大阪高等裁判所 平成14年(ネ)1421号 判決 2003年6月27日
主文
1 原判決を次のとおり変更する。
2 被控訴人は,控訴人に対し,110万円及びこれに対する平成10年7月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 控訴人のその余の請求を棄却する。
4 訴訟費用は,第1,2審を通じ,これを10分し,その1を被控訴人の負担とし,その余の控訴人の負担とする。
5 この判決は,第2項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1申立て
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は,控訴人に対し,1000万円及びこれに対する平成10年7月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
事案の概要は,次のとおり付加,訂正するほか,原判決の「事実及び理由」中の「第2 事案の概要」に記載のとおりであるから,これを引用する。
1 原判決2頁5行目末尾に「なお,控訴人は,当審において,被控訴病院の上記過失又は注意義務違反とAの死亡との間に相当因果関係が認められない場合であっても,適切な治療を受ける期待権が侵害されたことによる慰謝料(1000万円)の損害が認められるべきであるとの主張を追加した。」を加え,同頁23行目から24行目にかけての「暴れていた」を「倒れた」と改める。
2 同3頁1行目の「看護婦」の次に「(現在の名称は看護師。以下同じ。)」を加え,同頁25行目の「8日」を「9日」と改める。
3 同4頁10行目の「紙オムツ」 の次に「とパッチ」を加え,同行の「状態であった」を「状態であり,Bが運転し,控訴人が助手席に乗り,Aを後部座席に横に寝かせて,大阪に向かった」と改め,同頁12行目から同頁17行目までを次のとおり改める。
「イ 平成10年1月9日午後10時ころ,大阪に着いたが,BがAをこのまま病院に入院させたほうがよいと助言し,控訴人は,ただ連れて帰ることだけを考えていたものの,Bの意見にさからうとBがうるさいことから,一応Bの助言を聞くことに,浪速警察署に相談に行くことにした。浪速警察署の担当者は,控訴人の話を聞き,大阪府茨木市所在のC病院に電話で入院依頼をしたが,重症観察室が満床のため直ぐには入院できないとのことであり,その旨を控訴人に説明した。控訴人は,入院ができないのであれば連れて行く意味はないと考えたものの,とりあえずC病院に行くことにし,同日午前2時30分ころ,C病院に到着した。控訴人がC病院の担当者に対し,入院の受入れを要請したが,担当者から,重症観察室が満床であり直ぐに入院できないが,診察だけなら可能である旨の説明を受けた。控訴人は,診察だけであれば意味がないと考え,裸同然の姿をしているAを連れ出すことが嫌だったこともあり,診察を断った(甲12,原審における控訴人本人)。」
4 同5頁2行目の「された」の次に「。なお,行政解剖では,Aの血液中からヒルナミンやピレチアは検出されなかった」を加える。
5 同6頁1行目末尾に「また,被控訴病院が大阪の病院に連絡しなかったのは,控訴人が既に紹介状を持っていると説明しており,控訴人やBから連絡してほしいとの依頼がなかったからであり,適当な病院を探すことを含め,家族が責任をもって治療に参加することが精神科の治療上有用であるためでもある。」を加える。
6 同7頁22行目から23行目にかけての「バルンカテーテルをを」を「バルンカテーテルを」と,同頁末行の「起こすのこと」を「起こすこと」と,それぞれ改める。
7 同9頁1行目の「中毒」の次に「の可能性」を加え,同頁17行目末尾を改行の上,次を加える。
「 仮に,被控訴病院における治療とAの死亡との間に相当因果関係が認められないとしても,被控訴病院においては,控訴人がAを大阪まで安全に搬送することができ,かつ,大阪の病院での入院が確保されるまでの間,Aを被控訴病院に入院させ,適切な治療,看護をすべき義務があるところ,被控訴病院(D医師)は,控訴人のAを入院させてほしいとの要請を頑に拒否し,十分な検査をしないまま,受入先の病院が決まっていたわけでもないのに,大阪までAを連れて帰らせたのであり,上記義務に違反していたことは明らかであって,控訴人は,それにより耐えがたい精神的苦痛を被ったのであるから,慰謝料として1000万円は認められるべきである。」
第3当裁判所の判断
1 本件の事実関係について
本件の事実関係は,次のとおり付加,訂正するほか,原判決9頁末行から13頁15行目までに記載のとおりあるから,これを引用する。
・※ 原判決9頁末行の「16,」の次に「19,20,」を,同行の「7,」の次に「9,」を,それぞれ加える。
・※ 同10頁8行目の「患者を」の次に「強制的に」を,同頁18行目の「暴れており,」の次に「たまたま近くを通りかかった」を,それぞれ加える。
・※ 同11頁13行目の「原告」を「A」と改める。
・※ 同13頁1行目から同頁15行目までを次のとおり改める。
「ト 催眠鎮静剤としては,ベンゾジアゼピン系薬物,バルビツール酸系薬物などがあり,ハルシオンは前者に,イソミタールソーダは後者に属する。
ベンゾジアゼピン系薬物は,急性中毒時における安全性が高く,通常用量の100倍程度の過量服薬をしても,軽度の中枢神経系の抑制作用にとどまることがほとんどであるのに対し,バルビツール酸系薬物は,通常用量の5~10倍量(3~5g)で重篤な中毒症状を呈する危険がある。このため,現在では,バルビツール酸系薬物は,主として抗てんかん薬や麻酔薬として使用されており,外来患者の催眠・鎮静作用を目的として使用されることは少ない。バルビツール酸系薬物は,その作用時間により超短時間作用型,短時間作用型,中時間作用型,長時間作用型があるが,イソミタールソーダは,中時間作用型であり,作用時間は3ないし6時間,血漿半減期は14ないし42時間,致死量は2ないし3g,致命的血中濃度は10μg/mlである(甲7,8,19,乙6,原審における鑑定)。
ナ ハルシオンは,ベンゾジアゼピン系薬物であるため,ハルシオンが誘発した錯乱状態に対し,同一の作用機序を有するベンゾジアゼピン系薬物で治療することは,その錯乱症状を一層悪化させる可能性があり,これと異なる作用機序を持つバルビツール酸系薬物による催眠鎮静剤を投与することが合理的である。他方,ハルシオンの効果が切れかかった時には禁断症状として興奮を来すことがあり,禁断症状に対する治療薬は,持続時間の長いベンゾジアゼピン系薬物が適しており,バルビツール酸系薬物を投与すると,ハルシオン効果を急にかつ確実に絶ち切るため,禁断症状を誘発し,手のつけられない状態になることがある。また,アルコール依存症の患者がアルコールの気が切れかかった時(離脱時)に興奮を起こすことがあるが,アルコールの禁断症状に対する第1選択薬物としては,ベンゾジアゼピン系薬物が安全ですぐれているとされている(甲8,19,原審における鑑定)。
ニ ヒルナミンとピレチアは,いずれもフェノチアジン系薬物であり,前者は抗精神病薬で鎮静作用を有し,後者は抗パーキンソン作用等を有する。1回の投与量は,ヒルナミンが25㎎,ピレチアが5ないし50㎎である。いずれも,バルビツール酸誘導体・麻酔剤等の中枢神経抑制剤の強い影響下にある患者及び昏睡状態にある患者に対し投与することは禁忌である(甲7,19,乙4,5,9)。」
2 争点・ウ(鎮静剤の連続・重複投与を回避すべき義務違反の有無)について
上記認定の事実関係を前提として,被控訴病院が投与した薬物の適否につき検討する。この点については,原審において,E,F両医師による鑑定(以下「Eら鑑定」という。)が実施されているほか,当審において,控訴人からG医師による鑑定書(甲19。以下,甲20の意見書も含めて,「G鑑定」という。)が提出されている。
・※ まず,イソミタールソーダの投与の適否につき検討するに,D医師は,Aが来院時アルコールとハルシオンによる急性薬物中毒による急性錯乱状態にあり,アルコールとハルシオンの薬効を体外に排出させるため,Aに対し乳酸リンゲル液の点滴による強制利尿とハルシオンの拮抗薬であるアネキセートの静脈注射を行う必要があると判断したが,錯乱状態にあるAを鎮静化させる目的で,ハルシオンと異なる作用機序を持つバルビツール酸系薬物のイソミタールソーダを投与したものである。
この点につき,Eら鑑定は,適切な措置と認められると判断するのに対し,G鑑定は,Aの不穏な状態は,①ハルシオンの効果が切れかかった時の禁断症状,②アネキセートが投与されたことにより,アルコールによる興奮の誘発,③アルコールの気が切れかかった時の禁断症状が結合して発生したものと考えられ,バルビツール酸系薬物であるイソミタールソーダを投与したことは誤りであると指摘する。
Aは,岡崎市内のスナック店で飲酒中に,床に座り込んで歩行困難な状態になったため,スナックの店主から救急車の出動が要請され,被控訴病院に搬送されたが,たまたま現場付近に居合わせたH医師が,スナックの店主等から,Aがハルシオンを服用していたことを聞いていたので,被控訴病院のD医師に対しその旨伝えたというものであり,それ以上にAのハルシオンの服用時期や量,飲酒歴などの事実関係は明らかではない。G鑑定が指摘する原因によってAの不穏状態が発生した可能性も否定できないが,上記の事実関係からそのように断定することはできず,D医師において,H医師からの話を聞き,大声で叫ぶなどの興奮状態にあるAを診察した上で,アルコールとハルシオンによる急性薬物中毒による急性錯乱状態にあると判断したことは,一定の合理性があり,ハルシオンと異なる作用機序を持つイソミタールソーダを投与したことが誤りであるということはできない。
また,イソミタールソーダの投与量も極量を超えていたと認めることもできない。
・※ 次に,ヒルナミン及びピレチアの投与につき,Eら鑑定は,両剤ともイソミタールソーダとの併用投与には注意すべきであるが,イソミタールソーダの投与から10時間以上経過した時点で,ヒルナミン,ピレチアを投与することは,一般臨床上,併用とは考えにくく,平成10年1月9日午後4時39分の時点で,Aが覚せいし,飲水していることからすると,臨床的にヒルナミン,ピレチアの投与の禁忌である昏睡状態にあったとも考えられず,ヒルナミン,ピレチアの投与が不適切であるとはいえないとする。これに対し,G鑑定は,ヒルナミン,ピレチアを投与した時点のイソミタールソーダの血液中濃度につき,行政解剖の時点で8.5μg/mlであったことからすると,投与時点では10.5μg/mlより更に高濃度であったことが確実であり,Aはバルビツール酸誘導体の強い影響下にあったと考えられ,ヒルナミン,ピレチアを投与すること自体,禁忌ないし禁忌に極めて近い状態であり,しかも合計100㎎を投与したことは明らかに過量であるとする。
証拠(乙8)によると,大阪府監察医事務所において,ガスクロマトグラフ質量分析法により,Aの血液中のイソミタールソーダの成分であるアモバルビタールを測定したところ,1本のピークを検出し,定量すると8.5μg/mlであったが,このピークの吸収スペクトルを確認すると,アモバルビタール以外の物質も含まれていたことから,アモバルビタールは8.5μg/ml以下であると判定したことが認められる。そうすると,アモバルビタールは8.5μg/mlより少なかったのであるから,8.5μg/mlであったことを前提として,ヒルナミン及びピレチアを投与した時点のイソミタールソーダ濃度を推定するG鑑定は,その点で妥当性を欠き,ヒルナミン及びピレチアを投与した時点でAがバルビツール酸誘導体の強い影響下にあったと直ちに認めることはできない。また,Aは,平成10年1月9日午後4時30分ころの時点において,一旦覚せいし,喉の渇きを訴えて水を飲んでいることからして,ヒルナミン及びピレチアを投与した同日午後4時45分ころの時点でAが昏睡状態にあったと考えることもできない。
・※ 死因につき,Eら鑑定は,急性心臓死は,長時間の搬送中に生じた低体温による呼吸抑制及び不整脈が関連していると推察されるとするのに対し,G鑑定は,イソミタールソーダの強い影響下に投与されたヒルナミン及びピレチアによる心停止が主たる死因と考えられるとする。
前述のとおり,ヒルナミン及びピレチアを投与した時点で,Aがバルビツール酸誘導体の強い影響下にあったと直ちに認めることはできない上,行政解剖において,ヒルナミン,ピレチアとも血液中から検出されていないことからすると,イソミタールソーダの強い影響下に投与されたヒルナミン及びピレチアによる心停止が主たる死因と断定することはできない。
・※ 以上のとおり,G鑑定は前提としている事実関係等に疑問があり,G鑑定から直ちにイソミタールソーダやヒルナミン,ピレチアの投与につき,被控訴病院に過失又は注意義務違反があったと認めることはできず,他に上記投与につき過失又は注意義務違反があったと認めるに足りる証拠はない。
・※ また,仮に,これらの薬物投与が適切ではなかったとして,次に述べるとおり,薬物投与とAの死亡との間に相当因果関係はないというべきである。
すなわち,岡崎市から大阪市まで自動車で移動する場合に要する時間は,通常,3時間ないし4時間程度であり,現に,控訴人らは平成10年1月9日午後10時ころには大阪に戻っていたにもかかわらず,翌10日午前5時35分にAをI病院に搬送するまで,Aを後部座席に寝かせたまま,自動車を走らせていたのであり,同日午前2時30分ころには,C病院に到着し,入院はできないが,診察だけならば可能である旨説明を受けたにもかかわらず,控訴人において,それを断っているのであって,このときに診察を受け,必要な治療をしていれば,死を免れた可能性が推察される(Eら鑑定)ことからすると,被控訴病院における薬物の投与とAの死亡との間に相当因果関係があるということもできない。
3 争点・ア,イ(患者の安全を確保すべき義務違反の有無,患者の身体状況を把握すべき義務違反の有無)及び争点・(損害)について
・※ Aは,以前から受診していた精神科で処方を受けたハルシオン等の薬物を常用していた可能性が強く,これまでに何度も自殺を図った経験があるなど,極めて不安定な精神状態にあったと認められ,D医師もそのことを認識していたのであるから,Aの不穏状態が解消されたとしても,なおAのその後の健康状態に配慮した上で,慎重に対応することが必要であったというべきである。そして,控訴人は,Aが覚せいすれば,暴れたりするのではないかと不安を抱いており,被控訴病院での入院を要請していたのであるから,被控訴病院(D医師)においては,Aの血液検査をするなどして,Aの状態を十分に把握し,安全に大阪まで搬送できるか否かを見極め,適切な助言をする必要があったというべきである。また,D医師は,大阪の病院の紹介状を持っているという控訴人の言葉を聞いたのみで,当該大阪の病院に対して,実際に入院が可能であるか電話で確認するなどの措置も取っておらず,被控訴病院での入院が困難であれば,岡崎市内もしくは近隣の病院に搬送することも考えられるのに,漫然とAを帰院させたものであり,Aの身体の安全確保のために適切な措置を講ずべき義務に反しているということができる。この点は,原判決13頁18行目から15頁12行目までに記載のとおりであるから,これを引用する(ただし,14頁23行目の「かかわず」を「かかわらず」と改める。)。
・※ 被控訴人は,大阪の病院に連絡を取らなかったのは,控訴人やBから依頼がなく,適当な病院を探すことを含め,家族が責任をもって治療に参加することが精神科の治療上有用であるためでもあると主張する。しかしながら,夜間,境界性人格障害の疑いがあるAを眠らせたまま遠距離を搬送するのであり,控訴人も不安を抱き,被控訴病院での入院を要請していたのであるから,被控訴病院において,控訴人の意向を踏まえ,別の病院に入院することができるような措置を講じる必要があったというべきであり,被控訴病院の注意義務違反(過失)を認めることができる。控訴人らが適当な病院を探すというのは,Aが覚せいし,一応正常な状態に戻った後のことであって,被控訴病院から帰院する時は,そのような状況に至っていないというべきである。
・※ もっとも,上記のとおり,Aの死亡は,岡崎市から大阪市まで自動車で移動するのに10時間以上を要し,その間,C病院での診察を断り,後部座席に寝かせたAの容体の変化に気づかなかったことによるものということができ,被控訴病院の医師が,搬送開始時にそのことを予見することは困難であるから,被控訴病院の上記義務違反とAの死亡との間に相当因果関係があるということはできず,Aの死亡による逸失利益等の損害を認めることはできないが,被控訴病院から帰院するにあたり,受入先病院の確保など適切な措置が講じられなかったことによる慰謝料請求は,理由があるというべきである。
そして,控訴人がAを大阪に連れて帰るに至った経緯その他本件に現れた一切の事情を考慮すると,慰謝料額としては,100万円が相当である。また,弁護士費用は,本件事案の内容,認容額などからすると,10万円が相当である。
4 以上のとおり,控訴人の請求は,110万円及びこれに対する不法行為の日より後である平成10年7月9日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり,その余は理由がない。
よって,原判決を上記判示のとおり変更することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 太田幸夫 裁判官 川谷道郎 裁判官 大島眞一)
<編注:『※』部分は原文のとおり。>