大阪高等裁判所 平成14年(行コ)36号 判決 2003年12月11日
控訴人(1審被告)
地方公務員災害補償基金神戸市支部長Y
同訴訟代理人弁護士
石丸鐵太郎
被控訴人(1審原告)
X
同訴訟代理人弁護士
麻田光広
主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1当事者の求めた裁判
1 控訴人
(1) 原判決を取り消す。
(2) 被控訴人の請求を棄却する。
(3) 訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人の負担とする。
2 被控訴人
主文と同旨
(以下,被控訴人を「原告」,控訴人を「被告」という。)
第2事案の概要
本件は,原告の夫であり,神戸市長田区消防署(以下「長田消防署」という。)の管理係長であった訴外亡Aが,平成5年9月8日に自殺したが,亡Aの自殺は,長田消防署管理係長としての公務に起因するものであるとして,原告が被告に対し,地方公務員災害補償法に基づく公務災害の認定を請求したところ,被告が平成8年8月19日付で公務外の災害であると認定したため(以下,この認定処分を「本件処分」という。),本件処分の取消しを求めた事案である。
原判決は原告の本訴請求を認容して本件処分を取り消し,被告が原判決を不服として本件控訴を提起した。
1 争いがない事実等
争いがない事実及び証拠により容易に認定できる事実は,原判決2頁5行目から3頁1行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。
2 争点
亡Aの自殺と公務との間に公務起因性(相当因果関係)があるか。
3 原告の主張
次のとおり付加,訂正等するほか,原判決3頁5行目から9頁20行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。
(原判決の訂正等)
(1) 原判決4頁13行目冒頭に「イ」を,同18行目冒頭に「ウ」を各加える。
(2) 同7頁22行目及び同23行目を次のとおり改める。
「イ 亡Aには,平成3年4月下旬ころまでに,うつ病の症状が現れていたが,その後,職場において適切な措置がとられず,何らの診療も行われないままストレスにさらされ続け,その間に症状が重症化していき,同年7月に淀川キリスト教病院で診察を受けた時には,既に重症うつ病の病像が完成するに至っており,心因性のうつ病として始まったものが,重症化し,内因性うつ病として完成したものである。したがって,亡Aに加わったストレスの原因を考慮するに当たっては,同年4月当時の出来事だけでなく,その後の同年5月から7月ころまでの出来事を全て検討しなければならない。以下,専門検討会報告書における評価基準によって,前記(2)の各事実について,亡Aのストレスの強度を検討する。」
(3) 同8頁21行目の「前記」を削り,同末行の「ストレス」から9頁2行目末尾までを「ストレスの強度は,単純に中等度の強度Ⅱではなく,個別的にみれば強度Ⅱか,それ以上のストレス要因が多数重なって存在し,全体的な評価では大きな心理的負荷が加わっていたものである。」と改める。
(4) 同9頁7行目末尾の次に次のとおり加える。
「なお,うつ病の症状は,脳の中の生化学的レベルにおける変化により引き起こされるものであるため,「生化学的レベルの変化を起こしやすい素質」というものを想定し,遺伝子レベルでの研究が行われている。しかし,上記の素質や生化学レベルでの変化の発生機序は現在でもほとんど判明しておらず,上記の素質とメランコリー親和型性格との関連も全く明らかではないのであって,上記の素質がうつ病の原因とはいえず,個体的要因として考慮されるべきではない。また,亡Aのうつ病は,治療を受けたにもかかわらず改善していないが,心因に誘発された内因性うつ病においては,診療や職場における適切な措置が行われないまま内因性うつ病になった時点で,既に脳内の生化学レベルでの異常が生じており,心因を除去しても症状が急速に改善に向かわないのが当然であり,難治性を根拠に個体要因(内因)が主たる原因となっているとはいえない。」
4 被告の主張
次のとおり付加,訂正するほか,原判決9頁22行目から21頁15行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。
(原判決の訂正等)
(1) 原判決10頁10行目末尾の次に改行の上,次のとおり加える。
「 また,公務と疾病の間に「相当因果関係」があるとするには,当該公務が当該職員の日常業務より重い業務でなければならないことはもちろん,日常業務に比較して「かなり重い業務」という程度では足りず,疾病の原因となり得るほどの「特に過重な業務」に就労したことが必要である。」
(2) 同14頁末行から15頁4行目までを次のとおり改める。
「(ア) うつ病の発病は,単一の病因ではなく素因,環境因(身体因,心因)の複数の病因が関与すると考えられ,環境からくるストレスと個体側の反応性,脆弱性との関係で精神的破綻が生じることによって発症するとされている(「ストレス脆弱性」理論)。したがって,どのような些細なストレスであっても,個体側の反応性が極めて鋭敏な場合は,うつ病が発症してくる可能性は否定できない。しかし,極めて弱いストレスを契機として発症したうつ病に公務起因性(相当因果関係)を認めることは,公務に内在した危険性の現実化したものとして補償するという地方公務員災害補償制度の枠組みからは許されず,うつ病が公務に起因するとは,単に公務がうつ病の原因の一つあるいは引き金となっているだけでは足りず,公務が他の原因と比べて「相対的に有力な原因」となっていなければならない。そして,「相対的に有力」とは,当該公務によるストレスがうつ病の発症の原因となり得るほどの「特に過重な業務」でなければならない。また,公務起因性の判断に当たっては,日常業務(公務)を支障なく遂行できる健康状態にある者を基準としなければならない。」
(3) 同15行目(ママ)18行目から17頁19行目までを次のとおり改める。
「(ウ) 亡Aの公務上のストレスの内容,程度
a 亡Aのうつ病が発症した時期は平成3年4月末ころであり,亡Aのうつ病と公務との間に相当因果関係があったか否かを判断するためには,同年4月当時,亡Aにどの程度の公務上のストレスが存在したかを検討しなければならない。他方,亡Aのうつ病は同年4月末には既に発症しているのであるから,同年5月以降の公務上のストレスは,基本的には,亡Aのうつ病の発症との間で因果関係はない。以下,同年4月当時の公務上のストレスを中心に検討する。
b 亡Aが平成3年4月当時に受けていた公務からのストレスは,同月1日より長田消防署予防査察係長から同署内の管理係長に配置転換されたことであり,新しい人間関係及び新しい公務であることから,それ相当の公務上のストレスが存在していたことは否めない。しかし,そのストレスの強度は,専門検討会報告書におけるストレス強度の分類(厚生労働省が出している労働災害の認定に関する「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針」(以下「判断指針」という。)におけるストレス強度の分類も同旨)では,中等度である強度Ⅱである。
なお,このストレス強度の分類では,仮に強度Ⅲに該当するとしても,それは100点満点スケールでせいぜい60~80点程度であり,その程度では一般的に精神障害発病の重要な原因となるものではなく,その出来事によって関連して生じる,慢性的長時間労働,支援協力状況の欠如等が総合評価されてストレスが「強」と認められる程度になったときに初めて公務起因性が認められるストレス要因となり得るものである。
そして,本件では,以下のとおり,上記の配置転換についての強度Ⅱのストレス強度に修正を加える必要性はない。
c 専門検討会報告書及び判断指針においては,前記の配置転換のストレス強度を修正する視点としては,「職種」,「職務の変化の程度」,「合理性の有無」などが挙げられている。
しかし,「職種」は,同じ消防職員であり変化はない。
「職務の変化の程度」については,予防査察係から管理係に職務の変化は見られるが,その程度は高いものとは考えられず,同じ長田消防署内での配置転換であり,直属の上司(副署長)は同じで,予防査察係当時の部下2名とともに異動している上,亡Aは係長として13年の経験を有しており,予防査察係長から管理係長へと同じ「係長」という管理職への配置転換であり,直属の上司や前任者も相談に応じていた。なお,コミセンの業務署長公舎の改装業務,出納閉鎖を含めた経理業務などは亡Aにとって新しい職務ではあるが,管理係の出納閉鎖,公舎の整備及び駐車場設置問題もそれほど困難な案件ではなく,コミセンの業務は管理係の所管ではあるが,コミセンには専務員を配置し,日常業務は同専務員が行っており,また,係員としてBが担当していたため,亡Aにとってさほど困難な業務ではなく,配置転換において当然予定された職務の変化の中に含まれており,そのストレス強度の中において評価されている。
さらに,「合理性の有無」であるが,予防査察係から管理係への配置転換には特段不合理性はない。
d 配置転換では,上司(本件では署長)の変更は当然の前提となっている。そして,亡Aが過去にC署長と折り合いが悪かったとしても,それは平成3年から18年も前である昭和48年のことであり,その当時C署長が亡Aに厳しく当たったという事実もなく,ストレス強度を増強修正する必要性はない。むしろ,18年前の職場での出来事に嫌悪感を露わにするなどは,公務上の人間関係として取り扱われるべきではなく,私的な個人的な対人葛藤として処理されなければならないものである。
さらに,平成3年4月の配置転換後において,亡Aのうつ病が発症する同月末までの間において,C署長が亡Aに厳しく当たったという明確な事実は存在せず,上司とのトラブル自体のストレス強度は強度Ⅱであるものの,嫌がらせやいじめの意図でなされたものではなく,執拗でもなかったことから,ストレス強度を増強修正する必要性はない。なお,ここでも留意しなければならないことは,上司に対する私情までも公務上の人間関係として取り扱うことは不適当なことである。
e そして,亡Aのうつ病が発症したのは,配置転換があり,一定のストレスが発生し出した後わずか1か月足らずであり,まだストレスの集積がなされていない点に留意しなければならない。また,亡Aの超過勤務は,平成3年4月で38時間であり,多少の誤差を考慮しても,前任者と比べて有意な差異は認められない。肉体的過労等を生じさせるほどの超過勤務とは,週40時間を超える程度の超過勤務が数週間から1か月程度連続するような場合をいうものであり,亡Aの超過勤務時間数はそれには遠く及ばない。
f 以上によると,亡Aの平成3年4月末までの公務上のストレス強度は,中程度の強度Ⅱであり,これを増強修正すべき必要性はなく,到底精神障害発病の重要な(有力な)原因とはなり得ない。
g なお,念のために,平成3年5月以降の公務上のストレスについても検討する。
まず,経理関係業務を巡るC署長の言動については,同署長は亡Aに前年度の経理処理の不審点を問いただしたり,経理関係書類の説明を担当者に直接求めたり,会計支出について署長が直接指示したりしたことがあるものの,亡Aにそれほどのストレスを蓄積させるものではなかった。
また,署長公舎の改修,駐車場設置については,亡Aは,D副署長と相談しながら業務を遂行しており,経費面も本庁担当者と調整を行っており,さしたるストレスは生じなかった。加えて,C署長は自ら決めていくことも多く,亡A自身で決定する苦労は少なかった。駐車場設置に係る近隣対策については,C署長と亡Aとの間で同年5月に意見の衝突があったが,C署長は,直後に,再度指示したり,D副署長に対しフォローするよう指示したり,その後冷却期間の意味を含めて亡Aへの直接指示をできるだけ避けたりした上,その後はD副署長が亡AとC署長との間で緩衝材の役目を果たした。したがって,C署長と亡Aとの間に一時的ストレスが発生したとしても,漸次減少していった。
さらに,同年6月に入り,クーラーが不調となったが,この修理は通常の管理係の職務そのものであり,Bが担当者で,住宅局営繕課や製造メーカーと折衝し,2週間で修理が完了している。
なお,同年5月以降の亡Aの超過勤務は,同年5月で35時間,同年6月で20時間であり,多少の誤差を考慮しても,前任者と比べて有意な差異は認められない。
したがって,仮に平成3年4月末までの公務上のストレスに加え,同年5月以降の公務上のストレスについて考慮するとしても,これらのストレスの強度は,中程度の強度Ⅱであり,これを増強修正すべき必要性はなく,到底精神障害発病の重要な(有力な)原因とはなり得ない。」
(4) 同18頁5行目の「考えられるが,」の次に「前記のとおり,そもそも上記事象のうち,亡Aのうつ病が発症した後である平成3年5月以降の事象は基本的にうつ病の発症と因果関係はない上,」を加え,同20行目の「同センター」を「コミセン」と改める。
(5) 同19頁13行目の「A自身」から同14行目の「伏在」」までを「亡A自身の「脳のそういうことを起こしやすい素質」の伏在」と,同15行目の「「内因性うつ病」であり,」を「「内因性うつ病」で,しかも,重症で難治性である上,前記(ウ)のとおり,亡Aが公務から受けたストレスの程度そのものがさしたるものではなかったのであるから,」と,同25行目の「脳の「そういうことを」を「「脳のそういうことを」と,21頁9行目の「脳に「そういうことを」を「脳のそういうことを」と各改める。
第3当裁判所の判断
1 事実関係等
次のとおり付加,訂正等するほか,原判決21頁17行目から39頁2行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。
(原判決の訂正等)
(1) 原判決21頁17行目冒頭の「1」を削り,同19行目(115頁右段31行目の<証拠省略>)の「8~12」を「8~13」と,同20行目の「11,12」を「11~13」と,22頁7行目の「昭和54年及び55年には」を「昭和54年から平成2年までの間に5回」と各改め,同25行目から末行にかけての「関すること,」の次に「整備管理者及び安全運転管理者の職務に関すること,」を加える。
(2) 同23頁3行目の「9~12」を「9~13」と改め,25頁20行目の「クーラー点検」の次に「について」を加える。
(3) 同31頁4行目の「23の2,」の次に「乙15,」を加え,同25行目の「意識障害」を「感情障害,意欲障害」と改める。
(4) 同33頁25行目末尾の次に改行の上,次のとおり加える。
「(3) 専門検討会報告書のストレス評価(<証拠省略>)
専門検討会報告書は,ストレスの強度の客観的評価の基準として,ストレス強度をⅠないしⅢに分類した上(Ⅰは日常的に経験する心理的社会的ストレスで,一般的に問題にならない程度のストレス,Ⅲは人生の中で稀に体験するような強い心理的社会的ストレス,Ⅱはその中間に位置する心理的社会的ストレス),業務に関連しあるいは業務以外の場面で一般的に経験する一定以上のストレスを伴うと考えられる出来事を例示し,当該出来事が平均的評価として上記のストレス強度のいずれに位置付けられるか,個別具体的な内容からその平均的評価を変更する必要がないか,出来事の後の変化はどうであったか,出来事により発生した問題や変化はその後どの程度持続し,あるいは拡大し,あるいは改善したのかについて検討し,総合評価を行うことを提案している。」
(5) 同33頁末行を「(4) E医師,F医師及びG医師の亡Aのうつ病についての医学的意見」と改め,36頁3行目の「甲12」の次に「,30」を,37頁18行目末尾の次に改行の上,次のとおり各加える。
「 なお,うつ病は,ある特定の日時に全ての症状が備わった形で「現れる」と考える必然性はない。うつ状態が現れ始めた時に,医師の治療を受ける,あるいはストレスの軽減を図ることにより,その症状が軽減することもあり,他方,何の治療も受けずに,同じような,あるいはより大きなストレスにさらされ続けることにより,「内因性うつ病」が発症することもある。」
(6) 同39頁2行目末尾の次に改行の上,次のとおり加える。
「 なお,亡Aのうつ病の発症時期については,平成3年4月1日の配置転換以降にストレスが始まり,同年7月16日の淀川キリスト教病院での初診時までに,心因に誘発された内因性うつ病が発症したものであり,発症の時期を同年4月中である,あるいは5月中旬以前であると特定することはできない。また,亡Aのうつ病は,配置転換を受けたにもかかわらず改善していないが,いったん誘発されてしまった内因性うつ病においては,誘発させた「心因」を除去しても急速に改善することはない。」
2 亡Aの自殺の公務起因性について
(1) 公務起因性の判断基準
地公災法31条の「職員が公務上死亡した場合」とは,職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい,同負傷又は疾病と公務との間には相当因果関係のあることが必要であり,その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならないと解すべきである(最高裁判所第二小法廷昭和51年11月12日判決・裁判集民事119号189頁参照)。そして,地方公務員災害補償制度が,公務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に,使用者に何ら過失はなくても,その危険性の存在ゆえに使用者がその危険を負担し,職員に発生した損失を補償するとの趣旨から設けられた制度であることからすると,上記相当因果関係があると認められるためには,公務と負傷又は疾病との間に条件関係があることを前提とし,これに加えて,社会通念上,公務が当該疾病等を発生させる危険を内在又は随伴しており,その危険が現実化したといえる関係にあることが認められることを要するものと解すべきである。
なお,この公務の危険性は,当該職員と同種の公務に従事し,又は当該公務に従事することが一般的に許容される程度の心身の健康状態を有する職員を基準として判断すべきものと解する。
また,本件のような精神障害に起因する自殺の場合には,<1>公務と精神障害との間の相当因果関係があること,すなわち,精神障害の発症が当該公務に内在又は随伴する危険が現実化したといえることに加え,<2>当該精神障害と自殺との間に相当因果関係が認められることが必要である。
(2) 本件自殺の公務起因性
ア 亡Aのうつ病と公務との相当因果関係
(ア) うつ病の公務起因性の判断基準
専門検討会報告書(<証拠省略>)及び弁論の全趣旨によれば,従来,うつ病を含む精神障害は,成因により,器質性(外因性),機能性(内因性)及び心因性(反応性)の三つに分類されてきたところ,これが行政実務にも反映され,上記三つの分類に依拠したうえで,器質性(外因性)及び心因性(反応性)の精神障害が業務による疾病と取り扱われ得るものとされてきたこと,しかし,現代の精神医学では,精神障害の発病は,単一の病因によるものではなく,素因,環境因(身体因,心因)の複数の病因が関与し,多元的原因で発病するものであって,その成因を上記の三つに必ずしもせつ然と分類することはできないし,これを三つに分類することは実際的でもないと考えられていること,そして,精神障害の成因については,「ストレス-脆弱性」理論(環境からくるストレスと個体側の反応性,脆弱性との関係で精神的破綻が生じるかどうかが決まるという考え方で,ストレスが非常に強ければ,個体側の脆弱性が小さくても精神障害が起こるし,逆に脆弱性が大きければ,ストレスが小さくても破綻が生ずるとされる。)によって理解することが多くの人に受け入れられていること,したがって,上記三つの分類に依拠する行政実務の在り方の見直しが必要であり,専門検討会報告書においても,上記の医学的見地に立って,ほとんどの精神障害がその原因として心理的社会的原因が無視できないことから,器質性(外因性)精神障害は別として,業務による疾病と取り扱われ得るのはいわゆる心因性(反応性)精神障害に限るとする従前の行政実務における取扱いはこれを修正する必要があるとの見解を示していることが認められる。
そして,前記1(3)に示されている各医師の亡Aのうつ病についての医学的意見は,ニュアンスの差はあるにしても,いずれも,亡Aのうつ病が,仕事上のストレスとメランコリー親和型性格等の内的要因とが相まって発症したうつ病であること,その発症については仕事上のストレス要因が大きな要素を占めていることを認めるものであり,それらは,前記専門検討会報告書で示された精神障害の成因についての現在の精神医学における理解・知見にもかんがみれば,亡Aのうつ病が,従前使われてきた器質性(外因性),機能性(内因性)及び心因性(反応性)の3分類によってはせつ然と分類し難いうつ病であることを示すものにほかならないと考えられる。そうすると,亡Aのうつ病の症状に内因性うつ病の症状を示すものがあるからといって,そのことのみから直ちに公務起因性を否定するのは妥当ではなく,亡Aの罹患したうつ病についての内在的素因の程度,亡Aの従事した公務の内容・状況,公務外の事情等を総合考慮し,社会通念上,亡Aの公務がうつ病を発生させる危険を内在又は随伴しており,その危険が現実化したといえる関係にあることが認められるか否かによって判断するのが相当である。そして,亡Aの公務がうつ病を発生させる危険性については,亡Aと同種の公務に従事し,又は当該公務に従事することが一般的に許容される程度の心身の健康状態を有する職員を基準として判断すべきである。
(イ) 亡Aの素因の程度
前記1の認定事実及び証拠(<証拠省略>)によれば,亡Aは,メランコリー親和型性格であったこと,それに加えて,内因性うつ病を起こしやすい脳内の何らかの素質を有していたものと認められる。
しかし,前記1の認定事実及び前掲各証拠によれば,メランコリー親和型性格の持ち主は,社会適応上むしろ良好で,日本人に割合多くみられる性格である上,亡Aのメランコリー親和型性格も通常人の正常な範囲を逸脱するものではなかったこと,また,前記「内因性うつ病を起こしやすい脳内の何らかの素質」は,それ自体,何であるのか判明していないことはもとより,それがどのような機序を経て,うつ病を発症させるに至る脳内の生化学的レベルでの変化(伝達物質の異常)を生じさせるのかもほとんど解明されていないし,その存在を客観的に証明することもできておらず,亡Aの個体としての脆弱性を強める要素として大きく評価することはできないこと,そして,亡Aは,本件のうつ病発症に至るまで,長年にわたり優秀な消防士として勤務しており,何ら精神障害の既往歴はなかったし,家系的・遺伝的な要因も認められず,20歳のときに肝臓病を患った以外は,アルコール症やその他の身体疾患の既往歴もなかったことが認められる。
(ウ) 公務の内容・状況
a 検討の対象となる公務について
被告は,亡Aのうつ病は平成3年4月末に発症しており,公務の内容・状況を検討するに当たっても同月当時に限定すればよい旨主張し,H医師も同趣旨の意見を述べている(<証拠省略>)。
しかし,前記1の認定事実及び証拠(<証拠省略>)によれば,亡Aにおいては,確かに平成3年4月末ころにはうつ病の症状が現れていたが,その後治療も受けずに症状が重症化して行き,同年7月に淀川キリスト教病院で診察を受けたころまでにうつ病として病像が完成したものと認められる。したがって,亡Aの公務の内容・状況を検討するに当たっては,平成3年4月当時に限定せず,同月から同年7月までの公務の内容・状況を検討する必要があり,上記の被告の主張及びH医師の意見は採用することができない。
b 配置転換によるストレス
前記1の認定事実によれば,亡Aは,昭和53年から各地の消防署において係長の役職を務めていたが,平成3年4月に長田消防署管理係長の職に就くまでは,管理係の所管事務である経理・庶務等の事務に携わったことがなかったこと,C署長と亡Aは,昭和48年4月1日から同年9月末日までの間,消防課管制第2係で上司・部下の関係にあったが,亡Aは,C署長のワンマンぶりに我慢できず,自ら異動を申し出たことがあったことが認められることにかんがみると,平成3年4月の管理係長への就任は,同じ長田消防署内での異動であり,直属の上司(副署長)に変更がなく,従前の部下2名も同時に管理係に異動となった点を考慮しても,亡Aに対し,初めて携わる経理・庶務等の事務に対する不安及び緊張にとどまらず,さらに過去にあつれきのあった上司との人間関係に対する極度の不安及び緊張が加わった,通常の配置転換に伴う不安や緊張等のストレスを超えた,かなり強度の精神的負荷を与えるものであったと認めるのが相当であり,その強度は,専門検討会報告書のストレス強度Ⅱを上回るものであったというべきである。
被告は,亡Aが過去にC署長と折り合いが悪かったとしても,それは18年も前のことであり,その当時C署長が亡Aに厳しく当たったという事実もなく,むしろ18年前の職場での出来事に嫌悪感を露わにするなどは,公務上の人間関係として取り扱われるべきではなく,私的な個人的な対人葛藤として処理されなければならないものである旨主張し,H医師も同趣旨の意見を述べている(<証拠省略>)。
しかし,C署長は,昭和57年ころに広域消防の消防長であったときにも,部下であった広域消防職員の一人に対し他の職員らの面前で厳しい言葉で叱責したこと等から,同職員に対し,Cを「殺したい。」と思わせるほどに精神的苦痛を与えたり,また,他の職員からも,Cを「絶対許せない。これから行って殺したる。」という言葉を発するほどに強い反感を持たれていたことは前記認定のとおりであり,過去にあつれきのあった上司と同じ職場になることは必ずしも稀ではないことを合わせ考慮すると,亡AのC署長との過去のあつれきは,公務上の出来事として相当因果関係の判断の基礎事情に当たるものと認めるのが相当であり,私的な個人的な葛藤として扱うのは相当ではなく,上記の被告の主張及びH医師の意見は採用することができない。
c C署長とのあつれきによるストレス
前記1の認定事実によれば,C署長は,亡Aに対し格別嫌がらせやいじめを行う意図を抱いていた事実までは認められないものの,経理関係事務の決裁の際には詳細なチェックを行い,疑問点が生じる度ごとに亡Aに詳しい説明を求め,特に,前署長当時の会計帳簿上の使途不明箇所について亡Aを追及し,亡Aが十分に説明できなかったときには,起案担当者であるBを呼び,亡Aの目の前で直接説明をさせ,あるときは部下である管理係員の面前で大声でどなり,書類を机にたたきつけたりしたこともあったこと,署長公舎の備品購入に際しては,費用の捻出方法に配慮せず,次々と亡Aに指示したこと,署長公舎の駐車場設置工事については,亡Aを介さずに直接,業者と交渉したり業者に催促したりしたため,亡Aの事務量が増えたこと,上記駐車場設置工事に伴う近隣住民への挨拶回りの件では,意見の相違から亡Aを大声で叱責したこと等,亡Aの自尊心を傷つけるような度重なる指示命令・叱責等を行ったため,亡Aに強度の心理的負荷を与えたものと認められる。
そして,C署長は,昭和57年ころに広域消防の消防長であったときにも,部下であった広域消防職員の一人に対し他の職員らの面前で厳しい言葉で叱責したこと等から,同職員に対し,Cを「殺したい。」と思わせるほどに精神的苦痛を与えたり,また,他の職員からも,Cを「絶対許せない。これから行って殺したる。」という言葉を発するほどに強い反感を持たれていたこと,長田消防署署員においても,C署長が部下を叱責する際の言葉及び口調はかなり厳しいと感じていたことも既に認定したとおりであり,これらの事実にも照らせば,C署長の亡Aに対する指示命令及び言動は,亡Aと同種の公務に従事し,又は当該公務に従事することが一般的に許容される程度の心身の健康状態を有する職員を基準としても,強度の心理的負荷を与えるものであったものと認められ,そのストレス強度は,専門検討会報告書のストレス強度Ⅱを上回り,ストレス強度Ⅲに近いものであったというべきである。
被告は,この点に関しても,上司に対する私情であるとして公務上の人間関係として取り扱うことは不適当である旨主張し,H医師も同趣旨の意見を述べているが(<証拠省略>),公務上の出来事として相当因果関係の判断の基礎事情に当たると認めるのが相当であり,私的な個人的な葛藤として扱うのは相当ではなく,上記の被告の主張及びH医師の意見は採用することができない。
また,被告は,C署長は自ら決めていくことも多く,亡A自身で決定する苦労は少なかったし,署長公舎の駐車場設置に係る近隣対策についてのC署長と亡Aとの意見の衝突については,署長が直後に再度指示したり,副署長に対しフォローするよう指示したり,亡Aへの直接指示をできるだけ避けたり,副署長が亡AとC署長との間で緩衝材の役目を果たしたから,C署長と亡Aとの間に一時的ストレスが発生したとしても,漸次減少していったと主張し,これに沿う証拠(<証拠省略>)も一応存在する。
しかし,前記1の認定事実に照らせば,C署長自らあるいはD副署長を通じてとられた善後策も結局は効を奏しなかったものである上,これらの善後策に対する反応も個人差があり,これらの方策によって,そのあつれきが必ず緩和されるものでもないことにかんがみれば,被告の上記主張に沿う証拠は,前記の認定,判断を左右するものではない。
d 公務の加重性の程度
前記1の認定事実によれば,亡Aの平成3年4月ないし同年7月ころ当時の主な職務内容は,長田消防署管理係長として,管理係の事務を統括することであったこと,しかしながら,亡Aが実際に従事した職務の内容は,上記の管理係の事務の統括にとどまらず,経理等の事務に関し,C署長による決裁を受け,詳細な説明を求められたり,内容について厳しく追及されたりしたほか,署長公舎の駐車場設置工事に伴う近隣住民への挨拶回りを行ったり,同工事のために消防局や業者と連絡を取ったり,コミセンの資料の作成やコミセン利用者からの苦情処理をしたり,クーラーの点検・修理のために外部の業者らと連絡や折衝を行ったり,あるいは点検・修理に立ち会ったりする等,多くの雑務処理を行っていたことが認めらる(ママ)。また,これらの雑務処理の職務は,その性質上,署外での業務を伴うものが多かったことから,決裁書類の作成や管理係員の作成書類の決裁等の統括事務を勤務時間内に終わらせることができず,超過勤務も相当長時間に及んだことが推認される。これらの事実を総合すれば,亡Aは,当時,管理係長としてかなり多忙な状況下にあり,過重な公務を遂行していたものと認めるのが相当である。
これに対し,被告は,亡Aの従事した業務内容及び時間外勤務時間数は,通常うつ病を発症させる程度の精神的,肉体的負荷を与えるものとはいえないと主張し,これに沿う証拠(<証拠省略>)も一応存在するが,前記のとおり,亡Aは,管理係長として管理係の事務の統括のみならず,係員が従事する職務以外の多くの雑務処理を行っていたこと,Bら管理係員らは,通常午後7時ないし7時30分ころには勤務を終えていたことに加え,証人Bは,亡Aの超過勤務時間数について明確な記憶がなく,クーラーの故障の件については,亡Aは業者に連絡を取ったこと以外していないと思うと証言し,また,亡Aの業務を手伝った記憶がないから忙しくなかったと思うといった前記1の認定事実に反する証言をしていることからすれば,Bらは,上記の亡Aの個々の事務内容について十分認識してはいなかったものと認められ,したがって,証人Bの証言及び陳述書(<証拠省略>)の記載並びにIの陳述書(<証拠省略>)の記載をそのまま採用することはできず,他に上記認定を覆すに足りる証拠はない。
(エ) 亡Aの公務外のストレスの存否
前記1の認定事実及び証拠(<証拠省略>)によれば,亡Aにおいては,平成3年4月から同年7月までの間,公務外でストレスの原因となる状況は特段存しなかったものと認められる。
(オ) 小括
前記(ア)ないし(エ)で検討した点を総合考慮すれば,亡Aがうつ病に罹患したことについては,公務外のストレスはその要因とはなっておらず,亡Aのメランコリー親和型性格等の素因が介在していたことは否定できないとしても,メランコリー親和型性格自体は格別異常なものではなく,むしろ肯定的な評価もなされている上,亡A自身のメランコリー親和型性格も通常人の正常な範囲を逸脱するものではなく,前記「内因性うつ病を起こしやすい脳内の何らかの素質」も,脆弱性を強める要素として大きく評価することはできず,そのほかに亡Aの素因として異常な点は存しない。他方,前記(ウ)の公務により亡Aには精神的,肉体的に相当強度の負荷が加わっていたものであり,素因よりも公務上のストレスがより大きな要因となっていたものと認めるのが相当である。したがって,本件においては,社会通念上,亡Aの公務がうつ病を発生させる危険を内在又は随伴しており,その危険が現実化したといえる関係にあるものと認められるから,亡Aの公務とうつ病との間に相当因果関係を認めることができる。
なお,被告は,亡Aのうつ病が内因性うつ病であり,しかも,重症で難治性であることから,亡Aの公務とうつ病との間に相当因果関係はない旨主張し,H医師もこれと同趣旨の意見を述べている(<証拠省略>)。
しかし,前記1の認定事実及び証拠(<証拠省略>)によれば,亡Aのうつ病は,亡Aが入院及び通院による治療を受け,他の部署への配置転換を受けたにもかかわらず,改善をみていないが,職場等におけるストレスが要因となり,診療や職場における適切な措置が行われずに発生してしまった内因性うつ病においては,上記のストレスの原因を除去し治療をしても急速に改善することはないとされているのであって,公務において亡Aに加わった精神的,肉体的負荷の強度に照らせば,亡Aのうつ病が重症で難治性であることをもって,亡Aの公務との間の相当因果関係を否定することはできず,上記の被告の主張及びH医師の意見は採用することができない。
イ 亡Aのうつ病と自殺との相当因果関係
亡Aのうつ病と自殺との間にも相当因果関係があるものと認めるのが相当であるが,その理由は,原判決47頁20行目から48頁14行目までに記載のとおりであるから,これを引用する。ただし,原判決48頁13行目の「総合すると,」の次に「亡Aは本件うつ病の自殺念慮により自殺したものであり,」を,同14行目末尾の次に改行の上,次のとおり各加える。
「 なお,被告は,公務員が自殺した場合,死亡に至るにつき,当該公務員の故意が介在しているから,原則的には,公務と自殺との間に相当因果関係(公務起因性)は認められず,仮に,公務に従事して精神疾患に罹患した者が自殺をしたとしても,それが,当該精神疾患の症状の具現化として死亡するに至った場合(精神疾患に罹患した状態にあり,かつ,自殺を認識しない状態〔故意を認められない状態〕)でなければ,当該自殺は,被災職員の自由意思によるもので,相当因果関係はないと判断しなければならない旨主張し,亡Aについても,相当因果関係を否定する趣旨の主張をしているものと解される。
しかし,公務上の精神障害によって,正常な認識,行為選択能力が著しく阻害され,又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害された状態で自殺が行われたと認められる場合には,結果の発生を意図した故意には当たらず,公務と自殺との間に相当因果関係が認められると解するのが相当である。そして,前記認定の亡Aの病状及びうつ病罹患者の自殺念慮の強さによれば,亡Aの自殺は,うつ病によって,正常の認識,行為選択能力が著しく阻害され,又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害された状態で行われたものと推認するのが相当であり,結果の発生を意図した故意によるものとはいえないから,被告の上記主張は採用することができない。」
(3) 以上によれば,亡Aは,過重な公務により,うつ病に罹患し,その自殺念慮によって自殺したものといえるから,公務起因性を認めるのが相当であり,これを否定した本件処分は違法である。
(4) その他,原審及び当審における原告及び被告提出の各準備書面記載の主張に照らして,原審及び当審で提出,援用された全証拠を改めて精査しても,引用に係る原判決を含め,当審の認定判断を覆すほどのものはない。
第4結論
以上によると,原告の本訴請求は理由があるから,これを認容すべきところ,これと同旨の原判決は相当であるから,本件控訴を棄却することとし,主文のとおり判決する。
(当審口頭弁論終結日 平成15年9月25日)
(裁判長裁判官 竹原俊一 裁判官 黒野功久 裁判官 中村心)