大阪高等裁判所 平成10年(ネ)1604号 判決 2001年8月30日
控訴人(附帯被控訴人)(以下「控訴人」という。)
国
代表者法務大臣
森山真弓
訴訟代理人弁護士
塚本宏明
指定代理人
石垣光雄
外五名
被控訴人(附帯控訴人)(以下「被控訴人」という。)
甲野花子
外三名
被控訴人ら訴訟代理人弁護士
平栗勲
同
塩野隆史
同
藤井美江
主文
1(1) 原判決中、控訴人の敗訴部分を取り消す。
(2) 被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
2 本件附帯控訴を棄却する。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第1 当事者が求めた裁判
1 控訴人
主文同旨。
2 被控訴人ら
(1) 本件控訴を棄却する。
(2) 本件附帯控訴に基づき
ア 原判決を以下のとおり変更する。
イ 控訴人は①被控訴人甲野花子に対し、金一億一八七九万一五〇七円及びこれに対する平成三年六月一八日から支払い済みまで年五分の割合による金員を、②被控訴人甲野一郎、同乙山春子及び同甲野夏子に対しそれぞれ三九八六万三八三六円及びこれに対する平成三年六月一八日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
(3) 訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。
第2 事案の概要
1(1) 本件は、亡A(以下「A」という。)の相続人ら(被控訴人ら)が「Aが、控訴人の設置するB病院(以下「B病院」という。)において心臓外科手術(以下「本件手術」という。)を受けた後、容態を急変させて死亡するに至ったのは、術前に感染していたメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(以下「MRSA」という。)による術後感染症を引き起こしたためである。しかも、その原因は、C助教授(以下「C医師」という。)が①Aが術前MRSA感染症による上気道炎を発症し、少なくともその発症を疑うべき状況にあったのにこれに対する配慮を怠り、感染症を悪化させる危険のある本件手術を行った過失、②本件手術後、平成三年六月一四日段階でMRSA感染症による全身性炎症反応症候群(以下「SRIS」という。)の状態にあり、しかも、それ以前の同月一三日午後一時の段階でAの喀痰からMRSAが検出された旨、第一外科に通知され、C医師において、MRSA感染症を認識できる状況にあったのに十分な対応をとらなかった過失、③さらには、C医師がAに対し、Aの心臓の状態について、手術を受けなければ生命に危険があるかの誤った説明を行い、自己決定権を侵害して不要・不急の本件手術を受けさせた各過失にある。」旨主張して、損害の賠償を求めている医療過誤訴訟の事案である。
(2) 原判決は「①file_3.jpgAのように心臓外科手術を受けた者は、MRSA感染症にかかりやすい易感染性患者とされており、一旦感染すると重篤な感染症を引き起こし、死という重大な結果を招来することが予見されるため、特に重点的にMRSA感染に対する対策を採る必要がある。file_4.jpgB病院においては、本件手術当時既に、軽度でも感染症の所見があれば、緊急の場合等を除いて検査等によりMRSA感染の有無を確認し、感染が判明すればこれを治療したうえでないと本件手術のような侵襲の大きい手術を行わないという原則が確立していた。file_5.jpgAの病状は本件手術前安定しており、喀痰検査の結果を待てないほどの緊急性を要するものではなかったうえ、AにはMRSA感染症を疑うべき症状が発現していた。②C医師には本件手術に先立ち、Aの喀痰検査の結果を確認して、MRSA感染が判明した場合にはこれを治療したうえ本件手術を実施し、かつ、手術実施後は術後のMRSA感染や増悪を当然予見し、当該MRSAに感受性を有する抗生剤の速やかな投与等をなすべき注意義務があったのに、これらを怠った過失がある。③その結果、Aは本件手術前に感染したMRSAから術後感染症を起こしてセプシス(敗血症)の状態となり、腎不全を直接の原因として死亡したものと認められる。したがって、Aは控訴人が設置したB病院に勤務していたC医師の過失(医療過誤)により死亡したものと認められるから、国家賠償法一条一項に基づく損害賠償責任がある。なお、損害についてはAの心臓疾患の状況等に照らすと、その就労可能年数を控えめに算定して五年と認めるのが相当である。」旨判示し、控訴人に対し、総額一億五三二〇万〇〇七二円及び遅延損害金の賠償を命じた。
(3) 控訴人は原判決を不服として本件控訴に及び、被控訴人らも賠償額を不服として本件附帯控訴に及んだ。
2 前提となるべき事実、争点及び当事者の主張等は原判決の事実及び理由、第二、二、三記載のとおりであるからこれを引用する。
3 控訴人の控訴理由
(1) 原判決が本件手術当時のB病院のMRSA対策について事実誤認していること
ア(ア) B病院心臓血管外科で手術予定者に対し、咽頭・鼻腔粘膜の細菌培養検査を行い、MRSAの保菌者に対する抗生剤の経口もしくは点鼻療法を開始するようになったのは本件手術(平成三年六月一二日)後の同年七月以降である。
(イ) また、B病院全体のMRSA感染症対策として、本件手術後の平成三年一一月に「MRSA感染予防指針」が出されているが、その内容は「新規入院時には鼻腔粘膜(鼻前庭)、咽頭、尿、さらには感染症徴候が認められる場合は皮膚異常部位、創傷部等を細菌検査に出すことを勧めます。」という程度にとどまっている。
(ウ) このように、B病院では、本件当時、患者の一般状態が良好でMRSA感染症の発症を疑わせる臨床所見が認められない場合にまで、MRSA感染症(保菌状態)の有無を確認するため細菌検査が必要的に行われていたわけではなく、原判決が前記第2、1(2)①file_6.jpgのとおり判示したことは事実誤認である。
イ(ア) 確かに、本件においては、本件手術前の平成三年六月一〇日、Aの受持医であったE医師の指示によって喀痰細菌検査がなされている。
(イ) しかし、同検査は術後の抗生物質の使用方法の参考とするため、事前に喀痰等の細菌検査を行うという病棟係独自の考えに基づき行われたもので、当時、B病院において細菌培養検査を行い、MRSA感染の有無を確認することが原則になっていたからではない。
(ウ) このように喀痰検査は、術前の必要的検査ではなく、病棟係が独自の判断で行ったものであり、E医師からC医師に対して同検査実施の事実も報告されていない以上、C医師が本件手術前に同事実を知らず、検査結果がでるまで本件手術の延期をなさなかったからといって、C医師の過失を構成するものではない。
(2) 原判決がMRSAの検出と感染症の発症を混同していること
ア(ア) 本件手術当時の医療水準は、仮に患者からMRSAが検出されたとしても、感染症を発症せず、保菌状態にとどまるときは手術の必要があれば実施するというものであった。
(イ) このことは、臨床外科第四八巻「MRSA感染症対策の実際」(平成五年五月号)に術前MRSA保菌者の対策として「喀痰からMRSAが検出されたときに①感染徴候がある場合、もしくは、②陳旧性肺結核や気管支拡張症がある場合は、ミノサイクリン、アベカシンで治療し、MRSAが陰性化してから手術することが望ましい。」旨記載されていることからも明らかである。
(ウ) したがって、MRSA感染症の状態になければ、たとえMRSAを保菌していたとしても本件手術を実施したことに問題はない。
イ(ア) 原判決は「MRSAが検出された場合にはこれを治療した後に手術を行うべきである」とする。
(イ) しかし、後記のとおり、AはMRSAの保菌者にとどまる。既にMRSA感染症にある場合ならともかく、保菌状態にとどまり、感染症にない段階で、当該MRSAに感受性を有する抗生剤を投与することは、有効とされる薬剤に対し耐性のあるMRSAを生じるおそれがあるため、慎重でなければならない。
(ウ) また、MRSAの保菌状態であったとしても、これによる自己感染(常在菌が基になって感染症を引き起こすこと)は問題とはならず、保菌者であるからといって、手術を中止または延期しなければならないものではない。
(エ) したがって、原判決の説示は医学的根拠に欠けるといわざるを得ず、到底是認できない。
(3) AがMRSAに術前感染していたとはいえないこと
ア(ア) 原判決は「本件手術前の平成三年六月九日時点でMRSA感染症としての上気道炎を発症していた。」旨判示する。
(イ) しかしながら、上記判断は以下のとおり事実誤認である。
a 確かに、看護日誌の平成三年六月九日欄には「咽頭不快の訴えあり。咽頭発赤軽度あり。」との記載がなされている。
b しかし、Aが同日、軽度の咳、痰及び咽頭痛を訴えたものの、担当医であるE医師が咽頭の腫れや発赤を認めなかったことは、入院診療録の記載や同医師の証言から明らかである。
c(a) ところで、原判決は、E医師がイソジンガーグル、トローチ等の処置を指示した点を同医師が上気道炎の臨床所見を認めていた証拠であるとする。
(b) しかしながら、E医師が原審で供述し、カルテの記載上からも明らかなように、同医師がこのような処置に及んだのは上気道炎が認められたからではなく、感染症の疑いを否定できても患者の訴えがあり、手術前であったため、一般的処置として行ったに過ぎない。
d Aの術前の状況は、軽度の咽頭痛と咳を訴えていたものの、その程度は軽微であり、医師が上気道炎の臨床所見を認めていない以上、米国CDCのNational nosocomial Infections Surveillannce Systemのマニュアルで上気道炎とされる基準を満たしているともいえない。
e そうすると、Aが上気道炎を発症していたといえないことが明らかである。
イ(ア) 原判決は「Aが①上気道炎の症状を呈していたこと及び②術前採取された喀痰からMRSAが検出されたことをもって術前既にMRSA感染症を発症していた」とする。
(イ) しかし、MRSA感染症といえるためには、その臨床症状が存在し、MRSAが他の菌から優位に分離されるか純培養されることが必要である。ところが、Aは術前発熱もなく一般状態は良好であり、発赤等の炎症所見は認められず、感染症発症の臨床所見も存在しない。しかも、六月一〇日の喀痰検査の結果でも他の三菌種と等量のMRSAが分離されているに過ぎない。
(ウ) したがって、AがMRSAを保菌していたとはいえても、MRSA感染症にあったという医学上の根拠を欠いている。
ウ 以上のとおり、本件手術前の六月九日段階でAがMRSA感染症を発症していたという原判決の判断は医学上の根拠に欠け、事実を誤認したものである。
(4) C医師の術後管理に誤りがあったとはいえないこと
ア 原判決は「C医師が本件手術後もMRSA感染症を疑わず、六月一六日になってはじめてゲンタシンを投与したことに過失がある。」旨判示する。
イ(ア) しかし、前述のとおり、Aは術前MRSAを保菌する状態にあったとはいえても感染症にあったとはいえず、その発症を疑う状態にもなかった。
(イ) 術後三日経過(六月一五日夕刻)までは、心臓手術後に一般的に見られる術後急性期と変わらぬ経過を辿り、MRSA感染症を疑う臨床所見は認められなかった。
(ウ) ところが、通常解熱傾向の現れる術後三日を経過しても解熱傾向は見られなかった。
(エ) そこで、C医師は、MRSA感染症の発症の可能性も考え、原因究明のため、血液培養検査の措置を採るとともに、予防的措置として抗生剤の変更を行い、術前の喀痰検査によって検出されたMRSAに感受性を示したゲンタシンの投与を開始しており、その術後管理は適正で過失があるとはいえない。
ウ(ア) 原判決は「手術実施後は術後のMRSA感染・増悪を当然に予見し、当該MRSAに感受性を示す抗生物質を速やかに投与すべきである。」旨判示する。
(イ) しかし、予防的投与は新たな耐性菌の発生を招くため、感染症にない場合、感受性を有する抗生物質の投与は差し控えるべきであるというのが多くの専門家の意見である。
(ウ) したがって、本件のように術後に感染症の発症を疑わせる状況が生じていない段階で感受性を有する抗生物質を投与する義務があったとは到底いえず、原判決の判示は誤りである。
エ(ア) 原判決は「Aは六月一四日にはMRSA感染症によるセプシス状態にあった。」旨判示する。
(イ) しかし、セプシスとは全身性炎症反応症候群(SIRS)の一部であるから、全身性炎症反応症候群が存在し、かつ明確な感染症が存在した場合のみをセプシスというところ、前記のとおり、少なくともAは、六月一五日夕刻まで通常の術後急性期にみられる状態を示し、感染症発症の臨床所見を示していない。
(ウ) したがって、Aの六月一四日の状況を感染症によるセプシス状態といえないことが明らかであり、原判決の判示は誤りである。
オ 以上のとおり、本件術後管理は適正であって、C医師には過失がない。そして、原判決の前記判示はAが術前からMRSA感染症を発症していたことを前提とするもので、その前提に誤りがあるといわなければならない。
(5) Aの死因がMRSA感染症からセプシス状態に陥ったことにあるとはいえないこと
ア 原判決は、Aの死因について「本件手術後セプシスの状態となり、これにより腎不全を直接の原因として死亡した。」旨判示する。
イ(ア) しかし、Aは前記のとおり、六月一五日夕刻までは通常見られる術後急性期の経過を辿っており、MRSA感染症によるセプシスの所見は認められなかった。
(イ) 六月一六日に採取した喀痰及び一七日に検査したスワンガンツカテーテルの先端部から、本件手術前喀痰検査によって採取されたのと同型のMRSAが検出されているが、これは臨床上しばしば見られるカテーテル感染であり、全身性感染症であるセプシス状態にあったことを直ちに意味するものではない。
(ウ) 六月一五日、一六日に採取された血液(動脈血)、一六日採取された咽頭、心嚢ドレーン、縦隔ドレーンからはMRSAは検出されておらず、仮に、AがMRSA感染症によるセプシス状態になって死亡したのであれば、血液中からMRSAが検出されないことは考えられないことであって、この点からみてもAがMRSA感染症によるセプシス状態となった旨の判断は医学的根拠に欠けるといわざるを得ない。
ウ(ア) Aには術前に、脳幹部に多発性脳梗塞巣が認められ、また両側頸動脈及び椎骨動脈に石灰化像が認められたところ、心臓手術においては体外循環という侵襲は不可避であり、これにより脳循環の異常が生じることがある。
(イ) 陳旧性の脳梗塞がある場合、局所的脳虚血を生じ、術後に脳中枢神経症状が発症することもあり得る。
(ウ) Aの脳障害が術中の局所的脳虚血によるものか、あるいは術前の脳動脈硬化病変に起因して、術後新たに脳梗塞が発生し、脳障害を生じたのかを断定することは困難であるが、いずれにせよAの脳動脈硬化病変が術後の突然の脳中枢神経症状発症の原因になったものと判断される。
エ 以上のとおり、Aの死因は動脈硬化病変が原因となって痙攣発作を伴う意識障害を生じ、突然の脳障害の出現を契機に循環動態の急激な悪化による急性腎不全を生じたものと判断される。いずれにせよ、原判決の死因に関する判断は医学的根拠に欠け、誤りであるといわざるを得ない。
(6) 原判決には法令適用の誤りがあること
原判決は、国家賠償法一条一項に基づき控訴人の責任を認めているところ、同条項の「公権力の行使」には、純然たる私経済作用である国立大学病院の医師の医療行為は含まれないとするのが判例(最高裁昭和三六年二月一六日第一小法廷判決民集一五巻二号二四四頁参照)であるから、原判決には法令適用の誤りがある。
4 被控訴人らの附帯控訴の理由
(1) Aの病状は、内科的治療によって十分にコントロール可能な段階のものであるから、適切な内科的治療により、通常人と変わらぬ生活ができ、株式会社○○の代表取締役として稼働することも十分に可能であった。
(2) 仮に、外科手術が必要であったとしても、同手術はAの病状を改善するためになされるものであるから、手術が成功すれば手術前よりも心機能の改善が期待でき、しかも、心臓手術そのものが成功したことはC医師も認めているところである。
(3) Aは、株式会社○○の代表取締役であったところ、一般に社長業務はそれまで培ってきた経営のノウハウや取引先との折衝を主とし、心臓疾患の影響を受けることが少ないものである。そうすると、原判決が就労可能年数を五年に限定したことが相当とはいえず、少なくとも、八年とするのが相当である。
(4) 上記によればAが受けた損害は以下のとおりとなる。
総損害額二億一七五八万三〇一五円
内訳
ア 逸失利益
一億九六五八万三〇一五円
イ 慰謝料 二〇〇〇万円
ウ 葬儀費用 一〇〇万円
(5) また、被控訴人ら固有の損害として、被控訴人甲野花子に関しては一〇〇〇万円、その余の被控訴人に関してはそれぞれ三六〇万円の合計二〇八〇万円の弁護士費用が認められなければならない。
(6) 上記(4)の損害を被控訴人らがそれぞれ法定相続分に応じて相続し、かつ、上記(5)の各人固有の損害も発生しているので、前記第1、2(2)記載の判決が下されなければならない。
第3 当裁判所の判断
1(1) 本件は、被控訴人らが控訴人に対し、「控訴人の設置・経営するB病院の医師が診療契約上要求される最高水準の医療行為を施さなかったため、AがMRSA感染症による敗血症(セプシス)により死亡するに至った。」旨主張して、損害の賠償を求めている事案である。
(2) 原判決は、被控訴人らの主張を国家賠償法一条一項に基づくものと理解する。同条同項は「公務員の公権力の行使」であることを要件としており、国立病院の医師が行う診療・治療行為のみを、それ以外の病院等の医師が行うものと区別して、「公権力の行使」とすることは相当ではないので、被控訴人らの請求を同条同項によるものと解する場合には、その余を判断するまでもなく理由のないものであるといわざるを得ない。しかし、被控訴人らの請求は、当初から①診療契約上の債務不履行責任(民法四一五条)、②使用者責任(七一五条)及び③国家賠償法一条一項に基づく各請求の選択的併合関係にあったものと解されるうえ、当審でもその旨明言しているから、原判決のように訴訟物を限定して理解することは誤りである。
(3) ところで、被控訴人らの請求の根拠は、説明義務違反に基づくもの以外はAの死亡がMRSA感染症によってもたらされたものであることを前提に、同感染症に至ったことについての責任を問うものである。そうすると、本件における最大の争点は、そもそもAがMRSA感染症に伴う敗血症(セプシス)のため多臓器不全(MOF)を生じて死に至ったといえるか否かという点にある。
2 Aの死に至るまでの経緯について
証人C(前記C医師)及びE(以下「E医師」という。)の各証言(いずれも原審)、診療録(乙1ないし3)及び看護記録(乙4)等によれば以下の各事実が認められる。
(1) Aの本件手術前の身体的状況
ア(ア) Aは、心筋の栄養血管である冠動脈のうち、①左冠動脈の左前下行枝が起始部で、②左回旋枝が末梢でそれぞれ完全に閉塞し、③右冠動脈についても七五パーセントが狭窄し、危険側副血行路のみられる重症冠動脈疾患(三枝病変)の状態にあった。
(イ) しかも、CT検査の結果等から、脳幹部(右基底核・右視床下部)及び延髄(循環・呼吸中枢)に梗塞(虚血性変化)のあること、両側内頸動脈・脊骨動脈に石灰沈着があること、総頸動脈に中等度の動脈硬化があること、糖尿病の境界型にあること等が判っていた。
イ C医師はAの状態が上記のとおりであったため、通常の三枝病変では五年生存率が三、四〇パーセントといわれているが、Aの場合には、これよりもさらに悪い二〇パーセント程度で、次に梗塞を起こせば死に至るものと判断していた。
ウ C医師はAの頸動脈の血流が比較的良好であったことから、危険は伴うものの、手術適応にあるものと考え、平成三年三月一四日、その旨Aに説明したところ、同人から「台湾に行く用事があるので、手術は五月中旬以降にして欲しい。」旨の依頼があったため、さほど緊急を要する手術であるとは考えていなかったこともあって、同年六月始めに本件手術を行うことになった。
エ C医師はAに脳の病変も認められたため、本件手術に伴う危険率(三〇日以内に死亡する確率)を通常の倍の一〇パーセント程度と考えていた。
(2) Aの本件手術直前の状態
ア Aは本件手術のため、平成三年五月二八日B病院第一外科に入院した。
イ 本件手術前のAの状態は、①看護記録(乙4)に「6/9(客観所見)咽頭不快の訴え、咽頭発赤軽度。(プラン)イソジンガーグル処方す。」の記載が、②診療録(乙3)に「6/9(愁訴)咳、痰(+)、咽頭痛軽度。(客観所見)扁桃腺Ⅰ、発赤なし。(プラン)イソジンガーグルうがい励行、咽頭痛強くなればトローチスタートとする。」、「6/10一般状態変化なし。発熱なし。咳(+)」の各記載がみられるのみで、比較的良好であった。
ウ Aの受持医であるE医師(当時研修医)は平成三年六月一〇日Aの喀痰を培養検査に出し、その結果が本件手術後の同月一三日午後一時に判明したが、その内容は「他の常在菌三種とほぼ等量(いずれも++)のMRSAが発見された。」というものであった。
エ なお、E医師は診療録(乙3)の記載につき、原審証人尋問において「看護婦から『Aに咳と痰がみられ、発赤もあるように思う。』旨の連絡を受けて、様子を診に行ったが咽頭の腫れや発赤はなかった。咳や痰を訴えていたがその程度は軽度であり、客観所見としては咽頭の発赤はなく、扁桃腺も正常範囲であった。咳や痰が認められたことについては元々ヘビースモーカーであったため特におかしいとは思わなかった。イソジンガーグル等の処置は一般的処置として指示したものに過ぎない。」旨説明するとともに、喀痰検査の依頼は「術後の抗生物質使用の際に参考とするため、新たな試みとして行ったもので、感染症を疑ったためではない。」旨説明している。
(3) Aの本件手術後の経過について
ア 本件手術は、三本のバイパスを設けて冠状動脈の血行を再建するとともに、左心室瘤を除去すること等を目的とした大手術であり、平成三年六月一二日午前一〇時五分に開始されて同日午後六時五五分に終了したが、その間二時間にわたり心臓を停止し、三時間にわたって人工心肺を使用するという負荷の大きい手術であった。しかも、胸腔内ドレーンから出血が認められたため、翌一三日午前一時過ぎから午前三時二〇分までの間、止血のための再開胸手術が行われたが、その外には特に大きな問題を生じることもなく、順調に行われた。
イ(ア) Aの体温は、本件手術前には三七度を超えることがなかったが、再開胸手術後の平成三年六月一三日午前九時ごろに三九度近くまで上がった後は三八度台の発熱を示すことが多く、その傾向は一般に術後急性期といわれる術後三日目(六月一五日)を経過した後もおさまらず、むしろ、術後四日目(六月一六日)以降には発熱傾向が高まり、三九度台の発熱をしばしば示し、Aが亡くなった術後五日目(六月一七日)の午前八時には四〇度を超える発熱を示す等の通常の心臓手術後の状態とは異なった特異な経過を辿った。
(イ) 一方、AのWBC値(白血球数)は六月一三日に五四六〇、同月一四日に一万二九〇〇、同月一五日に一万一四九〇、同月一六日は日曜日のため測定がなされなかったが、同月一七日には一万一九四〇(いずれも一ミリ立法メートル当たり。)があり、心臓手術後としては異常な数値とはいえない。
(ウ) また、CRP値(組織崩壊があった場合に反応する急性期蛋白の値)は六月一三日に6.6、同月一四日に14.4、同月一五、一六日は土日に当たるため測定されていないが、同月一七日には9.1(いずれも単位はmg/dl)であり、これらについても侵襲度の高い心臓手術後である点を考慮すると異常な数値であるとはいえない。
(エ) 肝機能を示す血清総ビルビリン値やGOT・GPT値は六月一三日にそれぞれ1.4、179、30を同月一四日には1.1、137、117を、同月一五日には1.8、87、69を、同月一六日は日曜日のため測定されていないものの、同月一七日には1.3、186、90を各示しており、これらも異常な数値とはいえない。
(オ) 腎機能についても、血清クリアチニン値が六月一三日には1.1、同月一四日にも1.1、同月一五日に1.2、同月一六日は休日で測定されていないが、同月一七日には1.9と同日に乏尿を生じて無尿状態となるまでは異常な数値を示していない。
ウ Aには前記のとおり発熱傾向が見られたものの、血圧や血中酸素量が安定し、血行動態や排尿も良好であったため、平成三年六月一五日に人工呼吸器からの離脱を図ろうとしていたところ、突然、心室細動を生じて心停止に至った。しかし、蘇生術を施した結果、最悪の事態は回避された。
エ(ア) C医師は、一五日夕刻、術後急性期である三日間を経過した後も前記イ(ア)のとおり熱が下がらず、かえって、発熱傾向がみられたため感染症を疑うようになった。
(イ) そこで、C医師らは、一五日夕方と翌一六日の二度にわたりAの血液(いずれも動脈血各二検体ずつ計四検体)を採取するとともに、一六日には咽頭、喀痰、心嚢ドレーン、胸腔内ドレーン、縦隔ドレーンをそれぞれ検体として採取し、一七日にも心臓近くの静脈に留置されていたスワンガンツカテーテルを抜去し、これらを休日が終わって細菌培養検査が可能になった一七日に検査に回した。これらの検査結果が判明したのはAの亡くなった後のことであるが、喀痰及びスワンガンツカテーテルのみからMRSAが検出され、血液等の他の検体からは検出されなかった。検出されたMRSAの量はいずれも1+であり、その型等は手術前に採取された喀痰から発見されたものと全く同じコアグラーゼⅡ型であった。なお、Aの肺について、六月一六日まで毎日のようにレントゲン検査がなされたが、MRSA感染症特有の肺炎は認められなかった。
(ウ) C医師は、上記のとおり検体の細菌検査を依頼する一方、Aに解熱傾向が見られず、術前採取した喀痰からMRSAが検出された点を重視し、平成三年六月一六日昼以降、抗生剤をパンスポリンとペントシリンからパンスポリンとケフードルへと変更する一方、MRSAに感受性のあることが確認されていたゲンタシンを追加投与した。
オ Aは、平成三年六月一六日発熱傾向がみられたものの、循環動態・血行動態は悪くなかったため、同日一七時ごろには一旦人工呼吸器がはずせる状態になっていた。
カ ところが、翌一七日午前三時ごろからAの容態が急変し、口角等の痙攣を頻発するとともに意識の混濁を生じ、午前七時ごろから血圧が低下しはじめ、利尿剤や重曹水の反復投与にもかかわらず尿量が急激に減少して無尿状態となり、血清カリウム値が急激に増加して心停止に至り、死去するに至った。なお、Aは血圧の低下を契機に四肢末梢が冷たく、末梢血管が収縮した循環不全の状態が続いていた。
3 ところで、被控訴人らは以下の理由からAがMRSA感染症により多臓器不全により死亡したことは間違いがない旨主張する。
(1)ア Aは、前記のとおり、平成三年六月九日、咳、痰及び咽頭痛を訴え、看護記録には咽頭に発赤があった旨の記載もあるから、上気道炎を発症していたことが明らかである。
イ しかも、喀痰検査の結果、MRSAが発見されている以上、上気道炎はMRSA感染症によってもたらされたといえる。
(2)ア 本件手術後、Aの喀痰及びスワンガンツカテーテルから検出されたMRSAと本件手術前に喀痰から検出されたMRSAはいずれもコアグラーゼⅡ型で全く同一のものである。
イ この種のMRSAが、TSST―1(トキシック・ショック症候群毒素)及びブドウ球菌エンテロキシン(SE)という毒素を分泌することは広く知られており、特に、TSST―1は、突発的な発熱、発疹、血圧低下などの多彩な臨床症状を伴う全身性の疾患TSS(トキシック・ショック症候群)の病原性因子として知られる毒素である。これらはいずれもスーパー抗原と呼ばれ、生体内で短時間のうちに大量かつ多種類のサイトカインを産出して生体防御機能を破壊し、トキシック・ショック症候群を発症させるという特徴を有している。
ウ(ア) 心臓手術が行われた場合、術後三日目を過ぎると体温が三七度以下、白血球数が一万以下になるのが普通であるから、同日に至っても体温の低下がみられない場合には術後感染症が疑われる。
(イ) なぜなら、MRSAに感染すると、前記のとおり大量のサイトカインが産出され、これが脳に運ばれることによってプロスタグランジンの産出が促され、これが脳内の視床下部の体温調節中枢に作用することによって体温設定値の移動を生じて発熱を促すため、発熱はMRSA感染症の発症を知るうえで大きな目安になるからである。
(ウ) 確かに、本件手術そのものによってサイトカインが産出され、一定の発熱を招いたことは否定できないが、手術後通常体温の下降がみられる時期に上昇がみられる以上、その時点で感染症を疑うことができる。
エ Aの発熱状況は、前記2イ(ア)のとおりであり、術後の一般的な発熱状況とは明らかに異なっている。
オ このように本来であれば低下すべき時期に体温がかえって上昇している以上、他の原因が明らかでない限り感染症によるものと考えるのが合理的である。しかも、白血球数(WBC)が一貫して一万を超えている点や、Aは本件手術前からMRSA感染症に罹患し、少なくともその保菌者といえるところ、心臓手術等を受けた者はMRSAの易感染者として症状が急激に悪化し、致死に至る場合が少なくない点からすると、Aが本件手術後MRSA感染症による敗血症(セプシス)を呈していたことが明らかである。
(3)ア 敗血症(セプシス)は、従来生体の腐敗局所から毒素が流血中に吸収されることによって生じる中毒症と考えられており、感染病巣と菌血症の存在が重視されていた。ところが、敗血症であっても血液培養が必ずしも陽性になるとは限られないことが判り、むしろ、その病的形態、即ち、全身性の過剰な(制御機構を凌駕した)生体反応を敗血症(セプシス)と捉えるようになった。このような考えから、一九九一年米国胸部疾患学会と救急医学会は合同で、セプシスとは、感染症を発症し、全身性炎症反応症候群(SIRS)が認められる場合と定義するに至った。
イ ところで、全身性炎症反応症候群(SIRS)の要件は、以下のうち二項目以上を満たす病態と定義されている。
① 三八度以上の高体温もしくは三六度以下の低体温
② 九〇/分以上の頻脈
③ 二〇/分以上の頻呼吸や三二mg以下の低炭酸ガス血症
④ 白血球の一万二〇〇〇以上の増加や四〇〇〇以下の減少ないし核左方移動(桿状核好中球一〇パーセント以上)
ウ 前記のとおり、Aの白血球数は六月一三日時点では五四六〇であったところ、翌一四日には急激に上昇して一万二九〇〇となり以後も引き続き一万以上になっている。しかも、前記のとおりの高熱が続いていたのであるから、上記診断基準の①・④の要件を満たし、Aの症状が六月一四日時点で全身性炎症反応症候群(SIRS)に該当することは明らかである。しかも、このような高熱かつ白血球数が上昇した状態が一五日以降も続いている以上、Aの全身性炎症反応症候群(SIRS)が本件手術によって生じたとはいえない。
エ そうすると、Aは前記のとおりMRSA感染症を発症していたのであるから、上記全身性炎症反応症候群(SIRS)はMRSA感染症によりもたらされたものといえ、敗血症(セプシス)にあったことが明らかである。
オ なお、C医師は「Aには、敗血症性ショックの初期症状として認められる末梢の非常に暖かい状態(ワームショック)が認められないから、敗血症が否定される。」旨供述する。しかし、これはグラム陰性菌の毒素であるエンドトキシンの作用に当てはまる(同毒素が血中に入ると血管平滑筋弛緩因子であるナイトリックオキサイドが生体内で過剰に生産され、その強い血管弛緩作用により低血圧、ショックが誘発される。)もので、MRSAによるスーパー抗原の作用による場合には必ずしもあてはまらないものであるから、Aの症状にワームショックが認められなくても何ら不自然ではない。
(4)ア 身体に心臓手術等の大きな医的侵襲が加わった場合、生体防御の目的で大量のサイトカインが誘導され、白血球中の好中球が活性化して重要臓器に集積するため白血球数が上昇する。
イ このような状況でさらに感染やショックなどによってサイトカインが再誘導されると、既に活性化されている好中球の産生する中性プロテアーゼや活性酸素が臓器組織の構造タンパクを破壊し、その機能が障害される(セカンド・アタック・セオリー、甲67)。
ウ 特にMRSA感染症の場合、スーパー抗原などの毒素は大量のサイトカインを産出させる結果、術後感染症を発現した場合の臓器障害の程度は激しいものとなり、腎臓・肝臓等の主要臓器の機能を障害して死に至ることになる。
エ Aは長時間にわたる心臓手術のため、大きな医的侵襲を受けていたところ、MRSA感染症を併発したのであるから、上記セカンド・アタック・セオリーにより多臓器不全(MOF)を招来して腎不全に陥ったものといえる。このことは細菌学の専門家である名古屋大学大学院医学研究科微生物・免疫学講座分子病原細菌学・耐性菌制御学分野教授太田美智男が意見書(甲56、以下「太田意見書」という。)で「AはSIRSによる臓器障害の可能性が高い。」旨述べている点からも裏付けられる。
オ なお、控訴人は「Aの死因について、術前脳幹部に多発性脳梗塞巣が認められたうえ、両側頸動脈及び椎骨動脈にも石灰化像が認められたことから、心臓手術を契機に、術中もしくは術後に、局所的脳虚血ないしは新たな脳障害による痙攣発作を伴う意識障害を生じ、これによって急激な循環状態の悪化を招き急性腎不全を生じたもので、本件手術に伴う危険が顕在化したに過ぎない。」旨主張する。しかし、控訴人の主張は単なる推論でしかなく、術後の病態等からみて敗血症から多臓器不全を招来して腎不全に陥ったことが明らかである。
4 Aが本件手術前にMRSA感染症に罹患していたとは認めがたいこと
(1) MRSAは常在菌であるから、喀痰から発見されたからといって保菌者であるとはいえても、それのみで直ちにMRSA感染症に罹患していたとはいえない。
(2) Aは、前記のとおり、本件手術前の平成三年六月九日、咽頭痛を訴え、咳、痰がみられ、看護婦が咽頭発赤を認めた事実が認められるが、イソジンガーグルを処方することによって、翌日には咳のみとなり、本件手術前日の一一日には看護記録・診療録の双方からこの点の記載がなくなっているので、仮に、Aが平成三年六月九日に上気道炎を発症していたとしても、発熱その他の異常(血液学的炎症反応等)も認められないから、その程度は極めて軽微で、少なぐとも本件手術当日には消失していたものと認められる。
(3) しかも、平成三年六月一〇日に採取された喀痰から、MRSA菌以外の常在菌三種が同量検出されている点からみて、同喀痰はAがMRSA感染症による炎症のため生じた膿性のものではないことが明らかである(MRSAによる膿性のものであれば、MRSAが少なくとも優位に検出されるはずである。)。
(4) 被控訴人らは、E医師が喀痰検査を依頼している点等を捉えて、AがMRSA感染症を呈していた証左である旨主張する。
しかし、診療録(乙3)の記載から明らかなとおり、E医師は看護婦が認めたという咽頭の発赤等の炎症徴候を積極的に否定しており、平成三年六月九日あるいは翌一〇日の時点で、Aが感染症に罹患している旨疑っていたとは到底考えられない。そうすると、E医師が供述するように喀痰検査は術後管理の便宜のために行われたものと認められる。
(5) したがって、本件手術前に、AがMRSAの保菌状態にあったとはいえても、MRSA感染症を生じていたとは到底いえない。
5 Aが本件手術後、MRSA感染症による敗血症(セプシス)を生じていたとは認めがたいこと
(1) 敗血症(セプシスあるいは感染によるSIRS)について
ア 内科学第五版(朝倉書店、一九九一年一一月二五日刊、甲39)には「敗血症とは、菌血症のうち、特に重篤で体内の感染病巣から大量の細菌が血液中に連続的、または断続的に流れ込み悪寒・戦慄・発熱、白血球増加、核左方移動、強い衰弱感や中毒症状を呈する場合をいう。このように菌血症は概念的には敗血症と区別されるが、実際の例では両者に明確な一線を画し得ないことが多い。臨床の場で、ショックなどの症状を呈した場合で血液培養から菌が検出されれば、敗血症か、それに近い病態と考えて誤りはない。最近は臨床的見地からsepsis・sydromeの概念が提唱されている。これは細菌感染の所見さえ認められれば、必ずしも血液培養陽性を必要としないものでより実際的である。そして、(1)最近感染の臨床的所見、(2)呼吸数>二〇/分、(3)心拍数>九〇/分、(4)体温>38.3度または<35.6度のそろったものがsepsisであり、これに臓器の循環障害が加わったものがsepsis・syn-dromeであるとされる。臓器の循環障害は、(5)Po2/F Io2<二八〇、(6)血中乳酸高値、(7)尿量>0.5ml/kg/時などから判断する。」旨記述されている。
イ 一方、救急医学第二〇巻第九号一九九六年九月号に掲載されている「感染症とSIRS」及び「SIRSの概念・定義と提唱の背景」(へるす出版社、当該部分の著者は横山隆ほか及び相川直樹ほか、甲36、37)には「①一九九一年八月に米国胸部疾患学会と救急医学会は合同で、混乱のあったセプシス(敗血症)の概念を明確にするため、SIRSと呼ぶことを提唱した。そして、上記第3、3(3)イの要件四項目のうち、二項目以上に異常のある状態をSIRSと定義し、セプシス(同論文では「敗血症ではなくセプシスと呼ぶべきである。」とする。)を感染によるSIRSと定義した。②感染によるSIRSとそれ以外のSIRSとの鑑別は必ずしも容易ではないが、細菌が関与した場合には炎症が明らかに進展し、臓器不全になりやすいという特徴がある。セプシスと臓器不全は炎症性サイトカイン値に相関する。エンドトキシン、サイトカインなどによる重症感染モデルでは末梢血中の好中球が減少し、肝、肺などの重要臓器に集中する。感染を含む過大な侵襲(高サイトカイン血症)と相対的好中球減少は臓器障害に関連するものと考えられる。③なお、臓器障害の指標として血清クレアチニン値>2.0mg/dl、血清総ビリルビン値>3.0mg/dl、「res-piratory・index>2.0、血小板数<八万/ミリ立方を用いた。」旨記述されている。
(2) Aが敗血症(セプシス)に罹患していたといえるか
ア 上記(1)によれば、敗血症(セプシスあるいは感染症によるSIRS)に罹患していたといえるためには、単に、SIRSに該当する症状が認められるだけでは足りず、それが感染症によるものでなければならない。
イ ところで、Aの本件手術後の身体状態は、前記第3、2(3)イに記載のとおりであるから、発熱については常時SIRSの要件(前記第3、3(3)イの要件)を満たしているものの、白血球数については六月一四日の時点では同要件を満たしているが、その後は同要件を厳密には満たしていないことになる。したがって、厳密にSIRSの要件を具備しているのは術後急性期である平成三年六月一四日のみである【なお、上記第3、5(1)イによれば細菌が関与したSIRSは炎症が明らかに進展するものとされており、このように六月一四日を除いてはSIRSの基準を満たすかさえ微妙な状況にあり、他に心臓手術という身体状況悪化の大きな要因が存在する以上、感染によるSIRSであることについては否定的に考えざるを得ない。】。
ウ(ア) さらに、前記第3、2(3)エ(イ)のとおり、平成三年六月一五日以降同月一七日にかけて、一五、一六日の両日にわたって各二検体ずつ計四検体の血液(いずれも動脈血)を採取したほか、一六日には咽頭、喀痰及び心file_7.jpg・胸腔内・縦隔の各ドレーンを、一七日にはスワンガンツカテーテルを各採取し、いずれも一七日に細菌培養検査へと回したものの、MRSAが検出されたのは、喀痰及びスワンガンツカテーテルのみからである。
(イ)a ところで、元東京大学医学部感染制御学教室教授小林寛伊(以下「小林医師」という。)は証人尋問(当審)及び意見書(乙18の2)(以下「小林意見」という。)において「米国CDCのガイドラインの血管内留置カテーテル関連感染症の定義と診断に関する記載では、最も広く採用されている検査手技として、Maki(カテーテル感染研究の世界的第一人者)らの半定量法が挙げられている。同検査方法は、抜去したカテーテルの先端断片を培地上に最低四往復転がせて培養し、その結果、コロニー数が一五以上のものを陽性とするものである。Makiらの臨床研究において、陽性例二五例中、四例の血液から同一菌の分離が認められたが、そのうち血液培養陽性であったものは半数の二例に過ぎず、一方、陰性例、即ち、培養結果が一五コロニー未満の場合には、二二五例全例において血液からの菌分離がなかったことが報告されている。したがって、統計的にみると、半定量法陰性の場合には、たとえ、カテーテル培養の結果、菌が検出されたとしてもその菌量が少ないときは血液培養は陰性となるということになる。また、定性的にスワンガンツカテーテルの培養結果が陽性である場合でも、統計上94.5パーセントが血液から菌が分離されないことになる。そうすると、本件のスワンガンツカテーテルの培養結果は定性的なものではあるものの、血液培養の結果から菌が認められていない点からすると、血液培養陽性を伴う全身的感染症は否定できる。」旨の意見を述べている。
b さらに、Aの感染症を肯定する前記名古屋大学大学院医学研究科微生物・免疫学講座分子病原細菌学・耐性菌制御学分野教授太田美智男でさえ、太田意見書において「スワンガンツカテーテルの先端からMRSAが検出されたことはMRSAによる血液感染を疑わせる。しかし、抜去時に皮膚から汚染された可能性を否定することはできない。」旨の意見を述べている。
(ウ) 六月一六日に採取された喀痰からMRSAが検出されたものの、咽頭からは検出されていない点や、肺レントゲン撮影からも、MRSA感染症に特有の肺炎の兆候が見られない点からすると、Aが気管支系統にMRSA感染症を発症していたことは認めがたく、喀痰から発見されたMRSAは病室等、Aの周りにあったMRSAが検出された可能性が高い。
(エ)a なお、太田意見書では「パンスポリン、ペントシリンのようなMRSAに感受性のない抗生物質が投与された場合でも、感受性判断の基準濃度をはるかに上回る濃度の薬剤が一時的に血中に入った場合には、それによって血液培養における菌の増殖が阻止されるため、たとえ血液培養の結果、MRSAが検出されなかったからといって、MRSAによる深部感染あるいは全身感染は否定できない。」旨の意見が述べられている。そして、前記内科学の成書(甲39)でも必ずしも血液培養陽性を必要としないセプシス・シンドロームの概念が提唱されている旨指摘されていることからすれば、同考えは一般的なものであると認められる。
b しかし、本件では、前記のとおり、Aから六月一五日、一六日の両日にわたって、それぞれ身体の二カ所から動脈血を採取して培養検査をしたものの、いずれからもMRSAが検出されていないうえ、一六日に採取された検体、即ち、心臓手術後の感染巣の代表的部位である心file_8.jpg・胸腔内・縦隔の各ドレーンの先端等からもMRSAは検出されておらず、単に一度だけ特定の部位の検査においてMRSAが検出されなかったというものではない。
c しかも、検体が採取された時点では、Aに相当の発熱が認められたのであるから、仮に、この発熱が感染症によるものであれば、当時MRSAは活発に増殖・活動していたことになる。
d にもかかわらず、MRSAが検出されたのが外部からの混入の可能性がある部位に止まり、その余の多数の検体からはMRSAが検出されていない以上、血液感染については否定的に考えざるを得ず、後に検討するように、血液が集中し、通常MRSAの毒素による影響の出やすい肺や肝臓・腎臓等の重要臓器に臓器障害の徴候が見られない点をも併せ考えると、太田意見書で述べられた理由から菌の検出がなされなかったとは考えがたく、そもそもMRSAによる血液感染状態にはなかったと考えるのが自然である。
(オ) そうすると、血液感染が生じていたとはいえないから、本件で行われたスワンガンツカテーテルの培養検査は定量法によるものではあるが、小林意見書で述べられているように、Makiの報告等に照らして、統計的にスワンガンツカテーテルのMRSAの量は少なく、半定量法によった場合には陰性例に含められる程度のものであったと推認できる。そうであれば、Aの周囲にMRSAが常在していた点等をも併せ考えると、抜去時、皮膚等に存在したMRSAがスワンガンツカテーテルに付着した可能性が高いと考えるのが相当である。
(カ)a なお、C医師は「Aはカテーテル感染、菌血症にあった。」旨供述(原審)し、受持医であったE医師も「開心術合併症及び輸血状態調査表」において「①敗血症(+)、②DIC(−)、③創部感染(−)、④消化管合併症(−)」旨の感染症の発症を認める記述をしている。
b Aの死後とはいえ、スワンガンツカテーテルからMRSAが検出されている以上、臨床医として感染症を疑うのは当然である。しかし、その供述内容等からみて、C医師やE医師が考えていたのは、全身感染を前提とした敗血症ではなく、限局された菌血症であることが明らかである。
c そうすると、前記のようにいえる以上、C医師の供述やE医師の記載などがあるからといって、これらによってAが血液感染状態にあったとはいえない。
エ(ア) 太田意見書では「Aから検出されたMRSA菌はコアグラーゼⅡ型であり、トキシック・ショック症候群毒素やエンテロキシンといわれるスーパー抗原を分泌することが知られている。これらの毒素はヒトTリンパ球を非特異的に活性化し、サイトカインの大量分泌を引き起こす。サイトカインは脳を刺激して発熱物質を産生し、発熱を促す一方、ショックやDIC、多臓器不全を生じさせる。スーパー抗原によるSIRSは化膿性の病変に比べてWBC値(白血球数)やCRP値が高くならない特徴がある。したがって、発熱こそがスーパー抗原によるSIRSの絶対所見といえる。Aは解熱するはずの四日目以降も発熱対策が採られているのに三九度の発熱を示しており、Aが易感染者であった点をも考慮すると、感染によるSIRSによる臓器障害で死に至った可能性が高い。」旨の意見が述べられている。
(イ) ところで、太田意見書は、Aの本件手術後のWBC値(白血球数)及びCRP値の増大、本件手術後三日目(六月一五日)までの発熱については本件手術の影響とみているのであるから、Aが手術による侵襲によって高サイトカイン状態にあったところ、感染症を合併して、Aに被控訴人ら主張のセカンド・アタック・セオリーの状態を生じたと考えているものと認められる。
(ウ) しかし、セカンド・アタック・セオリーは手術に伴うサイトカインの上昇により腎臓・肝臓等の重要臓器の好中球が活性化しているところに、感染症によって産生されたサイトカインの刺激が加わり、中性プロテアーゼや活性酸素が排出されることにより、臓器機能に障害を呈するという理論である(甲67、79ないし86頁)。したがって、仮に、ここで想定された状況が生じたのであれば、太田意見書が感染症により発熱したとみている六月一六日には肝臓・腎臓等の機能に異常の兆候が認められなければならない。ところが、前記のとおり、file_9.jpg血清クレアチニン値や血清総ビルビリン値が障害を示す数値とはなっていない点【このことは前記第3、2(3)イ(エ)(オ)の値と、同5(1)イ③を対比すれば明らか。】や、file_10.jpg肺炎の兆候もなかった点、file_11.jpgさらには、一七日の未明まで血行動態や循環動態も良好であった点等からすると、少なくとも同時点までは重要臓器に障害を生じていなかったものと認められ、セカンド・アタック・セオリーが想定する状態を辿ったとみることは困難である。
(エ) 太田意見書は①スワンガンツカテーテルの先端からMRSAが検出された点や、②発熱が認められた点から感染症を認めるものである。
しかし、スワンガンツカテーテルや喀痰からMRSAが検出されたからといって、必ずしも感染症の根拠とはなり得ないことは既に述べたとおりである。しかも、発熱について、心臓手術という大きな発熱要因が存在し、術後三日で解熱するというのは経験上認められる一般的な基準に過ぎず、手術の態様や患者の状態如何によっては遷延する場合があっても不自然ではないうえ、Aは前記のとおり心臓だけではなく、脳や血管にも多くの危険因子を抱え、長時間の心臓停止等による相当の負荷も加わっていたのであるから、通常よりも発熱期間が長引いたとしても必ずしも不自然とはいえず、発熱のみから感染症と認めることは合理的ではない。むしろ、前記第3、5(1)ア、イの文献の記載内容からみても臓器障害の徴候の有無や血液培養結果が陽性か否かの方が重視されるべきものと解されるが、これらが否定されることは既に述べたとおりである。
(オ) ところで、太田意見書が感染症を疑う実質的根拠は、MRSAが分泌する毒素の中には①赤血球や白血球を障害する毒素とともに、②下痢を起こし、ときにはショックを起こす毒素があり、本件の場合、WBC値等のデータから、①型の毒素は否定できても、毒素には種々の形態が考えられ、②型の毒素の可能性を否定できないと考えているためであると認められる。しかし、Aに下痢の徴候がみられなかったことは後記キでみるとおりであり、②型の毒素に当てはまるともいえない。そうすると、太田意見書によっても、毒素には種々の形態を考える余地があるという点以外には感染症を疑う実質的根拠がないことになる。
オ また、「敗血症の新しい展開」(医薬ジャーナル社、一九九八年四月二〇日刊、当該部分の著者は遠藤幸男、元木良一、乙37)には「敗血症、特に敗血症性多臓器不全の場合には、動静脈シャントの増大や血管自動調節機構の破綻による閉塞、種々のサイトカインによる血管収縮さらには細胞膨大のため、末梢組織の栄養となる血流が低下し、これらの循環障害が組織の低酸素症を引き起こして臓器不全を起こす。」旨の記載がある。これらは臨床的には四肢末梢の末梢障害として現れるものと解されるが、既に述べたとおり、平成三年六月一六日までのAの状態は、重要臓器に障害の徴候や、血行動態及び循環動態に異常が認められず、ここで述べられた敗血症の病態を呈しているとはいえない。
カ 確かに、平成三年六月一七日の状況が敗血症末期のショック状態に類似している点は否定できない。しかし、このような状況は血圧の低下等の循環の悪化に伴い末期には一般的に生じ得る状態であるから、同状態を根拠にAが敗血症を生じていたということはできない。
キ 被控訴人らは「Aは死亡直前に腹痛を訴えており、これはMRSA腸炎によるものである」旨主張する。
しかし、MRSA腸炎の特徴とされている下痢は認められず(乙36)、むしろ、Aは浣腸をして欲しい旨訴える等、通常のMRSA腸炎とは異なる症状を呈していたのであるから、前記のとおり血液感染も認められない点等を併せ考えると、MRSA腸炎の可能性も否定される。
ク(ア) 以上のとおり、AがMRSA感染症による敗血症に罹患していたとは認めがたく、したがって、敗血症(セプシスあるいは感染によるSIRS)が原因で死亡したとはいえない。
なお、前記のとおり、C医師やE医師が感染症の可能性を認めているほか、証人として出廷した大阪市立大学医学部内科学第一教室教授吉川純一(以下「吉川医師」という。)などもその証言(当審)において「Aが感染症を発症していた可能性がある。」旨供述する【ただし、吉川医師は「WBC値やCRP値が常識的な値に止まっている点等を総合的に判断すると感染症は考えがたい」。とも供述しているので、感染症の可能性は否定できないものの、その可能性が高いとは考えていないことが明らかである。】。
通常の術後とは異なる発熱がみられたほか、検体の一部からはMRSAが検出され、しかも、感染症の中には一般とは異なる特殊な病態が存在する可能性がないとも言い切れない【事柄が自然科学の分野であるから、血液感染の徴候や臓器障害の徴候を呈する間もなく、ショックを起こす、特殊な場合がないとは限らない。】以上、Aの病理解剖がなされていないのに、自然科学者であるこれらの者が、感染症の疑いを一〇〇パーセント否定しきれないのは当然である。しかし、既にみたところから、その可能性は極めて低いものと解されるから、その点から、MRSA感染症による敗血症(セプシス)を発症していたと認めることができないのは当然である。まして、病理解剖による確定診断ができなかった理由が被控訴人らの同意を得られなかったことにある以上、なおさらである。
(イ)a むしろ、Aが一七日の午前三時ころに痙攣を起こし、脳症状(痙攣に伴う意識障害)を呈するとともに、血圧の低下等、急激に全身状態を悪化させている点等に照らすと、脳幹部に梗塞を生じて循環中枢に異変をきたしたとみる方が自然である。
b 被控訴人らは上記推論は単なる臆測に過ぎない旨主張する。しかし、脳梗塞は冠動脈バイパス手術に伴って生じる重要な合併症の一つとされている(乙38)うえ、前記第3、2(1)でみたとおり、Aには心臓のみならず、脳や血管に種々の危険因子が存在していたため、後述のとおり、通常の手術の二倍の危険があると説明されていたものであり、前記急激な病態の悪化等についても合理的な説明がつくものである以上、発熱の外は明確な臨床所見を呈さず、突然ショックを起こすといった形態のMRSA感染症を想定するより、脳梗塞もしくは周術期心筋梗塞等の既往の障害が絡んだ突発性の原因を考える方が現実的である【乙27の2、30、弁論の全趣旨。被控訴人らがスーパー抗原と主張するTSST―1毒素に基づくトキシック・ショック症候群の特徴的症状も認められない以上、なおさらである。】。
6 C医師に責任があるとはいえないこと
(1)ア 以上のとおり、Aは本件手術前にMRSA保菌者であったとはいえても、感染症を罹患していたとはいえず、術後MRSA感染症による敗血症(セプシス)の状態にあったとも
イ そうすると、被控訴人らの請求の根拠は、説明義務違反によるもの以外はいずれもAの死亡がMRSA感染症による敗血症(セプシス)によってもたらされたとして、C医師がMRSA感染症への配慮を怠ったことの責任を問うものであるから、AがMRSA感染症による敗血症(セプシス)にあったとはいえない以上、理由のないものであるというほかはない。
(2) C医師がAが喀痰検査を待たず、本件手術を実施した点に過失があるとはいえないこと
ア 確かに、本件手術を延期していさえすれば、被控訴人らが敗血症(セプシス)を疑うこともなかったといえる。
イ(ア) しかし、太田意見書によっても、上気道炎がなければ咽頭培養によってMRSAのスクリーニング(術前検査)を行うことは保険で認められていないため、名古屋大学付属病院では、現在でもMRSAのスクリーニング(術前検査)は行っておらず、大手術の前に三日間の鼻腔消毒とうがい消毒を行うようになったのも平成七年以降であることが認められる。
(イ) また、吉川医師は、その意見書(乙26の1)等で「平成三年当時、手術予定患者がMRSAの保菌者であるか否かのスクリーニングを行っておらず、保菌が確認されたとしても、除菌したうえ、手術を行うことはなかった。現在でも、スクリーニングは行っていない。」旨の意見を述べ、関西医科大学胸部心臓外科教授今村洋一も同様の意見を述べる(乙27の2)。
(ウ) さらに、臨床外科第九巻第六号一九九三年六月号掲載の「術前・術中・術後のMRSA感染症対策」(株式会社医学書院、当該部分の筆者は炭山嘉伸ほか、乙12)には「喀痰からMRSAが検出されたときは、白血球増加、CRP高値、発熱などの感染徴候がある場合、または陳旧性肺結核や気管支拡張症がある場合は、MINO、ABKで治療し、MRSAが陰性化してから手術をすることが望ましい。」旨の記載がある。
ウ 上記イでみたところによれば、大学病院等の最先端医療機関であっても、保険の対象にはならないこともあって、医師が上気道炎と認めない限りはMRSAの保菌の有無を調べないのが本件当時から現在までの扱いと認められるうえ、仮に、保菌状態が分かったとしても、それが喀痰の場合には明確な感染徴候がない場合には、手術を回避する必要はないというのが本件当時の医療水準であったものと認められる(上記(ウ)参照。)。
エ C医師らB病院第一外科のスタッフが記載した「心臓血管外科におけるMRSA感染症の検討」(日本外科会誌第九三回第九号、甲32)には「一九九〇年後半より術前長期入院患者や他院からの紹介患者の中に咽頭培養での保菌者がみられたことから、一九九一年二月、術前全入院患者のうがいの励行、同年七月より手術患者の外来での咽頭・鼻腔粘膜の細菌培養検査と保菌者に対する抗生剤の経口あるいは点鼻療法を開始した。」旨の記述があるので、本件手術がなされたのは平成三年(一九九一年)六月であるから、うがいの励行が当てはまるとしても、細菌培養検査等が当てはまるケースとはいえない。
オ ところで、本件の場合、前記第3、4でみたとおり、受持医であるE医師は上気道炎の発症を積極的に否定しているのであるから、手術前にMRSA保菌の有無を検査する義務があったとはいえない。また、一般的処置として行われたものとはいえ、イソジンガーグルを処方し、うがいを指示しているのであり、イソジンガーグルによる除菌は現在でも咽頭のMRSA除菌の有効手段とされている(甲47)以上、その措置は適正なものである。
カ そうすると、C医師がAのMRSA保菌の有無を確認せず、本件手術を行ったことが不適切であったとはいえない。
(3) C医師の術後管理に不適切な点があったとはいえないこと
ア C医師は、前記のとおり、Aに一般の術後とは異なった徴候が現れた平成三年六月一五日夕刻以降、MRSA感染症の発症を疑い、血液検査等に着手するとともに、MRSAに感受性のあるゲンタシンの投与を開始しており、その処置は不適切なところは認められない。
イ なお、被控訴人らは「MRSAに最も有効とされるバンコマイシンを投与しなかった点を捉えてC医師には過失がある。」旨主張する。
しかし、本件の場合、MRSA感染症に罹患していたとは認めがたく、単に当時その疑いがあったというのみでは、副作用を生じる等の弊害があるのにバンコマイシンを投与すべきであるとはいえない。まして、本件手術当時、バンコマイシンは治験期間が終了し、販売授与の禁止期間に当たり、これを使用することが薬事法上禁止されていたのであるから、なおさらである。
(4) その他、C医師に不適切な医療行為があったとはいえない。
7 C医師に説明義務違反があったとはいえないこと
(1) C医師及びE医師の各証言(原審)、さらには、診療録(乙3)等によれば、C医師がAに対し、前記第3、2(1)のとおり病状を説明したことが認められるが、その診断内容が合理的なものであることは関西医科大学胸部外科学講座教授今村洋教授の意見書(乙27の2)等からも明らかである(これに反する森功医師の供述等は不合理で到底採用できない。)。
(2) また、前記証言等によれば、C医師は心臓手術に伴う危険等を記載した冊子(乙9)を渡し、同冊子を読んだうえで手術に同意するよう求めるとともに、口頭でも本件手術の内容や合併症についての説明を行い、さらに、Aの質問に答えたことが明らかである。
(3) そして、上記説明に当たり、術後合併症等として概略以下の説明が口頭でなされたものと認められる。
ア 手術によってメスが加わることによって心筋の収縮力が低下し、二、三日は危篤状態となる。そのため強心剤を用いるが、薬剤の効かない場合もある。
イ 肺の動きも悪化して呼吸不全状態となり、状態がよければ二、三日で人工呼吸器をはずせるが、重症の場合には呼吸器をはずすのに一週間以上かかったり、一ケ月以上かかる。
ウ 心臓の機能が弱ると血流が阻害されて腎臓・肝臓に障害を生じる可能性もある。
エ 一番の問題は、心臓機能の悪化により、脳への血流が阻害されて脳に障害が生じることである。Aの場合、脳血管に動脈硬化が進んでいるため、血流が減ると狭窄部分に血が流れなくなる。特に延髄に動脈硬化が及んでいるため、その危険が高い。人工心肺を使わざるを得ないので血流量が低下し、脳に酸欠状態を生じる危険があるが、これらの危険を踏まえて手術することになる。
オ 不整脈や出血の問題もある、前者については重篤な場合には心停止を伴う危険があり、後者については再度開胸手術をしたり、場合によってはそのまま止血できず死に至ることもあり得る。
カ 最後に感染の問題がある。手術を行うと体に傷を付けることになるから、細菌が体内に侵入する危険がある。心臓手術の後は特に大量の抗生物質を使わなければならず、場合によってはグロブリン製剤も使わざるを得ない。たちの悪い感染であれば抗生物質はなかなか効かない。
キ 以上のとおり、心臓手術には種々の合併症が付きもので、これらをいかにうまく乗り切るかが重要となる。心臓バイパス手術だけであれば、危険率は五パーセント程度であるが、Aの場合、動脈硬化が進んでおり、脳のこともあるから危険はその倍の一〇パーセントとなる。
(4) 以上のとおり、本件手術に伴う説明が具体的になされたことは診療録の記載等から明らかであって【上記の説明に関する診療録(乙3)の記載は自然で、作為等の形跡はなく、E医師がその場で説明されたことを記述したことに間違いないものと認められる。】、その説明内容をAも十分理解していたことは、同人が脳梗塞、動脈硬化についての質問をなしていることからも明らかであるといえる。
(5) 以上によれば、AはC医師の説明から、自己の心臓の状態や本件手術には種々の危険が伴うことを十分に認識したうえ、心臓の状態が相当悪く、五年生存率も二〇パーセント程度と相当低いものであったことから、成功の可能性を信じて本件手術を受けることに踏み切ったものと認められる。
(6) Aの死因を既往症を背景とする突発的なものと考えるのが自然であることは既に述べたところであり、同危険についても説明されていた以上、説明義務に違反する点があったとはいえない。
8 結論
以上によれば、被控訴人らの本訴請求は理由のないものといわざるを得ず、これと結論を異にする原判決は相当ではない。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・井筒宏成、裁判官・古川正孝、裁判官・和田真)