大阪地方裁判所 昭和62年(行ウ)38号 判決 1989年11月27日
原告
中川菊雄
右訴訟代理人弁護士
末永善久
被告
天満労働基準監督署長須藤高明
右指定代理人
笠井勝彦
同
堀西修
同
田原恒幸
同
加藤久光
同
山本勝博
同
奥田勝儀
同
水落武
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告が昭和五七年九月三〇日付けで原告に対してなした労働者災害補償保険法による休業補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、板金加工業を営む労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という)上の特別加入者である。
2 原告は、昭和五七年二月九日午後三時ころ、協栄工業が施工する神戸市博物館地下一階空調設備工事現場(以下「本件現場」という)において、空調ダクトの保温巻き工事作業に従事中、脳内出血を発症した(以下「本件疾病」という)。
3 原告は被告に対し、本件疾病について、労災保険法に基づく休業補償給付の請求をしたところ、被告は昭和五七年九月三〇日付けで、本件疾病は業務上の事由によるものとは認められないとの理由で、これを支給しない旨の処分(以下「本件処分」という)をした。
原告は、本件処分を不服として大阪労働者災害補償保険審査官に審査請求をしたが、同審査官は同六〇年三月一八日付けでこれを棄却したため、原告は労働保険審査会に再審査請求をしたが、同審査会は同六二年五月二八日付けでこれを棄却する旨の裁決をし、同裁決書はそのころ原告に送達された。
4 本件疾病は業務上発症したものである。
(一) 本件疾病発症前後の状況
(1) 原告は本件現場において、空調ダクトに巻かれた保温用のアスベストの周囲に板金を巻く作業に従事していた。
(2) 原告は本件疾病の発症前、脚立上に木板を渡して足場を組みその上で右作業をしていたところ、足場を移動させるために一旦床に降り、足場に帰るべく四〇ないし五〇センチメートルの高さに積まれていた鉄パイプの上を歩行中、鉄パイプが回転したため、右足を前に踏みはずしバランスを崩して倒れ(以下「本件転倒」という)、ヘルメットをかぶっていたものの左耳上部をダクトの角で強打し、体重をかけて尻餅をつき、腰を鉄パイプで強打した。
(3) 原告は、本件転倒直後頭がボーッとなり、鉄パイプの中に突っ込んだ右足が動かず、自分で起き上がれなかった。原告は声を出して助けを求め、一緒に付近で働いていた原告の息子二人が、原告の右足を鉄パイプの間から抜き取り、両側から原告の腕をそれぞれの肩に抱えて隣室に連れて行き、約二〇センチメートルの高さの水槽設置用の基礎の上に腰かけさせた。その途中原告の右足は次第に上がらなくなった。原告は首をうなだれ、苦しそうに何か言い、気分がとても悪くなり意識不明となった。二人は原告を足場板の上に寝かせた。
(4) 原告は、直ちに金沢三宮病院に収容され、左レンズ核線状体動脈外側枝の破綻による脳内出血と診断され、入院のうえ翌日血腫除去手術を受けた。原告の意識は右手術後回復した。
(二) 原告の健康状態
昭和五六年五月二三日の健康診断によれば、原告の血圧は一三六/八二、尿検査及び胸部レントゲン検査では異常がなかった。原告は、身長一六三センチメートル、体重五九キログラムで肥満ではなく、高血圧症や動脈硬化症はもとより特段の疾病もなく、健康体であった。
(三) 作業環境
(1) 本件現場は暗く採光器を用いていたが、ダクトが光を遮り、また足場を組んだ上での作業のため、原告はねじれた姿勢での作業を余儀なくされた。
(2) 原告は、しばしばダクトと天井との狭い間にヘルメットをかぶった頭を押し込んで作業をするためなかなか抜けず、頭が締めつけられるような状態となった。
(3) 原告は、前記のように不安定な鉄パイプ上での歩行移動を余儀なくされた。
(四) 現場監督との軋轢
(1) 原告は、昭和五七年一月一八日午後五時ころ、現場監督甲から、中間業者の大阪断熱に作業をしなくてよいと言ったので、既に施工した部分を全部取り外せと要求された。原告はそのことを聞いていなかったので、一〇分程口論となった。
(2) 原告は同年二月初旬ころ、大阪断熱の承諾を得て作業に行ったところ、現場監督乙からまだ作業をしてはいけないと言われた。
(3) 原告は、同月六日、大阪断熱の指示により作業に行ったところ、現場監督甲から五日からの仕事なのに一日遅れたと言って怒られた。どこから作業をしたらよいか聞いたが、分からないと言われた。原告は、午前一〇時ころ来た現場監督乙の指示した場所で仕事を始めたが、午前一一時ころ乙から、他の作業をするから場所をあけてくれと言われたので他の場所へ行き足場を組んでいると、元の場所でやってくれと言われ、右往左往させられ腹が立った。
(4) 原告は同月九日午前一一時ころ、現場監督甲から作業を同月二〇日までに終了させろと言われ、仕事量からみてそれは到底無理だと答えたところ、甲は強硬に同様の命令をし、三〇分位口論となった。
(五) 本件疾病は、右(三)の困難な作業状況、(四)の現場監督との軋轢等による興奮状態が、間接的に血圧上昇の誘因となり、更に本件転倒による肉体的精神的ショックの結果原告の血圧が上昇したため発症したものであり、本件疾病と業務との間には因果関係が認められる。右(二)のとおり原告には脳内出血の素因となる高血圧症や動脈硬化症等はなく、本件転倒により本件疾病が生じたものである。
5 よって、本件処分の取消を求める。
二 請求原因に対する認否及び被告の主張
1 請求原因1ないし3の事実は認める。
2(一)(1) 同4(一)(1)の事実は認める。
(2) 同4(一)(2)の事実のうち、原告は本件疾病の発症前脚立に木板を渡して足場を組みその上で作業をしていたことは認めるが、その余は知らない。
(3) 同4(一)(3)の事実は知らない。
(4) 同4(一)(4)の事実のうち、原告の意識が手術後回復したことは否認し、その余は認める。
(二) 同4(二)の事実のうち、昭和五六年五月二三日の健康診断における原告の血圧値及び尿検査の結果、並びに原告の身長及び体重値は認めるが、その余は知らない。
(三)(1) 同4(三)(1)の事実のうち、本件現場は暗く採光器を用いていたこと、足場を組んでの仕事であることは認めるが、その余は知らない。
(2) 同4(三)(2)、(3)の事実は知らない。
(四) 同4(四)の事実は知らない。
(五) 同4(五)は争う。
3(一) 金沢三宮病院での初診時、原告には意識があり応答可能であった。外観上原告の頭部に外傷はなく、臨床諸検査では頭頸部等の受傷所見はみられず、本件疾病は、左レンズ核線状体動脈外側枝の破綻によるものであり、外傷性脳内出血ではない。
(二) 原告の発症当日における業務は、ダクトに板金を巻く作業であり、日常業務であって特に過重な業務ではないし、原告が発症前において業務に関連した驚愕、恐怖等の突発的かつ異常な出来事に遭遇した事実も認められない。
(三) 原告は本件現場において、発症前一週間のうち、六日と八日に右作業に従事しているが、七日は日曜日で休業しており、その勤務状況及び業務内容は日常的なものであり、特に強度の精神的、肉体的負担を生じる程度の過重な業務が継続していたとは認められない。
(四) 本件疾病は、原告の既存の基礎的病態が加齢や日常生活等における諸種の要因によって増悪し発症に至ったものである。
(五) 以上のように、本件疾病と業務との間には相当因果関係は認められないから、本件処分は適法である。
第三証拠(略)
理由
一 請求原因1ないし3の事実は当事者間に争いがない。
二 (証拠略)、原告本人尋問の結果(但し一部)を総合すれば、次の事実が認められ、この認定に反する原告本人尋問の結果は採用しない。
(一) 原告の経歴及び本件発症前後の状況
(1) 原告は、昭和三三年冷暖房用ダクトの保温作業を行う会社に入社して同作業に従事し、同四一年ころ独立して板金業を営み、空調ダクトに巻かれた保温用のアスベストの周囲に板金を巻く作業(以下「本件作業」という)等を行っているもので、原告は長年本件と同種作業に従事している。
(2) 原告は協栄工業から、本件現場における本件作業を請け負い、昭和五七年一月一一日現場にてパイプ計測を行い、同月一八日、同年二月六日及び八日は一日中本件作業に従事した。同月七日は休日で、原告は自宅で本件作業に用いる板金の準備をした。
(3) 原告は同月九日午前九時ころから、脚立上に木板を渡して足場を組みその上で本件作業に従事した。原告は昼食時には元気であり、特段変わった様子はなかった。原告は同日午後三時ころ、一旦右足場から降りて補助台を少し離れた床に置き、足場に引き返すため、約五〇センチメートルの高さに積まれていた鉄パイプ上を何も持たずに歩行中、右足が滑りバランスを崩して倒れ、鉄パイプ上で尻餅をついて腰を打ち、右足を鉄パイプの間に挟んだ。
(4) 原告は、鉄パイプに狭まれた右足が抜けず、オーイと言って助けを求めた。本件現場で一緒に働いていた原告の息子二人が駆けつけたところ、原告は腰が痛いと言った。二人は、原告の右足を鉄パイプの間から抜き取り、両側から原告の腕をそれぞれの肩に抱えて隣室に連れて行き、約二五センチメートルの高さの水槽設置用基礎の上に腰かけさせた後、他の作業員が持ってきた足場板の上に寝かせた。
(5) 原告は横になったまま車で近くの金沢三宮病院に運ばれた。同病院での初診時、原告には意識があり、構音障害を有していたが応答は可能で、腰は痛くないと述べた。原告の右上下肢には痙性麻痺が認められたが、頭部の外傷、足や腰の傷害は認められず、原告は足や腰部の治療は受けなかった。原告は左レンズ核線状体動脈外側枝の破綻による脳内出血と診断され、即日入院のうえ、翌一〇日脳内にたまった血腫を除去する手術を受けた。
(二) 作業環境
(1) 本件現場ではダクトが入り組んでいたことにより、地下一階で暗いため用いていた照明器具の光が遮られ、また、足場上でねじれた姿勢を余儀なくされ、作業がやりにくいことがあった。
(2) 原告は昭和五七年二月九日午後、ダクトと天井との狭い間に頭を入れて作業をしたいたが、頭を抜くときにかぶっていたヘルメットの庇がひっかかって抜けず、苦労したことがあった。
(三) 現場監督との軋轢
(1) 原告は、昭和五七年一月一八日午後五時ころ現場監督甲から、中間業者の大阪断熱に作業をしなくてよいと言ったのに作業をしたとして、同日施工した分を取り外せと要求され、大阪断熱と話をして欲しいと答えて帰宅した。
(2) 原告は同年二月初旬ころ、大阪断熱の了解を得て本件作業に行ったところ、現場監督乙からまだ作業をしてはいけないと言われた。
(3) 原告は同月六日、大阪断熱の指示で本件作業に行ったところ、現場監督甲から五日からの仕事なのに一日遅れたと言って怒られた。どこから作業をしたらよいか聞いたが、分からないと言われた。原告は、午前一〇時ころ来た現場監督乙の指示した場所で仕事を始めたが、午前一一時ころ乙から、他の作業をするから場所をあけてくれと言われ、他の場所へ行き足場を組んでいると、元の場所でやってくれと言われた。
(4) 原告は同月九日午前一一時ころ、現場監督甲からヘルメットの未着用を注意されるとともに、本件作業を同月二〇日までに終了させるよう言われ、仕事量からみてそれは到底無理だと答えたところ、甲は同様のことを言い、三〇分位口論となった。
なお、原告本人尋問の結果中には、原告は本件転倒の際左耳上部をダクトの角で打撲したとの部分があるが、(証拠略)(いずれも審査請求段階において原告が単独または他の者と連名で作成した書面)にはその旨の記載がないことに照らし、原告の右供述部分は採用できない。
三 右認定事実を基に、原告の業務及び本件転倒と本件疾病との間の因果関係について検討する。
(一) 証人荻野高一の証言によれば、脳内出血の原因は外傷性と非外傷性とに分けられ、外傷性とは頭部打撲などの外力に起因するものをいい、非外傷性とは血管損傷そのものが動脈瘤の破裂、高血圧による血管の破綻など外力を原因とせずに起こるものをいうこと、本件疾病は左レンズ核線状体動脈外側枝の破綻による脳内出血であるが、原告の頭部のその他の部位には損傷が認められないところ、右出血した部位は頭の奥にあって、外力によりその部分のみが損傷を受ける可能性は皆無であることからして、原告の脳内出血は非外傷性の原因に基づくものであることが認められ、この認定に反する証拠はない。したがって、本件転倒による外力の作用により本件疾病が発症したとは認められない。
(二) 原告は、困難な作業状況や現場監督との軋轢が間接的に血圧上昇の誘因となり、更に本件転倒による肉体的精神的ショックの結果原告の血圧が上昇したため、本件疾病が発症した旨主張する。
(1) 前認定のとおり、原告は、照明の光りが遮られ、ねじれた姿勢をとり、狭い間に頭部を入れての作業で頭部を抜くときに苦労したことがあり、作業がやりにくかった面は否定できないが、作業環境が特に劣悪であるとは認められず、原告は長年本件のような作業に従事しているのであって、通常所定の業務内容と比較して、右作業環境のため特に精神的又は肉体的な負担が強度であったとは認め難い。また、前日までの仕事の状況は前認定のとおりであり、原告にとって特に過重なものとは認め難い。
(2) 仕事に関係して、上司、顧客、同業者等との間で多かれ少なかれ軋轢が生ずることは通常のことであり、前記認定の原告と現場監督との軋轢は、そもそもその内容からして、原告に強度の精神的負担を与えたとは認め難いし、前記二(三)(1)ないし(3)の事実については本件疾病の発症日から三日ないし二〇日前のことであり、同(4)の事実についても当日の午前中のことであり昼食時には原告は元気で特段変わった様子は見られなかったことからして、いずれも本件疾病の発症に影響を及ぼしたとは認め難い。
(3) (証拠略)によれば、転倒により著しい精神感動をきたし一過性に血圧が高度に上昇した場合、その血圧上昇を誘因として脳内出血が起こりうることが認められるが、証人荻野高一の証言によれば、本件転倒のように腰や足の打撲に基づく精神的ショックや興奮により、脳内出血が惹起されるとは考え難いことが認められるので、原告が本件転倒により一過性に血圧が高度に上昇し、そのため本件疾病が発症したとは認め難い。
(4) 作業環境、現場監督との軋轢及び本件転倒が競合して本件疾病が発症したと認めることも困難である。
(三) 以上説示のとおり、原告の業務及び本件転倒と本件疾病との間に相当因果関係を認めることはできない。
四 よって、本件処分は適法であり、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 蒲原範明 裁判官 土屋哲夫 裁判官 大竹昭彦)