大阪高等裁判所 平成11年(ネ)1126号 判決 2001年7月26日
控訴人
A
外五名
右六名訴訟代理人弁護士
荒川文六
同
森英子
同
藤田健
被控訴人
国
右代表者法務大臣
森山眞弓
右指定代理人
比嘉一美
外五名
被控訴人
G
同
H
右三名訴訟代理人弁護士
滝澤功治
主文
1 原判決を次のとおり変更する。
(一) 被控訴人らは、各自、控訴人Aに対し、七〇〇万円、及び内金五〇〇万円に対する昭和五七年七月二一日から、内金二〇〇万円に対する昭和五八年一月二〇日から各支払済みまで年五分の割合による金員を、控訴人B及び同Cに対し、各二五〇万円、及びこれらに対する昭和五七年七月二一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。
(二) 上記控訴人らのその余の請求をいずれも棄却する。
2 その余の控訴人らの本件控訴を棄却する。
3 控訴人A、同B、同Cと被控訴人らの間の訴訟の総費用はこれを四分し、その三を同控訴人らの、その余を被控訴人らの各負担とし、その余の控訴人らの総費用中第一審の訴訟費用を除く分について同控訴人らの負担とする。
4 この判決の主文1(一)は仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴人ら
(一)(1) 原判決を取り消す。
(2) 被控訴人らは、各自、控訴人A(以下「控訴人A」という。)に対し、五六八二万六一九七円、及び内金五〇八二万六一九七円に対する昭和五七年七月二一日から、内金二〇〇万円に対する昭和五八年一月二〇日から、内金四〇〇万円に対する本判決確定の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を、控訴人B(以下「控訴人B」という。)及び同C(以下「控訴人C」という。)に対し各二五四一万三〇九八円及びこれらに対する昭和五七年七月二一日から各支払済みまで年五分の割合による金員を、控訴人D(以下「控訴人D」という。)に対し一〇〇万円及びこれに対する昭和五七年七月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を、控訴人E(以下「控訴人E」という。)及び同F(以下「控訴人F」という。)に対し各五〇万円及びこれらに対する昭和五七年七月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。
(二) 訴訟の総費用は被控訴人らの負担とする。
(三) 上記(一)(2)につき仮執行宣言
2 被控訴人ら
(一) 本件控訴を棄却する。
(二) 控訴費用は控訴人らの負担とする。
第2 実案の概要
本件は、顔面けいれんに罹患した患者に対し被控訴人国の開設する病院において開頭手術による神経減圧術を施行したところ、その後同患者が脳内に血腫を生じて死亡したことから、右患者の遺族である控訴人らが、右手術には手術器具の使用方法などの術技上の過失及び説明義務違反等があったとして、右手術を施行した被控訴人医師らに対し民法七〇九条の不法行為責任に基づき、被控訴人国に対し民法七一五条の使用者責任に基づき、損害賠償とこれに対する不法行為の日の翌日から(但し弁護士費用は、着手金二〇〇万円はこれを支払った日の翌日から、報酬四〇〇万円については本判決確定の日の翌日から)支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
1 争いのない事実
(一) 当事者
(1) 控訴人Aは亡Iの妻であり、控訴人(兼亡J訴訟承継人)B及び同CはIの子であり、承継前原告亡J(以下「J」という。)はIの母である。Jは平成二年七月二九日死亡し、その相続人は子である亡J訴訟承継人K(相続割合三分の一、以下「K」という。)、同D(相続割合三分の一)と、孫である控訴人B(相続割合六分の一)、同C(相続割合六分の一)である。またKは平成六年九月一一日死亡し、その相続人は妻である亡K訴訟承継人E及び子である同F(相続割合各二分の一)である。
(2) 被控訴人国は神戸大学医学部附属病院(以下「神大病院」という。)の開設者であり、被控訴人G(以下「被控訴人G」という。)及び同H(以下「被控訴人H」という。)は、後記本件手術当時、神大病院に勤務していた医師である(以下両名を「被控訴人Hら」という。)。
(二) 顔面けいれんの発症等
I(昭和八年一二月二七日生)は昭和五二年ころから右側顔面けいれんに罹患し、針治療等を受けたが効果がなかったため、昭和五四年六月に神大病院麻酔科で神経ブロック法(穿刺圧迫法)による治療を受けたところ、一旦は上記症状は改善したものの約一年経過後再発し、翌五五年五月末ころに再度神大病院で同様の治療を受けた結果再び顔面けいれんは止まったが、今度は約一〇か月後にまた再発し、更に翌五六年四月末ころに三たび神大病院で同様の治療を受けたけれども、今度は六か月後に再発しかつ症状も悪化してきた。そのためIは神大病院麻酔科の医師から根治のため神経減圧術を受けることを勧められて、昭和五七年一月二九日に神大病院脳神経外科において診察を受け、同手術を受ける決意をし同年四月二六日右手術を受けるために神大病院脳神経外科に入院した。
(三) 顔面けいれん発症の機序及びその手術法
顔面けいれんは通常顔面神経から離れた位置にある脳底部の血管(前下小脳動脈あるいは後下小脳動脈)が動脈硬化等のために延びたり蛇行したりすることにより、脳橋の近くで一部顔面神経に接触し、そのため上記動脈の拍動が顔面神経を圧迫して起きるものとの見解がほぼ定説となっている(以下、顔面神経を圧迫する血管を「圧迫血管」という。)。神経減圧術は全身麻酔下で患側の耳介後方に直径数センチメートルの開頭を行い、そこから手術用顕微鏡を使用して問題の圧迫血管を探し、後頭蓋窩内深部において顔面神経を圧迫している動脈血管等を剥離し、血管と神経との間に筋肉片又はスポンジ等を挿入して顔面神経を血管の圧迫から減圧する手術である。神経減圧術のような後頭蓋窩内深部の手術においては限られた後頭蓋窩内で十分な術野を得る必要があり、そのため硬膜切開後髄液の排出及び吸引等により小脳の容積を縮小させるとともに、脳ベラで小脳半球を開排する必要がある。
なお、神経減圧術は、顔面けいれんの根治手術ではあるが、術後合併症として聴力障害、顔面神経麻痺、耳鳴、髄液鼻漏等を生ずることがあるほか、生命に関わる小脳内血腫、後頭部硬膜外血腫等を生ずる可能性があり、後記本件手術当時、既に神経減圧術を受けた患者の死亡例が報告されていた。
(四) 本件手術の施行
Iは、昭和五七年四月二六日、神大病院に入院し、三週間にわたり脳血管撮影等の諸検査を受けた結果、神経減圧術の適応があり、全身麻酔下での開頭術に耐えうるとの診断を受け、また入院後認められた一過性の高血圧についても、神大病院第一内科(循環器内科)により、手術には差し支えないとの診断を得たので、右手術を受けることになった。Iに対する神経減圧術(以下「本件手術」という。)は、同年五月一七日午前八時五〇分ころから麻酔を開始し、同九時五〇分ころから、被控訴人Hを執刀者、被控訴人G及び山下某医師を助手として行われた。本件手術は、Iの右後頭部の頭蓋骨に約四センチメートル四方の穴を開けて硬膜を切開し、脳ベラを使用して右小脳を開排して術野を得たうえ、手術用顕微鏡下で小脳橋角部に達し、顔面神経と脳動脈とが接している部分を剥離して、その間に項部筋の小肉を挟んだ上、開頭部を閉鎖して、同日午後三時五〇分ころ終了し、Iは、同日午後四時三〇分ころ、ICU(濃厚治療室)に帰った。
(五) 本件手術後の経過
Iは、翌五月一八日午前〇時ころ、小脳内に生じた血腫のために閉塞性水頭症になり、頭蓋内圧が亢進した状態に陥った。そこで頭蓋内圧を減ずるために、同日午前二時ころから、被控訴人Hを執刀者、被控訴人Gを助手として脳室ドレナージ術(頭部に穴を開け、ここから脳室内に管を挿入して髄液を排出する手術)が行われ、右手術は三〇分程度で終了した。さらに、同日午後七時二五分ころから、被控訴人Hを執刀者として後頭蓋窩外減圧術(頭蓋骨を一部切除することにより頭蓋内圧を減ずる手術)が行われ、右手術は二時間一五分を要して、午後九時四〇分ころ終了した。右脳室ドレナージ術及び後頭蓋窩外減圧術により、Iは、一時わずかに症状が好転したものの、その後悪化し、以後意識を回復することなく、危篤状態を何度も繰り返し、昭和五七年七月二〇日、開頭術後脳幹障害により死亡した。
2 争点
(一) 本件手術における被控訴人Hらの過失の有無
(1) 脳ベラの使用方法の適否
(2) 手術器具による血管の損傷の有無
(3) 手術続行の判断の当否
(4) 減圧術の適否
(二) 説明義務違反の有無
(三) 手術適応の存否
(四) 控訴人らの損害の発生の有無及びその額
3 争点についての控訴人らの主張
(一) 被控訴人らの過失
本件手術には、以下のとおり被控訴人Hら(被控訴人Gは手術操作については補助者として)に過失があるから、同被控訴人らは不法行為責任を負い、被控訴人国は、神大病院を開設し、被控訴人Hらを神大病院の医師として医療業務のために使用していた者として使用者責任を負う。
(1) 脳ベラによる牽引の誤り
被控訴人Hらは、本件手術において、脳ベラで小脳を牽引する際、脳ベラで小脳を強く圧迫する等脳ベラの操作を誤って小脳から出血させ、そのために小脳に浮腫が生じ、頭蓋内圧が亢進したことから、Iが死亡するに至ったものである。
顔面けいれんは、顔面神経が橋から出ている起始部で屈曲した血管によって圧迫されて生ずるもので、その圧迫部分が神経減圧術の手術部位であり、これを露出させるためには小脳フロキュラス(片葉)に脳ベラをかける必要があるとされているから、被控訴人Hは、Iに対し上記手術を施行する際、脳ベラを小脳フロキュラスにかけている。本件手術後、Iの脳内に生じた血腫の位置は、右小脳半球であり、出血部位は、小脳の正中部及び傍正中部よりも右側であり、また昭和五七年五月一八日午後からIの左側麻痺が悪化し、午前中になかったバビンスキー反応が左側で陽性になったこと、同日午後七時二五分から行われた後頭頭蓋窩減圧術の際、Iの小脳半球に生じた浮腫は、左半球より右半球の方が大きく、右側の小脳扁桃ヘルニアの所見が認められたことは、本件手術において脳ベラにより右側小脳に過剰な圧迫が加えられた結果、手術部位の小脳橋角部に出血をきたした蓋然性が極めて高いことを示している。
(2) 手術器具による血管の損傷
以下のとおり、被控訴人Hらは、本件手術において、顔面神経を圧迫している前下小脳動脈を剥離する際、誤って前下小脳動脈そのものを屈曲させ、あるいは前下小脳動脈を剥離する際に血管(内側枝、外側枝、穿通枝を含む)を損傷して出血させ、その止血措置のため血管を凝固して閉塞させ、その結果脳幹梗塞を起こした高度の蓋然性があるというべきである。
また仮に被控訴人らが主張するように前下小脳動脈でなく後下小脳動脈に対して操作が加えられたとしても、上記と同様操作の誤りにより同動脈を屈曲あるいは損傷して梗塞させたものである。
① 圧迫血管について
圧迫血管が前下小脳動脈であり被控訴人Hが同血管を剥離する操作を行ったことは、剖検報告書で病理医が圧迫血管が前下小脳動脈であった旨記載していることや退院要約(乙2の1・2)に「右前下小脳動脈の蛇行した走行を認める」旨の記載があることから明らかである。また昭和五七年五月二〇日に施行されたCTスキャンの所見によれば、「後頭蓋窩右に丸い低吸収域をみる。」との記載がある(乙3の1・2、検乙49)ところ、丸い低吸収域とはその部分を潅流する動脈の閉塞が起こったことを示しているが、右領域は前下小脳動脈の支配領域である。
被控訴人らは右領域は後下小脳動脈の支配領域であると主張するが、(ア)通常後下小脳動脈内側枝に梗塞が生じたときは小脳半球外側部まで梗塞が生じるが、本件では小脳中心部から小脳半球深部二分の一までの範囲にしか壊死が生じていないこと、(イ)本件では前下小脳動脈が閉塞されたときに生じる典型的な梗塞部位よりも広範囲に壊死が生じていることになるが、前下小脳動脈が後下小脳動脈の扁桃半球枝領域に置換し分布することはあり得る(甲68の16)し、本件では橋にも梗塞が生じているところ、同部位を支配するのは前下小脳動脈であるから、被控訴人らの主張は失当である。
被控訴人はCTスキャン上で低吸収域が認められた時期が遅いことを問題とするが、動脈閉塞直後はCTスキャン上これが発見されず数時間ないし数日経過後に閉塞した血管の支配領域に応じて低濃度の域が出現するのが通常であるから(甲69)、血管の閉塞が出血より後ということはできない。
② 手術中の出血の有無について
ア 本件手術の硬膜内操作中は、項筋からの出血は止血済みであり、出血を伴う操作を行うものではないから出血が生ずることは殆どないはずであるが、本件手術記録上明らかに出血が認められる。被控訴人らは出血の有無を確認するためオキシセル綿をルーティンとして用いた旨主張するが、オキシセル綿は止血剤であり、出血もなく使用することは到底信用できない。
イ 麻酔記録上ヴァイタルサインの突発的な変化が生じた記載がないことは、じわじわとした出血の場合あり得ることである。
被控訴人らは血管損傷があったとすれば本幹であると主張するが、仮に後下小脳動脈本幹が損傷されたときは右小脳の全体に壊死が生じることになるが本件では同所見はないし、また圧迫血管は本幹に限られるものでもなく(甲34)、損傷したのであれば本幹であるという前提は誤りであり、ヴァイタルサインの変化がないことをもって血管損傷がなかったとはいえない。
ウ 神経減圧術の術後は麻酔覚醒も良好で意識も正常となり、他の神経症状も全く出ないのが普通である。しかるにIの家族に対する説明は手術が終了した午後四時過ぎから数時間を経過した午後七時ころに行われ、しかも今後Iには脳浮腫、脳出血が生ずる危険がある旨の説明がされたことからすると、被控訴人H及び同Gが本件手術中に出血など異常な事態が発生したことを認識していたというべきである。
③ 被控訴人Hの技術経験
被控訴人Hは神経減圧術を執刀するのは初めてであった。神経減圧術は熟練した医師にとっても困難な手術であり、被控訴人Hは前下小脳動脈と後下小脳動脈の区別すらできない技量の持ち主であって、かような被控訴人Hの技術経験からして、誤って血管を損傷した可能性が大きい。
④ 止血の確認不十分
被控訴人Hらは術野に水を入れて赤く染まるかを見て止血を確認したのみであるが、止血確認方法として不十分である。本件では静脈性出血の可能性もあるところ、静脈に圧力をかけて出血の有無を確認するバルサルバ法を実施すべきであった。被控訴人らは、バルサルバ法は現在用いられていない旨主張するが、甲72に照らし事実に反する。
⑤ 被控訴人らの主張に対する反論
ア 被控訴人らはIの死因について、従前の主張を変更し当審における鑑定人浅野孝雄の鑑定結果(鑑定補充書を含む。以下「浅野鑑定」という。)に基づき後下小脳動脈内側枝の閉塞及び再開通による出血性脳梗塞である旨主張するが、右主張は時機に後れた防御方法の提出であり、被控訴人らには故意または重過失があるから右主張は却下されるべきである。
すなわち被控訴人らは従前Iの死因を高血圧性脳内出血であると主張し、これに沿わない剖検報告書の記載に重きを置くことはできないとしていたのであるから、浅野鑑定が剖検報告書に基き高血圧性脳内出血を否定したからといって、右鑑定に依拠する新主張を提出することは信義則に反し許されない。また被控訴人らは本件手術後に発表された最新の医学上の研究成果を踏まえて主張を再構築したものであると主張するが、本件手術当時病理学者であれば判断可能な事柄であり失当である。
イ 被控訴人らの主張は浅野鑑定に依拠するものであるが、同鑑定には次のとおり不合理な点がある。
(ア) 浅野鑑定は血腫の原発部位を小脳虫部と判定したが、小脳虫部の障害で運動麻痺が生ずることはないのに、Iは手術後早い段階で手術側と反対の左麻痺を示していることからすれば、右側脳幹障害があってその結果反対側の左麻痺が生じたことは明らかであり、浅野鑑定は患者の臨床症状と矛盾する。また剖検報告書により圧迫血管は前下小脳動脈であることは明らかであるのに、浅野鑑定は後下小脳動脈に対する操作により同動脈内側枝が閉塞したと判定したが、これは鑑定人浅野が記録を精査していないか、これを故意に無視しているものである。
(イ) 浅野鑑定は後下小脳動脈本幹が重大な損傷を受けたのであれば止血クリップで止血する必要があり高度の血圧変動と心拍数の変化が生じた筈であるところ、麻酔記録上その記載がないことから動脈損傷は否定されるとしたが、前記②イのとおり本幹以外の微少血管等が損傷された根拠とはならない。またカルテに起きた事実が全て記載されるとは限らず、積極的に改ざんする事例もあるのであるから、カルテに記載がないことをもって何らのアクシデントも存在しなかった証拠になるものではない。
(ウ) 浅野鑑定は後下小脳動脈に加えられた操作によって動脈硬化巣より遊離した壁在血栓が後下小脳動脈内側枝を一時的に閉塞しこれが短時間の間に融解して血流再開が生じ、同時に小血管が破綻して出血が生じたと判定するが、臆測の域を出るものでなく、患者の脳血管には本件手術前に施行された椎骨動脈撮影像で血管の壁の不整や狭窄もなく、末梢が太くなっている箇所もなく、解剖所見でも脳底動脈に動脈硬化の所見はなかったのであり、その分岐の動脈硬化もないと推定される。また浅野鑑定は脳幹虚血の合併症により著明な高血圧が持続したため出血及び浮腫は通常予想されるより高度となり大きな出血性梗塞が形成されるに至ったというが、極めて稀にしか発生しない事態をとらえて高度の蓋然性があると判断するもので合理的でない。
(3) 手術を中止するか否かの判断の誤り
被控訴人Gは、本件手術終了後、控訴人Aらに対し、本件手術は、Iの首が短く筋肉が非常に厚かった上、骨も厚かったことから、頭蓋骨に穴を開けて、顔面神経と血管を剥離する手術に掛かるまでに五時間もの時間を要し、また、深いところで細かな手術をしなければならず、非常に難しかったと述べており、そうであるならば、手術時間が長時間になればなるほど、脳ベラによる牽引などの操作も長時間になり、重篤な小脳浮腫等が生じる確率も飛躍的に高まるのであるから、被控訴人らは直ちに本件手術を中止すべきであり、これを強行すべきではなかった。
被控訴人Hは、本件手術執刀当時三七才と若く、神経減圧術の執刀経験がなかった。本件手術では、開頭の際に異常な出血により開頭に時間を要し、またIが短頸猪首で項筋が厚く、そのため硬膜内の操作が奥深いところで行わなければならず困難な手術であったといえるから、手術を続行すべきでなかったのに、同被控訴人は本件手術を続行し、硬膜内操作に二時間二〇分を要している。
(4) 減圧術が不十分であったこと
本件では後頭蓋窩外圧術が施行されたが、減圧開頭術では大後頭孔を十分に開放する必要があるが、Iに対して減圧開頭を施した部分は右側の小さな箇所で開頭が正中にまで達しておらず不十分であった。
また脳幹圧迫による二次的悪化は出血例の方が多いが、昏睡や除脳硬直を見る例では救命のため後頭下開頭術を行い血腫除去や小脳半球切除術をすべきであった。
(5) 説明義務違反
顔面けいれんは、本人にとっては苦痛で、生活に支障を生じさせる病気ではあるが生命には別状がないところ、神経減圧術は様々な術後合併症を起こす可能性がある上、場合によっては生命を失うかもしれない危険な手術であるから、被控訴人らは、本件手術を施行するに先立ち本件手術の危険性、とりわけ生命の危険性につき、分かりやすく具体的に説明する義務があったのに、被控訴人Hらは、①手術中に血圧が上昇して生命に危険を及ぼすことがあること、②手術中にショックから心臓が停止することがあること、③手術中に雑菌に感染することがあることといった外科手術に伴う一般的な危険性を説明したのに止まり、小脳を圧迫し脳幹部の近くで行う手術であって、生命を失う危険があるという神経減圧術特有の危険性については全く説明をしなかった。特に神経を圧迫している動脈を移動させるだけで動脈の閉塞を起こす可能性が高いのであれば、執刀医は術前にその旨の説明を患者及びその家族に説明すべきであるが、そのような説明は一切なされていない。
(6) 手術適応のない手術の実施
神経減圧術が場合によっては生命を失うかもしれない危険な手術であるというのであれば、Iの顔面けいれんの症状は、特に重篤であったというわけではなく、中程度のもので、神経ブロック療法の効果も当分は期待でき、また神経減圧術は薬物治療法が不十分なとき全身状態と患者の希望を考慮して適応を決めるべきとされており(甲78)、Iは本件手術前血圧が若干高い傾向にあったのであるから、これらを考慮すると、そもそも本件手術施行当時、Iは神経減圧術の手術適応の状態にはなかったというべきである。
(二) 損害
被控訴人らの不法行為によりI及び控訴人らの被った損害は以下のとおりである。
(1) Iの損害
① 逸失利益 七五六五万二三九三円(死亡前三か月間の平均給与月額を四六万七八二七円、死亡前一年間に受領した賞与合計を二六二万六〇〇〇円とし、生活費として収入の三割を控除した上で、六七才まで稼働できたものとして一九年のホフマン式係数13.1160を乗じたもの)
② 慰謝料 一二〇〇万円
以上につき、Iの相続人として、控訴人Aが二分の一、同B、同Cが各四分の一ずつIの損害賠償請求権を相続取得した。
(2) 控訴人らの慰謝料
控訴人Aにつき六〇〇万円、同B、同C、Jにつき各三〇〇万円(但し、Jについてはその後死亡したため、Jの相続人として、Jの慰謝料請求権をK、控訴人Dが各三分の一ずつ、同B、同Cが各六分の一ずつ相続し、その後Kも死亡し、同人の相続した慰謝料請求権を控訴人Eと同Fが二分の一ずつ相続取得した。)
(3) 葬儀費用 一〇〇万円
控訴人Aが支出した。
(4) 弁護士費用
控訴人Aが控訴人ら訴訟代理人弁護士に昭和五八年一月一九日着手金二〇〇万円を支払い、勝訴判決確定時に報酬四〇〇万円を支払う旨合意した。
4 争点についての被控訴人らの主張
以下のとおり、被控訴人Hらに本件手術の手技などにつき過失はなく、控訴人らの主張は失当である。
(一) 脳ベラの使用方法について
被控訴人Hは、本件手術において、適切な大きさの脳ベラを選択し、脳ベラ固定器具を使用して適切に操作したものであり、脳ベラで小脳を強く圧迫したり、長時間脳ベラを使用したことはない。本件手術部位は、顔面神経(第七脳神経)が脳幹から出て内耳道開口部に入り込むまでの間の部分であり、開頭の過程で頭蓋骨を十分にかじりとり、必要十分な範囲の骨窓を得れば、手術場所の小脳橋角部は、牽引しなくても見えるもので、また硬膜切開後、脳脊髄液を十分排出させれば一センチメートル幅は十分に確保でき、同程度の幅があれば、脳ベラを小脳フロキュラスにかけることは必ずしも必要ではない。そして一般に脳ベラの使用が原因となって脳に血腫が発生するのは、脳ベラがかけられた近傍部、特にその直下部位であるが、被控訴人Hが、本件手術で脳ベラをかけた部位は、小脳半球の表面であるのに対し、本件手術後、Iの脳内に生じた血腫の位置は、小脳の正中部及び傍正中部であり手術部位から離れている。なお浮腫が、右小脳半球の方に強く現れているとしても、出血が右半球内に生じたことを意味しないし、左側麻痺が悪化し、バビンスキー反応が左側で陽性であったことは、右小脳扁桃のヘルニアにより脳幹が圧迫されることによって出現した症状であると推測されるから、出血部位と直接関係がない。
もっとも脳ベラの操作で後下小脳動脈本幹を圧迫した際に同血管の壁在血栓(動脈内壁に付着している血栓)が遊離し後記(二)のとおりの機序で出血性梗塞を生じた可能性はあるが、後述のとおり後下小脳動脈を転位する操作と同様に不正な操作によるものとまではいえないから、被控訴人Hに過失があるとはいえない。
(二) 手術器具による血管の損傷の有無について
(1) Iの直接的死因は中脳壊死であり、その原因は小脳虫部の出血性梗塞及び血腫形成によって生じた上行性ヘルニアで、その原因は後下小脳動脈に生じた塞栓であって、被控訴人Hは血管を損傷あるいは屈曲などしてはいない。すなわち、Iの脳内に形成された血腫は、本件手術が施行された昭和五七年五月一七日の午後一一時三〇分の時点では小脳虫部及びそれと連続した右小脳半球傍正中部と左小脳半球内側部橋前方のくも膜下腔に橋を取り囲むように存在したが、同血腫のうち、前者は出血性脳梗塞によるものであって、その成因は右側後下小脳動脈内側枝の閉塞、再開通による出血性脳梗塞である。これを生じた過程は、本件手術中被控訴人Hが後下小脳動脈を転位した際、あるいは脳ベラで小脳及び後下小脳動脈を圧迫した際に、同血管の壁在血栓が遊離し、これが後下小脳動脈内側枝を一時的に閉塞せしめ、栓塞を生じた後比較的短時間(一時間ないし三時間程度)の間に同血栓が融解して血流が再開通し、その結果出血性梗塞を生じたものである。同梗塞巣内の出血は多くの場合点状出血でありそれ自体は大きな影響を及ぼすことは少ないが、本件では脳幹虚血の合併により著明な高血圧が持続したために出血及び浮腫が通常予想されるよりも高度となり、大きな出血性梗塞が形成され上行性ヘルニアを生じるに至ったものである。
そして同塞栓が被控訴人Hの後下小脳動脈に対する操作に起因するとしても、本件手術の目的が後下小脳動脈に対して操作を加え、それを顔面神経から剥離、転位させることにあるところ、当該操作が医学的見地からして適切であったとしても栓塞は生じるものであり、本件手術中被控訴人Hにより不正な操作がなされたことは認められないから、同被控訴人に過失は認められない。
① 圧迫血管について
被控訴人Hは、第七、八脳神経中枢部で後下小脳動脈と推定できる動脈がこれら神経と一部接し、また第七脳神経と併走する動脈を第七、八脳神経の下面に認め、二か所の接触部位を確認し、いずれか一方又は双方の血管が圧迫血管であると考えて必要な処置をした。
ア 控訴人らは圧迫血管が前下小脳動脈であり被控訴人Hは同血管の同定もできない未熟な術者であると主張するが、重要なことは圧迫血管を確認することであって、当該血管が前下小脳動脈か後下小脳動脈であるかを同定することではない。剖検報告書では圧迫血管が前下小脳動脈であると判断され、その結果に基づき剖検依頼書(乙4の1)の圧迫血管の欄が当初後下小脳動脈であると記載されていたものが修正されていることはあるが、病理解剖の所見が常に正確であるとは限らない。すなわち脳の解剖は一定期間ホルマリン液に浸して堅くしたうえで割面を形成してなされるが、その間に各組織は若干収縮し、収縮の度合も組織により異なるため、手術時点における神経と血管の位置関係は必ずしも剖検時まで維持されるとは限らないので、剖検報告書の記載によっても圧迫血管が前下小脳動脈か後下小脳動脈かは確定的に判断することはできない。
イ しかしながらいずれにせよ被控訴人Hが操作した血管は後下小脳動脈であり、閉塞を来したのも同動脈であることは明らかである。カルテには昭和五七年五月二〇日に施行されたCTスキャンの所見として「後頭蓋窩右に丸い低吸収域をみる。」との記載があるところ、控訴人らは丸い低吸収域の領域は前下小脳動脈の支配領域あるいは脳底動脈の分枝の支配であり、これらの動脈は神経減圧術の際に処置した動脈である旨主張するが、同部分はCTスキャンの画像(検乙49イ)によれば前下小脳動脈の支配領域ではなく後下小脳動脈の支配領域であると認められる。すなわち浅野鑑定書添付図面1により、甲67(医師近藤孝作成の鑑定意見書、以下『近藤鑑定』という。)が指摘する前下小脳動脈の支配領域は同図面の番号11と14の間に相当するが、前記「丸い低吸収域」が存する位置は同図面の番号19の右側であって明らかに異なる。ましてや本件手術前に実施された脳血管撮影の結果右側において後下小脳動脈が伸展蛇行しており前下小脳動脈に対して優位であることが認められるから、通常は前下小脳動脈の支配領域とされている部位が後下小脳動脈の支配領域となることはあっても逆になることはあり得ない。
また浅野鑑定は上記丸い低吸収域について小脳虫部周辺に発生した血腫が上方に存在する小脳を上方に押し上げることにより上行性ヘルニアが発生し、これは中脳を圧迫するだけでなく周辺に多数存在する血管の圧迫及び屈曲による閉塞を来すことから、同機序により右上小脳動脈内側枝が閉塞したことによるものとしているのであり、同低吸収域は操作による梗塞とは直接関係はない。
② 手術中の出血の有無について
ア 控訴人らは本件手術でオキシセル綿を使用したことから出血したことが推定できるとするが、神大病院脳神経外科では手術終了の際に完全に止血されていることを確認するため視覚的には出血が認められない術野の操作部位にオキシセル綿を当てることをルーティンとして行っており、重大な出血を来したからではない。本件手術で使用されたオキシセル綿は一本であるが(乙15)、仮に重大な出血があればオキシセル綿一本では到底止血できない筈である。
イ 仮に本件手術で前下小脳動脈を損傷し出血を来したのであれば、術野が一瞬にして真っ赤になり、手術続行ができなくなる筈であるばかりでなく、血圧、心拍数に変化が現われ、麻酔記録に残るはずである。
控訴人らは本幹から枝分かれした内側の血管や微少血管を損傷した場合はヴァイタルサインが生じないと主張するが、仮に同部分に血管損傷があったとすれば血腫は小脳半球外側部に存する筈であり、特に前下小脳動脈の内側枝を損傷したのであれば血腫は小脳半球下面の外側部に存する筈であるのに、本件では血腫が小脳虫部ないし傍正中部に存することからすれば損傷部位は動脈の本幹と判断される。また脳は極めて敏感な臓器であるから少量の出血があった場合も有意な変化が現われ麻酔記録に記載されるものであるが本件ではそのような記載はない。
ウ 神大病院脳神経外科では手術中の出血量と使用される生理食塩水の量とを厳密に差し引き計算していない実態から、本件手術における硬膜内操作中の出血は一五〇ミリリットルより遙かに少なく(浅野鑑定)、この点は近藤鑑定でも正確な出血量は明らかでないとされている。仮に一五〇ミリリットルの出血があれば、これは脳神経外科においては極めて重大な出血量であり当然手術記録に記載がされるはずであるが、本件手術記録には同記載もないから、かような事実はなかったというべきである。また被控訴人Gが本件手術後家族に対し脳出血等の可能性があると説明したことはそれ自体通常の手術後の説明内容と変わるものではなく、多量の出血をみたことによるものではない。
エ 控訴人らは、被控訴人Hが顔面神経から前下小脳動脈を剥離する際に出血し、その止血措置のために血管を凝固して閉塞させた可能性があると主張するが、これを窺わせる証拠はない。
③ 被控訴人Hの技術経験
控訴人らは本件手術の合併症が起こった原因の大部分は未経験の医師チームに手術医として担当させたことにある旨主張するが、執刀医としての経験と過失の有無とは直接関係するものではない。
④ 止血の確認について
近藤鑑定は止血の確認としてバルサルバ法を実施すべきであったとするが、同法はその施行により脳圧が上がり術後に不測の合併症を起こす危険性が指摘され、既に脳神経外科の領域では事実上用いられなくなっている手法である。またバルサルバ法は静脈性出血の有無を確認する方法であり、本件で手術の対象となった血管は動脈であり控訴人らも前下小脳動脈を損傷したと主張しているのであるから、前提を欠いている。
⑤ 近藤鑑定の不合理性など
近藤鑑定は、くも膜下出血から丸い低吸収域を生じ、さらにIの直接の死因となった脳幹障害の発生に至るまでの過程について、単に前下小脳動脈が閉塞しその支配領域である小脳と脳幹に浮腫と壊死を生じさせたというだけで具体的に明確にせず、また小脳虫部ないし正中部の血腫の存在を無視しているもので不合理である。Iの同部の血腫は昭和五七年五月一七日に実施されたCTスキャンで既にその存在が認められているのに対し、丸い低吸収域は同月二〇日に実施されたCTスキャンで初めて認められたものであるから、前者の存在は重要である。
控訴人らは、Iに動脈硬化の所見はみられないから浅野鑑定は前提を欠くと主張するが、剖検報告書に脳底動脈の欄に「硬化ほとんどなし(脳底動脈)」と記載されたのは文字通り脳底動脈に硬化所見はないという意味に理解すべきであり後下小脳動脈は脳底動脈に含まれない。また術前の脳血管撮影検査の結果Iの右後下小脳動脈には明らかに動脈硬化を示す蛇行、伸展の所見が認められている。
(2) 控訴人らは、被控訴人らが当審でIの死因を小脳虫部の出血性梗塞に起因するものであると主張したことにつき、時機に後れた防御方法の提出であるから許されない旨主張するが、被控訴人らが従前の主張を変更した経緯は、本件手術後に発表された最新の医学上の研究成果を踏まえて従前の主張を再検討し浅野鑑定の内容に照らして不十分ないし不明確であったところを適宜補った結果によるもので、科学技術の発展にあわせて主張を再構築することは真実の発見にも資する正当な訴訟活動というべきであり、これをもって時機に後れた防御方法の提出であるということはできない。
(三) 手術続行の判断の当否について
本件手術については、特別に困難かつ危険な事情があったわけではなく、硬膜切開後の手術の進行及び所要時間については、何らの異常は認められないから、本件手術を中止すべき理由は存在しなかった。なお、本件手術が約六時間を要したのは頭蓋内硬膜に達するまでに時間を要したためであって、硬膜内手術の所要時間は約一時間である。控訴人らの主張は硬膜内操作に要した時間とその間の出血量についての誤った前提に基づくものである。
(四) 術後の処置について
Iのように小脳に血腫や浮腫を生じ脳圧が亢進する小脳梗塞の症例については、まず脳室ドレナージ術を施行して髄液を排出し脳圧を下げることが行われる。Iに対してもこれが行われ、その結果頭蓋内圧は約二〇センチメートル水柱であったのが五ないし六センチメートル水柱に下がるなど一定の効果は得られている。しかしながらIに発生した重症の小脳梗塞の症例において次にいかなる処置をとるかについては必ずしも医学的に確立された知見があるわけではなく、一般的にはIに対して施行された後頭蓋窩開頭術を行い骨弁を除去することが行われるが、さらに血腫又は浮腫部分を直接除去する方法をとるかは、症例の報告例が乏しいうえ反対の見解もある(乙17)から個々の状況に応じて判断すべきところ、被控訴人Hは前記後頭蓋窩開頭術の結果Iの状態が改善したこととIの小脳虫部の血腫及び第四脳室相当部位にある浮腫は生命維持機能をつかさどる脳幹に近い部位にあることからこれを除去することにより脳幹に影響を及ぼす可能性が大きく、手術の際の止血も困難であることなどを考慮し、手術を施行するメリットより危険性の方が大きいことが明らかであると判断して右手術をしなかったのであり、右判断をした被控訴人Hに過失はない。
控訴人らの主張は脳幹へ悪影響を及ぼし症状を悪化させる可能性を看過しており失当である。
(五) 説明義務について
被控訴人Hらは、本件手術に関し、その内容、危険性、手術を受けない場合の予後等について十分な説明を行い、I及び控訴人Aは、その説明内容を十分に理解した上で、本件手術の施行を依頼し、本件手術を受けることを承諾したものである。
(六) 手術適応について
Iの顔面けいれん発症の部位、程度及び頻度、従前の治療の経緯、神経減圧術の根治手術としての有効性、並びに顔面けいれんの発症によってIが大きな肉体的・精神的苦痛を受け、神経減圧術を受けることを強く希望していたこと、麻酔科もIには神経減圧術の適応があるとして脳神経外科に紹介してきたこと等に照らせば、Iにとって本件手術は最も適切な治療法であり、手術適応があったということができる。
控訴人らは内科的治療をまず試みるべきであると主張するが、近藤鑑定が引用する内科的治療(甲68の4・6)は三叉神経痛に対する治療で顔面けいれんとは異なり、両者は効果において差があるし、薬物療法には副作用があることも留意する必要があるから、薬物療法を第一選択とすべきであるとはいえない。
第3 争点に対する判断
1 争点(一)の(1)及び(2)(脳ベラの使用方法の適否、手術器具による血管の損傷の有無)について
(一) 前記争いのない事実及び証拠(乙3の1・2《以下『カルテ』ともいう。》、4の1・2、5、被控訴人H本人、同G本人)を総合すれば、本件手術中、術後の経過等について、以下の事実が認められる。
(1) Iは、昭和五七年五月一七日午前八時三〇分ころ手術室へ担送され、午前八時五〇分ころ全身麻酔が開始された後Iの身体の手術台への固定及び創部消毒等が行われ、午前九時五〇分ころから被控訴人Hを執刀者、被控訴人G及び山下某医師を助手として本件手術が開始された。被控訴人Hは、まずIの右耳介後方部を縦に切開し、項筋を左右に切開圧排しながら後部骨表面を露出したが、その際Iの後頭動脈の発達が良好で動脈性出血が多く止血に時間を要した。被控訴人Hは午前一一時ころから術野を確認して頭骨を四か所穿頭し、これを起点として骨をかじり約四センチメートル四方の骨窓を得、この段階で硬膜の緊張を緩和するため脳圧下降剤(マニトール)を静脈内に注入した。その後同部上方に横(静脈)洞(頭蓋骨直下にある太い静脈)、側方にS状(静脈)洞を露出した上午後〇時三〇分ころから硬膜切開を行い、引き続き露出小脳表面の大槽方向でくも膜切開を行ったところ、髄液の排出により十分な小脳の陥凹が得られた。以後、脳ベラ(幅約八ミリメートル)で右小脳を開排し、顕微鏡を使用しながら右小脳橋角部に達し、第七脳神経(顔面神経)及び第八脳神経(聴神経)を中枢部にたどると、第七、八脳神経上に横断するように接する動脈と、第七、八脳神経の下方に軽度の癒着を示す動脈が第七神経と平走しているのを認め、同部を顔面けいれんの責任病巣と考え、まず第七、八脳神経の下方の動脈と第七脳神経を筋肉片で離し(固定はしていない。)、次いで第七、八脳神経上に交叉する動脈を神経根から持ち上げて間に筋肉片を挿入し、動脈をくるむ様において上部をアロンアルファで固定して手術を終了し、オキシセル綿、ガーゼで術野内の止血を確認し、午後一時三〇分ころから、顕微鏡を取り外し、硬膜を閉じ始め、午後三時五〇分ころ、筋、皮膚等の閉層を終え、午後四時二五分、抜管して麻酔を終了し、午後四時四五分ころ、脳外科病棟ICUに帰室した。
なおIの本件手術中における血圧は、午前九時二五分から一〇時までは断続的に一八〇/一〇〇を記録したが、その後は一二〇から一四〇/七〇前後で推移し、午後〇時四五分ころから最高が一五五前後となり、午後二時ころに最高一二〇前後まで下がった後、その後再度上昇し午後三時三〇分ころには一八〇/八〇に達し、午後四時二〇分ころには二〇〇/九〇となった。
(2) 術後のIの状態は、カルテによれば概ね次のとおりである。
① 五月一七日午後五時ころは、「麻酔覚醒不良だが、意識状態は発語による命令に応じる、傾眠である。瞳孔同大、対光反射、左は直ちに完全に収縮、右は直ちに収縮、但し不完全。一般状態は、胸部聴診で換気良好、血圧二二〇/一三〇。」である。
② 同日午後六時三〇分ころは、「血圧依然として二〇〇/一三〇、脈拍八〇、意識状態は口頭の命令に応じる、自発開眼はなし。」である。
③ 同日午後七時三〇分ころは、「いびき出現、舌根沈下を認める。意識状態は口頭の命令に応じて、閉眼する。呼吸は陥没性。」である。
④ 同日午後八時一五分にIに対し気管内挿管がなされ、酸素五リットル(毎分)の供給下で自発呼吸に依存する状態であったが、「Iの意識状態は、口頭の命令に答えるのみ、時に体を揺することにより開眼する。右上肢にて布団をかける動作あり、瞳孔同円、同大、軽度に縮瞳気味、対光反射は、左が直ちに完全に収縮、右が直ちに収縮、しかし不完全、疼痛刺激にて四肢収縮みられる。」である。
⑤ 同日午後八時三〇分ころは、「意識レベル次第に低下。疼痛刺激により防御反応がようやくみられる。瞳孔の状態は前同、対光反射は両側とも遅延し不完全、角膜反射は両側とも反応なし、睫毛反射なし。」となり、脳幹機能不全、特に急性の機能不全が想定された。
⑥ 同日午後一一時三〇分ころ、CTスキャンによる検査が実施されたが、同所見(検乙1ないし10)によれば、後頭蓋窩の第四脳室から中脳水道、さらに脚間槽から迂回槽、上小脳槽に血腫あり、術前に比して脳室拡大あり、閉塞性水頭症と診断された。
⑦ 翌一八日午前〇時一〇分ころ、Iに対し脳室ドレナージ術が施行され、術後のCTスキャンによる検査(検乙31ないし38)によれば、脳室拡大は軽度改善し、後頭蓋窩血腫は著変なし、後頭蓋窩は緊張状態であるとされた。
⑧ 同日午前一時三〇分ころは、「一般状態として血圧一一四/八〇、呼吸はチェーン・ストークス型、深く律動性、時に無呼吸を伴うがチアノーゼを認めない。意識状態は口頭指示に応じないが、疼痛刺激にては著明な防御反応を認める、瞳孔、対光反射、角膜反射の改善はない。」である。
⑨ 同日午前四暗三五分ころは、「疼痛刺激に対し四肢の運動よく、特に下肢の自発運動も出てきた、瞳孔は右は1.5ミリメートル、左は2.0ミリメートルで共に対光反射あり、除脳強直の姿位はなく一応脳室ドレナージ術により安定した状態となった。」である。
⑩ 同日午前一二時実施されたCTスキャンの所見としては、「脳室の大きさは縮小し脳室ドレナージの機能は良好、上小脳虫部の血腫は濃度が減少、第四脳室周囲の血腫に著変なし、後頭蓋窩のくも膜下槽が少々正常化した印象がある。」である。
⑪ 同日午後五時四五分ころ、「病勢上向きの傾向がなく、午後から左片麻痺が悪化し、午前中にはみられなかったバビンスキー反射が陽性となったため、妻の同意を得たうえ午後七時二五分後頭蓋窩開頭術及び第一頸椎椎弓切除術が施行された。その結果五月一九日午前〇時三〇分自発運動は改善しバビンスキー反射(左側)は消失し神経学的状態は一時的に改善したが、午前二時ないし三時ころから再度症状は低下し、神経学的に、対光反射消失、散瞳、過度熱、一過性無呼吸など中脳病巣の所見を呈し始め、血圧は一八〇/一〇〇。」である。
⑫ 五月二〇日午後二時三〇分実施されたCTスキャン検査によれば、「後頭蓋窩の血腫に著変なし、後頭蓋窩は緊張ではあるが異常な陰影はなく、脳室は縮小している。後頭蓋窩右に丸い低吸収域をみる。」である。
⑬ 五月二一日午前四時三〇分ころは、神経学的には著変なく、過呼吸から無呼吸の型をとるようになり人工呼吸器を装着した。五月二二日午前〇時二〇分ころ意識状態は昏睡ないし深昏睡、対光反射及び角膜反射がなく、五月二五日午前三時三〇分には自発呼吸なく機械呼吸とし、血圧も六〇と急激に低下したため血圧上昇剤を投与したが、午前五時三〇分には瞳孔が散大し、末期状態に陥った。六月二日脳波検査でほぼ平坦の状態となり、六月二九日脳室ドレナージ術を閉塞してもバイタルサインの変化なく、頭蓋内圧の上昇もないため脳室ドレナージを抜去した。七月一〇日神経学的に脳死と推定されたうえ、七月二〇日血圧が低下し心停止により死亡した。
(3) 昭和五七年七月二〇日午後六時Iの病理解剖が実施されたが、剖検報告書(乙4の1・2)によれば、症例の要約欄に「右前下小脳動脈よる顔面神経圧迫」と、臨床所見上問題になった点と病理側の意見欄に「小脳は約八〇パーセント出血壊死性変化がみられ、虫部及び右半球に強く、壊死性変化は第四脳室を越え、中脳後部にも及んでいる。また高度の小脳の上行性(テント切痕、ヘルニアした小脳が小脳テント上にのっている)及び小脳扁桃ヘルニアがみられる。」、病理解剖で問題の残った点と病理側の意見欄に「小脳出血の原因 明らかな血管の破綻部位は指摘できない。時間的経過から考えて開頭術が出血の引き金になったことは否定できない。」、神経系欄に、「脳底動脈の硬化は殆どなし、中大脳動脈は軽度粥腫様変化」、「第三脳室から中脳水道軽度拡大」、「小脳ヘルニアは右側に強い。」、「中脳が後方より圧排され全体的に軟化を呈する。」、「上部頚髄は正常、橋、延髄は正常。ただし小脳正中部に血栓に繊維素を混じたま褐色の病変が存在し、脳橋部の背部にまで及んでいる。」旨の報告がされている。また昭和五九年八月作成の剖検追加報告書(乙5)には「小脳組織は広範な壊死を伴い軟化状態にあり、血管の詳細な検討は困難であるが、明らかな動脈りゅうや動静脈奇形の所見は認めない。外表に近い一部の小動脈には閉塞、器質化の所見があるが出血との因果関係は不明。一部に反応性の炎症、細胞湿潤、肉芽形成を認めるが、明らかな化膿性炎症の合併は認めない。」旨報告されている(以下両報告書を「本件剖検報告書」という。)。
(二) 上記争点については差戻後の当審における新たな証拠として、浅野鑑定と近藤鑑定が存在し、当事者の主張は基本的にいずれかの鑑定結果ないし意見に依拠するものであるが、両鑑定の内容は概ね以下のとおりであると認められる。
(1) 浅野鑑定について
浅野鑑定は、剖検所見から死因を特定したうえ、それがいかなる機序によって発生したかを臨床経過及び検査所見と関連づけて鑑定するのが相当であるとし、概略次のとおり鑑定した。
① 術後CTスキャンの所見について
ア 昭和五七年五月一七日のCTスキャン(検乙1ないし10)所見
小脳虫部及びそれと連続した右小脳半球傍正中部と左小脳半球下内側部に血腫と思われる高輝度(吸収)領域を認め、最も高輝度の血腫はほぼ小脳虫部に存在し、これはさらに右小脳内側面及び左小脳内下側面の脳実質内に連続的に広がっている。第三脳室後部には後方からせり上がってきた小脳組織によって前方に圧排され第三脳室にめり込んだように見える松果林が存在し、第四脳室は小脳内血腫により圧迫されその輪郭をCTスキャンで確認できない。正中部の血腫は一見第四脳室内に穿破した血腫であるかのように見えるが、同脳室に接しこれを前方に圧迫している小脳虫部内の血腫であり、同脳室内に穿破してはいない。橋前方のくも膜下腔には橋を取り囲むように血液の貯留が見られ、同血液の貯留は左右の小脳、橋角部、迂回槽、四丘槽にも見られるが、その量は正確に推定できないものの、全体的に軽度であり局所的に大きなマスを形成していないので、術後の新たな出血よりは術中の硬膜外からの血液の垂れ込み、及び術中の微小出血によると推定される。小脳のほぼ正中部にウサギの頭と両耳に類似した血腫が存在するが、左耳に相当する血腫は小脳虫部に存在し、右耳は右小脳上内側面皮質に拡がった血腫であり、血腫は虫部下半に原発し、そこから右側上小脳脚内側を線維の方向に沿って前上方に進展したと考えられる。上行性テント切痕ヘルニアの特徴である四丘槽と上小脳槽の合流部が三角形となり、さらにこれら髄液槽が完全に消失し第三脳室後部が平坦化し同時に閉塞性水頭症が合併したり脳幹部が前方に偏位し脚間ないし橋前槽が狭くなった像が見られ、上行性ヘルニアは既に発生し、かなり進行していることを示している。
イ 五月一八日の一回目のCTスキャン(検乙31ないし38)所見
前記の右側の耳は膨大し、右橋角部に達している。小脳中部下方及び左小脳下内側面の血腫は以前に比して輝度を増し大きくなっており、これらの周囲には帯状の低輝度領域があり浮腫が発生している。小脳前葉虫部の血腫はさらに拡大し中脳後面を右後方から圧迫しており、中脳被蓋部左側には帯状の高輝度領域が発生し中脳出血が生じたことを示している。
ウ 五月一八日の二回目のCTスキャン(検乙39ないし46)所見
全体としては上記と同様だが、小脳虫部及び右小脳半球内側面の血腫はさらに後方に拡大している。
エ 五月二〇日のCTスキャン(検乙47ないし56)所見
右小脳半球内部(歯状角外側下方の白質)に直径2.5センチメートル程の円形の低輝度領域(脳梗塞〜浮腫)が新たに発生している。小脳前葉虫部内部の以前低輝度領域であった部分が高輝度領域となっており梗塞部位に出血が生じていることを示している。また中脳は腫大した小脳虫部によって左前方に強く圧排されており、以上は上行性ヘルニアがさらに進行し、血腫を有する小脳前葉虫部が右側テント上部に脱出したことを示している。
② 剖検報告書から推定される死因について
剖検報告書には「中脳が後方より圧排され、全体的に軟化を呈する。延髄は正常」との記載があることから、Iの中脳壊死の原因は「両側上行性小脳ヘルニア(テント切痕を介している。これは右側に強い。)」による中脳損傷の拡大に起因して脳幹死を惹起したものである。扁桃ヘルニアが存在するとしても、これにより脳幹死が生じていたのであれば延髄には不可逆的損傷が生じていたはずであるが、上記のとおり剖検により延髄は正常であったから扁桃ヘルニアが死因であることは否定される。
③ 小脳上行性ヘルニアの発生時期について
Iの臨床症状の推移から、同ヘルニアによる中脳の圧迫を示す症状である血圧上昇、縮瞳、意識レベル低下等は術中から発現し、五月一九日夕刻には瞳孔散大、過高熱、呼吸不全、四肢除脳硬直等中脳損傷の症状が出揃っており、以後五月二五日まで神経症状、一般状態は悪い状態で安定した末、血圧低下、散瞳、自発呼吸停止等の脳幹死が完成した。
④ テント切痕上行性ヘルニアの発生原因
同発生原因は小脳虫部周辺に発生した血腫及び随伴する浮腫にあることは明らかである(後下方には硬い後頭骨が存在するのに対し前上方には小脳テント開口部に広い髄液層《四丘槽》が存在しこれは圧迫により容易に変形するため、上記血腫が上方に存在する小脳《小脳前葉虫部》を上方に押し上げることになる。)。上行性ヘルニアは中脳を圧迫するだけでなく、四丘槽周辺に多数存在する血管の圧迫、屈曲による閉塞を来たし、五月二〇日のCTスキャンで新たに見られた右小脳半球の梗塞は同機序(特に右上小脳動脈内側枝の閉塞)により発生したと考えられる。
⑤ 小脳虫部に血腫が発生した原因
高血圧性出血の可能性については、剖検報告書に同出血に特徴的な吸収期の病像、すなわち大まかに変質した血腫とその周辺組織像が存在する筈であるが、その記載がなく病理学者が見落とすことはあり得ないことから否定される。出血性梗塞は通常病巣内に小静脈性あるいは毛細血管性の小出血がびまん性に生じ、特にその灰白質部分が肉眼的に明らかに赤く見える場合であって、剖検報告書の肉眼所見と一致している。また出血性梗塞は脳の塞栓症、又は一旦閉塞した血管の再開通と密接に関連して生じ、同発現に対して心内性血栓の存在や脳外科的操作は関連深い要因と推測されるところ、本件において心内性血栓が存在した可能性は低い(心内血栓は通常内径動脈等の主幹動脈に生じるし、術前検査でIの心疾患は否定されている。)。そして術後CTスキャンにより血腫が存在する部位は後下小脳動脈内側枝の支配領域と正確に一致する(特に術前脳血管撮影により右側において後下小脳動脈が伸展蛇行しており前下小脳動脈に対して優位であることが指摘されている。)。そして心内性血栓が否定されることから手術操作により生じた可能性が高く、梗塞の発生から出血に至る時間が短いこと、術前血管撮影で認められた後下小脳動脈の伸展蛇行は動脈硬化を示す所見であること、剖検では他の脳動脈にも硬化が認められたこと、術中に後下小脳動脈と推定される動脈を操作していること等の理由から、本件は小脳虫部出血性梗塞によるもので、これは後下小脳動脈における塞栓により同動脈内側枝が一時的に閉塞され、比較的短時間内に融解し、その再開通に伴って虚血領域の小血管が破綻し出血が生じたものと推定される。また後下小脳動脈内側枝の閉塞は延髄血流低下(虚血)とそれに対する防御反応として必然的に昇圧を来すものであり、本件手術中硬膜内操作が開始された一二時三〇分ころから上昇を始めた術中術後の高血圧は上記閉塞の結果生じたものと考えられる。
⑥ 上記のような閉塞巣内の出血は多くの場合点状出血であり、それ自体は大きな悪影響を及ぼすことは少ないのであるが、脳幹虚血の合併により著明な高血圧が持続したために、出血及び浮腫は通常予想されるよりも高度となり大きな出血性梗塞が形成されるに至った。
⑦ 本件手術において塞栓が生じた機序としては、(ア)椎骨動脈に存在する壁在血管が遊離した。(イ)術中に後下小脳動脈が損傷された。(ウ)術中後下小脳動脈を移動した際、あるいは脳ベラで小脳及び後下小脳動脈本幹を圧排した際に、壁在血管が遊離した可能性が考えられる。そのうち(ア)については、椎骨動脈損傷ないし壁在血管の遊離が生じたのであれば塞栓は後下小脳動脈本幹、脳底動脈などより広範囲に生じた可能性が高く、また頭部固定直後に生じ血圧上昇は開頭術開始早々に起こっていた筈であるが、本件ではこれがないから(ア)の可能性は低い。(イ)については、もし操作により後下小脳動脈本幹が損傷されたのであれば、脳幹血流の即時低下を意味するから高度の血圧変動と心拍数変化が直ちに生じる筈であるが、そのような急激なヴァイタルサインの変化は麻酔記録には示されていないから、後下小脳動脈本幹が重大な損傷を受けた可能性は否定できる。結局(ウ)の可能性が最も高いといえる。しかしながら硬化性病変を有する動脈を転位したりある程度圧迫すれば壁在血管が遊離し末梢動脈の塞栓症を生じる危険性は常に存在するから、直ちに不正な操作がなされたと推定することはできない。
⑧ 不正な操作の有無について
脳ベラの操作については、カルテによれば顔面神経に対する圧迫動脈は脳幹側でなく内耳孔に近い場所に存在したのであるから、フロキュラスを圧迫しなくても動脈剥離操作は可能である。また脳ベラがフロキュラスの手前にかかっていたとして、(ア)圧迫による脳挫傷が生じ直下に血腫が発生することは、前記のとおり血腫の原発部位が小脳虫部であることから考えられず、また(イ)脳ベラが直接間接に後下小脳動脈を圧迫し一時的に血流が停止したことにより動脈内血栓が生じ、脳ベラを外した後にこれが末梢に流れて後下小脳動脈内側枝を閉塞した可能性については、後下小脳動脈本幹はフロキュラス部分には存在しないのでこれが脳ベラ先端により直接圧排される可能性はなく、また目視できる部分に関して脳ベラで後下小脳動脈本幹を圧排することは脳外科手術の通念に反する操作であり、カルテ上もそのような記載はないからその可能性も否定できる。
また脳ベラは脳の外形の個人差やその時の状況に応じて適宜大きさ、角度などを変えながら使用するものであり、本件手術における脳ベラの具体的操作内容は判定できないが、いずれにせよ上記の点からこれがIの心身状態に悪影響を与えたことは考えられない。
⑨ 硬膜内操作中の硬膜内の出血量
本件手術において午後一時一五分から午後三時三〇分までの出血量は二四〇ミリリットルで、硬膜内操作(午後〇時から午後三時)の問の硬膜内出血量は最大一五〇ミリリットルとなるが、本件では洗浄のため使用された生理食塩水量を測定していない(使用された量の記載がないことから、差し引き勘定は行われていないものと推定される。)ため正確な出血量を確定することは不可能である。しかしながら止血の確認には通常一〇〇ないし二〇〇ミリリットルの生理食塩水を用いるので硬膜内操作中の出血は一五〇ミリリットルより遙かに少ないと考えるのが合理的である。
(2) 近藤鑑定について
近藤鑑定は脳内出血の部位、血腫形成の部位、その発生原因等について、次のとおり結論づけている。
① 剖検報告書により、圧迫血管は前下小脳動脈であることは明らかであり、椎骨動脈から分岐しているのが後下小脳動脈であり、脳底動脈から分岐しているのが前下小脳動脈であってこの区別は明瞭であり、前下小脳動脈を手術で確認できた筈である(椎骨動脈撮影像の拡大撮影像《検乙59、60》には後下小脳動脈の蛇行も異常でなく前下小脳動脈の抽出は左右とも内側枝と外側枝とが末梢まで追跡できる。)。被控訴人Hはこれを後下小脳動脈と推定できる動脈とカルテに記載していることからすると、同被控訴人は手術時にどの血管を処理しているか理解できていなかったようであり、術野が十分に確保できなかったのか、あるいは出血などにより見えなかった可能性がある。
② CTスキャンで、後頭蓋窩の第四脳室から中脳水道、さらに脚間槽、迂回槽、上小脳槽に血腫の存在が認められるが、この血腫は白さに濃淡があることから髄液と混じり合ったもので、くも膜下腔に起こった出血が脳室内に逆流したものであり、被控訴人Hが供述する高血圧性の小脳出血ではない。同くも膜下腔出血は他の血管を処置していないことから圧迫血管を剥離する際に生じたことが窺えるし、じわじわとした出血であれば静脈性の出血である可能性もある。そして術中術後を通じて異常な血圧上昇があることから、手術終了前から頭蓋内圧亢進が起こっていたと考えられ、手術野からの出血により第四脳室及び中脳水道が閉塞されて髄液が貯留する水頭症であった。以上のとおりくも膜下腔出血は硬膜縫合時からまもなく起こったもので手術による不手際は免れない。
③ 患者はくも膜下腔出血以外に小脳扁桃ヘルニアを起こしており、左側麻痺が発現したことからすると右側脳幹障害が起こっていた。五月一八日のCTスキャンでは後頭蓋窩に雑音が多くて病変は不明瞭であるが、同月二〇日のCTスキャンにより後頭蓋窩右に丸い低吸収域が認められ、これはその部分を潅流する動脈の閉塞であり、脳幹部の脳梗塞が起こったことを示している。右領域は前下小脳動脈の支配領域あるいは脳底動脈の支配領域であって、これら動脈は神経減圧術の際に処置した動脈である。
④ Iに実施された脳室ドレナージ術によりくも膜下腔出血は改善したが左側麻痺の出現など脳幹機能障害は悪化しており、Iの死因はくも膜下腔出血以外の血管の梗塞によるもので、本件手術が動脈を持ち上げて神経根との間に筋肉片を挿入して動脈をくるんだ様におき上部をアロンアルファで接着して転位させる操作をするものであったことから、同剥離処置をした際前下小脳動脈を屈曲させ、あるいは損傷して出血させ止血措置のため血管を凝固して梗塞させた可能性がある。
⑤ くも膜下腔出血や重要な血管の閉塞をもたらした原因と脳ベラとの関係は記録上明らかではないが、被控訴人Hが神経減圧術について助手としての経験があるのみで、全く経験のない被控訴人Gが助手として付いた手術であったことからすると、脳損傷が手術の不手際によって生じたことは明らかである。
⑥ 本件手術中、被控訴人Hは後頭動脈の発達が良好で動脈性の出血に悩まされたことや硬膜閉鎖時に徐々に出る出血が止血されたことを確認して手術を終了したとカルテに記載したことから出血があったことは明らかであるが、その部位や出血量は不明である。しかしながら同出血は前下小脳動脈を剥離する際に生じたものと考えられ、その際に止血としてオキシセル綿が用いられ、その止血が不完全で手術後に術野から脳槽にかけてくも膜下腔出血を起こした可能性がある。「じわじわと出血した感じ」であれば静脈性の出血の可能性もあるから、バルサルバ手技により止血の確認をすべきであった。なお硬膜内手術中の正確な出血量については、出血の計量は通常なされず、生理食塩水が混入し、カルテにも大量の出血が生じて急激に血圧が低下した旨の記載もないから不明である。
(三) 血腫の原発部位及びその後の症状について
前記事実によれば、Iは上行性小脳ヘルニアにより死亡したものであるところ、同ヘルニアの発生機序を明らかにするためにはIに生じた血腫の原発部位を特定することが必要である。この点については、術後CT所見(検乙1ないし10、31ないし38、39ないし56)及び浅野鑑定によれば、本件術後の五月一七日午後一一時三〇分において、CTスキャン検査上最も高輝度の血腫が小脳虫部に存在し、これと連続した右小脳半球傍正中部と左小脳半球下内側部に血腫が存在することからすれば、血腫は小脳虫部に原発したものと認められる。そして上記証拠によれば、同部位から右側上小脳脚内側を繊維の方向に沿って前上方に進展したもので(正中部の血腫は一見第四脳室内に穿破した血腫であるかのように見えるが、第四脳室上髄帆に接しそれを前方に圧迫している小脳虫部内の血腫であり、同脳室内に血腫は穿破していない。)、この時点で既に上行性ヘルニアは発生し、かつかなり進行した状態にあり、五月一八日の時点では、小脳虫部の血腫がさらに拡大し、中脳後面を右後方から圧迫し、右側の血腫が膨大し右橋角部に達し、小脳表面の小血管の断裂等によりその周辺に新たにくも膜下出血が生じ、五月二〇日時点では上行性ヘルニアはさらに進行し血腫を有する小脳虫部が右側テント上部に脱出したもので、Iの中脳壊死の原因は上行性小脳ヘルニアであり(扁桃ヘルニアは、本件剖検報告書により延髄が正常と認められるから、同ヘルニアは延髄の圧迫壊死を起こす程度に高度ではなかったと認められる。)、その発生原因は小脳虫部周辺に発生した血腫及びこれに随伴する浮腫であると認められる。この点について、被控訴人H本人は、血腫は左側歯状核《小脳虫部の左側の部位》に原発し、同部位から直近の第四脳室を経てくも膜下腔に血液が流れ、さらに歯状核と連絡のある小脳虫部、また歯状核から左小脳扁桃へと出血したものであると供述するが、歯状核と特定した根拠についてはCTスキャンの所見に基づくというのではなく出血し易い部位であること、右側歯状核が原発部位とすると左小脳扁桃が出血することが神経繊維路から説明できないとするものであって、推測によるものといわざるを得ず、すぐには採用できない。また同G本人はCTスキャンの所見について小脳虫部に血腫は見られるが、右小脳半球には血腫などは存在しない旨供述するが、浅野鑑定によれば血腫は右小脳内側にも存在すると認められることに照らして採用できない。証人松本は主たる血腫は小脳中央部及び第四脳室にあるとするが、右小脳半球については頭骨が障害となって同様に判定困難であると供述する程度で、具体性がなく採用できない。また原審における鑑定人白馬の鑑定結果及び証人白馬は、剖検の記載から出血や血腫の有無、部位などを判定することは不可能であるが、CTスキャン検査上は、まず小脳虫部に出血しこれが第四脳室に流出したとし、橋の出血の有無は判読できないが橋に出血すれば第四脳室が横にずれる筈であるのに同所見は認められないからその可能性はない旨供述するが、他方では血腫は右半球に多く見られるとも供述しており、曖昧であり直ちに採用できない。
そして上記浅野鑑定などによれば、カルテに記載のある「後頭蓋窩の第四脳室から中脳水道、さらに脚間槽、迂回槽、上小脳槽に血腫」は、術後の新たな出血ではなく術中の硬膜外からの血液の垂れ込み、及び術中の微小出血によるものと推定され、また五月二〇日実施されたCTスキャンにより認められた右小脳半球部の梗塞(下記の丸い低吸収域)は新たに発生したものと認められる。
以上のとおり、Iの脳内出血の原発部位は小脳虫部であり、右小脳内側に存在する血腫は上記虫部に原発した血腫が進展したものと認められ、小脳右半球が原発部位であるとは認められない。
これに対し、近藤鑑定は、五月二〇日のCTスキャン検査により「脳幹橋部に丸い低吸収域をみる」とあることから、この部分を潅流する動脈の閉塞、すなわち脳幹部の脳梗塞が起こったことを示しており、同領域は前下小脳動脈の支配領域であると結論づける。しかしながら同部分の低吸収域は上記のとおり後に発現したものであるから原発部位であるとはいえず、上行性ヘルニアによって発生したものとみるのが合理的である(控訴人らは、上記低吸収域をCTスキャンで認めた時期が遅いとしても、CTスキャンでは動脈閉塞直後は発見されず数日経過後に低濃度の域が出現するのが通常であるから同部が原発部位であることと矛盾しない旨主張し、甲69にはCTスキャンに低吸収域が出現するのは動脈閉塞後数時間ないし数日後である旨の記載があるが、前記のとおり五月一七日のCTスキャンによりまず小脳虫部に血腫が認められこれが膨大した経緯からすれば、上記の点を考慮しても原発部位についての前記認定を左右するものではない。)。
また控訴人らは五月一八日の術後早い段階でIの左側麻痺が悪化した臨床症状と浅野鑑定は内容的に矛盾する旨主張するが、上記のとおり浅野鑑定によれば同日には小脳虫部の血腫が拡大し中脳を圧迫する状態が出現していたのであり、ヘルニア側の中脳圧迫により病側の反対側に片麻痺が生じることは多い(甲14)ことからすれば、同臨床症状と矛盾するものではなく、また小脳半球に生じた浮腫が右半球の方が大きいことも上記機序に照らせば直ちに同部が原発部位であることを窺わせるものとはいえない。
(四) 訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである(最高裁昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決民集二九巻九号一四一七頁)。
そして本件手術の内容や危険性、術後時間的に近接して本件手術の操作がなされた小脳内の虫部に血腫が発生したこと、浅野鑑定及び近藤鑑定によれば、Iの小脳病変が術中の操作と関係がなく、高血圧性脳内出血《あるいは動静脈奇型などによる非高血圧性脳内出血》あるいはIの頭部を回転した位置で固定した際頭部捻転により椎骨動脈に存在する壁在血栓が遊離したことにより生じた可能性については、前者については高血圧性脳内出血の吸収期の病像である変質した血腫と周辺組織像(被膜)が見られないことにより、後者については同血栓が遊離した場合は血圧上昇などが頭部固定直後に起き、かつより広範囲に血腫が生じる可能性が高いが、本件ではこれらがみられないことから、本件手術の操作以外の原因により上記血腫が発生したとは認められないことなどの事実によれば、同血腫は本件手術中の操作に起因して発生したものである蓋然性は高いというべきである。
そこで以下さらにIの小脳虫部に生じた血腫の原因となったと考えられる本件手術中の操作とその機序について検討する。
(五) 脳ベラの使用方法との関係について
控訴人らは、被控訴人Hらが本件手術中に脳ベラをフロキュラスにかけ操作を誤って小脳に出血させたと主張し、神経減圧術において手術部位の小脳橋角部に到達するためには小脳フロキュラスに脳ベラをかける旨の文献(甲10の1、2、13の1、43)がある。これに対し、被控訴人H本人は、脳ベラはフロキュラスでなく右小脳半球のより外側の部分(検乙24ないし27)にかけ、また脳ベラで小脳を強く圧迫したり、長時間脳ベラを使用したことはない旨供述する。
まず、脳ベラがフロキュラスにかかっていたか否かについては、前記認定のとおり、本件手術においては、髄液の排出により十分な小脳の陥凹が得られたことが認められ、カルテにも、脳脊髄液をくも膜を穿破することにより排出せしめると、硬膜と小脳上表に十分なすき間を得て容易に小脳橋角部に到達した旨の記載があるほか、浅野鑑定も圧迫動脈血管は脳幹側でなく内耳孔に近い場所に存在したので脳ベラをフロキュラスにかけなくても動脈剥離操作は可能である旨の判定をしていることからすれば、小脳フロキュラスに脳ベラをかけていたと認めることはできないし、そもそも脳ベラは個体差に応じて角度、深さなどを変えて使用するものであるから、これをかけた部位は小脳虫部の血腫の原因を検討するにあたり重要なものであるとはいえない(浅野鑑定)。
また、脳ベラによる操作と上記血腫との関係については、前記のとおりIに生じた血腫の原発部位は小脳虫部であるから、脳ベラの圧迫により同部に直接脳挫傷が生じたことは否定され、また脳ベラ先端で操作対象の当該動脈本幹を圧迫することは脳外科手術の通念に反する操作であり(浅野鑑定)、通常人からみても考え難く、被控訴人Hがあえてそのような操作をするとは認められない。もっとも小脳に脳ベラをかける以上血管の枝部分を全て避けて操作することはできず、かけた部分が阻血により梗塞を起こすことはあり得る(甲33の3)としても、前記のとおり原発部位との関係で本件では同機序も否定され、これに前記被控訴人H本人、同G、証人松本の供述を総合すると、脳ベラの操作に起因して上記血腫が生じたとみることはできない。
近藤鑑定は被控訴人Hが経験豊富でないことなどから脳ベラなどの操作の不手際により脳損傷が生じたことは明らかであるとするが、その根拠としては十分といえず、上記の点に照らしても採用できない。また控訴人Dは、被控訴人Hが昭和五七年五月一九日ころ、Iの親類に当たる二人の医師に対し、Iに生じた脳内出血は脳ベラの小脳に対する過剰侵襲によるものであることを認めていた旨供述あるいは供述記載(甲21)するが、これを否定する被控訴人Hの供述及び上記の点に照らして上記供述は採用できない。
(六) 手術器具の使用方法との関係について
この点について、近藤鑑定は、本件手術が動脈を持ち上げて神経根との間に筋肉片を挿入して動脈をくるんだ様におき上部をアロンアルファで接着して転位させる操作をするものであったことから、同剥離処置をした際前下小脳動脈を屈曲させ、あるいは損傷して出血させ、その止血措置のため血管を凝固して梗塞させた可能性があるとし、また浅野鑑定も術中後下小脳動脈を移動した際壁在血管が遊離し、塞栓により同動脈が一時的に閉塞され、比較的短時間内に融解し再開通に伴って虚血領域の小血管が破綻し出血が生じたと推定する。
(1) まず、硬膜内操作中の出血量の点について検討すると、被控訴人Hは、硬膜切開後には異常な出血はなかった上、不可避な出血については、ハイポーラル(双極止血器)を使用してその都度慎重に止血した旨供述しているが、他方カルテには、午後一時一五分のSPON(スポンジ)欄に一五〇ミリリットルの、その後午後二時四五分のSUC(吸引)欄に一五〇ミリリットルの、午後三時三〇分のSUC欄に九〇ミリリットルの各記載があるところ、頭蓋内に生じた出血はすべてSUC(吸引)で処理するから、SPON(スポンジ)で処理した分は硬膜外からの出血であると認められる(浅野鑑定)。上記のとおり硬膜内操作中である午後〇時三〇分ころから午後三時ころまでの間に最大一五〇ミリリットルの多量の出血が記録されていることが認められるが、この点については、硬膜内操作中に相当量の生理食塩水が洗浄及び止血の確認に用いられており(乙15)、上記使用した生理食塩水の量が差し引き計算された形跡がないことからすると、吸引瓶に貯まった量が直ちに出血量を示すものとはいえず、術中急激に血圧が低下したなどのヴァイタルサインの変化を示す記録はないことに照らせば、出血量は一五〇ミリリットルよりはるかに少量(浅野鑑定)であったと推認するのが相当である(近藤鑑定も生理食塩水の混入を考慮し出血量は不明であると結論づけている。)。
(2) そして術中に、動脈壁が断裂し、あるいはその分枝から出血した場合は、高度の血圧変動と心拍数変化などヴァイタルサインが生じたはずであるといえるところ、麻酔記録にはかような記載はないから、本件手術の操作により直接血管を損傷した可能性は否定される。
控訴人らは、操作した血管が本管であるとは限らないし、じわじわとした出血である可能性はあるので、血管損傷により直ちにヴァイタルサインが生じるとはいえない旨主張する。しかしながら前記の血腫が原発した部位や、カルテ及び本件剖検報告書にも圧迫血管が本管でなく内側枝であることを窺わせる部分はないことからすれば操作した血管は本管であると認められるから、これを損傷した場合ヴァイタルサインが生じる筈であって上記主張は採用できない。
控訴人らは麻酔記録上ヴァイタルサインが記載されていないとしても、記録が改ざんされた可能性もあると主張するが、同主張を裏付ける事情を証拠上窺うことはできないから、採用できない。
また控訴人らは、術後数時間経過後にようやくIの家族に対する説明がなされ、しかも今後Iに脳浮腫などが生ずる危険がある旨の説明がされたことは本件手術中に出血などの異常な事態が発生したことを窺わせる旨主張する。しかしながら多量の出血があった事実が否定されることは上記のとおりであるし、前記認定事実によれば、術後Iの状態として麻酔からの覚醒が不完全で、血圧上昇、縮瞳、意識レベル低下などの問題症状が発現していて、その推移をみる必要があった(被控訴人G本人)から、家族に対する説明が遅れ、しかも予断を許さない状況であることを説明する必要もあったといえるので、上記の点のみから直ちに手術中に異常な事態が生じたとはいえない。
近藤鑑定は血管を損傷して出血させ、その止血措置のため血管を凝固して梗塞させた可能性があるとするが、仮にそうであれば止血した部位に血腫が形成される筈であるのに、本件では同事実は証拠上認められないので、採用できない(なお控訴人らは、止血の確認が不十分であり再出血により血腫が生じた可能性があるから、静脈性出血の場合に使用されるバルサルバ法を実施すべきであったとも主張し、これに沿う近藤鑑定がある。しかしながらカルテによれば硬膜内操作中に湿潤性の出血があったがその止血を確認した上硬膜を閉鎖していると認められるところ、仮に止血が不十分であることにより血腫が生じたのであれば、上記のとおり止血した部位に血腫が形成される筈であるが、本件ではこれが認められないし、本件において上記湿潤性出血以外に静脈性出血があり、その止血を確認する必要があった状況は証拠上認められないから、同主張は採用できない。)。
(3) 以上によれば、本件手術中の操作により血管を直接損傷したことは考え難く、浅野鑑定により、術中当該圧迫血管を移動した際壁在血管が遊離し、塞栓により同動脈が一時的に閉塞され、比較的短時間内に融解し再開通に伴って虚血領域の小血管が破綻し出血が生じたものと消去法により推認するのが合理的であって、他にこれに疑いを差し挟む証拠はない。そして同鑑定により、虚血領域の小血管の破綻による出血は多くの場合点状出血で、それ自体は大きな悪影響を及ぼすことは少ないが、本件では脳幹虚血の合併により著明な高血圧が持続したため大きな出血性梗塞が形成されたものとみるのが相当である。
控訴人らは、同鑑定の結論は臆測の域を出ず、Iの脳血管には不整や狭窄などはなく、解剖所見でも動脈硬化の所見はなかったのであるから、合理的ではない旨主張する。確かに本件剖検報告書によれば、Iの脳底動脈の硬化は殆どなく、動脈瘤や動静脈奇型の所見までは認められないが、血管造影検査ではIの右後下小脳動脈(あるいは前下小脳動脈)が蛇行、伸長している旨指摘されたことが認められ(乙2の1・2、3の1・2、検乙59、60、をお圧迫血管の同定については後に判断する。)、その程度は明らかでないがIの脳動脈に硬化の所見はあったのであり、浅野鑑定によれば血管撮影ないし手術操作後に脳動脈閉塞、再開通が生じることは極めて稀というより脳外科医には良く知られる合併症であると認められる(証人松本の供述及び前記白馬の鑑定結果には、脳ベラなどの操作により脳ベラをかけた部分あるいはその近傍部に限らず、離れた部位に血腫が発生することもあり得るとする部分があるが、上記の機序を説明したものとみられる。)から、同主張は採用できない。さらに控訴人らは、Iに著明な高血圧が持続したことにより出血などが高度となり大きな出血性梗塞が形成された旨の浅野鑑定は極めて稀にしか発生しない事態をとらえて高度の蓋然性があると判断するものであると主張する。しかしながら、手術時にIの血圧上昇がみられたことは前記認定のとおりであり、上記の結論が不合理であるとはいえず、同主張は採用できない。
(七) 以上の事実によれば小脳虫部の血腫は脳ベラの操作に起因するものでなく、手術器具により圧迫血管を剥離、移動した操作により生じたといえるから、これを前提に、被控訴人Hらに手術中同器具の操作に誤りがあったかについて判断する。
(1) 上記血管の剥離、移動の操作は本件手術に不可避なものであるが、医師としては当該動脈血管を慎重に操作することが要求され、仮に不必要に血管を屈曲させるなどして、その結果血栓を遊離させたのであれば被控訴人Hは過失を免れないというべきである。しかしながら、浅野鑑定によれば、動脈に対する不正な操作が加えられなくても、神経減圧術に必然的に伴う動脈の移動や、ある程度の圧迫により動脈壁の変形は避けられず、これによりある頻度で壁在血栓の遊離などは生じ得るもので、同危険は本件手術にとり不可避のものであり、かつこれが稀な事態ではないことが認められる(前記の証人松本らの手術器具をかけた部分から離れた部位に血腫が発生することもあり得るとする供述部分も、これを窺わせる。)。
(2) そして被控訴人Hが手術器具により圧迫血管に対し不必要に乱暴な操作がなされたかについては、控訴人らは被控訴人Hの技術経験が不足していることを主張し、近藤鑑定も、被控訴人Hが経験不足などから動脈を不必要に屈曲させその結果出血させた可能性が高く、被控訴人Gも全く神経減圧術の経験がない者であったと指摘する。しかしながら、被控訴人Hは脳神経外科医としての知識経験に欠けるところは証拠上認められず、これまで後頭蓋窩内の手術を施行した経験を有し、神経減圧術についても助手として立ち会った経験を有する(被控訴人H、証人松本、弁論の全趣旨)し、また被控訴人Gにも同手術の知識が欠落していると認める証拠はない(同被控訴人が脳ベラの掛け方について「深さ、引く強さに関しても分かりません。」と供述したのは、同被控訴人が担当する顕微鏡の仕組みについて供述したものであって、自己の知識経験が不足している趣旨ではないと認められる。)。したがって被控訴人Hにとり神経減圧術の執刀をするのが本件手術が初めてであるとしてもこれが直ちに不正な操作に結びつくものではなく、同主張は採用できない。なお控訴人らは、圧迫血管は剖検報告書から前下小脳動脈であることは明白であり、これを後下小脳動脈と誤認した被控訴人Hは基本的知識に欠ける旨主張する。しかしながら、顕微鏡下での操作が要求される本件手術において圧迫血管が前下小脳動脈か後下小脳動脈かを区別することは困難であるし、その同定は本件手術の遂行上重要な事項であるとはいえず、上記主張は採用できない(なお控訴人らは、本件剖検報告書の記載から、圧迫血管が前下小脳動脈であることは明白である旨主張するが、出血性閉塞を生じた小脳虫部は後下小脳動脈の支配領域であること《浅野鑑定》からすれば圧迫血管は後下小脳動脈である可能性が高いといえるものの、他方前記のとおり本件剖検報告書には前下小脳動脈による神経圧迫と記載されており、同記載も無視できないことからすれば、いずれであるかについて的確に認定できない。ただし控訴人らは、後頭蓋窩右の丸い低吸収域は前下小脳動脈の支配領域であるから同動脈が圧迫血管である旨主張するが、仮に同領域が前下小脳動脈の支配領域であるとしても前記のとおり上記低吸収域が発現したのは小脳虫部の血腫より後であるから圧迫血管の根拠となるものではない。)。
(3) 以上の点に、脳内血管の操作は微妙なものがあり愛護的に操作すべきことが強調されていること(浅野鑑定)、被控訴人H本人、同G本人、証人松本らの供述中に特に上記の点の認識が欠落して手術が困難であるなどの事情により無理な操作をしたことを窺わせる部分はないことを総合すると、未だその真実性の確信につき通常人が疑いを差し挟まない程度に、手術器具の不正な操作により出血性梗塞を惹起させたことを是認し得る高度の蓋然性が証拠上認められるとはいえない。よって控訴人らの上記主張は採用できない。
(八) なお控訴人らは、被控訴人らが従前Iの死因を高血圧性脳内出血である旨主張しながら、当審においてこれを変更し後下小脳動脈内側枝の閉塞及び再開通による出血性脳梗塞である旨主張を変更したが、これは時機に遅れた防御方法の提出であり、被控訴人らには故意または重過失がある旨主張する。しかしながら、本件訴訟の経緯、進行状況に照らせば、被控訴人らにおいて浅野鑑定がなされるまでのより早期の適切な時期に同主張を提出することを期待できる客観的事情があったのに、これをしなかったということはできないから、上記防御方法の提出が時機に遅れたといえないし、またこれにより新たな証拠調が必要となり訴訟の完結を遅延させるともいえないから、同主張は採用できない。
2 争点(一)(3)(手術続行の判断の当否)について
控訴人らは、本件手術は通常の場合よりも長時間を要しているが、このような場合、当然脳ベラによる牽引時間も長時間になり、重篤な小脳腫脹を生じる確率も飛躍的に高まるのであるから、被控訴人Hらは本件手術を強行すべきではなかったのであり、手術続行についての判断を誤った旨主張し、控訴人Aも、被控訴人Gが本件手術後控訴人Aらに対し、本件手術はIの首が短く筋肉が非常に厚かった上、骨も厚かったことから、頭蓋骨に穴を開けて顔面神経と血管を剥離する手術に掛かるまでに五時間もの時間を要した等と説明した旨供述する。
しかし、前記認定のとおり、Iの手術に約六時間を要したのは頭蓋内硬膜に達するまでに時間を要したためであって、硬膜内手術の所要時間は一時間程度であって長時間とも認めることはできず、さらに脳ベラによる牽引等が長時間に及んだとは認められないこと、カルテによれば被控訴人Hの硬膜内の手術に困難を極めた旨の記載は窺えないことからすれば、被控訴人Hらにおいて手術を中止すべき義務があったとはいえず、同主張は採用できない。
そして小脳虫部に血腫を生じた機序が前記のとおりであることからすれば、本件手術の続行自体と上記出血との間に因果関係があるとも認めることはできない。
3 争点(三)(手術適応の存否)について
控訴人らは、神経減圧術が生命を失う可能性のある危険な手術であるならば、Iの顔面けいれんの症状の程度、及びIの本件手術前の血圧状態等からすれば、Iは本件手術の手術適応の状態にはなかったと主張する。しかしながら、前記争いのない事実のとおり、Iは昭和五二年ころから顔面けいれんに罹患し、針治療等を受けたが効果がなく、三度にわたり神大病院麻酔科で神経ブロック法による治療を受け一時その効果はあったものの再発を繰り返し、さらに再発までの期間も次第に短くなって症状も悪化してきたことから、神大病院麻酔科の医師から本件手術を受けることを勧められ、神大病院脳神経外科に紹介されて昭和五七年一月二九日同科を受診し、同科で神経減圧術についての説明を受けて同手術を受けることを希望したものであるから、Iの症状は執拗であり、かつ本人にとっては相当の精神的・肉体的苦痛を伴うものであったと認められる。また本件手術当時から神経減圧術については、術後合併症として聴力障害、顔面神経麻痺、耳鳴、髄液鼻漏、小脳内血腫、後頭部硬膜外血腫等を生じる可能性があり、手術患者の死亡例が報告されたこともあるが、顔面けいれんの根治手術として認知されており(前記争いのない事実)、証人白馬も、現在では顔面けいれんに対しては神経ブロック法よりも神経減圧術を主に行うことにしている旨供述しており、これと甲34、68の2、乙16によれば神経減圧術は顔面けいれんに対する確立した治療法として広く施行されてきたもので、むしろ薬物療法に対しては治療効果に疑問が呈されていることが認められる。そうすると、開頭手術としての神経減圧術の一定の危険性及び顔面けいれん自体が直ちに死を惹起するような病気ではないことを勘案しても、神経減圧術はIが罹患していた程度の顔面けいれんに対して手術適応がないということはできない。
近藤鑑定は、まず薬物投与による内科的治療が原則であるとし、これに沿う甲68の6、78があるが、前記事実に照らして採用できない。
控訴人らは、Iは手術前から血圧が若干高い傾向にあったことからすると本件手術は手術適応を欠くものであったと主張する。しかしながら、前記認定判断のとおり、Iの小脳病変は高血圧性脳内出血に起因するものではないが、手術中脳幹虚血により血圧が上昇したことが上記病変の一因となっているところ、甲3によればIは昭和五二年から五五年までの健康診断においては、血圧値の異常は特に指摘されておらず、ただ昭和五六年八月一日施行の健康診断において血圧値一四二/九六とされ血圧精密検査の指示を受けたものの、本件手術前は治療を要する状態ではなかったこと(控訴人A本人)、カルテによれば、本件手術前の昭和五七年五月七日に、被控訴人らは神大病院第一内科に高血圧に関して症状の診察依頼をしており、その結果は「本日の血圧値は一三〇/八〇で、心電図変化もなく特に降圧剤の必要はない。」というものであり、五月一四日の時点でも一三〇ないし一四〇/八〇ないし九〇と比較的安定していたことが認められ、これらの事実を総合すると、Iに対し本件手術を施行することが不適切な状況にあったということはできず、控訴人らの上記主張は採用できない。
4 争点(二)(説明義務違反の有無)について
控訴人らは、顔面けいれんは生命には別状がなく、緊急性もなかったのに対し、神経減圧術は場合によっては生命を失う可能性のある危険な手術であるから、被控訴人Hらは、本件手術を施行するに先立ち、神経減圧術の危険性、とりわけ生命の危険性について分かりやすく具体的に説明する義務があったのに、実際には各種検査結果や顔面けいれんの機序、本件手術の方法についての説明のほか、どのような外科手術にも伴う一般的な危険性の説明をしたに止まり、神経減圧術が小脳を触る手術であって生命を失う可能性のある危険な手術であるとの説明をしなかった旨主張し、控訴人Aは、昭和五七年五月七日に本件手術についての説明を被控訴人H一人からI及びAが短時間受けたにすぎず、その際生命に関わる危険については、麻酔によるショック、血圧の急上昇及び感染症により死亡する場合があると説明されただけであって、脳浮腫や血腫等の発生の可能性や開頭術により死亡したり植物人間になる確率等については何ら説明を受けていない旨供述する。
しかしながら、後頭蓋窩開頭術が身体の他の部位に対する手術に比べてより大きい危険性を伴うものであることは一般に理解されているところであるところ、被控訴人HらはI及び控訴人Aに対し、Iを診察していた際と本件手術直前の昭和五七年五月一五日の午後一時から三時ころまでの間に本件手術の説明を行っており、検査結果や顔面けいれんの機序、脳に対する手術であるから危険性は他の部位の手術より高く、手術により死亡したり植物人間になる確率は一〇〇人中一、二例あること、脳外科手術に特有の合併症として脳浮腫になったり術後に血腫ができることがあり、これらはおおむね術後四八時間以内に発生するが、その場合は緊急の再手術を行うこと等を説明した旨供述しているところ、①カルテによれば、五月一五日欄に「手術の適応と現状の説明、手術の手技、手術の合併症(後頭蓋窩であることを追加強調)」との記載があること、また同日付けで現在の状況、手術の必要性や方法、合併症及び危険性について説明を受けたうえで、右後頭開頭術、右顔面神経減荷術の施行を承諾する旨の手術承諾書がIを本人、控訴人Aを保証人として同人らの署名捺印の下に作成されていることが認められること(なお、控訴人Aは、手術承諾書には昭和五七年五月七日に署名捺印しており、その時には説明の内容、手術名等の手書き部分には何ら書き込みがされていなかった旨供述するが、要点部分が白紙の承諾書に署名捺印することは不自然といわざるを得ず、これを否定する被控訴人Hらの供述に照らしても、右控訴人Aの供述を採用することはできない。)、②控訴人Aは、術前検査の脳血管撮影の際には、一万件に一ないし二例の死亡例がある旨の説明を受けたと供述しているところ、術前検査の説明の際にはこれによる死亡の確率についてまで説明しながら、より危険性の大きい本件手術の説明の際に、本件手術特有の危険性やこれによる死亡の確率についての説明が全くなかったというのも不自然であること、以上の点に照らせば、被控訴人Hらの上記供述は信用でき、控訴人Aの供述は採用できない。
以上の事実によれば、Iや控訴人Aにおいて本件手術を受けるか否かを判断するうえで最低限必要な説明はなされていたものと解すべきである。
もっとも、前記のとおりIに上行性ヘルニアを生じた原因は動脈に対する操作に起因する脳動脈の塞栓症で、通常はこれのみによって生命に危険を及ぼすことはないのに、著明な血圧上昇により大きな出血性梗塞を形成したものであるところ、その具体的危険についての説明は被控訴人HらにおいてI及び家族にしていないことが認められる(被控訴人Hら、弁論の全趣旨)。しかしながら、手術の危険性について前記程度の説明がなされていれば患者及び家族にとって当該手術を受けるか否かの決定をすることは可能であって、医師において考えられる具体的な機序を全て詳細に説明する法的義務まで負うものとは解されないので、控訴人らの上記主張は採用できない。
5 争点(一)(4)(減圧術の適否)について
控訴人らは、本件では後頭蓋窩外圧術が施行されたが、減圧開頭術では大後頭孔を十分に開放する必要があるのに、Iに対して減圧開頭を施した部分は右側の小さな箇所で開頭が正中にまで達しておらず不十分であり、また昏睡や除脳硬直を見る例では後頭下開頭術を行い小脳葉内血腫除去ないし小脳半球除去をすべきであった旨主張し、近藤鑑定にはこれに沿う意見がある。
しかしながら減圧開頭が不十分であったとの点については、乙17には大後頭孔を十分に開放して減圧開頭術が実施された例が紹介されているが、常に十分な開放をすることが必要である旨の記述でもなく、また近藤鑑定も血腫除去などの内減圧と併せて骨弁除去を十分にすべきであった趣旨を述べているにすぎないから、直ちに同義務があるとはいい得ないし、Iの前記症状の推移に照らすと、同措置をとることにより症状の改善あるいは救命が得られた可能性があったとは証拠上認めることはできず、同主張は採用できない。
血腫除去及び小脳半球切除術をすべきであったかについては、甲14、33の3、54の2には脳室ドレナージ術及び後頭蓋窩外圧術とともに小脳半球を切除すれば救命の可能性がある旨の記載があり、浅野鑑定は鑑定事項になかった関係で上記の点について意見を披瀝していないが、同様の症例で後頭下減圧術を施行した後小脳壊死部を切除して救命された事例を紹介している。他方では小脳半球の切除は昭和五八年ころから余り行われなくなった旨の記載もあり(上記甲33の3)、乙17には「脳幹部梗塞を伴わない小脳梗塞については外科的減圧術により救命可能で社会復帰し得るもので、梗塞巣切除術は必要がないが、脳幹部梗塞に至ると外科的減圧術の予後は不良である。」旨の記載がある。以上の証拠に基づき検討すると、本件では小脳半球切除術などによりIを救命できた高度の蓋然性があるとまでは認めることはできないが、なお救命できた相当程度の可能性はあったものというべきである(乙17は脳幹部梗塞に至らない場合の事例紹介であって、本件には適切でない。)。
そしてカルテ及び被控訴人H本人によれば、被控訴人Hは後頭蓋窩開頭術を施行した際、第一頸椎の椎弓を除去したが、小脳半球切除については脳浮腫を促進する危険もあるとの考えからこれを行わなかったことが認められる。しかし、前記のとおり五月一七日のCTスキャン検査上上行性ヘルニアは既に発生し、かなり進行している状態にあり、その後も日時の経過に伴いCT所見上血腫及び浮腫が悪化しており、またカルテによれば、五月一九日夕刻にはIは散瞳、過度熱、呼吸不全などが発現していたのであるから、被控訴人Hらは、遅くとも同時点では上行性ヘルニアを疑うべきであるのに、脳室ドレナージ術及び後頭下減圧開頭術の機能が良好であるとして同ヘルニアの発生を否定し、以後保存的治療に終始したものである。甲14によれば、テント切痕ヘルニアの治療時期について、不可逆性の脳幹出血のため手術・治療の時期を失すると意識が回復しないが、中脳の不可逆性変化はほぼ両側瞳孔が散大する時期であると認められるから、上記時点ころには上記小脳半球切除をする機会を失したものである。もとより同切除術を行うか否かはこれにより救命される可能性の有無や、後遺障害が不可避であることとの関係で、具体的事例に即して判断されるべきであり、最終的には患者の家族に説明した上その同意を得て実施すべきものであるが、本件において脳室ドレナージ及び後頭下減圧開頭術によっては結局十分な治療効果を得られず、他方小脳半球切除術によれば救命の可能性はあったのであるから、担当医師としては、Iの家族らにIの病状の程度、上記手術の内容及び必要性、これにより期待される効果や危険性などの説明をして同意を得たうえ小脳半球切除術の実施をすべきであったと認められる。したがって、この点で被控訴人Hらには執刀医及び補助者としての過失があったといわざるを得ない。
6 そして、前記のとおり、小脳半球切除術を実施したとしても客観的にIを救命し、あるいは本件の死亡時には生存し得た蓋然性があったとまでいえないから、同過失とIの死亡の結果との間に相当因果関係があると認めることはできないが、同手術を受けていればIはその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性は認められるものである。結局Iは被控訴人Hらの過失により同治療を受ける機会を奪われたもので、同被控訴人らはIの生命維持の可能性という法益を侵害したことにより不法行為責任を負い、被控訴人国は被控訴人Hらの使用者として使用者責任を負うというべきである。
損害については、上記法益侵害によりIは多大な精神的苦痛を被ったというべきであり、本件に現れた一切の事情を考慮すると、Iの同精神的苦痛を慰謝するための慰謝料は一〇〇〇万円と評価するのが相当である(控訴人らは、さらに近親者としての独自の慰謝料請求もするが、本件事案に鑑みて、上記過失と相当因果関係のある慰謝料はIの精神的苦痛に対するものに限定するのが相当である。また逸失利益及び葬儀費用については、上記のとおり被控訴人Hらの過失とIの死亡との間の因果関係は認められないので否定すべきである。)。
本訴の提起遂行のための弁護士費用は、控訴人Aがその主張のとおり負担したことが認められ(弁論の全趣旨)、その認容額、本件訴訟の経緯、要した期間、難度などの諸般の事情を考慮すると二〇〇万円をもって相当と認める(なお遅延損害金の起算日は控訴人Aの主張によれば、着手金を支払った日の翌日である昭和五八年一月二〇日である。)。
7 以上によれば、控訴人らの本件請求は上記の限度で理由があるから認容すべく、その余は失当として棄却すべきである。よってこれと一部異なる原判決を変更して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・武田多喜子、裁判官・松本久 裁判官・正木きよみは転任のため署名押印できない。裁判長裁判官・武田多喜子)