大阪高等裁判所 平成14年(う)200号 判決 2002年7月09日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は弁護人北山真の控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官作成の答弁書に各記載のとおりであるから、これらを引用する(なお、弁護人は、(1)控訴趣意書の第1は、訴訟手続の法令違反ではなく、本件については正当防衛が成立するか、又は少なくとも過剰防衛が成立するのに、そのいずれをも認めなかった原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるという趣旨であって、同第1の1の審理不尽の主張も、同様の趣旨であり、また、同第1の2の(3)の記載中に理由不備とあるのは、独立した控訴趣意ではなく、事実誤認の一事情をいうものであり、(2)控訴趣意書の第3は、仮に本件傷害につき被告人が有罪であるとしても、懲役刑をもって臨んだ原判決の量刑は重きに過ぎ、被告人に対しては罰金刑を選択すべきであるという趣旨であると、それぞれ釈明した。)。
第1控訴趣意中、事実誤認の主張について
論旨は、要するに、原判決は、被告人がA(当時32歳)に対し、その胸倉をつかんで押し倒して馬乗りになる等の暴行を加え、その結果、同人に全治までに約180日間を必要とする左脛骨外側高原骨折、左膝外側半月板断裂の傷害を負わせた旨認定しているが、被告人は自ら意図してそのような暴行を加えたことなどなく、真実はAの一方的暴行に対してもっぱら防衛に終始していたものであり、また、仮に被告人に押し合いあるいは引っ張り合いという限度で暴行の実行行為性が認められ、これによってAが転倒し、原判示傷害の結果が発生したとしても、前記弁護人の釈明(1)のとおり、被告人の行為は正当防衛行為又は少なくとも過剰防衛行為に当たるから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討するに、関係証拠によれば、本件の経緯として次の事実が認められる。
1 被告人は、本件当時、入院患者の搬送等を業とする株式会社「B」に勤務し、上司であるAと共にその業務に従事していた。
2 被告人は、平成13年4月13日午前8時15分ころ、出社してきたAから、前日同人に断りなく退社したことを詰問されて、謝罪し、その後、同人の運転する業務用車両に同乗して、上記搬送業務に出掛けた。
3 そして、同日午前8時35分ころ、走行中の車中で、かねてから被告人の自己に対する態度を快く思っていないこともあって収まらないAから、再度、「お前、なめとんか。しばくぞ。」などと言われた上、胸倉をつかまれた。
4 その際、Aがそのつかんだ手を容易に離さなかったことから、被告人はAの左頬を1回殴打した。そうしたところ、同人が車を止め、二人が車外に出て互いに胸倉をつかみ合う事態となったが、たまたま付近に人通りがあったことから、Aが「仕事終わったら残っとけ。」と言い残して乗車し、その場はいったん収まった。
5 その後、二人は、気まずい雰囲気はあったものの、何事もなく仕事を終え、同日午後2時30分ころ、被告人の運転で前記会社に戻り、Aの誘導で同会社の駐車場に車を入れ、停車させた。
6 ところが、その直後、先に降車したAは、いきなり車外から運転席のドアを開けて、被告人の胸倉をつかみ、被告人が着用していたワイシャツの左胸辺りが大きく引き裂かれるように破れたのも構わずに、「降りてこい。」「さっき殴ったのう。」と怒鳴り付けて、被告人を運転席から引きずり出した。
7 そのため、被告人もAの胸倉をつかみ返し、互いに胸倉をつかみ合ったまま、Aが被告人に押されるようにして五、六歩後ずさりしたが、その際、左足を捻るようにしてAがその場に倒れ、左膝付近をコンクリート面に打ち付けた。そして、被告人も反動で、Aの体の上に馬乗りになるように倒れ込んだ。
8 Aは、上記のように倒れ、左膝を打ち付けた衝撃で、全治約180日間を要する左脛骨外側高原骨折、左膝外側半月板断裂の傷害を負った。
以上の事実が認められ、Aの検察官調書及び警察官調書中これに反する部分は、それ自体、内容が不自然で、相互に矛盾もあることに加え、捜査段階からほぼ一貫している被告人の供述に照らしても、信用できない。
以上認定の事実からすると、本件でAが転倒し受傷したのは、被告人がAの胸倉をつかんで押すという有形力を行使したためであって、この両者の間に因果関係の存することは明らかである。しかしながら、他方、被告人がそのような暴行行為に出たのは、駐車場に戻ってきた直後にいきなりAから強い力で胸倉をつかまれ、自動車の運転席から引きずり降ろされた上、なおも胸倉をつかんで攻撃を続けようとする同人との間でもみ合いとなって、自己の身体に対する危険を感じたためである。しかも、本件では、被告人がAに対しそれ以上特段の攻撃を加えたと認めるに足りる証拠はない。そうである以上、被告人の上記行為は、自己の身体を防衛するため、やむを得ずにした行為であり、また、その程度も、防衛手段としての相当性の範囲を超えていないとみるべきである。
これに対し、検察官は、本件が、被告人とAとの当日午前中のけんかの延長であって、双方がその日の仕事を終えてからこの決着を付けることを合意していたもので、正に予想された事態であり、「侵害の急迫性」や「防衛の意思」を欠き、正当防衛は成立しないと主張する。しかし、検察官が主張するような合意の存在は、これを認める証拠がない。確かに、午前中の二人の言動からすると、Aの午後の攻撃は予想された事態といえる面があることは否定できないが、Aと被告人とは職場の上司と部下という関係にあり、当時ほとんど一緒に仕事をしていたことや、午前の出来事から約6時間が経過し、その間共に仕事もしていたことを考え併せると、被告人が当審で弁解するように、被告人としては話し合いでの解決を考えていたこともまた否定できないから、たとえ、Aの行為が一面において予期された侵害であったとしても、被告人が終始Aの行為に対応する範囲内の行為しかとっておらず、その機会を利用し積極的にAに対して加害行為をする意思まで認めることのできない本件では、被告人において予期していたという一事をもって、その「侵害の急迫性」を否定することはできない(最高裁昭和52年7月21日第1小法廷決定・刑集31巻4号747頁参照)。なおまた、「防衛の意思」の存在についても、前説示のとおりである。したがって、検察官の主張は採用できない。
以上の理由により、被告人の本件行為は刑法36条1項にいう正当防衛行為に当たると考えるが、それにもかかわらず、被告人に対し傷害罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるといわなければならない。論旨は理由がある。
そうすると、原判決は、その余の控訴趣意について判断するまでもなく、破棄を免れない。
第2破棄自判
そこで、刑訴法397条1項、382条により原判決を破棄し、同法400条ただし書により更に判決することとする。
本件公訴事実の要旨は、「被告人は、平成13年4月13日午後2時30分ころ、神戸市C区D通E丁目F番G号の駐車場で、勤務先の上司であるA(当時32歳)から自動車の運転席から引きずり出されたことに立腹し、Aに対し、その胸倉をつかんで押し倒して馬乗りになるなどの暴行を加え、その結果、同人に全治約180日間を要する左脛骨外側高原骨折、左膝外側半月板断裂の傷害を負わせた。」というものであるところ、前記のとおり、本件被告人の行為は正当防衛行為に当たり、罪とならないから、刑訴法336条前段により被告人に対し無罪の言渡しをする。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 白井万久 裁判官 大西良孝 裁判官 磯貝祐一)