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大阪高等裁判所 平成11年(う)282号 判決 2001年3月16日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、主任弁護人小林芳郎、弁護人伊藤廣保、同平野惠稔共同作成の控訴趣意書、控訴趣意訂正・補充書、控訴趣意補充書(二)、同(三)、同(四)及び弁論要旨2通に、これに対する答弁は、検察官青木捷一郎作成の答弁書及び弁論要旨並びに同室田源太郎作成の意見書及び弁論要旨に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第1本件の審理経過

本件の審理経過は以下のとおりである。医師である被告人が、大阪証券取引所に株式を上場している日本商事株式会社(以下「日本商事」という。)と医薬品の販売取引契約を締結しているa社(以下「a社」という。)千葉支店第1営業部次長から、日本商事が開発したユースビル錠と他の薬剤との併用投与による重篤な副作用症例(死亡例を含む。)が発生した旨の重要事実の伝達を受け、その公表により同社の株価が確実に下落するものと予想し、法定の除外事由がないのに、その公表前である平成5年10月12日午後1時50分ころ、日本商事の株式1万株を売り付けたという公訴事実に関し、第1審である大阪地方裁判所第7刑事部は同旨の事実を認定した上で、上記副作用症例の発生が証券取引法(平成5年法律第44号による改正前のもの。以下、単に「証券取引法」という。)166条2項4号に該当すると判断し、被告人に同条3項違反の犯罪の成立を認めた。これに対して被告人から控訴がなされ、大阪高等裁判所第2刑事部(以下「差戻し前控訴審」という。)は、訴訟手続の法令違反及び事実誤認の主張は退けたものの、本件副作用症例の発生が同項2号イ所定の損害の発生に該当する余地がある以上、同項4号所定の重要事実には当たらないとの判断を示し、第1審判決には証券取引法の解釈適用の誤りがあるとして、破棄差戻の判決をした。これに対し、被告人から上告の申立て、検察官から上告受理の申立てがそれぞれなされ、最高裁判所第3小法廷は、「本件副作用症例の発生という事実が、2号イ所定の『災害又は業務に起因する損害』が発生した場合に当たることは否定し難いものの、本件事実関係に照らすと、本件副作用症例は、同号イの損害の発生としては包摂・評価され得ない重要な面を持つ事実であるというべきであり、これについて4号の該当性を問題にすることができる。このように、本件副作用症例の発生は、2号イの損害の発生に当たる面を有するとしても、そのために4号に該当する余地がなくなるものではないから、これが同号所定の重要事実に当たるとして公訴が提起されている本件の場合、2号イの損害の発生としては評価されない面のあることを裏付ける諸事情の存在を認めた第1審としては、4号の該当性の判断に先立って2号イの該当性について審理判断しなければならないものではない。そうすると、控訴審としては、上記諸事情に関する第1審判決の認定の当否について審理を遂げて、本件副作用症例の発生が4号所定の重要事実に該当するか否かにつき判断すべきであった。したがって、これと異なる見解の下に第1審判決を破棄した控訴審判決には、4号の解釈を誤った違法がある。」として、控訴審判決を破棄し、本件を大阪高等裁判所に差し戻した。そこで、以下、差戻し後の控訴審である当裁判所の判断を示すこととする。

第2控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について

論旨は、要するに、第1審(以下「原審」という。)が、①A(以下「A」という。)の平成6年11月24日付検察官調書を刑訴法321条1項2号の要件がないのに採用し、また、②弁護人がB(以下「B」という。)及びC(以下「C」という。)の各証言を弾劾するために刑訴法328条に基づいて請求した両名の証券取引特別調査官に対する質問調書(以下「質問調書」という。)をその要件があるのに採用しなかった点で、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果もあわせて検討するに、原審記録を精査しても所論が指摘する訴訟手続の法令違反は認められず、この判断は当審における事実取調べの結果によっても左右されない。

すなわち、①の点につき、所論は、Aの当該検察官調書には、同人の原審証言との間に刑訴法321条1項2号にいう相反性も特信性もないなどと主張するが、Aの当該検察官調書原審証言とを比較対照すると、平成5年10月12日の夕方、被告人がファクシミリももらったと述べたか否かという重要な点で明らかに異なる趣旨の供述をしているから、相反性があることは明らかである。また、Aが、日本商事の千葉地域におけるユースビル錠販売促進の責任者であり、千葉県内の皮膚科医師の重鎮たる被告人に多大な協力を得た関係にあることなどに照らすと、Aが被告人に対する気兼ねから、その面前では不利益な証言を差し控えることが十分あり得ると考えられるから、特信性も認められる。

次に②の点につき、所論は、B及びCの質問調書は、両名の原審証言といずれも重要な点で食い違っており、刑訴法328条の弾劾証拠に該当することは明らかであるなどと主張するが、両名の原審証言とその質問調書とを比較対照してもその基本的趣旨は一致しており、所論指摘の点は、それほど重要な事柄とはいえないから、全体として自己矛盾供述とまでみることはできず、上記各質問調書が刑訴法328条にいう弾劾証拠に該当するとはいえない。よって、所論はいずれも採用できない。

第3控訴趣意中、事実誤認の主張について

論旨は、要するに、被告人が、第1審判決(以下「原判決」という。)判示の日時場所で、Bから、ユースビル錠についての原判示文書(以下「至急文書」という。)を手交されたことはなく、被告人が、原判示の日時に日本商事株1万株の売り注文をしたのは、ユースビル錠についての副作用情報の伝達を受けたことによるものではなく、証券会社担当者からの情報と自己の相場感によるものである。しかるに、被告人が、Bから手交された至急文書によってユースビル錠についての死亡例を含む副作用情報を伝達され、それに基づいて同社株の確実な下落を予想し、利益を得ようと上記売り注文を行った旨認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果もあわせて検討するに、原判示挙示の証拠を総合すれば、被告人が原判示の日時場所でBから至急文書を手交され、それによりユースビル錠の副作用情報を伝達された事実及び被告人がその情報に基づいて本件株取引を行ったことは優に認定することができ、原判決が、「補足説明一」の項で説示するところも概ね相当として是認することができ、右認定判断は当審における事実取調べの結果によっても左右されない。

すなわち、本件においては、本件当日の昼に被告人方医院を訪問した際、a社千葉支店において入手した至急文書の写しを被告人に手渡した旨述べるBの原審証言と、この事実を否定する被告人供述とが、真っ向から対立しているところ、まず何よりも、後述するように、Bが本件当日の昼に被告人方医院を訪問した際には、Bはすでにユースビル錠についての副作用情報を得ていたことが証拠上動かし難い事実と認定できるのであって、これを前提にするならば、B証言が述べる同人の行動は、a社千葉支店において被告人との商談を担当していた同人が本件副作用情報を入手した際の行動の流れとして無理なく説明できること、その他にも少なからぬ部分に裏付け証拠もあること、Bと被告人との関係に照らせば、Bが被告人をことさら罪に陥れる虚偽供述をするとはおよそ考えられないことなどをあわせ勘案すると、B証言は基本的に高度の信用性があるというべきであり、これに反する被告人供述は不自然な点が多々あり、B証言と対比し信用できないというべきである。そして、被告人がBと面談した直後に本件株取引を行ったこと、及びそれが被告人が長年行ってきた株取引の中で初めて行った空売りであったこと等の事実に照らすと、特段の事情がない限り、本件株取引とBの訪問とは無関係ではなく、被告人は右訪問の際、Bからなにがしかの情報を得たからこそ本件株取引を行うに至ったのではないかとの合理的な推認が働く(差戻し前控訴審判決)というべく、このことをあわせ考えると、被告人がBから伝達された副作用情報に基づき本件株取引を行ったと認定した原判決の判断は相当であり、事実誤認は認められない。以下、所論に即して補足説明する。

1  所論は、至急文書がa社千葉支店に着信した時刻が、どんなに早くとも午前11時過ぎになると認められるから、右時刻が午前10時41分ころであることを前提に以後の行動を述べるB証言は、時間的側面においても破綻を来す旨主張する。

そこで検討すると、本件当時、a社本社薬事部が各支店への連絡等に利用していたリクルート社のFNX一斉同報サービスを利用した場合の送信時間に関し、Dの当審公判証言によれば、送信先が約200の場合、送信に要する時間は受付から約5分であるというのであり、この証言自体に特に不自然な点はない。もっとも、同サービスを利用しているファックス通信による不達通知に関する実情が記載された書面(当審弁22、23)を検討すると、現在においても、100件余の送信先に対し、送信受付からファーストコールまで16、7分を要している事実が否定できず、Eの当審公判証言もあわせてみると、本件当時において、a社本社薬事部から100件余の各支店等に送信された至急文書が千葉支店に着信した時刻が午前11時ないし同10分ころまで遅れた可能性が否定できないことは所論指摘のとおりである。そうすると、午前10時41分ころに千葉支店に着信した至急文書を女子社員から受領したことを前提として、以後、支店を出て被告人方医院に向かうまでの行動を説明しているB証言の信用性にいく分影響を与える可能性があることも否定できない。

しかし、そもそも、Bが本件当時の行動を正確な時刻をもって記憶していたとは考えられず、むしろ、同人の質問調書や検察官調書を総合すれば、Bは、午前10時41分ころに至急文書が着信したことと、午後0時4分に宍倉パーキングに駐車したことを前提として、その間の自己の行動を思い起こしたと認めるのが相当である。そして、至急文書が支店に着信した時刻が午前11時10分ころであったとしても、同支店の第1営業部次長であるBは、その立場と職責からして、この直後に右情報を知った可能性が高く(この点について特段の反証は見当たらない。)、Bが右情報に接していたとするなら、その情報の内容や被告人とのそれまでの関係等からいって、Bが被告人方医院を訪問しながらこの情報を伝達せず、10月15日にはじめて業界新聞でもってその情報を伝えたなどということは、およそ考えられないことであるか、余りにも間延びした不自然なものであり(差戻し前控訴審判決)、その後Bが述べる行動(日本商事のA課長に電話して説明を聴取、被告人方医院に電話とファックス送信、至急文書の写しを作成して車で出発など)をとった後に支店を出て、15ないし20分の距離にある同パーキングに午後0時4分に到達することは十分可能であるから、結局、前記着信時刻の点は、B証言の基本的な信用性に影響を及ぼすとはいえないと解すべきである。

2  所論は、B証言に信用性がない根拠として、①同人の至急文書入手に関する供述は顕著な変遷を示しており、その理由を合理的に説明する資料が皆無であるほか、同人の調査、捜査、原審公判の各段階の供述には、多数の点に顕著かつ重大な変遷があること、②同人の当日の被告人方医院訪問の目的が至急文書交付による副作用伝達であるとするには、数多くの矛盾があること、③ユースビル錠注文取消し時期についてのF証言が信用できること、などを指摘する。

そこで検討する。まず①の点について、関係証拠によれば、Bの検察官調書及び原審証言によれば、被告人方医院に医薬品を納入しているb商会(以下「b商会」という。)がa社千葉支店の大口の得意先であっただけでなく、被告人が千葉市皮膚科医会の要職についており、県内の皮膚科医に対する影響力も強いこと、その上、Bが過去に取り込み詐欺に遭った際に、被告人に助けて貰ったこともあるなど、Bにとって被告人が公私にわたり世話を受けていた関係にあったこと、Bが本件につき調査を受けるに至った後、被告人から、被告人がBから副作用情報の伝達を受けた事実がなかった事実を確認するよう度々求められただけでなく、本件の関係者のほか上司や妻にまで電話をされたことなどが認められ、これらの事実を前提とすれば、Bが、被告人に世話になった感謝の気持ちや、今後のa社の営業面や自己の同社における立場などに対する懸念から、被告人に対して決定的に不利益な事実を供述する役割を果たしたくないと考えることはごく自然な心情であり、このような心情が、Bに供述をためらわせ、供述を曖昧なものに止まらせたと考えることができる。さらに、Bに対し証券取引等監視委員会の調査が開始されたのは平成6年7月ころであると認められるところ、本件当日(平成5年10月12日)以後も同種の営業活動を行っていたと思われるBにとって、調査が開始された時点で、本件当日の行動についての確実な記憶が残っていなかったこともそれほど不自然なことではない。確かに、ユースビル錠に関し死亡例も含む副作用症例の発生とそれに引き続く同剤の販売停止、回収等の事態は、Bにとっても印象的な出来事であったはずにせよ、他の製薬会社の製品も含む薬品の卸売販売に携わる薬品会社の営業社員であるBにとって、本件緊急情報に接した後の社内外への対応は繁忙を極めたであろうと容易に推認できるところ、医師への情報伝達という一つの出来事を正確に記憶していなかったことはあり得ないことではなく、特に、副作用情報を被告人に伝達したという基本的事実関係はともかくとして、それがいかなる手段によってなされたか、そこにおけるやり取りがどのようなものであったかなどの記憶が残っていないことは、特に不自然でないというべきである。そして、同人の質問調書、検察官調書及び原審証言に現れたように、調査及び捜査を受ける過程で、資料や関係人の供述などを参考にして記憶を喚起していったことは自然な作業として理解でき、細かい点で一部記憶の混乱があったとしても、不自然とまではいえない。

以上を前提として考えると、所論が指摘する変遷や曖昧さはいずれも合理的に説明することができ、B証言の基本的信用性を覆すものでないと解するのが相当である。

②について、確かに、本件当日昼に被告人、B及びFの3名でなされた食事において、ユースビル錠の話が一切出ず、一方トリルダンの話が出たことが認められるが、前記の被告人とBの関係及びFがb商会に入社したばかりの管理薬剤師であったことによれば、そこでの話題は被告人が主導することになると考えられ、そうすると、直前に副作用情報の伝達を受け、それによって株取引を行った被告人の心情として、その話題を避けようとすることはごく自然であるから、B証言と矛盾しない。さらに、b商会とa社との間でトリルダンの注文についての商談が本件以前に終了していたことは、Bが、b商会に納入するトリルダン1000錠50箱の入荷が本件に先立つ10月7日から順次始まっていることが記載された商品受払台帳(同人証言速記録添付資料9)を根拠として説明しているところに説得力が認められる。交際費・雑費申請書(同添付資料8-1)にトリルダンのことを記載した点も、会食の経費を経理担当者に認めさせるために、商談として成約した事柄を書いたほうがよいと考えたというのは、営業マンとして有り得ることと思われる。さらに、Bが、一旦、被告人方医院を訪れた後に時間潰しをしたという点も、Bとしては、事前に電話やファックスでとりあえずの一報は伝えてあるとの思いがあったと考えられる上、医師が多数の患者を診察しているところを中断することをはばかる気持ちがあったとしても特に不自然であるとはいえない。むしろ、前記のように、Bにとって被告人が公私ともに大事な存在であった上に、特にユースビル錠の販売に関しても世話になっていたのであるから、Bが同錠に関する副作用情報を知った段階で、すぐに被告人に伝えなかったと解することこそ極めて不自然であるといわなければならない。

なお、この点に関連して、所論は、Bが同じ部屋に居て被告人の本件株取引電話を聞いていながら、電話の内容についてよくわからないと証言するのはおかしい旨指摘する。しかし、Bは被告人から若干距離のある場所で聞いていたことと、一般的に電話の一方の声だけでどの程度のことがわかるか疑問があること等に徴すれば、Bのこの部分の証言が一概に不合理であるとまではいえない。また、言葉の端々から、ある程度の推測を働かせることも不可能ではないとしても、推測で物を言うには余りに重要な事柄であり、したがってBにおいて、証言するに際して、特に慎重な態度をとったことも十分考えられるし、仮に、Bにおいて本件インサイダー取引に薄々気付いていたとすれば、被告人がユースビル錠の話を持ち出さない限り、なおさらBもこの話題を口にしないと考えるのが自然である。

③の点につき、Cは、b商会からのユースビル錠の注文取消しを受けた時刻が午後1時ごろであることはG管理薬剤師から聞いて確かである旨を明確に証言しているところ、CもBと同様の立場にあって、Cが被告人に不利益な虚偽供述を殊更に行うとは考えられないことからしても、特に疑問を容れる余地はない。これに対し、前記のとおり、本件調査開始後、被告人がBらに対して執拗な干渉を行ったことが認められることからすると、事実上被告人に雇用されている立場にあるFの証言の信用性については自ずから限界があると解され、これを考慮しても上記C証言を左右しないとした判断は肯認できる。

よって、所論はいずれも採用できない。

3  所論は、被告人が本件株取引を行ったことに関して、①被告人が、Bの来訪中に同人を待たせてまでHに電話したのは、前場で売り注文をした日本商事株の残り6500株が売れたかどうかの確認という、損失の拡大を防ぐために後刻では間に合わない特別の状況があったからである、②被告人にとって初めての空売りであるという点は、それまでの株取引経験においては決定的な下落局面がなかったこと、日本商事株取引については、Hの奨めではなく被告人の相場感を中心に取引きし、利益を得てきたこと、同株1万株を買って以降の同株株価の推移、特に上記Hとの電話の中で、前場の引け値からさらに200円近くも下落していて、さらに下げ続ける動向にあったことを聞いたことなどの事実が存在する以上、本件株取引がBからの副作用情報入手に基づくものとしかみることができない、とするのは明らかに株取引に関する経験則に違反する、③さらに、本件株取引の状況、すなわち売り注文の株数、指値による注文、買戻しの状況などは、被告人が副作用情報を入手していたとの事実と決定的に矛盾する、などと主張する。

そこで検討する。確かに、被告人にとっては指値で売りに出していた残り6500株が売れたかどうかは緊急な確認を要する事項であるから、その点を確かめるためにHに電話を架けたこと自体が不自然とはいえず、また、日本商事株の株価の動向や、本件売り注文の内容が、被告人が自己の相場感に基づいて決断したことと一応整合しているようにも思えること、さらに、本件株取引当時は副作用情報を知らなかったからこそ、翌日にはさらなる利益を放棄して買い戻したともいえることなどは、所論が指摘するように評価できないではない。

しかしながら、まず、上記6500株の売却を確認した以上、緊急の用件は終了したはずであり、日本商事株の下落傾向が顕著であったとはいえ、会食に誘ったBを待たせた状況の下で、リスクが格段に大きいと考えられ、現に過去にも奨められたが、一度も行ったことのなかった空売りについての会話に移行したという点には違和感を否定することができない。さらに、Hの原審証言によっても、同人とのわずか数分のやり取りで、しかもHが積極的にまで奨めたわけではない空売りに踏み切ったことが認められる。そして、被告人が利益を得る目的で株の取引をしていたことはもちろんであるが、空売りの前に副作用情報を入手していたことを前提に考察すると、もし、Bからの副作用情報を入手して本件空売りをしたことが後にあからさまになるようなことがあれば、当然インサイダー取引を疑われ、医師の立場にある者の行為として社会的に強い非難を受けることは明白であり、本件株取引に際し、被告人がそのことを認識していないはずはないから、後々インサイダー取引を疑われることがないように、あるいは万一それが問題となっても弁明の道を残しておくためにも、一見株取引に関する経験則、すなわち徹底的な利益の確保にそぐわないかのような取引に止めたと想定することも十分に可能である。以上、被告人が、Bから副作用情報を入手したことから、日本商事株の下落は確実であると考え、この機会に当日前場で蒙った損害を取り返そうと考え、空売りをすることを決意したが、上記のような思惑から徹底的な利益確保にまでは走らなかったと解することに、特に矛盾があるとまではいえない。

なお、緊急副作用情報が出された薬を、それと知りながら医師が患者に使用するようなことはあり得ないとの所論については、原判決の説示に加え、差戻し前控訴審判決の説示するところが相当である。確かに、本件のような副作用情報がもたらされた薬品は、おそらく出荷停止や購入取消ないし購入薬品の返品等が緊急になされ、今後それが商品として出回ることはないであろうと思われるが、すでに存在するユースビル錠をフルオロウラシル系薬剤との併用がないことを確認し、若しくは確認できる状態の患者に投与することが、はたして医師として全く考えられない行動なのか、この点をいう所論には疑問の余地がある。

以上のとおり、被告人の本件株取引の動機形成原因について解釈の余地が残されていることは否定できないが、前記のとおり、Bが被告人に対し副作用情報を伝達したというB証言の基本的信用性が揺るがない以上、その直後に行われた本件株取引が副作用情報に基づいたものであるとの認定を覆すものではないと認められる。所論は採用できない。

その他、所論が縷々主張するところを含めて検討しても、原判決に事実誤認はない。論旨は理由がない。

第4控訴趣意中、法令の解釈適用の誤りの主張について

論旨は、要するに、本件副作用情報が証券取引法166条2項4号の重要事実に該当する可能性があるとする最高裁判決を前提としても、①重要性は、その後の一連の事実と区別した本件副作用発生事実に限定して判断されなければならず、また、②重要性の判断においては、会社財産等への重要な影響と、投資判断への著しい影響という2段階の要件が課され、前者の要件は、後者の要件以外の基準によって定められる。しかるに原判決は、本件副作用発生の事実とその後の一連の事実とを区別していない証拠によって本件副作用発生事実の重要性を判断し(①)、また会社財産等への重要な影響と、投資判断への著しい影響とを区別せずに認定している(②)から、判決に影響することが明らかな法令の解釈適用の誤りがある、というのである。

そこで検討すると、所論①が重要性の判断の対象自体について指摘するところは相当であり、また、I及びJの原審証言において、本件副作用発生事実とその後の一連の事実とが厳密に区別されていないと受け取られかねない面があることは指摘のとおりであるが、原判決が、本件副作用発生事実が持つ重要性を、その後の株価のさらなる下落などと明確に区別して認定説示していることは、判文上明らかであるから、この点に誤りがあるとはいえない。さらにいえば、その後の株価大幅下落の事実そのものが、本件副作用発生事実が4号の重要事実に該当することを積極的に裏付ける一つの大きな間接事実とみ得ることは当然である。また、所論②の点は、1ないし3号が、定型的に投資判断に影響を与え得る事実を類型化して規定されたのに対し、4号が、投資判断に影響を及ぼすという実質面に着目した包括的規定であると解されることに徴すると、4号の重要性判断においては、必ずしも2段階の要件を厳格に区別して判断することまで求められているのではないと解されるから、原判決が、これを区別することなく総合的に判断したことに誤りはないというべきである。

そして、原判決が、日本商事の資本金ほか人的・物的規模、営業状況、自社品事業部門の商品に占めるユースビル錠の比重、同錠の開発に投下した資金量、同錠に対する有力商品としての期待、同社株の人気の要因、同錠の売上目標の大きさなどを認定説示したところは、いずれも原判決挙示の証拠によって優に肯認できるところ、このように、日本商事が長年にわたり多額の資金を投じて、実質的には初めて開発に成功し、他の競合する医薬品よりも薬効等で優れていると喧伝されていたこともあって、皮膚科医からも、会社の内部においても大きな期待を寄せられていた製品で、日本商事株の高値維持に寄与していたユースビル錠に、発売後わずか1か月で死亡例を含む副作用症例が発生したというのであるから、単に副作用症例の発生に伴って発生する損害によって同社の財産状態が悪化することとは別に、これが同社の信頼性一般を大きく傷つけ、同社の今後の業務展開の変更を余儀なくさせ、それによって同社の財産状態悪化がもたらされるなど、極めて深刻な悪影響が見込まれることは見やすい道理であって、投資家の投資判断に著しい影響を与えることは多言を要すまでもないということができる。したがって、これと同旨の判断の下に、本件副作用発生事実が4号に該当すると判断した原判決は相当である。

なお、所論は、③4号の重要性を基礎づける事実は、検察官が訴因として明示する必要があり、係数的にも明記すべきである、④副作用発生事実が、会社財産等に関する重要な事実であるかどうかを判断する場合には、1ないし3号における軽微基準・重要基準をできる限り類推適用すべきである、などと主張するが、④の点は、前記のとおり、4号該当性の判断においては、会社財産等への重要な影響と、投資判断に対する著しい影響を不可分一体的に検討すれば足りると解されるから、そもそも立論の前提を欠く。また③の点は、4号該当性が多種多様な事実の総合判断であることに照らせば、必ずしも訴因において明示されなければならないとまで解することはできず、審理の過程で適切に攻撃防御がなされれば足りると考えられるところ、本件においては、前記の事情を認定するにつき、特に被告人の防御に支障が生じたとは認められないから採用できない。

所論がその他に指摘するところを含めて検討しても、原判決に法令の解釈適用の誤りはなく、論旨は理由がない。

よって、刑訴法396条、181条1項ただし書を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 河上元康 裁判官 飯渕進 水野智幸)

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