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大阪高等裁判所 平成10年(う)570号 判決 1999年10月29日

本籍《省略》

住居《省略》

無職 E田花子

昭和一九年三月四日生

右の者に対する偽証被告事件について、平成一〇年三月三〇日神戸地方裁判所が言い渡した判決に対し、検察官から控訴の申立てがあったので、当裁判所は次のとおり判決する。

検察官中村雅臣、同岩橋廣明、同須藤政夫 各出席

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、検察官作成の控訴趣意書及び控訴趣意補充書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は主任弁護人梶原高明ら作成の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

(以下の判断において、原判決が用いた略語はとくに断りなくこれを用いることがある。)

第一控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について

一  論旨は、要するに、原判決は、B木の証言及びB原ことB川秋子(以下「B川」という。)証言の各信用性を否定し、被告人の国賠証言の信用性を肯定した上、被告人の国賠証言の主観的虚偽性及び犯意を認めるに足りる証拠がないとしたが、これらの判断は、差戻判決たる控訴審判決(以下「第一次控訴審判決」という。)の判断に反するものであるから、右判断に基づく原判決は裁判所法四条に違反しており、この訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討する。

二  裁判所法四条は、上級審の裁判所の裁判における判断がその事件について下級審の裁判所を拘束することを認めているが、これは、上級審の裁判所の判断と下級審の裁判所の判断とが食い違うことにより事件が際限なく審級間を上下するのを防止することをその趣旨とするものであり、上級審をして下級審の裁判の指導に当たらしめるために認められたものではない。したがって、この拘束力を有する判断とは、破棄の直接の理由、すなわち原判決に対する消極的否定的判断についてのみ生ずるものであって、この判断を裏付ける積極的肯定的事由についての判断は、破棄の理由に対しては縁由的な関係に立つにとどまり、何らの拘束力を有するものではないと解される。論旨は、原判決が事実認定に関する第一次控訴審判決の判断の拘束力に違反している旨主張しているので、第一次控訴審判決がいかなる事実判断を示しているのかをまず考察することとする。

三  第一次控訴審判決は、控訴審として何らの事実取調べも行わず、書面審理に基づいて差戻前一審の無罪判決を破棄して差し戻したものであり、その理由の結論部分には、「以上の次第であるから、原判決は、被告人両名(本件被告人及びB山春夫・当審注)の各国賠証言につき、客観的虚偽性及び主観的虚偽性・偽証の犯意のいずれの点においても、取調べ済み証拠の評価を誤った疑いが強く、かつ、取り調べるべき証拠を取り調べなかったという審理不尽が直接または間接に介在しており、これらが重なった結果、各公訴事実の立証が不十分である旨事実を誤認するに至ったものというべきである。そして、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、本件につき更に審理を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である神戸地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。」と記載されている。事実誤認の条文のみを掲げながら審理不尽をも指摘しており、説示するところ、判文上必ずしも明確ではないといわざるを得ない。

そこで、その理由として述べているところをさらにみると、被告人の国賠証言の客観的虚偽性に関する判断部分においては、「B木証言及びB川証言の各信用性を排斥した原判決の判断には疑問があってこれを支持することが困難であり、また、原判決が被告人の国賠証言の信用性を肯定したことにも疑問があるというべきである。」旨、事実認定に対する判断を示しているが、これは疑問を提起しているものであって、何らかの確定的結論を示しているものではなく、これに続けて、C林電話の時刻の点に関する検討結果を踏まえて判断すべきであるとしている。そして、そのC林電話の時刻に関する判断においては、「これら(検察官が証拠請求していた証人であるE野五郎やE橋六男・当審注)の尋問を行うことにより、C林証言の信用性につき外部的な裏付けがあるか否かを検討することが可能」とするだけでなく、「本項のC林電話の時刻は、第二項で述べたD原電話やD岡電話等の順序及び時間帯とも密接に関連しており、第二項に関する審理を尽くしたうえで、これをも踏まえて本項の判断をなすのが相当というべきである。」旨、差戻前一審において審理が尽くされていないことを強調している。さらに、被告人の国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意に関する判断部分においても、「被告人の国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意を否定した原判決の判断には、にわかに左袒し難い。」とは判示するものの、差戻前一審判決が示した客観的虚偽性がないとの前提に疑問があり、その前提が変われば主観的虚偽性に関する結論も異なってくるというのであって、第一次控訴審判決の段階で事実認定に関して一定の確定的な結論を出しているものではない。

以上の判示及び何らの新たな証拠調べを行っていない審理経過を総合すれば、第一次控訴審判決は、「事実誤認」の文言を用い、かつ、その条文のみを掲げてはいるものの、破棄理由の中心は、取り調べるべき証拠を調べていないという審理不尽であって、B木証言及びB川証言、被告人の国賠証言の信用性等の個々の証拠評価や国賠証言の主観的虚偽性や犯意の存否といった事実認定に関しては何ら確定的な判断をしていないものと解される。すなわち、差戻前一審判決が十分な証拠調べをしていれば同判決の結論と異なった事実判断になる可能性があるのに、その証拠調べをしないまま本件公訴事実を認めるに足りる証拠がないとした点をもって「事実誤認」若しくは「事実誤認の疑いがある」と判断したものと解するのが相当である。第一次控訴審判決自身が、事実相互の関係を指摘し、総合判断を求めている点からいっても、個々の事実の判断に独立に拘束力を考えていないことは明らかであろう。もっとも、「事実誤認の疑い」があるだけで無罪判決を破棄できるかという重要な問題はあるが、本件では審理不尽を破棄理由にしていると解することができるので、特にこの点には触れないこととする。

四  してみると、第一次控訴審判決は、差戻前一審判決が審理不尽の証拠状態の下で、公訴事実を認めるに足りる証拠がないとの最終判断をしたのが誤りであるとしているだけで、個々の証拠評価や事実認定に関して拘束力を有する判断をしていないとみるのが相当であって、これを前提にする検察官の拘束力違反の主張は成り立ち得ない。そして、所論は、第一次控訴審判決が、事実認定に関して拘束力を有する判断をしたことを前提に、差戻審たる原審においてその拘束力を覆すだけの証拠調べがなされていない旨主張するが、右に述べたとおり、前提が誤っている上、差戻後一審は指示された証拠調べを行っているのであるから、採用できない。

論旨は理由がない。

第二控訴趣意中、事実誤認の主張について

一  はじめに

論旨は、要するに、本件証拠によれば公訴事実たる被告人の偽証事実が認定できるから、これを認めるに足りる証拠はないとして被告人に無罪の言渡しをした原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのであり、その主張の骨子は以下のとおりである。すなわち、原判決は、各公訴事実につき検察官が客観的事実であるとして主張する「被告人は、午後七時五〇分ころまでには既に若葉寮職員室に行っており、それ以降午後八時二〇分ころにB川から同職員室でXの行方不明を知らされるまでの間、同職員室に在室していた。」との事実の裏付けとなるB木証言及びB川証言、同じく「C林電話は午後七時五十数分には終了している。」との事実の裏付けとなるC林証言等は、いずれも看過できない疑問があってそれをたやすく信用することはできず、他方、被告人の供述変遷状況及び記憶喚起過程は不自然、不合理であるとはいえず、また、被告人らの澤崎に対する支援活動を同人のアリバイ作出に向けたものとの評価をすることには大きな疑問があるなどとした上、被告人が証言時の記憶に反して虚偽の証言に及んだとする公訴事実については、これを認めるに足りる証拠がないとしたが、B木証言、B川証言及びC林証言は信用性に全く欠けるところがなく、被告人の本件証言が澤崎のアリバイ立証に向けた虚偽のものであることが明らかであるにもかかわらず、原判決は、それらの証拠の評価・判断を誤った結果、重大な事実誤認を犯した、というのである。

当裁判所は、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討したところ、結論として原判決に検察官が主張するような事実誤認はないとの判断に至ったので、以下その理由を説明する。

二  判断の方法について

まず、最初に、本件において、検察官がいかなる証言事項を訴因として取り上げたのかを検討する。

起訴状の記載そのものからみると、被告人に関する公訴事実第二のうち「二」については、被告人の記憶についての記載がないものの、証言事実と客観的事実の記載からすると、検察官は、被告人が、Xの行方不明を管理棟事務室で澤崎から聞いたとの点につき、その記憶がなかったのに記憶に反する証言をしたことを起訴する趣旨であると容易に解釈することができる。これに対し、起訴状記載の公訴事実第二のうち「一」は若干わかりにくい記載である。証言事実としては「午後七時三〇分ころから午後八時一五分過ぎころまでB山春夫、山田悦子(澤崎・当審注)、B谷二夫とともに管理棟事務室にいた。その間B谷二夫がC林七江と電話で通話した際、B山春夫の腕時計をのぞき込むと午後八時一五分であった。そのあとB山春夫は、同事務室を出て同学園を出発したが、出発までの間、午後八時ころ一度だけ若葉寮職員室へ行きすぐ管理棟事務室へ戻った。」と被告人の所在に関する事実のほか、C林電話の時刻及びその際に時計をのぞき込んだ事実の有無も記載されているものの、被告人の記憶に関しては具体的な主張がなく、単に客観的事実として被告人が終始若葉審職員室にいた点のみを主張しており、その対応関係が不明確である。しかし、この客観的事実の記載と、公訴事実第二の「二」の記載を総合すれば、検察官が問題としているのは、被告人が終始若葉寮にいたことに反した証言をした部分とみざるを得ないのであって、被告人において、午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまでの間、証言したような場所、すなわち管理棟事務室にいたとの記憶がなかったのに、その記憶に反する証言をしたことを起訴する趣旨と解するのが相当である。すなわち、公訴事実第二の「二」も、証言事項として「管理棟事務室で」聞いた事実が記載されており、検察官主張の客観的事実である「被告人が若葉寮職員室にいたこと」を前提とすればあり得ない事実であって、この点では管理棟事務室にいることを前提とする「C林電話の時刻」及び「その際の時計ののぞき込み」と同じ構造になっている事実である。それにもかかわらず、「管理棟事務室で澤崎からXの行方不明を聞いた。」との証言事項のみを公訴事実第二の「一」とは独立させて掲げ、客観的事実としてB川から聞いたことを掲げてこの部分を偽証として取り上げる趣旨を明確にしていることに徴すれば、その余の「C林電話の時刻」及び「その際の時計ののぞき込み」に関する証言事項は、独立した偽証の訴因として取り上げていないと解するのが相当である。

以上が起訴状の記載自体から導かれる解釈であるが、これは検察官の訴訟活動からも裏付けられる。すなわち、起訴直後である差戻前一審の第一回公判において、「検察官は被告人が起訴状記載の公訴事実第二の一及び二の各陳述内容についていかなる記憶を有していたと主張するのか、その記憶の内容を明らかにせよ。」との求釈明に対し、「公訴事実第二の一については『昭和四九年三月一九日午後七時五〇分ころから同八時二〇分ころまでの間、終始同学園若葉寮職員室にいた』ことが、公訴事実第二の二については『若葉寮職員室にいた際B原ことB川秋子から聞いて初めてXの行方不明の事実を知った』ことが、いずれも真実でかつ被告人の記憶の内容である。」旨明確に釈明している。また、破棄された差戻前一審判決が、昭和六二年公訴事実第二の一につき客観的事実であるかどうかを認定・判断すべき事実の範囲は「午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまでの間、被告人E田は若葉寮職員室にいたのか、管理棟事務室にいたのか」ということに尽きる旨、訴因を限定している趣旨の判示をしたが、これに対する検察官の控訴において、右のような訴因のとらえ方が誤っている旨の主張をしていない。したがって、検察官のこれまでの訴訟活動も、先に述べた起訴状の記載自体からの解釈を裏付けるものであって、訴因としては既に述べたとおりの内容に確定していたものと解さざるを得ない。

検察官は、控訴趣意書の所論の中で、「C林電話の時刻」及び「その際の時計ののぞき込み」をも証言内容の客観的虚偽性を明らかにするものである旨、あたかもこれらの事項も訴因として取り上げているかのように主張する。しかし、右に述べたところからすれば、仮に検察官においてこれらを訴因として取り上げるつもりであったならば、起訴状自体にそれが明確になるように記載すべきであったし、少なくともしかるべき時期に訴因変更の手続を経るべきであった。現段階における右主張は、被告人の主観的虚偽性を推測させる間接事実の一つとしてはともかく、訴因の観点からは採用できない主張である。

そして、偽証罪の構造からすると、検察官においては訴因として取り上げた証言事項について被告人に記憶がなかったことを立証する必要があるところ、検察官は、この被告人の主観面を、右証言事項に関する証言事実と異なる客観的な事実の存在によって推認しようとしており、偽証罪の立証方法として適切な手法であると思料されるので、以下その手法順序に従って検討する。

三  証言事項に関する客観的事実について

1  B木及びB川の各証言と被告人供述

(一) はじめに

前記のとおり、本件で問題となる証言事項は、「被告人の所在」と「被告人がXの行方不明を聞いた場所と相手」であるが、検察官は、後者についても被告人が若葉寮職員室にいたことを前提としているのに対し、弁護人は、問題となる時間には基本的には管理棟事務室におり、若葉寮には二回それぞれ短時間行っただけであると主張しており、結局、被告人が午後七時五〇分ころからXの行方不明が知らされた午後八時二〇分ころまでどこにいたのかが客観的事実としての中心問題ということになる。以下、この点に関する直接証拠であるB木証言、B川証言及び被告人供述の信用性を順次検討し、問題点を浮き彫りにした上で情況証拠からさらに総合的に各証拠の信用性を考察することとする。

(二) B木の証言

検察官が主張する事実に関する直接的な最重要証拠はB木証言である。B木は、確かに検察官主張のように、自己が午後七時五〇分ころ若葉寮職員室に行ったとき被告人が在室しており、そこへB川がXの行方不明を知らせに来るまでの間被告人はずっと同室にいた旨の証言をしている。しかしながら、B木証言は、昭和四九年四月当時の供述内容を変遷させて証言したものであるから、B木が立場として第三者的であるというだけで変遷後の供述である証言が信用できることにはならない。そしてB木証言を検討すると、その変遷理由の合理性の面からも、変遷後の供述である証言内容の面からも、その信用性が高いとはいい難いこと原判決が第五の二2(44頁以下。これ以降「以下」を省略する。)及び第五の三2(155頁)において詳細に説示するとおりである。

すなわち、供述変遷の面でみると、例えばB木が若葉寮職員室に入った際のことについての、同人の昭和四九年四月当時の警察官及び検察官各調書の記載は、これらを素直に読めば、「自分が職員室に入ったときに被告人は職員室にいなかったと記憶しており、その旨警察官にも述ったが、その記憶は明確なものではなかったため、検察官から確認されると、もしかすればいたのかもしれないとも述べた。」というように理解するのが相当というべく、B木が証言するような、「自分自身は被告人がいたとの記憶があり、警察官にもその旨述べたが、警察官から被告人はいなかったのではないかと言われたために供述をぼかした。」記載とは考え難い。仮にB木証言のような状況ならば、調書の記載方法が逆になるはずであり、当時の捜査状況から考えても、B木において被告人が若葉寮にずっといた記憶がある旨述べているものを、被告人本人のこれに反する供述があるからといって捜査官の側でわざわざ右調書のような記載にすることは考え難い。また、Xの行方不明を知らされた状況に関する供述変遷を、「供述をぼかした。」ということで説明しようとするのであるが、Xの行方不明をB川が知らせに来たという明確な記憶があれば、知らせに行ったか否かはっきり覚えていないというB川の言葉を聞いたからといって自己の供述をぼかす必要はない上、昭和四九年四月一五日付検察官調書において、知らせに来た女の声につき、「私はB川の声だと思っていたが、後でB川に聞いたところB川はそのころ青葉寮の方にいて若葉寮の方には来ていないということだった。」旨、自己の記憶自体がはっきりしない趣旨の供述をしていること、また、昭和四九年当時の供述は、B谷と女の先生との来室順序が逆になり、女の先生の声の後にB谷がさらにXが来ていないかと尋ねて来た内容になっていることを考え併せれば、これらの点に関して明確な記憶があったにもかかわらず「供述をぼかした。」という右説明が成り立たないことは明らかである。そして、このような供述変遷理由の説明が、昭和五三年当時の検察官調書において、「警察官の話に幻惑された、警察官に合わせた。」という形で始まっており、昭和五二年当時の供述変遷の際には述べられていないことも、当該調書においてX死亡事件のころの被告人の在室に関する記憶が明確に記載されていることとの対比で不自然さを免れない。

また、供述内容の面でみると、右に述べたように、B木は若葉寮職員室に被告人が終始いた明確な記憶があると証言するのであるが、終始いたはずの被告人の行動については極めてあいまいであり、昭和五二年、五三年の供述調書と対比しても多くの点でその内容が変遷している。昭和五二年以降の供述に具体性がなく、証言時にもあいまいなのは、時間の経過からやむを得ないという面もあるが、現実になされた証言内容は、時間の経過により記憶が薄れたというようなものではなく、多くの事実関係、特に昭和四九年当時の取調べ状況についてはほとんど記憶がないとしながら、被告人の行動中、特定部分の細かな具体的事実については証言し、これについて断定的に述べたかと思うと推測によるかのように証言したり、事実関係自体を変化させたりしているのである。事実に関して記憶があるとしていったん断定的に述べた部分においても変遷しているのであって、一体どの証言が推測であり、どの証言が本当に記憶のある部分であるのかが判然としない。被告人がいたという記憶が本当に残っているのであれば、その根拠となる何らかの基本的な場面が記憶にあってしかるべきであるのに、午後八時ころのE川電話の際のやりとりと、「何か手伝いましょうか。」というやりとり以外は、具体的場面で記憶が残っていると評価できるようなものはない。例えば、原判決も指摘するとおり、B木は、被告人の行動につき、B木の隣に座って行動記録をつけていたと思うと証言しているが、B木もカルテ(行動記録)の整理をしていたというのであり、そうだとすれば、その作業のために必要とされる業務日誌のやりとりなどについて記憶があるはずであるのに、これについて全く供述がないなど、裏付けを欠いた不自然な証言に終っている。

ところで、被告人も、二人の間で前記二つのやりとりがあったことを認めており、「何か手伝いましょうか。」と言われたのは糊を取りに若葉寮職員室へ行った二回目のときのことであり、それ以外に記憶に残るような会話を交わしていない旨供述する。検察官は、両名はそれほど親しい間柄でもなく、B木は退職間際で忙しかったから、被告人が若葉寮職員室にずっといたにもかかわらず会話が少なかったとしても不自然ではないというが、もし午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまで終始同じ部屋にいたのであれば、やはり二人の関心の的であるY子捜索のことなどについてもっと会話があってしかるべきと思われる。B木と被告人の両方にとってはっきりしているのが右二つのやりとりだけという事実は、はからずも、被告人は終始若葉寮職員室にいたのではなく用事で二回だけ同室を訪れ、被告人が供述するように、それぞれその際前記のような会話を交わした事実を裏付けるものとみることもできる。

さらに、証人尋問調書を読むと、B木証言が質問に対する応答の仕方などそれ自体において真摯さに欠けると思われる部分があり、供述経過に照らしても、質問者に対して迎合しやすいことなど全体としての供述態度に問題があることは、原判決が述べるところに同感できるのであり、B木が、証言すべき結論、すなわち被告人が終始在室していたという具体的事実による裏付けを欠いた結論に固執して証言しており、真に記憶に基づいて証言してはいないのではないかという疑問は、これを否定することができない。

右に述べたような理由から、B木証言に関しては、その証言自体、かなり信用性が低いものといわなければならない。

(三) B川の証言

次に、B川証言をみると、同人は、この点について「若葉寮に行ってXの所在を尋ねた際、職員室にB木のほかB谷及び被告人がいた。」旨証言している。この点の信用性は、Xの行方不明を誰が若葉寮へ知らせたかということとも密接に関連するが、B川の証言は、その供述の変遷の面からも、供述の内容の面からも信用性はやはり低いといわざるを得ないこと原判決が第五の三3(175頁)において詳細に説示するとおりである。そして、何より、B川は、青葉寮の当直者であったため、X死亡事件直後から幾度も自己の行動について取調べを受け、午後八時過ぎにXの行方不明を知ってから午後八時三五分ころに副園長B海へ電話をかけるまでの間の出来事について、順序、経過時間をも検討しつつ詳細に説明していたことが窺われるのであるから、単なる一瞬の出来事や知覚ならばたまたま思い出せないことがあるとしても、自己が若葉寮にXの行方不明を伝えに行ったというような行動について、X死亡事件直後からの継続的な取調べにおいて思い出せなかったということは考えにくい。B川は、若葉寄へXの行方不明を知らせに行ったことを昭和五〇年五月の再現実験の際に思い出したと弁解するが、反対尋問において、この点について昭和五〇年五月の再現実験の約二か月後の同年七月一八日付警察官調書(二通)及び同月一九日付検察官調書においては触れられず、X死亡事件から約三年も経過した昭和五二年の供述調書で初めて触れられているとしてその理由を尋ねられた際、納得できるほどの説明がなされていないのであって、右弁解は信用し難い。事の推移という観点からみても、B川は、澤崎から青葉寮にとどまっているように言われ、事件の状況が不明であるその時点において園児の安全確保のために施錠の確認をしたのであり、電話でも連絡できるのに不用意に青葉寮を離れるのは不自然であることも指摘されよう。

さらに、原判決が第五の二3(四)(186頁)で指摘するように、B川が、X行方不明当時の青葉寮宿直者であり、自分が犯人として疑われることを懸念していたこと、澤崎とB谷の両名を犯人であると疑い、両名に強い反感を持っていたことなどの当時の心情や、客観的な事実に反すると思われることでも、それを真実と思い込みやすく、いったん思い込むと容易に疑問を抱かず、断定的に供述する傾向があることが窺われる点なども、その供述の信用性の判断に当たっては念頭に置く必要がある。

なお、B川が若葉寮にXの行方不明を知らせに来たことは、若葉寮職員の供述によっても裏付けられているかのようにみえるが、Xの行方不明を誰から聞いたかについての各供述の経過をみると、C内は、当初「澤崎と思ったがB木かもしれない。」(昭和四九年四月二四日付検察官調書)、「澤崎らしい女性が私に向かって『X君がこちらに来ていませんか』と言った。私はその声を聞いて相手の女性がその声の特徴からかねて聞き覚えのある澤崎であることがはっきり分かった。以前検察官に違う趣旨を述べのは間違いだった。」(昭和五〇年八月七日付検察官調書)旨供述していたのが、「澤崎かB川であった。」に変わり、さらに、声の特徴から識別したとしていたのに、「制服から考えるとB川である。」と変化し、D谷は、もともと「よくわからない。」(昭和四九年四月二三日付検察官調書)としていたのが「B川と直感した。」に変わったものであって、いずれもX死亡事件に近いころには知らせに来たのがB川であるとは供述していなかったどころか、中には澤崎であることがはっきりわかったとさえ供述していたことがあったにもかかわらず、なぜかB川の供述と同様に昭和五二年以降に修正されているのであって、これを素直に記憶喚起によるものとは考えにくい。

また、B木は当初からB川と述べ、後にはその顔までも見たと証言しているが、当初は声で判断したもので明確ではなかったとしているのであって、B川であるとの判断が必ずしも確実ではない。逆に、当初に供述していたことが窺われる、「声でB川と思ったが、B川に聞くと来ていないと言っていた。」という事実関係は、B木の判断違いであったとすれば単純に納得できる話であるが、事実B川が若葉寮に知らせに来ていたのであれば、B木から来たのではないかと確認されながら、なおもB川がその記憶を喚起できなかったいとうことになるのであり、むしろ知らせに来たのが澤崎であることに整合するものである。

(四) 被告人の供述

被告人の供述が基本的に信用できることについては、原判決が詳細に説示しているとおりである。すなわち、そのころ基本的には管理棟事務室におり、その間、用事で若葉寮職員室へ行ったことはあるが、Xの行方不明は管理棟事務室で聞いたとする被告人の供述は、被告人に対する捜査復命書が存在するX死亡事件の翌日である昭和四九年三月二〇日の時点から一貫しており、特に、Y子捜索のための捜索表を作ろうとして紙を糊で貼っている際にXの行方不明を聞いたとの点は具体的であって、その供述中には被告人が若葉寮職員室にずっといたことを窺わせるものはない。確かに、管理棟事務室内での出来事の順序及び時刻並びに若葉寮職員室に行った回数が一回か二回か及び時刻等において種々の変遷がみられるのは事実であり、これらの変遷が実際は体験していない事実を供述しているために生じているとの見方もあり得ないではないであろう。しかしながら、実際に管理棟事務室にいなかったのに、これをいたように供述しようとする理由として検察官が主張するのは「アリバイ工作」である。「アリバイ工作」には、後記のとおり根本的な疑問があるが、特にここで問題にしている被告人が管理棟事務室にいたか否かの点で考えると、犯行の全体像も判明しておらず、澤崎に嫌疑がかけられているかどうかもわからないX死亡事件当日から翌日にかけて、B谷が、若葉寮に被告人と一緒にいたB木の存在をあえて無視して被告人にのみアリバイ工作を依頼し、被告人も、B木が真実を知っていることを十分承知しながらB谷の依頼に応じたという現実離れした想定が必要となる点で大きな問題がある。そして、X死亡事件直後の被告人の供述には、澤崎にとっては逆に極めて不利になりかねないような「B山が出発した後に澤崎が管理棟事務室を出て行った。」旨の内容があることも、澤崎を庇うための「アリバイ工作」であるとの想定からはかけ離れたものといわなければならない。さらに、右アリバイに直結する被告人の供述部分が内容的にも明確とはいえず、B谷の供述とも食い違っているなど、打合せをしたとは考えにくいことも、「アリバイ工作」の存在に対する疑問となり得る。他方、被告人の供述の不明確部分や変遷は園児二人の死体発見による精神的衝撃から生じた記憶の混乱でも説明が可能であり、被告人供述が一貫して前提としている管理棟事務室にいたこと自体を特に疑う事情はないというべきである。

(五) まとめ

右にみたとおり、被告人が、午後七時五〇分ころ以降は管理棟事務室にはおらず若葉寮職員室に行っており、そこへB川がXの行方不明を知らせに来たとする点に沿う中心的証拠であるB木証言及びB川証言は、いずれもそれ自体信用性が低いといわざるを得ない。これに対し、基本的には管理棟事務室におり、そこで澤崎からXの行方不明を聞いたという被告人の供述は事件直後から最後まで一貫しているといえるのであり、その間に若葉寮に行ったのが一回か二回かについては変遷があるものの、B木証言やB川証言と比べれば変遷した根拠にもそれなりの理由があり、事の推移からいっても自己の行動の説明に無理がなく、信用性が認められる。また、B山は、自分が管理棟事務室から出るまで被告人が基本的には同室にいた旨、B谷も、澤崎も管理棟事務室にXの行方不明が知らされるまで被告人が基本的には同室にいた旨それぞれ一貫して述べており、この両名の供述は、特にこの点に関する供述内容で不自然な点は存在しない。これに、そもそも、被告人が管理棟事務室に入ったのは、B谷及び澤崎からY子捜索のための捜索表を作ることへの協力を求められたためであること、その被告人が一人で若葉寮職員室へ戻り、B木証言が述べるように園児の行動記録をつけるというようなことはその時点での作業や行動の流れとしても必然性に乏しいことも考慮すれば、以上の検討から既に被告人が基本的には管理棟事務室におり、Xの行方不明も同室内で澤崎から聞いたものとほぼ認定してよい。

2  検察官が主張する他の争点との総合判断

(一) 右1で検討したように、B木及びB川の各証言と被告人供述自体を対比しただけでも被告人供述の信用性が高く、B木及びB川証言の信用性はかなり低いと考えられるが、なお、検察官は、他のいくつかの点を争点として主張しており、確かにそれらの判断が右認定に影響しかねない事柄と思料されるので、総合判断の見地から以下さらに検討を加えることとする。

(二) 被告人の若葉寮に二回行ったとの供述について

(1) はじめに

被告人は、国賠訴訟及び本件公判廷において、午後七時三〇分ころからXの行方不明を知らされるまで基本的には管理棟事務室におり、その間二回若葉寮職員室へ行った旨供述している。この二回行ったという事実が他の証拠状況から考えて真実に反する可能性が高ければ、そもそも基本的には管理棟事務室にいたとの被告人供述全体の信用性にかかわってくると考えられる。すなわち、午後八時のE川電話のとき、被告人が若葉寮職員室にいたことは間違いない事実であり、また、被告人は、B山が出発してから糊を取りに同室へ行った旨一貫して供述している。これを前提にすると、もし、被告人が同室へ一回しか行っていないとすれば、糊を取りに行ったのは午後八時前となり、このことからB山出発もC林電話も時間的には午後八時前の出来事ということになるから、被告人の供述は全体として自己矛盾に陥っているといわざるを得ない。これに対し、もし二回行っているとすれば、一回目が午後八時のE川電話の際であって、その後管理棟事務室に戻り、B山が出発してから再び糊を取りに若葉寮職員室へ行ったことになる。そして、B山はC林電話から間もなく出発していると考えられるが、それが、被告人が一度管理棟事務室に戻ってからというのであれば、E川電話が終了した後になるから、必然的にB山出発ひいてはC林電話は午後八時過ぎにならざるを得ないことになる。このように、被告人が若葉寮職員室へ行ったのが一回か二回かは、証拠評価及び事実認定に重大な影響を及ぼす。

(2) 被告人の供述

この点に関する被告人の供述をみると、同供述には変遷がみられる。すなわち、昭和四九年三月二五日付捜査復命書において、若葉寮職員室に二回行った趣旨の記載があるが、その後同年六月二〇日までに作成された捜査復命書並びに警察官及び検察官各調書には、これが一回である趣旨の記載がなされ、その後、捜査に非協力的な態度をとるようになった同年七月二日には、再び若葉寮職員室に二回行ったかもしれない旨の供述をし、昭和五一年の国賠訴訟の証言に至って、「何時ころかは覚えていないが、いなり寿司とバナナを取りに若葉寮職員室に行った。職員室にはB木がいて、電話をかけていたと思う。B木から意見を聞かれて答えた覚えがある。B山が出て行った後に、もう一度若葉寮職員室に糊を取りに行ったことを覚えている。職員室にはB木がいて、何か手伝いましょうかと言われたが、結構ですというようなことを言った覚えがある。」旨の証言をし、差戻前一審公判廷においても基本的には国賠訴訟における証言内容を維持している。したがって、まず、この供述の変遷をどのように考えるべきかを検討する必要がある。

被告人は、右の供述変遷の理由を、おおむね、「昭和四九年三月二五日の時点では、若葉寮に二回行ったことは覚えていたが、糊を取りに行った用事だけしか覚えておらず、紙袋を取りに行った用事は思い出せなかったため、警察官の事情聴取の際に、警察官からいろいろ言われ、『若葉寮に行ったのは糊を取りに行った一回だけでこのときB木が電話をしていたのだ。』と強く言われると抵抗できず、一回しか行っていないという調書のような記載になったが、澤崎の逮捕後、最後の検察官の取調べのころまでには、管理棟事務室の人だかりの中で恥ずかしい思いをして机の下から紙袋を取ったことの印象から、若葉寮へ紙袋を取りに行った際にE川電話があったことも思い出した。」旨供述している。この点については、原判決が第六の二(211頁)の中で説示しているが、その内容自体供述の変遷経過を一応合理的に説明し得ているだけでなく、二回行ったことを思い出した理由も具体的であり、紙袋に入れていたいなり寿司等を出しそびれた状況、後にこれをD塚事務員の机の下から取り出したことなど特に不自然なところはない。とりわけ、一番最初のころの事情聴取の結果と考えられる昭和四九年三月二五日付捜査復命書に二回と記載されていながら、その後の調書等では一回になり、再び二回に戻ったという特徴的な経過について、警察官の証言を考慮しても、被告人の述べるような経過が十分あり得ることとして考えられる点は軽視できない。

これに対し、検察官は、真実は被告人が若葉寮にいたにもかかわらず澤崎によるX殺害事件のアリバイ工作のために管理棟事務室にいたことにしようとしてこのような供述変遷が生じたと主張する。しかし、アリバイ工作のための供述という観点でみると、真実は若葉寮へ行ったのが一回であるのに、二回と供述したというが、前記のとおり、二回行ったことが、既に、昭和四九年三月二五日付捜査復命書に記載されているのである。そして、この捜査復命書の内容は決して通り一遍のものでなく、被告人の同月一九日の行動を順を追って詳しく記述している。すなわち、「事務室でお茶を飲んだ後で若葉寮の保母室へ行ったところB木が一人でいた。そのときの用事は思い出せないがすぐ事務所に引き返した。」旨記載された後に、B山が車で出た後で糊を取りに若葉寮に行ったとなっており、捜査復命書が作成された時期がかなり早いことやその内容も相当に具体的であること、その後取調べ警察官に追及されて間もなく一回と供述が変わったこと、また、何より肝心の澤崎の行動について若葉寮から管理棟事務室に帰って来たとき澤崎はいなかったと供述している点等からみて、それがアリバイ工作のための供述であるとすると、説明が困難であるといわざるを得ない。このように、昭和四九年三月二五日の時点でかなり明確に二回行った事実を供述していることを、アリバイ工作とみることができないとすれば、未だ犯行時刻やE川電話の時刻もはっきりしておらず、被告人においても取調べ警察官においても若葉寮に何回行ったかが澤崎のアリバイに関係することなど念頭になかったと思われるときに、被告人は自らの記憶に残っている事実を素直に述べたものとみるべきであろう。犯罪捜査への影響を意識しないでなされた供述は、供述証拠であっても証拠価値は高い。この点は、同じ供述の変遷といっても前記B川の場合の変遷との大きな相違というべきである。

(3) その他の考慮要素

次に、他の管理棟事務室内関係者の供述をみると、澤崎は、被告人が糊を取りに出たことは当初から供述しているものの、本件公判廷ではB山出発前に出たことは記憶がないとし、B山は、X死亡事件直後の供述調書等でこの点について触れたものはなく、国賠証言において自分がまだ管理棟事務室にいるうちに被告人が一回管理棟事務室から出た旨、被告人が二回若葉寮に行ったことに沿う証言をし、B谷は、当初はB山出発後に糊を取りに行ったことのみ供述し、昭和四九年六月二四日付検察官調書において、B山出発前に被告人が一回若葉寮に行った旨を述べたが、その時期については、D原電話の後であったというだけで、いつごろのことか特定できず、用事も不明である。このように、関係者の供述があいまいであることは、被告人自身の二回若葉寮に行ったという供述の明確な裏付けがないことを意味するが、被告人の用事が食べ物を取りに行くということで、部屋にいた者に断って行ったわけではなく、取ってきた食べ物も結局皆の前には出さなかったことからすると、これは周りの者の印象に残るようなことではないから、B山、澤崎及びB谷の記憶があいまいなのも不自然ではなく、逆に検察官の主張する「アリバイ工作」を窺わせるものはないのであるから、これらのあいまいさによって、被告人が若葉寮に二回行ったことへの疑いが生じるとまではいい難い。むしろ、少なくともB谷とB山の供述は、あいまいな箇所が多いながらもB山が出発する前に被告人が管理棟事務室を出たことを供述する限りにおいて被告人が二回若葉寮に行ったことを示唆する点があると評価できる。

(三) 電話の時刻及び順序ないしB山出発時刻について

(1) はじめに

ここでさらに、管理棟事務室における電話の時刻及び順序に関する証拠も検討しておく。すなわち、前記のように、被告人は、B山がC林と会うため神戸新聞会館へ出発した後に、自分が捜索表を作成するための糊を若葉寮職員室へ取りに行ったことを一貫して供述しており、一方でB山がC林電話から間もなく出発した事実もほぼ動かし難い事実であることからすると、もしC林電話が午後八時前であれば、それからB山が出発し、被告人が糊を取りに若葉寮職員室に行ったのがちょうど午後八時ころのE川電話のころになるため、「E川電話のときの後にもう一回糊を取りに若葉寮職員室に行った。」という被告人供述が事実に反することになるからである。また、その他、このC林電話の時刻ないしB山出発時刻の認定は、検察官主張事実の真否を判断する上で重要な意味を有しており、多くの点で他の証拠判断に影響を及ぼすので、そのためにも、この点に関する検討が必要となる。

(2) 相手方供述を中心とした各電話の時刻について

本件では、このC林電話の時刻ないしB山出発時刻が重要であるが、その前提として、管理棟事務室で通話された各電話の順序、時刻が問題となっているところ、通話記録等の客観的証拠は存在しない。しかし、各電話の相手方は基本的に第三者といい得る者であるから、その供述により時刻が特定できるか否かを検討する。ただし、供述証拠である以上、それだけをみて信用性が高いか低いかの評価は可能であるとしても、他の証拠から認められる事実との関係を考慮することなく最終的に事実を認定することは危険である。

ア D原電話

D原電話については、D原太郎証言並びにC岡九男証言及び同人の昭和五二年五月二日付検察官調書により、この電話の時刻が午後七時四〇分ころであり、通話に要した時間は五~六分前後であった可能性が高いと認めることができる。

イ C谷電話

C谷電話については、電話の相手方であるC谷が、平成六年の差戻後一審公判廷において電話をかけた時刻についてほとんど記憶にない旨証言しているところ、同人は、いわゆる第一次捜査時の昭和四九年八月二九日付検察官調書で、この時刻が午後七時五〇分ころから午後八時までの間である旨供述し、それがいわゆる第二次捜査時の昭和五二年二月九日付警察官調書において午後七時四〇分ころか七時三〇分台であると早くなり、さらに同年四月二七日付及び同年一一月一一日付の各検察官調書では、午後七時三〇分から午後七時五〇分ないし午後八時前ころまでとしか特定できない旨変遷している。

検討するに、右供述変遷の理由が必ずしも合理的で説得力があるとはいえないこと、昭和五二年二月九日付警察官調書における記載が、C谷本人の意思というよりも、警察官の示唆によって供述変更したことを窺わせるものであること、記録上の当初の供述である昭和四九年四月二一日付警察官調書(刑訴法三二八条書面)では午後八時ころと記載されているところ、これが作成された当時の捜査状況から考えると、C谷電話の時刻が午後八時近くであるというC谷の供述が捜査官の意向に反するものであり、C谷に記憶がないにもかかわらず捜査官が誘導するなどして供述をとる内容ではないと考えられることからすると、当初から記憶がなかったかのような変遷後の供述は採用できず、変遷前の供述である昭和四九年八月二九日付検察官調書の記載がC谷におけるC谷電話の時刻に関するより記憶に近い供述と考えるのが相当である。そして、もともと、かかってきた電話の時刻という一般的には記憶に残りにくい事実について約五か月後になされた供述であること、供述内容自体がある程度の推測をも交えたものであること、捜査官の影響を受けた可能性があるとしても最終的には記憶が明確でないとの供述に至ったことからすると、昭和四九年八月二九日付検察官調書の記載内容も、これを確実なものと考えることは危険ではあるが、その供述内容の具体性からみてある程度の信用性が認められるのであり、どちらかといえばC谷電話は午後八時近い時刻になされた可能性が高いと考えるべきである。

ウ D沢電話

D沢電話については、電話の相手方であるD沢六江及びD沢七男が、いずれも平成六年の差戻後一審公判廷において証言しているが、時刻についてはほとんど特定できていない。そして、D沢六江は、第一次捜査時の昭和四九年六月一七日付検察官調書において、この時刻が午後八時ころから午後八時一〇分ないし一五分までの間である旨供述していたのが、第二次捜査時の昭和五二年二月六日付警察官調書において、「記憶がないが、むしろ午後七時半過ぎころではないか。」旨早い時刻を供述するようになり、さらに同年四月の警察官及び検察官各調書(各二通)において、この供述変更の理由を説明した上、「午後七時三〇分から午後八時半ころまでの間で特定はできないが、むしろ七時半過ぎである可能性の方が強い。」旨供述している。また、D沢七男は、第二次捜査時の昭和五二年一月一一日付警察官調書において、「以前の八時過ぎの記憶との供述は誤りかもしれず、七時半から八時半までの間としかいえない。」旨供述し、同年五月及び一一月の警察官(各一通)及び検察官(二通)各調書においても時刻が不確かなことの説明をするなどして特定できないとの供述を維持している。

検討するに、D沢六江は供述変更の理由を一応説明してはいるものの、問題のD沢電話の時刻を早めたのは取調べに当たった捜査官の強い示唆が窺われる昭和五二年二月六日付警察官調書であって、右変更理由はその後の供述調書で説明されていること、その説明内容自体も微妙に変化し、真にその理由で供述を変更したと考えるには不自然なものであること、さらに、自らの記憶がなく、D沢六江の記憶がないことに沿うD沢七男証言ないし供述も、同人の第一次捜査時における供述と矛盾していることからすると、C谷電話におけるC谷証言ないし供述と同様、当初から記憶がなかったかのような変遷後のD沢六江及びD沢七男各供述は採用できず、記録上の当初の供述である昭和四九年六月一七日付検察官調書の記載がD沢六江におけるD沢電話の時刻に関するより記憶に近い供述と考えるのが相当である。そして、例えば通話料が夜間割引になる時刻等電話の時刻特定について根拠を示すなど、その供述内容の具体性からみてやはりある程度の信用性が認められるのであり、D沢電話は午後八時ころから午後八時一〇分ないし一五分ころまでの間になされた可能性が高いと考えるべきである。

エ D岡電話

D岡電話については、電話の相手方であるD岡十郎が、平成六年の差戻後一審公判廷において証言しているが、時刻については全く記憶がない。そして、同人は、第一次捜査時の昭和四九年六月二〇日付検察官調書において、明確な記憶がないとしながら推論も加えて午後八時半から九時ころまでの間になるとし、D沢が午後八時一五分ころというならばそれが正しいかもしれないと述べているのであるが、これはその内容からも時刻特定が極めてあいまいなことが明らかであり、D岡電話の時刻特定の証拠としてはほとんど意味がない。(もっとも、刑訴法三二八条書面として提出された同人の昭和四九年四月二一日付警察官調書には、「(電話の時刻について)別にメモ等もしていないので確実な時間は申せませんけれど、後で話します点からして絶体午後八時以前ではなく、私の記憶ではどちらかというと、午後九時に近いころであったように思います。」との記載がある。)

ところで、D岡が、D岡電話の数分後に西宮署へ電話をかけ、園児が行方不明になったとの届出があったか否かを確認したことが認められることから、西宮署への電話の時刻が判明すれば、これからD岡電話の時刻も特定できるといえるので、検察官はこの点からの立証を試みている。しかしながら、このD岡から西宮署への電話については、客観的な記録等による時刻特定の証拠は存在せず、電話を受けた西宮署の警察官池上のほか、警察官吉崎及び同切通が平成六年にした差戻後一審公判証言による立証である。そして、右警察官らは、記録に残っている検房終了の時刻、あるいは当日なされたレクリエーション旅行に関する話合いの状況と関連させて、D岡からの電話が午後七時五〇分過ぎとなる趣旨の証言をしているものの、その証言内容は約二〇年前の出来事に関することにしては余りにも詳細かつ具体的に過ぎ、電話時刻の特定に関する他の証人らがほとんど記憶を失っていることと対比して不自然である。X死亡事件後の事情聴取の過程で記憶が明確に固定されたと説明しようとしても、他の電話の相手方も事情聴取は受けているのであるし、事情聴取自体が事件から早くて約一年後、多くの者はX死亡事件後約三年を経過してなされているのであって、そもそも特異なX死亡事件当日の出来事とはいえ、その事件が現実化する前にかかってきた電話の状況という一般的に記憶に残りにくいと考えられる事実に関する供述であることに徴すれば、不自然さを払拭するだけの理由とはなり得ない。その上、昭和四九年四月二〇日付捜査復命書によれば、電話を受けた池上が、X死亡事件からそれほど日時が経過していない当時において、この電話の時刻につき「午後九時ころにA山学園に向けて出発した時刻より相当前だから午後八時ころではなかったかと思う。」というようにあいまいな根拠による供述しかしていなかったことが認められるのであり、これらの点に照らせば前記警察官らの証言をそのまま採用することはできない。

したがって、D岡電話については、ここまで検討した証拠による限り、時刻特定についての心証を全く形成することができないといわざるを得ない。

オ C林電話

C林電話は、本件偽証でも重要視されている事項であり、C林は、差戻前一審においてこの電話は午後七時四〇分から五〇分ころの間にかけたものであり、通話時間が五分位であった旨証言している。これについては原判決が第五の二3(91頁)において詳細に検討し、結論としてその主要な証拠であるC林証言の信用性に疑問がある旨判断しているのに対し、検察官は、C林証言が信用できる旨反論している。

当裁判所は、このC林証言の電話の時刻に関する部分については、ある程度信用性は高いものの、それはあくまでも供述証拠であって、特に客観的証拠による裏付けがあるわけではなく、しかも電話の時刻という通常記憶に残りにくい事項についての証言であることに徴すると、これが事実に間違いないという程の確実性を持つとはいえず、他の証拠と総合的に判断せざるを得ないものと考える。以下理由を説明する。

まず、原判決も認めるとおり、C林は、立場として第三者であり、澤崎にことさら不利益な事実を供述するような事情はない上、その証言内容は、具体的根拠を示してのものであるから、C林証言は証言として比較的その信用性を評価できる条件を備えていると考えてよい。問題は、原判決の指摘する点であるが、例えば原判決が第五の二3(二)(3)ア(101頁)で指摘する感覚の不正確さについては、C林が電話を待って時間を気にしていたという点は事実であって、E野から勧められたとしても、それ自体が時間感覚を不正確にするものではなく、また、他の作業をしていたからといって時間感覚が狂うとは限らないのであるから、そもそもこれが過去の記憶に基づく供述であり、それも感覚によるものであるという限界はあるものの、原判決の指摘するような事情が、特にその記憶に対し積極的に疑問を挟む理由にはなるほどのものとはいい難い。また、原判決が第五の二3(二)(3)イ(104頁)で指摘する国際会館のシャッターが閉まる時刻ないし保安係員が巡回する時刻等との関係で考えると、確かに供述の変遷ではあるが、この内容は類似しているとも考えられるのであり、保安係員がシャッターを閉めにくるからというC林の説明を、保安の仕組みをよく知らない警察官が調書に記載する際に正確性を欠く表現になった可能性も十分あり得ることである。さらに、「誤った前提による誤った記憶」という指摘については、自分に記憶のないことにつき誤った前提を与えられれば誤った記憶がもたらされることがあるといえるが、この場合、保安係員によるシャッターの閉鎖というのはC林にとって十分承知の事実のはずであり、これについて誤った前提で記憶がゆがめられることは考えにくい。さらに、保安係員に対する気遣いの点では、証拠に照らせば、保安係員がありがとう運動事務所の前のシャッターを午後八時に閉めることを日課とし、保安係員が右シャッターを閉める場合はありがとう運動事務所に人が残っていないかを確認し、人が残っている場合には声をかけていたことが認められ、ありがとう運動会員も午後八時を越えて仕事をすることも多かったにせよ、午後八時までに帰るのが原則と考えていたとみることは、それほど不自然ではない。そして、このような他人に対する気遣いは、個人の人柄にもかかわることであり、責任者であるE野がそのような気遣いをしていなかったのに、単なるボランティアの一員であったC林がE野以上に保安係員のことを気にかけていたというのはいささか過剰な気遣いとはいえるが、必ずしも不自然とまではいえない。

このようにみてみると、検察官が、「差戻後一審は、電話時刻の推定理由に関するC林証言中の格別不自然ともいえないような些細な点をとらえ、ことさら過大に矛盾、変遷があるなどとしてその信用性を排斥しているのであるが、その証拠評価の姿勢は、本件において結論として無罪判決を書くための支障となるべき証拠は理屈をこじ付けてもその信用性を攻撃し、何とかその結論を合理化しようと腐心しているものであって、根本的に誤っている。」と決めつけているのは、疑問点は疑問点としてとらえる姿勢に欠け、問題であるが、原判決がC林証言への疑問として指摘する点のうちの一部は、これを強調することが相当でないといい得るものが含まれている面があり、後記走行実験の結果はともかく、これを除くその他の点を考慮しても、C林証言がそれ自体において信用性に疑いがあるとまではいい難い。しかし、原判決が第五の二3(二)(3)ウ(126頁)において指摘する点、特に、C林証言によれば、電話をした時刻と待ち合わせをした時刻との間には一時間ほどの間隔があることになるが、そうだとすれば、「早く来るんだなという感じ」とか、「ずいぶん早く来るんやなと思った」との感覚と整合しない点は確かに無視できるものではなく、その他原判決が第五の二3(二)(3)エ(135頁)で指摘する昭和四九年当時に供述しなかったことをその後詳細に供述するようになり、それが証言では記憶がなくなっているという経過も、説明が不可能ではないものの不自然であることは否定できず、もともと過去の事実に関する証言であるという限界も考慮すれば、冒頭に示したとおりの程度の信用性と判断するのが相当である。

(3) D岡電話とD原電話の重複について

電話の順序に関しては、差戻前一審以来取り上げられていたD岡電話とD原電話との重なりの問題がある。すなわち、検察官の主張によると、D岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったことと、当時D原電話の他にA山学園の回線を使用する電話でD岡電話と重なる可能性のある電話が存在しないことの二つの事実から、D岡電話とD原電話が重なり合っていたことが明らかであり、これにより右各電話がほぼ同じ時刻であったことが証明されているというのである。

そもそもA山学園の電話は、原判決が第二の二5(12頁)に記載するとおり、いわゆる押しボタン式電話システムが採用されており、設置されている各電話機は、同学園の電話番号の一回線だけでなく、関連施設である北山学園の電話番号の一回線及びA寿園の電話番号の二回線もボタン操作により使い分けることができるようになっていたが、B谷の昭和四九年七月二日付検察官調書には、「D岡電話の際にはA山学園の電話回線が使用中であったため北山学園の電話回線を用いて北山学園の番号を伝えた。」と受け取れる供述記載があるところ、澤崎も同年六月二八日の取調べの際にこれに沿う供述をしており、また、B谷の手帳のうち、弁護団会議が開かれた昭和四九年五月三〇日の部分には、「詰まっていたから北山のTelでした だから ラジオ大阪に北山のTelをおしえた」と記載されている。これらを素直にみれば、D岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったと考えられやすく、そうだとすれば、それはD原電話以外に考えられないとする検察官の主張に結び付くことになる。

そこで検討するに、D岡電話とD原電話の重なりを考察する際に見落としてはならない事実がある。それは、D原電話については、B谷がこれをわざわざ青葉寮まで出向いてB野に取り次いでいるのであるから、B谷自身がD岡電話のとき点灯していた外線ランプがD原電話であるかあるいはD原電話でないか最もよく知り得る立場にあるということである。したがって、B谷がD岡電話をしていたときに重なっていた電話について、B谷自身はそれをD原電話であると知っていたか又はD原電話でないと知っていたかのいずれかであると考えてよい。検察官は、この前者であることを前提に、B谷は、D原電話によるA山学園の外線ランプの点灯が、午後八時ころと判明しているE川電話であるかのように事実をすり替え、これを澤崎のアリバイの裏付けに利用しようと考えたものと推認し、澤崎もそのB谷アリバイ工作に合わせるべく、B谷の供述を裏付ける内容の供述したと認められると主張する。

しかし、D岡電話と他の電話との重なりなどは、B谷とそばにいた澤崎ら以外誰も知り得べきことではないから、B谷が澤崎が言い出さなければ外部にわかるはずのない事柄である。検察官の想定している状況を前提にすると、B谷にとっては、D岡電話が当時A山回線の電話と重なっていたことを捜査官側に知られれば、それがD原電話に結び付けられ、D岡電話が午後八時ころであったとの自分のそれまでのアリバイ工作が無に帰す可能性が高まるのであるから、基本的にはこの電話の重なり合いを表に出すことは危険と考えられるのであって、できる限りこれを隠そうとするのが自然であろう。仮に弁護団会議等でE川電話が午後八時ころであるとの情報を得て、これがA山回線を使用していたと軽信し、これとD岡電話が重なっていたことにすればD岡電話が午後八時ころであったことの裏付けにできるというようなことを思いついたとしても、現実にD原電話と重なっていることを知っているB谷が、前記のようなはなはだしい危険をも顧みずD原電話とE川電話をすり替えるという新たなアリバイ工作に及ぶ可能性は低いと考えられるし、そのようなアリバイ工作に及ぶならば、検察官も主張するように、もしE川電話が北山回線を使用してなされていたとしたら、工作はたちどころに崩れてしまうのであるから、十分な時間と余裕があったと思われるB谷において(弁護団会議は昭和四九年五月三〇日で、B谷の検察官調書は同年七月二日付である。)、E川なりB木に、E川電話がどの回線でなされたのか一言確認するくらいの注意は払うのではなかろうか。検察官は、B谷はD原電話とE川電話のすり替えを行ったとしながら、E川電話がA山回線を使用したものでなかった場合に自らの工作が破綻を来すことを考え、A山回線を使用していたと明確に供述することを避け、推測であるかのように供述したものとさえ主張しているが、そこまで深慮遠謀をめぐらすならば、E川なりB木に対して確認をする方が余程容易で確実である。B谷の右検察官調書の内容自体、そのような深慮遠謀に基づくものとは到底思われない。検察官の主張は、右のようにB谷は十分考えをめぐらせた上ですり替えを企てたというが、前記のように危険極まりない電話の重なり自体を表に出したり、B木かE川に使用回線を確認していない軽率さが併存してしまうことになる不合理を説明できない。

以上のように、B谷がD岡電話のとき重なっていた電話がD原電話であることを知っていて、これをE川電話にすり替えようとしたが、たまたま予期に反してE川電話に北山回線が使用されていたため、その工作が失敗に終わった旨の検察官の主張には疑問が存在する。そこで、B谷の右検察官調書や手帳の記載が検察官が主張するようにしかみることができないものかどうかについて、もう一度見直す必要がある。

まず、B谷の右検察官調書等が「D岡電話の際に外線のランプがついていたこと」と「D岡に北山の電話番号を答えたこと」のみが事実についての記憶としての記載であり、その他はB谷の推理推測を含む形で記載されていること、証拠上認められる同人の当時におけるこれらの時刻に関する認識状況からすると、B谷が事実としての記憶から誤った推論をした可能性があること、すなわち、B谷がD岡電話をかけた際には、A山回線以外の回線が使用中であったのに、B谷において、後にE川電話が同じ時刻ころに存在したことを知ったため、使用中であった電話がE川電話であると推理し、E川電話がA山回線を用いたものであるとの誤った認識から、A山回線が使用中であったとの結論に至った可能性があることを否定できず、また、当時、A山学園の電話回線が外部からつながりにくいおそれがあったことからすると、B谷がA山学園の電話回線を使用しながら、あえて北山学園の電話回線を教えた可能性もあり、右検察官調書等の記載からA山学園の電話回線が使用中であったと認定することは危険である。B谷は午後七時四〇分か四五分ころD原電話を青葉寮のB野に取り次ぎ、そして、午後八時ころD岡電話をかけたというのであり、そうだとすれば、B谷にとってD岡電話の時点ではD原電話などは自分が一五分か二〇分前ころに済ませた過去の出来事になっていて、既に念頭になくなっていた可能性が強いといえるし、B谷もその旨本件の公判廷で証言している。そのようなときに電話の時刻特定が問題とされ、その一つの判断要素として、E川電話が午後八時にかけられたとの情報を得て、時間帯からいってこれがD岡電話と重なっている可能性があるとすると、できればD岡電話が午後八時ころであることの裏付けになればとの願望を持ったとしても何ら不思議ではない。B谷において、D岡電話の時刻を証明して念願である澤崎のアリバイ証明に役立てたいと考え、あれこれと想像や推測をたくましくして供述することは十分考えられるが、それは検察官のいう電話のすり替え工作とは全く異質のものである。検察官は、この点につき、B谷が本件公判廷で、同人が検察官に供述した内容を覚えていないとか、D岡電話はA山学園回線を使用し、電話の相手方にもA山学園回線の電話番号を教えた旨証言しているのは、前記B谷の検察官調書や手帳の記載に照らし、明らかに虚偽である旨主張するが、右のように、B谷が、D岡電話とE川電話との重なりが立証できたらこれまで主張していたD岡電話の時刻が裏付けられるとの自らの願望のもとに想像や推測を交えてつい述べたところが、その後逆に検察官側からの攻撃材料にされてしまい、しかるにこれに対して有効・適切な反論ができなかったため、そんなはずはないのにとの困惑からそのように証言してしまったと考えれば、理解できないほどの弁解ではなく、虚偽を述べたとまではいえない。前記B谷の検察官調書と手帳の記載そのものの見方としては、検察官の主張の方が一見素直な見方であることは否定できないが、それが決定的なものであるとまではいうことはできず、他の証拠をも総合して考えれば、「D岡電話の際にA山回線が使用中であった。」との供述内容が事実ではないと考えることも可能というべきである。

次に、検察官がもう一つの根拠とする、「D岡電話がなされた当時、D原電話の他にA山回線を使用してD岡電話と重なる可能性のある電話が存在しない。」という事実が認められるか否かをみてみる。この点については、検察官が、A山学園、北山学園、A寿園及びA山ハウス等の各施設に当時勤務していた者の供述によりこれが立証できる旨主張しているので、各供述を検討すると、青葉寮男子保母室及び若葉寮職員室の電話機については、D岡電話があったと考えられる時間帯において青葉寮男子保母室でのD原電話以外に使用されていなかったと認めることが可能であるが、他の電話機については、関係者が初めて供述を求められたのがX死亡事件から約三年後であること、電話をかけたか否かという事実自体それほど記憶に残るような特異な事実ではないことなどからして、これが存在しなかったと言い切れるものでない。たまたまD岡電話と重なるような時刻の電話が、それもA山回線を利用してなされた可能性はそれほど高くないとはいい得るものの、明確に否定できない以上、他の電話の有無は不明といわざるを得ない。

以上によれば、B谷の検察官調書における供述及び手帳の記載が検察官主張のような状況でなされたと考えることには疑問があり、同供述及び記載のなされた経過が必ずしも明らかではないものの、これをもってD岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったとまで断定することはできず、また、A山学園の回線を使用した電話がどの程度あったかも不明であり、したがって、D原電話がD岡電話と重なっていた可能性についても一概にいえず、検察官主張のように決定的なものとは到底いえない。

(4) 走行実験について

走行実験については、原判決が第五の二3(二)(4)(139頁)において判断を示しているが、再度検討する。

まず、第一に、この走行実験の結果から、B山がA山学園を出発してから神戸の新聞会館に着くまでに要した時間を推認することが相当か否かである。原判決は、一回目の走行実験は、正確性に問題があるものの、二、三回目の走行実験については、検察官が所要時間を測定する目的で行ったものであり、その時間帯もX死亡事件当夜と同じころ(ただし、同事件が火曜日なのに対し、実験は火曜日と金曜日に実施。)であって、二日とも同じ所要時間であったことからその信用性は高い旨判断しているところ、この判断は支持できるものと考える。

これに対する検察官の反論の一つは、「走行実験の結果をもってX死亡事件当夜の走行時間とほとんど変わらないものと認定するためには、B山において同事件当夜の走行速度、運転方法等を記憶し、かつこれを正確に再現したことが明らかとならなければならないのに、走行実験が行われたのは同事件から三か月後であって、道路及びその交通状況が同事件当夜と同一であったか否かは全く明らかではなく、B山自身も同事件当夜の道路及び走行の状況を正確に記憶していたか極めて疑わしい。」という点である。しかし、まず、走行した道路が同事件の日と同一であったことに疑いを挟む事情は見当たらず、交通状況については、確かに同事件当夜と同じであることの確認はできないものの、平日の同じ時間帯であれば特段のことがない限り通常それほどの違いはないと考えられる上、B山自身が同事件当夜と交通状況が異なる旨述べなかったのはもちろん、走行実験に立ち会った捜査官も、特に実験に差し支えがあるような状況を感じなかったからこそ実験を実施し、証拠化しているのであるから、この走行実験がもともと所要時間を計測してみようとの捜査官の考えの下に行われたという経緯にも徴すると、交通状況が大きく異なる可能性は低いと考えてよい。この点、B山は、同人に対する偽証被告事件が本件と併合されていた当時の被告人質問において、「検察官の二回目の走行実験の後に、立ち会った刑事部長の検察官が『園長、あなたが言っている時間に学園を出ていますね。』と発言した。」旨述べているが、このような趣旨の発言をしたことについて検察官の側から特段の反証もなく、この事実は、当時の検察官が、走行実験の結果が判断資料として相当なものであると考えていたことを示す発言として無視できない。また、検察官は、B山自身が当夜の走行状況を正確に記憶していたか否かを問題にするが、人の運転の習性は、特に意識しない限りおおむね一定しているといえるのであって、走行する道路が同じで交通状況も同じであれば、ほぼ同様の走行状況になると考えて差し支えないというべく、走行状況の記憶を問題にする余地は少ない。

検察官の反論のもつ一つは、「B山が澤崎のアリバイ証明のため、意図的に速度を速めて走行しようとした疑いが極めて強い。」というのである。しかしながら、走行実験は、捜査官が同乗して行われているのであり、B山が不自然に速く走行すれば当然その点を指摘されるはずであり、そのような指摘がなかったのであるから、通常考えられる走行だったと推認すべきである。問題は、B山の同事件当日の運転が逆に遅かった場合であるが、同事件当日は、B山はC林との待ち合わせ時刻に間に合うのか心配して急いでいたのであるから、その可能性もほとんど考えられないといってよい。

してみると、検察官の反論は理由のある批判とはいい難く、約一九キロメートルの距離を同じ時間帯に二度走行していずれも出発から到着まで三三分であったという走行実験の結果は重く、検察官が先に主張するような一般論をもってこれを軽視することは到底許されない。この結果が前記C林証言の中の、「早く来るんやなと思った」とのC林の感覚に沿うことも偶然の一致とはいえない符合である。なお、警察官による一回目の走行実験の結果が二回目、三回目の実験結果よりも遅い四〇分であったことは、右実験が午前中に交通ストライキが行われた日の昼間に実施されたことからすると合理的に説明できるのであり、それでも七分しか遅くなっていないということも考慮要素の一つとなる。

なお、B山の新聞会館到着時刻については、原判決が第五の二3(二)(4)イ(143頁)においてB山の供述による午後八時五〇分とC林の証言による午後八時四三ないし四四分とを比較検討し、どちらとも特定できない旨の結論を示しているところ、確かに断定することは危険であるとしても、待ち合わせ時刻に間に合うかどうか気にしていたはずのB山が、X死亡事件からわずか三日後の昭和四九年三月二二日には(午後八時四七分ないし四八分の可能性もあるものの)午後八時五〇分という時刻を捜査官に供述し(同年六月一七日付捜査復命書)、その後同年三月二八日付捜査復命書、同年四月二三日付警察官調書、同月二六日付検察官調書において一貫して午後八時五〇分と供述しているところからすれば、このB山供述はかなり信憑性が高いと認めてよく、B山到着時刻は午後八時五〇分ころの可能性が高いとみるべきである。

(5) 結局、右のほか、本件で取り調べた証拠を総合しても、C林電話が午後七時五十数分に終了し、B山が午後八時前に出発したとの事実は認めることはできず、むしろ、その可能性は低く、B山が出発した時刻は午後八時を過ぎていた可能性が高いものと考えられる。

(四) 澤崎によるX殺害の事実について

(1) 本件での扱いについて

検察官は、本件偽証が澤崎によるX殺害事件における澤崎のアリバイを主張するものであり、そのアリバイ成否の判断は同事件の成否の判断と表裏一体の関係にあるから、本件偽証に至る経緯及び動機、目的等を解明するには、澤崎の右殺人の犯人性も含めて把握する必要があるとし、原判決が第五の三4(一)(192頁)において「澤崎は午後八時ころには管理棟事務室には在室しておらず、青葉寮に赴いてXを連れ出している」との事実は直接には検討の対象とならない旨判示したことをとらえて、原判決が澤崎の犯人性を推認させる証拠を全く考慮することなく本件偽証事件の成否を判断したと非難している。

確かに、本件は、検察官において澤崎が殺害犯人であると主張するX死亡事件と密接な関連を有するものであり、例えば、午後八時ころに澤崎が青葉寮に行ったことが明らかであるような場合には、管理棟事務室内での出来事を判断する際にも当然そのことを考慮することになろう。しかしながら、これは、あくまでも被告人に証言事実に対応する記憶があったか否かを検討するために必要な限度で考慮すべきものであり、澤崎が殺人行為を行ったか否かが直接的な問題ではなく、これを推認させる証拠が、一方では本件に関する証拠ともなり得るため、その限度で考慮されるにとどまるのである。特に、本件は、澤崎によるX殺害事件を立件する過程において取り上げられた事件であることは明らかであり、その本体ともいうべき澤崎によるX殺害事件の成否について熾烈な争いがあり、これに関する膨大な証拠の総合的判断が求められている場合に、本件との関連性の強弱を度外視して右X殺害事件に関するすべての証拠についての判断を詳細に示すことは、本件について結果を出すために必要とされる以上に屋上屋を重ねることになりかねないであろう。以下においては、検察官の所論にかんがみ、当裁判所が必要と考えた限度で若干触れることとする。

(2) 検察官がX殺害に関する澤崎の犯人性を示すとする証拠のうち、澤崎の自白について

澤崎のX殺害を認める自白は、もともと捜査段階の供述調書に一時期現れた断片的で不完全なものであり、自白内容ははなはだ概括的で信用性を高めるような具体性、迫真性がなく、重要な点について明らかに客観的事実に反する部分がある。最も問題なのは犯行の動機である。一般的に被告人と公訴事実との結び付きについて自白以外の証拠が十分でない場合には、自白の信用性を判断するものとしてその動機内容は特に重要な意味を持つ。しかし、澤崎に対する殺人被告事件において検察官の主張する動機、すなわち、「澤崎が、今回の事件の二日前の宿直の際、Y子が浄化槽に転落するのを目撃しながらこれを救助せず、逆に自己の責任になると考えてつい蓋をしたことに思い悩み、Y子死亡に関する自己の責任をカモフラージュするためにXを殺害した。」という動機は、仮に浄化槽の蓋をしたことが真実だとしても主張内容自体が通常の人間の考えることとして極めて不合理である。のみならず、本件証拠関係の下では、Y子転落場面を澤崎が見ており、さらにY子転落後に浄化槽の蓋をしたという点は、事実に反していると認められるのである。すなわち、E子が、第二次捜査段階において、Y子はおやつの後に自分も含め他の園児四名と一緒に遊んでいるとき浄化槽に落ちた旨、また自分が浄化槽の蓋を開けた旨、それまでの捜査では予想されておらず、Y子が転落したのは夕食直前であり、そのときY子が一人でいたことになっている内容の澤崎の自白とも全く異なると解釈せざるを得ない供述を始めているところ、Y子が一人で浄化槽の蓋(重さ約一七キログラム)を開けられると思えないことや、Y子の死亡時刻に関する鑑定内容等に徴してもE子供述の信用性は高く、本件においてこのE子の供述を否定するような証拠は存在しない。この事実に本件で取り調べられた全証拠を総合すれば、澤崎が自白を除き一貫して主張しているように、澤崎はY子転落の現場におらず、当然転落を目撃していないと推認するのが相当である。さらに、E子は、証言において澤崎はY子転落現場にはおらず自分が浄化槽の蓋を閉めた旨述べており、この証言も信憑性が高いというべく、右に推認される事実を裏付けているのである。そうすると、澤崎の自白する動機は事実に反しているといわざるを得ない。検察官の主張する澤崎によるX殺害事件のような犯行で、その動機内容に重大な事実の誤認があれば、自白全体の信用性に疑問が生じるのは当然である。通常であれば、これまでの捜査の見直しを迫られるほどの事実といえよう。

なお、検察官の主張の根底には、任意性を否定されない供述調書において自白していれば、それは事実と考えるべきという感覚があるように思われる。しかし、澤崎は、X殺害事件の被疑者として、真実ではないにもかかわらず自白してしまった理由を種々説明しているところ、それは決して通り一遍のものではなく、経験した者でなければ供述できないと思われるような具体性と迫真性を備えており、しかもその一部は取調官の供述によっても裏付けられている。澤崎のX殺害に関する自白の信用性は乏しいといわざるを得ない。

(3) 検察官がX殺害に関する澤崎の犯人性を示すとする証拠のうち、園児供述について

ア いわゆる目撃供述をしているといわれる園児の多くは、X死亡事件から三年以上経過した第二次捜査段階以降に初めて重要な供述をしている。検察官は、B谷らによる口止めがなされたために園児らはX死亡事件直後に事実を話せなかったと主張しているが、そのような具体的な口止めの事実を示す証拠はない。園児死亡事件に関して余計な話はしないようにという程度の話がなされた可能性はあるが、これは事件の重大さと園児らの状況を考えれば果たしてとがめられるような行為といえるか疑問であり、当然の注意ともいえるのであって、澤崎の犯行を隠すために澤崎に関連する部分だけを供述させない口止めとは質的に異なる。検察官は、指導員なり保母が園児に対して余計なことは言わないようにと注意しただけで、園児が一切口を閉ざしてしまうほどの効果があるとも主張するが、A山学園内にも、それぞれの園児にとって怖い先生もいれば、何でも話すことのできる先生もいるはずであり、現に本件証拠上もその状況が少なからず見受けられる。検察官がいうように余りに画一的に考えるのは相当でなく、また、右園児らのX死亡事件直後の供述は目撃供述以外の事実関係部分についてそれぞれ詳細かつ結構豊富であって、口止めされている者の供述とは到底思われない。

なお、ここで園児証言全体の特徴について述べると、園児証言にはDを除き総体的にみて証言を回避する傾向がみられる。特にA子、E子においてそれが顕著である。質問事項がそれほど複雑であるとも思われないのに、沈黙し、言葉を濁し、逡巡し、簡単な答えを得るのにも長時間を要することが多い。検察官は、これを園児の能力・特性、澤崎に対する気がね・遠慮・怖れあるいは証言の場における弁護人の質問の仕方や異議の多発によるというが、それでは説明し切れないものがあり、園児が本当に体験していないことあるいは記憶があいまいなことを証言することによる逡巡か、前に捜査官に述べたことと違うことを言えないための心理的葛藤による逡巡か、判断に迷わざるを得ない。そのため、本件において、園児供述の信用性を判断するためには、捜査段階での供述まで遡って考察する必要が出てくることになる。

イ D原供述

園児D原は、澤崎が青葉寮廊下において抵抗するXを非常口からむりやり連れ出す様子を目撃したと供述しており、これは澤崎によるX殺害行為を立証する上で内容的に極めて重大な意味を持つ証拠として位置付けられる。ところでD原は、X死亡事件直後には同事件当日の午後八時ころに澤崎がXを連れ出した事実はなかった趣旨に受け取れる供述をしていたのに対し、同事件から三年以上経過した昭和五二年の第二次捜査段階から右の目撃供述をしている。検察官は、D原がXの連れ出される状況を目撃して恐怖心を抱いたこと、父親から余計なことは喋るなと言われたこと、B谷から口止めされたこと等のために、X死亡事件直後に話ができなかったのであって、三年以上経過した後の供述であっても右目撃供述は信用できると主張する。

しかし、B谷による口止めがあったと認めるに足りる証拠はないし、その他の理由も、X死亡事件直後に話さなかったのを同事件から三年以上経過した後に初めて供述した理由として納得できるようなものではない。むしろ、本件証拠からは、D原が、澤崎が逮捕されたことをテレビ等の報道で知り、他の園児とも話をし、さらに、警察官からいろいろ事情を聞かれ、警察の捜査の過程でXの母親とも接触するなど少なからぬ情報を入手する中で、澤崎をX殺害の犯人であると思い込み、当日夜澤崎がXを連れ出したとの状況を自分で想定してしまい、約三年後に、D原が何かを目撃しているのではないかと期待していた捜査官による事情聴取の際の暗示・誘導の影響を受け、D原の生来の多弁傾向や人に認められたいとの欲求の強さも加わり、事実体験していないにもかかわらず、澤崎によるX連れ出しを目撃したかのような供述をしてしまったことが疑われるような状況が随所にみられる。昭和五〇年五月ころからのD原の供述は、例えば、X連れ出しに関しての重大な事実を他の園児から聞いたとして話しながら、いつのまにか聞いた事実は欠落してしまい、今度は内容を変えて自ら目撃したと供述する如く、証言も含めて多くの点で不自然かつ不合理に変遷しており、本当に記憶に基づいて供述していると考えてよいか判断に苦しむところが多い。そして、D原の供述には客観的に認定し得る事実と対比し、明らかに矛盾する点がある。一例をあげると、D原が女子便所に隠れてX連れ出しを目撃したと供述する時間帯である午後八時ころには、当日の宿直員であったB野が、男子棟園児の各部屋を端から順に見回り、同人がXの行方不明に気付いたのであるが、B野の供述による限り、そのときD原は自室にいたと認定するほかなく、そうだとすれば、D原は女子便所からX連れ出しを目撃できるはずがないのである。検察官はこのような重要な事実につき何ら説得的な反論をなし得ていない。そして、D原の前記性格とその供述経過からすると、多くの供述が思いつきで述べられている疑いが生ずる。結局、D原供述は、これが事実に反すると断定はできないまでも、真実と考えるについては払拭し難い大きな疑問がある。

なお、検察官は、あたかも、D原の記憶力はよく、自分の経験したこと以外の虚偽の事実を述べることはできないから、その目撃供述は信用できると主張するかのようであるが、D原がそれほど特殊な能力の持ち主であると認められないのは当然であって、D原の能力の観点から右に述べた点の判断に影響するものはない。

ウ A子供述

園児A子は、他の園児と異なり、X死亡事件からそれほど間もない約一週間後から、澤崎がA子の居室である「さくら」の部屋からXを連れ出したと供述し始めており、同人の供述は、D原と違った意味で重視される証拠の一つであり、検察官は信用性が高いと主張する。しかし、A子の供述によれば、当日の夜宿直の職員らがXを捜して「さくら」の部屋へ来たことをA子自身知っているというのであるから、いくら眠かったとしても、もしA子が供述しているようなことを真実体験しているのであれば、このことを職員らに話すのが自然と思われるのに、一切話していないという、他の園児供述に対するのと同様の疑問がある。そして、A子の供述のうち証言は第一回の証人尋問期日では澤崎がXを連れ出すのを見たとの供述をせず、その後長い時間をかけた末やっと証言するに至ったが、証言内容は総じて質問に辛うじて答える態のものであり、本当に記憶があって証言しているのか心証を形成することが困難である。そこで捜査段階の供述にまで遡って考察しなければならないが、まず、A子がX死亡事件から約一週間後にした供述は、約二週間後以降にした供述と、目撃場面の状況が著しく異なっており、同一場面の記憶を述べたとは考えにくい。捜査に当たった警察官の公判証言等を総合すれば、A子の最初の事情聴取当時、警察官において既に澤崎が犯人ではないかとの疑いを強めていたことが窺われること、このA子の事情聴取の前日に、D原によって「Xが『さくら』の部屋にいた」との供述がなされていること、A子が後に捜査官らに対して供述する事実とも明らかに異なる場面が供述されている点があることを総合して考えれば、A子が、「さくら」の部屋から澤崎がXを連れ出したのではないかと推測していた警察官の影響を受けて、他の日の出来事をそれほど意識もせずにX死亡事件当日の出来事として述べた可能性が強いといえる。そして、同事件から約二週間後にした目撃供述も、その事情聴取に至る経過、二名の警察官が二日がかりで当時A子がいた山の中に出かけ、一緒に遊ぶなどなだめすかして供述を得ることができた状況を考えると、やはり澤崎によるX連れ出しをA子が目撃したことを期待した警察官による暗示・誘導の可能性が否定できない。その後の捜査官に対する供述や証言において、澤崎を目で見たのか目は閉じており声を聞いただけなのか、その他澤崎が来た方向、Cが呼びに来た状況、澤崎とXとの前後関係、澤崎の服装等の点について変遷を示しており、これらの点は検察官のいうように供述の信用性に影響するようなものではないと一蹴できない変遷である。さらに、B川が、Xの行方不明を知って捜索する中でA子を見たときにA子は眠っていてゆすっても起きなかったと供述していることからすれば、テレビの途中で部屋に帰ったA子はそのまま布団に入って眠ってしまい、供述するような状況を一切目撃していないのではないかとの疑いさえ生ずるのである。

検察官は、A子は見たことは忘れず、見ていないことをこれに付け加えて述べるようなことはないといわば特殊な性質を持つかのように主張するが、A子の精神遅滞の程度は軽度であり、供述の信用判断にそれほど特別な考慮を必要とすることは認められない。結局、A子供述も、その信用性には到底看過することのできない大きな限界がある。

エ その他の園児の供述

その他の園児三名は、澤崎によるX連れ出しを目撃したと供述したり、D原供述及びA子供述を裏付ける供述をしたりしているが、それらの供述は結局あいまいでかつ大きく変遷していると評さざるを得ず、証言においては一部検察官主張事実と反対の趣旨の供述もしている。その上、重要な供述部分の多くは第二次捜査段階に初めて現れたものであって、X死亡事件後間もないころに供述していない理由が合理的に説明できない。内容的にも、例えば、D及びE子は、X死亡事件当日午後八時ころにXと澤崎を見たにもかかわらず、同事件当夜にXを捜している職員からXの行方を聞かれ、自分達も一緒に捜しながら、職員に対してXの目撃に関する事実を何も話していないという極めて不自然なものである。園児Cについては、そもそも過去の事実を時間的な関係をも記憶し、これを思い出して供述する能力が低いと認められる。

右園児らの目撃供述等は、自己の経験に基づいて供述されたものではなく、暗示・誘導によって形成された可能性が高いといわざるを得ない。

オ 以上のとおり、各園児の供述をみると、多かれ少なかれその信用性に疑いを抱かせる事情が存在する。そもそも、園児供述から澤崎によるX連れ出しが認定できる旨の検察官主張の根本に存在するのは、園児らの供述に多少の変遷やあいまいさがあっても、利害関係のない園児らが口をそろえて澤崎によるX連れ出しに結び付く供述をしている以上、その事実は存在したに違いないとの考えであろうと思われ、これは、一般的な感覚としてはわからないではなく、その信用性は慎重に検討されてしかるべきである。しかしながら、本件各園児供述は、これらが事件の直後にたまたま園児の方から申告されるというような形で出てきたのではなく、例えば先にA子供述及びD原供述のところで述べたように、最も重要な供述が出てくる過程において、あらかじめ捜査官がある程度の情報を得ており、これに基づいて暗示・誘導した結果得られた供述であることを窺わせる状況がある。他の園児供述についても、先に別の園児が述べたことに沿うように新しい供述を始めるなど、捜査官が得た情報に基づく事情聴取による暗示・誘導の影響を受けたことが同様に窺われる。所論は、捜査段階での園児供述について暗示や誘導がなかったといい、特に立会人立ち会いの下での取調べにおいては誘導ができない旨主張し、各取調官や立会人の証言を援用する。しかし、ここでいう誘導は、はっきりそれとわかる意識的な誘導だけではなく、園児との会話を通じての、時にはそれと意識しないでもなされる誘導をも含むのであって、立会人がそれと気付かないこともあり得ると考える。そして、取調べは密室内のことであるから、誘導があったか否かを直接証明する証拠の存在を指摘することはなかなか困難であるといわざるを得ないが、前記園児供述については、これを整理すると次のような特徴が認められるといってよい。すなわち、①園児は一般に暗示・誘導にかかりやすいといわれている年少者であること、②事件当日、園児のうち誰一人として目撃事実をA山学園の職員には話しておらず、重要な供述の多くが事件後三年もたってなされていること、③園児の証人尋問において、その場の雰囲気等を考慮してもなお証言回避の傾向が顕著であり、捜査段階での整然とした供述調書の内容と余りにもかけ離れていること、④園児の目撃供述は、いずれもそれまでに十分時間と機会があったと思われるのに、園児にとって最も信頼できる職員や両親等に話されておらず、最初に警察官に対してなされており、しかも、捜査官が各園児から事情を聴く前にあらかじめ情報を把握した上、澤崎が犯人ではないかとの見込みの下になされたと認められること、⑤取調官が園児から事情を聴くに当たって、園児と一緒に時間をかけて遊んだりすることは、一面において園児の気持ちをほぐし、話しやすい雰囲気を作り出すことは事実であろうが、他面において、迎合しやすく、暗示・誘導にも乗りやすい心理状態にならしめる危険性があること、⑥客観的事実と整合しない供述や不自然不合理な供述の変遷が多いこと、逆に時間の経過から考えて覚えていそうもない事実について具体的で詳細な供述をしている部分があること、⑦園児の中には、そもそもその記憶能力に問題がある者もいることなどである。これらの間接事実を総合して考察すれば、本件園児の目撃供述等は、取調官による暗示・誘導によってなされた疑いがあるといわざるを得ない。そして、本件における検察官請求にかかる各取調官の証人尋問によっても、未だ右疑いを解消するに至らない。このようにみると、本件において、そもそも実質的にみて「園児らの供述の一致」があるといえるのか疑問とされる余地があり、もとより園児供述を過度に重視することは厳に慎まねばならない特異性があることに注意すべきである。各供述の変遷及びそのあいまいさ並びに供述内容の不自然さ、裏付けの不存在等から生じる供述の信用性に対する疑問は、そのまま澤崎によるX連れ出し事実があったとすることへの疑問となる。

(4) その他本件における全証拠を検討しても、澤崎の犯人性を推認させるものはない。

(五) アリバイ工作論

(1) 検察官の主張

検察官は、本件偽証が、澤崎によるX殺害の犯行を隠蔽するためのアリバイ工作の一環としてなされた旨主張している。

検察官の主張は、本件起訴以来の審理過程において細かい部分では一部変遷しているが、その骨子は、「B谷は、X死亡事件発生後、澤崎がXの殺害に関与していることを察知し、又は、澤崎からの依頼により、澤崎のアリバイを作出しようと企て、澤崎とともに、『澤崎は、右事件当時にはB山、B谷及び被告人と一緒に管理棟事務室におり、B山が神戸新聞会館に向けて出発した後、澤崎がB谷及び被告人と一緒に同室に在室していたときにXの行方不明を知った。』との事実を仮装しようとし、被告人に対してもこれに同調するよう働きかけ、これに沿う供述をさせた。さらに、B谷は、B山をもアリバイ作出の仲間に加えるため、『B山の出発時刻が犯行時刻と考えられる午後八時ころをかなり過ぎた午後八時一五分ころである。』旨主張するなどして、B山をしてこれに同調させた。」というものである。

(2) アリバイ工作の立証

ア 検察官は、右のようなアリバイ工作につき、B谷、澤崎、被告人及びB山の間でアリバイ作出のための綿密な謀議・検討がX死亡事件直後からなされたものとは認め難いものの、被告人自身のアリバイ工作の存在を認める供述、国賠訴訟に至るまでのB谷、澤崎、被告人及びB山の各供述の変遷状況や、B谷の行っていた澤崎に対する支援活動、これに被告人及びB山が次第に同調していった状況などを総合すればこれを認めることができる旨主張している。

しかし、そもそも、本件においてB谷や被告人ら四名の間でアリバイ工作がなされたとの主張自体に常識的見地からみて根本的な疑問があることは後に述べるとおりである上、検察官の全主張を通読しても、誰と誰の間で、いつ、どこで、どのように話合いがなされたのか不明であるといわざるを得ない。もちろん、アリバイ工作の内容をどの程度具体的かつ明確に記述できるかは、存在する証拠いかんにかかることであり、ケースによって、ある程度の幅と限界があるのは致し方ないとしても、本件では、前記検察官の主張によれば、アリバイ工作はいわば本件偽証によって立つ基盤というべきものであるのに、その内容が余りにもあいまい模糊としているといわざるを得ない。特に、いつ、どの時点で話合いがなされたかが明確にされないと、被告人ら関係者の供述の信用性を判断する上で重要な視点を欠くことになる。まず、この点においてアリバイ工作の主張には重大な欠陥がある。

イ 検察官は、まず、被告人の差戻後一審最終陳述における供述がアリバイ工作を受けたことを認める供述である旨主張する。すなわち、右最終陳述中の、①「事件後、警察の取り調べが開始された頃から、山田(澤崎・当審注)氏に所かまわず至るところで『E田』はアリバイのことで話しかけられ、ひどく閉口させられた覚えがある。それが、『E田』の警察供述にどのように影響したのか、しなかったのか、今となっては分からないが、影響しなかったとは、明確に言い切れないのも事実である。」との供述が「澤崎についてアリバイ工作がなされたこと」を認めたものであり、②「『E田』が国賠で証言するため、大阪弁護士会館のアコーデオンカーテン型仕切りで区切られた小部屋において、弁護士との最初の打ち合わせの折、『先生のおっしゃることは何でも証言しますが、偽証罪に問われることにはなりませんか』と尋ねますと、『民事ですから、そういうことにはならないでしょう』と返答された。『E田』は、司法権力犯罪をマスメディアなどを通じて多く知っていたため、一抹の不安を覚えたが、有能な弁護士が確実な保証をしてくださったため、安心をして国賠で証言をしたのである。」との供述が「国賠訴訟において被告人が偽証したこと」を認めたものである、というのである。

しかしながら、右のような解釈はとることができない。確かに、右①②の文言をそれだけ読めば、それらが検察官主張のような意味を表していると受け取られかねない表現がないわけではなく、それゆえ当審でも被告人にその説明を求めたのであるが、被告人は、「そこだけをピックアップして読まれたら誤解を招くので最初から最後まで正確に読んでほしい。」と繰り返すのみで、具体的には説明を加えなかった。そもそも、右最終陳述は、書面にすればB5版の用紙四二頁に及ぶ分量で、A山学園における園児及び職員の一般的な状況やY子行方不明以降の職員の対応、さらに、澤崎に対する殺人被告事件並びにB山及び被告人自身に対する各偽証被告事件の審理に対する自己の意見を述べたものであり、検察官が指摘する部分はその一部であって、全体の中での位置付けといってもその解釈はいくとおりか考えられるのである。このような相当量に及ぶ最終陳述書のごく一部の記載から、被告人の真意を推し量ろうとすること自体被告人本人が供述するように誤解を招きかねない無理なことをあえて行っているとのそしりを免れず、例えば、①については、検察官の主張するアリバイ工作はB谷が中心であるのに、右最終陳述書では澤崎から話しかけられたとなっており、別の部分には澤崎がおしゃべりであるとも記載されていることとの関連からみると、被告人が澤崎から園児死亡事件当時のお互いの行動や警察で聞かれたことを所かまわず話しかけられ、それにより自己の記憶が混乱した趣旨であるとも解釈できるし、②については、「司法権力犯罪をマスメディアなどを通じて多く知っていたため」という記載があるところからすると、真実を証言したとしても偽証罪に問われる可能性があるという意味で、その心配を弁護士に相談した状況を記載したものとも解釈できる。検察官は、被告人が差戻前一審の公判廷でアリバイのことで澤崎と話したことはないとか、記憶がないとか供述していたのに、最終陳述はこれとその内容を異にするものであって、アリバイ工作があったことを認めたものというべきであると主張する。しかし、被告人の右公判廷での供述は、アリバイ工作を意識して話し合ったことはないという趣旨を述べているとも解釈できるのであって、事件後警察の事情聴取がなされている時点で、職員が事件のとき自分がどこで何をしていたのか自ら想起しようと試み、あるいはさらに、一緒に行動していた者がいたら、お互い確認し合うようなことがあってもおかしくないのであるから、若干ニュアンスの違いは感じられるとしても、被告人の右公判廷での供述と、最終陳述が全く異なった意味合いを有するとまではいえない。そして、何といっても、被告人の最終陳述が、全体として自己の無実を含む正当性を訴えるものであることは否定し難く、検察官のような解釈はかなり無理があり、少なくとも、これを被告人が「アリバイ工作」や偽証を認めた供述であると評価して証拠に用いるのは相当でない。

ウ 次に、検察官は、B谷において、X死亡事件後、職員らに対して警察捜査への非協力を呼びかけ、澤崎の逮捕時には、同人に対して事実を述べないよう指示し、自己の支援活動方法に反対する弁護人の解任を画策し、自己に協力的な弁護士と会合を開くなどして関係者がアリバイにつき矛盾のない供述をすることを確認し合うなどし、アリバイ主張に疑問を呈する職員に対してはその批判を封じこめようとするなど異常なまでの支援活動をしたことが、アリバイ工作を推認させると主張している。しかしながら、この点については、原判決が第七の一「検察官の『B谷の澤崎に対する異常な支援活動』との主張について」(326頁)において詳細に説示しているが、同所で説示するところは相当である。そもそも、B谷の活動の過激性は、これが社会的に相当であったか否かは別として、仮にB谷の供述するところが真実であってアリバイが事実であるとすれば、B谷の立場からは、澤崎の無実を信じるのは当然であるから、人間としてのやむにやまれぬ正義感の発露として他の者に対して働きかけていた行動であるとして説明するのに何の問題もない。視点を変えていえば、B谷の供述が真実であるか否か、すなわち澤崎にアリバイが成立するか否かが立証のテーマであって、B谷の供述が真実に反するとすれば、確かにB谷の行動は異常ということになろうが、この立証のテーマを確定せずして異常であるとかないとかの評価を下すことは困難である。そして、「アリバイ工作」という言葉で通常イメージされるのは、共犯者や極めて親密な関係にある者同士の間でなされる密やかな工作であって、殺人罪というような重大事件において、多数の職員や父母の前であからさまにかつ過激な態様でなされることが、全くあり得ないとはいえないとしても、その効果に疑問があることと危険性を考えれば、かなり特異なアリバイ工作であることは否定できず、少なくとも、活動の内容がアリバイ工作であることと活動が過激であることとは直接には結び付かないと考える。

エ また、検察官は、B谷を中心とした被告人、B山及び澤崎の各供述状況及び供述変遷から、アリバイ工作が推認できると主張する。一般に、アリバイの存否を確認できるような直接証拠がない場合においても、ある範囲の関係者のアリバイ供述がある時点から急に一定方向に変遷し、その理由が余りにも不合理な場合には、その変遷状況自体から意図的な虚偽供述であることが推認できる場合もあり得ることは否定できない。検察官は、本件における右関係者の供述変遷がこのような推認の根拠となると主張するかのようである。しかし、人の記憶は常に明確であるとは限らず、あいまいな部分も多いのであるから、たとえ供述内容に変遷があったとしても、その変遷の理由が記憶喚起であったり、勘違いであったりすることを軽々に否定してしまうことはできず、また、変遷前の供述が真実であるのか、変遷後の供述が真実であるのかも、その供述内容だけから判断するのはなかなか困難である。本件における右関係者の供述変遷は、統一的に一定方向に変遷したとはいい難い部分も多く、それぞれに変遷の理由が説明されているのであるから、これを合理的と考えるか不合理と考えるかは微妙な問題であって、右変遷は、それ自体から意図的な虚偽供述を推認できるようなものではない。

オ このように、「アリバイ工作」を推認せしめるとして検察官が掲げる根拠ははなはだ弱いといわざるを得ないものであるが、それ以上に、この「アリバイ工作」には、主張自体に常識的な見地から根本的な疑問があることを指摘しておかなければならない。すなわち、検察官が主張する「アリバイ工作」につき、原判決が第七の一3(四)(384頁)において、「そもそも、事件直後においてはXの行方不明の時刻などは明らかになっていなかったのであって、事件直後からアリバイの主張をしなければならないような事情はうかがえないのである。考えられるとすれば、B谷が、澤崎の共犯者であるとか澤崎が犯人であることを知っている場合であるが、例えば、澤崎が犯人であることをいつどのようにして知ったのかなど、それをうかがわせる具体的な主張もなければ、証拠もないのである。」と批判するのに応じてか、検察官は、当審に至って、「B谷における澤崎の犯人性の認識については、B山が管理棟事務室から出発した後間もなく澤崎は同室を出ており、このことを認識していたB谷が、その時間帯にXが行方不明となったことを知り、更にはXが澤崎の当直勤務日に行方不明となったY子の死体と共に同一浄化槽内から死体で発見されたことも知れば、澤崎の犯人性を認識し又は澤崎から犯行を打ち明けられたということは、十分あり得ることである。」旨、主張をある意味で鮮明にしている。アリバイ工作に関する原判決の前記指摘は誠にもっともなことであり、検察官としては主張だけでも明らかならしめる必要に迫られたと考えられるが、B谷において、検察官のいう状況のみで澤崎がX殺害の犯人であるとどうして認識できるのか、澤崎がどうしてB谷に殺害を打ち明けることになるのか、いずれについても納得できない。この時点では、B谷を含めて誰もが澤崎を怪しいなどと思ってもいなかったのではなかろうか。当初は、むしろ用務員や園児が疑われていたことが証拠上窺われる。また、検察官は、死体発見の事実をも指摘しているが、死体が発見されたのは一九日午後九時三〇分ころである。それから後は園内が騒然となったであろうし、消防関係者や警察官も次々訪れている。B谷は死体の第一発見者として当然くわしい事情聴取を受けていることも認められる。そのような状況下でB谷が被告人に対し澤崎のためのアリバイ工作を働きかけることが可能であろうか。検察官は、B谷が被告人に対して、いつ、どこでアリバイ工作をどのように働きかけたかについて、ついに明らかにしていないが、もし死体発見後をいうのであれば、そもそもアリバイ工作をするようなことが不可能であるとはいえないとしても、現実にはほとんど考えられないといってよいであろう。さらに、検察官の当初からの主張によれば、澤崎は、Y子転落死の責任をカモフラージュするためにXを殺害したというのであるが、そのような澤崎が、いまだ何人が犯人であるか見当もつかない時期に、一同僚に過ぎないB谷に自分がX殺害の犯人であることを打ち明けるであろうか。B谷に打ち明けたなどという事実についてもちろん澤崎の自白はない。

また、検察官は、B谷が「アリバイ工作」の中心であり、まず澤崎に指示し、次いでX殺害事件直後の段階で被告人に同調するよう働きかけたと主張するが、B谷及び被告人は、単に澤崎と職場を同じくする者に過ぎず、これに対して問題となっている犯罪は、自分達が通常接して世話をし保育している園児の殺害である。直前まで協力して捜索表を作成しようとするなどY子の行方を捜していた澤崎が別の園児を殺害した犯人であると知り、若しくはその可能性が強いと考えたならば、驚愕すると同時に澤崎に対する非難ないし憤りの気持ちがまず生じ、アリバイ工作など考えられないはずであり、しかも普通の社会生活を送っている人間であれば、検察官が主張するようなX死亡事件についての状況で、アリバイ工作をしたからといってそれが成功すると思わないのが通常であろう。所論は、アリバイ工作といってもその基本は「澤崎はXの行方不明を知らされるまで終始管理棟にいた。」との事実を作出するだけでよいといい、確かにそのこと自体は間違いではないが、検察官の主張によれば、被告人は午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまでB木と一緒に若葉寮職員室にいたというのであるから、B木の存在を無視して被告人がそのようなアリバイ工作に加担できるはずがないし、外ならぬ園児を殺害した犯人を逃がすために虚偽の事実を作出するという以上、よほどの動機ないし事情がなければならないことはもちろんのこと、さらに後に工作が発覚しないように綿密な打合せなしには不可能である。アリバイ工作をしてアリバイを立証するための証拠を作り出し、これを信用してもらうなどということは、それほど簡単なことでも易しいことでもない。その上、自己のアリバイ工作加担が明らかになれば、これが証拠隠滅にかかわる罪として立件されるか否かはともかく、社会的には殺人の共犯の如くに苛烈な非難を浴びることは明らかである。本件証拠にかんがみ、まずB谷についていえば、当時指導員として熱心に職務を行っていた者であり、被告人も真面目な人柄で、職員の人望もあり、熱心に園児の養育、育成に携わってきた者である(この点についての反証は存しない。)。前記のような心情、危険性にもかかわらず、あえて澤崎のアリバイ工作に加担するに見合う深い利害関係や動機が考え難いのである。ただ、無理に「アリバイ工作」への加担の動機を考えようとすれば、B谷及び被告人において、澤崎が犯人でないことを知り、あるいは犯人ではないと信じていたことから、無実であるにもかかわらず逮捕された澤崎への同情等で、記憶にないことをある旨述べたり、事実を一部異なって供述することがあり得ないことではないかもしれない。しかし、検察官の主張による「アリバイ工作」は、犯行直後からなされているというのであり、X死亡事件の全体像も澤崎に嫌疑がかけられているかもわからないうちに「アリバイ工作」に加担することは、そのような無罪を信じているが故に事実を曲げるというのとは全く異なる。

そして、検察官は、B山について、澤崎の逮捕後、自己の出発時刻や電話の順序が、澤崎のアリバイについて重要な意味を持つことを認識し、かつ、園長としての立場から、B谷の主張どおり澤崎のアリバイが立証され、捜査官が澤崎に対し嫌疑を持たなくなることを強く望み、澤崎のアリバイについて確信がないままB谷に追従した言動をとっていたが、意図的に速めて運転した走行実験の結果がB谷の主張の裏付けに利用できることがわかり、B谷の主張に合わせて澤崎のアリバイを主張しようと決意するに至ったとする。しかし、B山は、当時A山学園の園長として、今回の園児死亡事件現場の最高責任者として職務を行っていた者であり、少なくとも周囲の者からみて特段問題とされるようなことは全く見当たらない。確かに、B山は、当時、園の関係者が犯人であって欲しくないとの気持ちを有していたことは認められるが、それだけの理由で真実を誤らせることになってしまうおそれのあるアリバイ工作に加担し、全く記憶にないことを証言しようと決意するであろうか。アリバイ工作など簡単にできるものではないこと、そして工作に加担したことが明らかになれば社会的には殺人罪の共犯者の如くに苛烈な非難を浴び、その社会的地位を失うであろうことB山についても全く同様にいえる。

さらに、原判決が、アリバイ工作をするのであればB木や電話の相手方などにも働きかけなければその効果が期待できない旨判示するのに対して、検察官は、アリバイ工作などというものは、相手方との特別な関係がない限り、相手方が易々と応じるものではなく、誰彼なくむやみに虚偽の供述をしてほしい旨依頼をすれば、アリバイ工作をしていることが露見する危険性が高く、おいそれとできるものではないことは常識である旨反論している。アリバイ工作がそれほど危険で慎重さが要求される事柄であることを指摘する限りにおいて、検察官の反論は正当と評価できるが、それは、B谷らが被告人に対して「実は澤崎がXを殺害した可能性がある(またはX殺害の疑いがかけられそうである)が、そのアリバイのために協力してほしい。」と働きかけることについてもほぼ同様のことがいえるのではなかろうか。検察官の主張には矛盾があり、その不合理は、検察官が主張する「被告人が反権力的である。」とか、「B谷と親しい間柄である。」というようなことで解消できるものではない。

カ 以上みてきたように、検察官の主張する「アリバイ工作」は、それ自体が立証されているものではなく、むしろ、その存在には大きな疑問がある。

なお、ここで付言するのに、既にみたように検察官は被告人の本件偽証は、澤崎のX殺害事件に関するアリバイ工作の一環としてなされたと位置付け、右アリバイ工作はB谷及び澤崎が中心となって画策し、被告人及びB山がこれに同調して協力したというのである。B谷は、国賠訴訟での原告本人であるから、そこで虚偽の供述をしても法律上偽証罪は成立していないとしても、被告人若しくはB山について偽証罪が成立するのであれば、検察官の主張からすればB谷は少なくともそこ共犯になる可能性があるのではなかろうか。共犯といっても、犯情において被告人やB山より重いことも明らかである。しかるに、B谷を検挙することもなく、それより犯情が軽いと思料される被告人やB山を逮捕、勾留した上、偽証罪で起訴しているが、訴追するか否かの判断はあらゆる事情を考慮した上でなされること、しかもその決定権がすべて検察官に委ねられていることを十分考慮してみても、本件の事件処理は社会正義あるいは公平の見地からみて、いささか権衡を失するのではないかとの感を払拭することができない。

3  小括

右のように、検察官が主張する各争点について検討してみたが、これらはいずれもむしろ被告人供述を裏付ける情況証拠になり得るものであって、B木証言やB川証言の信用性を増すものではない。したがって、結局本件においては検察官の主張する客観的事実を認めるに足りる証拠がないばかりでなく、被告人の証言する基本的には管理棟事務室にいたとの事実が客観的事実であると認めるのが相当である。

四  主観的虚偽性及び偽証の犯意について

以上のとおり、検察官の主張する客観的事実を認めるに足りる証拠はなく、むしろ、検察官の主張する客観的事実は誤りであって、被告人が証言した午後七時三〇分ころから午後八時一五分過ぎころまでB山春夫、澤崎悦子、B谷二夫とともに管理棟事務室におり、そこでXの行方不明を聞いたことが事実であると認められる。そうすると、客観的事実が被告人の証言事実と異なることを中心とする検察官の立証手法においては、もはや主観的虚偽性及び偽証の犯意を推認せしめるものはないといってよい。

検察官は、被告人の差戻後一審における最終陳述が自らの偽証ないし「アリバイ工作」を認めたものであると主張するが、これが採用できないことは前述のとおりである。

五  結論

これまで述べてきたとおり、本件公訴事実を認めるに足りる証拠はないから、これ同旨の原判決に事実誤認は存在せず、検察官の事実誤認の論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により、検察官の本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 河上元康 裁判官 飯渕進 裁判官 鹿野伸二)

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