大阪地方裁判所堺支部 平成12年(ワ)1238号 判決 2004年11月19日
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1請求
1 被告らは,原告X1に対し,連帯して,金4233万円及びうち金3936万円に対する平成11年9月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは,原告X2に対し,連帯して,金1991万5000円及びうち金1843万5000円に対する平成11年9月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 被告らは,原告X3に対し,連帯して,金1991万5000円及びうち金1843万5000円に対する平成11年9月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,亡A(昭和○年○月○日生。平成11年9月29日死亡。以下「A」という。)が,大動脈弁閉鎖不全のため,被告学校法人近畿大学(以下「被告大学」という。)の開設する近畿大学医学部附属病院(以下「被告病院」という。)に入院し,被告Y1(以下「被告Y1」という。)の執刀により大動脈弁置換術(以下「本件手術」という。)を実施され,上行大動脈の縫合閉鎖から約25時間半経過後に死亡したことにつき,Aの遺族である原告らが,被告Y1には上行大動脈切開の部位が不適切であった等の手術手技上の過失があり,そのため止血等の措置を余儀なくされて,大動脈遮断・心停止が長時間に及び,その結果両心不全が生じてAが死亡するに至り,また,被告Y1を含む被告病院の担当医師らがA及び原告らに対し,術前に十分な説明を行わなかったと主張して,被告大学に対しては,選択的に,診療契約の債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づき,被告Y1に対しては,不法行為に基づき,連帯して,損害(原告らの損害総額8216万円)及びうち弁護士費用相当損害金を控除した残額に対する不法行為日である平成11年9月29日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の損害賠償請求をしている事案である。
1 前提事実(争いのない事実及び証拠等により容易に認定できる事実)
(1) 当事者等
ア 原告X1(以下「原告X1」という。)は,Aの妻であり,原告X2(以下「原告X2」という。)及び原告X3(以下「原告X3」という。)は,いずれもAの子である。原告ら以外にAの相続人はいない。
イ 被告Y1は,平成11年9月当時,被告大学に雇用され,被告大学医学部心臓外科教室の教授の地位にあり,被告病院において心臓外科を担当していた医師である。
ウ B(分離前の共同被告。以下「B医師」という。)は,平成11年9月当時,被告大学医学部心臓外科助手(病院講師)として,被告病院において心臓外科を担当していた医師である。
(2) 本件手術に至る経過
Aは,平成10年9月ころ,大阪府羽曳野市所在の医療法人春秋会城山病院(以下「城山病院」という。)の循環器内科を受診した。
Aは,平成11年1月25日(以下,特に年の掲記がない日付は,平成11年のものである。),城山病院に検査入院し,同月29日に心臓カテーテル検査を受けた結果,大動脈弁狭窄及び大動脈弁閉鎖不全により大動脈弁置換術が必要であると診断され(なお,その後,大動脈弁狭窄はないことが判明した。),同病院のC医師(以下「C医師」という。)から,大動脈弁置換術を受けるよう繰り返し勧められたことから,9月ころには,手術を受ける決心をした。
Aは,C医師から,被告病院の心臓外科を紹介され,9月20日,被告病院の心臓外科を受診し,入院した(そのころ,Aは,被告大学との間に,適切な診療行為を内容とする診療契約を締結した。)。
被告病院では,Aの入院以来,B医師が主治医となり,9月25日まで手術を前提として術前諸検査が実施され,これを踏まえた被告病院の心臓外科におけるカンファレンスにおいて,大動脈弁置換術の手術適応が確認された。B医師は,同月27日,A,原告X1,原告X2及び原告X3に対し,翌28日に予定された本件手術の必要性,内容,危険性等についての説明をした。
(3) 大動脈弁置換術の一般的手順の概略
ア 胸骨を正中に切開して心臓を露出し,送血管及び脱血管を挿入して体外循環を開始させる。
イ 上行大動脈に遮断鉗子をかけて大動脈を遮断し,冠状動脈に心停止液を注入して,心臓を停止させる。
ウ 上行大動脈に切開を加えて大動脈弁を露出する。
エ 大動脈弁を切除し,人工弁を縫着する。
オ 上行大動脈の切開部分を縫合して,大動脈の遮断を解除し,心臓の拍動を再開させる。
カ 体外循環から離脱させる。
キ 切開部分の縫合等を行う。
(4) 本件手術及びAの死亡に至る経過(乙2,争いがないもの)
9月28日
午前8時ころ 手術室に入室
8時20分ころ 麻酔開始
10時10分 執刀開始(執刀者B医師)
胸骨正中切開により心臓を露出
ヘパリン(血液凝固防止剤)を投与し,上行大動脈に送血管を,上大静脈及び下大静脈に脱血管をそれぞれ挿入
10時54分 体外循環開始(乙2・35頁,以下,乙2は頁数のみを記載する。)
被告Y1が執刀者,B医師が第一助手,D医師(被告大学医学部心臓外科教室講師,以下「D医師」という。)が第二助手となる。
11時10分 大動脈を遮断(35頁)
心停止液注入
心筋保護液注入(以後間歇的に実施)
上行大動脈切開(切開線は末梢側に凸の弧状)
大動脈弁切除
大動脈弁輪径測定,測定値27mm
18本のプレジェット付き縒り糸を用いた反転マットレス縫合により,径25mmの人工弁(SJM-25A)を縫着
短冊状フェルト(フェルトストリップ)で補強しつつ上行大動脈を縫合閉鎖
午後1時3分 大動脈遮断解除(遮断時間113分)(23頁,36頁)
3時24分 体外循環中止,離脱は容易であった(23頁,36頁)。
プロタミン注入,脱血管(上)抜去(30頁)
縫合部位の止血困難
4時40分 体外循環再開
ヘパリン注入,送血管及び脱血管を挿入(37頁)
5時 大動脈遮断開始(37頁)
上行大動脈縫合部のフェルトを切除
切開線の付近に8mm及び15mmの2本のスリット(裂開)あり(26頁)
幅20mmの人工血管パッチを縫着
(執刀者D医師)
6時50分 大動脈遮断解除(遮断時間110分)(37頁)
6時55分 心室細動,除細動施行(37頁)
7時 ペーシング開始(31頁)
ECUM(限外濾過法)による除水1000ml
8時20分 大動脈内バルーンパンピング開始
8時25分 体外循環中止
8分間のMUF(限外濾過変法)による除水650ml
体外循環から離脱できず
8時33分 心室細動,補助循環開始(32頁,38頁)
9時38分 補助循環中止
9時45分から9時55分 MUF施行により除水750ml(39頁)
9時55分ころ 補助循環開始,心室頻拍(39頁)
10時32分ころ 補助循環中止
10時36分 右冠状動脈バイパス術のため体外循環開始
10時53分 大動脈遮断開始(39頁)
右冠状動脈バイパス術施行(E医師(被告大学医学部心臓外科教室助教授,以下「E医師」という。)が執刀)(24頁,27頁)
11時27分 大動脈遮断解除(遮断時間34分)
11時45分 体外循環中止
11時49分 28分間のMUF施行により除水2000ml
9月29日
午前0時48分 補助循環開始
1時27分 PCPS(経皮的循環補助)に移行
ICUへ移動
午後2時34分 死亡
(5) B医師の原告らに対する手術経過についての説明等
B医師は,本件手術が行われている際,待機していた原告らに対し,「予想以上にAの心臓の血管がもろくて,縫合部より出血が続いている。」旨の説明をした。また,B医師作成の9月29日付け死亡診断書には,主要手術所見として,「上行大動脈壁の脆弱」との記載がなされている。
B医師は,10月15日以後,原告X1及び原告X3に対し,「Aの大動脈壁は止血が困難となるほど脆弱ではなく,被告Y1の手術手技の過誤により出血した。」と説明し,その後はほぼ一貫してそのように主張している。
2 争点
(1) 本件手術における被告Y1の手術手技上の過失の有無
(2) 被告病院の医師がAの大動脈壁が脆弱であることを見落とした過失の有無
(3) 被告病院の医師らによる説明義務違反の有無
(4) 原告らの損害
3 争点についての当事者の主張
(1) 本件手術における被告Y1の手術手技上の過失の有無
(原告ら)
ア 被告Y1の過失
被告Y1は,本件手術において,大動脈弁を露出するために上行大動脈を弧状に切開し,人工弁の縫着を終えた後,上行大動脈の縫合を行った。上行大動脈の切開及び縫合に際しては,切開場所や切開方法により大量の出血などをきたすことがあるから,切開は慎重かつ細心の注意を払って行い,縫合は縫合不全となることがないようにすべき注意義務があるところ,被告Y1は,切開すべきでない上行大動脈の右冠状動脈口にごく近い部位まで切開し,そのため上行大動脈の縫合閉鎖も不完全に行った過失がある。
被告Y1のかかる過失により,Aは,上行大動脈の縫合を終えて体外循環を離脱した時,大動脈壁から出血が始まって止まらなくなり,縫合のために体外循環が再開され,人工血管を用いた縫合のやり直しがされたり,冠状動脈へのバイパス手術が行われるなど,長時間にわたる大動脈遮断・心停止のもとでの大出血を止めるための様々の手段を講じることとなり,大動脈遮断・心停止が長時間に及んだ結果,Aは,両心不全により死亡するに至ったものである。以下詳述する。
イ 被告Y1が行った弧状切開,切開方法及び切開場所等について
被告Y1が行った上行大動脈の弧状切開は,成人の大動脈閉鎖不全の症例においてはほとんど行われていない方法である上,被告Y1は,切開すべきでない上行大動脈の右冠状動脈口にごく近い部位まで切開した。また,本件手術に立ち会ったB医師によれば,被告Y1が行った切開部位は,その右側への切開線が弁輪部に極めて近く,弁輪との距離が約5mm程度しかなかった。そのため,縫合する部分の幅が狭小となり,上行大動脈の縫合が不完全なものとなった。のみならず,被告Y1は,手術中に用いた摂子で大動脈壁を傷つけ,8mmと15mmの2箇所のスリットを生じさせた。
大動脈弁置換終了後の出血部位は,上行大動脈縫合部と上記2箇所のスリットであることが明らかであり,Aの大動脈壁からの大出血は,被告Y1の手術手技の乱雑さに起因するものである。
ウ 本件手術に長時間を要したこと
本件手術は,何の過誤もなく進めば,外科手術指示書やICU入室申込書(乙2・19頁,68頁)に記載されたとおり,9月28日午後4時ころに終了していたはずである。しかしながら,大動脈弁置換術を終えて切開部位を縫合し,体外循環を離脱(人工心肺を停止)した時に,大動脈壁からの出血が始まって止まらなくなり,人工心肺の使用を再開した上で,人工血管を使用して縫合のやり直しをしたり,冠状動脈へのバイパス手術を行い,その間,合計257分に及ぶ大動脈遮断・心停止,さらには補助循環を行って,出血を止めるための様々の手段を講じたが,さしたる効果もなく,結局,Aを大動脈遮断・心停止が長時間に及んだことによる両心不全によって死亡させた。
一般に,心停止時間の限界は180分程度とされているところ,257分もの長時間に及ぶ心停止をした上,さらに補助循環に移行したことは,Aの心機能の回復が不可能となったことを意味しており,このように心停止時間が長くなったのは,前記イの被告Y1の手術手技上の過失によって大出血をきたしたためであることが明らかである。
エ Aの上行大動脈壁が脆弱でなかったことについて
被告らは,最初の体外循環離脱時の出血について,Aの上行大動脈壁が脆弱であったために生じたものである旨主張する。
しかしながら,Aには,上行大動脈の多少の拡大はあったものの,長さの延長,石灰化,粥状変性等は認められなかったし,最初の切開時の触知でも大動脈壁の脆弱性を疑う所見は認められなかったから,大動脈壁が脆弱であったとは考えられない。むしろ,胸骨切開をした際の所見には,「上行大動脈は,表面上に石灰化等は認められなかった。」との記載があり,Aの大動脈が健全であったことを推測させる。
また,B医師が記載したカルテにも,大動脈壁が脆弱であったとの記載は一切なく,血管壁の脆弱性が事実であり,それがAの死亡に直接つながったとすれば,そのような重大な事実がカルテに記載されないはずはない。
そもそも,「大動脈壁の脆弱」という言葉は,Aの手術経過が悪く,家族への説明に際して,突然被告Y1が言い出した言い訳にすぎない。そして,B医師が作成した死亡診断書の手術主要所見欄に「上行大動脈壁の脆弱」との記載があるのは,教授である被告Y1がそのように記載せよと指示したからであり,事実ではない。
オ 周術期心筋梗塞について
被告らは,本件手術において,周術期心筋梗塞(PMI)が発生したと主張する。しかしながら,大動脈内膜の粥状変性やアテローム変性はなかったし,大動脈弁に軽度の石灰化が認められたものの,弁切除の際に小片が剥がれ落ちた事実はないから,周術期心筋梗塞が発生したとは考えられない。
カ F鑑定(以下「本件鑑定」という。)に対する反論
(ア) 大動脈壁の脆弱性について
a 一般的に,加齢に伴って大動脈壁の脆弱性が進行する可能性があることは事実であるが,Aの67歳という年齢で大動脈弁置換術に耐えられないほど脆弱化が進むケースはさほど多くはないと考えられ,加齢によるものは一般的な可能性にすぎない。また,高血圧症の原因は極めて多彩であり,その程度も千差万別であるから,一概に高血圧が大動脈壁の脆弱性の原因となり得ると結論づけることはできない。
次に,大動脈弁閉鎖不全も,粥状硬化症を合併し得る疾患が存在する場合に,大動脈壁の脆弱化があり得るものであるところ,Aの場合,粥状変性が存在してはいなかったのであるから,大動脈弁閉鎖不全というだけでは大動脈壁の脆弱化があるとはいえない。
さらに,粘液状弁(floppy aortic valve。以下単に「floppy valve」という。)の場合には,大動脈根部を中心に膿胞状中膜壊死が広範に存在するものであるところ,Aの場合そのような病態が存在した事実はないから,floppy valveによる大動脈壁の脆弱化も否定される。
b Aの本件手術前のレントゲン写真上,右第1弓(上行大動脈)の突出,左第1号(大動脈弓)の円形拡大,瘤状ではない,下行大動脈蛇行といった変形が認められることは事実であるが,大動脈弁閉鎖不全の場合には,一般に肺から左心房を経由して左心室に運ばれてきた血液量以外に,拡張期に大動脈から左心室に逆流した血液量も収縮期に拍出することにより,心臓の収縮毎に,大動脈に拍出される血液量が多いため,上行・弓部にかけて大動脈は心臓の収縮期に受け入れる血液量が多く,胸部レントゲン写真像で認められる上行・弓部大動脈の陰影は大きくなるものであり,そのことが直ちに大動脈壁の脆弱化につながるものではない。
また,同様の理由により,胸部CT像で上行大動脈が径40mm×37mmに拡大していることから,大動脈壁の脆弱化を推認することはできない。
c 本件鑑定は,大動脈壁の脆弱化に関わる病変として,中膜の退行性変性による大動脈根部疾患であるとし,そのような疾患がAに存在したかのような論述をしているが,Aにそのような病変が存在したことを示す資料は何ら存在しない。手術が開始されて上行大動脈を切開した際に,そのような病変ないし疾患が存在したのであれば,カルテに記載されていないはずはない。
(イ) 心停止時間について
本件鑑定は,間歇的心停止時間の合計が223分であることについて,特段吟味することなく心停止の許容時間を超えていないと断定しているが,単純に連続的心停止時間よりも間歇的心停止時間の方が許容時間が延長されると考えるのは危険である。なぜなら,間歇期における心臓の状態がいかなるものであるかが,次に行われる心停止終了後の心機能に影響を与えることは明白だからである。すなわち,Aの場合,まず,第1回目の人工心肺の終了は午後3時30分であるが,この時から午後4時40分ころの第2回の人工心肺開始までの血行動態は,約1時間にわたって,血圧は概ね収縮期血圧が70mmHg,拡張期血圧が40mmHgであり,麻酔開始から第1回の人工心肺開始までの間の120mmHgから50mmHgに比べればほぼ半分程度の低血圧状態である。このような低血圧状態は,当然に心臓を含む全身に循環不全状態をもたらしたと考えられる。
したがって,223分という心停止時間よりも,第2回目の心停止が極めて低下した循環動態のもとで行わざるを得なかったことが,Aの心筋を疲弊させた原因である可能性が高い。
(被告ら)
ア 大動脈切開の方法について
本件手術において,被告Y1は,大動脈前壁で,左冠尖と右冠尖間の交連上約15mmの部位から無冠尖に向かって弁輪上約10mmのところまで弧状切開を行った。切開線の中央部では大動脈弁付着部から最大約40mm上方,右冠状動脈口から25mm上方であった。これは,被告Y1が長年にわたって数多く行ってきた大動脈弁置換術の切開部位と同様であって,正常の切開部位とのズレはなかったものであって,被告Y1には何ら手術手技上の過失はない。
イ 出血の原因について
Aの大動脈壁は,通常の大動脈と比較して大変薄く脆弱であり,そのため,縫合部分から出血するとともに,止血に難渋したものである。
被告病院の担当医師は,再度の大動脈遮断,心停止のもとに,人工血管パッチを縫着することにより,止血に成功している。
B医師は,術中に,原告らに対し,Aの大動脈壁の脆弱性について説明をしている。
以上の点については,後記ウにおいてあらためて詳述する。
ウ Aの死因について
(ア) 前記の被告Y1による上行大動脈の弧状切開後,Aの大動脈壁が通常の大動脈壁と比較して大変薄く脆弱であることが判決したことにより,かかる大動脈壁の性状にかんがみ,その縫合閉鎖に当たっては最初から2本の短冊状フェルトを用い,その上からU字縫合を行い,その上を連続縫合している。これは,大動脈壁が脆弱な場合の愛護的な縫合方法である。縫合閉鎖が終わり,体外循環から離脱するために徐々に血圧を上げたところ,縫合部から出血があったので,何針かの結節縫合を追加すると,ようやく出血が止まったので,午後3時ころ,被告Y1は,その後の処置を他のスタッフに委ねて手術室から退出した。
(イ) その後午後3時24分ころ,D医師とB医師が体外循環を中止して,プロタミンを使用し,その後,応援に加わったE医師が術者となり,B医師とで止血を行い,血圧も血行動態もよく維持されていたので,10分後に送血管と脱血管を抜去したが,心機能の回復に伴い出血量が徐々に増加し,その後76分間,縫合部位への追加縫合,圧迫止血等を行ったものの,止血は難しく,大動脈壁外側からの補強は大動脈壁が脆弱なために危険と判断して,再度体外循環下に止血を行うこととした。この時点で,D医師が術者となり,B医師は,Aの家族へ説明のため一時手術室を退出して,「制御困難な出血があり,その原因は予想以上に血管がもろいためである。」と説明した後,手術に加わった。
(ウ) D医師とB医師は,心停止させ,心筋保護下に人工血管を用い,上行大動脈の切開部へパッチ縫着を開始した。大動脈切開線のフェルトを切除すると,切開線とは別に8mmと15mmのスリットが発生しており同部も切除した。残存する中枢側の大動脈壁も薄く,内膜はいたんでおり,一部剥離しそうな所もあったので,すべて内膜側からU字縫合をかけ,人工血管パッチと縫着した。切開部末梢側の大動脈壁も脆弱で,縫合糸による損傷が強かったので,その箇所も切除して健常部分に連続縫合で人工血管パッチ(幅20mm,長さ60mm)を縫着した。そこで,大動脈遮断を解除すると,心室細動となったので,除細動を行った。その後,機械的,薬剤的循環補助を90分間行った後,午後8時25分体外循環を終了した。
(エ) 被告Y1が再び手術室に戻ったのは,午後9時20分ころで,「再度の体外循環の下でパッチ縫着により止血したが,人工心肺から離脱できない。」との報告を受けたためであった。この離脱時点で,出血が制御されていることが確認できたが,それに続いて,限外濾過変法を開始して8分後に再度心室細動となったので,再度補助循環を行って37分後に補助循環から離脱したが,肉眼的に,右心室の機能低下,右室心尖部の色調の変化を認めたため,右冠状動脈に何らかの異常をきたしているのではないかと考えられた。E医師が,心臓表面から右冠状動脈を触知すると,右冠状動脈の1,2番領域では冠状動脈壁の緊張がよく触知されたが,3,4番領域の冠状動脈壁の緊張が不十分であった。以上の所見から,右冠状動脈の3番領域の周術期心筋梗塞が偶発したものと認められた。
そこで,E医師とG医師(被告大学医学部心臓外科教室助手)は,直ちに大伏在静脈を用いた大動脈冠状動脈バイパス術(上行大動脈と右冠状動脈の3番領域の間)を行った結果,体外循環から容易に離脱できたが,その後,循環不全を克服することができず,死亡した。
(オ) 周術期心筋梗塞は,どのような心臓手術においても起こり得る合併症であり,弁,心筋,大動脈壁などの小さな組織片,血栓又は大動脈内膜の一部,とりわけ粥状硬化やアテローム変性の強い大動脈の内膜が血流の変化により剥がれた小片による血管の閉塞等によって生じる。もっとも,本件においては,剖検がされていないので,冠状動脈閉塞の原因及び死因を確定することはできない。
(カ) 原告らは,心停止時間が長くなったことにより,Aに両心不全が生じたと主張するが,そもそも本件手術が難航したのは血管壁の脆弱性に起因する止血困難が原因であり,本件における心停止時間も許容時間の範囲内であって,心不全の原因とはなり得ないし,パッチ縫着後の試みでは体外循環から離脱できなかったのに,右冠状動脈バイパス術後にはこれが奏功して体外循環から容易に離脱できたことに照らすと,周術期心筋梗塞が発生したことは間違いがなく,原告らの主張は事実に反している。
エ B医師のカルテ記載及び術中の家族に対する説明について
B医師が記載したカルテの手術記録には,Aの大動脈壁が脆弱であったという具体的な記載はないが,大動脈壁の脆弱性は,担当医師が選択した手術操作の方法や,手術の経緯自体からも明らかなことであるし,死亡診断書にB医師自身による記載がある。また,B医師が術中に原告らに説明したのは,前記ウに記載のとおり,体外循環停止後に自らも分担して行った止血作業に成功しなかったため,再度体外循環に移行した後であって,止血できなかったのが大動脈壁の脆弱性に起因することは,B医師自らが体験した事実であり,B医師は,自ら体験した事実をそのまま原告らに報告したものである。一方,被告Y1は,午後3時ころには手術室を退室し,再び入室したのは午後9時20分ころであって,B医師が最初に原告らに説明をした時点にも手術室にはおらず,体外循環離脱後の止血状況も知らなかったのであるから,被告Y1がB医師に原告らへの説明の仕方を指示できるはずはない。
オ 原告らの本件鑑定に関する主張は争う。
(2) 被告病院の医師がAの大動脈壁が脆弱であることを見落とした過失の有無
(原告ら)
Aに大動脈壁の脆弱化があったとすれば,被告病院においてこれを見落とし,そのための注意をしないまま本件手術が行われたことは,明らかな診断の過誤である。
(被告ら)
大動脈壁の脆弱性は,切開時に初めて判明したものであり,術前にこれを発見できる可能性はなかったものである。
(3) 被告病院の医師らによる説明義務違反の有無
(原告ら)
ア 医師は,医療行為を行うに際しては,患者に対し,その患者の病状とそれに対して必要とされる一切の医療行為の必要性や利点のみならず,それに伴う危険性や合併症に関する適切な説明を行い,これを理解した患者から当該医療行為に対する同意を得る必要があるが,医師のその説明とこれに対する同意をインフォームドコンセントという。インフォームドコンセントの本質は,医師と患者との間の確固たる信頼関係に裏付けられた,与えられる医療に対する患者の納得した精神状態であるから,インフォームドコンセントを得ないままの医療行為は違法であり,医師は,説明義務違反の責任を負わなければならない。のみならず,医師は,予定されている医療行為に対する患者の理解を得るとともに,その医療行為に対して患者が恐れや不安を抱いている場合には,それを取り除く義務がある。
イ Aは,本件手術に対して大きな不安を抱いていたが,そのAが安心して本件手術に臨んだのは,B医師であれば任せられるという気持ちになったからであり,AとB医師との間に確固たる信頼関係が芽生えたからであった。そして,B医師は,9月27日,そのような信頼関係の上に立って,A及び原告らに対し,本件手術の必要性,内容,危険性などについてかなり詳細に説明した。その説明の中で,B医師は,本件手術は心臓の手術としては初歩的なものであり,一般的な危険性としては1パーセント程度であるが,Aの場合は心臓が元気なのでほとんど危険性はないと考えてよいこと,手術時間は3,4時間程度であることなどを述べたので,A及び原告らは,安心して手術を受けることを承諾した。もっとも,この説明の途中,具体的な手術手順を説明する際に,B医師が「説明を聞くと気分が悪くなるから,患者さん本人は席を外した方がよい」と述べたので,Aは退席し,その説明を聞いていない。
ウ ところで,前記イのとおり,B医師が本件手術の内容を説明した上,「説明と了解についての覚書」及び「手術承諾書」に署名した医師がB医師であることから,A及び原告らは,本件手術の執刀者がB医師であると理解していたし,B医師自身も,執刀を含めて本件手術を中心になって行うのはB医師であると考えていたはずであるから,少なくとも,B医師が中心となってAの本件手術を進めるという意味でのインフォームドコンセントが成立していた。したがって,B医師以外の医師が執刀するというのであれば,その医師からあらためて説明を受け,A自身が納得することが必要であった。
エ ところが,被告Y1は,B医師がA及び原告らに対する説明を終えた後の同日午後5時ころ,B医師を呼び,「被告Y1も手術に入れてくれ。B医師の邪魔はしないし,手術はB医師がやったらよい。」との意思を表明した。そして,本件手術当日,被告Y1は,Aにも原告らにも何ら説明することなく,突如本件手術の執刀者となった。しかも,原告らがかかる事実を初めて知ったのは,10月15日のことである。
しかしながら,被告Y1とAとの間にはインフォームドコンセントがまったく存在せず,9月22日の総回診の際も被告Y1はAを診なかったのであるから,Aと被告Y1との間に信頼関係が確立されていなかったのは明白である。したがって,被告Y1が執刀するのであれば,被告Y1は,自分が執刀することをB医師に明確に伝えた上で,あらためて手術の内容,被告Y1自身が執刀することを,A及び原告らに説明し,Aとの間にインフォームドコンセントを形成すべき義務があり,被告Y1に説明義務違反の過失があることは明らかである。
また,被告大学は,被告Y1及びB医師に説明義務を尽くさせなかった点において,診療契約上の債務不履行責任又は不法行為責任(使用者責任)を負うというべきである。
オ 原告らは,Aの大動脈壁の脆弱化をもたらすような原因はなかったと主張するものであるが,仮にそのような原因があったならば,被告Y1及び担当医師らはA及び原告らに対し,大動脈壁が脆弱であることにより,大動脈弁置換術を施行する際には重大な結果を招来することもあるかも知れない旨を伝えるとともに,大動脈壁が脆弱であることについて具体的な内容を説明すべき義務があったのであるから,被告Y1及び担当医師らがそのような説明をしなかったことにつき,被告Y1は不法行為責任を,被告大学は,担当医師らにかかる説明を尽くさせなかった点において,診療契約上の債務不履行責任又は不法行為責任(使用者責任)を負う。
(被告ら)
ア Aは,城山病院の循環器内科の専門医の診療に基づく説明と説得を繰り返し受け,手術を受けることを決心した上で被告病院を受診したのであるから,手術直前のB医師の説明で初めて本件手術を受けることにしたといえるような経緯ではない。
イ 本件手術を含め心臓外科の手術は,1人の医師のみで行えるものではなく,最も重要な部分を担当する術者と助手などがチームを組んで行うものであり,メンバーが執刀を担当する場面や役割は,医師の経験・技量に応じて異なるが,主治医が術者にならない場合は第1助手となる。被告病院の医局(助教授であるE医師が中心となって決定する。)で予定していた手術チームは,術者がD医師で,主治医のB医師は第1助手となる態勢であった。B医師は,「麻酔申込書」の自己作成部分において,「主治医」欄にはB医師と記載しながら,「術者」欄には自己の名前を記載せず,空欄のままにしてあることにかんがみると,A及び原告らに対する術前の説明において,「B医師が執刀者になる」とか,「B医師が中心となって執刀する」などと説明することはあり得ず,むしろ,術者が誰になるということは説明していなかったものであり,B医師の説明に対し,A及び原告らが術者について質問をしたり,術者について希望を述べた形跡もない。術者について説明を求められれば,B医師もD医師が予定されていたことを説明したはずであるが,その質問がなければ,それ以上の説明義務はないし,説明していなかった手術チームの術者が交替することを説明する義務はないのである。被告Y1は,A及び原告らに対して被告Y1が執刀者になることを説明することなくD医師と執刀を交替しているが,これは何ら異常な事態ではない。
ウ もともと,Aは,B医師が執刀するという前提で本件手術に同意したのではない。看護スタッフや同病の同室患者からも説明を受けて,医局で選んだ態勢で手術をすることを理解していたものであり,B医師が告げなかった執刀者に替わって医局の主宰者である被告Y1が執刀するという医局最高の態勢で手術したことが,Aの意思に反するとは考えられない。
エ Aの大動脈壁の脆弱性は,上行大動脈の切開をして初めて判明したことであるから,被告らにはかかる事実の存在を前提とする説明義務違反はない。
オ 以上のとおり,被告らには原告ら主張の説明義務違反はまったくない。
(4) 原告らの損害
(原告ら)
原告X1は,後記ア,イの合計4233万円及びうち弁護士費用相当損害金を控除した残額3936万円に対する不法行為日(Aの死亡の日)である平成11年9月29日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の,原告X2及び原告X3は,それぞれ,後記ア,イの合計1991万5000円及びうち弁護士費用相当損害金を控除した残額1843万5000円(なお,本来の残額は1843万円であり,上記金額は違算による。)に対する前同日から支払済みまで前同率の割合による遅延損害金の支払を求める。
ア Aの損害
(ア) 逸失利益
Aは,死亡当時67歳であり,シルバー人材センターに登録をして年収約60万円を得るとともに,老齢厚生基礎年金及び老齢厚生年金を年額合計277万円受給していた。
67歳男性の平均余命は15.69年であるところ,シルバー人材センターでの就労可能年数は平均余命の約半分(8年)と評価するのが相当であり,年金は終生受給可能であるところ,これらの期間中のAの生活費は収入の30パーセントとみるのが相当であるから,以上を基礎としてAの逸失利益の原価をライプニッツ係数によって算定すると,2372万円(1万円未満切捨て)となる。
(60万円×6.463+277万円×10.838)×0.7=2372万9342円
(イ) 慰謝料
Aは,手術について当初から恐怖心を抱いており,できることなら手術を避けたいと思っていたが,自分自身よりも心臓の状態が悪い妻の看病をするためには,まず自分の持病を治さなければならないとの家族に対する愛情から,恐怖心を克服して手術に臨んだ結果,命を落とし,妻を残して先立たなければならなくなったのである。思いがけず死亡するに至ったAの無念をあえて金銭に換算すれば,3000万円を下ることはない。
(ウ) 相続
前記(ア)及び(イ)の合計は5372万円であるところ,原告X1はAの妻としてその2分の1(2686万円)を,原告X2及び原告X3はAの子としてそれぞれその4分の1(1343万円)を相続により取得した。
イ 原告らの固有の損害
(ア) 慰謝料
Aの死亡により被った精神的苦痛を金銭で評価すれば,原告X1につき1000万円,原告X2及び原告X3につき各500万円を下ることはない。
(イ) 葬儀費用
原告X1は,Aの葬儀費用として,250万円を下らない金員を支出した。
(ウ) 弁護士費用相当損害金
原告らは,弁護士である原告ら訴訟代理人らに本件訴訟の追行を委任し,勝訴した場合には,大阪弁護士会の報酬規定に基づく報酬を支払うことを約した。大阪弁護士会の報酬規定によれば,本訴請求額が全額認容された場合の標準報酬額は594万円であるので,原告X1は297万円,原告X2及び原告X3は各148万5000円を負担することとなる。
(被告ら)
原告らの前記主張は争う。
第3争点に対する判断
1 前記第2,1の前提事実に,証拠(甲14,乙14ないし17,19,26,38,54の1ないし4,63の1・2,証人B(後記採用しない部分を除く。以下「証人B」という。),被告Y1本人(以下「被告Y1本人」という。),本件鑑定の結果(補充鑑定を含む。以下同じ。))及び弁論の全趣旨を総合すれば,以下の事実を認めることができる。
(1) Aは,昭和○年○月○日生の男性であり,平成11年9月当時67歳であった。Aは,高血圧症,脳梗塞(平成4年10月18日),高脂血症の既往があり,平成10年8月ころから労作性狭心症状の前胸部圧迫感が発生したため,同年9月に城山病院循環器内科を受診したところ,連続性心雑音(往復雑音)が聴取され,心エコー上,大動脈弁閉鎖不全が認められた。そこで,Aは,平成11年1月25日,城山病院に検査入院し,同月29日に心臓カテーテル検査を受けた結果,大動脈弁狭窄及び大動脈弁閉鎖不全により大動脈弁置換術が必要であると診断され(なお,その後,大動脈弁狭窄はないことが判明した。),城山病院のC医師から,大動脈弁置換術を受けるよう繰り返し勧められたことから,9月ころには同手術を受けることを決心した。なお,上記心臓カテーテル検査の結果,左室拡張末期圧が15mmHg(正常上限値は12mmHg)と軽度上昇しており,左心不全の状態にあった。また,逆流度(大動脈弁からの逆流の程度)はSellersの分類で1度から4度に分けられているところ,3度であった。
(2) Aは,C医師から被告病院の心臓外科を紹介され,9月20日,被告病院心臓外科を受診し,そのまま入院した。被告病院では,Aの入院以来B医師が主治医となり,同月21日には,ECG,胸部レントゲン撮影を,同月22日には心エコー検査をそれぞれ施行したほか,同月25日までに手術を前提とした各種の術前検査を施行した。この術前の胸部レントゲン撮影では,①右第1弓(上行大動脈)の突出,②左第1弓(大動脈弓)の円形拡大,瘤状ではない,③下行大動脈の蛇行が認められ,以上の所見は,Aの胸部大動脈が全体に拡張及び延長していることを示していた。また,AのCT像(甲14)によると,上行大動脈径が40mm×37mm(10番),下行大動脈が30mm×30mm(9番)と,上行大動脈で約190パーセント,下行大動脈で約150パーセントに拡大しており,上記胸部レントゲン撮影の所見と一致していた。
(3) 被告病院の心臓外科は,前記術前検査を踏まえたカンファレンスにおいて,Aに対する大動脈弁置換術(「本件手術」)の手術適応を確認するとともに,D医師を執刀者とすることを決定し,これを受けてB医師は,9月27日,A及び原告らに対し,翌28日に予定された本件手術の必要性,内容,危険性等についての説明を行った(その際,B医師が本件手術の執刀者についてどのような説明をしたかについては後述する。)。
9月27日午後5時ころ,被告Y1は,B医師を呼んで,本件手術は被告Y1自ら執刀者となる旨を伝えた。
(4) 大動脈弁置換術の一般的手順の概略は,前記第2,1の(3)記載のとおりである。
9月28日午前10時10分,全身麻酔下に,B医師の執刀で胸骨正中切開を行い,心臓に達した。心嚢液は中等量であった。外見上,大動脈径は拡大し,かつ,長さも延長していた。ヘパリン(血液凝固防止剤)を全身投与し,上行大動脈に送血管(Shiley,A232-65,6.5mm)を,上大静脈及び下大静脈にそれぞれ28Fr,32Frの脱血管(28Fr,dlp-69328,32Fr,RM,TF-032L)を挿入し,午前10時45分に体外循環を開始した。
(5) その後,被告Y1が術者となり,B医師が第1助手(通常第1助手は主治医が務める。),D医師が第2助手となった。午前11時10分に大動脈を鉗子で遮断し,それより中枢側の大動脈切開を行う予定上に針を刺し,ヤング氏液(心停止液)を注入して心停止を得,大動脈前壁に小切開を加えた。引き続き右房に斜切開を行い,冠状静脈洞開口部に4-0単線維(monofilament)糸によるタバコ縫合を掛け,逆行性心筋保護液注入用カニューレを留置して,ターニケットとともにこれを結紮し,バックバーグ心筋保護液の間歇的投与下に,大動脈前壁にすでに加えてあった小切開創をさらに延長して,大動脈の左上方である左冠尖と右冠尖の交連の上部から右下方である無冠尖中央部より左冠尖寄りの部位に向かって弧状切開を行った(被告Y1が行った弧状切開の切開線と弁輪上との距離についてはしばらく措く。)。切開後の大動脈の所見では,大動脈壁は通常の大動脈壁と比較して薄く,脆弱であった(この点については後述する。)が,石灰化,粥状変性は見られなかった。大動脈弁の性状は,部分的に薄くて弱そうな粘液状のところ(floppy valve)と一部硬いところがあり,軽度の石灰化が見られた。
交連部の癒合狭窄はなく,3弁尖の弁縁は短縮しておらず,ともに延長,弛緩し,弁縁の長さに長短があって,3弁尖の接合は極めて不良であったので,かかる所見から弁置換が適していると判断し,3尖(無冠尖,左冠尖,右冠尖)を縫い代を残して切除した。弁切除後,被告Y1が考案したサイザーを用いて弁輪径を計測すると,Aの大動脈弁輪径は27mmであった。ところで,Aの体表面積は1.67m2(Aの身長が160cm,体重が64kgであることから公式により求められる。)であり,体表面積1.67m2の人の大動脈弁径の正常値は19.7mmとされているから(Starkらの記載するRowlattの正常値では,体表面積1.67m2の人では弁輪径は17.8mmであり,Westabkyらによると,21.7mmとされているので,これらの平均値を採用した。)Aの大動脈弁輪径27mmは正常値の137パーセントに相当し,弁輪面積に換算すると正常値の1.88倍であって(径の2乗に比例する。),Aの大動脈弁輸は明らかに拡大していた。
そこで,被告Y1は,最適と判断した径25mmの人工弁(SJM-25A)を,18本のプレジェット付き縒り糸を用いて反転マットレス縫合で縫着した。続いて大動脈壁の閉鎖を開始したが,大動脈壁が薄く,極めて脆弱であったので,縫合部を補強する目的で,幅約15mmの短冊状フェルト2本をそれぞれ切開線上下の縫合する大動脈壁の外側に置き,先ず,3-0単線維糸を用いて,上下の大動脈切開縁の内膜が互いに接合するように切開線全長にわたってU字縫合を掛け,さらに,その上に単線維糸を用いて連続縫合を行った。
(6) 縫合閉鎖が終わり,午後1時3分に大動脈遮断を解除し(遮断時間113分),その後,体外循環から離脱しようとして,徐々に血圧を上げたところ,大動脈壁の縫合部から出血があり,結節縫合を追加したが,止血のために結節縫合を追加すればその針穴から出血し,糸を結紮すれば糸切れを起こし,次から次へ出血してきたため,反復して追加縫合を行った。一応出血が少なくなったので,被告Y1は,いったん止血措置の手を止めてD医師と交替したが,その後も血圧を上げると出血するので,D医師が何針か追加縫合を加えた。被告Y1は,止血措置から離れてから約30分後に再度手術に加わり,ようやく出血が止まったので,D医師に対し,「もし出血すれば止めてくれ。どうしても止まらない時にはパッチを当ててくれ。」と指示して,午後3時ころに手術室を退室した。
(7) 被告Y1の退室後,H医師(研修医)が手術に加わり,D医師及びB医師と3人で手術を行ったが,午後3時15分の血液ガス分析の結果(PO2が159mmHg,PCO2が35.3mmHg,PHが7.38)が良好であったので,午後3時24分にD医師とB医師とで体外循環を止めた。体外循環からの離脱は容易であった。そこで,限外濾過変法(MUF)を行い,プロタミンを投与して,その10分後に送血管,脱血管を抜去した(なお,乙2・30頁には,脱血管(上)のみを抜去したかのような記載があるが,プロタミンを投与したことによって血栓が付着するのは1本の脱血管だけではなく,2本の脱血管ともにその可能性があるから,脱血管1本のみを抜去することはあり得ないし,2本の脱血管及び送血管を抜去したのは,その後の経過に照らして明らかである。)。その時点で,D医師と交替してE医師が手術に加わり,B医師が2針追加縫合を行った。その後76分間にわたって圧迫止血を行ったが,心機能の回復に伴い出血量が徐々に増加し,圧迫だけでは止血できず,大動脈壁外側からの糸針による追加縫合は,大動脈壁が脆弱なために体外循環下でなければ危険であると判断して,再度体外循環下に止血を行うこととし,午後4時40分に再度ヘパリンを注入した上,前述のとおり,すでに送血管及び2本の脱血管が抜去されていたことから,送血管(Shiley,A232-65),脱血管1本(Shiley,V112-4)を挿入して,体外循環を再開した。上記午後3時24分に体外循環を止めてから午後4時40分に体外循環を再開するまでの76分間の総出血量は827ccであり,これは平均すると体重1kg当たり1時間に10.2ccの出血であった。被告病院では体重1kg当たり1時間に4ないし5cc以下の出血であれば再手術を行わず,しばらく経過観察し,それ以上の出血量であれば手術を行うというガイドラインを決めており,今回の出血量が基準の約2倍であったことから,パッチ縫着を行うことにした。この時点で,E医師に替わってD医師が術者となった。午後5時前後ころ,B医師は,待機している原告らへの経過説明のため一時手術室を退室し,原告らに対し,「予想以上にAの血管がもろくて,縫合部から出血が続いている。」と説明をして,再度手術に加わった。午後5時に直腸温35.5度で大動脈遮断し,前述のとおり,脱血管挿入が1本であったことから,選択的冠状動脈環流用カニューレによる間歇的順行性心筋保護下に,人工血管パッチの上行大動脈切開部への縫着を開始した。大動脈切開線のフェルトを切除すると,切開線とは別に,8mmと15mmのスリットが2箇所ほぼ平行に認められ,同部は極めて脆弱なためスリット部を切除した。残存する中枢側の大動脈壁も薄く,内膜は傷んでおり,一部剥離しそうな箇所もあったので,すべて内膜側からU字縫合を掛け,人工血管パッチと縫着した。切開部末梢側の大動脈壁も同様に脆弱で,縫合糸による亀裂も強かったので,その箇所も切除して健常な部分へ連続縫合で人工血管パッチ(幅20mm,長さ60mm)を縫着した。午後6時50分に大動脈遮断を解除し(遮断時間110分),最低直腸温は28.1度であった。大動脈遮断解除後の午後6時55分に心室細動となり,除細動を行った。その後午後7時にペースメーカーワイヤーを装着・作動させ,限外濾過法(ECUM)により1000mlの除水を行い,午後8時20分に大動脈内バルーンパンピングを行うなど,上記大動脈遮断解除から約90分にわたって補助循環(機械的,薬剤的循環補助)を施行した後,午後8時25分に体外循環を中止した。この時点で,大きな出血はなく,出血は制御されたと確認されたが,その後,限外濾過変法開始の8分後に再度心室細動となったため,午後8時33分に再度補助循環(体外循環から離脱不能であったためである。)を開始し,65分後の午後9時38分に補助循環を中止した。
(8) 前記65分間の補助循環施行中の午後9時20分ころ,被告Y1が,「ポンプから離脱できないので,手術室に来てほしい。」との電話連絡を受け,手術室に戻ってきた。補助循環中の心臓所見は,左心の色調は正常であったが,右室心尖部の色調が黒ずんでいて,右室が明らかに拡大し,かつ,左室の収縮は良好であるにもかかわらず,左室収縮に同期して右室前壁が拡張,前方へ膨隆することから,一見して右室梗塞が疑われたので,被告Y1は,直ちにI医師(被告大学医学部心臓外科教室講師,以下「I医師」という。)に対し,CPK-MBを調べるよう指示した。午後9時55分にその測定結果が判明し,それによると,Total CPKが839単位,CPK-MBが97単位であった。CPKは骨格由来のもの(CPK-MM),脳由来のもの(CPK-BB)と心筋由来のもの(CPK-MB)があるが,CPK-MBは心筋細胞由来の逸脱酵素であるので,全体のCPKに対するCPK-MBの割合が10パーセント以上のときには,心筋細胞の崩壊が存在すると判断される。
そこで,前記補助循環中止後,各種薬剤(ノルアドレナリン,ドーパミン,コアテック等)の投与を行い,午後9時45分から午後9時55分まで限外濾過変法を行い,750mlの除水をした。しかし,低心拍出量症候群が進行(心拍出量1.7L/分)し,午後9時55分に心室頻拍となったため,再度補助循環を開始した(前記の午後9時38分の補助循環中止の17分後のことである。)。ところが,補助循環を行うと心機能が回復するが,これを止めると右室機能の低下が起こるので,かかる状況から,被告Y1,E医師,D医師及びI医師は,右冠状動脈の閉塞による心筋梗塞以外に考えられないということで意見の一致を見た。そこで,午後10時5分ころから午後10時25分ころまでの間,E医師が手術に参加し,Aの心臓表面から右冠状動脈を触知すると,1,2番領域では冠状動脈壁の緊張がよく触知されるが,3,4番領域での冠状動脈壁の緊張は不良であり,以上の所見から,被告Y1,E医師,D医師及びI医師は,右冠状動脈3番領域の周術期心筋梗塞(PMI)と判断した。かかる判断に対し,B医師は,何ら反対意見を述べなかった。なお,冠状動脈の触知は,冠状動脈外科では通常行う方法であり,心臓外科的常識に属することであって,バイパスで対処すべき冠状動脈の性状,即ち,動脈硬化の程度,石灰化の有無,心筋内埋没の有無,緊張性の認知,切開部位の決定,バイパス術後の末梢側の血流の程度の判定などのために行うものである。
さらに,大動脈冠状動脈バイパス術前の右室の拡大(乙2・27頁),CVP15-18mmHg,LA10-15mmHg,心拍出量2L/分以下といった所見は,極度の心機能低下を示すものであった。
午後10時32分ころ補助循環を中止した。
(9) そこで,E医師とG医師による大伏在大静脈を用いた大動脈冠状動脈バイパス術(CABG)(上行大動脈と右冠状動脈3番領域の間。以下「右冠状動脈バイパス術」という。)が行われることになり,午後10時36分に右冠状動脈バイパス術のため体外循環を開始し,次いで,午後10時53分に大動脈遮断を開始し,E医師の執刀により同バイパス術を施行した。被告Y1は,E医師が右冠状動脈バイパス術を開始した時点で,手術室を退室した。そして,午後11時27分に大動脈遮断を解除し,右冠状動脈バイパス術中の心停止時間は34分であった。その後,18分間の短い補助循環後である午後11時45分に体外循環を中止した。その後は補助循環を反復することなく,極めて容易に体外循環から離脱することができた。心機能も改善してきたので,E医師は,その後の措置をB医師に委ねた。午後11時49分から翌9月29日午前0時17分(以下は9月29日のことである。)までの28分間限外濾過変法を施行し,2000mlの除水を行った。体外循環離脱後,薬剤(ノルアドレナリン,ドーパミン,ドブトレックス,コアテック,プロスタグランディン)を投与したところ,心拍出量は改善し,前記体外循環中止から25分後の午前0時10分には心拍出量が4.6L/分(術前の心拍出量は4.74L/分)に回復した。そこで,B医師は,送血管,脱血管を抜去するべく,午前0時15分にプロタミンを投与し,脱血管を抜去した。しかし,プロタミン投与後18分後から血圧が徐々に低下し,徐脈も進行したため,午前0時42分にヘパリンを注入し,午前0時46分に再度脱血管を挿入して,午前0時48分(体外循環中止から63分後)に再度補助循環を開始した。そして,補助循環開始から32分後の午前1時20分には,右大腿動脈送血,右大腿静脈脱血による経皮的循環補助装置(PCPS)を装着・作動させ,午前1時27分に体外循環を止め,経皮的循環補助装置のみによる循環補助に移行し,AはそのままICUに入室となった。そして,Aに対し,前記各種薬剤等による薬剤治療や機械的循環補助を行ったが,循環不全を克服することができず,Aは,午後2時34分に死亡するに至った(なお,乙2・74頁のprogress notes(手術室看護師の口頭説明をICU看護師が書きとどめたもの)には,「CABG施行後心肺離脱行うがVF(心室細動)出現しDC(除細動)20J2回 30J3回施行し」と記載されているところ,これらの出来事は,パッチ縫着後大動脈遮断を解除した9月28日午後6時50分からCABG施行前の同日午後9時55分までの間に起こったことであり,明らかに誤った記載であって,手術経過に即したものではない。)。
B医師は,9月29日,Aの死亡診断書を作成したが,その主要手術所見として「上行大動脈壁の脆弱」と自ら記載している。
(10) 本件の約19時間に及ぶ手術中の出血量は,ガーゼ付着血については,①午後3時24分の体外循環停止前の出血量が,午後1時の36cc,午後2時20分の96cc,午後3時15分の154cc,合計286cc,②午後3時24分の体外循環停止時から午後4時40分のパッチ縫着のための体外循環再開までの76分間の出血量が,午後3時30分の227cc,午後4時30分の600cc,合計827cc,③午後4時40分の体外循環再開後の出血量が,午後7時30分の812ccであり(したがって,①から③の合計は1925ccとなり,乙2・33頁の「1475cc」との記載は誤りである。),残存セルセーバー血については2710ccであるから,手術中の全出血量は4635ccであった。これに対して使用した血液量は4400ccであった。
(11) 本件においては,Aの剖検が行われていないため,右冠状動脈閉塞の原因及び死因を確定することはできなかった。
また,被告Y1は,9月29日にはA死亡の事実を知らされておらず,翌30日に初めてAの死亡を知った。
2 争点(1)(本件手術における被告Y1の手術手技上の過失の有無)について
(1) 本件鑑定の結果によれば,以下のとおり認められる。
ア 大動脈弁置換術のための大動脈切開法は,一般に斜切開(大動脈の左上方から右下方,無冠尖に向かって切開する。)と横切開(右冠状動脈口から7mmないし8mm遠位側で弁輪にほぼ平行するように切開する。)が使われる。弧状切開は,横切開では切開線が右冠状動脈口に近いため,切開線をより右冠状動脈口より離して安全を図るために,切開線を弧状に遠位側に凸にした優れた切開方法であるということができる。ただし,切開線は弁輪に近いほど弁がよく見え,弁置換が行いやすいが,切開線が弁輪や冠状動脈口に裂け込んだりした場合に,処理が困難となるので,切開線の両端は,それぞれ弁輪から5mmないし10mm,切開線中央では右冠状動脈口から10mm以上離して,安全域を取るのが普通である。
イ 移植される弁の大きさは,第1に患者の必要とする大動脈弁口面積になるべく近い弁口を持った人工弁を使用すべきである。しかし,実際には,人工弁の弁口面積は,縫着用のリングのために患者の生理的弁口面積(正常人のそれは4cm2前後といわれている。)には達しない。第2に人工弁の大きさと大動脈弁輪の大きさが,近い方が術後の弁周囲逆流が発生しにくいので,サイズに大差のある人工弁は避けるのが賢明である。
ウ 人工弁の縫着に際してはプレジェットを使うこと,大動脈切開縫合に際して短冊状フェルトを枕にしたU字縫合に重ねて連続縫合を行うのは,従来より行われている一般的な方法であり,いずれも大動脈壁が脆弱な場合には必ず使用される方法である。プレジェットは,組織(大動脈壁)を補強し,組織の断裂を防ぐとともに,針穴からの出血を防ぐ効果がある。
エ 大動脈壁の脆弱性は,大動脈壁の抗張力によって示されるが,生体では測定できないため,臨床的には,大動脈壁の抗張力を反映していると思われる大動脈の拡大の有無及び程度(大動脈の拡大は,大動脈壁にかかる張力と大動脈壁の抗張力の関係で生じるので,大動脈壁が弱いほど大動脈の拡大は起こりやすい。)に影響する因子(血圧の経過,大動脈弁閉鎖不全の経過,年齢など)を参考にして,大動脈壁の脆弱性を推測する。大動脈壁が脆弱でなければ,大動脈の拡大は起こらないので,大動脈の拡大があれば大動脈壁が脆弱であるとの推測が可能である。
また,大動脈壁が脆弱となる原因として,加齢による大動脈壁の粥状変性や石灰化及び中膜の退行性変性があげられ,大動脈の石灰化,粥状変性がなくとも,上行大動脈中膜(以下,上行大動脈中膜を指して「中膜」ということがある。)の退行性変性があれば,大動脈壁の脆弱化の原因となるので,石灰化や粥状変性がなければ大動脈壁の脆弱性が否定されるとはいえない。中膜の退行性変性をきたす疾患等として,加齢,大動脈弁閉鎖不全,大動脈弁狭窄,高血圧,突発性大動脈基部拡張症,floppy valve,Marfan症候群等があり,とりわけfloppy valveがあるときは中膜の変性も併存するといわれている。組織学的には,大動脈の拡大が高度な症例ほど中膜の退行性変性が高度であるといわれている。大動脈が薄く,脆弱な症例は,高齢者の大動脈弁閉鎖不全,特に上行大動脈が拡大している場合にかなりの頻度で見られる。そして,大動脈弁置換術の縫合部からの出血は,時に中等度(何本も追加縫合を要する,さらに大動脈の人工血管による出血部を含めたwrappingを追加することもある。)の出血もあり,さらに重度(人工心肺を使って,縫合部を開放して再点検し,大動脈壁の亀裂などの出血の原因を確認してから止血を行う。)の出血も稀にはあるが,これらは,大動脈壁が薄く,中膜の退行性変性があると推測される症例で起こりやすいとされている。
なお,大動脈壁の脆弱性の程度,換言すれば,直接縫合閉鎖で足りるか,あるいは縫合部からの中程度又は重度の出血のため前記のような処置を要することになるかを,術前あるいは縫合前に確実に知ることは不可能である。
オ 連続心停止の許容時間は,大動脈遮断時の心筋保護法によって異なるが,一般的に4時間はまったく安全,問題がないとされている。報告によっては5時間,あるいはそれ以上とも発表されている。間歇的停止の場合は,連続的心停止よりも,一般的には心停止許容時間が延長すると考えるのが妥当であるといえる。しかし,これには多くの因子が影響するので一概にいえず,例えば,1回目の心停止時間が,心筋が十分に回復できる許容範囲内の時間であれば著明に延長するが,1回目の心停止時間が,心筋が回復できる許容時間を超えている場合は延長しないと考えられる。さらに,1回目と2回目の心停止間の時間,即ち心筋が再灌流されて虚血より回復する時間が影響するし,再灌流中の血圧も影響する。そして,大動脈遮断時間が許容時間を超えて,いったん心筋が傷害され,両心不全が起こると,心機能は短時間では回復しないとされている。
(2) 以上を前提に,本件手術における被告Y1の手術手技上の過失の有無について判断する。原告らは,被告Y1が,上行大動脈の切開すべきでない部位を切開し,縫合閉鎖を不完全に行った過失があり,かかる過失により,大動脈壁からの大出血を招来させ,その止血のための大動脈遮断・心停止が長時間に及んだ結果,Aを両心不全によって死亡させたと主張するので,以下において順次検討を加える。
ア まず,本件手術において被告Y1が採用した切開方法は,前記1の(5)で認定したとおり,大動脈の左上方である左冠尖と右冠尖の交連の上部から右下方である無冠尖中央部より左冠尖寄りの部位に向かって,弧状に切開するものであり,被告Y1は,かかる弧状切開が,右冠状動脈口から離れることができ,弁輪への到達が容易であって,極めてよい視野が得られること等が利点であるとして,長年にわたり採用してきたものである(乙38,68の1,被告Y1本人)。本件鑑定も,被告Y1が行った弧状切開を,右冠状動脈口より離して安全を図るために切開線を弧状に遠位に凸にした優れた切開法であると評価しており,原告らが提出・援用するJ医師作成の鑑定意見書(甲28の1。以下「J意見書」という。)も,「逆V字切開であるので,右冠状動脈口から遠ざかる方向への切開法である」として支持している。
原告らは,被告Y1が行った弧状切開が,成人の大動脈弁閉鎖不全の症例においてはほとんど行われていない方法であると主張し,証人Bも,「弧状切開というものは知らない。」と供述し,さらに,「概して大動脈弁閉鎖不全症例で用いる切開法ではない。」と述べる(甲25)など,原告らの主張に沿う供述をしている。しかしながら,証人Bの供述自体,「弧状切開を知らない」という一方で,「大動脈弁閉鎖不全症例で用いる方法ではない」と断言し,供述自体矛盾している上,なぜ弧状切開が大動脈弁閉鎖不全症例で用いる切開法ではないのかについて,理由・根拠をまったく示しておらず,採用することはできない。
イ(ア) 原告らは,被告Y1が,上行大動脈の右冠状動脈口にごく近い部位まで切開したと主張するが,本件の全証拠によってもかかる事実を認めることはできない。のみならず,被告Y1が行った弧状切開では,大動脈の左上方から右下方へ上に凸の形に切開するのであるから,最も弁輪に接近するのは切開線の右端であるところ,切開線右端と右冠状動脈口との間には,右冠尖・無冠尖間交連部があるため,切開線右端が右冠状動脈口にごく近い部位であるということは,解剖学的にあり得ないというべきである。なお,B医師が記載した手術所見(乙2・23頁)には,「右冠状動脈口に近い場所まで切開が行われていたため,5-0proleineによる水平縫合を1本ずつかけ,人工パッチとの吻合を行った。」と記載されている。しかしながら,前記1の(7)で認定した事実及び証拠(乙2,63の1・2)によれば,上記記載は,大動脈弁置換術終了後,出血が止まらないので,人工血管パッチ縫合を行う目的で,パッチ縫合に先立って,大動脈壁閉鎖部分のフェルト,縫合糸,損傷した組織すべてを切除し,さらにこの縫合部切除で生じた欠損孔よりさらに下方に2箇所のスリットができていたので,これも切除して1つの欠損孔とした際,かかる縫合部等の切除後にできた欠損孔の下縁線のことを指した所見であって,最初の大動脈切開の際にできた切開線を表現したものではないと認めるのが相当であり,最初の大動脈切開の切開線について表現したと誤解されかねないB医師の記載は,不適切なものであるといえる。
(イ) 次に,原告らは,被告Y1が行った切開部位は,その右側への切開線が弁輪部に極めて近く,弁輪との距離が約5mm程度しかなかったため,縫合する部分の幅が狭小となり,縫合が不完全なものとなったと主張し,証人Bは,「被告Y1が第1刀を入れた時に,「あっ,危ない」と言った。」,「弧状切開が弁輪上のどのあたりまで行われたかについて,測っていないけれど,弁輪上5mm程度のところであった」と述べ,また,「乱暴な手技により大動脈切開は弁輪近くまで裂けていた」と述べている(甲25)。しかしながら,前述のとおり,B医師は,本件手術当時弧状切開の存在を知らなかったというのであるから,被告Y1の執刀に注意を喚起するような発言をすることはあり得ないし,証人Bが述べる「弁輪上約5mm」というのも,「弁輪近くまで裂けていた」というのも,計測に基づかない単なる印象を述べているにすぎないことがその供述自体から明らかであり,採用することができない。
一方,被告らは,「本件手術においては,大動脈壁で,左冠尖と右冠尖間の交連上約15mmの部位から無冠尖に向かって弁輪上約10mmのところまで弧状切開を行い,切開線の中央部では大動脈弁付着部から最大40mm上方,右冠状動脈口から25mm上方であったと主張し,被告Y1本人もこれに沿う供述をし,乙17にも同様の記載がある。しかし,B医師が記載した手術記録には,上行大動脈の切開線が右冠状動脈口から何mm離れているのか,弁輪から何mm離れているかがまったく記載されていないので(本件鑑定は,かかる事項は当然手術記録に記載されていなければならないことを示唆している。),上記被告Y1本人の供述及び乙17の記載はそのまま採用することはできないというべきである。
もっとも,前記2の(1)ア記載のとおり,弧状切開では,切開線の両端がそれぞれ弁輪から5mmないし10mm,切開線中央で右冠状動脈口から10mm以上離して安全域を取るのが普通であるとされているから,切開線の右端が弁輪から5mmまでの弧状切開も是認されていること,被告Y1は,被告大学医学部心臓外科教室の教授として,長年にわたって弧状切開を用いた大動脈弁置換術を行い,自ら弧状切開を論文で紹介し(乙21の1),最近においても,執刀者として年間30症例から46症例の大動脈弁置換術を行っていること(被告Y1本人),大動脈弁置換術には,その手術部位にかんがみ細心の注意と経験及び熟練さが要求されることに照らすと,特段の事情(慣れによる気の緩み,慢心,術者としての技量の衰え等)の認められない限り,被告Y1が本件手術で行った弧状切開も,同被告が従来と同様に通常の業務として行っている切開方法により施行されたものと推認され,従って,少なくとも切開の両端がそれぞれ弁輪から5mmないし10mm,切開線中央で右冠状動脈口から10mm以上離したものであったと認めるのが相当である。そして,本件においては上記特段の事情の存在をうかがわせる証拠はないから,被告Y1が本件手術において行った弧状切開の切開部位は適正であったと認められ,B医師が強調する「乱暴な手技」ではなかったというべきである。
なお,付言すると,人工弁の弁座は1mm以下であり,人工弁の縫着線は,右冠尖と無冠尖の交連,無冠尖と左冠尖の交連及び左冠尖と右冠尖の交連レベルよりも下方であるから,仮に切開線の右端が弁輪から5mmしか離れていなかったとしても,人工弁の縫着線は切開線右端から21mm離れているので,大動脈切開部の縫着にはまったく支障をきたさないことが認められる(乙27,30,33,34,68の1)。
(ウ) 原告らは,被告Y1が,本件手術中に用いた摂子で大動脈壁を傷つけ,15mmと8mmの2箇所のスリットを生じせしめたと主張し,証人Bも,「被告Y1は,出血部に対する追加縫合する際に,摂子で「ずうっ」という感じで大動脈壁を損傷した。」と供述し,さらに,「摂子の突きは深く大きかった」旨を述べ(甲25),上記2箇所のスリットが被告Y1の用いた摂子による損傷であることを強調している。
これに対し,被告Y1は,「大動脈弁置換術終了後,B医師が持針器を持って縫合糸を掛け,それを被告Y1が摂子で介助していたところ,B医師の縫合で加わる力と被告Y1の押さえる力とのバランスの不均衡のため,被告Y1が持った摂子が大動脈壁を傷つけた。しかし,これによる損傷は,その後の追加縫合で止血できた。」と述べている(乙16,26,被告Y1本人)。摂子は,長さ20cm・先端の幅3.42mmの血管などを把持するための器Bであり(乙37),脆弱な大動脈壁をことさら摂子の先で強く突いたりした場合,大動脈壁が裂ける可能性は否定できないものの(本件鑑定の結果),証人Bの上記供述は,被告Y1がいかなる状況の下で,大動脈壁を深く強く突いたのかが明らかではない上,B医師が運針して縫合するのを被告Y1が摂子で介助している状況下で,被告Y1が誤って摂子で大動脈壁を強く,しかも複数回にわたり(8mmと15mmのスリットは,別々の箇所に生じているから,1回の摂子の突きで生じ得るものではない。)突いたりするという場面はにわかに想定し難いところであるし,前記1の(6),(7)で認定のとおり,追加縫合終了後の午後3時24分に体外循環を止め,その10分後には送血管および脱血管を抜去できたのであるから,その時点では,被告Y1の摂子による損傷都分も止血できていたものと認められ,上記2箇所のスリットは午後3時24分よりも後に生じたものといわざるを得ない。そうすると,証人Bのこの点に関する供述は採用できず,被告Y1の供述により合理性が認められるから,前記8mmと15mmの2箇所のスリットは,いずれも被告Y1が用いた摂子によって生じたものとは認められない。
なお,J意見書は,15mmのスリットのみが,「摂子による損傷があったとすればその結果であろうと想像する。」と述べるにとどまり,かつ,15mmのスリットのみを被告Y1の摂子による損傷であるとする説明の根拠が十分に示されているとはいえないから,何ら前記認定説示を左右するものではない。
(エ) 被告Y1は,前記1の(5)で認定のとおり,弁切除後,被告Y1が考案したサイザーを用いて弁輪径を測定した結果27mmであったので,径25mmの人工弁(SJM-25A)を縫着し,大動脈壁の閉鎖縫合に際して15mmの短冊状フェルトを使用したものであるところ,かかる処置について,証人Bは,「SJM弁を入れる場合には,SJM弁専用のサイザーで計測しなければ正確な弁輪径を計測することができない。被告Y1が考案したサイザーは,無理に押し込めばいくらでも大きなサイズになり,必要以上に大きな人工弁を入れる結果となる。Aの場合は径23mmの人工弁で十分であった。幅15mmの短冊状フェルトの使用は,サイズが巨大でミスマッチであった。その理由は,弁輪から約5mm近くまで切開したので,縫着された人工弁から切開を受けた上行大動脈までの距離が非常に短く,そこに15mmの短冊状フェルトを用いることは縫い代を十分に確保して縫合することができなくなる。」と供述し,また,「装着されたミスマッチなサイズのSJM弁の弁座が大動脈切開線の右端からはみ出しており,ミスマッチな大きさの短冊状フェルトのため、確実な縫合ができなかった」と述べている(甲25)。
しかしながら,被告Y1が考案したサイザーは,先細りで表面が滑らかであるので,弁輪部への挿入が容易であり,サイザーの測定部分が他のサイザーより長いことから,より正確に弁輪径を測定することができ,一方,SJM弁専用サイザーは直径が一定しないので,これを用いるとむしろ正確性に問題が生じることが指摘されるているから(乙26,29,38,被告Y1本人),Aの弁輪径が27mmであったことは正確な計測結果と認められ,被告Y1がサイザーを無理に押し込んだことを認めるに足りる証拠はない。そして,前記2の(1)イのとおり,移植される人工弁の大きさを決めるに当たっては,第1に,患者の必要とする大動脈弁口面積を持った人工弁を使用すべきであり,第2に,人工弁の大きさと弁輪の大きさは近い方が,術後の弁周囲逆流が発生しにくいので,サイズに大差のある人工弁を避けるのが賢明であるとされていることに徴すると,27mm径の大動脈弁輪にとって25mm径のSJM弁が最適の人工弁であることは明らかである。
また,B医師が記載した大動脈の縫合図(乙2・25頁)では,証人Bが述べるようなはみ出した弁座は描かれておらず,適切に縫合されていたことが図示されている上,本件のように,大動脈の切開縫合に際して,糸切れを防ぐために短冊状フェルトを枕としてU字縫合を行うのは,従来から行われている一般的な方法とされており,J意見書もこれを認めているところである。
以上によれば,証人Bの前記供述は採用することができない。
ウ ところで,原告らは,B医師が記載したカルテに「Aの大動脈壁が脆であった」との記載がないから,Aの大動脈壁が脆弱であったとは認めることができず,そもそも,「大動脈壁の脆弱」というのは突然被告Y1が言い出した言い訳にすぎず,B医師が作成した死亡診断書の手術主要所見欄に「上行大動脈壁の脆弱」と記載があるのは,被告Y1がそのように記載するよう指示したからであると主張し,証人Bもこれに沿う供述をしている(甲25,証人B)。
しかしながら,前記(1)のエで述べたとおり,大動脈壁が脆弱であるほど大動脈の拡大は起こりやすく,大動脈壁が脆弱でなければ大動脈の拡大は起こらないので,大動脈の拡大があれば大動脈壁が脆弱であるとの推測が可能であること,大動脈の石灰化,粥状変性がなくとも,中膜の退行性変性があれば,それが大動脈壁の脆弱化の原因となること,中膜の退行性変性をきたす疾患等には,加齢,大動脈弁閉鎖不全,高血圧,floppy valveがあること,組織学的には,大動脈の拡大が高度な症例ほど中膜の退行性変性が高度であるといわれており,大動脈壁が薄く脆弱な症例は,高齢者の大動脈弁閉鎖不全,特に上行大動脈が拡大している場合にかなりの頻度で見られること,大動脈弁置換術の縫合部からの中程度及び重度の出血は,大動脈壁が薄く,中膜の退行性変姓があると推測される症例に起こりやすいとされているところ,前記1の(1),(2),(5)で認定したところによれば,Aの弁輪径は27mmであり,Aの体表面積1.67m2の正常弁輪径の137パーセントと明らかに弁輪が拡大していること,術前胸部レントゲン写真によると,Aの胸部大動脈は全体に拡張及び延長していたこと,CT像では上行大動脈径が40mm×37mm(正常の190パーセント)と著明に拡大していたこと,Aは67歳の高齢で,現に大動脈弁閉鎖不全に罹患し,高血圧の既往があったのであるから,Aの大動脈壁は薄くて,脆弱であったと認めるのが相当である。そして,すでに認定したとおり,大動脈切開部を短冊状フェルトを用いて慎重に縫合したにもかかわらず出血が生じ,止血のために結節縫合を追加すればその針穴から出血し,糸を結紮すれば糸切れを起こして,次から次へと出血してきたこと,さらに,人工血管パッチによる再修復時に8mmと15mmの2箇所のスリットが生じた原因は,縫合糸の牽引による大動脈壁の傷害が大動脈遮断解除後に大動脈壁にかかる張力によって拡大し,引き裂かれたものと推測されること(本件鑑定の結果。通常の大動脈壁の場合は,縫合によって生じる大動脈壁への傷害が,張力によってスリットに発展する可能性は極めて低いとする。)は,Aの血管組織が脆弱で薄かったことを裏付けるものというべきであり,それゆえ,B医師は,術中の午後5時ころ,原告らへの経過説明において,「予想以上にAの血管がもろくて,縫合部から出血が続いている。」と説明し,また,Aの死亡診断書の主要手術所見として,「上行大動脈壁の脆弱」と自ら記載したのである。そして,被告Y1は,本件手術時にAにはfloppy valveが認められた旨供述しており,Aにfloppy valveが認められるならば,前記Aの度重なる出血をより合理的に説明することができること(甲27)からすれば,Aの大動脈壁の脆弱化の原因として,加齢,高血圧,大動脈弁閉鎖不全のほか,floppy valveも存在し,これらすべての臨床的要素が関与していたものと認めるのが相当である(なお,証人Bは,Aにはfloppy valveが存在しなかった旨を供述をするが,一方でfloppy valveは見たことがないと述べているのであるから,floppy valveの存在を否定する供述は採用できない。原告らは,本件鑑定における大動脈壁の脆弱性に関する記述をるる論難するが,それが失当であることは以上の認定説示から明らかである。)。この点について,証人Bは,上記の術中の説明及び死亡診断書の説明が,いずれも被告Y1の指示によるものであると供述するが,前記1の(6),(8),(11)で認定のとおり,被告Y1は,午後3時ころから午後9時20分ころまでの間手術室にいなかったし,B医師が死亡診断書を作成した9月29日当時,Aの死亡を知らなかったのであるから,B医師にそのような指示を行うことは不可能であり,この点のみからしても証人Bの供述は明らかに事実に反しているというほかはない。
また,原告らは,「上行大動脈壁の脆弱」がカルテに記載されていないことをもって,Aの大動脈壁が脆弱ではなかったことの根拠としている。しかし,カルテの記載は,Aの主治医で,本件手術の第1助手を務めていたB医師が行っていたものであるところ,すでに述べたように,B医師は,大動脈切開線が右冠状動脈口から何mm離れているか,切開線右端が弁輪から何mm離れているかという重要な事項すら記載せず,かつ,証人Bによれば,B医師のカルテ記載の方針は,手術経過に従って正確かつ詳細に記載するのではなく,B医師が主要であると判断した事項を記載するにすぎないものであることが認められる上,B医師が「上行大動脈の長さの延長や石灰化,粥状変性等は認められず,触知でも大動脈の脆弱性を疑う所見はなかった」との認識のみをもって,大動脈壁の脆弱性を否定する根拠としており,中膜の退行性変性による脆弱の可能性を考慮していないこと(甲7)に照らし,B医師には中膜の退行性変性と大動脈壁の脆弱化との関連性についての医学知識がなかったと考えざるを得ないことに徴すると,B医師記載のカルテに「上行大動脈壁の脆弱」が記載されていないからといって,かかる事実が存在しなかったとはいえない。
エ さらに,原告らは,Aは,被告Y1の手術手技上の過失によって,大動脈遮断・心停止が長時間に及んだことによる両心不全によって死亡したものであり,周術期心筋梗塞が発症したものではないと主張する。
しかしながら,そもそも被告Y1に手術手技上の過失が認められないことはこれまでに詳論したところであるから,上記原告らの主張はその前提を欠くものといわなければならないが,なお原告らの主張につき付加判断することとする。
前記1の(7)ないし(10)で認定の事実に,前記(1)のオで述べているところ並びに証拠(乙2,16)及び本件鑑定の結果を総合すると,以下のとおり判断するのが相当である。
(ア) 9月28日午前11時から午後1時3分ころまでの約113分間及び午後5時ころから午後6時50分ころまでの約110分間の合計223分の間歇的大動脈遮断は,心停止時間許容時間を超えていない。1回目の心停止時間が113分間で,心筋の十分な回復が可能な虚血時間であり,さらに,2回目の心停止までに4時間の間隔があり,再灌流により心筋が十分に回復していたと考えられる。したがって,この状況においては,2回目の心停止時間110分間は十分許容範囲内であり,その安全性について疑問の余地はない。
(イ) 9月28日午後9時30分ころ,右室の動きが悪いことに気づき,採血検査したところ,午後9時55分ころにCPK-MBが97単位に上昇していることが判明したものであり,この検査結果は心筋梗塞が起こったことを示唆しており,右室の動きが悪い所見(右室梗塞)とよく一致している。右室梗塞は右冠状動脈の閉塞によって起こるものであり,その後右冠状動脈バイパス術が行われて,午後11時27分に梗塞領域が再灌流され,再灌流18分で人工心肺を離脱し,離脱後の25分の時点での心拍出量は4.6L/分となっているところ,これは午後9時55分の心拍出量1.7L/分と比較して著明に増加している。このように,右冠状動脈バイパス術によって心臓が心筋梗塞から回復したことは,右室梗塞が発生したことを裏付けるものである。これに対し,許容時間を超える大動脈遮断により心筋が傷害され,両心不全が起こった場合には,短時間で心機能が回復することはない。
なお,原告ら側が作成した資料(乙6)によっても,B医師は,原告らに対し,Aに心筋梗塞が起こったことを説明していたことがうかがわれる。
(ウ) 本件手術における出血量は,ガーゼ出血量1925ccとセルセーバー血2710ccを加えた4635ccであるが,輸血量4400ccをもって逐次輸血を行い,全身の循環血液量を損なわないように管理されていたものであり,この程度の出血量では回復に大きな影響を与えるものではなかったと考えられる。
(エ) 以上の認定説示に反する甲25及びJ意見書は,本件鑑定の結果及び乙68の1と対比して採用することができない。
そうすると,Aに周術期心筋梗塞が発生したことが強く推認されるものというべきであって,原告らが主張するように,心停止が長時間に及んだことにより両心不全が生じてAが死亡したものとは認められない。
オ 以上アないしエの認定説示によれば,本件手術開始後にAの上行大動脈壁が通常より脆弱であることが判明したため,短冊状フェルトを枕として使用して慎重に切開部位の縫合閉鎖をしたが,大動脈壁が予測を上回って脆弱であったため,予測しないスリットが2箇所発生し,止血困難に陥ったことから,かかる事態に対処すべく人工心肺を再導入して大動脈縫合部を開き,大動脈壁の弱い部分を切除し,大動脈内膜側から人工血管パッチを縫着して,止血したものであり,その後Aに生じた右室の心筋梗塞に対しても適切に冠状動脈のバイパス術を施行して,心機能の回復に成功したのであるから,被告Y1の手術は適切妥当なものであり,その手技には何らの過失もなかったものと認められる。
3 争点(2)(被告病院の医師がAの大動脈壁が脆弱であることを見落とした過失の有無)について
原告らは,Aに大動脈壁の脆弱化があったとすれば,被告病院においてこれを見落とし,そのための注意をしないまま本件手術が行われたことは,明らかに診断の過誤であると主張するが,前記2の(1)エのとおり,大動脈壁の脆弱性は大動脈壁の張力によって示されるので,生体では測定できない上,大動脈壁の脆弱性の程度を術前あるいは切開部の縫合前に確実に知ることは不可能であるから,被告病院の医師に原告ら主張の過誤を認めることはできず,この点に関する原告らの主張は理由がない。
4 争点(3)(被告病院の医師らによる説明義務違反の有無)について
原告らは,Aが安心して本件手術に臨んだのは,B医師であれば任せられるという気持ちになり,AとB医師との間に確固たる信頼関係が芽生えたからであり,B医師が中心となってAの本件手術を進めるという意味でのインフォームドコンセントが成立していたこと,被告Y1が,9月22日の総回診の際にもAを診ておらず,Aにも原告らにも説明することなく,突如本件手術の執刀者となったものであり,原告らがかかる事実を初めて知ったのは10月15日であるとの事実を前提に,被告Y1が執刀するのであれば,被告Y1は,自身が執刀することをB医師に伝えた上で,あらためて手術の内容等や被告Y1自身が執刀者となることをA及び原告らに説明し,インフォームドコンセントを形成すべき義務があり,また,被告病院は,被告Y1及びB医師に説明義務を尽くさせなかった責任がある旨を主張している。そして,証人Bは,「A及び原告らに対し,B医師が中心となって,本件手術を行うと説明し,その後,被告Y1から,『被告Y1も本件手術に入れてくれ。B医師の邪魔はしない。手術はB医師がやったらよい。』と言われたので,被告Y1が執刀するとは思わなかった。」と供述し,原告X1も前記主張に沿う供述をしている(甲15,原告X1本人)。なお,被告Y1及びB医師が,被告Y1が本件手術の執刀者となることをA及び原告らに説明していなかったことは争いがない。
しかしながら,前記1で認定した事実及び証拠(乙15,16,38,被告Y1本人)によれば,(1)Aは,城山病院循環器内科の専門医であるC医師の管理を受け,その診断によって本件手術の必要性を説明されて,熱心に手術を受けるよう説得され,自覚症状もあったことから,被告病院で本件手術を受けることを決心したこと,(2)城山病院循環器内科は,その創設に被告病院とりわけ被告Y1が関わっており,被告病院との連携が強かったことから,C医師は,Aに被告病院での手術を強く勧め,被告病院のE医師に紹介状を書いたこと,(3)Aは,被告病院に入院後,9月28日に予定された本件手術に向けて種々の術前検査を受け,また,看護スタッフの説明や,同室の同病者からも手術に関する情報を得ていたこと,(4)本件手術を含め心臓外科の手術は,1人の医師だけで行えるものではなく,最も重要な部分を担当する術者とこれを補助する助手などが2ないし4人のチームを組んで行うものであり,本件手術のチームは,Aの紹介を受けたE医師が中心となって医局で決定したが,執刀者はD医師であり,主治医のB医師は慣例に従い第1助手を務めるという態勢であったこと,(5)B医師は,被告病院在勤中,開心術6症例を含む30症例の術者となったことはあるものの,関与した大動脈弁置換術11症例では術者になったことはないこと,(6)「麻酔承諾書」のB医師作成部分では,主治医欄にはB医師の名前を記載しているが,術者欄にはB医師の名前を記載せず,空欄のままにしていること,以上の事実が認められる。
かかる事実に徴すると,Aの主治医ではあるものの,大動脈弁置換術の術者としての経験もないため,本件手術チームの術者に指名されていないB医師が,A及び原告らに対して,「B医師が中心となって本件手術を行う」とは説明するはずがなく,しかも,その説明に際し,証人Bの供述によれば,「B医師が中心となって本件手術を行うことについて,術者であるD医師の承諾は得ていない」というのであり,さらに,被告大学医学部心臓外科教室を主宰する教授たる被告Y1が,同心臓外科教室の助手で本件手術の術者でもないB医師に,「B医師の手術を邪魔しないので,入れてくれ」などと言うこと自体あり得ないことであり,かかる証人Bの供述自体,不自然かつ不合理というほかはない。
また,前記1の認定のとおり,原告らは,術中に手術室から出てきたB医師の説明を受けていたのであるから,当然B医師が本件手術の執刀者でないことは知り得たはずであるところ,原告らは,B医師が執刀者でないことにつき驚いたり,異議を述べたりもせず,誰が執刀者であるかについてもまったく関心を示そうとしなかったことが認められる。さらに,Aの生前の日記(甲24)によれば,9月22日の被告Y1の総回診の際,被告Y1がAを診察していることは明らかである。
以上によれば,証人B及び原告X1の各供述等は,いずれも信用することができず,原告ら主張の前提事実を認めることはできない(なお,原告らは,本件訴訟において,事後的に見聞したことを基にした経過記録等を書証として提出援用しているが,かかる経過記録等の作成経緯が必ずしも明らかではないことに照らし,たやすく採用することはできない。)。むしろ,Aは,被告病院に入院前のC医師による熱心な説得により,城山病院循環器内科と関係の深い被告病院心臓外科の手術を受ける決意を固めていたものであって,9月27日のB医師による術前説明によって,初めて本件手術を受ける決心をしたものとは認められず,B医師との間に,原告らが主張するような,B医師が中心となって本件手術を進めるとのインフォームドコンセントが成立していたとはとうてい認め難いのであって,A及び原告らとしては,本件術者を被告病院心臓外科の医師のうちどの医師が務めるのかについては関心がなかったものであるし,B医師にその点の質問をしたこともなかったというべきである。
そうすると,被告Y1には自ら本件手術の執刀者となる旨を説明する義務はなく,被告病院心臓外科の最高責任者である被告Y1の執刀による手術を受けることが,Aの意思に反し,同人の信頼を損ねるものであったとは認められない。
また,原告らは,Aの大動脈壁の脆弱性についても説明義務違反があったと主張するが,被告Y1や担当医師らにかかる説明義務が認められないことは,前記3の認定説示から明らかであるから,この点に関する原告らの主張も理由がない。
以上のとおりであって,原告らの説明義務違反に関する主張はすべて失当というべきである。
5 よって,原告らの請求は,その余の点について判断するまでもなく理由がないからいずれも棄却することとし,主文のとおり判決する。