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大阪地方裁判所堺支部 昭和51年(ワ)642号 判決 1979年4月25日

原告

河本工一

原告

原重樹

原告

松井正典

原告

河本清行

原告

佐藤晋次

右五名訴訟代理人弁護士

平山正和

(ほか五名)

被告

株式会社細川製作所

右代表者代表取締役

細川友吉

右訴訟代理人弁護士

松本正一

(ほか二名)

主文

一  原告らが、被告の従業員としての地位を有することを確認する。

二  被告は、各原告に対して、別紙(略)賃金表未払賃金欄記載の各金員及び昭和五三年三月から毎月二八日限り同表一カ月平均賃金欄記載の各金員をそれぞれ支払え。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

(当事者の求めた裁判)

第一請求の趣旨

主文と同旨。

第二請求の趣旨に対する答弁

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

(当事者の主張)

第一請求原因

一  被告株式会社細川製作所(以下「被告会社」、「被告」あるいは「会社」という。)はプレス金型製作、諸機械改造及び修理並びに金属抜押加工一式を営業目的とし、昭和三四年四月一日設立された会社で、現在の資本金は六〇〇〇万円、従業員は約一〇〇名である。

二  原告らはいずれも被告会社の従業員であり、昭和五〇年一二月二六日当時、原告河本(工)・同原は金型部仕上課に、同松井・同河本(清)は金型部機械課に、同佐藤はプレス部整備課に属していた。

三  しかしながら、被告会社は原告らに対し、昭和五〇年一二月二六日付をもって解雇の意思表示をしたと主張し、その後は原告らの従業員としての地位を否定して就労を拒み、賃金および一時金等を支払わない。

四1  原告らの昭和五〇年一二月当時の一カ月平均賃金は、原告河本(工)が一六万六二二九円、原告原が一〇万四一五一円、原告河本(清)が七万二五三三円、原告佐藤が一〇万二四二三円、原告松井が八万〇二二一円で、毎月の賃金支払日は各二八日であった。

2  その後、被告会社と原告ら所属の細川製作所労働組合(以下「細川労組」あるいは「労組」という。)との賃上交渉により、従業員の給与は次のとおり賃上げされた。

(一) 昭和五一年四月一三日付妥結

昭和五一年三月分以後基本給を一三パーセントアップする。

同年六月分以後は、従来の皆勤手当に代え、基本給の日給二日分を本給に組み入れる。

(二) 昭和五二年四月九日付妥結

昭和五二年三月分以後基本給を一〇パーセントアップする。

3  被告会社の一時金支給内容

(一) 昭和五一年夏 基本給の一・五カ月分

(二) 同年冬 基本給の一・八カ月分

(三) 昭和五二年夏 基本給の一・五カ月分及び一律三万八〇〇〇円

(四) 同年冬 基本給の一・八カ月分及び一律五〇〇〇円

4  右1ないし3の事項を基礎にして、原告らの昭和五一年一月分から昭和五三年二月分までの未払賃金・未払一時金、及び昭和五三年三月分以後の一カ月平均賃金をそれぞれ計算すれば、別紙賃金表記載のとおりとなる。

五  よって、原告らは被告に対して、被告の従業員たる地位の確認を求めるとともに、請求の趣旨二項記載の金員の支払を求める。

第二請求原因に対する認否

請求原因一ないし四はすべて認める(請求原因四23のベースアップ及び一時金に関する協定の内容につき正確でない部分もあるがしいて争わない。また、右の協定に基づき原告らの賃金を計算すれば原告ら主張の金額となることも、単なる計算に関する問題であるので、しいて争わない。)

《以下事実略》

理由

第一  請求原因一ないし四及び被告会社が原告らに対し昭和五〇年一二月二六日解雇の意思表示(本件解雇)をしたことは、当事者間に争いがない。

第二  本件解雇の経緯

(証拠略)を総合すると、次の事実が認められ、右各証拠のうちこの認定に反する部分は採用できず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

一  被告会社の概要

被告会社は、金型製作及びプレス加工を営業目的とし、本件解雇前の従業員数一三三名、資本金六〇〇〇万円の下請専門の企業であって、その企業活動は、すべて得意先の発注にたよっている。金型製品の受注先はトヨタ車体・岐阜車体工業等の自動車企業が、プレス加工の受注先は久保田鉄工等の農機具生産企業が、各その殆どを占めており、その他は両部門とも住宅機器関係の受注が多かった。そして、第一五期事業年度(自昭和四八年四月一日至昭和四九年三月三一日)の売上高は金型部で約四億六八〇〇万円(月平均約三九〇〇万円)、プレス部で約五億七三〇〇万円(月平均約四八〇〇万円)、合計一〇億四一〇〇万円であり、これを受注先の割合でみれば、自動車関係が三四・五パーセント、農機具関係が二三・六パーセント、住宅機器関係が二四パーセント、その他一七・九パーセントとなっており、同事業年度末には既に四二八三万円の次期繰越欠損金を計上していた。

二  被告会社の経営危機

1  金型部門

昭和四八年末に発生したいわゆる石油ショックにより、省資源の立場から、自動車のモデルチェンジは大幅に抑制され、加えて自動車産業の投資傾向が排気ガス対策・安全対策へと移行した。このため、被告会社の自動車用金型の新規受注は激減し、従来の注文分の生産を終えた昭和五〇年六月以降金型部の損失が続いた。即ち、従前は月平均約三九〇〇万円の売上高があったが、同月以降はときに三〇〇〇万円台に回復することもあったものの、おおむね二〇〇〇万円台、はなはだしいときには一〇〇〇万円台へと売上高が激減した。そして、第一六期事業年度(自昭和四九年四月一日至昭和五〇年三月三〇日)の売上高は約三億〇八五八万円であって、前期と比べて六六パーセントの減となり、五七〇二万円の損失を計上した。さらに、昭和五〇年四月一日から同年一二月までの売上高は二億〇〇〇一万円と依然として低迷し、損失五二五八万円が発生した。

なお、被告会社のみが業績不振であったのではなく、金型業界全体が不況にあえぎ、この不況からの脱出は当分困難と考えられていた。

2  プレス部門

プレス部門は昭和四九年一二月末まで比較的好況であり、金型部門の赤字をある程度補てんしていたが、石油ショックの影響が農村部にまで浸透して農機具の売上げが停滞し、これに加えて、プレス部の売上げの約六〇パーセントを占めていた久保田鉄工が茨城県にトラクター専門の工場を新設して自社生産を始めたため、昭和五〇年一月以降、売上が激減し、赤字に転じた。即ち、昭和四九年四月から一二月までの総売上高は六億〇二五〇万円で、月平均六七〇〇万円であった売上が、昭和五〇年一月には四五〇〇万円に減少し、以来月平均約四二〇〇万円にしかすぎなくなった。このため、昭和五〇年一月から一二月までの総売上高は五億一一三五万円にとどまり、五三二四万円の損失となった。

3  右金型・プレス両部門を合わせて被告会社全体でみれば、プレス部門が比較的好況であった第一六期事業年度(自昭和四九年四月一日至昭和五〇年三月三一日)においてすら、当期損失金四一四七万円を計上し、これに前期繰越欠損金四二八三万円を加えると、未処理欠損金は八四三〇万円に上り、さらに、両部門とも赤字に転じていた昭和五〇年四月一日以降一二月末までの間において九二三〇万円、月平均約一〇〇〇万円余りの損失が生じ、同年末では、累積欠損金総額は一億七六六〇万円となり、資本金六〇〇〇万円の三倍に上った。

4  以上の被告会社の欠損金の発生は、同時に、資金繰り上毎月約二〇〇〇万円の資金不足となって現われた。このため、銀行・政府系金融機関・農協等の各種金融機関から、担保物たる会社財産の再評価や代表取締役の個人保証をして借入れたり、被告会社の株式の五〇パーセントの所有者であり業務提携をしている大同興業株式会社からつなぎ資金を導入する等して、毎月不足する資金を調達してきた。そして、その借入金総額は昭和五〇年末には、長期・短期合わせて六億円にも上った。

しかし、同年末頃に至り、右の借入による資金調達も、業績不振を理由に金融機関から難色を示され、同年一二月分の資金繰り計画において、翌年一月六日に決済すべき支払手形約三一〇〇万円のうち、約二二〇〇万円の資金調達の目どが立たない状況に追い込まれた。

三  被告会社の不況対策

1  営業の強化

金型部においては、自動車用金型が省資源・排気ガス対策等の諸問題から、今後需要の増大が見込めないと判断して、従来営業力の比較的弱かった住宅産業用金型の強化を図り、プレス部においても脱農機具の観点から住宅機器へと営業の重点を移行し、これに伴って製造部門及び管理部門からそれぞれ営業担当の人員を出させて、新たな受注確保に当たらせた。

また、売上増加を目ざし、従来淀川製鋼の物置の壁をプレス生産してきた経験と技術を生かして、永大産業向けのスチール物置を開発試作したり、ボートのプレス量産の研究、川崎重工向けの輸出用バレット三種類の設計等、新製品の開発に努めた。しかし、当時不況が深刻化していたことに加えて永大産業の経営状態が悪化していたこと等により、生産の軌道に乗ったのはバレット三種類のうち一種類のみであり、他は開発試作費を投じただけに終った。

2  従業員の配置転換と職場の再編成

金型部において受注が激減して赤字が発生した昭和四九年六月以後、金型部の従業員二〇名を当時比較的好況であったプレス部へ応援派遣して余剰人員の吸収をはかった。しかし、この応援派遣は、プレス部が昭和五〇年一月から受注減によって赤字転落したため、同月をもって打ち切った。

また、従来受注が多く納期も比較的長かったので、単純作業者による流れ作業方式―いわゆる単能工方式―の生産体制をとっていたが、石油ショック後受注減に伴って納期も短くなり、単能工方式では、各工程ごとに手待ち時間が増え生産能率があがらなかったことから、一人の作業者が多くの作業工程を受け持ついわゆる多能工方式の生産体制に切換え、職場を再編成した。

3  一時帰休の実施

不況の深刻化と拡大化に対応して、昭和五〇年四月に、労働大臣から、金型製造業が雇用保険法による雇用調整給付金支給の対象業種として指定されたのに伴い、被告会社も右保険給付を受け、昭和五〇年四月から一一月末まで延約六三〇〇日の一時帰休を実施した。

しかし、被告会社が一時帰休者に支払った賃金等に諸種の間接費用を加えれば、右一時帰休に要した人件費は約四〇〇〇万円、これに対し、支給を受けた保険金は約一八〇〇万円にすぎなかったため、差引二二〇〇万円の損失となった。

4  岐阜車体工業への出向

被告会社は、余剰人員の吸収策として、前記一時帰休の実施と平行して、被告会社の取引先である岐阜車体工業に依頼して、昭和五〇年六月から毎月一〇名を同社に出向させた。しかし、その出向も、岐阜車体工業の要請により同年一一月で打ち切った。

なお右出向は、岐阜車体工業が出向者に直接給料を支払うのではなく、出向者に対して被告会社が従来の給料・出張旅費等を支払い、岐阜車体工業は被告会社に出向料を支払うという方式であって、被告会社の受取る出向収入と出向者に支払う給料・出張旅費とを比べれば、その差は殆どなかった。

5  固定費削減

被告会社は、社用車の廃止、社長二〇パーセント・専務一五パーセントを始めとして全役員・各部長から職長までの管理職の賃金カット、仕入・工場経費の節約等、固定費を削減するための諸措置をとった。

四  再建合理化計画

被告会社は右のとおり種々の不況対策を行ない、それなりに一応の成果を収めたが、根本的に会社の経営状態を改善するには至らず、昭和五〇年末には、前記二のとおり資本金の三倍に上る一億七六六〇万円の赤字が累積し、しかも、資金繰り上必要な資金の借入につき、金融機関等から、企業体制を先ず整備してからでないと、と難色が示される状況にあり、このため、援助を得るには企業の合理化案とその実施をも示さねばならなかった。そして、その合理化案としては、企業縮小とそれに伴う過剰人員の整理は不可欠の状態にあった。

そこで被告会社は、昭和五〇年一一月、規模縮小及び従業員三三名の整理を骨子とする再建合理化計画を樹立した。

この再建合理化計画は、当時の月当たり一〇〇〇万円の赤字を解消して未稼働損をなくすこと及び少数精鋭主義に徹し、従業員一人当たりの生産性を一六パーセント向上させることを目標とする次の内容のものであった。従来の受注高の実績から今後の生産高をプレス部門四三三六万円、金型部門二二〇〇万円合計六五三六万円と予測し、これを生産するのに必要な労働時間から、必要人員を、プレス部門五二人、金型部門三八人と算出し、これに総務・営業関係の必要人員一〇名を加えた合計一〇〇名を今後の被告会社の従業員数とし、当時の従業員、プレス部門六六名・金型部門五四名・総務・営業関係一三名、合計一三三名中の三三名を余剰人員として整理の対象とする。

五  希望退職者の募集

被告会社は、右再建合理化計画を実施するため、まず三三名の希望退職者の募集を行なうことにし、労組に対して、昭和五〇年一一月二六日頃から開かれていた年末一時金に関する団体交渉の際には口頭で、同年一二月一日には文書により、会社の窮状を訴えて希望退職者の募集につき協力を申し込んだ。これに対し労組は、独自の立場で会社の経営状態と経営合理化の必要性を判断するため、会社に要求して会計書類の提出を受け、これを蛇山税理士に示して調査を依頼した。そして、その調査結果をふまえたうえで、同年一二月一〇日臨時組合大会を開催し、大会決議で会社の希望退職の募集を受け入れる旨決定し、同月一一日会社との間で、年末一時金並びに経営合理化に関する協定書を締結した。右協定書の希望退職募集関係の内容は、<1>嘱託等を含む全従業員を対象に二五パーセント即ち三三名の希望退職者の募集をする<2>募集の開始は、昭和五〇年一二月一二日<3>募集条件は(イ)規定による退職金(ロ)平均賃金の一カ月分(解雇予告手当相当額)のほか(ハ)基本給の一・五カ月分を支給し(ニ)残存有給休暇の買い上げを行なう、等であった。なお、右(ハ)の基本給の一・五カ月分は、会社の当初の提案では一カ月であったが、労組の要求により一・五カ月に引き上げられたのであった。

被告会社は、労組との右協定が成立したので、同月一二日、出勤していた全従業員を会社の食堂に集め、細川清志専務取締後が、会社の窮状及び希望退職者の募集をせざるを得なくなった経緯を詳細に記載した声明文と題する文書を読みあげたうえ、前記募集条件を示し、同月一五日を期限として希望退職者三三名の募集を行なう旨口頭で説明し、かつ、同趣旨の文書(ただし、募集期限の点は記載なし。)を会社所定の掲示板に掲示した。その後会社は、右期限を同月一六日には、同月二〇日まで、さらに同月二〇日には同月二三日まで、それぞれ延長する旨決定し、その旨の文書を掲示して全従業員に知らせ、同月二三日に最終的に希望退職者の募集を締切った。なお、右締切日までに応募した者は一四名であった。

会社は、右希望退職者の募集と平行して、保安職員を除く嘱託及び臨時工の全員である九名に対し、退職を勧告し、同人らはこれに応じた。また当時、非組合員のうちの三名即ち藤原イセ子は同月二七日に、小出光蔵は経理の手持仕事の一応の目どがつく翌昭和五一年一月三〇日にそれぞれ退職し、プレス部の営業及び外注担当の部長であって大同興業から派遣されていた浜田吉雄は、事務引継の終る同年二月末辞職して大同興業へ戻る予定であった。

以上の結果、希望退職者募集の締切時点において、退職者及び退職予定者は合計二六名となったが、整理予定人員三三名になお七名足りなかった。

六  指名解雇

1  被告会社は前記二4記載のとおり、翌昭和五一年一月の支払手形の決済資金のうち二二〇〇万円の調達の目どが立たず、また、再建合理化計画を年内に実行する旨言明して金融機関等に資金援助の申し込みをしていたが、「再建合理化計画の実施を見守もって行く。」との返事のみがあって、好ましい返事を得られなかったこと等から、年内に再建合理化計画の完全な実施ができなかった場合は、金融機関等からの資金借り入れの途が鎖され、会社は最悪の事態に追い込まれると判断し、再建合理化計画を完全実施するため、七名の指名解雇を行なうことを決定した。

2  人員整理基準

会社の作業内容特に以後企業の中心となるべき金型部門は、手加工の比重が高く、そのため多年の経験をもつ熟練者を必要とするため、主として経験年数の少ない者、作業能力の低い者を解雇の対象者とすることとして、人員整理基準を次のとおり決定した。

A(1) プレス・金型各部における再建合理化計画に従い人員整理の規模を決める。

(2) 人員整理の内容は、企業再建の唯一の道は最少必要限度の人員で最大効果をあげるための「少数精鋭」主義に徹するほかないから、これを前提として、その選考基準を定める。

B 選考基準

(1) 定年退職後の嘱託、臨時工及びパート

(2) 病弱で欠勤の多いもの

(3) 出勤率の著しく悪いもの

(4) 全社的にみて経験年数が浅く、かつ、作業能力が最も低いもの

(5) 経験年数が多くても作業能力が著しく低いもの

3  被告会社は、昭和五〇年一二月二四日、労組に対し、右人員整理基準を示したうえ、組合員七名の指名解雇に協力を依頼するとともに、この問題につき団体交渉を申し込んだ。労組は、右団体交渉には応じなかったが、翌二五日臨時組合大会を開催して、その大会決議により組合員七名の指名解雇はやむを得ないものとして受け入れる旨決定した。そして、同月二六日午前、会社との間で、退職金の支給等については希望退職者と同一に扱うという条件のもとに、組合員七名の指名解雇に同意する旨の協定を締結した。

被告会社は、労組との間で右のとおり合意が成立したので、予め人選していた、金型部から原告河本(工)・同原・同松井・同河本(清)・訴外川名忠明、プレス部から原告佐藤・訴外有里次雄の計七名に対して、うち原告河本(工)は選考基準(5)に、原告河本(清)は同(3)及び(4)に、その他の者は同(4)にそれぞれ該当するとして、同月二六日午前一一時頃、各所属部長を通じて解雇の意思表示を行ない、その旨労組に通知した。

4  その結果、金型部の人員は四〇名となって、再建合理化計画の予定人員三八名より二名多くなり、反対にプレス部は五〇名で右計画の予定人員五二名より二名少なくなった。

以上の事実が認められる。

なお、被告会社は、前記希望退職者募集に関し、「非組合員三名即ち藤原イセ子・小出光蔵・浜田吉雄に対しては指名解雇に代えて、退職を勧告した。一般に組合によって保護されていない非組合員に対し個別に退職勧告を行なうことは指名解雇と同じことである。」旨主張し、これに添う証拠として、(証拠略)がある。しかしながら、右認定五のとおり、小出光蔵は経理の手持仕事の一応の目どがつく昭和五一年一月三〇日まで、浜田吉雄はプレス部の営業及び外注担当の部長であって、事務引継の終る同年二月末まで、それぞれ勤務予定であったのであるから、同人らはいずれも重要な職務担当者であったもので、選考基準に該当するとして指名解雇の対象となったとは考えられないこと、しかも、浜田吉雄に至っては、もともと大同興業から派遣されていたところ、元に戻ったというに帰し、被告会社主張の退職勧告ということ自体おかしいというほかなく、これ等の事情に照らせば被告会社の主張に添う前記各証拠は信用できず、他に非組合員三名に対して指名解雇に代え、退職を勧告した事実を認めるに足る証拠はない。

第三  本件解雇の効力

一  一般に解雇は、賃金によって生活を維持している労働者及びその家族の生活に重大な打撃を与えるものであるから、軽々に行なわれるべきでないこというまでもない。まして、余剰人員の整理を目的とするいわゆる整理解雇は、通常、労働者の責に帰すべき事由に基づかず、しかも、産業界のほぼ全体が不況にあって再就職の困難な時期に行なわれるので、通常の解雇に比べて労働者に与える影響は一層甚大であるということができる。従って、整理解雇の場合にあっては、労働契約上の信義則により、厳格な要件の具備を必要とするものというべく、その要件としては、<1>整理解雇を行なわなければ、企業の維持・存続が危機に瀕する程度に差し迫った必要性があること<2>整理解雇に至る過程においてこれを回避し得る相当の手段を講じたこと<3>整理解雇の必要性・時期・規模・方法等について労働者側と真摯な協議を行ない、その納得が得られるよう努力したこと<4>被解雇者の人選が誠実に、合理的に行なわれたこと、を欠かせない。これらの要件を具備しない整理解雇は信義則違反ないし解雇権の濫用として、無効と解すべきである。

二  これを本件について考えると、前記第二の認定事実によれば、右<1>(整理解雇の必要性)<3>(労働者側との協議)の要件は、一応これを具備していると認められる。しかし、以下に考察するとおり、被告会社は、希望退職の応募者に対して慰留を行ない(右<2>の要件関係。)、しかも、被解雇者の人選に当たっては、被告会社が自ら設定した選考基準によることなく、原告らの組合活動や思想信条を嫌悪して選考した(右<4>の要件関係。)ことが認められる。

1(一)  希望退職者の募集について

(証拠略)によれば、原告佐藤が属したプレス部整備班に属し、同原告より能力が勝っていたとはいい難い大政靖男が希望退職に応募して、昭和五〇年一二月一八日、総務へ退職届を提出したところ、吉川職長・成田部長からプレス部事務所に呼び出されて退職を思いとどまるよう説得されたほか、被告会社は希望退職の応募者のうち数名の者に対して慰留を行ない、その結果慰留に応じて希望退職の応募を撤回した者のあることが認められる。

右認定に反する証拠として、(証拠略)がある。しかしながら、甲第四〇号証の九・一〇(大阪地方労働委員会での証人成田邦三の審問調書)をみると、その要旨は「慰留は一切行なっていない。しかし、一応事情は聞いて助言できることがあればすることにしている。大政に対しては、退職届は部長に提出することになっていたのに、総務に提出したので手続が違うと指摘しただけである。」というものである。なるほど、事情を聞き、単に、助言する、ということのみを取り上げれば、それなりに合理性があるともいえる。しかし、既に退職を希望している者に対して、右のようなさ細な手続ミスをわざわざ指摘する必要があったなどということは、余りにも不自然で、信じ難い。さらにまた、(証拠略)によれば、原告らは本件指名解雇が行なわれる以前のビラ(甲第三号証の一)や昭和五〇年一一月二五日の臨時組合大会において、既に希望退職の応募者に対して慰留が行なわれている事実を労組の組合員に指摘している事実が認められること等の事情に照らせば、前記認定に反する右各証拠は容易に信用できず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

(二)  被解雇者人選の経過について

被解雇者人選の経過につき、被告会社は抗弁五3(一)のとおり主張し、右主張に添う証拠として、前掲甲第四〇号証の五(本件解雇の効力をめぐる仮処分事件の大阪地方裁判所岸和田支部での、細川清志に対する審尋録取書)、前掲乙第五九の四・五(前記仮処分事件の大阪地方裁判所堺支部での証人細川清志の証言調書)、前掲甲第四〇号証の四、乙第四九号証(大阪地方労働委員会での証人細川清志の審問調書)、前掲甲第四〇号証の七・八、乙第五〇号証(大阪地方労働委員会での証人山田冨郎の審問調書)、前掲甲第四〇号証の九・一〇(大阪地方労働委員会での証人成田邦三の審問調書)がある。そして、右各証拠は、昭和五〇年一二月二四日に細川清志専務取締役が、山田冨郎金型部長、成田邦三プレス部長の二人に対して、人選の指示を行なった、という結論部分の点では一致している。

しかしながら、その指示の内容及びその後の手続についてみれば、右各供述間には、次のとおり重大な相違点が存在する。

まず人選の指示内容についてみると、細川清志は、岸和田支部では、「最初五年以下の経験の浅い者を選べと指示した。」旨、堺支部では、「少数精鋭でいくから能力の低い者を選べと指示した。」旨(乙第五九号証の四)述べ、その選考の基準として、経験・能力のみをあげている供述があるかと思えば、堺支部で他期日には「少数精鋭でいくからその体制にふさわしい人選を行え。」(同号証の五)と、また、地労委では「選考基準に従って名前を上げて来い。」(甲第四〇号証の四)と指示した旨、いずれも抽象的で、ただ結論的には被告会社の主張に添う趣旨となる供述があるなど、本来一致して然るべき重大な指示事項についての供述間に、右のような差異があることは見逃せない。さらにまた、その指示を受けた金型部長の山田冨郎は、当初「整理基準を前提にして、人員削減を含む社内の体制作りを指示された。」旨(乙第五〇号証)供述していたのが、次の期日では「合理化のため、仕事のできる者できない者を選択せよと指示された」旨(甲第四〇号証の七)供述を変え、さらには、単なる仕事のできない者の選択の指示のみで、被解雇者の選考の指示とまでは思わなかった、ともとれる供述をするなど、前後の供述間に矛盾がある。

次に、両部長から候補者名の提示があった段階以後についての右細川らの各供述をみると、これらもまた、次のとおり、同一人の供述間及び各人の供述間の双方ともにそごがある。即ち、先ず細川清志は岸和田支部で「両部長から金型部五名・プレス部二名の経験の浅い者の名前が上がってきたとき、次に能力の低い者を選んでこいと指示し、結局候補者として合計プレス部二名・金型部七名の名前が上がってきた。」旨供述していたのが、堺支部では「二五日夕方両部長から候補者として合計一二~三名上がってきたので、さらに七名に絞るように指示した。七名に絞る作業は各部長が私のいない所で選択をし、二五日夕方遅く七名の名前が上がってきた。」旨(乙第五九号証の四)供述し、また、地労委では「二五日午前中各部長から金型八~九名、プレス三~四名の名前が上がって来た。七名に絞る作業は、私と横田専務と両部長の四人でした。」(甲第四〇号証の四)とか、「七名に絞る作業は殆ど両部長にまかしていた。私も側にいたが、口出しせずに部長らにまかしていた。」旨(乙第四九号証)、前記堺支部での供述と異なる供述をしている。次に、成田邦三プレス部長は、「プレス部の候補者四名から二名に絞る作業は両専務及び私と山田部長の四人でした。」旨(甲四〇号証の一〇)供述し、候補者四名を細川清志に報告した際、どのような指示を受けたかについては明確な供述はない。これに対し、山田冨郎金型部長は「金型部の候補者八名の名前を細川専務に報告したところ、細川専務からさらに五名に絞るよう指示を受けたので再度金型部内で検討し、五名に絞った。そして、同日夕刻両専務・私・成田部長の四人で最終的な検討を行なった結果、金型部内から右五名が被解雇者として決定された。」旨供述している。

以上にみたとおり、被解雇者の人選経過につき細川清志の供述相互間にも、また山田・成田の各供述との間にも重大な相違点が存在するのである。なお、右以外にも、右各供述間には相違点が多々あるうえ、各供述内容自体に不自然なところが少なからず存在する。各供述が右のようなものである以上、そのいずれもにわかに信用することができず、他に人選過程を明確にする証拠もないから、結局、被解雇者の人選がどのような経過で行なわれたかを確定できない。

(三)  原告らの解雇理由(能力)について

被告会社は、「原告らはいずれも能力が低く仕事ができないものであったため、原告河本(工)は選考基準(5)に、同河本(清)は選考基準(3)及び(4)に、同原、同松井、同佐藤は選考基準(4)にそれぞれ該当するものとして解雇した。そして、その判断は能力評定表に日常の観察の結果を加えて、総合してした。」旨主張する。そして、被告提出の能力評定表(金型部)・能力査定表(プレス部)(以下合せて「能力評定表」という。)(乙第一〇号証の一・二、第一六号証の一ないし四、第三一号証)には、なるほど、原告らは最低もしくは最低に近い評点が記入されている。

しかしながら、能力評定表は、次にみる考課表と違って、被告会社のうちの金型部とプレス部のみで、しかも、右各部独自にその評定対象項目及び各その配点を定めているものである(従って、主観的評価項目の多少及びこれらに対する配点の相違は総合評定に大きく影響する。)ばかりでなく、そもそも、その評定対象項目の選定及び配点の適否自体問題で、本件で顕出された資料によっては、なお、その適正たることについての心証を得られない。従って、これらを有力な証拠とする被告の主張は採用し難い。

のみならず、(証拠略)によれば、次の事実が認められる。

(1) 被告会社は能力評定表とは別に、昭和四七年以来、毎年四月頃、従業員の昇給資料として、考課基準に従って考課表を作成している。この基準設定に当たっては、公刊の資料を含む各種の関係資料を調査・検討するとともに、各部長の意見が徴された。このようにして定められた考課基準は、非監督者にあっては<1>能力<2>服務<3>能率と成果(仕事が合理的・迅速に行なわれているか。目だったミスはないか。計画達成上からみての仕事ぶりはどうか。)の項目ごとに、各一〇点、合計三〇点満点で各人を評定するというもので、その査定を第一次に班長・組長クラス、第二次に職長、第三次に部長が行ない、この点数を考課表に記入する仕組みになっている。そして、右評点を基にして、従業員を、昭和四九年まではA(最上)からE(最低)までの五段階、昭和五〇年にはAからCの三段階に分け、各段階ごとに一応の昇給額を定め、なお必要な場合には、さらに従業員間の均衡保持を図るための微調整をしたうえ、各人の最終的な昇給額を決定していた。

(2) 昭和四七年度の昇給に当たっては、原告松井・同河本(工)は最低のEにランク付けされていたが、原告原・同佐藤は中間のCにランク付けされている(当時原告河本(清)はまだ入社していない。)。そして、同年のEランクの該当者のうち右原告両名以外の者は本件指名解雇当時既に被告会社にいなかったが、Dランクの評価を受けた者は指名解雇後も一一名残っている。昭和四八・四九両年度の考課表は被告会社から提出されないので、原告らがどのようにランク付けされていたか不明である。

(3) 昭和五〇年度の昇給に当たって、原告河本(工)・同河本(清)・同松井は最低のCにランク付けされているが、原告原は中間のBにランク付けされている(なお、同年度の原告佐藤のランク付けを示した書証の提出はない。)。そして、Cにランク付けされている者で、本件解雇後も被告会社に残っている者は金型部内だけで二名いる。

以上のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。右認定によると、若干の政策的配慮が加えられる場合があるということを考慮してもなお、全社的視野のもとに従業員の能力・勤務態度を査定する考課は、その性質上、従業員間の成績対比を相当高度の確率をもって表しているものといえる。そして、原告原は少なくとも昭和四七年・同五〇年に、原告佐藤は少なくとも昭和四七年において、それぞれ中間のランクに位置している。(なお、被告は、原告原について、抗弁六4のとおり、昭和四八年夏以降目立って勤務態度が悪くなった旨主張する。しかし、もしそうだとすると、同原告に対する解雇事由は「経験年数短く、かつ、作業能力最低の者」に当たるとされているのであるから、昭和五〇年の同原告に対する考課としては、当然、考課基準<1>・<3>は最低たるべきものであるし、そのうえ<2>もまた悪くなければならず、そうすると、少なくとも中間のランクに位置付けられることはなかったはずである。にもかかわらず、右位置付けをした考課は、全く出たら目なものであったというほかないことになる。しかし、考課は、前記のとおり、場合により若干政策的配慮が加えられることがあるとはいえ、将来の待遇面についても重要な資料となるものであるから、余程特別の事情でもない限り、右のような出たら目なことがされるとは到底考えられない。なお、本件では右特別の事情に当たると認められるものはない。以上の点からしても、被告の原告らに対する主張には疑問が多いといわざるをえない。)。しかるに、昭和四七年度では原告原・同佐藤よりも低いDにランク付けされていて指名解雇後も被告会社に残っている者が一一名、昭和五〇年度で原告原よりも低いCにランク付けされていて、被告会社に残っている者が二名それぞれいるのである。しかも、当時被告会社の労務担当職員であった証人西山孝は、「本件指名解雇後、おかしいと直感したので、昭和四六年以降昭和五〇年度分までの昇給資料、考課表等を見直すと、原告原・同佐藤は点数の高い方に属していた。」旨供述するのに、被告会社は、前記(2)にふれたとおり、右に関する昭和四八・四九両年度の資料を提出しない。以上のことを総合考慮すれば、少なくとも原告原・同佐藤については、同人らより能力の低い者が本件解雇後も被告会社に残っていたことを認めることができる。

なお、被告会社は、原告原・同佐藤につき能力が劣る具体的理由として、抗弁六4・5のとおり、個々の作業ミス等をあげ、これに添う証拠として、(証拠略)が一応ある。しかし、これらはいずれも、先にみた事情に照らしてそのまま信用することができず、従って、これらによっては右認定を覆すことはできないし、他に右認定に反する証拠もない。

(四)  原告らの労組活動等について

(1) (証拠略)によれば、本件被解雇者七名のうち原告らと訴外有里の六名は、細川労組の組合員であり、かつ、党員(共産党員)あるいは同盟員(日本民主青年同盟員)であって、うち原告ら五名は次のとおりの活動歴を有し、特に本件解雇の直前においては、労組三役がその姿勢を労使協調的立場に変えるという状勢下にあって、なお、指名解雇絶対反対という態度を鮮明にし、積極的に活動していたことが認められる。

イ 原告河本(工)は昭和三七年三月被告会社に入社し、昭和三九年に同盟員となり、昭和四一年に共産党に入党した。また、原告原・同松井・同佐藤は昭和四六年三月に、原告河本(清)は昭和四七年に、それぞれ被告会社に入社したが、原告松井は既に高校在学中から同盟員であり、同原・同佐藤・同河本(清)はいずれも入社後一年前後の頃までに同盟員となり、昭和四九年には右原告四名は共産党に入党した。そして、原告らは国政選挙、地方選挙等に際して共産党推薦候補のための選挙運動をしたり、日常活動として党勢拡大のため、被告会社の従業員に対し、共産党の機関紙の購読の勧誘等をしていた。

ロ 原告河本(工)は、昭和四五年細川労組が結成されるに当たって、その規約の作成、労組員の勧誘等積極的な役割を果し、結成後執行委員調査部長に、昭和四六年には書記長に、昭和四七年五月から昭和四九年まで代議員議長に就任した。原告松井は昭和四七年五月に代議員、同年一〇月から執行委員、昭和四九年に代議員に、原告原・同松井は昭和四九年に代議員に就任した。

また、原告河本(工)は昭和四九年の組合長選挙に際して立候補し、同原告のために他の原告らは積極的な選挙運動をしたが、結局少差で落選した。

この間、昭和四六年一〇月に会社において指名解雇問題が発生し、当時書記長であった原告河本(工)は、他の労組役員に対し、強力な反対闘争を進めるよう強く主張し、また、昭和四七年の春闘において、労組はストライキを行なったが、その際同原告は書記長として、原告原・同松井は代議員として、他の組合員らに対し、説得活動をした。さらに、昭和四九年五月、労組執行部において、活動方針案が討議された際、泉州地方に所在する労働組合によって構成されている泉州労連(泉州地方労働組合連合会)から細川労組が脱退するとの方針が出されたのに対し、原告らは脱退は組合を弱体化させるとして反対活動を展開し、結局右脱退案は撤回されて組合大会に提出されずに終った。

ハ 昭和五〇年三月被告会社は一時帰休を実施した。これに対し、原告らは一時帰休の実施はいずれ指名解雇につながるものと危惧し、指名解雇反対の体制作りのため執行委員会を強化する必要があると考え、原告河本(工)・同原・同松井が執行委員の選挙に立候補して当選した。

当選した右三名は執行委員会において、指名解雇絶対反対を強く主張し、また、執行委員会・職場委員会の定期化、教育宣伝活動の強化等の問題をとりあげた。

同年一一月末頃、被告会社が労組に対し希望退職者の募集の協力を求めた。これに対し、原告らは希望退職募集そのものはやむを得ないが、指名解雇はあくまで反対である旨主張し続け、希望退職者の募集を受け入れるか否かを決定する同年一二月一〇日の臨時組合大会において、原告河本(工)は「仮に、指名解雇が行なわれる場合は闘争委員会(当時執行委員会がそのまま闘争委員会となっていた。)としては、ストライキをしてでも闘う。」旨の決意を表明した。

なお、泉州労連は、当時指名解雇絶対反対の立場で細川労組を指導していたが、右臨時組合大会の頃から、細川労組三役の意向が微妙に変化して労使協調的立場に変ったため、原告河本(工)・同原を呼び寄せ、従前の方針どおり指名解雇絶対反対の立場を貫徹するよう一層の努力を要請した。これを受けて、執行委員の原告河本(工)・同松井・同原の三名は、同年一二月一六日、連名の書面で、希望退職の条件改善・募集期間の延長、指名解雇反対、のための提案を闘争委員会に提出し、また、原告河本(清)・同佐藤は職場集会等で意見を述べる等して、労組全体を指名解雇反対の方向へ導くための努力をした。

同月二四日被告会社から労組に指名解雇に対する協力要請があり、労組は同月二五日夕刻臨時組合大会を開催して組合全体の意思を決定することになった。そこで、原告ら五名は右組合大会に備え、二五日昼休みに集まって、その対策を話し合った。そして、右組合大会において、原告河本(工)・同原は指名解雇絶対反対の意見を主張した。なお組合大会は通例泉州労連の役員も出席することになっていたが、右臨時組合大会では、労組三役が前述のとおり労使協調的立場に変化していて、組合長が予めその出席を断わっていたため、泉州労連の役員は出席しなかった。

以上のとおり認められ、右認定を動かすに足る証拠はない。

(2) (証拠略)によれば、原告らの労働組合員としての、あるいは同盟員ないし党員としての活動、さらにまた他の従業員の同盟員としての活動について、従前から原告らの直属の上司や、同郷の先輩従業員らのみならず、ときには被告会社役員らが、それらの活動(特に党員ないし同盟員としての活動)をやめるよう、再再原告らや同盟員たる従業員らを説得したことが認められ、右事実に会社の規模その他の事情を勘案すると、被告会社は先にみた原告らの活動を熟知し、かつ、これらの活動を嫌悪してその排除を企図していたこと、被告会社の職制らはこの会社の意図をそんたくして原告らに右のような説得工作をしたことが推認される。右認定に反する(証拠略)は信用できず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

2  右1に考察したところから明らかなとおり、本件解雇については、先ず、指名解雇に先立って実施された希望退職者の募集過程において、既に被告は、信義則に反する不当な慰留行為をしており、これは、整理解雇の回避努力を尽すべきものとする前記<2>の要件を欠くことに当たり、次に、被解雇者の人選が果していつどのようにしてされたか明らかでなく、さらに、原告ら自身にもその勤務態度について反省し改めるべき点のあったことはうかがえるにしても、被告主張のように、能力低劣者であった、というには、なお多分に疑問が残るのであって、これらは、人選を誠実に合理的にすべきものとする前記<4>の要件を欠くことに当たり、結局、被告は、先にみた原告らの従前からの組合活動等を嫌悪し、整理解雇の名のもとに解雇権を濫用(労組法七条一号・三号(不当労働行為)及び労基法三条(思想・信条による差別的取扱)違反行為にも該当。)して、原告らに解雇の意思表示をしたものと認められる。従って、本件解雇はいずれも無効である。

第四  右認定と第一の当事者間に争いのない事実によると、原告らの本訴請求はいずれも理由のあることが認められる。

第五  従って、原告らの本訴請求を認容し、訴訟費用の負担について民訴法八九条を、仮執行の宣言について同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 和田功 裁判官 香山高秀 裁判官東畑良雄は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 和田功)

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