一日会合の開催やこれに基づく上申書の作成提出についても、検察官の主張するような「罪証隠滅工作」としか解釈できないものではなく、別異の解釈が合理的に可能であること(第一三参照)

④ 相当数の確定者が存在することについても、各確定者が申し述べる、正式裁判を申し立てず又はこれを取り下げた理由をみると、直ちに不自然、不合理であると断定できるものではないこと(第一四参照)

三 その他、関係者が捜査段階において虚偽の供述をする動機付けを与えたのではないかと考えられる事情として、捜査段階における弁護人の関与を巡る諸事情がある(第一五参照)。

四 以上の諸点のほか、既に検討した結果に照らすと、その余の点について判断するまでもなく、本件関係者の検察官の主張に沿う捜査段階における供述には、その信用性に合理的疑いを差しはさむ余地があり、検察官は、本件各公訴事実について合理的疑いを差しはさむ余地がないほどに立証を尽くしたとはいえないことが明らかであって、結局本件各公訴事実については、犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法三三六条に則り、各被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官谷村允裕 裁判官植村稔 裁判官伊藤知之は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官谷村允裕)

別紙<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例