大阪地方裁判所堺支部 平成4年(ワ)165号 判決 1999年7月30日
原告
辻俊雄
外二名
原告ら訴訟代理人弁護士
上原武彦
被告
国
右代表者法務大臣
陣内孝雄
外三名
被告ら訴訟代理人弁護士
上原健嗣
被告国指定代理人
北佳子
外四名
主文
原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告らは、連帯して、原告辻俊雄に対し、金二一一八万六七七六円、原告辻嘉夫及び原告川中淑子各自に対し、各金一〇五九万三三八八円並びに右各金員に対する平成三年五月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 訴外辻民江(以下「民江」という。)は、被告国が設置管理する病院においてTチューブ挿入術(ステント挿入術)の手術を受けたが、死亡した。
そこで、民江の相続人である原告らが、右民江の死亡は、被告多田の手術過誤であるなどと主張して、被告らに対し、損害賠償を求めた。
二 争いのない事実等
1 当事者等
(一) 原告辻俊雄(以下「原告俊雄」という。)は、民江の夫であり、原告辻嘉夫(以下「原告嘉夫」という。)及び原告川中淑子(以下「原告淑子」という。)は、いずれも原告俊雄と民江との間の子である。
(二)(1) 被告国は、国立療養所近畿中央病院(以下「被告病院」という。)の設置者であると共に被告病院勤務医の使用者である。
(2) 被告喜多舒彦(以下「被告喜多」という。)は、本件当時、被告病院の院長、被告森隆(以下「被告森」という。)は、本件当時、被告病院の副院長及び外科部長であり、いずれも、被告病院に勤務する医師等を監督する地位にあった。
(3) 被告多田弘人(以下「被告多田」という。)は、本件当時、被告病院の医局員(外科医)であり、民江の主治医として後述する民江の手術を担当した。
被告多田は、昭和五一年に大阪大学医学部を卒業後、大阪大学医学部附属病院、大阪厚生年金病院等勤務を経て、昭和五九年八月から被告病院に勤務し、平成二年四月から呼吸器外科医長と麻酔科医長を併任し、胸部外科、特に、呼吸器外科を専門としていた(被告多田、弁論の全趣旨)。
2 事実の経過
(一) 民江は、昭和五一年ころから喘息様発作があり、慢性気管支炎として公害健康被害の認定を受けており、その後も、発熱や肺炎などで入院するなどしていたが、平成二年一〇月上旬ころ、発熱があったため、大阪中央医療生活協同組合うえに病院(以下「うえに病院」という。)で診察を受けたところ、気管狭窄が認められ、陳旧性気管結核後狭窄が疑われたため、平成二年一一月、被告病院を紹介された。
(二) 被告多田は、平成二年一二月五日、原告嘉夫の妻である恵美子らに対し、また、平成三年一月三〇日、恵美子、原告嘉夫及び民江らに対し、民江の病状や二つの手術方法について説明した。
(三) 民江は、平成三年二月四日、被告病院に入院した。
その後、同月一二日までの間に、気管部分のレントゲン撮影、内視鏡等による検査が行われた結果、狭窄部分が複数あるため、Tチューブ挿入の方法により手術を行うこと、手術は被告多田が行うことが決まった。
(四) 平成三年二月一九日午後一時三〇分、被告多田と医師恵谷敏(以下「恵谷医師」という。)の二名により、手術場において局所麻酔による気管切開手術が開始された。
被告多田らは、気管切開後、切開部位から径一〇mm、次いで、径九mmの順でTチューブの挿入を試みたが、いずれも失敗に終わった。
このため、被告多田は、Tチューブの挿入を断念し、もっぱら気道確保を目的として、径の細い気管切開チューブや小児用の細い気管チューブの挿入を試みたが、これもできなかった。
そこで、被告多田は、応援の医師を頼んで気管支鏡で観察しながらチューブを挿入することにした。
応援の医師一宮昭彦(以下「一宮医師」という。)により、気管支鏡自体は挿入できたが、これをガイドとして気管チューブを挿入することはできなかった。
そのころから、気管内の出血のため、民江は息苦しくなり、苦痛のために四肢をバタバタさせ始めた。
直ちに、院内放送により外科医が招集され、集まった六名の医師によって、点滴路、動脈血ルートが確保された。
そして、気管切開部へ細いチューブを挿入し、アンビューバッグを用いて空気を送ろうとしたが失敗し、経口での気管内挿管も試みられたが、チューブの挿入はできなかった。
井内医師の発案で、心臓外科の手術に用いられる人工心肺装置からの送血チューブを用い、これを気管内に挿入することができたが、チューブ内に血液が二、三ml充満し、すぐには換気ができなかったため、血液を吸引し、このチューブを口で吹いて一、二回換気した。
人工心肺用の送血・脱血チューブは、麻酔器に連結できる形状になっていなかったため、その場で急きょ加工して麻酔器に装着され、換気が開始された。
しかし、この間に一時的に心臓が停止したが、昇圧剤の静脈内投与を行いつつ、かつ麻酔器による換気をしつつ、心臓マッサージを一分間ほどした後、心臓は動き出した。
最終的には、七mmの脱血チューブが挿入された。
同日午後四時一九分、手術は終了し、民江は集中治療室に入れられた。
(五) 民江は、人工呼吸器を用いて生かされ、様々な治療が試みられたが、意識は回復せず、同年五月二五日午後三時三〇分、被告病院において死亡した。
三 原告らの主張
1 被告らの責任
(一) 被告多田の責任(不法行為責任)
(1) 説明義務違反
被告多田は、手術の前段階において、死亡の危険性のあることを含め、本件手術に伴う危険性について全く説明しておらず、説明義務に反している。
(2) 本件手術上の過失
① 本件手術は、既述の如く被告多田の執刀により行われた。
被告多田は、気管を切開してTチューブを挿入すべく試みたが、Tチューブの径に比し、民江の気管は狭く、本来であれば直ちに右Tチューブの挿入を止め、径の小さいTチューブの挿入を試みるべきであった。そもそも、民江の気管に一〇mmないし九mmのTチューブの挿入を強行したこと自体、注意義務に反している。
仮に、一〇mmないし九mmのTチューブから挿入したことが是認できるとしても、被告多田は、一〇mmないし九mmのTチューブの挿入ができないことを察知したのであるから、早い段階において、右チューブの挿入の可能性が無いこと、もしくは、それを強行することにより、気管内膜を傷つけ、出血を伴う危険が大きく、ひいては民江をして呼吸困難な状態に陥らせる危険が大きいことに気づき、早々に一〇mmないし九mmのTチューブの挿入を中止すべきであった。
したがって、被告多田があくまでもTチューブの挿入に拘り、多数回にわたって一〇mmないし九mmのTチューブの挿入を試み、気管内膜を擦過した結果、出血させ、民江を窒息死させた行為は、注意義務に違反している。
② 被告多田は、民江の呼吸停止を知り、呼吸を回復させる為、気管切開部からチューブを挿入し、空気を送った。しかし、被告多田は、チューブ挿入の際、操作を誤り、右チューブによって民江の気管の一部を突き破り、その結果、気管を通じて肺内に空気を送ることができずに終わった。その後、さらに、経口挿管を試みたが、これによっても空気を送ることができず、呼吸停止の回復をすることができずに終わった。その後、他の医師の手により、民江の呼吸は回復されたが、前記操作の誤りの間に、既に民江は脳死状態に陥り、結局、本件手術後、意識を回復することなく、その三か月余り後に死亡するに至った。
前記の如き、チューブの操作ミスは極めて初歩的なミスであり、被告多田の過失は明白である。
③ 本件手術において、もっと多くの医師が立ち会っていれば、被告多田に対し、早期にTチューブの挿入を断念すべき旨のアドバイスが与えられ、民江の死の結果が招来されていなかった可能性が大きい。
したがって、事前に十分な人員配置を行わなかった点で、被告多田並びにその上司であった被告喜多及び被告森の注意義務違反は重大である。
④ 気管切開後、民江の気管の内径が四mmと予測に反して細かったことを知った段階で、被告多田は、今回のような事態になることを予測し、一〇mmや九mmのTチューブの挿入を試みる前に、人工心肺装置をセットアップし、いつでも稼働できる状態にしておけば、民江の死は免れたのであるから、人工心肺装置を事前にセットアップしてなかった被告多田には、重大な注意義務違反がある。
⑤ よって、被告多田は、民法七〇九条に基づく不法行為責任を免れない。
(二) 被告国の責任
(1) 債務不履行責任
被告国は、民江と診療契約を締結していたにもかかわらず、前記のとおり各注意義務に反し、民江を死亡させたのであるから、債務不履行責任を負う。
(2) 不法行為責任(使用者責任)
被告国は、被告多田による前記の不法行為につき、その使用者として民法七一五条一項により、損害賠償責任を負う。
(三) 被告喜多及び被告森の責任
被告喜多は被告病院の院長、被告森は被告病院の副院長及び外科部長であって、いずれも被告病院の管理者として、その医師である被告多田を監督すべき立場にあったから、いずれも民法七一五条二項により、損害賠償責任を負う。
2 損害
(一) 葬儀費用 一五三万二六三八円
(二) 付添のための交通費 三五万六一三〇円
(三) 付添看護費用
四五〇〇円×九六日=四三万二〇〇〇円
(四) 入院雑費
一三〇〇円×九六日=一二万四八〇〇円
(五) 逸失利益 一一〇七万五八四五円
平成二年度の賃金センサスによる民江の年収は、二八〇万一六〇〇円(一八万七六〇〇円×一二か月+五五万〇四〇〇円)であり、民江は昭和七年五月一四日生まれで、死亡当時五九歳であったから、新ホフマン係数により逸失利益を算定する。
280万1600円×0.6×6.589=1107万5845円
(六) 慰謝料 二五〇〇万円
(七) 右合計 三八五二万一四一三円
(八) 原告らは、右損害賠償請求権を以下のとおり相続した(一円未満切捨)。
(1) 原告俊雄(二分の一) 一九二六万〇七〇六円
(2) 原告嘉夫(四分の一) 九六三万〇三五三円
(3) 原告淑子(四分の一) 九六三万〇三五三円
(九) 弁護士費用
損害合計額の一割相当を弁護士報酬とし、原告らの法定相続分に応じ負担することする。
(1) 原告俊雄(二分の一) 一九二万六〇七〇円
(2) 原告嘉夫(四分の一) 九六万三〇三五円
(3) 原告淑子(四分の一) 九六万三〇三五円
3 よって、原告らは、被告らに対し、債務不履行及び不法行為に基づく損害賠償請求として、原告俊雄につき二一一八万六七七六円、原告嘉夫及び原告淑子各自につき各一〇五九万三三八八円並びに右各金員に対する民江の死亡の日である平成三年五月二五日から民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
四 被告らの主張
1(一) 被告多田は、平成二年一二月五日、原告嘉夫の妻恵美子に対し、民江の病状及び治療法についておおむね次のとおり説明を行った。
「結核性気管狭窄は、極めてまれな疾患である。本疾患は、肺炎を繰り返したり、痰が詰まって死亡に至ることもある。何らかの処置をする必要がある。処置の方法としては、気管形成術とステント挿入術がある。前者は、技術的にも難しく、合併症も多いが、後者は危険性も低く、実際にうまくいった例もある。」
被告多田は、平成三年二月一五日、民江のほか原告俊雄らに対し、おおむね次のとおり説明を行った。
「結核性の気管狭窄があり、その範囲は比較的長く、狭窄部位も二か所ある。このため肺炎等を繰り返すことがあり、放置すれば、痰が詰まって死亡することもある。その治療法としては、気管を切除して気管の上下を吻合する気管形成術と気管を切開してTチューブを挿入する方法がある。前者は、縫合不全や再狭窄のおそれがあり、危険性が大きいが、後者は、比較的安全であり、局所麻酔で行い、所要時間は一時間程度である。」
(二) 医師の説明の内容・方法については、医師に合理的な裁量が認められるべきであるところ、死亡事故発生の危険性の極めてまれな手術を実施する場合においては、右手術に伴う死亡の可能性を説明しなかったことをもって説明義務違反ということはできない。
本件において、被告多田は、ステント挿入術(Tチューブ挿入術)に伴う死亡の危険性については、特に危険性が無かったため、あえて説明をしなかったものである。
しかも、一般に、気管はある程度の伸縮性を有し、ステントの挿入は容易であるとされており、民江のように伸縮性がなく、その挿入が全く不可能な事態を予測することは不可能であった。
以上のとおり、被告多田の手術前の説明は十分なものであり、本件においては、生命の危険性について説明しなかったことが説明義務に反しているということはできない。
2(一) 民江の病状からすれば、民江に対し、本件手術を行う必要があった。
(二) 気管狭窄に対する治療法としては、気管形成術、ステント挿入術、バルーン拡張術、レーザー等による焼灼術などがあるが、右のうち、バルーン拡張術やレーザーによる焼灼術では、その効果は一時的なものであると予測されること、気管形成術では出血、縫合不全、再狭窄等の合併症が発生するおそれがあることから、本件で採用されたステント挿入術の選択は相当であった。
(三) 民江の症状は、瘢痕狭窄型であり、気管壁を構成する組織自体が硬くなっていて伸展性の少ない病型であるが、このような病型であっても、通常はある程度の伸展性を有するものであり、一般にはそのように考えられていた。被告多田も同様の認識を有しており、本件手術前の予想では、狭窄の程度は六mmであるから、出血があっても吸引器によって容易に排出することが可能であると考えていた。
しかしながら、本件では右のような一般的知見と異なり、全く伸展性を欠いていたのであり、このように伸展性のない状態を事前に予見することは不可能であった。
(四) 本件手術は狭窄部分をできる限り広げて呼吸困難を解除することが目的であり、狭窄部分もある程度の伸展性を有するのが普通であるから、径の太いTチューブから挿入を試みたことが不適切であったとはいえず、しかも、挿入方法についても注意が払われ、慎重に行われているのであるから被告多田に過失はない。
すなわち、被告多田は、Tチューブを挿入するについて、内腔の確認や呼吸状態の観察をするなど、患者の全身状態を常に把握しながら、慎重に処置を行っていたものであり、漫然と同じ処置を繰り返して行っていたものではない。
また、被告多田は、順次径の細い各種のチューブの挿入を試み、また、気管支鏡に沿わせたり、やや太めのスタイレットと呼ばれる芯のようなものをガイドにして挿入することも試みていたものであり、考えられるあらゆる方法を講じてみたが、チューブを挿入することはできなかったのである。
さらに、何らのチューブも留置せずに手術を中止することは気道狭窄を増悪することになるため、かえって危険であった。
(五) 本件手術は、各種機器を十分に準備した上、被告多田と恵谷医師の二名の医師によって開始され、院内の医師が常時即刻応援に駆けつけられる態勢がとられ、実際に院内放送によって六名の医師が速やかに参集したのであり、人的・物的な準備の面で何ら問題はなかった。
(六) 民江の縦隔気腫の原因を特定することは困難であるが、チューブが気管を突き破ったという解剖所見は認められないので、気道内圧が一時的に高くなったのが原因であると考えられる。もっとも、縦隔気腫と民江の死亡との間に因果関係はない。また、心マッサージは、循環動態を維持するための緊急時の処置であり、心臓を胸郭外部から胸骨と胸椎との間で圧迫して、血液を心臓から末梢に送り出すことを企図するものであり、そのため、圧迫にはある程度の強度が必要であり、時には前胸部の肋骨の骨折を伴うこともあり、仮にそれが原因で縦隔気腫が生じたとしても、それはやむを得ないことであり、そのことから直ちに実施方法が拙劣であったということはできない。
(七) 本件では、偶然に使用した心臓外科用のチューブが挿入できたが、このような方法による気管内チューブ挿入についての報告はなく、初めからこれを用意して使用することは不可能であった。
(八) 以上の次第で、本件手術自体には医学的な落度はなく、本件の結果が生じたのは民江の気管の特殊性(瘢痕狭窄により伸展性が非常に悪くなっていたこと)に起因するのであって、被告らに過失はない。
五 争点
1 本件手術に際し、被告らに不適切な点があるかどうか。
2 被告多田に説明義務違反があるかどうか。
3 被告らの責任原因の存否
4 原告らの損害額
第三 当裁判所の判断
一 前記争いのない事実等及び証拠(甲三、四及び五の各1ないし3、六ないし八、乙一ないし一一、検乙一ないし七九、八〇の1ないし5、八一の1ないし4、八二の1ないし3、八三の1ないし4、八四、八五の1ないし3、証人辻恵美子、証人小林紘一、被告多田弘人本人、鑑定)並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる。
1 事実の経過
(一)(1) 民江は、昭和五一年ころから喘息様発作があり、慢性気管支炎として公害健康被害の認定を受けており、その後も、発熱や肺炎などで入院するなどしていたが、平成二年一〇月初旬から、一週間ほど発熱が持続したため、うえに病院に入院して、気管支鏡による検査を受けた結果、声帯から一cmくらい下のところから、直径六mm程度の狭窄が認められたため、陳旧性気管結核後狭窄の疑いがあるとされ、より専門的な診療を目的として、平成二年一一月、被告病院を紹介された。
(2) 平成二年一二月五日、恵美子及び原告淑子は、被告病院を訪れた。
被告多田は、恵美子らが持参したうえに病院からの紹介状やレントゲン写真、CT写真などの各データを検討したところ、気管の甲状軟骨部分まで病巣があり、気管切開術は非常に難しいこと、そのため、Tチューブを挿入するのが相当ではないか、などと判断し、恵美子に対し、民江の病状及び治療法についておおむね次のとおり説明を行った。
「結核性の気管狭窄症は、極めて稀な疾患である。本疾患は、肺炎を繰り返したり、痰がまって死亡に至ることもあるので、何らかの処置をしたほうがよい。うまく狭窄症状がとれれば、呼吸困難なども改善する可能性が高い。処置の方法としては、気管を切ってつなぐ方法である気管形成術と気管を内側から広げるようなシリコンTチューブを入れる挿入術がある。アメリカの文献でも、一度ステントというものを入れておいて、後日抜去してからでも、広いままで保たれていたという報告がある。被告多田自身、結核性の気管形成術を一例経験したことがあるが、余りうまくいかなかったこと、シリコンTチューブを挿入してうまくいった例があり、合計二件の経験がある。気管形成術は、結構、技術的にも難しいし、術後の合併症も多いことから余り勧められず、難しい故に危険性が高い。それに比べてシリコンTチューブを挿入するという方法は、気管を切って捨てるというようなことではなく、内側から広げることだけだから、危険性はそんなに高いものではない。前者は、技術的に難しく、合併症も多いが、後者は危険性も低く、実際にうまくいった例もある。」
以上の説明を聞いた恵美子らは、家族で相談したいので、年が明けたら、再度、来院する旨返答した。
(二)(1) 平成三年一月三〇日に入院申込みの手続がなされ、その際、民江、原告俊雄、原告淑子及び恵美子らは、被告多田から、手術について、前回とほぼ同様の説明を受けた。
民江は、同年二月四日に入院した。入院時、民江は、歩くと息苦しいと訴えていた。
入院時の民江の所見は、体温35.7度、脈拍六四/分、呼吸数二四/分で、呼吸音は左右共に気管支音が聴取され、左にラ音(粗い非連続音)が少しあり、廊下歩行や階段を昇るだけでも呼吸状態の悪化(ヒュージョーンズⅢ)が見られた。
入院後の検査では、喀痰に結核菌(一般細菌)は認められなかったが、ツベルクリン反応は陽性であった。
呼吸機能検査では、肺活量2.23l(%肺活量95.7%)、努力性肺活量1.77l(%努力性肺活量75.9%)で、一秒量は1.04l(一秒率58.7%)、最大呼吸流量1.20l/秒であり、Empey指数(一秒量(ml/秒)と最大呼吸流量(l/秒)の比)は一四であった。
同年二月一二日に行った気管支鏡検査では、声帯の三cm位下方から右の側壁が狭くなり、その後、直径六mm程度の全周性の狭窄が五cm位の長さにわたって存在し、その下方で一旦狭窄の程度が軽くなるが、気管分岐部上三cm位の部分に小範囲の狭窄部がもう一か所認められた。
断層写真では、径六mm程度で約五cmくらいの長さの狭窄、CT断層写真では径六mm程度で、四cmの長さの狭窄が認められた。
入院中の民江は、しばしば、気管狭窄音が認められ、会話時に息切れがして呼吸が速くなることがあった。
被告多田は、同月八日の外科の検討会で、全員で検討した結果、局部麻酔下で、Tチューブを挿入するのがいいのではないかということになった。
(2) 被告多田は、平成三年二月一五日、民江のほか原告俊雄らに対し、おおむね次のとおり説明を行った。
「結核性の気管狭窄があり、その範囲は五ないし六cmと比較的長く、狭窄部位も二か所ある。このため肺炎等を繰り返すことがあり、放置すれば、痰が詰まって死亡することもある。その治療法としては、気管を切除して気管の上下を吻合する気管形成術と気管を切開してシリコンTチューブを挿入する方法がある。前者は、縫合不全や再狭窄のおそれがあり、危険性が大きいが、後者は、比較的安全であり、局所麻酔で行い、所要時間は一時間程度である。ただ、民江の場合は、普通の場合と異なり、狭窄があるので、少しでも危険を回避する目的で、手術室で手術を行いたい。ただし、実際に気管を切開してみて、シリコンTチューブの挿入が困難であれば、そのまま、再度気管を締めて手術を終わることもある。」
ただ、被告多田は、民江本人も同席していたことから、本人の不安を募らせないようにする配慮などから、死亡の可能性については触れなかった。
民江は、手術に対して消極的であったが、被告多田から、気管切開してTチューブを挿入する方法は比較的安全である旨の説明を受けたため、手術に同意し、その結果、民江の気管狭窄に対する治療法として、Tチューブ挿入術(ステント挿入術)が採用された。
(三)(1) 平成三年二月一九日午後(以下、特段の断りのない限り、平成三年二月一九日午後のこととする。)一時三〇分、民江は、手術室に入室した。
用意された機器及び器材は、レスピレーター(麻酔器及び人工呼吸器)、挿管道具一式(気管内挿管チューブ、気管切開チューブ7.5mm、八mm、九mm、小児用気管チューブ4.5mmから一〇mmまで約一三種類、シリコンTチューブ九mmから一三mmまで五種類、吸引チューブ、気管支鏡)などであった。
なお、シリコンTチューブとは、気管切開口から気管内に挿入し、気道狭窄病変を開大し、気道確保のために用いるものである。シリコンでできているため、長期間使用に適していること、T字の一方を閉じることにより発声が可能になる利点がある。
気管切開チューブとは、気管切開口から気管確保のために用いるものであり、その形状と材質のため、発声ができず、長期間使用には、数日単位での交換が望ましいとされている。
小児用気管チューブ(挿管チューブ)とは、本来、経口的に気管内に挿管するチューブで年齢、気管径に準じて客種サイズがある。
気管支鏡とは、外部から気管、気管支内腔の観察に用いるもので、先端部より光を照射し、また、吸引口から分泌物等を吸引できるようになっている。
(2) 被告多田と恵谷医師により、手術場において局所麻酔による気管切開手術が開始された。手術は、自動血圧計を付け、パルスオキシメーターで脈拍と血液中酸素濃度を測定しながら行われた。
まず、キシロカイン麻酔をして、頚部を四cmほど皮膚切開し、二時〇四分ころ、前頚部の気管が切開された。その際、咳嗽が多発した。
気管切開の結果、気管が支持性を失い、切開部の狭窄は四mm程度に狭くなった。また、被告多田は、切開部から気管内を観察したところ、膜様部の瘢痕が予想以上にきついことを認識した。
被告多田は、用意したシリコンTチューブのなかから径一〇mmのシリコンTチューブを選んで、気管切開部から挿入しようとして、数回、挿入を試みたが、うまく行かず、その後、径九mmのシリコンTチューブの挿入を数回試みたが、気管が全周性に瘢痕狭窄となり、伸縮性を欠いており、都合七、八回に及ぶシリコンTチューブの挿入はいずれも不成功に終わった。なお、この際、被告多田は、シリコンTチューブの先端を斜めに切って先細りの形にして気管内に誘導しやすい形状にしていた。
その間、二時二三分ころから咳嗽が持続しSaO2が九三%と低下して、爪床色が不良となったので、酸素を一〇l投与し、シリコンTチューブの挿入をしばらく控え、切開部をガーゼで押さえておいたところ、咳嗽は治まった。
(3) 被告多田は、気管が全周性に瘢痕狭窄となって伸展性を欠いていたことから、やむを得ず、シリコンTチューブの挿入を断念し、もっぱら気道を確保することを目的として、径の細い気管切開チューブの挿入を試みたが挿入できなかった。そこで、引き続いて、小児用の細い気管チューブを挿入することにしたが、気管に一cm位挿入された部分から奥へ入らなかった。順次、細いチューブを用いて挿入を試みたが、チューブ自体が柔らかいこともあり挿入することすらできなかった。
そのころから、気管から滲み出るように出血が始まり、増加し始めたが、適宜、吸引チューブで吸引していた。
(4) 被告多田は、二か所の狭窄部位のうち、下部の狭窄部位でチューブが突っ掛かっていることを疑い、気管支鏡を用いて中を観察しようと考え、一宮医師の応援を求めて気管支鏡で観察しながらチューブを挿入することにし、二時三〇分ころ、一宮医師の応援を求めた。このころまでには、気管内に血液が貯まっているような所見はなく、民江は自発呼吸が可能で、意識も鮮明であった。
被告多田は、気管支鏡で内部観察を試みたが、気道内が狭く、出血もあり、気管支鏡に血が付着するなどしたため、内腔を観察することができなかった。この際、被告多田は、気管支鏡についている吸引器で気管内の血液を吸引したが、ごく少量しか吸引できなかった。
二時三五分ころに手術場に到着した一宮医師により、気管支鏡が奥まで挿入されたため、気管支鏡をガイドとしてチューブの挿入を試みたが、挿入することはできなかった。
(5) このころから、気管内の出血が少しずつ増加してきたが、吸引チューブによって排出され、自発呼吸は確保されていたが、少しずつ気管内に貯まっていた血液の固まったものが咳とともに狭い部分にひっかかったためか、民江は、次第に息苦しくなり、苦痛のため、四肢をバタバタさせ始めた。
(6) そのため、二時四五分ころ、直ちに院内放送が行われ、院内の外科医が招集された。
民江は、応援の医師が来る前に、呼吸を停止し、体動が止まった。
これは、気管切開部付近から出血した血液が気管ないし気管支の末端部などにおいて凝固し、そのため、窒息に近い状態となったためと推認される。
とう骨動脈は触知良好で、用手にて胸郭を圧迫し、看護婦が心電計と除細動機を装着した。
院内放送から二分くらいの内に、六名の医師が順次駆けつけ、速やかに、点滴路、動脈血ルートが確保され、用手的に人工呼吸が行われた。
数人の医師の手助けによって、さらに二、三回、気管切開部から気管内へ細い小児用の気管チューブ(4.5mm)の挿入が試みられたが、右チューブは一cm位入ったところから先には挿入できなかった。そこで、その状態のままアンビューバッグを用いて空気を送ることを試みたが、抵抗があって全く空気は入らなかった。この間も、体外的に胸郭を圧迫して、体外的な人工呼吸は継続されていた。
その後、井内医師の発案で、経口による気管内挿管も試みられたが、口からも気管内に挿入することは全く不可能であった。
(7) 井内医師の、心臓血管外科用の手術に用いられる人工心肺装置からの送血チューブ(本来は、大動脈壁を切開し、大動脈内に挿入して、血液をポンプにより注入するために用いられるものであり、普通の気管に用いられるチューブより硬く、なお、先端部分が極端に細くなっているものである。)なら瘢痕部も通過できるのではないか、との助言によって、送血チューブの挿入を試みたところ、送血チューブが気管内に挿入された。ただ、送血チューブは、麻酔器に接続できる形状とはなっていなかったため、口で気管内に空気を吹き込もうとして、右送血チューブを口で吹いたが、うまく空気は入らなかった。
そうしている内に、胸郭を定期的に圧迫していたことから、送血チューブ内に血液が二、三ml充満してきて換気ができなかったため、血液を吸引し、このチューブを口で吹いて一、二回換気した。
本来、人工心肺装置用の送血・脱血チューブは、麻酔器に連結できる形状にはないため、同じく人工心肺装置への脱血用チューブに連結用のコネクターをその場にて加工して装置した。そしてこのコネクターを装置した脱血チューブ(本来は、大静脈壁を切開し、心臓へ還流する血液を人工心肺装置へ導くために用いるものであり、送血チューブと同様に硬い材質でできており、先端が少しだけ細くなっている。)にすぐ交換し、麻酔器に接続して換気を開始した。
そのころ、民江は、心停止に近いような状態になり、血圧が一時的に三〇秒ないし一分間ほど触知できなくなったため、昇圧剤の静脈内投与を行いつつ、かつ麻酔器による換気をしつつ、心臓マッサージを一分間程度行った。その結果、脈拍と血圧は測定可能となったが、気道内圧は非常に高く、全体を見渡したとき民江の腹部は膨満していた。
(8) 直ちに、レントゲン撮影により、両側の気胸と縦隔気腫、後腹膜気腫であること、脱血チューブが気管の奥に入りすぎて主気管支にまで到達し、片側挿管になっていたことが判明した。そこで、直ちに脱血チューブを少しだけ引き抜き、両側の胸腔にドレナージチューブを挿入し、気道内圧の正常化が得られた。
四時一九分、手術は終了し、民江は集中治療室に移送された。
(四) 手術後、民江は、集中治療室において、人工呼吸器の管理下におかれた。脳庇護の目的でソルメドロール、グリセオール等の投与が行われた。当日夕刻ころから痙攣が顔面に認められるようになり、縮瞳、発熱が認められた。
平成三年二月二〇日、咳嗽反射、頻拍、痙痛反射が認められ、ソルメドロール、グリセオールが続いて投与された。
同月二一日、脳のCTスキャナーが行われ、脳外科医師により、浮腫はかなり高度であり、脳幹は侵害されていないと思われるので中脳以上が問題であるとの診断がされた。
同月二三日、睫毛反射と自発呼吸が認められ、同月二四日には、対光反射はなく、痙攣が少し認められた。
同月二七日には、瞳孔は、縮瞳から少しずつ普通の状態に変化した。
同年三月一日、疼痛反射が陰性化し、急激な血圧低下(五〇台)があった。脳外科医師の診断では、脳死に入りつつあるかというコメントであった。
同月六日には一時黄疸が認められ、同月八日から尿崩症に対しピトレシンの投与が開始された。その後、体内の水分調節や尿の量の調節などが日毎のデータに基づいて投薬によって行われ、また、体位の変更によりおこる血圧の低下にも対処していた。
以後も民江の意識は回復せず、レスピレータ管理を続けていたが、同年四月八日、脳外科医師により脳死状態と診断された。
同年五月八日、全身的に徐々に今までのような薬剤の効果がみられなくなり、同月二一日には尿がでなくなった。
同月二五日未明ころから血圧が下がり、正午には触知できなくなり、点滴等により薬剤を投与するも効果はなく、午後二時二〇分ころ、心臓マッサージを施したが、午後三時三〇分ころ、心臓が停止し、民江は死亡した。
2 知見
(一) 気管
喉頭の下に続く長さ約一〇cmの管状の器官で第五胸椎の高さで左右の気管支に分かれる。気管壁は一六ないし二〇個の気管軟骨及びその間に介在する輪状靭帯によって形成される。この軟骨は半輪状で、後方が開いており、その部分は平滑筋の膜性壁(膜様部)が補っている。内面は、気管粘膜という上皮組織によって被われ、常に開放されていて空気の通路となる。
(二) 陳旧性気管結核後狭窄症
陳旧性気管結核後狭窄症とは、過去に気管もしくは肺結核を患ったあとで、その部分が狭くなったことをいう。
気管支結核に比較すると結核が気管のみに発生することは稀で、気管結核は、気管支結核の部分現象として発生することが多い。そのため、気管結核のみに対する病型分類は無く、気管病巣の病型を表現するには、気管支結核の内視鏡的、肉眼的所見による病型分類がそのまま用いられている。
気管支結核の内視鏡的、肉眼的所見は、次のように分類されている。
(1) Ⅰ型 充血浮腫型
(2) Ⅱ型 粘膜内結節型
(3) Ⅲ型 肉芽型
(4) Ⅳ型 瘢痕型
Ⅳa型 瘢痕非狭窄型
Ⅳb型 瘢痕狭窄型
(三) 結核性瘢痕性気管狭窄症に対する治療法としては、以下のものがある。
(1) 気管形成術(狭窄部を切除し、断端同士を吻合し直す)
(2) ステント挿入術(狭窄部にステントを挿入して内腔を保持する)
(3) バルーンによる拡張術(バルーンで狭窄部を拡張する)
(4) YAGレーザーなどによる焼灼術(狭窄部の病変をレーザーで焼灼する)
(5) 以上の治療法の組み合わせ((2)と(3)、(2)と(4)など)
ステント挿入術については、最近、その術数、適用例が増えてきつつあるが、本件当時、右手術に伴う出血に関する報告例は特になく、ステント挿入術施行の際に、出血が起こり、それによって何らかの合併症が惹起される危険性は特に問題とされていなかった。
(四) 民江の病状
民江の病型は、Ⅳ型の瘢痕型のうちⅣb型(瘢痕狭窄型)である。
これは、病変が気管全周に及んだため、内腔が収縮性に狭窄したもので、気管壁を構成する組織自体も硬くなっている伸展性の少ない病型である。
民江の気管狭窄の長さは、輪状軟骨の直下から頚部気管を含み、胸腔内気管の一部までで、内腔の一番狭いところは六mm程度と認められる。
また、検乙第一号証の胸部平面正面写真によると、両側上肺野に石灰化を伴う肺結核の陳旧性病変が散在し、胸膜の癒着が認められ、両側の肺門も上方に引っ張られて変位しており、気管の可動性が少なくなっている。
前記のとおり、民江の病型は、Ⅳ型の瘢痕型のうちⅣb型(瘢痕狭窄型)であり、病変が気管全周に及んだため、内腔が収縮性に狭窄したもので、気管壁を構成する組織自体も硬くなっている伸展性の少ない病型であるが、このような病型であったとしても、気管狭窄はある程度の伸展性を有するのが通常であり、この伸展性を用いて少し大きめのステント(Tチューブ)を挿入することになる。
気管結核による狭窄が伸展性を有するかどうかは、病変の新旧、狭窄の範囲、気管軟骨が保存されているかどうか、膜様部が温存されているかどうか、瘢痕の硬さなどによって異なる。また、気管の軟骨部と膜様部では、膜様部の方が柔らかく伸展性がよいので、膜様部に病変がなければ、実際の狭窄よりも太いチューブを挿入してもチューブが狭窄部を開きながら進むことができ、太いチューブの挿入が可能となる。
民江の場合、膜様部を含んだ全周性の狭窄であり、ある程度の伸展性は期待することができても、多くは期待できないものと考えられるが、このような場合にも、挿入するチューブの硬さやチューブ挿入の方向をうまく誘導することにより、目的を達成させることができる場合が多い(現に民江は最終的に、七mmの脱血チューブが挿入された。)。
二 争点に対する判断
1 争点1(本件手術に際し、被告らに不適切な点があるかどうか。)について
(一) 気管の結核性瘢痕性狭窄に対しては、狭窄があっても内腔の大きさがある程度保たれ、仮に症状があっても軽度であれば、患者によく病態を説明し、最初は、気管形成術やステント挿入による拡張術等の積極的な治療は見合せ、経過を観察し、狭窄症状などの問題が生じた時点で、治療を行うのが一般的である。
ところで、民江は、前記のとおり、既に何度かの気道感染やそれによる気道狭窄が起こっており、また、喘息といわれていた症状の一部も気道狭窄症状によるものの可能性があること、民江の気管狭窄の長さは、輪状軟骨の直下から頚部気管を含み、胸腔内気管の一部までで、内腔の一番狭いところは六mm程度と認められること、成人の場合、気管の内径としては、六mm程度は必要であること、このまま放置すれば、狭窄自体の進行により、また、気管支炎、肺炎や喘息などの際に、狭窄症状が増悪し、窒息などの重大な結果を招来する危険性があり、何らかの対応策が必要であったこと、また、Empey指数が一〇を越えていたこと、などからすれば、被告多田が、民江の気管狭窄に対し、積極的な治療、すなわち、何らかの手術を行う必要があると判断したことは相当であったというべきである。
(二) 民江のように硬くて長い瘢痕性狭窄に対するバルーン拡張術やレーザーによる焼灼術には、特殊な装置や器具を必要とし、その効果は一時的なものと予想されること(鑑定参照)、前記のとおり、民江の両側上肺野には、石灰化を伴う肺結核の陳旧性病変が散在し、胸膜の癒着が認められ、両側の肺門も上方に引っ張られて変位していることなどの所見から、気管の可動性が少なく、気管形成術を行った場合、病変部を切除後、断端部同士を引き寄せ吻合する際に、組織に緊張が加わり、縫合不全等の合併症が発生するおそれがあること(鑑定参照)、さらに、民江の気管狭窄の程度や長さ、被告病院において、以前に行った気管形成術は縫合不全等を来たして苦労した一方、Tチューブの挿入術は成功した経験があることなどの事情を考慮すれば、被告多田において、気管形成術を行わずに、ステント挿入術を選択したことは相当であったといえる。
(三)(1) Tチューブの挿入の目的は、気管切開部から狭窄部を越えてT字型のチューブを挿入し、空気の通り道を確保することにあることからすれば、できるだけ内径の大きいチューブを挿入することがその治療目的に沿い、望ましい。
ところで、Tチューブの挿入に影響を与える因子としては、気管の狭窄の程度、狭窄の長さ、壁の硬さ、狭窄の壁の滑らかさ、Tチューブの弾力性(軟らかさまたは硬さ)、Tチューブの長軸が狭窄の長軸にうまく一致するかどうか(一致させることができるかどうか)などである(鑑定)。
(2) 本件において、被告多田は、最初に一〇mmのTチューブの挿入を試みて失敗しているが、民江の場合、最小の狭窄部の直径が六mmであること、成人の場合、気管の内径としては、約六mmの太さは必要であること、狭窄部は一般に伸展性があると考えられていることなどからすれば、手術の結果、少しでも呼吸を楽にすることを目的として、最初に一〇mmのTチューブ(なお、右一〇mmとは、Tチューブの外径を示し、内径はさらに細くなる。)の挿入を試みたことが不適切であったということはできない。
そして、前記認定の事実によれば、Tチューブやその他の気管切開用のチューブ、小児用の気管チューブが挿入できなかったのは、民江の気管の瘢痕の状態が予想以上にひどく、気管の伸展性が極めて少なかったこと、挿入したチューブが二番目の狭窄部位に引っかかり、各チューブの硬度ではその部分を乗り越えていくことができなかったことが原因であると推認することができるが、瘢痕の程度及びそれに伴う伸展性の有無というものは、実際に気管を切開してチューブを挿入してみなければ分からないことからすれば、被告多田の事前の判断が誤りであったということもできない。
(3) なお、原告らは、径の太いチューブの挿入が困難であれば、その挿入に拘らずに、気道確保のため、また、後日、徐々に太いものに入れ替えるため、とりあえず、径の細いチューブを挿入すべきであったと主張し、鑑定においても、「(太いチューブの挿入を)何度か試みて企図した通りにならなかったならば、もっと早い時点で、この方法にこだわらず、もっと違った方法を検討すれば、よかったのではないか。」、「一つのことにこだわらずに、最初の結果を参考に、気管挿入用のチューブをまず、挿入しておき、内腔を確保し、後日、Tチューブに入れ替えるなどの早めに次の方法を試みることが重要であった。」、「気管切開部より、気管支鏡をステントにして、少し細かくとも硬い気管内挿管用のチューブを挿入しておき、後日、内腔が広がったところで、Tチューブに入れ替えるなどの方法をとっていれば、良かったと考えられる。」などと指摘しているところである。
しかしながら、前記認定のとおり、被告多田は、当初、一〇mmのTチューブの挿入を試みたところ、うまく行かなかったため、九mmのTチューブの挿入を試み、これもうまくいかなかったため、この段階でTチューブ装着を断念し、続いて、目的を気道確保に切り換えて径のより細い気管切開チューブの挿入を試み、さらに、小児用の気管チューブの挿入を試みたがうまくいかなかったため、気管支鏡を挿入してこれをガイドにチューブの挿入を試みている。
ところで、前記認定のとおり、被告多田が、当初一〇mmのTチューブの挿入を開始し、その後、九mmのTチューブ、気管切開チューブ、小児用気管チューブの挿入を順次試み、いずれもうまくいかなかったため、気管支鏡を用いて挿入しようと考え、一宮医師の応援を求めたのが午後二時三〇分ころ、一宮医師が到着したのが午後二時三五分ころであることからすれば、被告多田は、手術開始から午後二時三〇分ころまでの間に、順次、一〇mmのTチューブ、九mmのTチューブ、さらに径の細い気管切開チューブ、小児用の気管チューブの挿入を試みた(なお、その間に、民江に酸素を流し、切開部をガーゼで押さえて、回復を待つ時間も必要であった。)のであるから、被告多田が、必要以上に一〇mmないし九mmのTチューブの挿入に拘ったというよりも、むしろ、短時間の内に、一〇mmと九mmのTチューブの挿入を都合七、八回試み、不成功であったのでTチューブの挿入を断念し、目的を気道の確保に切り換えて、さらに、気管切開チューブ、小児用気管チューブの挿入を順次試みていたというべきであるから、早期にTチューブの挿入がうまくいかないと判断して、適時にその方針を転換して、専ら気道確保のために、次々と径の細いチューブの挿入を試みているというべきであり、被告多田が、Tチューブの挿入に拘りすぎたということはできない。
(4) また、被告多田は、各チューブの挿入に際しては、そのチューブの先端を斜めに切って気管内に誘導しやすいような形態にして、挿入を試み、また、各チューブ単独での挿入が困難であると判断するや、気管支鏡をガイドにしてチューブの挿入を試み、実際に応援の一宮医師の協力を得てこれを行ったものの、うまくいかなかったことからすれば、被告多田は、鑑定人が指摘しているような方法については、すべて適切な時期に試みているというべきであるから、被告多田が各チューブを挿入できなかったとしても、その手技に過失があったということはできない。
(5) また、一度切開した気管を何らのチューブも挿入せずに再度閉鎖するということは、民江のように気管が狭窄している場合には、手術部位がさらに狭窄され、数時間もしくは数日のうちに狭窄部位がさらに狭くなるなどして、窒息の可能性等が高まることから、何らかのチューブを挿入して気道を確保すべき必要があったというべきであり、何らのチューブも挿入せずに、手術を終えることはできなかったものというべきであるから、何らかのチューブを気管に挿入するために数回にわたって各チューブの挿入を試みることはやむを得ないことであり、そのために、結果的に、気管切開部付近からの出血を惹起したとしても、それを過失であるということもできない。
(6) なお、本件においては、最終的には、心臓外科用の送血チューブ及び脱血チューブを挿入することができたが、これらは、いずれも、気管挿入用のものではなく、たまたま手術室にあったものを利用したものであること、一般の臨床現場においては、本件の様な不測の事態を考慮して、事前に硬めのチューブを用意しておくというようなことは一般には行われておらず、Tチューブの挿入ができなければ、他の気管挿管用のチューブで代用する方法がとられていること(証人小林)などからすれば、これら送血チューブ及び脱血チューブの挿入を早期に試みなかったことが過失ということもできない。
(7) 本件においては、民江に縦隔気腫、後腹膜気腫が起こっており、原告らは、これらの原因をチューブが気管を突き破ったためであると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。
(8) その他に本件手術に際し、被告多田に過失があったことを認めるに足りる証拠はない。
(四) なお、原告は、本件手術に際しての被告病院の人的・物的配置等が不十分であったと主張するが、本件手術に際して、Tチューブ以外にも、様々な径の気管切開チューブや小児用の気管チューブを用意し、手術には、専門医二名が当たり、応援を依頼した医師も直ちに駆けつけ、また、院内放送後、短時間(約二分)で六名の医師が駆けつけるなどしていることからすれば、その態勢が不十分であったということはできず、ほかに人的・物的配置が不適切であったことを認めるに足りる証拠はない。
(五) また、原告らは、気管切開後、民江の気管の内径が四mmと予測に反して細かったことを知った段階で、被告多田は、今回のような事態が起こることを予測し、Tチューブの挿入を試みる前に、人工心肺装置をセットアップし、いつでも稼働できる状態にしておくべきであったと主張するが、被告多田としては、気管にはある程度の伸展性があるため、何らのチューブの挿入もできないような事態は想像していなかったこと、人工心肺装置の利用は手術侵襲が極めて大きいこと、事前に民江に対して説明もせず、承諾も得ていなかったこと、また、輸血の準備もしていなかったことなどからすれば、本件において、人工心肺装置を準備し、利用しなかったことが過失ということはできない。
(六) 以上の次第で、本件手術に際し、被告らに過失と評すべき事実があったということはできない。
2 争点2(被告多田に説明義務違反があるかどうか)について
(一) 原告らは、被告多田が、本件手術に際し、死亡の可能性を含めた本件手術に伴う危険性について説明をしなかったことは、説明義務に反していると主張する。
なるほど、被告多田が、民江及びその家族である原告らに対し、本件手術による死亡の可能性を説明していないことは当事者間に争いがない。
(二) 手術の承諾の前提としての医師の説明義務は、身体的な侵襲に対する患者の自己決定権の適正な行使を保障することを目的としており、患者が手術による危険とそれによる治療効果を考慮して、手術を受けるか否か、受けるとしてもどのような医療施設でこれを受けるかを判断する材料を与えるものといえるから、医師は、患者に対し、① 病気の状態、② 治療行為による治癒の見込み、③ 治療行為により生ずる危険、④ 治療行為における侵襲の方法、程度、範囲、期間、⑤ これを行わなかった場合に予測される結果等を説明する義務があるというべきである。
しかしながら、本件のように、当該手術によって患者が死亡した場合に、そのことから翻って、死亡の危険性を説明しなかったことが直ちに説明義務違反になるということもできない。
すなわち、一般臨床上も当該手術に死亡の危険性が通常備わっていると考えられているような場合に、死亡の危険性を説明しないのならば格別、当該手術に伴う死亡の危険性が極めて低い場合や、術者自身も死亡の危険性を予期していないような場合、また、通常考えられない機序により死亡したような場合には、死亡の危険性を告げなかったとしても、そのことが直ちに説明義務に反しているということはできないというべきである。
(三) ところで、前記認定の事実によると、被告多田は、平成二年一二月五日に恵美子及び原告淑子に対し、また、平成三年一月三〇日に民江及び恵美子らに対し、民江の病状等に関し、結核性の気管狭窄症は、極めて稀な疾患であること、民江の疾患は、肺炎を繰り返したり、痰が詰まって死亡に至ることもあるので、何らかの処置をしたほうがよいこと、うまく狭窄症状がとれれば、呼吸困難なども改善する可能性が高いこと、処置の方法としては、気管を切って繋ぐ方法である気管形成術と気管を内側から広げるようなシリコンTチューブを入れる挿入術があること、アメリカの文献でも、一度ステントというものを入れておいて、後日抜去してからでも、広いままで保たれていたという報告があること、被告多田自身、結核性の気管形成術を一例経験したことがあるが、余りうまくいかなかったこと、シリコンTチューブを挿入してうまくいった例があり、合計二件の経験があること、気管形成術は、技術的にも難しく、術後の合併症も多いことから余り勧められず、難しい故に危険性が高いこと、それに比べてシリコンTチューブを挿入するという方法は、気管を切って捨てるというようなことではなく、内側から広げることだけだから、危険性はそんなに高いものではないこと、前者は、技術的に難しく、合併症も多いが、後者は危険性も低く、実際にうまくいった例もあることなどを説明し、同年二月一五日には、民江及び原告らに対し、結核性の気管狭窄があり、その範囲は五ないし六cmと比較的長く、狭窄部位も二か所あること、このため肺炎等を繰り返すことがあり、放置すれば、痰が詰まって死亡することもあること、その治療法としては、気管を切除して気管の上下を吻合する気管形成術と気管を切開してシリコンTチューブを挿入する方法があること、前者は、縫合不全や再狭窄のおそれがあり、危険性が大きいが、後者は、比較的安全であり、局所麻酔で行い、所要時間は一時間程度であること、ただ、民江の場合は、普通の場合と異なり、狭窄があるので、少しでも危険を回避する目的で、手術室で手術を行うこと、実際に気管を切開してみて、シリコンTチューブの挿入が困難であれば、そのまま、再度気管を締めて手術を終わることもある旨説明したこと、ただし、Tチューブの挿入に伴う死亡の危険性については、説明しなかったことが認められる。
(四) 以上のとおり、被告多田は、民江の疾患の内容を説明し、それを放置した場合の危険性、当該病状に対する手術の方法、気管形成術の危険性とそれと比較した場合のステント挿入術の危険性の差、ステント挿入術の具体的な手術内容等について説明したものということができるのであって、死亡の危険性の有無の点を除いては、被告多田の説明に特に問題は認められない。
(五) そこで、本件において、被告多田が、ステント挿入術に関し、死亡の危険性を説明しなかったことが説明義務に反しているかどうか検討する。
証拠(被告多田本人、証人小林、鑑定)及び弁論の全趣旨によれば、ステント挿入術は、気管を切開し、その部分から気管にTチューブなどを挿入して気管の内径を確保・拡張するというものであって、その性質からして、比較的容易で安全であると考えられていたこと、被告多田自身、自らの呼吸器外科の専門医としての臨床上の経験から、ステント挿入術それ自体は、通常は、手術室で行うまでもなく、病室で一時間程度で終了するような比較的安全な手術であるとの印象を持っていたこと、気管は通常ある程度の伸展性があり、一方、Tチューブないしその余のチューブもその材質上、変形するため、気管にチューブを挿入することは比較的容易であると考えられており、被告多田も同様に考えていたこと、被告多田自身、ステントがうまく入らなかったという報告には接していなかったこと、本件当時、ステント挿入術については、手術に伴って少量の出血の可能性はあるものの、その出血によって重篤な障害を惹起する危険性は少ないと考えられており、ステント挿入術に伴う出血の危険性については、特に報告はされていなかったこと、出血があってもそれが気管や肺に貯まって死亡したなどという報告はほとんどなかったこと、事前の検査等によって、民江の気管は、最も細い所でも六mmの太さを保持していたため、被告多田としては、気管切開部等から少量の出血があった場合でも吸引が可能であると考えていたこと、通常、患者に意識があれば、出血があったとしても、咳や痰と一緒に体外に排泄することが可能であると思われ、臨床上も、そのように処理されてきたこと、本件のような、チューブ挿入に際し、その付近から出血が起こり、それが凝固して気管等を閉塞して窒息に至り、死亡に至るということは、ステント挿入術に通常伴う危険とは考えられていなかったこと、被告多田も、ステント挿入術によって、右のような機序で死亡に至る可能性については、予測していなかったことなどの事実が認められる。
そして、被告多田が、民江及び原告らに対し、ステント挿入術に伴う死亡の危険性を説明しなかったのは、ことさらステント挿入術に伴う死亡の危険性を秘匿していたというよりも、民江に不安を煽らないようにするとともに、被告多田自身、ステント挿入術に伴う死亡の危険性を予測していなかったからであるというべきである。
とすれば、被告多田が、民江に対し、ステント挿入術について、死亡の危険性を説明しなかったとしても、ステント挿入術が死亡の危険性が極めて少なく、また、本件のような機序で死亡に至ることが、ステント挿入術に通常伴う危険性ということもできず、被告多田自身、予測していなかった事態であることからすれば、説明義務に反しているとまではいうことができない。
そして、前記の事実を総合すれば、被告多田がステント挿入術に死亡の危険性が極めて少ないと判断し、その説明をしなかったことが不適切であったということもできない。
3 以上の次第で、被告らに、債務不履行もしくは不法行為における過失があったということはできない。
第四 よって、原告らの請求は、その余の点を判断するまでもなく、いずれも理由がない。
(裁判長裁判官渡邊雅文 裁判官阿部靜枝 裁判官川上宏)