大阪高等裁判所 平成14年(ネ)478号 判決 2003年2月21日
控訴人(被告) 第一生命保険相互会社
同代表者代表取締役 A
同訴訟代理人弁護士 和田一雄
被控訴人(原告) X
同法定代理人成年後見人 B
同訴訟代理人弁護士 峯田勝次
同 兒玉修一
主文
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1控訴の趣旨
主文と同旨
第2被控訴人の請求
控訴人は、被控訴人に対し、1500万円及びこれに対する平成10年9月1日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
第3事案の概要
1 本件は、被控訴人が自殺未遂により高度障害になったとして、保険契約に基づき高度障害保険金1500万円及びこれに対する症状固定の日の翌日である平成10年9月1日からの商事法定利率による遅延損害金の支払を求めた事案である。
2 前提事実
(1) 被控訴人の夫・B(以下「B」という。)は、昭和56年11月26日、控訴人との間で、被保険者を被控訴人、保険金受取人をBとして、高度障害について以下の約定のある特別終生安泰保険契約を締結し、昭和62年1月19日、保険契約者及び保険金受取人を被控訴人に変更した。(甲2、乙1、2の1・2、3)
ア 高度障害保険金 1500万円(保険料払込期間中の不慮の事故以外による高度障害のとき。不慮の事故の場合は3000万円)
イ 保険料払込期間 昭和77年(平成14年)11月25日まで
ウ 被保険者が責任開始期以後の傷害又は疾病を原因として保険料払込期間中に高度障害状態に該当したときに、高度障害保険金が支払われる。
エ 保険契約者又は被保険者の故意により支払事由が生じたときは、保険金は支払われない。(以下「本件免責条項」という。)
(2) 被控訴人は、平成9年3月9日、自宅において、首つり自殺を図った。(以下「本件行為」という。)(甲7、13)
(3) 本件行為のため、被控訴人は、縊頚を原因とする低酸素脳症になり、中枢性失語症により言語機能を喪失し、介助がなければ食物の摂取が全く不可能であり、流動食しか摂取できず、おむつの使用が必要で自力での排便・排尿はできず、全くの寝たきり状態であって、精神状態も障害が高度で常に介助等を要する障害を残して、平成10年8月31日に症状が固定した。(甲3)
被控訴人の状態は、前記(1)ウの高度障害状態に該当する。(乙1、弁論の全趣旨)
(4) 被控訴人に対して禁治産を宣告する裁判が平成11年12月22日に確定し、Bが同日、後見人に就いた。(争いがない)
3 争点及び主張
本件の争点は、本件免責条項所定の故意によって支払事由である被控訴人の高度障害状態が生じたものであるか否か、すなわち本件行為が同条項所定の故意行為といえるか否かである。
(被控訴人)
(1) 被控訴人は、卵巣癌の手術後、抑うつ気分、著しい体重の減少、ほとんど毎日の不眠、気力や思考力の減退、理由のない罪悪感、本件行為に先行する自殺企図、自分が末期癌であるとの妄想等がみられ、我が国の精神医学界でも利用されることの多いアメリカ精神医学会による精神障害に関する診断と統計のための基準(DSM-Ⅳ)の気分障害中の「大うつ病エピソード」に該当していたし、世界保健機関による国際疾病分類基準10版(以下「ICD-10」という。)のF32.3(精神病症状を伴う重症うつ病エピソード)と診断されるべき重度のうつ病に罹患していた。
本件行為は、被控訴人が重度のうつ病に罹患することによって、正常な認識、行為選択能力が著しく阻害され、自殺行為を思いとどまる精神的な抑止力が著しく障害されていた状態の下でなされたものであり、故意行為に当たらない。
(2) 労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく保険(以下「労災保険」という。)について、「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針について」と題する労働基準局長通達によれば、ICD-10のF0からF4に分類される精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った場合には、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺を思いとどまる精神的な抑止力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたものと推定するとされている。
労災保険が生命保険と異なるのは、労働条件と精神障害発生との間の因果関係だけであり、精神障害と自殺との間の因果関係は、労災保険と生命保険とで異ならない。被控訴人は、本件行為当時ICD-10のF3(気分障害)に該当するうつ病に罹患していたのであるから、本件行為は、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺を思いとどまる精神的な抑止力が著しく阻害されている状態で行われたものと推定されるものである。
(3) 精神障害患者、特にうつ病患者については、自殺念慮、自殺企図という症状が高頻度に伴うものであり、そのことは最高裁判所平成12年3月24日第2小法廷判決も認めるところであり、うつ病患者について自殺行為によって死亡ないし高度障害という結果が惹起された場合、それはうつ病の症状による結果とみるべきである。
(4) 結果発生に対する認識及び認容が保険契約者又は被保険者に存在することをもって、一律にその結果を支払事由とする保険金支払を免責する必要性はなく、保険金を取得する目的をもって自殺に及んだ場合など保険金の支払を行うことが公序良俗に反する場合だけを例外的に除外すれば足りる。控訴人主張のように解することは、支払免責事由の範囲を不当に拡大するものであり、信義則にも反する。
(控訴人)
(1) 被保険者の故意により高度障害状態が生じたというためには、被保険者が高度障害状態に陥ることを認識、認容していたことが必要であるところ、以下に述べるとおり、本件行為は、故意によるものである。
うつ病に罹患していたことをもって直ちに認識、認容がなくなるということはできず、うつ病の支配状態によってうつ病患者に意思決定能力の残存すら望めなかった場合に限り、高度障害状態に陥ることを認識、認容していなかったということができ、その場合に限り故意が否定されるというべきである。本件行為は、うつ状態による制約の下ではあるが、なお残存する意思決定能力に基づいて敢行されたものである。
うつ病それ自体に自殺念慮があるとしても、念慮から実際に自殺という行動を起こすまでの間に、被保険者の故意が存在するのであり、うつ病患者である被保険者が自殺行為に及んだことをもって、その行為に故意がないとはいえない。
(2) 労災保険の給付について、使用者が労働者に対して過酷な労働条件を課し、労働者がうつ病に罹患し、自殺念慮を有し、その結果、自殺に至った場合には、結果発生に対する認識及び認容があったとしても、うつ病に対する業務起因性を重視すると、労災保険法12条の2の2第1項所定の「故意」の存在が認められないと考えることができる。しかし、生命保険契約では、保険者は、被保険者に対し安全配慮義務を負わないし、過酷な労働条件を被保険者に課すわけでもないし、被保険者に特別な保護を与えなければならないわけではない。
(3) 人の有する自己保存本能に反する自殺を行う者には、何らかの精神的変調がみられるのが当然である。自殺者のうち50ないし70パーセントがうつ病に罹患しているとされるから、本件行為が故意によるものと認められないのであれば、免責はほとんど認められなくなり、このようなことは相当ではない。
第4当裁判所の判断
1 証拠(甲4、5の1・2、6、7、13、被控訴人法定代理人)及び弁論の全趣旨によれば、以下のとおり、本件行為に至るまでの経過が認められる。
(1) 被控訴人は、性格的に明るいところもあってBの営む酒屋を盛り立てていた反面、几帳面な性格で整理整頓を心がけ、自分に厳しいところがあり、自分自身では神経質であると思っていた。
(2) 被控訴人は、平成8年9月初めころ、下腹部の異常を訴え、Bの弟の産婦人科医・Cの診察を受けたところ、同人から早急に精密検査を受ける必要があると言われたため、非常に落ち込み、食事も満足に取らなくなった。
被控訴人は、Cの紹介で、奈良県立医科大学付属病院に同年9月25日に入院し、主治医から、「卵巣に悪性の腫瘍ができている。卵巣及び子宮を切除することになる。」との説明を受けた。被控訴人は、Bと2人だけになったときに「情けない」と言って落ち込み、病院側からも落ち込みやすい性格ととらえられていた。
(3) 被控訴人は、平成8年10月1日に子宮全摘術、両側附属器切除等の手術を受け、同日から抗癌剤の投与を受けた。被控訴人は、手術後、「情けない人間です。だめな人間です。」などと天井を見つめたまま話すことが多く、不眠や長期入院についての不安を訴えた。病院側は、被控訴人の不安が強いことから、精神的な援助が必要であると考え、被控訴人の話をよく聞くように心がけ、不眠について睡眠薬を処方するなどした。
被控訴人は、同年10月18日に医師から卵巣癌であることと8か月ほどの入院治療が必要であるとの説明を受け、それを聞いて落ち着いた様子や治療に向けての積極的な言動もあったが、治療についての不安を看護婦らに述べていた。
(4) 被控訴人は、平成8年12月、骨髄液の採取が試みられたが、2回連続で施行が中止されたことから、落ち込みが激しくなり、天井を見つめながら話し、Bや看護婦が何を言っても、「気休めのために言っている。口裏を合わせている。」と言うようになった。
(5) 被控訴人は、平成8年末から翌年始めにかけて自宅で外泊したが、その前に、研修医から「退院できそうですよ」と言われたものの、当初の説明と異なることについて満足な説明がないとして不安になり、医師から「あと半年しか生きられない」と言われたと思い込んだ。Bは、それを強く否定したが、被控訴人と話し合う中で、同人に対し「自分で半年と思っているなら、その半年精一杯生きよ。いさぎよさをみせよ。」とも言った。
被控訴人は、平成9年1月7日、医師から説明を受けて、上記の不安が誤解であると納得したものの、同月12日、「医者のしたい治療ができないのなら助からないかな。もう50年生きてきたし、十分だわ。」などと述べたりもした。
主治医は、平成9年1月14日、被控訴人に対し、抗癌剤等による化学療法を3回で切り上げ、検査の結果次第で化学療法を終了するとの説明をしたところ、被控訴人は、「医者に見放された。もうだめだ。」と言って、自分が末期癌に罹患していると思うようになり、Bや主治医がその経緯を説明しても、信用しなかった。
(6) そのような反面、被控訴人は、平成9年1月20日には花の絵を描いたり、編み物を始め(Bもこれらをよいことだと感じていた。)、同月27日には骨髄液採取がようやく施行されたこともあって、かなり表情が穏やかになった。
被控訴人は、平成9年1月30日から薬剤の処方を受けて良く眠るようになったものの、Bからみてうつが多いと感じられた。しかし、被控訴人は他室の患者とも会話を交わすこともあり、看護婦らからみて表情もやや豊かになったように感じられるときもあった。
(7) 被控訴人は、平成9年2月10日に主治医から被控訴人が患者の中で一番順調であると言われたのにもかかわらず落ち着きがなく、同月13日の夜間に、Bが気づくと病室(5階)のベランダの柵付近におり、「子どものことを考えると、なかなか私も飛び降りる勇気がないのかなあ」などと言いだし、そのようなことがその後も数回あった。医師らは、Bからそのことを聞いても、夜間の巡回を増やすにとどめ、入院から後記の外泊までの間に精神科等の受診を被控訴人に勧めたことは一度もなかった。被控訴人も、最後まで精神科の診察は受けなかった。
被控訴人は、平成9年2月17日、「私はもうあと半年も持たないのではないか。末期だと思う。」と看護婦に対し言った。そのころから、被控訴人は、見舞いに来た親族らに対し、「自分はもうだめです。あとはよろしく頼みます。」などと言った。
被控訴人は、平成9年2月20日、主治医から、順調であり同年5月末に退院予定である旨告げられたのに、これを信用せず、Bの説得も受け入れず、主治医から再度同じ説明を受け、少し落ち着いたものの、半信半疑の様子であった。
被控訴人は、平成9年3月初めころ、睡眠薬を貯めているのをBに見つけられ、取り上げられた。
(8) 被控訴人は、普段は48ないし50キログラムの体重があり、入院時には46.5キログラム、手術後の平成8年10月20日には42キログラムであったが、その後43キログラム位になり、外泊前の平成9年3月2日には45キログラムになっていた。
(9) 被控訴人は、平成9年3月8日、あまり気が進まなかったものの、Bの希望により、自宅に外泊した。Bは、被控訴人の母親から、被控訴人がいつも腰ひもを持ち、取り上げてもすぐに見つけてくると聞いたので、結婚以来初めて被控訴人を殴打した。
被控訴人は、平成9年3月9日、腰ひもをポケットに入れていたところ、Bにこれを取り上げられたが、その後、Bが食事の準備等で目を離したすきに、1階の座敷の欄間にひもをかけて本件行為に及んだ。
2 証拠(甲8、15、22、23、乙39の2)によれば、うつ病等について、以下のとおり認められる。
(1) ICD-10のF3の気分障害のうちのF32(うつ病エピソード)は、以下の基準を設けて、軽症、中等症、重症が区別されている。
(A)①うつ病エピソードが少なくとも2週間続くこと、②人生のいかなる時点においても軽躁病や躁病性症状がないこと、③各エピソードが精神作用物質、器質性精神障害によるものでないこと
(B)①抑うつ気分、②興味と喜びの喪失、③活力の減退による疲労感の増大や活動性の減少
(C)①自信、自尊心の喪失、②自責感、過度で不適切な罪悪感といった不合理な感情、③自殺の観念や自殺的な行為、④思考力や集中力の低下、⑤焦燥あるいは遅滞を伴う精神運動性の変化、⑥睡眠障害、⑦相応の体重変化を伴う食欲の変化
「軽症うつ病エピソード」では、(A)をすべて満たし、(B)のうちの少なくとも2個、(B)と(C)を併せて少なくとも4個が存在する必要がある。
「中等症うつ病エピソード」では、(A)をすべて満たし、(B)のうちの少なくとも2個、(B)と(C)を併せて少なくとも6個が存在する必要がある。
「重症うつ病エピソード」では、(A)と(B)をすべて満たし、(B)と(C)を併せて少なくとも8個が存在する必要がある。「重症うつ病エピソード」には、妄想、幻覚又は抑うつ性昏迷の精神病症状を伴う場合と伴わない場合とに分かれる。
(2) 妄想とは、(1)病的に作られた誤った(不合理な又は実際にあり得ない)思考内容あるいは判断で、(2)根拠が薄弱なのに強く確信され、(3)論理的に説得しても訂正不能なものをいう。
妄想は、1次妄想(心理学的な理由なしに突然不合理な思考が起こり、これが直感的事実として確信されるもの)と2次妄想(患者の異常体験、感情変調、人格特徴、状況等から、妄想の発生や内容が心理学的に了解可能なもの)に分かれる。内容的に、被害妄想、微小妄想、誇大妄想に分かれ、微小妄想の中に、自分が治癒の見込みのない重い病気になってしまったなどの心気妄想がある。
(3) 自殺が企図されるときの精神状態は、多くはうつ状態など精神異常状態にあると考えられる。明らかな精神病による自殺は、自殺全体の10ないし20パーセントといわれている。
うつ病患者の自殺の場合、主観的には当然自殺を認識し念慮し企図して実行されるが、客観的には本人の選択を超える「症状」として現れることに相当の蓋然性がある。また、精神障害による自殺の中では、うつ病が最も多く、一般人口での自殺率を100とした場合、うつ病の自殺率が3610であるとの統計がある。
3 争点についての検討
(1) 前記認定事実及び乙38、42を総合考慮すると、被控訴人は、中等症のうつ病に罹患し、本件行為にはうつ病が影響していたものと認めることができる。そして、うつ病患者のその主観的な自殺の念慮が客観的には本人の選択を超える症状として現れることに相当の蓋然性があることは、前記のとおりである。
しかし、前記のとおり、自殺が企図されるときの精神状態の多くがうつ状態などの精神異常状態にあることに照らすと、精神障害に起因する自殺企図行為のすべてが本件免責条項の「故意」によるものではないと評価することは、契約当事者の合理的意思に反するものであって相当ではない。
ところで、本件行為が故意行為に該当しないというためには、①うつ病罹患前の被控訴人の本来の性格・人格、②本件行為に至るまでの被控訴人の言動及び精神状態、③本件行為の態様、④他の動機の可能性等の事情を総合的に考慮して、うつ病が被控訴人の自由な意思決定能力を喪失ないしは著しく減弱させた結果、本件行為に及んだものと認められることが必要であるというべきである。
そこで、検討するのに、前記のとおり、被控訴人が中等症のうつ病に罹患していただけでなく、本件行為前に5階のベランダの柵に近づいたり、腰ひもを携帯するなどの自殺を企図するような行為をしていたこと、自分は末期癌であると決めてかかり、落ち込んでいたことに照らすと、被控訴人が、うつ病により、自由な意思決定能力を喪失ないしは著しく減弱させた結果、本件行為に及んだとの疑いもないわけではない。
しかし、前記認定事実によれば、①被控訴人は、元来、神経質であって、病院側も落ち込みやすい性格であるとみており、うつ病に罹患したとはいえ、従前と比べて性格や人格に大きな変動があったとはいえないこと、②被控訴人は、単に落ち込むだけではなく、自分の不安や疑念をBや看護婦らに積極的に述べており、同人らとの対話がある程度できていたこと、医師からの説明を受けて、少し落ち着きを取り戻したこともあったことが認められ、また、③Bから腰ひもを取り上げられ、Bが安心して目を離したすきに本件行為に及んだものであり、自殺行為の態様としても不自然とはいえず、④被控訴人は、自分が決めつけていた末期癌の病苦から逃れるという動機から自殺を企図したものと推察できるものであるところ、自殺当日において被控訴人に特段の奇異な言動があったとのことを認めるに足りる証拠はない。これらの諸事情を総合すると、被控訴人の罹患していたうつ病が、同人の自由な意思決定能力を喪失又は著しく減弱させた結果、本件行為に及ばせたものと認めることはできないというべきである。
(2) 被控訴人の主張について
ア 被控訴人は、同人のうつ病が精神病症状を伴う重症であると主張するところ、それに沿う意見書(甲14、24)がある。しかし、被控訴人は精神科の診察を受けたことはなく、したがって、重症のうつ病であるとの診断を受けたわけではないし、病院側も、不安を述べる被控訴人に対して精神科の受診を勧めることまではしておらず、被控訴人について他の患者と比べて不安感が特に強いとか、精神科の受診が必要な程度の重症のうつ病であるとは判断していなかったことがうかがわれる。また、ICD-10の基準によれば、重症のうつ病というためには、前記(B)の①抑うつ気分、②興味と喜びの喪失、③活力の減退による疲労感の増大や活動性の減少のすべてを満たす必要があるところ、前記認定事実によっても、被控訴人について②の興味と喜びの喪失をうかがわせるような事柄はなく、③活力の減退による疲労感の増大や活動性の減少があったと断定することはできず、かえって、絵を描くなどの活動を行ったこともあり、不安な気持ちを積極的に人に述べているのであって、重症のうつ病と認めるための要件を欠くといわざるを得ない。前記(C)のうち、①の自信喪失、③の自殺の観念や自殺的な行為、⑥の睡眠障害については被控訴人に認められる。しかし、②の自責感についてはそのようにみられる言動もあったが、一時的な発言にすぎないし、④の思考力や集中力の低下については、ぼんやりとしていたことがあったとしても、それを直ちに思考力や集中力の低下とみることはできないし、その他にこれをうかがわせるような形跡はなく、⑤の焦燥あるいは遅滞を伴う精神運動性の変化があったと断定するに足りる事情はないし、⑦の体重の変化を伴う食欲の変化については、体重の減少が認められるものの、外泊前には相当程度回復しており、これについても、重症のうつ病と認めるための要件を欠くといわざるを得ない。そうすると、上記基準によっても、被控訴人が重症のうつ病に罹患していたということはできない。
被控訴人は、自分が末期癌であり医者からも見放され半年しか生きられないとの妄想に陥っていたと主張するところ、これに沿う意見書(甲14、24)がある。なるほど、被控訴人の上記の考えは客観的な事実に反し、被控訴人がBらの説明にも容易に納得しなかったことは、前記認定のとおりである。しかし、癌を告知され、患部の摘出手術や抗癌剤の投与を受けた者が、自分が末期癌ではないかと疑い、治療終了や退院の告知がかえって医者からも見放されたと思い、身内の者や医師らが口裏を合わせてこれを否定していると考えること自体、頑迷とはいえても、病的に作られた実際上あり得ない思考内容であるとまではいえない。そして、被控訴人のこのような思考を、心理学的に内容等の了解が可能である前記の2次妄想であるということはできず、そのほかに被控訴人が妄想に陥っていたことを認めるに足りる証拠はない。
イ 被控訴人は、「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針について」と題する労働基準局長通達(乙39の1)の第6が「ICD-10のF0からF4に分類される多くの精神障害では、精神障害の病態としての自殺念慮が出現する蓋然性が高いと医学的に認められることから、業務による心理的負荷によってこれらの精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った場合には、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたものと推定し、原則として業務起因性が認められる。」とすることを挙げて、本件行為の場合にも同様の推定が働くと主張する。
そこで、検討するのに、同通達は、精神障害等の労災認定に係る専門検討会の検討結果(平成11年7月29日)によるものである。同検討会は、労災保険法12条の2の2の性格について、労働基準法78条との対応関係を明確にするため、労働者の故意又は重大な過失について内容を明確に区分して、故意の場合は当然に業務外であるから不支給とし(1項)、重大な過失の場合には支給を制限することとした(2項)ととらえた。同検討会は、その上で、労災保険法12条の2の2第1項の故意とは、自己の一定の行為により負傷等又はその直接原因となった事故を発生させることを「意図」した場合をいうとの行政解釈に沿って、業務上の精神障害によって、正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたものと認められる場合には、結果の発生を「意図」した場合には該当しないと解するのが適当であるとし、更に被控訴人指摘の推定をする取扱いが妥当であるとするものである。(乙39の2)
しかし、労災保険法の前記条項は、前記のとおり、故意がある場合には当然に業務外であることから支給の対象外であることを確認的に規定したものであるのに対し、本件免責条項は、被保険者が故意に保険金の支払われる事態を発生させることは当事者間の信義誠実の原則に反することから保険金を支払わないことにしたものと考えられ、その趣旨を異にするものである。なお、被控訴人と控訴人との間で、業務上か業務外かを論ずるような関係(雇用関係)がないことはいうまでもないことである。したがって、本件免責条項に関して、同通達と同一の推定が働くと解することは困難である。
ウ 被控訴人は、保険金取得を目的としていないような故意行為は本件免責条項の適用を受けないと主張する。しかし、本件免責条項は、文理上も保険金取得を目的とした故意の場合に限り支払の免責を受けるというようには定められていない。また、本件免責条項は、保険金詐取を排除する目的だけでなく、射倖契約である生命保険契約において強く要請される当事者間の信義誠実の原則を趣旨とし、被保険者が保険事故を自ら招くことを防止し、保険契約上の危険予測を確実にして健全な保険制度の運営維持を図るということをも趣旨としていると考えられるものである。したがって、保険金取得そのものを目的としていなくても、故意行為は、本件免責条項の適用を受けるものと解するのが相当である。
(3) 以上によれば、本件行為は、故意行為に該当し、本件免責条項上の故意によって被控訴人の高度障害状態が生じたものということができるものである。
そうすると、控訴人は、本件行為により生じた被控訴人の高度障害状態について高度障害保険金の支払を免責されるというべきである。
4 したがって、被控訴人の請求は理由がないから、これを認容した原判決を取り消して被控訴人の請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中田昭孝 裁判官 竹中邦夫 栂村明剛)