大阪地方裁判所堺支部 昭和34年(わ)294号 判決 1961年4月12日
被告人 木村慎治 外一名
主文
被告人木村慎治、同尾山嘉昭を懲役六月に各処する。
但し被告人両名に対し本裁判確定の日から参年間右各刑の執行を猶予する。
(訴訟費用負担の裁判省略)
理由
第一、事実
一 被告人の経歴
被告人木村慎治は、昭和三三年三月和歌山大学学芸学部(四小課程)を卒業し、同年四月一日付で大阪府岸和田市立公立学校教員に任命されて岸和田市立山滝小学校教諭に補せられ、昭和三四年四月からは六年ろ組を担任していたもの
被告人尾山嘉昭は、昭和三二年三月和歌山大学学芸学部(四小課程)を卒業し、同年七月から約一〇ヶ月間岸和田市内の市立小学校臨時講師となり、昭和三三年七月一六日付で大阪府岸和田市立公立学校教員に任命されて岸和田市立山滝小学校教諭に補せられ、昭和三四年四月からは四年ろ組を担任していたものである。
二 臨海学舎における行事
岸和田市立山滝小学校は、夏期休暇を利用して、昭和三四年八月二、三日の両日にわたり、同校五、六年の児童のうち希望する者のために、大阪府泉南郡岬町淡輪一三二八番地にある南海電鉄株式会社所有の淡輪遊園地内人形館において臨海学舎を開設し、一泊二日の校外指導を行なつたが、その模様はおよそ次のとおりである。
即ち、昭和三四年における臨海学舎の開設は、七月上旬に開かれた同校職員会議において決定され、当時五、六年を担任していた井阪信子、大植英夫、地下典郎及び被告人木村の四教諭が主となつて、ほゞ前年度にならつて計画をたて、八月二、三日の両日、五、六年児童のうち男女合せて九二名がこれに参加し、川植校長、浅井教頭、高見、豊原、大務、被告人尾山及び前記四名の教諭が付添うことになつた。
八月二日朝、前記校長、教頭、教諭、児童全員は、山滝小学校に集合の上貸切バスに分乗して出発し、午前一〇時三〇分頃前記人形館に到達し、昼食海水浴等の後、午後六時頃から同館食堂で夕食をとり、八時過頃から約一時間余りにわたり、宿泊する場所に定められた人形館二号館において演芸会を開き、終了後片付をして児童に一人二枚宛毛布を配ると共に、教諭等が相談した結果に基づき、地下教諭が、六年い組の女子児童約二〇名は二号館の食堂より(東側)の板張り畳表敷き縦約三・八米、横約八・三五米、高さ約〇・五米の寝台に、六年ろ組の女子児童約二〇名はその西側にある同様の寝台に、五年の女子児童はその西側に二列に並んでいる一人用折り畳み式及び一人用鉄製寝台に、五、六年の男子児童は更にその西側に三列に並んでいる一人用鉄製寝台に各就寝するよう指示し、あわせて、六年い組女子の寝台には井阪教諭が、六年ろ組女子の寝台には大務教諭がそれぞれ児童と共に就寝することとなつた。午後一〇時頃児童全員が右指示された寝台に適宜毛布を敷く等して横臥したので消灯したが、児童は容易に寝つこうとせずしばらく騒いでいるうち次第に静かになつたので、児童と共に宿泊している校長、教頭、地下、大植、井阪、大務及び被告人等の計八名(高見、豊原の両教諭は宿直勤務につくため夕方帰校した)は、児童が就寝している場所に隣接した食堂に集り、校長の指示により教頭が買求めたビール及びサイダー各数本を分けて飲みながら、約三〇分間翌日の予定等について話合いを行い、その後井阪、大務の両教諭は前記六年女子の寝台の海側の端に各就寝し、又他の教諭等は特に場所を定めず各自適当な寝台等で就寝することとして、教頭、大植、地下の三教諭は隣接した六畳の間に、校長は五年女子と五、六年男子の寝台の間の通路においた一人用寝台に、被告人木村は五、六年男子が三列に並んでいる中央部分の一人用寝台に、被告人尾山は六年い組女子の寝台にそれぞれ就寝した。
翌八月三日は朝六時頃には全員起床して、洗面、体操、朝食を済ませ、午前九時頃から海水浴をし、昼食、自由時間の後、午後二時三〇分頃貸切バスに分乗して出発し、山滝小学校まで帰えり、解散して児童はそれぞれ帰宅した。
三 犯罪事実
右のように八月二日夜から三日朝にかけて、児童が人形館二号館に就寝しているうちにあつて、
1、被告人尾山嘉昭は、八月二日午後一一時過頃、六年い組の女子が就寝している寝台にいた際、同じ寝台で就寝していた児童の沢栄子がいびきをかくので、周囲に寝ていた児童が「やかましいなあ」等といつたのを聞き、沢栄子の枕元へ行つてその顔をのぞきこみ、隣りのA(昭和二二年七月一〇生)と沢栄子の間に横臥した上、右Aが六年生であり、一三歳に満たないものであることを知りながら、右手で同女に手枕し、左手で同女の着ていたパジヤマのボタンを下から一つづつはめていき、一番上だけ残してそこから下に着ていたシユミーズの下へ左手を差し入れて同女の右乳をもてあそび、更に「乳飲め、乳飲め」といいながら、両手で同女の頭部を抱きしめて同女の顔面を自己の胸部に押しつけ
2、被告人木村慎治は、同夜半頃、六年ろ組の女子の寝台に就寝しているB(昭和二二年九月二四日生)の枕元に至り、同女が六年生であつて一三歳に満たないものであることを知りながら、片手を同女の右脇下の辺から着衣の下に差し入れ同女の右乳をもてあそび、更にその手をはいていたパンツの下へ差し入れて同女の陰部をもてあそび
3、被告人木村慎治は、右犯行に引き続いて、同じ寝台に就寝しているC(昭和二二年四月六日生)の足元に至り、同女が六年生であつて一三歳に満たないものであることを知りながら、同女の脇の下の辺から一番下に着ている肌着の下へ片手を差し入れて同女の右乳をもてあそび
もつてそれぞれ猥褻の行為をしたものである。
第二証拠(省略)
第三児童の作文、供述の信憑性
被告人両名は、いずれも警察、検察庁における取調及び当公判廷において終始右各犯行を否定しており、又成人で目撃していたという者もないから、そのような行為の有無は、児童である被害者A、B、Cの三名、目撃者河野弘子、白草利子、北川清子、仲美君子の四名の作文、供述の信憑性如何にかかつてくるところが多い。そこでそれらの点について判断する。
一 Aの性格
地下典郎の証言によると、Aは六年の一二月頃行われたジフテリヤの予防注射のとき、ただ一人わあわあと泣いて涙を流し、痛い痛いといつていたこと、翌年二月に種痘をしたときも、ただ一人涙を流して、泣いていたことがあるというのであり、このことは二、三の児童の証人調書でもみられるところである。
しかしこのような事実があつたからといつて直に同女がヒステリー性格を有していたとするのは早計であつて、ヒステリー性格があるとするには他に種々の徴候が見出されなければならないが、押収してある山滝小学校の指導要録(昭和三四年裁領第八五号の一一、一二)のうちAに関する部分や、地下典郎の証言Xの証人調書によつても、そのような徴候を見出すことはできないから、右のような一事があることをもつて同女をヒステリー性格者と決めつけ、本件についての同女の供述の信憑性を否定するのは当らない。
二 B、Cの知能
前記指導要録二冊の各知能指数欄を一見すると、BのI.Qは六六、知能偏差値は二九、CのI.Qは六八、知能偏差値は三六(以上いずれも昭和三五年一月一七日学校で行つた集団検査に基づく)であつて、他の一般児童に比較してかなり低い(ちなみに、当時の山滝小学校六年生の平均I.Qは八八・八となる)ことが認められ、心理学者の分類によると、精神薄弱者の範疇に入ることになり、その意味において、供述の信憑性が劣るのではないかと考えられないこともない。
しかし、知能の実体を把握することは極めて困難であつて、現行の知能検査法は、その有効性を肯定しつつもなお完全な知能測定の方法でないことは広く認められているし、現行の知能検査を有効適切に使用するにしても、知能検査の目的に応じた最も望ましい種類のものが選定されることは勿論、十分に訓練された検査員により、被検者の心身及び環境が最良の状態にあるときに実施されるべきであつて、右学校の検査において果たしてどの程度まで右のような考慮が払われたか不明であるばかりでなく、本来そのような完全な諸条件のもとに検査を実施するということ自体甚だ困難であるといえる。従つて、右知能指数及び知能偏差値は、場合によつて真の知能とかなりの差のあることも考えられるので、右数値をもつてそのまま真の知能であるとするのは早計である。
のみならず、右山滝小学校の指導要録のうちB、Cに関する部分、栗岡英之助、大務和子の各証言、被告人木村の供述によると、Bは行動面の評価は全部Bでさしたる特徴がないばかりか、性格的に無邪気、活溌、明朗性に富み、学習は一生懸命にやつていて非常に真面目で五、六年の成績の評定は全部3、班活動も活溌であり熱心であることが認められるが、これは精神薄弱児の人格的特徴とは正反対であり、Cは行動面の評価は大部分Bであるが、自主性、指導性といつたところにCが散見される、又合理的判断力にも欠ける、反面無邪気で活溌、積極性もあつて真面目に努力する、学習成績の評定は五年は2が多いが、六年は3が最も多いことが認められ、他にさしたる特徴も認められないから、知能の低劣ということは精神薄弱の一特徴であるけれども、右両児童の場合、それをもつて直ちに精神薄弱と決めることはできない。
更に、知能指数や知能偏差値が低いことのみを理由に、供述の信憑性を否定しようとするのは誤りであつて、供述の内容をなしている出来事が、その児童の有している理解力、判断力の枠内のものかどうかを充分考慮に入れるべく、その出来事がその児童の有している理解力、判断力の枠内或はそれに相応するものであれば信憑性は十分認められるといわなければならない。このような見地にたつて考えるとき、右児童の作文、供述の内容は、臨海学舎における行事及び臨海学舎において就寝中被告人から手を着衣の中へ入れられて、乳、陰部をさわられたかどうかという極めて単純な出来事であつて、右二児童の検察官調書、証人調書によると、それらをかなり詳細に順序よく供述しており、そのような事情を考慮に入れるときは、他の条件を満たす限り、知能程度が低いとしても、B、Cの供述はいずれも十分信憑性を有するものと解する。
三 供述内容が性に関するものであるということ
本件が猥褻事件であつていわゆる性に関係があること、被害者、目撃者が事件当時いずれも満一一歳から一二歳にかけての女子児童であつたことはすでに認定のとおりであり、女子児童は一二歳頃から一四、五歳にかけて次第に青年期に入り、感情が激化し、動揺が多く、性に関する事柄に興味をもち始めるようになるということは広く知られているところである。しかし、それだからといつて、直ちに右被害者等の本件に関する供述が、事実を歪曲ないし誇張していると批難するのは当らない。本件事案は、乳や陰部の上を手でさわられたとか、乳飲め、乳飲めといつて自分の顔を先生の胸に押しつけたというだけのもので、それ以上性器、性交、性的欲望といつたものには何等関係がないし、児童が、一一、二歳頃になると性的感情を抱くようになるというのも、異性を意識する傾向、又は反撥的傾向、例えば女子は男子に対してことさら羞恥を見せるとか、会つてもことさら知らん顔をするといつた程度に過ぎず、又Xの昭和三五年三月二八日付証人調書によると、Aは性に関する事柄でも恥しがらずに無邪気に話をする、特に姉には何事も隠さずにいうこと(一二二九―三〇丁、一二四一丁)、Yの証言によると、Bは何事でも隠さずにありのまま親に話をすること、恥しいことでも尋ねたら話をするし、友達同志でも話をしていること(二四〇―四一丁)、Zの証言によると、Cは何事も隠さず親に打明けること(三三〇丁)が認められ、性的傾向に変著があつたとは認められず、更にA、B、Cの各証人調書を検討しても、性に関することであるが故に、ことさら証言をしぶる、否認する或は歪曲、誇張したという形跡は発見できない。従つて供述内容が性に関することであるからということの故に、本件に関する供述の信憑性を否定するのは当らない。被害者以外の児童についても、証拠上右のような理由の故に供述の信憑性を否定すべき事由は見当らない。
四 暗示的影響の有無
およそ児童は被暗示性が強いから、暗示性の多い問式を用いて得た供述、或はその事柄に関する発言等を聞いたことが多ければ多い程その供述の信憑性は乏しい。本件についてこれを見るのに、後段で認定するように、(イ)被害者三名は、いずれも右猥褻行為をされた直後及び翌三日朝臨海学舎において、又八月八日の登校日学校において、他の児童等と右猥褻行為をされたことを話合つている。(ロ)Aは、八月三日午後姉から、その後母から、Bは、八月三日から三、四日過ぎた頃父から、Cは、八月六日父から、B、Aは八月六日山滝小学校PTA会長Zから、被害者三名は、八月一三日山滝小学校長川植勝から、Aは、八月一八日の登校日学校で担任の地下教諭から、それぞれ尋ねられて答えている。Zの証言によると、(ハ)被害者三名は八月一九日午後八時頃から山滝小学校講堂で開かれた六年児童の父兄集会の席上、集つた父兄約六〇名等の面前において、他の児童と共に、Zから猥褻行為をされたかどうか尋ねられ、その有無を答えていることが認められる。湯谷稔の証言によると、(ニ)岸和田市教育委員会の湯谷学事課長は、八月二〇日朝教育委員の要請により、Z方において、集まつた被害者、目撃者を含む一一名の児童に対し、尾山先生や木村先生からいたずらをされたということだが、それについて本当のことを自由に書いてほしい旨示して、猥褻行為をされたときの模様等を作文に書くよう求めたところ、右一一名の児童は各自作成して提出したこと、(第一回の作文)が認められる。Zの証言によると、(ホ)六年の学級委員長であつた父兄の池田太喜雄は、PTAにおいてもそのような作文を書かせて残しておく必要を感じ、内畑町の長光寺において、集まつた被害者、目撃者を含む六七名の六年児童に対し、前同様作文を書くよう指示し、右児童全員は各自作成して提出したこと(第二回作文)が認められる。そして、(ヘ)Aは、同年九月七日及び一八日、Bは、同月七日、八日、一四日の三回、Cは、同月八日、自宅、前記長光寺、内畑巡査駐在所において検察官から取調べを受け、各検察官調書記載のような供述をしており、(ト)右三名は当裁判所の証人尋問期日に出頭して供述しているのであつて、右のほかに家庭等において家族から、学校等において友人から聞かれて答え、又自から話をしていることがかなりあるであろうということは容易に想像できる。以上のことは、目撃者である児童にとつてもほぼ当はまるといつてよい。
右のような経過を見ると、特に被害者である三名の児童は、多数回にわたつて供述、発言し、又他の者の発言、供述を聞いているといいうるから、暗示を受ける可能性も多く、信憑性に影響を与えるのではないかとも考えられる。しかし、そのことだけで信憑性を軽視したり否定すべきではなく、暗示による影響の有無、即ち供述が最初からどのように変遷しているか、その間に矛盾があるか、その程度、範囲はどうかの点についても考慮に入れて判断すべきである。そこで次に、右のような見地から児童特に被害者の供述等について考察する。
五 Aの作文、供述の信憑性
1、C、仲美君子、大植雅美の各証人調書及び検察官調書、池田三枝子、山本美智子、藤原美恵子、矢野嘉子の各証人調書によると、Aは、八月三日朝、人形館二号館の六年ろ組女子の寝台の上等で、大植雅美等数名の児童に対し、昨夜尾山先生が私の横に寝に来て手枕をしたり、さわられたりしたといい、又数名の児童がトランプ遊びをしているところへ来て、尾山先生がこわい等といつていたこと等が認められる。
2、Xの証人調書、X′の証言によると、Aは、八月三日午後臨海学舎から帰宅した際、同女の様子がおかしいのを不審に思つた姉から、どうしたのかと尋ねられ、臨海学舎で二日の夜尾山先生が身体をさわりに来てこわかつた旨、又、母から猥褻行為をされたのかどうかを尋ねられ、更に尾山先生はパジヤマのボタンを下からはめてくれたが、一番上だけはめずにそこから手を入れて乳をいらつた、手枕して先生の乳のところへ顔を押しつけた旨答えたことが認められる。
3、Zの証言によると、Aは、八月六日Z方において、同人から臨海学舎はよかつたかと尋ねられ、先生が私のところへ来て手枕して乳をもみ、なお、お乳を吸えといつて私の身体をぐつとひきしめた旨答えたことが認められる。
4、川植勝の証言によると、A(川植勝は被害者の名は記憶していないというが、内容全体からみてAを指すものと認められる)は、八月一三日Z方において、調査に来た川植校長に対し、尾山先生にボタンをはずされて、すうつと手を入れられた旨答えたことが認められる。
5、地下典郎の証言によると、Aは、八月一八日の登校日、学校において担任の地下教諭から、誰からどんなことをされたのかと尋ねられて、同女の後記作文の内容と同様の答えをしたことが認められる。
6、Aの作文は、第一回と第二回との間に僅かな表現上の差異はあるが、内容的には同一趣旨とみてよい。即ち、尾山先生は私のところに寝に来た、そのとき私はパジヤマのボタンを皆はずしていた、そして尾山先生は私に手枕をしてくれ、はずしていたパジヤマのボタンを下から順番にはめ、一番上だけはめずにそこから手を入れて私の乳を二回いらいに来た、少しすると私に乳飲み乳飲みといつて私の顔を尾山先生の胸のところにやつた、そのとき尾山先生は私をぎゆつと抱きしめた、というにある。
7、検察官調書二通によると、尾山先生はいびきをかいている沢栄子のところへ来て、その枕元に膝と肘をつき、沢の顔をのぞきこみ、次に隣りに坐つていた私の方を向いて「Aちやんこつち向いて早よ寝れ早よ寝れ」といいながら、沢と私の間に入つて皆と反対向きに横になり、私のパジヤマ上衣のすそを引張つたので、先生と同じ方向に横になつてしまつた、そして右手を私の頭の下へ入れて手枕をしてくれた、私は目をつぶつて寝たふりをしていると、尾山先生ははずしている私のパジヤマのボタンを下から順々にはめてくれたが、一番上のボタンだけとめずに、そこから左手を入れて右乳をさわつた、一度その手を出したが又同じ手を入れて右乳をさわつた、すると今度は両手の掌で私の顔を抱え「乳飲め、乳飲め」といつて、尾山先生の右胸に私の顔をぎゆつと強く押えつけた、一寸の間息切れがした、苦しかつたので死んだらあかんと思い、力一杯胸をそらしたら先生は手をはなした、というのである。
8、証人調書はほぼ右と同じであるが、ただ、尾山先生がまだ井阪先生のところにいたとき、少しでも沢栄子のいびきが聞えんようになると思つて、隣りの河野弘子と共に皆と反対方向に横になつた、尾山先生が沢のところへ来たとき私も起きて坐り沢の顔をのぞいたが、又先生と同様皆と反対方向に横になつた、何故そのとき皆と反対方向に横になつたのか忘れた、といい又検察官調書では、尾山先生はうちの方を向いて「Aちやんこつち向いて早よ寝れ、早よ寝れ」といつたという記載があるが、証人尋問の際は再三問われても、忘れたと答えている、にもかかわらず「しられたことは知つている」として、尾山先生が皆と反対方向に寝て手枕をしてくれ、パジヤマのボタンを下から順番にかけて、一番上のところから二回いろうた、と不完全ながら一気に供述する。
9、以上1ないし5にあらわれたAの発言なるものは、伝聞者の記憶喪失や表現が不十分であつた等のため内容的に極めて単純であり、表現が不完全なものである。作文も状況描写が簡単である。一般に、児童は物事を観察したところを、自から文章、言語によつて正確に表現する能力が劣つているから、何等の示唆を与えられずに書いた作文が、この程度のものに終るのはやむをえない。
これに反し、検察官調書は詳細になつている。
8の後段に示した点について、弁護人は、そのような供述態度や内容は不可解であつて、証人尋問の前に誰かからこれだけはいえと指示されて来たようであるというけれども、右のような指示のあつたことについては何等みるべき資料がないのみならず、二日夜消灯後、児童がいつまでも騒いでおり、教諭が何度も早く寝るように、静かにするようにと注意したことは、各児童の証人調書や教諭の証言の各所に散見されるところであつて、いわば当夜何回も聞いている言葉であるから、証人尋問の際、猥褻行為をされる直前にそのようなことをいわれたかどうかについて記憶が薄れていくことはありうべきことであるが、猥褻行為をされたということは、同女にとつてこのとき一回限りの、しかも印象深い出来事であるから、よく記憶していて証言したというのは、これ又当然のことといわなければならない。
10、被告人尾山の右猥褻行為を目撃していた河野弘子は、作文で、尾山先生は沢栄子とAの間に入つてAに手枕をして寝ていた、Aが立つたり坐つたりすると、先生は上衣を引張つて寝かした、といい、検察官調書では、尾山先生は沢栄子の顔をのぞきこみいびきの真似をした後、沢Aとの間に入つて来て皆と反対方向に横になり、坐つて沢の顔を見ていたAも、先生と同じ頃同じ方向に横になつた、先生はAにこつち向いて寝ろよといい、左手でAの頭を持ち上げ右手で手枕をして寝た、Aは身体を動かしたり、頭を上げようとしていたが、一度半分起き上つた、すると先生はAのパジヤマの上衣を引張つた、Aはいやそうな顔をしていたが、仕方なさそうに横になつた、すると先生は又手枕して抱くようにして、今度は小さい声で「乳飲め、乳飲め」といつた、と供述するが、その点に関する証人調書は要約すると、尾山先生はAと沢の間に来て、Aの頭の下に手を入れて手枕をし、それから沢のいびきがやかましいので、先生はAと一緒に向きを変えた、といい(一三三三―四丁)、それが、Aが勝手にそうしたのか、先生がAの身体をもつて向きを変えたのかわからない、自分も向きを変えたが、それがいつであつたかわからない(一三五五丁)ということになる。
河野弘子の証人調書は、右の点において検察官調書と異り、Aの検察官調書、証人調書とも相違しているが、A、河野弘子の各証人調書、検察官調書によると、同女等は当夜消灯後も、長い間起きたり坐つたり、食堂へお茶を飲みに行つたり、寝る場所を変つたりしていることが認められるのであつて、右のような点について供述に相違があり、又明確な記憶がなかつたのは決して無理ではなく、その他の点については、両名の供述、証言はほぼ一致しており何等の矛盾はないから、右のような差異のあることをもつて、A、河野弘子の各作文、供述の信憑性を否定するのは当らない。
11、当裁判所が昭和三五年七月八日実施した検証調書、司法警察員の検証調書、押収してあるAの身体検査票(前同号の一二)、当裁判所が昭和三五年四月四日実施した検証調書、押収してあるAのパジヤマ上下、シユミーズ(前同号の二、三、)A、河野弘子の各証人調書、検察官調書によれば、被告人尾山がAに本件犯行をなしたときの位置関係からも、Aの当夜の着衣状況からも、物理的に被告人尾山が本件犯行をなしうる可能性は十分認められるから、物理的にその可能性がないことを前提としてAの供述の信憑性を疑うのは失当であり、その他、Aの発言、作文、検察官調書、証人調書には細部において多少齟齬している部分があるけれども、これらの齟齬は児童の思考の表現としては当然ありうべき事柄であつて、大綱において事実を把握し、いわんとするところを正しく理解しうれば足るものとしなければならない。そのような見地にたつてAの作文、検察官調書、証人調書をみるとき、それらは十分信憑性を有するものと考える。
六、Bの作文、供述の信憑性
1、C、仲美君子、藤原洋子、讃岐洋子の各証人調書及び検察官調書、池田三枝子、大植喜代美、田中千賀子の各証人調書によると、Bは、八月二日夜半、人形館二号館の六年ろ組女子の寝台の上で、起きて来たC等数名の児童に対し、先程木村先生に腰の辺から手を入れられて乳をさわられたとか、バンツの中へ手を入れられたとか、或は木村先生が乳のところをさわりに来るので寝られん旨話をし、又三日朝も、同所で讃岐洋子等数名の児童に対し、同様のことを話したことが認められる。
2、Yの証言によると、Bは、八月三日から三、四日過ぎた頃、父から猥褻行為をされたのかと尋ねられ、二日夜臨海学舎で木村先生に乳をもまれ、パンツの中まで手を入れられた旨答えたことが認められる。
3、Zの証言によると、Bは、八月六日藤原喜三郎方において、同人から臨海学舎はよかつたかと尋ねられ、先生が私の乳のところやパンツの中へ手を入れて来た旨答えたことが認められる。
4、川植勝の証言によると、B(川植勝は被害者の名前は記憶しないというが、内容全体からみてBを指すものと認められる)は、川植校長に対し、木村先生はボタンをかけてくれるのかと思つたら、ずつと手を上へしたとか、ズロースの下まで入つた旨答えたことが認められる。
5、Bの作文は、Aのそれと同様、第一回と第二回との間に僅かな表現上の差異はあるが、内容は同趣旨とみてよい。即ち、何時頃か知らないが目を開けると私の頭のところに木村先生が寝ていた、それからどれ位たつたかわからないが、私のところに来て腰のところをさわつたので、白い服をあんじようしてくれるのかと思つていると、私の乳のところに手をやつてちつともんだ、それからパンツのところへ手を入れ、その手を出して又腰のところをいろつたので、私はあつち返えりこつち返えりした、という。
6、検察官調書三通によると、私は当夜長袖のブラウスとトレパン、その下にパンツをはいて寝ていた。何時頃かわからないがふと目がさめると、木村先生が私の頭の上の辺で寝転んでいた、私は何とも思わずそのまま寝ようと思つて目を閉じると、右腰の辺を誰かがさかつたので先生が私のブラウスを直してくれると思つて薄すら目を開けると、先生は右手か左手かはつきりしないが、脇のところのブラウスの下から手を入れて、私の右乳をさわりもむようにした、黙つていると、先生はその手をパンツの下に入れ私の恥しいところを手で押えた、そしてその手を抜いて又私の右腰をさわりに来たので、それを避けるようにして、あつちこつち寝返りをしていたら、そのうちに先生はどこかへ行つてしまつた、という。
7、証人調書は、次の点を除いて検察官調書とほぼ同様である。即ち、着衣及び手を入れた場所について、ブラウスの下に更にシユミーズを着ていた、手を入れられたのが、そのシユミーズの下か上か忘れたという(一一九四丁)、又、当初パンツの中に手を入れられたといいながら(一一五九丁)、後ではパンツの下か上か忘れたという(一一九五丁)。
8、1ないし5にあらわれたBの発言、作文なるものは、Aの場合と同じ理由で内容的に単純且つ不完全なものである。
作文と検察官調書、証人調書とを比較すると、被告人木村がいるのに気がついてから身体にさわられるまでの時間的間隔についての表現が異つているけれども、一般に時間の評価は極めて不正確であつて、殊に数量の評価と同様に記憶に基ずいて後日評価をする場合はなお更であるから、それがために体験的事実の表現として両者の間に矛盾があるとはいえない。又検察官調書にある「ブラウスの下から手を入れられた」の趣旨は、同調書の上半身はブラウス一枚だけを着ていた旨の供述とあいまつて、肌に直接さわるように手を入れられたという意味であると解されるが、証人調書では初め主尋問で、当時ブラウスとシユミーズを着、トレパンとパンツをはいていて、ブラウスの下から乳をもまれたとか、パンツの中に手を突込んだと供述したが、反対尋問に入つて、乳をさわられたのはシユミーズの上からか下からかわからない、陰部のところはトレパンの中であるが、パンツの上からか下からか忘れた旨、更に検察官調書の方がよく記憶していたと供述したのであり、その検察官調書は前記のようになつているのであるからこれを措信し、右各証拠を些細に検討した結果、全着衣の下から乳、陰部をもてあそんだと認定したのであるが、およそ過去のある時期に自分が何を着ていたかというような出来事は、殆ど無意識のうちに経過する体験であつて、記憶されにくいこともあり、触覚による感覚も誤りやすいものであるから、これらの点についての供述が変遷しているからといつて同女の供述の信憑性を否定するのは当らない。
9、当裁判所が昭和三五年七月八日実施した検証調書、司法警察員作成の検証調書、押収してあるBの身体検査票(前同号の一五)、当裁判所が昭和三五年七月二三日実施した検証調書、押収してあるBのトレーニングパンツ、シユミーズ、ブラウス(前同号の四、五、六)、B、仲美君子の各証人調書、検察官調書によれば、A子に対すると同様、被告人木村がBに本件犯行をなしうることは物理的に可能であると認められるし、Bの発言、作文、検察官調書、証人調書には多少の齟齬がみられるけれども、Aについて説示したところと同一理由で、それらの信憑性を否定するのは失当である。当裁判所は、Bの作文、検察官調書、証人調書についても十分信憑性を有するものと考える。
七、Cの作文、供述の信憑性
1、B、仲美君子、藤原洋子、讃岐洋子の各証人調書及び検察官調書、池田三枝子、大植喜代美、田中千賀子の各証人調書によると、Cは、八月二日夜半人形館二号館の六年ろ組女子の寝台の上で、起きて来たB等数名の児童に対し、先程寝ていると誰かが脇の下をこそばり、乳をいらつたので、誰やと思つて手を払つて目を開けると木村先生やつた旨話をし、三日朝にも讃岐洋子等数名の児童に対し、同様のことを話したことが認められる。
2、Zの証言によると、Cは、八月六日自宅で父からお前もいたずらされたのかと聞かれ、先生が脇の下に手をつつこんで来て、乳の方に手をふれてこないした旨答えたことが認められる。
3、川植勝の証言によると、C(川植勝は被害者の名前は記憶しないというが、内容全体からみてCと認められる)は、Aと同様川植校長に対し、木村先生にお乳をさわられた旨答えたことが認められる。
4、Cの作文も、Aのそれと同様、第一回と第二回との間に僅かな表現上の差異はあるが、内容は同趣旨とみてよい。即ち、木村先生は私の寝ているところへ来て、脇の下をこそぼつた(第二回のはいらつた)ので知らんと叩いた、すると木村先生だつたので毛布をかぶつた、というにある。
5、検察官調書では、どの位寝たかはつきり知らないが、私の右脇や右乳の辺をこそぼられているような気がして目を開けたら、木村先生が私の足元の辺で寝転びながら、手をのばして私の胸の辺をさわりに来たので、その手を片手で払い除けると共に、足元の毛布を引寄せて頭からかぶり寝たふりをした、といい、又、私が目を開けたとき、木村先生は白いシヤツを着、私と松本さんの間位の足元で頭を私の方に向け、手を私の胸にさわろうとしてのばして来た、右の乳や脇をいらつたのは木村先生やと思い、いやらしいことをすると思つた、というのである。
6、証人調書は内容を要約すると、さわられたとき木村先生は私の海の方の横に私と同じ方向に横になつていた。私が寝ていると誰かに脇の下をさわられたので目が覚めた、その人は腰の辺から、着ていたパジヤマ、肌着、シユミーズの下へ手をつつこんで右脇のところへ入れ、じかに乳をさわつた、私は児童がそんなことをしたのかと思つて、肘で払いのけ目を開けると木村先生であつた、ということになる。
7、以上1ないし4にあらわれたCの発言、作文なるものについては、これ又A、Bの場合とほど同一の理由で、内容的に単純且つ不完全なものである。
作文、検察官調書、証人調書を比較すると、作文においては乳をさわられたということは出ていないし、検察官調書においてもその点は必ずしも明瞭とはいいがたく、その他多少の相異点が発見されるのは否定できない。しかし同女は前段認定のように精神薄弱とまではいかないが、かなり知能も低く、従つて観察力、理解力、表現能力が多少劣ると考えられるところよりすれば、同女の供述に或る程度の齟齬を生ずるのはやむをえないことで不自然ではない。
Aについて説示したところと同様、大綱において事実を把握するより途はなく、そのような見地にたつて同女の作文、検察官調書、証人調書をみるとき、信憑力は存在するものと考える。
なお当裁判所が昭和三五年七月八日実施した検証調書、司法警察員作成の検証調書、押収してあるCの身体検査票(前同号の一五)、当裁判所が昭和三五年四月四日及び同年七月二三日実施した各検証調書、押収してあるCのパジヤマ上下、シユミーズ、肌着(同号の七、八、九)、Cの検察官調書、証人調書によれば、A、Bに対すると同様、被告人木村がCに本件犯行をなしうることは、物理的にも可能であると認められるから、その可能性のないことを理由に右作文、検察官調書、証人調書の信憑力を否定するのは当らない。
八、その他の児童の作文、供述の信憑性
河野弘子、白草利子、北川清子、仲美君子の各作文、検察官調書、証人調書についても、それらを些細に検討するときは、種々の点において多少の相違点は発見できるけれども、その信憑性を疑わしめるに足りる事実は発見できないのみならず、信憑性は十分に存在するものと認める。
第四、被告人両名が酩酊していた事実の有無
一、付添教諭の飲酒量(略)
二、被告人の酩酊度
そこで次に被告人両名が当夜酩酊していたかどうかについて考える。浅井楠信、地下典郎、井阪信子、大務和子の各証言、被告人両名の各供述によれば、当夜ビールを飲んだ教諭等のうち川植校長、浅井教頭、大植教諭はそれぞれコツプ半杯位、地下教諭はコツプ四、五杯位、被告人両名はそれぞれコツプ二、三杯位宛飲んだという。右は前段で説示したように、教諭等の全飲酒量をビール三本としての計算であるから、ビールは四本であるとすると右各供述はその前提を欠くこととなるけれども、いずれにせよ、川植校長、浅井教頭、大植教諭は僅少で、主として地下教諭と被告人両名において飲酒したものであることを認められるのであるから、仮りに校長以下女教諭を含め五名において一本飲んだものとすると、地下及び被告人両名で三本飲んだ割となる。被告人両名の各供述によると、被告人木村の酒量は、ビールなら六本位、清酒なら五合位であり、被告人尾山の酒量はビールなら五本位、清酒なら四合位であつて、いずれもその程度飲んだからといつて酔ぱらつたりはしないというのであつて、右酒量の点に関する供述がかなり誇張されたものであるとしても、ビールを右の程度飲んで数十分ないしそれ以上過ぎた後において酩酊していたとするには疑問がないこともないが、なお酒気を帯び酔心地の残つていることは否めないところである。そして被告人尾山がその犯行当時かなり酒気を帯びていたことは、飲酒後犯行までの経過時間が短いこと、犯行直前、六年い組女子の寝台に横臥していた井阪教諭に対し、白草利子の証人調書、北川清子の検察官調書及び証人調書にあらわれたようないたずらをしていること等によつて容易に認められるところであり、又被告人木村がその犯行当時なお多少酒気を帯びていたことは、河野弘子の検察官調書及び証人調書にあらわれているように、その頃酒臭いにおいをさせていたことから容易に伺えるのであつて、被告人等は、右飲酒のせいもあつて、児童の寝姿を見ていたずら心を起した結果、本件犯行に及んだものであることは容易に認めえられるところである。
第五、本件がデツチ上げであるとの主張に対する判断(略)
第六、情状
本件犯行は、小学校教諭が教育の場である臨海学舎において、教育の機会にその学校在学の児童に対し破廉恥な所為に及んだものであつて、教育の目的に真向から背反し、教育者として許すべからざる行為であり、山滝小学校の児童及びその父兄はいうに及ばず、広く国民一般の教育者に対する敬愛と信頼をも裏切る等社会に与える影響が大きいことは多言を要しない。しかも被告人等がその事実を否定し続けていることは、児童に与える教育的、心理的悪影響を一層大きいものにしているのであつて、被告人等は前述のように一時転勤を意図したことがあつたが岸教組の大会以後その態度を変え、今日においては改悛の情は認められずその責任は極めて重大であるといわなければならない。しかし被告人両名は、当時独身の青年であつて、飲酒後ふとした出来心から本件犯行に及んだもので、それ以外に他の目的とか、悪意とかがあつたものとは認められないし、本件犯行に基因して昭和三四年一〇月二六日付で懲戒免職になつていることなどよりすれば、既に一応の制裁も加えられているものと思われるので、そのような諸事情を斟酌して量刑した。
第七、法律の適用
法律に照らすと、被告人尾山の判示第一の三の1の所為、被告人木村の判示第一の三の2、3の各所為は、いずれも刑法第一七六条後段に該当するので、被告人尾山にあつては所定刑期範囲内で、又被告人木村の両所為は同法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四七条、第一〇条により、犯情の重い2の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で、前記のような情状を考慮した上、被告人両名を懲役六月に各処し、同法第二五条第一項により、本裁判確定の日から参年間右各刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により主文のとおりその負担を定める。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 国政真男 上田次郎 天野弘)