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大阪高等裁判所 平成14年(ネ)3509号 判決 2003年11月21日

控訴人

A野太郎

同訴訟代理人弁護士

松丸正

増田尚

岡本英子

森川太一郎

岩永惠子

佐藤真奈美

村瀬謙一

稲野正明

山本香織

有馬純也

原正和

上原邦彦

吉岡良治

中森俊久

大江千佳

岩城穣

養父知美

三木憲明

山田暁子

亀山訓子

大前治

被控訴人

兵庫県住宅供給公社

同代表者理事長

中尾清二

同訴訟代理人弁護士

上谷佳宏

幸寺覚

福元隆久

今井陽子

小野法隆

平尾麻美

木下卓男

笠井昇

山口直樹

松元保子

芳田栄二

主文

一  原判決を次のとおり変更する。

(1)  被控訴人は控訴人に対し、二〇万九四四八円及びこれに対する平成九年四月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(2)  控訴人のその余の請求を棄却する。

二  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

三  この判決第一項(1)は仮に執行することができる。

事実及び理由

第一当事者の求める裁判

一  控訴人

(1)  原判決を取り消す。

(2)  被控訴人は控訴人に対し、金二一万二四六八円及びこれに対する平成九年四月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(3)  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

(4)  仮執行宣言

二  被控訴人

(1)  本件控訴を棄却する。

(2)  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二事案の概要

一  事案の要旨

本件は、建物賃貸借契約の終了時に、敷金から賃貸物件の通常の使用に伴う損耗分の修繕費等及び玄関鍵の取替費用を控除された賃借人である控訴人が、同控除について、同人の同意がなく、また、当該建物に適用される特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律(以下「特優賃法」という。)及び住宅金融公庫法(以下「公庫法」という。)に違反する程度が著しく、公序良俗に反し無効であると主張し、控除された金員の返還を求める事案である。原審は控訴人の請求を棄却し、同人が控訴した。

二  前提事実(当事者間に争いのない事実並びに摘示する証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)

(1)  当事者及び本件賃貸借契約

ア 控訴人は、平成七年八月一日から平成九年一月三一日までの間、被控訴人から、兵庫県尼崎市食満《番地省略》所在の賃貸マンションエスポワール園田(以下「本件マンション」という。)の×××号室(以下「本件住宅」という。)を賃借して入居していた(以下「本件賃貸借契約」という。)。

イ 被控訴人は、居住環境の良好な集団住宅を供給し、もって、住民の生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とする地方住宅供給公社法に基づき、兵庫県ほか六市の出資により設立された特殊法人であり、建設大臣(当時)及び兵庫県知事の監督に服する。

(2)  特優賃法及び公庫法

ア 特優賃法(平成五年七月三〇日施行)は、大都市圏を中心とした賃貸住宅ストックの質的向上の立ち後れ、特に中堅層に対する良質な賃貸住宅のストックの不足を背景に、民間の土地所有者等の建設する良質な賃貸住宅の建設を促進し、公的賃貸住宅として活用を図るため、建築費の助成、家賃減額のための助成等を行う一方、計画に従った賃貸住宅の供給を義務づけるものである。そして、このような住宅の性格上、供給計画(戸数、規模・構造、資金計画、入居者資格等)をはじめ、賃貸借契約の内容にも公的関与を行い、家賃について、①近傍同種の住宅の家賃の額と均衡を失しない家賃の額(市場家賃)以下であること、②特優賃法上の家賃限度額を超えないこと、③公庫法上の家賃限度額を超えないことなどの制限を加え、また、敷金以外の一時金等の授受の禁止等を定めている。

すなわち、特優賃法一三条一項は、同法の供給計画の認定を受けて建設する賃貸住宅(以下「特優賃法住宅」という。)のうち、本件マンションのように地方公共団体から建設費用の一部の補助を受けた賃貸住宅については、「認定管理期間(省略)における家賃について、当該特定優良賃貸住宅の建設に必要な費用、利息、修繕費、管理事務費、損害保険料、地代に相当する額、公課その他必要な費用を参酌して建設省令で定める額を超えて、契約し、又は受領してはならない。」と、同法二一条は「一三条一項の規定に違反した者は、三〇万円以下の罰金に処する。」と、また、特優賃法施行規則一三条は、賃貸人は「毎月その月分の家賃を受領すること及び家賃の三月分を超えない額の敷金を受領することを除くほか、賃借人から権利金、謝金等の金品を受領し、その他賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならない。」と、同規則一四条は、認定事業者が一括借り上げ者(賃借人)に特優賃法住宅を賃貸するときは、「法一三条の規定に準じて賃借人が当該賃貸住宅を転貸することを賃貸の条件としなければならない。」と、それぞれ規定している。

イ 公庫法三五条一項は、「第一七条第一項の規定による貸付けを受けた者で同項第三号の規定に該当するものは、当該貸付金に係る住宅を同号イ又はロに掲げる者に対し、賃借人の資格、賃借人の選定方法その他賃貸の条件に関し主務省令で定める基準に従い、賃貸しなければならない。」と規定している。訴外梅田善治(以下「訴外梅田」という。)は、同法一七条一項三号ロに該当する被控訴人に対して賃貸する事業を行う者であり、同号柱書の事業者に該当するから、同法三五条一項の適用がある。また、同法施行規則一〇条一項は「賃貸人は、毎月その月又は翌月分の家賃を受領すること及び家賃の三月分を超えない額の敷金を受領することを除くのほか、賃借人から権利金、謝金等の金品を受領し、その他賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならない。」と規定している。

(3)  尼崎市特定優良賃貸住宅制度

同制度は、尼崎市が、その区域内の特優賃法に基づく認定事業者に対し、特優賃法住宅について、建設に要する費用の補助(特優賃法一二条)、入居者の家賃の減額に要する費用の補助(同法一五条)を行うなどして、中堅所得者層に向けて、家賃負担を軽減した優良な賃貸住宅を供給する制度である。

本件マンションは、敷地所有者である訴外梅田が認定事業者として、兵庫県知事から特優賃法による計画の認定を受けた供給計画に基づき、平成七年七月一〇日、特優賃法及び尼崎市特定優良賃貸住宅制度の適用により、建設所要資金九億四二四八万七六八二円のうち、尼崎市から補助金八四二一万円の補助を受け、住宅金融公庫から八億三五五〇万円の融資を受けて新築した特優賃法住宅(鉄筋コンクリート造スレート葺六階建四八戸の共同住宅)で、認定管理期間二〇年の管理方法として、被控訴人が、訴外梅田から一括借り上げして、入居者との間に賃貸借契約を締結している。

したがって、本件賃貸借契約には特優賃法及び公庫法の適用がある。

(4)  本件賃貸借契約における約定等

ア 本件賃貸借契約において、敷金は、家賃の三か月分の三六万八四〇〇円と定められ、控訴人は、被控訴人に対し、敷金として同金額を差し入れた。

本件賃貸借契約には次の趣旨の約定がある(摘示する条項は本件賃貸借契約書の条項である。)

(ア) 敷金

賃貸人は、本物件の明け渡し時に、家賃の滞納、原状回復に要する費用の未払いその他の本契約から生じる賃借人の債務の不履行が存在する場合は、当該債務の額を敷金から差し引くことができる。(八条三項ただし書)

賃貸人は、賃借人から当該敷金以外、権利金、謝金等の金品を受領し、その他賃借人の不当な負担となるものを一切徴収しないものとする。(同条六項)

(イ) 賃借人の原状回復義務(一七条)

賃借人は、次の各号に該当するときは、直ちにこれを原状に回復しなければならない。ただし、賃借人の責に帰することができないと賃貸人が認めた場合は、この限りではない。

① 住宅又は付属物若しくは共用の施設の損害、破損、毀損又は滅失したとき

② 賃貸人に無断で原状を変更したとき

③ 模様替えその他施設に変更を加えたままで住宅を退去しようとするとき

賃借人は、前項による原状回復をせず、賃貸人に損害を与えた場合は、賃貸人の定める費用を賠償しなければならない。

(ウ) 賃借人の退去に伴う費用負担額

賃貸人は、第一七条に規定する賃借人の原状回復義務の内容を明らかにするために、賃借人が退去する住宅(付属物を含む)の検査を行うものとする。(二一条一項)

賃貸人は前項の検査結果に基づき、別冊の修繕費負担区分表に定めるところにより、修復に要する費用を査定し、賃借人が負担すべき額(以下「住宅復旧額」という。)を確定するものとする。(同条二項)

(エ) 敷金の精算(二二条)

賃借人が退去時において、(中略)前条に定める住宅復旧額(中略)の不履行がある場合は、賃貸人は敷金のうちから(中略)住宅復旧額等を賃貸人の指定する順序に従って控除後、住宅明け渡し後に残金を返還する。

ただし、控除すべき額が敷金の額を越える場合は、賃借人は不足額をただちに賃貸人に支払わなければならない。

イ 本件賃貸借契約二一条二項記載の「別冊の修繕費負担区分表」(以下「区分表」という。)は、別紙のとおりである。

ウ 控訴人が本件マンションに入居する際、被控訴人発行の「住まいのしおり<エスポワール園田>」と題する文書(以下「本件しおり」という。)が被控訴人から控訴人に交付された。

本件しおり中「退去時の手続き」と題する項目には、「みなさまの負担となる退去跡補修費」として、「退去跡補修については、『修繕費負担区分表』(省略)に基づいて工事を行います。なお、玄関錠の取替、畳の表替、ふすまなどの張替、室内全塗装クロスの貼替え(クッションフロアーの張り替えを含め)については、全て新しくさせていただきます。この場合、お預かりしている敷金で充当させていただきますが、不足する場合は、別途請求させていただきますので、お支払いいただくことになります。(不足するケースが十分に予想されますので予めご承知おき下さい。)」との記載、「敷金の返還」として、「敷金は、みなさまの負担となる退去跡補修費、未納家賃等がある場合はそれらを控除し、すべての手続が終了後(退去跡補修費における不足分がある場合は当該不足額の納入後、退去跡補修工事の完了及び未納家賃及びその他の債務額の完済が確認されたとき)、残額をご返還いたします。」との記載、「鍵の返還」として、「玄関の鍵は退去日に、住宅所有者へ返還してください。なお、玄関鍵は退去跡補修工事の時にシリンダー鍵の取替えを行います。」との記載がある。

(5)  敷金の返還

控訴人は、平成九年一月三一日、本件賃貸借契約の終了により本件住宅を被控訴人に明け渡したところ、被控訴人は、控訴人に対して、平成九年四月一〇日、差し入れを受けていた敷金三六万八四〇〇円から、住宅復旧費として、次の合計二一万二四六八円を控除し、残額を返還した。

ふすま貼替 一万七二〇〇円

畳表替 二万八八〇〇円

クロス貼替 四万四二八〇円

玄関鍵取替 一万二〇〇〇円

補修 一万一〇〇〇円

(床板、壁クロスの補修)

雑工事 三万九〇〇〇円

(壁クロス洗い、網戸貼替、排水栓取付、流し台洗い、浴室・洗面所・トイレ洗い)

清掃・片付け 一万七〇〇〇円

廃材・発生材処分 一万円

諸経費 二万七〇〇〇円

計 二〇万六二八〇円

消費税 六一八八円

合計 二一万二四六八円

(6)  控除された住宅復旧費の区分

上記控除された住宅復旧費が計上された損耗のうち、網戸の網が破れたこと及び排水栓の紛失は目的物の通常の使用に伴う損耗(以下「通常損耗分」という。)ではなく、かつ、控訴人の過失が推定される。これら及び玄関鍵以外は通常損耗分に該当する。

三  争点及び当事者の主張

本件の争点は、本件賃貸借契約について、通常損耗分及び玄関鍵の取替を賃借人たる控訴人の負担とする合意(以下「本件特約」という。)が成立したか、仮に成立したとして、本件特約が特優賃法又は公庫法に違反し、公序良俗違反として私法上の効力が否定されるかである。

(1)  本件特約の成否について(争点1)

(原判決(一五頁一六行目ないし一九行目は、この点について控訴人が明白には争っていないと摘示したが、控訴人は、当審のみならず原審においても本件特約の成立を争っており(訴状四3)、また、被控訴人は、当審において控訴人がこの点を争うことに異議を述べていない。)

【控訴人の主張】

建物賃貸借における通常損耗分は、賃料で補われる場合は別として、賃貸人が負担するのが原則である。このような原則と異なり、賃借人に通常損耗分を負担させることは、法律上・社会通念上の義務とは別個の新たな義務を負担させるものであるから、そのような合意の成立は、当該義務の具体的内容を認識した上で、負担の意思表示がされることが必要である。

本件賃貸借契約についてみると、上記の一七条をはじめ、本件賃貸借契約本文には通常損耗分を賃借人負担とする趣旨の文言はない。また、区分表は、本件賃貸借契約一七条を前提とするものであるから、通常損耗分を賃貸人が負担することも当然の前提であり、内容も、「破損」「ひび割れ」「腐食」等の抽象的文言があるのみである。さらに、本件しおりも、本件賃貸借契約の内容を前提とするものであり、通常損耗分を賃借人の負担とする旨の明確な文言もない。

他方、上記のとおり、本件賃貸借契約書八条六項は、賃借人の不当な負担となるものを徴収しない旨定めており(これは、特優賃法三条六号、同法施行規則一三条、公庫法三五条一項、同法施行規則一〇条一項を具体化したものである。)、控訴人は、本件賃貸借契約にあたり、本件特約については、本件しおりを受け取っただけで、その内容について何ら説明を受けていない。このような事情にかんがみると、控訴人に本件特約による新たな義務を負担する認識及び意思表示はなかったというべきであるから、本件特約にかかる合意は存在しない。

【被控訴人の主張】

区分表の「退去跡補修費等負担基準」には、フスマ・障子紙の汚損(手垢・タバコの煤けなど生活することによる変色を含む)や、各種床仕上材の生活することによる変色・汚損・破損、各種壁・天井等仕上材の生活することによる変色・汚損・破損等が退去者(賃借人)負担とされており、一般・通常人からみて、これらの記載にかかる通常損耗分を賃借人が負担すべきことは明らかである。

そして、本件賃貸借契約にあたり、被控訴人は控訴人に対して賃貸借契約書だけでなく、区分表及び本件しおりを交付し、本件特約の内容を口頭でも説明したが、控訴人はこれに対して異議を述べたことはない。また、被控訴人は、控訴人退去時にも控訴人立会の上必要箇所を検査した際に、区分表等に基づいて控訴人の負担で修繕する旨指摘し、同人の同意を得ている。

(2)  特優賃法違反について(争点2)

【控訴人の主張】

本件特約は、以下のとおり、特優賃法三条六号、同法施行規則一三条、一四条ないしその精神に著しく違反するから、公序良俗に反するものとして私法上の効力を否定すべきである。

ア 特優賃法は、大都市地域を中心とする中堅所得者層の賃借人に関する居住水準の改善を目的とするものであり、民間の土地所有者が中堅所得者層に賃貸住宅を提供すべく優良な賃貸住宅を建設する場合には、公費を投じて、建設に関する費用の補助、家賃の減額に要する費用の補助、住宅金融公庫融資額に対する地方公共団体の利子補給、住宅金融公庫賃貸住宅融資額の引上げ、特定優良賃貸住宅建設促進税制などの助成措置を講じ、その反面、賃貸住宅の供給者に対して、契約自由の原則に一定の制限を課している。

すなわち、同法三条六号は「賃貸住宅の入居者の選定その他の賃貸条件が建設省令で定める基準に従い適正に定められるものであること」と、同法施行規則一三条は「賃貸人は、毎月その月分の家賃を受領すること及び家賃の三月分を超えない額の敷金を受領することを除くほか、賃借人から権利金、謝金等の金品を受領し、その他賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならない」と規定する。そして、同規則一四条は、転貸人もそれに準ずるとしているから、一括借り上げをした転貸人たる被控訴人と入居者たる控訴人との間の賃貸借契約も同規則一三条に適合するものでなければならない。

イ 賃貸借契約終了による原状回復にあっては、賃借人は、目的物を契約により定められた使用方法に従い、かつ、社会通念上通常の使用方法により使用していればそうなったであろう状態で賃貸人に返還すれば足り、使用開始当時の状態より悪くなっていたとしても、通常損耗分の範囲内であれば、賃貸人がその負担を負うべきものとされている。

しかし、本件特約は、本来賃貸人が負担すべき通常損耗分の補修費用を全て賃借人に負担させる内容となっている。そして、同特約は、本件マンションを借りることと不可分一体となっており、阪神・淡路大震災による極度の借家不足の中で、幸運にも十数倍の競争率を突破して、本件住宅の入居資格を得た控訴人には、本件特約を断る自由はなかった。したがって、本件特約を付した本件賃貸借契約は、賃借人に不当な負担となることを賃貸の条件としたものであり、特優賃法施行規則一三条ないしその精神に違反する。

また、同法施行規則一三条は、敷金以外の一時金の授受について特約で定めることも禁止しており、関西地方における「敷引」(修繕費等の一部として保証金から一定率を差し引くこと)も禁止している。本件特約は、通常の損耗分を賃借人の負担として実費精算するものであるが、これは敷引が通常損耗分の修繕費等として一定率を敷金(保証金)から差し引くのと対比してみても、実費精算か一定率の控除かの方法の差があるに過ぎず、実質的に敷引をしているのと同じことであるから、本件特約は同規則一三条で禁止される敷引を僭脱するものであって、同条ないしその精神に違反する。

ウ なお、平成五年に国が作成した民間賃貸住宅の標準契約書では、「乙(賃借人)は、本契約が終了する日までに(省略)、本物件を明け渡さなければならない。この場合において、乙は、通常の使用に伴い生じた本物件の損耗を除き、本物件を原状回復しなければならない」とされているところ、特優賃法制定のための国会審議において、政府委員はこの契約書を同法の適法される契約で必ず使わせると答弁しており、その後出された建設省住宅局長から各都道府県知事宛の特優賃法の運用通達でも、同標準契約書の内容を一括借り上げ者と入居者との間の賃貸借契約において用いるべきことを要件としている。

【被控訴人の主張】

本件特約は、民法上の負担とは異なり、いわゆる経年変化や通常使用によって生じた損耗や汚れ等に対する修繕等の義務を賃借人に対し負担させる内容となってはいるが、①本件特約をなす必要があり(必要性)、かつ、その内容が暴利的ではないなどの合理性を有しており(合理性)、②賃借人がそのような負担を了解して意思表示をなしているから、公序良俗に反せず有効である。

なお、控訴人は、本件特約が特優賃法及び同規則並びに公庫法及び同規則に違反すると主張するが、本件特約はこれらの法規に違反しておらず、仮に違反しているとしても本件特約の私法上の効力に影響しない。また、当事者間の協議によって本件特約を締結することは妨げられないところ、本件賃貸借契約と本件特約とは不可分一体であるが、控訴人は、本件特約が不当と考えるのであれば、契約しない自由を有していた。

ア 本件特約の必要性

(ア) 社会情勢の変化と本件特約の必要性

近時における居住用賃貸物件への入居希望者の要求は、雨露をしのげれば足りるというものから、より快適な生活を求めるものへと変化しており、この社会情勢の変化は、入居者が家族構成や収入に見合った賃貸物件へと比較的短期間に変わっていく傾向や、新築ないし築後間もないきれいな賃貸物件を選択する傾向に現れている。

こうした入居希望者の要求に対応するため、賃貸業者間では、新築でない物件について、旧賃借人の退去時から新賃借人の入居時までの間に旧賃借人の賃貸借契約期間中に生じた通常の生活に伴う損耗や汚れ等についても、補修、取替またはクリーニングによってリフォームをし、新築同様にきれいにするのが通例となっている(以下、このクリーニング等を「リフォーム」といい、そのための費用を「リフォーム費用」という。)。

このように、賃貸業者としては、入居者を確保するため、リフォームを行う必要があり、何らかの方法でリフォーム費用を賃借人(入居者)に転嫁しなければ事業が成り立たないから、この費用の転嫁自体は何ら違法ではない。

そして、その転嫁方法として、①家賃に上乗せする方法、②敷引特約をする方法、③退去時に実費精算する方法等が考えられるが、本件賃貸借契約ではこの③の方法がとられ本件特約が設けられているのである。

(イ) 特定優良賃貸住宅制度下においても費用の転嫁が許されること

本件賃貸借は、特優賃法の規定の範囲内で締結されなければならないが、特優賃法が適用される場合であっても、上記に述べたリフォーム費用の転嫁が認められなければ、賃貸事業が成り立たないのは同様であり、転嫁を許さなければ同制度を利用する者はいなくなり、ひいては中堅所得者層に優良な賃貸住宅の提供をするという目的が実現できなくなりかねない。

したがって、特優賃法が適用になる場合であってもリフォーム費用を賃借人に転嫁することは可能であるというべきである。

イ 本件特約の合理性

(ア) 本件特約は、リフォーム費用を退去時に実費精算することを規定しているが、上記のとおり必要性が認められるし、以下に述べるとおり、リフォーム費用を家賃に上乗せするなどしながら、さらに本件特約で二重取りをするというような賃貸人の暴利行為ないし優越的地位の不当な利用がなされるといった合理性を欠く事情もないから、公序良俗に違反するものではない。

(イ) 賃料にリフォーム費用が上乗せされていないこと

a 家賃の制限

特優賃法三条五号は、家賃の額が近傍同種の家賃の額と均衡を失しないことを要請しており、通達(建設省住管発第四号、建設省住建発第一一〇号)でも、「賃貸住宅の家賃の額については、近傍で供給されている複数の賃貸住宅について家賃の額並びに立地、規模、構造、設備及び築後年数を申請書に添付させ、それらの諸要素を勘案の上、近傍の賃貸住宅の家賃の額を上回ることのないように定められること。なお、近傍に比較するのに適切な賃貸住宅が存在しない場合においては、不動産鑑定等適切な方法により家賃の額が定められること」とされている。

また、本件マンションのように特優賃法一二条に基づき建設費用の補助を受けた場合は、同法上の家賃限度額の制限を受ける(同法一三条一項、同法施行規則二〇条)。

さらに、本件マンションは住宅金融公庫からの融資を受けているので、公庫法上の家賃限度額の制限も受ける(同法三五条二項、同法施行規則一一条)。

以上のとおり、本件賃貸借契約における家賃には、①特優賃法上の近傍同種家賃、②同法上の家賃限度額、③公庫法上の家賃限度額の制限が課せられている。

b 本件賃貸借契約における家賃の設定

本件マンションの家賃額設定の参考に供するため、本件マンションのうち一室の比準賃料について、近傍の賃貸住宅の家賃を調査し、比較検討を行った上で鑑定し、本件住宅の賃料月額を算定したところ、一二万二八〇〇円との結果を得た。そして、特優賃法上の家賃限度額は、月額二一万九六七一円、公庫法上の家賃限度額は、月額一六万三八七八円と算出されたので、本件住宅の賃料はそのまま月額一二万二八〇〇円と決定された。

この鑑定において、四つの賃貸物件が比較の対象とされたが、そのうちの二つの物件に敷引の特約が付され、残りの二つの物件にも、原状回復等のための費用として退去時に保証金から差し引く金銭は実費精算とするという、本件特約と同旨の特約が付され、賃貸借契約期間中に生じる通常の生活に伴う損耗や汚れ等の補修費についても賃借人が負担する形で実費精算がされていた。しかし、同鑑定では、これらの額を毎月の賃料に配分して実質賃料額を決定し、これと対比して比準賃料を決定するという処理がなされなかったので、上記の賃料一二万二八〇〇円にはリフォーム費用は何ら反映されていない。

(ウ) 控訴人が負担した住宅復旧費が実質的に相当であること

本件の住宅復旧費は、合計二一万二四六八円(消費税込み)であるが、同種の賃貸物件において退去時に敷引として敷金・保証金から差し引かれる金額が三〇ないし四〇万円程度であることと対比すると、決して高額な負担ではなく、また、上記復旧費を控訴人の入居期間である一年六か月(一八か月)で除すると一万一八〇四円となるが、その額を本件賃料に加算してもその額は、月額一三万四六〇四円であり、特優賃法及び公庫法上の家賃限度額を大きく下回っているのであって、リフォーム費用が不当とはいえない。

(エ) リフォームの内容が相当であること

本件特約において賃借人の負担とされているのは、いずれも入居希望者の要求の変化に対応するために必要な更新若しくはクリーニング又は小修繕であって、賃借人にとって大きな負担となるものではないし、リフォームの方法に複数の選択肢がある場合は、賃借人の立会の下、損耗等の程度に応じてできるだけ賃借人の負担の少ない方法を選択している。

(3)  公庫法違反について(争点3)

【控訴人の主張】

本件特約は、以下に述べるとおり、公庫法三五条一項、同法施行規則一〇条の二、一〇条ないしその精神に著しく違反し、公序良俗に反するものとして私法上の効力を否定すべきである。

ア 公庫法三五条一項は、「第一七条第一項の規定による貸付けを受けた者で同項第三号の規定に該当するものは、当該貸付金に係る住宅を同号イ又はロに掲げる者に対し、賃借人の資格、賃借人の選定方法その他賃貸の条件に関し主務省令で定める基準に従い、賃貸しなければならない。」と規定している。訴外梅田は、同法一七条一項三号のロに該当する被控訴人に対して賃貸する事業を行う者であり、同号柱書の事業者に該当するから、同法三五条一項の適用がある。

また、同法施行規則一〇条一項は「賃貸人は、毎月その月又は翌月分の家賃を受領すること及び家賃の三月分を超えない額の敷金を受領することを除くのほか、賃借人から権利金、謝金等の金品を受領し、その他賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならない。」と規定しているところ、訴外梅田は、同法施行規則四条の二の特別賃貸人に該当するから、同規則一〇条の二により、同規則一〇条一項の適用を受ける。したがって、本件賃貸借契約について、公庫法上も、特優賃法施行規則一三条同様の規制が及んでいる。

イ 本件特約条項は、特優賃法に関する主張で述べたとおり、本件賃貸人が負担すべき通常の使用に伴う損耗分をすべて賃借人に負担させる「不当な負担となることを賃貸の条件」とするものであり、また、敷引の僭脱行為となるものであるから、公庫法施行規則一〇条一項ないしその精神に違反する。

【被控訴人の主張】

争点2について主張したのと同様、公庫法との関係においても、本件特約は公序良俗に違反するものではなく、有効である。

第三当裁判所の判断

一  住宅の賃貸借における損耗の負担

住宅の賃貸中に生じる損耗としては、使用の有無を問わず年月の経過により自然的に損耗し価値を減ずる部分と、使用に伴い損耗し価値を減ずる部分とがあり、後者には、損耗について賃借人の責に帰すべき事由がある場合とそうでない場合とがあると考えられる。これらの損耗と賃借人の負担すべき範囲との関係については、民法及び借地借家法に具体的な明文の定めがないから、民法の一般原則により、賃貸人と賃借人との契約(特約)によって定めることができるが、その契約(特約)の効力を検討するに当たっては、借地借家法に抵触するかどうか、本件のような特優賃法や公庫法の適用がある場合はそれらとの関係、及び公序良俗に反する法律行為を無効とする民法九〇条に該当するかどうかを検討しなければならない。特約がない場合においては、債権法一般の原則からみて、賃借人の責に帰すべき事由があるときは賃借人の債務不履行として賃借人の負担と解され、それ以外のときは賃貸人の負担となると解される。

二  《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(1)  賃借人の原状回復義務に関する所管行政庁等の認識

ア 賃貸住宅標準契約書

平成三年一〇月二一日、建設大臣は住宅宅地審議会会長に対し「賃貸住宅標準契約書の作成について」という諮問をし、平成五年一月二九日、同会長から建設大臣に対して「賃貸住宅標準契約書についての答申」が行われ、その中で、賃貸借契約にかかる標準契約書が提示された。

そして、同契約書一一条一項は、通常損耗分の原状回復の費用は、減価償却費として一般に賃料に含まれていると考えられることを前提に、賃借人は明渡しに際し「通常の使用に伴い生じた本物件の損耗を除き、本物件を原状回復しなければならない。」として、これを賃貸人負担とした。

社団法人全国宅地建物取引業協会連合会は、平成六年一〇月、独自の標準契約書案を作成して各都道府県協会に通知したが、同案でも、通常損耗分は貸主の負担とされている。また、平成五年三月九日、建設省建設経済局長及び住宅局長は、業界団体宛に標準契約書の周知徹底と活用の指導を依頼するとともに、各都道府県知事宛に「賃貸住宅標準契約書について」と題する通達を発出したが、その中で、上記標準契約書は、民間住宅の賃貸借契約書の標準的なひな型として広く普及されるよう、住民に周知されること等を配慮、指導されたいとしている。建設省住宅局民間住宅課民間住宅管理対策官を代表者とする研究会発行の「標準契約書」の解説でも、標準契約書は公的資金を活用して建設された特優賃法住宅にも使用されるべきであるとしている。

ただし、上記答申でも、標準契約書は使用が強制されるものではなく、使用する場合も、当事者間の合意により、合理的な範囲内で必要に応じて修正を加えてもよいとされている。

イ 原状回復をめぐるトラブルとガイドライン

賃貸住宅退去時における原状回復の範囲や費用負担をめぐるトラブルの増加を受けて、平成八年度及び九年度に建設省から委託を受けた財団法人不動産適正取引推進機構は、「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(以下「ガイドライン」という。)を作成した。ガイドラインは、建物の損耗等を建物価値の減少と位置づけ、経年変化及び通常損耗による建物価値の減少と賃借人の故意・過失等による通常の使用を超えた使用による損耗とを区別し、前者を賃貸人の負担、後者を賃借人の負担として、上記標準契約書と同様な考え方を採用している。

ガイドラインは、一般的な基準をとりまとめたもので、その使用を強制するものではないとされているが、建設省住宅局も、実務と参考として積極的に用いられることを期待するとしている。

ウ 特優賃法に関する運用通達

平成五年五月一三日開催の参議院建設委員会の特優賃法に関する質疑において、政府委員(建設省住宅局長)は「基本的には今申し上げました標準約款を使わせていただいて、これを必ず使っていただくというふうにいたしますから、契約書上は現段階では最も好ましいものを使っていただいて、それのもとに安定的な賃貸借の法律関係をつくっていただく。」と答弁した。

そして、特優賃法の施行と同時に発出された建設省住宅局長から都道府県知事宛「特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律の運用について」と題する通達(建設省住管発第四号、建設省住建発第一一〇号)は、賃貸人(管理受託方式における認定事業者)と入居者との間の賃貸借契約ばかりでなく、認定事業者と被控訴人のような一括借り上げ者との間、さらに一括借り上げ者と入居者との間の契約においても、通常損耗分の原状回復の費用を賃貸人が負担する旨の規定を含む契約書を用いることを要件とされたいとしている。

エ 住宅金融公庫の指導

住宅金融公庫は、公共性のある公庫融資を受けて賃貸物件を建設する賃貸人(特優賃法による融資の拡充を受けている認定事業者を含む。)に対し、公庫法をはじめとする法令の定めを遵守した賃貸条件の設定を要望するとともに、公庫融資を受けた賃貸人に交付する書面等において、原状回復義務に関するガイドラインを明示し、通常損耗分は減価償却費として家賃に含まれるという考え方を前提にして、借主の原状回復義務に通常損耗分が含まれないという指導をしている。

もっとも、住宅金融公庫融資第二部賃貸住宅課長から各支店賃貸住宅担当課長宛平成八年二月一九日付け事務連絡文書によれば、上記アの標準契約書に準拠した契約書を用いることを原則としつつ、これを用いない場合について、借主の原状回復の範囲については通常損耗分が含められていないことを確認するが、通常損耗分の負担について当事者の協議による場合はこの限りではない旨の記載がある。

(2)  近畿地方の住宅供給公社の実情

被控訴人を含む近畿地方の計一一の住宅供給公社のうち、平成一二年四月時点で特優賃法住宅を所有し、あるいは一括借り上げにより管理する六公社(被控訴人を含む。)は、いずれも標準契約書を使用しておらず、通常損耗分の原状回復費について、修繕費用負担区分表を作成して賃借人の負担としている。その理由は、社会一般の清潔志向の高まりに応じて、借家人が変わる都度住宅をリフォームする必要があるが、それを賃貸人負担とすることによる認定事業者の理解が十分ではないこと、認定事業者と契約賃料の引き下げ交渉をしている状況下で一層収支が悪化すること、近畿地方における敷引制度を採用する民間事業者との差が拡大することなどとされている。

(3)  公庫融資賃貸住宅の家賃の現状

いわゆるバブル経済の崩壊後、賃貸建物の需給バランスが変化し、一部地域で大量の空き家発生を見たり、東京圏では礼金が廃止ないし引き下げられ、敷金の低下が見られるなど、供給側の競争条件が厳しくなった。公庫融資賃貸住宅は支払利息や減価償却費など適切な項目を積み上げた家賃限度額を設定しているが、都市部では実際の家賃はほぼこれを下回っている。

(4)  本件住宅の賃料の設定

本件住宅の賃料設定に当たって被控訴人が依頼した不動産鑑定(平成六年一二月一日時点)では、近傍同種のマンション四件の賃貸事例を比較して、新規賃料に係る比準賃料が求められ、これを基礎に本件住宅の賃料が月額一二万二八〇〇円と算定されたが、この額は、特優賃法上の家賃限度額(二一万九六七一円)及び公庫法上の家賃限度額(一六万三八七八円)のいずれをも下回っていたので、そのまま本件住宅の賃料とされた。これらの事例中、修繕費用を実費精算とするものが二件、敷引特約が付されたものが二件であったが、同鑑定には当該事例の契約書等が添付されていないため、実費精算の具体的内容については不明であり、また、敷引特約が付されたものは、通常損耗分の修繕費用を敷引でまかなうことを予定していると解されるところ、上記鑑定は、敷引分を賃貸期間に応じて各月の賃料額に上乗せして賃料を算定しておらず、鑑定の結果求められた賃料は、通常損耗分の修繕費を回収することを予定しているとは解し得ない。

(5)  本件賃貸借契約の経緯等

ア 控訴人は、もと尼崎市内の自宅に居住していたが、平成七年一月の阪神淡路大震災で被災し、代替住居を必要とすることとなった。控訴人は、同年三月いったん尼崎市内の賃貸マンションに入居したが、家賃が月額一〇万円と、控訴人にとって高額であったので、本件マンションの入居者募集に応募し、当選した。

イ 控訴人は、同年七月二八日午前九時三〇分から園田公民館で開かれた本件マンションの契約締結会及び入居説明会に出席した。当日は、被控訴人職員が、多数の出席者の前で、契約書(本件賃貸借契約)の本文を一通り読み上げて説明したあと、個別に契約書の作成と敷金の差し入れが行われた。そして、午後の入居説明会では、多数の契約者を一括して、住宅の利用方法等に関する説明と質疑応答がされ、この際、被控訴人職員が本件しおりのうち退去時の手続に関する部分を一通り読み上げ、区分表は各自で読んでおいて欲しいと頼んだ。

ウ 控訴人は、平成八年一二月二〇日付で被控訴人に対し本件住宅からの退去届を提出した。これを受けて、平成九年二月二一日、被控訴人職員は、訴外梅田、管理会社職員及び補修業者従業員とともに、本件住宅の補修箇所に関する調査を行った。同調査には、控訴人及びその妻が立ち会った。

この調査では、床の傷(程度は明らかでない。)、網戸の破れ及び台所の排水栓がないことが指摘されたが、それ以外に、控訴人の責に帰すべき補修箇所の指摘はなかった。控訴人は、ふすま、畳及び壁クロスについて、汚れていないものも交換等するのかと尋ねたのに対し、被控訴人職員は、交換することになっている旨答えた。

三  争点1について

(1)  本件賃貸借契約一七条一項は、「賃借人は、次の各号に該当するときは、直ちにこれを原状に回復しなければならない。ただし、賃借人の責に帰することができないと賃貸人が認めた場合には、この限りではない。」としていて、賃借人の責に帰することのできない損耗を賃貸人の負担とする趣旨と解される。本件でいう通常損耗分すなわち賃借人が賃借物を通常の方法で使用することに伴って生じる損耗は、賃借権が目的物の使用を内容とすることからすると、賃借人の責に帰することのできない損耗に該当すると解するのが相当である。

これに対し、区分表「退去跡補修費等負担基準」の内容は別紙のとおりであり、通常の使用による損耗か否かを明示的には区別しておらず、かえって、フスマ・障子紙の「汚損(手垢の汚れ・タバコの煤けなど生活することによる変色を含む)」や、各種床仕上材の「生活することによる変色・汚損・破損と認められるもの」、各種壁・天井等仕上材の「生活することによる変色・汚損・破損」が退去者(賃借人)負担とされている。玄関鍵については、「錠」の項目で、「管理上鍵の交換」はオーナー(賃貸人)負担とされている。

また、本件しおりでは、「みなさまの負担となる退去跡補修費」として、「退去跡補修については、『修繕費負担区分表』(省略)に基づいて工事を行います。なお、玄関錠の取替、畳の表替、ふすまなどの張替、室内全塗装クロスの貼替え(クッションフロアーの張り替えを含め)については、全て新しくさせていただきます。この場合、お預かりしている敷金で充当させていただきますが、不足する場合は、別途請求させていただきますので、お支払いいただくことになります。(不足するケースが十分に予想されますので予めご承知おき下さい。)」との記載、「敷金の返還」として、「敷金は、みなさまの負担となる退去跡補修費、未納家賃等がある場合はそれらを控除し、すべての手続が終了後(退去跡補修費における不足分がある場合は当該不足額の納入後、退去跡補修工事の完了及び未納家賃及びその他の債務額の完済が確認されたとき)、残額をご返還いたします。」との記載、「鍵の返還」として、「玄関の鍵は退去日に、住宅所有者へ返還してください。なお、玄関鍵は退去跡補修工事の時にシリンダー鍵の取替えを行います。」との記載がある。

上記区分表及び本件しおりの記載は、いずれも当該部分にかかる通常損耗分を退去者(賃借人)負担とする趣旨と解するほかなく、その限度で本件賃貸借契約本文(一七条一項)と齟齬するといわざるを得ない。

(2)  一般に、建物賃貸借契約にあっては、建物の使用による通常損耗がその本質上当然に予定されており、これによる投下資本の減価の回収は、実質賃料構成要素の一部である必要経費(減価償却費、修繕費)に含まれていると考えるのが合理的であり、社会通念であるというべきであるから、一にも述べたとおり、賃貸借契約終了時における通常損耗による原状回復費用の負担については、特約がない限り、これを賃料とは別に賃借人に負担させることはできず、賃貸人が負担すべきものと解するのが相当である。そして、本件賃貸借契約本文が、通常損耗分を賃借人ではなく、賃貸人の負担とするものであることは(1)記載のとおりであり、これは上記の社会通念に合致する。しかも、通常損耗分に関するこのような取扱いは、二(1)記載のとおり、本件契約当時、望ましいものと公的に認められ、その普及、言い換えればこれに反する特約の排除が図られていた。

このような事情及び第二・二(2)記載の特優賃法及び公庫法の規定の趣旨にかんがみると、本件特約の成立は、賃借人がその趣旨を十分に理解し、自由な意思に基づいてこれに同意したことが積極的に認定されない限り、安易にこれを認めるべきではない。

なお、被控訴人は、入居者確保のためのリフォームの必要性を前提に、特優賃法及び公庫法の適用がある場合にも、リフォーム費用を賃借人に転嫁することは可能であるとし、本件賃貸借契約においては、賃料にリフォーム費用が上乗せされておらず、被控訴人が控除した住宅復旧費が実質的に相当であることなどから、本件特約は、権利金、謝金の授受を定めて特優賃法による限度額賃料を僭脱するとの意図に出たようなものではなく、近時の社会一般の清潔志向に応じて賃貸物件の物理的・文化的住宅水準の劣化を回復するため、原状回復費用の実額だけを賃借人負担とするものであるなどと主張する。しかし、リフォームは、経年劣化や通常の損耗によって減少した建物の価値を増加させるものであって、その費用を賃借人に転嫁することは、当初の投資を超える利益を賃貸人に与えることになるから、このような転嫁をしないことが特段不合理ということはできない。そうすると、もとよりこのような転嫁が禁じられるものではないとしても、上記事情及び特優賃法、公庫法の趣旨に反してまで積極的に認めるべき必要性はない。そして、被控訴人が本件賃貸借契約においてリフォーム費用を賃料に転嫁していないとすれば、それは被控訴人の自由な意思決定によるものと解すべきであって、本件特約のような形での転嫁を当然に正当とするものではない。

しかるに、上記認定のとおり、被控訴人は、控訴人に対し、本件賃貸借契約締結の当日である平成七年七月二八日に、賃貸借契約書、区分表及び本件しおりを交付したものであり、これ以前に被控訴人が控訴人に対して本件特約について説明したことを認めるに足りる証拠はない。また、被控訴人は、同日、同契約書本文については契約締結手続の前に一通り読み上げて説明したが、区分表については各自で読んでおくよう頼んだだけであり、本件しおりについては、締結手続の後に、退去時の手続に関する部分を一通り読み上げたにとどまり、しかも、その内容を具体的にどのように説明したかについて、的確な立証はない。このような形式的手続の履践のみをもって、控訴人が本件賃貸借契約一七条一項とは異なる本件特約の趣旨を理解し、自由な意思に基づいてこれに同意したと認めることはできない。

(3)  さらに、区分表は、本件賃貸借契約の別冊であり、その一部であって特則ではないから、これをもって本件特約の成立を認めることはできず、これらの関係を合理的に解釈するならば、区分表は本文の趣旨に反しないように解すべきであるから、これは本件賃貸借契約一七条に反しない限度、すなわち通常損耗分を賃借人負担としない限度でのみ有効と解すべきである。なお、区分表によっても、賃借人の責に帰することのできない玄関鍵の取替を賃借人負担とすることはできない。

また、本件しおりは、その体裁にかんがみ、本件賃貸借契約書及びこれに付属する区分表の細目を具体的に説明するための文書であって、契約書ないしその付属書類ではなく、これに基づいて契約書及び区分表の内容を変更する趣旨のものでないことは明らかである。

(4)  なお、被控訴人は、上記二(5)ウ記載の調査の際、控訴人が、被控訴人職員から指摘された補修箇所にかかる費用負担に同意した旨主張するが、《証拠省略》によれば、当日被控訴人職員は、区分表にしたがって調査を行い、その結果を控訴人に告げたところ、控訴人は、上記のとおり交換の必要性について疑問を述べたが、被控訴人職員は交換することになっている旨述べ、それ以上の議論などはなかったことが認められるものの、このような事実だけでは、(2)におけると同様、通常損耗分を賃借人負担とする旨の合意を認定することはできない。

(5)  以上のとおり本件特約の成立が認められないから、争点(2)及び(3)について判断する必要がない。そして、本件賃貸借契約第一七条一項により、賃借人の責に帰すべき事由がある部分については賃借人の債務不履行として賃借人の負担となり、それ以外の部分については賃貸人の負担となる。

四  控訴人の負担すべき額について

《証拠省略》によれば、控訴人が本件住宅を退去した際、網戸の破れが一箇所あり、また、台所の排水栓がなかったことが認められるが、第二・二(6)記載のとおり、これらはいずれも賃借人たる控訴人の過失が推定され、その負担に帰すべきものである。他方、これ以外のものは、損耗が問題になっていない玄関鍵を含め、控訴人の責に帰すべき事由によって補修が必要となったものではない。

《証拠省略》によれば、上記網戸の破れの補修には二五二〇円が必要と認められる。《証拠省略》によれば、台所の流し台の排水栓は控訴人が引っ越しの機会に紛失したこと、その補修(交換)費用については見積書等の的確な証拠がないこと、控訴人はせいぜい四〇〇円から五〇〇円程度のものであると陳述していることが認められる。そして、被控訴人もこの金額を格別争っていないから、その費用は五〇〇円と認める。

したがって、被控訴人による敷金からの控除は三〇二〇円の限度でのみ適正と認められるから、平成九年四月一〇日に返還した後の敷金残額のうち、なお被控訴人が控訴人に返還すべき額は二〇万九四四八円であり、その履行期も同日である。

第四結論

よって、控訴人の本件請求は本判決主文第一項(1)記載の限度で理由があるから認容すべきであり、その余は理由がなく棄却すべきであるから、これと結論を異にする原判決を本件控訴に基づき本判決主文第一項記載のとおり変更することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法六七条、六一条、六四条を、仮執行宣言について同法二五九条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 井土正明 裁判官 中村哲 久保田浩史)

<以下省略>

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