大阪地方裁判所堺支部 平成10年(わ)636号 判決 2001年7月19日
主文
被告人を懲役三年に処する。
未決勾留日数中三六〇日を右刑に算入する。
この裁判が確定した日から五年間その刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(犯罪事実)
被告人は、顔見知りの丙野花子と些細なことから口論となり、同女に南海電鉄堺駅まで呼び出されたことなどから、同所において同女の連れの男達と喧嘩になると予想して、実兄の乙野太郎(当時二一歳)らに加勢を求めた上、平成一〇年七月四日午前零時二〇分ころ、大阪府堺市戎島町<番地略>付近に赴き、同所付近の歩道上において、太郎及び友人四名と共に、丙野が加勢を求めた丁野二郎及び春野一男(当時一七歳)ら一〇名の男女らと対峙した際、春野らから木刀等で攻撃を加えられたことで、自らは同所付近に停車させていた普通乗用自動車の運転席に逃げ込んだものの、同車後方の吾妻橋交差点付近の様子から、その付近で太郎が春野から危害を加えられているものと考え、とっさに、太郎を助けるため、春野に対し、同車を同人に向けて急後退させる暴行を加えて同人を追い払おうと決意し、直ちに同車を運転し、春野らのいる右交差点横断歩道方向を目掛け、左転把して同車を時速約二〇キロメートルで約15.5メートル急後退させる暴行を加え、春野の右手に同車左後部を衝突させるとともに、太郎に同車後部を衝突させた上同人をその場に転倒させて同車で轢過し、よって、太郎に肝臓挫滅等の傷害を負わせ、同日午前一時五一分ころ、大阪市住吉区万代東<番地略>所在の大阪府立病院において、肝臓挫滅に起因する出血性ショックにより同人を死亡させたものである。
(証拠)<省略>
(事実認定の補足説明)
第一 検察官は、本件について、公訴事実記載のとおり、被告人は、実兄である乙野太郎(以下「太郎」という。)が春野一男(以下「春野」という。)と木刀を取り合っているのを認め、自車を同人に衝突させる暴行を加えようと決意し、同人らの方向を目掛けて自車を後退させ同人らに衝突させ、太郎を轢過するなどの各暴行を加えたと主張し、これに対し、被告人は、公判廷において、本件につき、現場へは喧嘩をしに行ったのではなく話し合いをするつもりであったと弁解した上、自車を後退させた結果これを春野及び太郎に衝突させ、太郎を轢過して同人を死亡させたこと自体は認めるものの、自車を後退させる際、春野と太郎が木刀を取り合っているのは見ていないし、自車を春野に衝突させるつもりもなく、そもそも同人らを目掛けて自車を後退させたわけではないと弁解し、弁護人らも、被告人の右弁解に沿って、被告人には暴行の故意はなかった旨主張するので、当裁判所が、判示のとおりの事実を認定するに至った理由を補足的に説明することとする。
第二 まず、前掲関係各証拠によれば、被告人が本件に至った経緯、犯行状況及び現場の状況等については、以下の事実が認められる。
一1 被告人は、判示犯行前夜、友人の戊野三郎と電話で話していた際、傍らにいた友人の東野四郎が戊野の傍らにいた丙野花子に悪口めいたことを言ったことなどをきっかけとして、その後、丙野との間で、互いに激しく罵り合う口論となった。丙野や一緒にいた友人の南野春子らも、被告人から、「お前ら、まわしてまうぞ。しばくぞ。」などと脅されたことに立腹し、丙野は、その後も再三被告人に電話をして言い合いとなり、話をつけるために南海電鉄堺駅に出向くよう求めるとともに、南野の交際相手である丁野二郎にこのことを話して加勢を依頼した。
2 被告人は、丙野の呼出しに応じることなく一旦は帰宅したものの、兄の太郎に丙野と口論したことについて話したところ、太郎から「お前ら、なめられてんちゃうんか。」などと言われ、さらに、その後、被告人は、太郎並びに友人の東野、西野五郎及び甲野一郎らと戊野方に立ち寄った際、丙野から戊野宛にかかってきた電話に出たところ、同様に丙野と激しい口論となって、「お前らしばいたる。」などと怒鳴りつけると、丙野に替わって電話に出た丁野から、「お前、どこのもんだ。手下に言ってさらうぞ。」などと脅された。これに対し、被告人に替わって電話に出た太郎が、丁野をからかうような調子で話をし、「間違い電話じゃないですか。」などと言って電話を切った上、被告人らに対し、「堺に喧嘩に行くぞ。」などと言い、被告人らもこれに同調して、被告人の運転する車(ホンダ・オデッセイ、以下「本件車両」という。)と甲野の運転する車の二台に分乗して、南海電鉄堺駅に出向くこととした。
他方、丁野は、仲間の北野六郎に電話をして仲間を集めるように指示し、六郎は、兄の北野七郎のほか、仲間の春野、甲山八郎、乙山九郎、丙山十郎らと木刀とバールなどを持参して南海電鉄堺駅に集合した。そして、丁野は、集まった仲間らに対し、相手と話がつかなければ、これに暴行を加えてけじめを取るように指示していた。
3 一方、被告人ら六名は、犯行当日午前零時二〇分ころ、南海電鉄堺駅付近に赴き、同駅前の吾妻橋交差点東側路上に車を駐車して、それぞれ降車したところ、同所付近のコンビニエンスストア前の歩道上において、丙野、南野らのほか丁野ら七名の男達と対峙するに至り、太郎と丁野との間で喧嘩腰の口論が始まった。そして、丁野が太郎に土下座して謝罪するよう求めた直後、春野、六郎及び甲山らは、木刀等を手にして一斉に被告人及び太郎らに襲い掛かった。
二1 春野らにいきなり襲い掛かられた被告人らは一斉にその場から逃げ出したが、被告人は、太郎から、「逃げるぞ。次郎、車回せ。」と言われ、歩道上を本件車両に向かって走り出し、本件車両運転席に乗り込んだ。被告人は、本件車両に逃げ込む際、太郎が春野に木刀で殴打される様を目の当たりにし、運転席に乗り込んだ後も、太郎が、春野らに追い掛けられ、吾妻橋交差点北詰の横断歩道方向に逃げていく姿を目にした。
太郎が、右横断歩道上の東端付近で追い掛けてきた春野から木刀で左脇下付近を殴打されるなどしているうちに、春野と向かい合って木刀を取り合う格好となり、互いに手拳で殴り合いながら、右交差点北詰横断歩道あたりから右交差点内まで移動した。
2 一方、太郎が春野と木刀の取り合いをしていたころ、六郎は、被告人が逃げ込んだ本件車両に駆け寄り、バールで同車の左後部座席の窓ガラス、助手席の窓ガラス及び助手席側のフロントガラスを次々と叩き割り、甲山も、本件車両の運転席側から同車に向けて木刀を振り下ろしたり、運転席側ドア付近を足蹴りするなどした。
このように六郎らから本件車両の窓ガラスを割られるなどされたことに対し、被告人は、六郎らを追い払うように本件車両を一旦急前進させた後、直ぐに急後退させ、左転把して時速約二〇キロメートルで本件車両を後退進行させたところ、15.5メートルほど後方の前記交差点横断歩道辺りで太郎と木刀の取り合いをしていた春野の右手に本件車両の左後部を衝突させるとともに、同車後部を太郎に衝突させ、転倒した同人は、同車に轢過されて車体下に巻き込まれ、肝臓挫滅等の傷害を負い、同日午前一時五一分ころ、右傷害に起因する出血性ショックにより死亡した。
三 なお、犯行現場である吾妻橋交差点の路面には、南北道路南行きの第二車線と第三車線の間辺りに、北側停止線より南方約9.8メートルの地点から、約3.2メートルにわたり、幅約0.15メートルの弓状のタイヤ痕(以下、「タイヤ痕A」という。)が印象されており、さらに、タイヤ痕Aを南方へ延長した誘導線上には、長さ約0.35メートルのタイヤ痕(以下、「タイヤ痕B」という。)が印象されており、タイヤ痕Bのすぐ東側には、同痕跡とほぼ平行に、血液や毛髪等の身体組織が付着してできたとみられる路面痕跡が印象されていた。右各タイヤ痕は、その印象ラインの連続性から同一車輪によるものであると認められ、本件車両が春野らの方向に後退進行した際に、同車の装着タイヤによって印象されたものであることが判明している。
第三 被告人の弁解内容
以上の経緯や本件当時の状況について、被告人は、前記のとおり、本件犯行現場には、喧嘩をしにではなく話し合いをするつもりで行ったと弁解した上、本件車両を後退させる際、春野と太郎が木刀を取り合っているのは見ていないし、衝突させるつもりもなく、同人らを目掛けて自車を後退させたわけではないと弁解し、公判廷において、概要、以下のとおり供述する。すなわち、太郎らと堺駅付近に赴いたのは、丙野やその仲間と話し合うためであった、相手に襲いかかられて本件車両に逃げ込んだときには、車を後退させ太郎を乗せて一緒に逃げようと思ったが、実際に車を後退させようとしたときには、本件車両のガラスを叩き割られるなどして身の危険を感じ、太郎を助けようという気持ちよりも怖くてその場から早く逃げ去ろうという気持ちであった、本件車両を後退させようとしたが、慌てていたため間違ってギアがドライブに入ってしまい、車を一度前進させた、そして、本件車両を後退させた際、車両の右側に襲ってくる相手がいたので、体を左の方に倒した格好で、アクセルを力強く踏んで車を急発進させた、その際、ミラーを見たり、後ろを振り返って後方の状況を確認したことはない、本件車両が勢いよく回るように後退したため、人か物に衝突すると思って怖くなり、反射的にブレーキを強く踏んだ、本件車両をまっすぐに後方の交差点まで後退させるつもりだったが、カーブしながら後退したのは、左に体を倒していたため、ハンドルも左に切れてしまったからかもしれない、その後、本件車両が停止した後、無意識でギアをドライブに入れ、アクセルを踏まずに車を少し前進させて停車させ、左後方を見たところ、路上に太郎が倒れているのが分かった、太郎に本件車両を衝突させた際の衝撃はあったのかもしれないが、怖さを感じていたせいか、大きな衝撃を感じたという記憶はなく、車を前進させた時も、何かを引きずっているという感覚はなかった旨供述している。
第四 そこで、本件経緯や犯行状況について、被告人の右弁解を考慮しつつ、被告人の捜査段階における供述その他関係各証拠をみながら、認定し得る事実関係について検討する。
一 まず、本件の経緯は前記認定のとおりであり、被告人が電話で丙野と相当激しく怒鳴り合っていたという状況に加え、太郎と丁野のやりとりやその後の太郎の言動等関係者が供述するところによれば、双方が喧嘩になることを予想し多数の仲間を引き連れて話をつけるべく本件現場に赴いたことは明らかというべきであって、喧嘩をしに行ったのではなく単に話し合いをするつもりであったなどとの被告人の弁解は、右状況に照らして、到底措信し得ないといわなければならない。
二 そこで、本件犯行状況について検討する。
1(一) まず、被告人が本件車両を左後方の春野及び太郎のいる方向に急後退させた状況は前記認定のとおりであるところ、関係各証拠によれば、本件車両は、春野らが向かった交差点横断歩道付近方向に向かい、現場の道路の形状に沿って、左にカーブしながら急後退していることが認められるのであって、このような本件車両の走行状況に照らすと、逃げるために急後退し、相手方からの暴行を避けるため体を倒したことによってハンドルが自然に左転把されて、意図しないままに春野らのいる方向に本件車両が進行したというのは余りにも偶然に過ぎ、被告人が公判廷で供述するところは極めて不自然であるといわざるを得ないのであって、まずもって、本件車両の客観的な走行状況からすれば、被告人は、春野らのいる交差点横断歩道方向目掛けて、意図的にハンドルを左に切って同車を急後退させたと考えるのが相当である。
(二) そして、被告人は、捜査段階においては、本件犯行状況について、以下のとおり供述している。
(1) コンビニエンスストア前付近で、相手方が木刀を振り上げて一斉に襲い掛かってきたことで、太郎が、「逃げるぞ。次郎、車回せ。」と叫んで逃げ出したので、車で逃げるつもりだと思い、太郎を車に乗せて現場から走り去ろうとして、自車運転席に乗り込んでエンジンをかけた、運転席から、太郎が木刀を持った数名の男に追い掛けられて歩道上を後方の交差点方向に走って行くのを見た、その後、バールや木刀を持った男達に自車の窓ガラス等を割られたことで一気に頭に血が上り、運転席窓ガラスを割ろうとした男を、車を急前進させて追い払った直後、右交差点方向から怒鳴り合うような声が聞こえたことから、前屈みの姿勢で左サイドミラーを見たところ、同ミラーに白っぽい服を着た茶髪か金髪の男が横向きに立ち、木刀を振り上げている姿が見えた、その男の姿は、足下から頭までの身体の前半分だけが見えている状態で、さらに、男の足下に白線が見えたので、その男が交差点の横断歩道上に立っていることが分かった、この時、同ミラーに太郎の姿は見えなかったが、太郎が男に木刀で殴られると思い、太郎を助けるため、自分の車を相手の男目掛けて突っ込ませ、その男を追い払おうと考えた、そこで、アクセルを目一杯踏み込み、左にハンドルを切って車を後退させた、相手の男が逃げ遅れてこれを轢いてしまうか、場合によっては、死んでしまうかも知れないことは分かっていたが、その男には無性に腹が立っていたので、そうなったらそうなったで構わないと思っていた、しかし、太郎は「車を回せ。」と言っていたことから、自車の動きに注意していると思っていたので、車を後退させても太郎を轢くことはないと考えていた、そして、車を急後退させたところ、ボーンという音とともに、車の後部が何か余り固くない物に当たる衝撃を感じたため、相手の男に車が衝突したと思って反射的にブレーキを踏み込んだが、その際、何かに乗り上げるような感覚があり、その直後にブレーキが効き出して横断歩道上に停車した、その直後、サイドミラーに映っていた男が逃げて行くのを見て、轢いてしまったのは太郎だと思い、本件車両をどかそうとして、車をゆっくり前進させたところ、何かを引きずるような感覚があり、すぐに、引きずっているものが後ろの方に抜け出た感覚があったので、ハンドルを左に切って車を停止させたところ、太郎が路上に倒れ込んでいるのが分かった旨その状況について供述している。
(2) このように、被告人の捜査段階における供述は、全般的に詳細かつ具体的で、体験した者でなければ供述し得ないような迫真性に富んでいる上、衝突後にブレーキを掛け、何かに乗り上げた後、ブレーキが効き出したという一連の衝突、轢過の状況に関する供述部分も、現場に残されていたタイヤ痕及び太郎の身体組織の付着の状況等の客観証拠に照らして十分に裏付けられており、また、同供述中の、春野に対する暴行の故意を認める部分、すなわち、太郎を助け、春野を追い払うため、左にハンドルを切って自車を春野らの方に後退させたとの供述部分は、前記認定のとおり、本件車両が、春野と太郎が木刀を取り合っていた場所付近に向け、道路に沿って一五メートルほどの距離を旋回しながら後退進行した状況に照らしても自然かつ合理的で、十分に信用できるというべきである。
(三)(1) これに対し、被告人は、公判廷において、春野に対する暴行の故意を認める内容の調書が作成された経緯について、取調警察官から怒鳴られるなどして威圧されたことで、不本意な内容の供述をしたと弁解している。
しかしながら、被告人は、太郎が「ひけー」と叫ぶ声は聞いていないという点、春野が木刀を振り上げている姿を見たが、同人と太郎が木刀を取り合う状況は見ていないという点、車両を後退させて太郎を轢過した回数も一回だけであるという点など、関係者の供述と異なり一貫して自己の言い分を通しているところもみられるのであって、このような供述経過や供述内容をみると、必ずしも被告人が全て取調官に迎合する供述をしていたということもできない上、当初、両親には本当のことが言えなかったとして暴行の故意を否認していたものの、その後、亡兄のことを考えると、嘘をつき続けることに耐えられなくなったとしてこれを認めるに至ったとの説明部分も自然的で十分に首肯し得る。
(2) これに対し、被告人の公判廷における弁解は、以上の認定、判断に照らしても、また、衝突や轢過の感覚を全く感じなかったとの供述内容の不自然性等からみても、たやすく措信し得ないといわなければならない。
(四) 以上のとおりであって、被告人の捜査段階における供述は、春野に対する未必的殺意を認める旨の供述部分はともかくも、その他の本件犯行状況やその際の心的状況などは自然かつ合理的で基本的に信用できるというべきで、これに対して、被告人の公判廷における供述内容はあいまいな部分も見受けられるほか、内容においても、前記のとおり、不自然、不合理といわざるを得ないのであって、その弁解は首肯し得ないといわざるを得ない。
(なお、弁護人らは、サイドミラーに春野が木刀を振り上げて横断歩道上に立つ姿が映っていたが、兄の姿は映っていなかったとの被告人の捜査段階での供述部分が、衝突直前、春野が太郎と木刀を取り合い、揉み合う状態にあったとする複数の関係者の供述や、本件車両の左サイドミラーによる後方の視認状況に関する裁判所の検証結果と矛盾することなどに照らして信用性に問題があるとするところ、関係各証拠によれば、確かに、右供述部分に全面的な信用性を認めることには疑問がないわけではないが、右検証の結果、太郎と春野が木刀を取り合っていたと認められる場所付近においては、同人らの全身の姿が本件車両の左サイドミラーに映ることは明らかであることや、被告人が、捜査段階において、左サイドミラーで、白っぽいシャツ姿の茶髪か金髪の男が木刀を振り上げているのを見たという限度では一貫した供述をしていることなどに照らすと、少なくとも、被告人が、車に乗り込んでから後退する直前までの間に、一瞬にせよ、木刀を持って太郎に危害を加えようとしている春野の姿をサイドミラーで目撃したことは認められるから、右供述部分が、被告人の捜査段階における供述全体の信用性を左右するものではないというべきである。)
2 なお、検察官は、太郎が被告人に春野を轢過するよう指示し、被告人がこれに呼応して本件車両を急後退させたとし、また、被告人が本件車両で太郎を轢過した後、それが太郎であることに気付かないままに、さらに意図して同車を前進後退させて太郎を轢過したとして、被告人には、春野に本件車両を衝突させるという暴行の意図があった旨主張するので、この点に検討を加える。
(一) 確かに、被告人が本件車両を後退進行させる際、春野と木刀の取り合いをしていた太郎が「ひけー」などと叫んだ事実は、春野など関係者の供述によってうかがうことができ、また、太郎が「ひけー。」などと叫んだ直後に、本件車両が春野らに向かって後退進行している状況をみれば、これが被告人が本件車両を後退させた契機となったとみられないではない。
しかしながら、本件車両と太郎との位置関係のほか、太郎が「ひけー。」などと叫んだ時点では、被告人は、本件車両の運転席に座った状態で、六郎らから車の窓ガラスを割られるなどの暴行を受けていたのであって、このような状況をみると、太郎が「ひけー。」と叫んだとしても、被告人が、太郎の何らかの叫び声以上に、これを「ひけー。」という言葉として明確に聞き及びこれを認識し得たのかは甚だ疑問というべきで、この点、被告人は、捜査段階から一貫して太郎の「ひけー。」という叫び声は聞いていないと供述しているのであって、右証拠関係等に照らせば、被告人が、太郎の「ひけー。」などという叫び声を聞き、これに呼応して本件車両を後退させたという事実はにわかには断じ難いといわざるを得ない。
(二) また、本件車両で太郎を轢過した後さらに同車を前進後退させて太郎を轢過したという点についても、太郎の着衣に印象されていたタイヤ痕の状況や本件車両の車底部に残されていた痕跡等の客観証拠を見ても、太郎が本件車両によって二度以上轢過されたことを明らかにうかがわせる証跡はなく、この点に関する関係者の供述も一致しておらず、これを目撃したとの関係者の供述も、その経緯や関係者間の人的関係に照らし、にわかには措信し得ない上、被告人も、捜査段階から一貫してこれを否定しているところであって、このような証拠関係の下においては、右事実を認定することもできないというべきである。
(三) 以上に加え、被告人が自車を後退進行させた理由が、太郎を助けるため、春野をその場から追い払うことにあったことや、被告人が、春野のすぐ近くに太郎もいることを十分に認識ないし予見していたと考えられることなどの事情をも併せ考えると、被告人には、検察官の主張するような暴行の意図まではなかったと認めるのが相当である。
3(一) なお、付言するに、弁護人らは、本件現場における前記タイヤ痕Aの前半部分はコーナリング痕であるが、同後半部分は制動痕であり、このようなタイヤ痕の印象状況は、被告人が衝突前にブレーキをかけたが間に合わず、太郎を轢過してしまった事実を裏付けるものであり、被告人が春野に車両を衝突させようとの意図を有していなかったことの証左である旨主張する。
(二) そこで検討するに、各捜査報告書(一七、一六七)及び証人山口隆の公判供述は、タイヤ痕A及びタイヤ痕Bは、本件車両の右前輪装着タイヤにより印象されたコーナリング痕(横滑り痕)であるとするとともに、タイヤ痕Aの印象途中部分まではタイヤは回転し、同印象最終部分ではタイヤは横滑りして回転していなかったと認められるが、このタイヤ回転の停止が運転者の制動によるものか、横滑りによるものかは不明である旨説明している。そして、その説明するところは、タイヤ痕Aの後半部分の幅が22.5センチメートルと計算され、この幅が再現実験の結果判明した本件車両の装着タイヤの縦滑り痕の幅約18.5センチメートルよりも広いこと、本件車両を制動させた実験により判明した同車装着タイヤの縦滑り痕の条痕は五条であり、これとタイヤ痕A終端部分に認められる条痕の状況は明らかに異なっていることからして、タイヤ痕A終端部分の条痕が縦滑りにより印象されたとは考え難いことなど、これらの実証的な根拠を示して前記のとおり結論付けているもので、その判断及び結果は十分首肯し得るものと考えられる。
これに対し、弁護人らの提出した林洋作成の鑑定書は、右タイヤ痕Aの終端部分が縦縞模様になっていることから、同終端部分の痕跡はリブタイヤがロックされながら縦滑りした痕跡であると判断し、同痕跡は制動痕であると結論付けている。しかしながら、右鑑定は、タイヤ痕Aの終端部分の縦筋が多数重なっているように見える理由につき、縦溝に斜め溝がオーバーラップしているからと説明するのみで、本件車両の装着タイヤの縦滑り痕が、その縦溝の数に相応する条痕として印象されたとの再現実験の結果につき何ら付言しておらず、この点説得力に欠けているといわざるを得ないのであって、前記の各捜査報告書及び証人山口の公判供述のする説明に照らしても、直ちにはその判断は受け入れ難いといわなければならない。
(三) 以上からすると、各捜査報告書(一七、一六七)及び証人山口隆の公判供述において指摘されているとおり、本件タイヤ痕A及びタイヤ痕Bは横滑り痕であると認められ、かつ、右の両タイヤ痕自体からは、被告人が制動をかけたか否かを判断するのは困難であると解されるから、この点は、判示のとおりの暴行の故意を認定する妨げとなるものではないというべきである。
第五 以上の次第であって、被告人の捜査段階における供述をはじめ関係各証拠を総合すれば、本件については、被告人が、太郎が春野らに追われて判示交差点方向に逃げて行ったのを見た上、捜査段階において供述するとおり、本件車両のサイドミラーで確認するなどして、本件車両後方の交差点付近で太郎が春野から危害を加えられているものと考え、太郎を助けるため同車を春野に向けて急後退させて同人を追い払おうとして、春野らのいる交差点横断歩道方向目掛けて、ハンドルを左に切って急後退させる暴行を加えたと認定するのが相当である。
したがって、その暴行の結果、意図していなかったとしても、実兄である太郎にも本件車両を衝突させ、同人を轢過して死亡させたのであるから、本件については、春野に対する暴行罪のほか、太郎に対する傷害致死罪が成立するのは明らかであるというべきである。
(法令の適用)
罰条
暴行の点 刑法二〇八条
傷害致死の点 刑法二〇五条
科刑上一罪の処理 刑法五四条一項前段、一〇条(一罪として重い傷害致死罪の刑で処断)
未決勾留日数の算入 刑法二一条
刑の執行猶予 刑法二五条一項
訴訟費用の負担 刑事訴訟法一八一条一項本文
(量刑の理由)
本件は、判示のとおり、被告人が、知り合いの女性と些細なことから口論となり、同女に呼び出されたことなどから、同女の連れの男達と喧嘩になると予想して、実兄らに加勢を求めて現場に赴いたところ、相手方の多数の者からいきなり木刀等で襲い掛かられ、車に乗って逃走しようとした際、後方の交差点付近で実兄が相手方から危害を加えられているものと考え、実兄を助けるため相手方を追い払おうとし、相手方らのいる方向目掛けて自車を急後退させ、相手方の右手に自車を衝突させるとともに、実兄に同車後部を衝突させた上、同人をその場に転倒させて同車で礫過し死亡させるに至ったという暴行、傷害致死の事案である。このように、被告人は、相手方と喧嘩になると予想して現場に赴いたところ、いきなり一方的に相手方から暴行を加えられ、そのような状況のなか、いかに実兄を助けようとの意図があったとはいえ、車両を相手方に向けて急後退させた被告人の行為は、まことに短絡的で粗暴かつ危険極まりないものというべきであり、その結果、まだ若い実兄を死亡させるに至っているのであって、これらの犯情、とりわけ人一人の生命を奪ってしまったという結果の重大性に照らすと、被告人の刑事責任は重いといわなければならない。
しかしながら、他方、本件に至った経緯をみるに、そもそも喧嘩を予想しながら対峙するに至った双方にそれぞれ非があるというべきであるが、相手方は、木刀等を持参した上いきなり被告人らに襲いかかってきたもので、本件の状況を招来した相手方にも相当の落ち度があるというべきであること、被告人は、実兄に対して暴行を加えることを意図してはおらず、被告人にとって予想外の重大な結果を招来したことは多分に偶発的であり、生命を落とした実兄についてはもとより、被告人にとってもまことに不幸な結果といわざるを得ないこと、そして、被告人が、自己の短絡的な行動によって肉親である実兄を死亡させてしまったことを心から後悔している様子も十二分に見受けられること、両親が、取り返しのつかない結果に悲嘆にくれながらも、一方で、実子である被告人に対する厳しい処罰などは考え及ばず、今後被告人を十分に指導監督していく旨誓っていること、被告人にはこれまで前科はなく、本件当時、ようやく二〇歳になったばかりの若年であったことなど、被告人にとって酌むべき事情も少なからず認められる。
そこで、これら諸般の事情を総合考慮すると、本件については、被告人に対し、主文掲記の刑を科した上、今後の社会内における自力更正に期待して、その刑の執行を猶予するのが相当であると判断した。