大阪地方裁判所堺支部 平成10年(ワ)1117号 判決 2001年10月26日
原告
春川ハナコ
外4名
原告ら訴訟代理人弁護士
石川寛俊
同訴訟復代理人弁護士
阿部隆徳
被告
労働福祉事業団
同代表者理事長
若林之矩
同訴訟代理人弁護士
中村隆
同
平井利明
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告は、原告春川ハナコ(以下「原告ハナコ」という。)に対し、1650万円及びこれに対する平成8年2月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告春山夏子(以下「原告春山」という。)、同春川秋子(以下「原告秋子」という。)、同春川冬夫(以下「原告冬夫」という。)に対し、それぞれ549万9999円及びこれに対する平成8年2月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
1 本件は、春川一夫(以下「一夫」という。)の妻子である原告らが、一夫が死亡したのは、被告が設置・運営する病院で受けた不適切な経皮的冠動脈形成術(PTCA)の結果であるなどとして、被告に対し、不法行為(使用者責任)に基づき、損害賠償を求めた事案である。
2 前提となる事実(当事者間に争いがない事実及び証拠により容易に認定することができる事実)
(1) 当事者
① 原告ハナコは一夫(昭和2年8月24日生、平成8年2月15日死亡)の妻であり、原告春山は長女、原告秋子は次女、原告冬夫は長男である。
② 被告は、労働福祉事業の一環として、大阪府堺市内において、大阪労災病院(以下「被告病院」という。)を経営している団体であり、甲山太郎医師(以下「甲山医師」という。)は、平成8年1、2月当時、被告病院に勤務していた医師である。
(2) 治療経過等
① 一夫は、高血圧症、高脂血症、不安定狭心症で受診していた大川内科医院からの紹介により、平成8年1月5日(以下、特に、断らない場合は、平成8年を指す。)、被告病院の循環器内科を受診した。その結果、一夫は、不安定狭心症と診断され、同月24日、不安定狭心症の精査のための心臓カテーテル検査(冠動脈造影検査)及びその治療を目的として被告病院に入院した。
一夫の担当医は甲山医師であり、主治医は乙川葉子医師(以下「乙川医師」という。)であった。
② 一夫は、同月25日、冠動脈造影検査を受け、右冠動脈遠位部に90%狭窄、左冠動脈主幹部に75%狭窄、左第1対角枝に99%狭窄及び造影遅延が認められたことから、甲山医師は、その治療のため、一夫に対し、PTCAを受けるように勧めた。
③ 一夫は、2月2日午後3時15分ころから、午後5時45分ころまで、第1回PTCAを受けた。
手術開始直前に行われた冠動脈造影検査の結果、左冠動脈主幹部に75%狭窄、左第1対角枝に99%狭窄造影遅延が認められたほか、あらたに左前下行枝近位部に75%狭窄が発見された。そこで、甲山医師は、まず左第1対角枝にPTCAを行い、引き続き左前下行枝にPTCAを行った。
④ 一夫は、同日午後9時50分ころ、胸部不快感とともに嘔吐、血圧低下、徐脈が出現して意識を失い、一旦回復したものの、午後10時15分ころ、再び嘔吐するとともに、全身痙攣が出現し、約1分間、意識も失われた。
⑤ 一夫は、直ちに緊急の冠動脈造影検査を受け、その結果、第1回PTCAの治療箇所とは異なる左冠動脈主幹部がほぼ閉塞していることが判明した。そのため、緊急に第2回PTCAが施行され、引き続き、緊急冠動脈バイパス手術(CABG)が施行された。しかし、その結果は、十分でなかった。
⑥ 一夫は、同月3日午後1時ころ、冠動脈造影検査を受け、その後、左冠動脈主幹部の閉塞部に第3回PTCAが実施されたが、冠動脈の血流及び心機能の改善が認められず、あらたに、経皮的人工心肺装置を装着した。
⑦ 同月15日、一夫は、急性心筋梗塞により死亡した。
第3 争点
1 被告病院の責任原因
(1) 第1回PTCA適応上の過誤
(2) 第1回PTCA手技上の過誤
(3) 説明義務違反
2 因果関係
3 原告らの損害
第4 争点に対する当事者の主張
1 被告病院の責任原因
(1) 第1回PTCA適応上の過誤
(原告ら)
① 血管損傷ないし内膜解離は冠動脈閉塞による狭心症再発や心筋梗塞を惹起する危険な事態であるから、血管内膜のアテローム(粥腫)化が進んで硬くなり、バルーン加圧による新生組織(血管狭窄の原因物質)の破壊とそれによる血流の改善が見込まれないときには、PTCAの適応外となる。
甲山医師は、一夫の血管内のアテロームが硬く、血管拡張効果が必ずしも期待できず、他方で、血管内膜の解離による塞栓物質の発生という危険性が増強するにもかかわらず、一夫にPTCAの適応があるのか否かについての評価が不十分なまま、機械的にPTCAを実施した。
② 狭窄血管が複数ある多枝病変の場合には、狭窄度が強い責任血管からPTCAを行うのが原則であるから、本件でも責任血管である左第1対角枝から実施してその適応の有無を判断し、不適応であると判断される場合には、CABGを考慮すべきであった。
しかし、甲山医師は、左第1対角枝の狭窄度が90%狭窄までしか改善せず、PTCAが明らかに不成功であったにもかかわらず、その時点で、PTCAを終了せず、さらに、左前下行枝近位部のPTCAを行い、既に発生していた解離を促進させた。
③ 左冠動脈主幹部に50〜75%狭窄がある患者に対する同部へのPTCAについては、左前下行枝、左回旋枝のいずれへもバイパスあるいは良好な側副血行がない場合には、絶対的禁忌となるところ、本件では左冠動脈主幹部が75%狭窄であったから、左前下行枝か左回旋枝のいずれかにバイパスあるいは良好な側副血行がない限りPTCAは本来行うことができなかった。
しかしながら、本件では、左前下行枝起始部及び左回旋枝の2分枝が狭窄しており(なお、左回旋枝でも左回旋枝の双方の分枝でも、左回旋枝への血行遮断効果はほぼ同等である。)、これらの血流が十分に保護されないことが明白であったのであるから、PTCAは不適応であるにもかかわらず、甲山医師は、一夫に対し、PTCAを施行した。
(被告)
① WHOのPTCA適応ガイドラインによれば、現在では、PTCAは適応が広く認められており、動脈硬化の進行(血管が硬いこと)は禁忌ではなく、高齢者など動脈硬化性病変が高度な場合にもPTCAは積極的に認められる。
アテロームの硬化はPTCAの適応、不適応の要因ではなく、術中に中等度から高度の硬化が認められたとしても、PTCAの適応は認められ、PTCAの成功率・血管拡張度にどの程度の満足が得られるのかの問題に過ぎない。
また、PTCAの術前検査としては、冠動脈造影検査があり、血管の硬化の程度の精査は一般的には行われていない。
本件では、一夫に冠動脈造影検査を実施した結果、不安定狭心症の責任血管と考えられる左第1対角枝は「99%狭窄造影遅延あり」でほとんど血流が途絶えており、更に左前下行枝に75〜90%狭窄も出現しており、このまま放置すればこれらの狭窄部が閉塞して心筋梗塞を起こして急死する可能性もあったのであり、一夫にPTCAの適応が認められた。
② 左第1対角枝の狭窄改善の程度は99%造影遅延から90%(見る角度によっては50%〜75%)狭窄造影遅延なしで、拡張の程度は不十分であるが改善され、随伴病変である左前下行枝も75%狭窄から25%狭窄へと改善され、血流が確保されるようになったのであって、血管の症状が改善されたことは明らかである。また、左第1対角枝は本幹である左前下行枝から分枝する多数の血管のうちの1つであるから、続いて左前下行枝にPTCAを行ったとしても問題はない。
③ 冠動脈病変の『多枝』とは、左前下行枝・左回旋枝・右冠動脈という冠動脈の本幹の3本を指す。
本症例では、左冠動脈主幹部・左前下行枝(その分枝血管である左第1対角枝を含む。)及び右冠動脈遠位部に狭窄を認めたが、不安定狭心症の責任血管は左前下行枝(左第1対角枝を含む。)であり、左冠動脈主幹部及び右冠動脈遠位部については緊急処置を要するものではなかった。
したがって、本症例における不安定狭心症の原因(責任血管)は、3本の本幹のうち、左前下行枝(その分岐血管である左第1対角枝を含む。)の病変である。
なお、左回旋枝の分枝に有意狭窄は認められなかった。
(2) PTCA手技上の過誤
(原告ら)
元来、血管拡張を目的としてPTCAを行うのであるから、施行する医師は、カテーテル操作に際し、塞栓物質を遊離させることのないように最善の注意を尽くさなければならないにもかかわらず、甲山医師はこれを怠った。
また、甲山医師は、左冠動脈主幹部付近でのPTCA操作に手間取ったことから、左冠動脈主幹部の入口部の血管内膜を損傷させ、それによって生じた解離物が左冠動脈主幹部を閉塞させた。
(被告)
PTCAはアテロームや血管内膜などに物理的力を加える手技であることから、必然的にアテロームの遊離や血管内膜の解離などの一定の危険性を伴う。
甲山医師はPTCAに習熟した医師であり、臨床医療の実践における医療水準に即した最善の注意義務を尽くしてPTCAを行ったが、本症例ではPTCAを行った左第1対角枝又は左前下行枝の血管内膜の解離が逆行性に進展し、第1回PTCA後、4時間30分近くも経過してから、左冠動脈主幹部を閉塞させ、急性心筋梗塞を発症させたものであり、これは予見不可能である。
(3) 説明義務違反
(原告ら)
一夫が甲山医師から不安定狭心症の治療法としてPTCAを勧められた際、甲山医師は、PTCAの危険性につき、「道を歩いていても車にひかれる程度」で心配ないと説明しており、通常の注意さえしていれば事故に遭遇することはないという趣旨に解されるが、実際には、冠動脈造影検査よりも危険性が高く死亡や狭心症、心筋梗塞の合併症が報告されており、事実と大きく異なる。
仮に、一夫が、甲山医師からPTCAの危険性や合併症の発現、さらに、手術しない場合の予後につき具体的な資料に基づく客観的な説明を受けていれば、PTCA実施の緊急性がないことから、その実施について承諾しなかった。
(被告)
甲山医師は、1月26日、乙川医師立会いのもと、一夫及び原告ハツコらに心臓カテーテル検査の所見及び今後の治療方針について説明するとともに、PTCAは心臓カテーテル検査よりも危険度が高く、従来は治療時の死亡率が1%位と報告され、本症例の当時は約1000人に1人の確率と考えられたことから、一夫に対し、約1000人に1人の死亡率と説明した。
また、甲山医師は、一夫及び原告ハナコらに対し、狭心症の危険性・PTCAの手技・PTCAの危険性・術中の不測の事態に対する被告病院の対処法・予後等をわかりやすく説明した「PTCA説明書」を交付して、詳細な説明をした。
一夫及び原告ハナコらは、甲山医師の説明に納得してPTCAを承諾、希望したのであるから、甲山医師はPTCAに関する説明義務を尽くしている。
2 因果関係
(原告ら)
本件でPTCAが行われた部位及び時間が左冠動脈主幹部の閉塞を生じた部位及び時間と密着していること、甲山医師がカテーテル手技に難渋したとの報告があることなどからすると、一夫の心筋梗塞は、カテーテルを体外から血管内に進入させてバルーンを膨らませ、狭窄している血管を物理的力により拡張させる過程で、カテーテルが血管内壁の組織等を遊離させて塞栓物質を生じさせた結果、新たに心筋内血管を閉塞させたことによるものである。
仮に、原告らが、PTCAについての十分な説明を受けて危険性を承知していれば、緊急性もないことから、その実施を回避した。
また、甲山医師が塞栓物質を遊離させなければ、もしくは、発生していた解離を進展させなければ、算悟の心筋内血管を閉塞させることもなかった。
(被告)
甲山医師には過失が存しないのであるから、一夫の死亡と甲山医師の治療行為との間に因果関係は存しない。
3 原告らの損害
(原告ら)
(1) 一夫の損害
一夫は既に現役の職務を全うして年金生活を送っていたので、死亡による損害を算定するに際しては仮定による逸失利益の積算ではなく、68歳の平均余命である14年の人生を喪失させられた人格的地位の侵害を損害として評価されるべきであり、その価値を積算すれば2000万円が相当である。
(2) 原告らの損害
原告らは肉親として一夫の生存により有形無形の幸福や生きがいを得てきた存在であるから、一夫の死亡による慰謝料としては、原告ハナコが500万円、原告春山、同秋子、同冬夫が各166万6666円が相当である。
(3) 弁護士費用
被告は任意に損害の賠償に応じないから、原告らは訴訟代理人に本訴を委任した。
支払うべき実費を含む弁護士報酬のうち、300万円が被告の不法行為と相当因果関係にある損害である。
(4) 合計額
原告らは、一夫の損害金2000万円を法定相続分により分割した1000万円を原告ハナコが、333万3333円ずつをその余の原告らが承継したので、これに原告らの独自の慰謝料を加えた損害に弁護士費用(原告ハナコ150万円、その余の原告ら各50万円)を加えた損害元本は、原告ハナコにつき1650万円、原告春山、同秋子、同冬夫につき、各549万9999円となる。
(被告)
全て争う。
第5 争点に対する判断
1 認定事実
前記第2の2の事実と証拠(甲3、乙1ないし11、乙23ないし28、30、証人甲山太郎、原告春山本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の各事実を認めることができる。
(1) 被告病院への入院まで
① 一夫は、かかりつけの大川内科医院からの紹介により、被告病院の循環器内科を受診した。大川内科医院からの紹介状によれば、高血圧症、高脂血症及び不安定狭心症により算悟を経過観察していたが、平成7年12月28日、安静時の心電図検査でⅢaVFにST上昇を伴う狭心症の発作があり、発作は3か月に1回程度あることから、一度、冠動脈造影検査を要すると思われるので同検査を依頼するとのことであった。
同日、一夫は、運動負荷心電図(トレッドミル)検査を受けた。山田義夫医師(以下「山田医師」という。)は、同検査の結果、Ⅰ〜Ⅲ、aVF、V4〜V6に水平から右下がりのST―Tの低下が認められたことから、一夫を不安定狭心症と診断した。
② 山田医師は、一夫に対し、心臓カテーテル検査の必要性及び安全性につき、「冠動脈造影検査について」と題する書面を交付して説明した。
同書面には同検査が冠動脈の病気を調べる上で最も有用な検査であること、全国的にみると冠動脈造影検査によって約2000人に1人程度の死亡事故があり、死亡に至らない場合でも稀に何らかの余病を発症することがあること等が記載されていた。
③ 1月12日、一夫は心臓カテーテル検査を受けることを承諾したので、山田医師は入院させることとし、検査承諾書の用紙を交付した。
同検査承諾書には、検査内容及び関連事項について必要なことを、患者に対して説明したこと、病名が虚血性心疾患及び狭心症であり、検査内容として心臓カテーテル検査及び冠動脈造影検査であることが記載されていた。
④ 一夫は、1月17日、被告病院の循環器内科を外来受診し、心臓超音波検査を受けた。同検査の結果、壁運動に異常運動は認められず、壁厚も正常範囲であり、左心室機能も正常であったが、左心房の拡大が認められた。また、大動脈弁に少し器質的変化が認められたが、弁の開き具合は良好であった。
(2) 被告病院への入院から第1回PTCAまで
① 1月24日、一夫は、被告病院に入院し、同人の署名・押印がなされた冠動脈造影検査などの検査承諾書を提出した。甲山医師は、平成7年12月28日に胸部痛が出現し、ニトログリセリンの舌下投与により症状は消失したとの一夫の告知内容、安静時心電図検査でST上昇が認められたこと、運動負荷心電図検査の結果、ST―T低下が認められたこと等から、不安定狭心症を疑った。
② 一夫は、1月25日午前9時40分ころから午前10時25分ころまでの間、心臓カテーテル検査(左室造影検査及び冠動脈造影検査)を受けた。
同検査の結果、左室造影検査所見については、左室前壁中央部でやや壁運動の低下が認められた以外に左室機能に異常は認められなかった。冠動脈造影検査の結果は、前記第2の2(2)②のとおりである。
③ 同日午前10時25分ころ、一夫は冠動脈造影検査を終えて、病室に戻ったが、胸部症状、気分不快はなく、出血もなかった。
午後1時10分ころから、一夫に胸部痛が出現したため、ニトロペン1錠が舌下投与されたが、胸部痛は持続した。なお、心電図検査の結果には特に変化が認められなかった。
その後、一夫の血圧が上昇したことから、乙川医師はアダラート1/2錠を舌下投与したところ、午後3時ころになって、胸部痛は消失した。
甲山医師は、一夫の上記症状などから、同人が重症の不安定狭心症であり、放置すると急性心筋梗塞や突然死に移行する場合も多いと考えた。
④ そして、1月26日、甲山医師は、乙川医師の立ち会いのもと、一夫及び原告ハナコらに対し、算悟の左冠動脈主幹部、左第1対角枝及び右冠動脈遠位部が狭窄していること、今後の治療方針について、左冠動脈主幹部に75%狭窄があるが、元々が太い血管であることから血流が保たれており、PTCAの適応がないため、今後、経過観察の上、更に閉塞が進行すればCABGも含めた治療方法を検討すること、今回は左第1対角枝に対しPTCAを実施し、時間や造影剤の量が余った場合には右冠動脈遠位部に対してもPTCAを実施する予定であることなどを説明した。その際、甲山医師は、PTCAは1000人に1人の割合で死亡もあり得るが、不安定狭心症を放置しておくことにより心筋梗塞が起こる可能性が高く、必要な治療である旨述べた。
なお、甲山医師は、PTCAの説明に際して、一夫に対し、「PTCA(経皮的冠動脈形成術)について」と題する書面を交付したが、同書面には、PTCAの概括的な説明や冠動脈造影検査に比べてPTCAの危険度が高く、死亡率が全国的にみて約1%であると報告されており、死亡に至らない場合でも狭心症や心筋梗塞を起こす危険性があること等が記載されていた。
一夫は、PTCAを希望・承諾し、同人が署名・押印した手術承諾書を提出した。
なお、同承諾書には、合併症などとして「開胸手術、死亡、疼痛、血腫、出血、感染」との記載も存した。
⑤ 1月28日午後6時ころから、一夫は胸がチクチクすると訴えたが、心電図上に著変は認められず、心原性の主訴とは考えられなかったことから、乙川医師は経過観察することとした。
⑥ 一夫は、入院当時に下肢に浮腫が認められたことから、1月31日、深部静脈血栓の超音波検査を受けたが、異常所見は認められなかった。
⑦ 2月1日、一夫は腹部超音波検査を受けたが、脂肪肝が認められた以外に異常所見は認められなかった。
(3) 第1回PTCA及びその後の病状等
① 2月2日午後3時15分ころ、一夫は心臓カテーテル検査室に入室し、PTCA前の冠動脈造影検査を受けた。その結果は、前記第2の2(2)③のとおりである。
なお、ガイドカテーテル(ジャドキンズ型造影用カテーテル4センチメートル)が角度的に左冠動脈主幹部に少し入りにくく、同カテーテルを左冠動脈主幹部に留置するのに通常の症例よりも時間を要した。
② 甲山医師は、同日午後4時35分ころから、左第1対角枝のPTCAをインターミディエイト0.014インチのガイドワイヤー及びバルーンカテーテル(スープラ拡張径2ミリメートル)を用いて、6気圧、10気圧、8気圧で1分間ずつ、合計3回拡張を試みた。
その結果、99%狭窄造影遅延であった左第1対角枝は90%狭窄に改善された。
③ 次に、甲山医師は、左前下行枝近位部のPTCAをフロッピーⅡ0.014インチのガイドワイヤー及びバルーンカテーテル(コブラ拡張径3ミリメートル)を用いて、5気圧、7気圧、6気圧で1分間ずつ、合計3回拡張を試みた。
その結果、75%狭窄であった左前下行枝近位部は25%狭窄に改善された。このとき、一部に小さな解離が認められたが、治療を要する程度に達してはいなかった。
④ 同日午後5時45分ころ、甲山医師は、左第一対角枝が原因と考えられる不安定狭心症からひとまず離脱できると判断してPTCAを終了し、午後6時ころ、一夫を冠動脈疾患集中治療室に入室させた。
⑤ 術後、甲山医師は、原告ハナコらに対し、左第1対角枝の開大が十分ではなくPTCAは60点の出来であること、CABGも含めて今後の治療方針を検討する必要があることを告げた。
⑥ 一夫は、冠動脈疾患集中治療室に入室後は、胸に重い感じがすると述べていたものの、収縮期血圧が130台、心拍数が50台であり、心電図上も異常がなく、家族と話もしていた。
⑦ 一夫は、同日午後9時50分ころ、突然、嘔吐し、心電図上も徐脈が出現し、意識が消失した。
直ちに、心マッサージ、酸素吸入を実施し、約1分間で一夫の意識が回復し、数分後には意識が清明となった。一夫は、硫酸アトロピン1A(アンプル)を静注された。算悟の説明によると、急に腰の止血部に拍動感が起こり、嘔吐して、意識を消失したとのことであった。
⑧ 同日午後10時15分ころ、一夫は再び嘔吐するとともに、全身痙攣が出現し、約1分間、意識も失われた。
心電図上、ST低下が認められたことから、午後10時25分ころ、一夫に対し、ニトロペン1錠が舌下投与されるとともに、午後10時30分ころからは、硫酸イソソルヒド・ニトロフィックスが投与され、また、午後10時35分ころには、ミオコールスプレー(ニトログリセリン噴霧剤)が2回行われた。
⑨ 同日午後10時40分ころ、一夫の意識レベル及び血圧が低下したことから、甲山医師はホリゾン2A(アンプル)を投与した。その後、一夫に対して気管内挿管が実施された。
(4) 第2回PTCA
① 甲山医師は、同日午後11時ころ、一夫に対し、緊急PTCAを実施することにした。
その際の左冠動脈造影検査の検査所見によれば、左冠動脈主幹部がほぼ閉塞し、急性心筋梗塞と診断された。
② 甲山医師は、直ちに、大動脈バルーンパンピング(IABP)を行うとともに、パーフュージョンバルーンカテーテル(カテーテル内腔に血流が流れるようになっているバルーンカテーテル)を左回旋枝に留置し、第2回PTCAを実施した。
その結果、左冠動脈主幹部は100%閉塞から50%狭窄に、左回旋枝も100%閉塞から75%狭窄に、それぞれ改善し、左回旋枝への再潅流は成功した。しかし、左前下行枝への再灌流が困難で十分な血流が得られなかったため、CABGを施行することにした。
③ 甲山医師は、原告ハナコらに対し、左冠動脈主幹部が閉塞しており、緊急PTCAを実施したが、不成功であったので、CABGの施行が必要であることを説明し、冠動脈造影検査及びCABGにつき、原告ハナコらの承諾を得た。
原告ハナコは、冠動脈造影検査の検査承諾書に署名・指印し、原告秋子は、「全身麻酔、体外循環下に冠動脈バイパス術を行います。病状、手術の必要性、術式、生じ得る合併症について説明いたしました。緊急手術で手術の危険性は通常より高いと考えられます。総合的に手術の危険性は30%と考えられます。」と記載された手術承諾書に署名・指印した。
(5) CABG
① 2月3日午前0時45分ころ、一夫は、手術室に入室し、全身麻酔が施行された。
② 同日午前1時40分ころ、被告病院の丙田医師、丁沢医師を術者として、CABGが開始され、午前8時に終了した。
術式は、一夫の右下腿から取り出した大伏在静脈を、上行大動脈から左前下行枝へのバイパスと左回旋枝後壁(鈍角枝)へのバイパスを形成するというものであった。
CABG後、鈍角枝へのグラフト血流は40ミリリットル/分、左前下行枝へのグラフト血流は15ミリリットル/分であり、必ずしも十分とはいえなかった。
なお、手術中の人工心肺時間は3時間38分であり、大動脈閉塞時間は1時間47分であった。
大動脈バルーンパンピングを留置したままの状態であったが、一夫は、安定した状態で、午前8時15分ころ、集中治療室に移された。
③ 同日午前8時30分ころ、丙田医師から原告ハナコらに対し、手術結果の説明があり、同医師は、手術内容のほか、一夫の生命の危険性が高いこと、一夫の動脈硬化が強く、今後も動脈硬化が進行した場合には、CABGやPTCAの実施を再度検討しなければならないこと、CABGにより算悟の全身に影響があり、今後、他の臓器についても合併症を発症する可能性があること等を説明した。
④ 術後、一夫に対し、カテコラミン、ドーパミン、ドグダミンを最高容量で投与し、血圧維持のため、アドレナリン、ノルアドレナリンも投与されたが、血管内の血流が低容量であり、循環変動が強かった。
また、心電図上も、Ⅱ、Ⅲ、aVF、V5、V6でST低下が認められたことから、一夫に対し、緊急PTCAを実施することとなった。
(6) 第3回PTCA
① 同日午後1時ころから、甲山医師は、一夫に対する第3回PTCAを開始した。
冠動脈造影検査の結果、左冠動脈主幹部は完全閉塞しており、グラフトはいずれも開存していたが、血流が悪かったため、甲山医師は、左冠動脈主幹部から左回旋枝にかけて5回PTCAを実施した(バルーンカテーテルはコブラ拡張径2ミリメートル)。
しかしながら、血流は改善されなかったため、甲山医師は、バルーンカテーテルをコブラ拡張径3.5ミリメートルにした上で、再度PTCAを実施したが、やはり、血流は改善されなかった。
また、甲山医師は、ニトロールの冠動脈注入も試みたが、血流は改善されなかった。
② 午後7時過ぎころから、一夫に対し、経皮的人工心肺装置が接続され、3.5〜4リットル/分の血流が維持された。
(7) 2月4日以降の病状等
① 2月4日以降も、一夫は、集中治療室において、経皮的人工心肺装置により血流を確保しつつ、投薬治療を受けたが、同日から心電図上は前側壁中隔の広範な梗塞所見を呈するようになり、CPK―MBも最大551.3国際単位/リットルとなった。
② その後、一夫の心臓を休め、2月13日からはカテコラミンを増量し経皮的人工心肺装置の離脱を図ったが不成功に終わった。
③ 2月14日午後5時ころから、一夫に多臓器不全の傾向が認められ、同月15日午後7時20分、経皮的人工心肺装置がはずされた。
④ 同日午後7時44分、算悟は死亡した。
2 医学的知見
証拠(甲1、2、乙12ないし22、29)によれば、本件に関する医学的知見について、次のようにいうことができる。
(1) 冠動脈造影検査について
① 冠動脈造影検査とは、左右の冠動脈に選択的に造影剤を注入し、冠動脈の内腔を描出することにより、狭窄や閉塞などの冠動脈病変を客観的に評価する方法である。
② 冠動脈各分枝の名称について
現在、アメリカ心臓病学会により提唱された冠動脈各分枝の名称と定義が我が国においても広く用いられている。
これによると、冠動脈は以下のように分類される。
ア 右冠動脈について
右冠動脈は、右冠動脈起始部から鋭縁部までを2等分し、その近位部の区域を#1、遠位部の区域を#2、鋭縁部から後下行枝の起始部までの区域を#3、それより末梢部の区域を#4として区分される。
イ 左冠動脈について
左冠動脈は、左冠動脈起始部から前下行枝と回旋枝の分岐部までの区域を#5、前下行枝の起始部から第1中隔枝分岐部までの区域を#6、第1中隔枝を分岐したあとから第2対角枝分岐部までの区域を#7、それより末梢部の区域を#8、第1対角枝を#9、第2対角枝を#10、回旋枝起始部から鈍縁枝分岐部までの区域を#11、心鈍縁を走行する分岐のうちで最大の鈍縁枝を#12、鈍縁枝を分岐したあとの回旋枝本幹で後房室間溝を走行する部分を#13、後側壁枝を#4、後下行枝を#15として区分される。
③ 冠動脈病変の評価法について
冠動脈病変の評価法について、アメリカ心臓病学会の評価法が我が国においても広く用いられているが、それによれば、内径が概ね25%以下の狭窄を25%狭窄、26〜50%の狭窄を50%狭窄、51〜75%の狭窄を75%狭窄、76〜90%の狭窄を90%狭窄、90%以上の狭窄で造影剤が順行性に糸を引いたように流れる場合を99%狭窄、99%狭窄で造影遅延を伴う狭窄を99%造影遅延、完全閉塞を100%狭窄と記載する。
通常、75%以上の狭窄を有意狭窄とし、灌流域では臨床的な虚血を生じる場合が多いが、左冠動脈主幹部では50%以上の狭窄が有意狭窄とされている。
冠動脈の主要3分枝(左前下行枝、左回旋枝、右冠動脈)の本幹に75%以上の狭窄が閉塞をきたした場合、その障害された本幹の数によって1枝病変、2枝病変、3枝病変と呼ばれる。
(2) PTCAについて
① PTCAとは、経皮的にバルーンカテーテルを冠動脈の狭窄病変部に誘導し、高圧でバルーンを膨らませることにより冠動脈狭窄を直接解除する治療法である。狭心症の治療としては、薬物療法のほかに、PTCAやCABGがあるが、PTCAはCABGと比較すると、file_3.jpg方法が簡便である、file_4.jpg全身麻酔、開胸、体外循環、人工呼吸器などが不要である、file_5.jpg回復時間が短いため肺炎など術後合併症が少なく、社会復帰も早い、file_6.jpg繰り返し行うことができる、file_7.jpg緊急時の血行再建がCABGよりも迅速で容易に可能であるなどの利点がある反面、file_8.jpg早期の再狭窄が多い、file_9.jpg完全血行再建ができない例がある、file_10.jpg緊急CABGが必要になることがあるとの欠点も指摘されている。
②ア PTCAの一般的な手技は次のとおりである。
a コントロール造影を行う。
b ガイドカテーテルを冠動脈口に挿入する。
c バルーンカテーテルをガイドカテーテルの先端まで進める。
d ガイドワイヤーを冠動脈内へ進め、目的病変部を通過させる。
e ガイドワイヤーを固定したまま、これに沿ってバルーンカテーテルを進め、バルーン内の金属マーカーを目安に狭窄部にバルーンを位置させる。
f 狭窄部の近位と遠位の圧較差を比較する。
g バルーンを膨らませる。
h バルーンを収縮させる。
i 圧較差を測定する。
j ガイドカテーテルから造影剤を注入し、拡張効果を確認する。
k 狭窄度25%以下、圧較差20ミリメートルHg以下を目標にg〜jの操作を繰り返す。
l 十分な拡張が得られたら、バルーンカテーテルを抜去する。
m 再度、造影にて拡張、解離の有無を確認する。
n ガイドワイヤーを抜き、全てのカテーテルを抜去する。
なお、PTCAによる拡張が十分か否かの指標としては、造影による狭窄度と圧較差があるが、我が国では狭窄度による拡張効果を判定するのが一般である。
イ 多枝病変の手順
多枝病変については狭心症に最も関連する病変(通常は最も高度な狭窄)を最初に拡張するのが原則である。
その病変の拡張が不成功に終わった場合は狭心症の改善は難しく、また、他枝の拡張で問題を生ずると危険になるので、PTCAは中止し、CABGを考慮する。
③ PTCAの適応
PTCAの適応については、必要条件として、file_11.jpg狭心症であること、file_12.jpg心筋虚血を発症していること、file_13.jpg心筋の蘇生可能性があることが挙げられ、CABGの適応例であることは必ずしも必要ではない。
PTCAの適応を臨床像についてみると、狭心症の病変については安定性、不安定性を問わず、また、心筋梗塞の症例については、陳旧性及び急性心筋梗塞が適応となる。
また、PTCAの適応を病変形態についてみると、file_14.jpg高度狭窄(70%以上)、file_15.jpg狭窄長が比較的短い(2センチメートル以下)、file_16.jpg比較的新しい完全狭窄(3か月以内)、file_17.jpgバイパスグラフト狭窄、file_18.jpgPTCA後再狭窄、file_19.jpg1枝及び多枝病変が適応となる。
なお、多枝病変の症例では、急性冠閉塞によりショックとなり致命的となる可能性があるから、PTCAの適応を検討する際には目標病変が完全閉塞した場合に血行動態的にどの程度の影響を受けるかを考える。そして、病変形態からみてそのリスクが高いかどうかを判断しCABGとの選択を行う。
高齢であることはPTCAの妨げとはならない。高齢者のCABGの死亡は肺炎等の合併症によるもので、むしろPTCAを第1選択とすべきである。
④ PTCAの禁忌
PTCAでは冠動脈損傷、急性冠閉塞の発生は避けられないため、急性冠閉塞を生じた場合には致命的となることが予想され、かつ、CABGならより安全に行いうる場合、具体的には(ア)左冠動脈主幹部、(イ)2枝完全閉塞の症例における第3枝目の狭窄、(ウ)上記(ア)(イ)に準ずるものについてはCABGを選択するべきである。左冠動脈主幹部狭窄でも、CABG後の症例のように、左前下行枝か左回旋枝のいずれかにバイパスあるいは良好な側副血行がある場合は、PTCAの適応となる。
一方、PTCAの危険性もCABGの危険性も高い場合には、他に有効な治療法がなければ危険性と有効性を考慮してPTCAを選択する場合となり(相対的禁忌)、高度心機能低下例、重症臓器障害例がこれに該当する。
⑤ 多枝病変について
多枝病変では、通常、狭心症の責任病変に加えて、狭窄度が75%以上の随伴病変も拡張するが、病変形態がPTCAにあまり適さない場合には、責任病変のみのPTCAにとどめ、狭心症がなお残る場合に、随伴病変のPTCAを行うほうがよい。
⑥ 合併症
PTCAの合併症としては、心筋梗塞が主要なものとされており、拡張部位の解離と、それに続く急性冠閉塞により生ずる。
我が国の統計によれば、心筋梗塞の発症は2〜4%とされており、重篤な合併症は急性冠閉塞に始まるが、ガイドワイヤー操作中の閉塞は血栓形成により、バルーン拡張後の閉塞は解離による。
その他の合併症としては、解離、急性冠閉塞、冠スパスム、遷延性狭心症、血圧低下、徐脈・心室細動、動脈血栓・仮性動脈瘤・血腫が挙げられる。
また、術者の技術上の問題が生じうる場合として、file_20.jpg不適切なバルーンサイズの場合、file_21.jpgガイドワイヤーが狭窄部のアテローム内を貫通し、そのまま拡張した場合、file_22.jpgガイドワイヤーがアテロームから偽腔に入り拡張した場合、file_23.jpgガイドワイヤーの操作により血管壁を損傷し、血栓あるいは小さな解離を生じた場合、file_24.jpgガイドワイヤーの操作により血管壁を損傷し、血栓あるいは小さな解離を生じた場合、file_25.jpgバルーン不通過による内膜損傷の場合、file_26.jpgガイドカテーテルが入口部にウェッジし、造影時に造影剤が内膜下に入り、冠動脈解離を生じた場合が挙げられる。
なお、解離については、ほとんどの場合、拡張用カテーテルの膨張により意図的に引き起こされたcontrolled injuryの結果生じ、PTCA後には、血管造影所見上、その約半数において明らかに見られる。このような解離が、小さな、進行性でなく、遠位血管の順方向の血流を障害しない限り、軽度の一過性の胸膜刺激性の胸部不快感以外に重大な臨床的結果には至らない(解離の90%以上が再造影時には消失しており、良好な拡大が得られた場合は解離があっても心配はない。)。PTCA後、6週間経過後の経過観察のための血管造影検査では、普通は完治していることが多いが、稀に、解離部分及び限局性の動脈瘤を形成することが報告されている。
一方、大きな進行性の解離は前方への血流を障害し、最後のバルーン拡張から30分以内に拡張された部分の完全閉塞に至ることがある。これに対しては、冠動脈内ニトログリセリン注入や再度バルーンカテーテルを進め、バルーン膨張を繰り返す等の方法によって急性の血管閉塞の約半数で心筋虚血の進行を止めることができるが、血管形成術を受けた患者の3〜5%では閉塞血管を再開通することができずに重大な心筋虚血を招き、緊急CABGを余儀なくされる。
3 第1回PTCA適応上の過誤について
(1) 一夫の動脈硬化の評価が不十分なままPTCAが実施されたとの主張について
原告らは、一夫の冠動脈の動脈硬化が進んでおり、PTCAによる血管拡張効果が必ずしも期待できない反面、解離が発生する危険性が高かったのであるから、一夫にはPTCAの適応がなかったにもかかわらず、甲山医師が、一夫の冠動脈の動脈硬化がどの程度進んでいるのかについての検討が不十分であった旨主張する。
しかしながら、前記医学的知見によれば、PTCAの禁忌として、動脈硬化の進行はあげられておらず、かつ、高齢であることはPTCAの妨げとはならず、高齢者についてもPTCAを第1選択とすべきであるとされているところ、前記認定のとおり、一夫は69歳で、不安定狭心症に罹患しており、このまま放置すれば急性心筋梗塞や死亡に移行する場合も考えられた上、1月25日の心臓カテーテル検査(冠動脈造影検査)の結果、左冠動脈主幹部、左第一対角枝及び右冠動脈遠位部にそれぞれ高度狭窄が認められたのであるから、前記医学的知見によれば、一夫にPTCAの適応があったことが明らかである。
なお、動脈硬化の進行度によってはPTCAが奏効しないこともありうるが、開胸手術を伴うCABGとの選択において、PTCAが第1選択とされていることからすると、あらかじめ動脈硬化の程度を術前に検査するまでの必要はないものというべきであるから、動脈硬化の程度について検討しなかったとの原告らの主張も採用することができない。
(2) 左第1対角枝へのPTCA後にPTCAを中止すべきであったとの主張について
原告らは、PTCAによって、一夫の左第1対角枝の狭窄度は90%狭窄までしか改善せず、明らかに不成功であったのであるから、PTCAを終了すべきであったにもかかわらず、左前下行枝近位部の拡張を行い、既に発生していた解離を促進させた旨主張する。
確かに、前記医学的知見によれば、多枝病変において、病変形態がPTCAにあまり適さない場合には、責任病変のみのPTCAにとどめ、狭心症がなお残る場合に、随伴病変のPTCAを行うべきであるとされており、また、前記認定によれば、一夫の左第1対角枝が90%狭窄までしか改善しなかったことが認められる。
しかしながら、そもそも左第1対角枝と左前下行枝の場合には、「多枝」病変といい難い上、本件では、左第1対角枝の狭窄改善の程度は99%造影遅延から90%狭窄まで改善されており、従前は滞っていた血流が確保されるようになったのであるから、直ちに、PTCAが不成功であったとまでいえるか疑問である。また、PTCAを施行する際、責任病変に加えて、75%以上の随伴病変も拡張するのが通常であること、左第1対角枝は本幹である左前下行枝の分枝の一つであるから、随伴病変である左前下行枝に対し、PTCAを行ったとしても、左第1対角枝のPTCAの影響を受けにくいことなどからすると、甲山医師が左第1対角枝へのPTCA後、直ちに、PTCAを中止すべきであったとは認めることはできず、この点に関する原告らの主張も理由がない。
(3) 絶対的禁忌違反の主張について
原告らは、一夫の左冠動脈主幹部は75%狭窄であったから、左前下行枝か左回旋枝のいずれかにバイパスあるいは良好な側副血行がない限りPTCAは本来行うことができないにもかかわらず、一夫の左前下行枝起始部及び左回旋枝の2分枝が共に狭窄した状態でPTCAがなされた旨主張する。
確かに、左冠動脈主幹部が狭窄している場合で、左前下行枝か左回旋枝のいずれかにバイパスあるいは良好な即副血行が存しない場合は、CABGを選択すべきであるとされている(乙18)が、左冠動脈主幹部が狭窄している場合にCABGを選択すべきであるとされている趣旨が、左冠動脈主幹部の病変例では、急性冠閉塞によりショックとなり致命的となる可能性があることによるものであることからすると、原告らが主張するように、左冠動脈主幹部に有意狭窄が存することをもって直ちにPTCAを冠動脈の他の部位に施行することが禁忌とされているのではなく、左冠動脈主幹部に対しPTCAを実施することが禁忌とされていると解するのが妥当である(このことは、乙18において、PTCAの適応を考える場合は、目標病変が完全に閉塞した場合に血行動態的にどの程度の影響を受けるかを考えるとされていること及び2枝完全閉塞症例の第3枝目の狭窄が絶対的禁忌とされていることとの均衡に照らしても明らかである。)。
本件においては、前記認定のとおり、第1回PTCAにおいて、左冠動脈主幹部に対し、PTCAは施行されていないから、甲山医師がPTCAの適応を誤ったと認めることはできない。
なお、第1回PTCA前の冠動脈造影検査において、左前下行枝近位部に有意狭窄が認められ、また、右冠動脈遠位部にも有意狭窄が認められていたのであるから、仮に、原告らが主張するように、左回旋枝の2分枝に狭窄があったとすれば、絶対的禁忌とされている、2枝完全閉塞の症例における第3枝目の狭窄の場合に該当するようにも思われる。
しかしながら、証拠(乙30)によれば、被告病院循環器内科の心臓カテーテル検討会において、循環器内科医7、8人(うち循環器専門医5人)で検討した結果、本件において左回旋枝の2分枝(#12、#13)については有意狭窄が認められなかったと判断されたことがうかがわれ、これと異なる原告らの主張はその前提を欠く上、仮に、その点を措くとしても、右冠動脈の狭窄部位は遠位部であり、心筋虚血を生じさせる範囲、影響は大きくないと考えられることからすると、2枝完全閉塞の症例における第3枝目の狭窄の場合に該当すると認めることはできない。
したがって、甲山医師がPTCAの適応を誤ったとする原告らの主張も理由がない。
4 PTCAの手技の過失について
(1) 塞栓物質を遊離させない注意義務違反の主張について
原告らは、甲山医師が、カテーテル操作に際して、塞栓物質を遊離させることのないように最善の注意をつくさなければならない義務を負っていたにもかかわらず、これを怠り、塞栓物質を遊離させた旨主張する。
しかしながら、PTCAはアテロームや血管内膜などを加圧することにより、狭窄を改善させる手技であることから、アテロームの遊離や血管内膜の解離等の発生は一定の限度で不可避であるから、PTCAの術者は、医師として通常要求されるべき手技に則ってPTCAを実施する限り、アテロームの遊離や血管内膜の解離等を発生させないようにすべき注意義務までは負担していないと解するのが相当である。
本件においては、甲山医師が医師として通常要求されるべき手技を逸脱するような方法でPTCAがなされたと認めるに足りる証拠はないから、この点に関する原告らの主張は理由がない。
(2) 左冠動脈主幹部付近における手技の過誤について
原告らは、甲山医師が、左冠動脈主幹部付近でガイドカテーテルの操作に手間取ったため、左冠動脈主幹部の入口部の血管内膜を損傷させ、それによって生じた解離物が左冠動脈主幹部を閉塞させた旨主張する。
確かに、前記認定のとおり、甲山医師は、第1回PTCAの際、左冠動脈主幹部の入口にガイドカテーテルを留置するのに通常の症例よりも時間を要したことが認められ、また、前記医学的知見のとおり、術者の技術上の問題が生じうる場合として、ガイドワイヤーが狭窄部のアテローム内を貫通し、そのまま拡張した場合やガイドワイヤーの操作により血管壁を損傷し、血栓あるいは小さな解離を生じた場合等が挙げられている。
しかしながら、証拠上、甲山医師のガイドカテーテルの操作によって、左冠動脈主幹部の入口部の血管内膜を損傷させたことを認め得る証拠はない上、前記医学的知見によれば、大きな進行性の解離は前方への血流を障害し、最後のバルーン拡張から30分以内に拡張された部分の完全閉塞に至ることがあるとされているところ、本件では、算悟の容態が急変したのは第1回PTCAの終了後、約4時間が経過していることをも併せ鑑みると、甲山医師によるガイドカテーテルの操作が不適切であったことにより、左冠動脈主幹部の入口部の血管内膜を損傷させたと認めることはできない。
なお、第1回PTCAの際に、左第1対角枝ないし左前下行枝のいずれかの部位に解離が生じ、それが左冠動脈主幹部の閉塞をきたしたとすると、同解離は逆行性に進展したものと考えられるところ、このような事態は前記医学的知見に照らしても、予測困難といわざるを得ない。
したがって、この点に関する原告らの主張は理由がない。
5 説明義務違反について
前記認定によれば、一夫は、PTCAの手術承諾書に署名・押印しているところ、同承諾書には、その合併症などとして「開胸手術、死亡、疼痛、血腫、出血、感染」との記載が存すること、甲山医師は、PTCAの説明に際して、「PTCA(経皮的冠動脈形成術)について」と題する書面を交付したが、同書面には、冠動脈造影検査に比べてPTCAの危険度が高く、死亡率が全国的にみて約1%であると報告されており、死亡に至らない場合でも狭心症や心筋梗塞を起こす危険性がある旨記載されていることが認められる。
以上の各事実に加え、原告春山が、甲山医師から直接的に死亡という言葉は聞かなかったが、危険性としてゼロではないがゼロに近いと説明された旨供述していること(なお、同原告は、それを死亡と受け取るべきだったのかもしれませんと供述している。)を併せ鑑みれば、甲山医師から一夫に対するPTCAによる死亡の可能性をも含む合併症の告知がなされたと認めるのが相当であり、これに反する原告春山の供述は採用できない。
第6 結論
以上のとおり、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法61条、65条1項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・竹中邦夫、裁判官・飯畑正一郎、裁判官・品川英基)