大阪高等裁判所 平成13年(ネ)2083号 判決 2002年1月25日
主文
1 本件控訴及び請求の拡張に基づき,原判決を以下のとおり変更する。 被控訴人は控訴人に対し,金198万円を支払え。
2 訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人の負担とする。
3 この判決は,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1当事者の求めた裁判
1 控訴人
主文同旨。
2 被控訴人
(1) 本件控訴を棄却する。
(2) 控訴費用は控訴人の負担とする。
第2事案の概要
1(1) 本件は,控訴人が,原判決別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)に設定された抵当権(以下「本件抵当権」という。)の物上代位権を行使して,本件建物の賃料債権を差し押さえ,被差押債権の取立権(民事執行法155条)に基づき,被控訴人(借家人)に対し,平成11年2月分から同年12月分までの賃料の支払を求めている事案である(原審では,平成11年11月分までの請求であったが,当審で,新たに12月分の請求を追加し,請求を拡張した。)。
(2) 原判決は,
「ア(ア) 賃貸借契約と敷金契約には密接な関係があり,事実上,敷金の差し入れがなければ賃貸借契約が成立しないという特殊な関係に立つ。抵当権者が賃料債権に物上代位権を行使できたのは敷金が差し入れられて賃貸借契約が成立したことによるから,賃料債権の差押えとその取立てを敷金の回収に優先させるのは衡平を欠く。
(イ) 敷金返還請求権は,賃貸借契約が終了して,目的物の明渡しがなされた時点で,敷金の被担保債権一切を当然に控除し,なお残額があることを条件に具体的に発生するものであるから,建物明渡時に未払の賃料債権がある場合には,当然に敷金から控除されて消滅することになる。したがって,敷金の授受がなされる賃貸借契約においては,その賃料債権は当初から敷金と当然に差引控除されて消滅する可能性のあるものとして発生しており,差押えがなされたからといってその属性に変化を生じるものではないと解すべきである。
(ウ) このような敷金返還請求権の特殊な性格に照らすと,当該賃貸借契約が詐害的短期賃貸借に該当する等,敷金の回収を優先させるのが相当とはいえない特段の事情が認められない限り,物上代位による差押えの制約を受けないと解するのが相当である。
イ(ア) 本件は,詐害的短期賃貸借であるとか,被控訴人の敷金回収を優先させることが相当でない特段の事情が認められる場合であるとはいえない。
(イ) また,被控訴人が賃料の差押えを受けた後,敷金額に満つるだけの期間,賃料を支払わないまま本件建物に居住し続け,その後,退去したという点に関しても,差押えを受けて賃貸人の資力不足,信用不安が顕在化し,賃借人の敷金の回収に不安が生じた後は,賃借人が賃料を不払にしたまま賃貸建物を使用することが明らかに不合理であるとまでは言い難い(予め敷金返還請求権と賃料債権の相殺予約や相殺合意がなされることが少なくない点から考えても,敷金の実質的回収を図ることが通常の賃貸人の意思に反するとはいえない。)。
ウ 以上によれば,本件は,最高裁平成13年3月13日第3小法廷判決・民集55巻2号363頁(以下「最高裁判決」という。)の射程外の事案であり,控訴人が差し押さえた賃料債権のうち,敷金180万円から敷引分54万円を差し引いた残額126万円分については,未払賃料から当然に差引控除されて消滅することになるので,控訴人が差し押さえた賃料債権の残額は54万円となる。」旨判示し,控訴人の請求を54万円に限って認容し,その余を棄却した。
(3) 控訴人は,原判決を不服として本件控訴に及ぶとともに,前記のとおり,請求の拡張を行った。
2 前提となるべき事実,争点及び争点に関する当事者の主張は,原判決の事実及び理由,第二の一,三記載のとおりであるから,これを引用する。
ただし,原判決の事実及び理由,第二の三1(原判決7頁6行目始めから同10行目終わりまで)を以下のとおり改める。
「1 争点 被控訴人は,『平成11年12月末日をもって本件賃貸借契約を解約し,同日限りで,本件建物から退去したので,解約に伴う敷引きを控除しても,返還されるべき敷金が126万円存在し,賃料債務は同額の範囲で当然消滅することになるので,控訴人の請求金額から同額が控除されなければならない。』旨主張する。したがって,本件の争点は,被控訴人のこのような主張を正当なものとして是認できるか,という点にある。」
3 当審における当事者双方の主張
(1) 控訴人の控訴理由
ア 原判決は,①敷金と賃貸借契約との密接な関係,②借家人の敷金返還への期待,③未払賃料が敷金と相殺されるべき関係にあることを根拠に,本件が最高裁判決の射程外の事案である旨判示する。
イ しかし,以下のとおり,原判決が掲げる点は,最高裁判決の射程外であることの根拠とはならない。
(ア) 敷金の差入れは,事実上の慣行に過ぎず,賃貸借契約とは別個の契約である。また,抵当権者の物上代位と賃借人による相殺の優劣は,抵当権設定と債権取得の先後のみを問題とし,賃借人が賃貸借の成立に寄与した事情を考慮しないというのが最高裁判決の考え方である。したがって,上記①の点を根拠に,本件が最高裁判決の射程外であるというのは誤りである。
(イ) 最高裁判決は,賃料が物上代位の対象となることは抵当権設定登記によって公示されており,賃借人が同登記後に取得した債権を自働債権とする賃料債権との相殺をもって,抵当権者に対抗することができない旨明言する。したがって,上記②の点も,本件が最高裁判決の射程外であることの根拠とはならない。
(ウ) そもそも,敷金は,賃貸人が損害賠償請求権を担保するため,もっぱら賃貸人の利益のため差し入れられるものであるから,賃借人たる被控訴人がこれを有利に援用することは許されない。被控訴人は,控訴人に優先して自己の敷金を回収するため,自ら積極的に債務不履行状態を作出しており,このように不誠実な債務者を善意の控訴人の犠牲のもとに保護すべき理由はない。したがって,上記③の点も,本件が最高裁判決の射程外である根拠とはならない。
ウ 原判決は,善意の第三者の犠牲において,悪意により債務不履行を犯した者を保護し,債務不履行による利得で敷金に相当する経済的利益の回収を許すものであるから,到底容認できない。
エ 以上のとおり,原判決は最高裁判決に明らかに反するうえ,結論においても不当であるから,これを取り消したうえ,控訴人の請求が認められなければならない。
(2) 被控訴人の反論
ア(ア) 最高裁判決の事案は,賃借権が詐害的要素の高いものであるうえ,相殺に供される債権も一般債権であった。
(イ) ところが,本件は,正常な賃貸借であり,問題となっている債権も敷金返還請求権である等,全く事案を異にする。
(ウ) 現に,最高裁判決の評釈者の多くは,同判決の射程は,敷金返還請求権には及ばず,これを抵当権者の物上代位権に優先させたとしても,抵当権者に与える不利益は小さく,抵当対象不動産の円滑な利用を進めるためにも,保護されなければならないとの意見を述べている。
(エ) したがって,本件は,原判決が述べるように最高裁判決の射程外の事案である。
イ 控訴人は,本件建物の競売も申し立てており,被控訴人が本件建物の賃貸借を終了させて明け渡したことにともない,本件建物の売却価格が上昇するという利益を受けている。仮に,賃料と敷金返還請求権との差引計算が認められなければ,被控訴人の敷金返還への期待が裏切られる一方,控訴人は2重に利得することになり,その不当性は明らかである。
ウ なお,控訴人は,「不誠実な債務者を善意の第三者の犠牲のもとに保護すべきではない。」旨主張する。被控訴人は,正常な賃借人であり,善良な賃借人として保護されて然るべきである。本件のように,控訴人によって賃料の差押えがなされ,賃貸人の資力悪化が明らかになった場合には,賃借人は,敷金返還請求権を確保するため,信義則上,賃料の支払を拒絶できるものと解すべきであり,賃料差押え後の敷金相当部分の賃料不払に違法性はない。
エ 以上のとおり,原判決は極めて正当なものであって,本件控訴には理由がないので,本件控訴は棄却されなければならない。
第3当裁判所の判断
1 当裁判所は,控訴人の本訴請求は理由があり,その大半を棄却した原判決は相当でなく,これを変更のうえ,本訴請求を全部認容すべきものと判断する。その理由は以下のとおりである。
2 前記第2,2で引用した事実(前提となるべき事実)によれば,①控訴人が平成11年1月22日以降本件賃料の取立権を取得したこと(民事執行法155条1項),②被控訴人が同年12月末日まで,本件賃貸借契約に基づき本件建物を占有していたことが明らかである。そうすると,被控訴人は控訴人に対し,平成11年2月分以降同年12月分までの各賃料(以下,具体化しているこれらの債権を「本件各賃料」という。)を支払わなければならない。
3(1) 被控訴人は「平成11年12月末日をもって,本件賃貸借契約を解約し,同日限りで,本件建物から退去しているので,本件賃貸借契約等の内容を規定した不動産賃貸借契約書5条の定めに従い,本件各賃料から解約に伴う敷引き後の敷金(126万円。以下「本件金員」という。)が当然差し引かれることになるから,本件各賃料のうち,本件金員相当額は既に消滅している。」旨主張する。
(2) ところで,不動産賃貸借契約書5条(乙1)には,概略以下の定めがある。
ア 被控訴人は,保証金(敷金)として,180万円を訴外伊原芳雄(貸主,以下「賃貸人」という。)に支払う。
イ 被控訴人退去の場合,賃貸人は,保証金(敷金)から解約引(54万円)及び下記(ア)ないし(エ)の金額を控除した残額を被控訴人に対して返還する。下記(ア)ないし(エ)の金額に不足する場合は,被控訴人は直ちに不足額を賃貸人に納付しなければならない。
(ア) 未納の家賃
(イ) 延滞損害金
(ウ) 自然損傷以外の補修及び損耗費
(エ) その他借主の負担すべき費用
ウ 保証金(敷金)には利息を付さず,その返還時期は退去後1ヶ月以内とする。
(3) 上記によれば,被控訴人が賃貸人に交付した保証金(敷金)名目の金員のうち,本件金員部分は,被控訴人が本件賃貸借契約において,明渡終了時までに賃貸人に対して負担する一切の債務を担保するため交付された「敷金」であると認められる。
(4)ア 被控訴人は,本件賃料債権が差し押さえられたため,賃貸人による将来の敷金返還請求権の履行に不安を抱き,本件各賃料の支払を拒んだうえ,本件建物を明け渡すことにより,本件各賃料と本件金員との差引可能な状態を作り出すことによって,敷金返還請求権の実質的実現を図ろうとしているものと認められる。
イ ところで,最高裁判決は,「抵当権者が物上代位権を行使した後は,抵当不動産の賃借人は,抵当権設定登記の後に賃貸人に取得した債権を自働債権とする賃料債権との相殺をもって,抵当権に対抗することはできない。」旨判示している。同判決の趣旨は,相殺には担保的機能が認められるところ,抵当権と相殺の担保としての優先劣後は,反対債権を取得することによって相殺の期待が具体化した時期と,抵当権設定登記の先後により決するのが相当であるという点にあるものと解される。
ウ 本件賃料債権の差押えは,平成3年3月29日に設定登記済みの本件抵当権の物上代位権の行使としてなされたものであるから,本件各賃料に直接本件抵当権の効力が及ぶことになる。差引処理も一種の相殺合意であるから,被控訴人の本件各賃料と本件金員(敷金)の差引処理への期待も担保的機能に対する期待といえるので,最高裁判決がそのまま当てはまる。そうすると,本件賃貸借契約が締結され,本件金員等が納付されたのが平成6年4月28日である(乙1)以上,その余の点を論ずるまでもなく,被控訴人の期待が本件抵当権との関係で保護に値しないものであることは明らかである。
エ 被控訴人は「敷金と賃貸借契約の密接な関係に照らすと,敷金については別段の配慮がなされるべきである。」旨主張し,原判決もこれにそう判断をしている。
しかし,本件賃貸借契約は,本件抵当権の設定登記後に締結されたものであるから,本件賃貸借契約は元々本件抵当権を害しない限度で保護を受けるにすぎず(民法395条但書参照),本件賃貸借契約に付随する敷金契約も,本件抵当権を侵害する形では認められないことが明らかである。上記アのような態様で敷金の返還請求を認めることは,この限りで本件抵当権を害し,担保法秩序を乱すことになるから,許されないものといわなければならない。そして,被控訴人の主張する敷金の保護を巡る議論が,本件に当てはまるともいえない。
したがって,被控訴人の主張は理由がなく,これを認めた原判決は相当とはいえない。
4 結論
以上のとおり,被控訴人の「本件各賃料の大半が敷金と差し引きされ,消滅している。」旨の主張には理由がなく,控訴人の本訴請求は,正当であるから,全部認容すべきである。よって,これと結論を一部異にする原判決は相当でないので,本件控訴及び請求の拡張に基づき,これを変更することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大谷種臣 裁判官 佐藤嘉彦 裁判官 和田真)