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大阪高等裁判所 平成14年(行コ)92号 判決 2004年9月16日

控訴人

同訴訟代理人弁護士

杉山潔志

井関佳法

佐武直子

被控訴人

地方公務員災害補償基金京都府支部長A

同訴訟代理人弁護士

太田真人

置田文夫

後藤美穂

主文

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人が控訴人に対して平成8年8月19日付けでした地方公務員災害補償法による公務外認定処分を取り消す。

3  訴訟費用は,第1,2審とも,被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  控訴人

主文と同旨

2  被控訴人

(1)  本件控訴を棄却する。

(2)  控訴費用は,控訴人の負担とする。

第2事案の概要

1  事案の要旨

(1)  本件事案の内容は,次のとおりである。

ア 京都府宇治市立西小倉小学校(以下「西小倉小学校」という。)において教諭として勤務していた亡Bは,担任のクラスの教室で指導中,脳出血が原因で倒れ,その後再度の脳出血により死亡した。

Bは,生前,同疾病の発症は公務の遂行による精神的肉体的に過重な負荷に起因するものであるとして,被控訴人に対し,地方公務員災害補償法(以下「地公災法」という。)による公務災害認定請求をし,その後Bが死亡したので,夫である控訴人がBの請求を承継し,Bの死亡も同請求に追加したところ,被控訴人は,平成8年8月19日付けで公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をした。

本件は,控訴人が本件処分の取消しを求めた事案である。

イ これに対して,被控訴人は,Bの発症及び死亡が公務に起因することを否認し,既にり患していた「もやもや病」の自然経過によるものであると主張した。

(2)  原審は,Bの発症が公務に起因するとは認められず,むしろBの既往症であった「もやもや病」の自然経過によるものであるとして,控訴人の請求を棄却する判決をした。

(3)  控訴人は,控訴をし,改めて本件処分の取消しを求めた。

2  前提事実

以下の事実は,当事者間に争いがないか,括弧内記載の証拠等及び弁論の全趣旨により認めることができる。

(1)  Bの経歴・病歴

ア 控訴人の妻B(昭和○年○月○日生)は,昭和46年3月京都女子大学短期大学部を卒業し,同年4月に兵庫県教育委員会に小学校教諭として採用され,以来,小学校教諭として勤務していた(その後京都府に移った。)。

昭和52年に教職員互助組合に勤務する控訴人と結婚し,長男及び長女の2人の子をもうけた(本件発症当時長男は高校1年生,長女は小学校6年生であったようである。)。

イ Bは,昭和55年4月(当時29歳),くも膜下出血により入院し,その際,脳血管疾患の一つであるウイリス動脈輪閉塞症(脳底部異常血管網症。通称もやもや病。以下「もやもや病」という。)にり患していると診断され,その後も通院していたことがあった。

ウ Bは,平成3年4月から京都府宇治市立西小倉小学校に勤務するようになった。

Bは,平成4年8月,MRA検査により,左大脳白質の大脳基底核に小さな出血後の病巣があると診断された(<証拠省略>。当時41歳)。

(2)  本件疾病及びBの死亡

ア Bは,平成6年1月19日(水),5校時(午後1時45分から2時30分までの45分間)の道徳の時間に,運動場で,担任をしていた6年1組の生徒にクラス遊びを行わせ,自らも指導・監督に当たった(当時の気象状況は,気温は摂氏3度から5度程度,風速は秒速3mから4m程度であった。)。

Bは,学級活動終了後,担任クラスの終わりの会で指導中,同日午後2時50分ころ,6年1組の教室内で,脳出血により倒れた(以下「本件疾病」といい,本件疾病の発症を「本件発症」ということもある。発症時43歳。)。

イ Bは,その後,入院して脳動脈瘤の切除手術を受けるなどの治療を受けたが,平成7年1月9日,脳室内出血を来し,同年1月12日に脳死状態となり,1月27日午後6時43分,死亡した(死亡時44歳。<証拠省略>)。

(3)  本件処分等

ア Bは,本件発症後の平成6年3月26日,本件疾病は公務に起因するものであるとして,被控訴人に対し,地公災法による公務災害認定請求をしたが,その後前記のとおり死亡したので,夫である控訴人が上記請求を承継し,平成7年3月28日,Bの死亡も公務に起因するものであるとする追加請求をした。

イ これに対し,被控訴人は,平成8年8月19日付けで,地公災法45条に基づき,本件疾病もBの死亡も,いずれも公務外と認定する決定をし(本件処分),そのころ,控訴人に通知した。

ウ 控訴人は,本件処分を不服として,平成8年10月17日付けで地方公務員災害補償基金京都府支部審査会に対して審査請求をしたところ,同審査会は,平成9年6月27日付けで同審査請求を棄却する旨の裁決をした(<証拠省略>)。

控訴人は,同裁決を不服として,平成9年7月22日付けで地方公務員災害補償基金審査会に再審査の請求をしたところ,同審査会は,平成10年7月8日付けで再審査請求を棄却する旨の裁決をし(<証拠省略>),控訴人は同裁決書を同年8月13日に受領した。

エ そこで,控訴人は,平成10年11月11日,本件処分の取消しを求めて原審裁判所に本件訴えを提起した(本件記録)。

(4)  もやもや病について

ア もやもや病とは,ウイリス動脈輪閉塞症の通称である。もやもや病は,両側の頭蓋内の内頸動脈終末部,前及び中大脳動脈近位部,すなわち脳底部ウイリス動脈輪及びその近傍血管に狭窄ないし閉塞が生じて血流不足になり,これを補うため,代償的に側副血行路として,その近傍部位の脳底部に頭蓋内血管小分枝(穿通枝動脈)が拡張するなどして異常血管網が動脈相において形成される疾患である。MRIやMRAによる脳血管写によれば,この異常血管網がたばこの煙のように描写されることから,もやもや病と呼ばれている(以下,この異常血管を「もやもや血管」という。)。上記各動脈に狭窄ないし閉塞が生じる原因は不明である。

もやもや病は,もやもや血管の脳血管写による形態から,6期に分類され,初期の第1期から最後の第6期までの6段階に分類される。

もやもや病の症状は,脳出血,脳梗塞及び脳虚血症状等がある。

過重労働による精神的,肉体的負荷(ストレス)が,もやもや血管からの出血の要因であるかについては,イの研究班によっても,十分な調査研究はされていない。

イ もやもや病は,昭和51年に厚生省特定疾患に指定され,「ウイリス動脈輪閉塞症調査研究班」や「神経・筋疾患調査研究班のウイリス動脈輪閉塞症調査研究分科会」が組織され,今日まで調査・研究が続けられてきた。なお,上記研究班は「ウイリス動脈輪閉塞症の成因・治療及び予防に関する研究班」,「ウイリス動脈輪閉塞症の病因・病態に関する研究班」,「モヤモヤ病(ウイリス動脈輪閉塞症)に関する研究班」などと改称された。)。(<証拠省略>)

(5)  関係法令及び本件通知等

ア 地公災法は,職員が公務上疾病にかかった場合に療養補償等を行うものとし,また,職員が公務上死亡した場合に遺族補償等を行うものとしている(同法26条等,31条等)。

イ この「公務上疾病にかかった場合」については,一般にその疾病が公務遂行中に生じたもので,かつ,その公務と疾病の間に相当因果関係があることが必要と解されている。

行政解釈として,地方公務員災害補償基金理事長の同基金各支部長あての「公務上の災害の認定基準について」(昭和48年11月26日地基補第539号。<証拠省略>)の2(3)は,「公務に起因することが明らかな疾病は公務上のものとし,これに該当する疾病は次に掲げる疾病とする。」とし,そのシは「アからサまでに掲げるもののほか,公務と相当因果関係をもって発生したことが明らかな疾病」としている。

そして,その認定に関し,地方公務員災害補償基金理事長の同基金各支部長あての「心・血管疾患及び脳血管疾患等の職務関連疾患の公務上災害の認定について(通知)」(<証拠省略>。平成13年12月12日地基補第239号。以下「本件通知」という。)がある。本件通知は,平成7年の通知を改訂したもので,本件発症より後に発せられたものであるが,地公災法の新たな医学的知見その他に基づいて「公務上の疾病」の意義を行政解釈として明らかにしたものであるから,平成6年(本件疾病)ないし平成7年(Bの死亡)に発生した災害についても,本件通知を参考にするのが相当である。

本件通知のうち本件に関係する部分の概要は,以下のとおりである(脳血管疾患に関する部分のみを記載する。)。

(ア) 従前の平成7年3月31日地基補第47号を廃止する(前文)。

(イ) 認定対象疾患として,脳血管疾患には次のものを挙げる。

<1>くも膜下出血,<2>脳出血,<3>脳梗塞,<4>高血圧性脳症

(ウ) 脳血管疾患が公務上の災害と認められる場合の要件(第1)

次の二つのうちのいずれかに該当したことにより,医学経験則上,脳血管疾患の発症の基礎となる高血圧症,血管病変(動脈硬化症等をいう。以下同じ。)等の病態を加齢,一般生活によるいわゆる自然経過を早めて著しく憎(ママ)悪させ,当該疾患の発症原因とするに足る強度の精神的又は肉体的負荷(以下「過重負荷」という。)を受けていたことが明らかに認められることが必要である(第1,1)。

a 第1,1(1)は省略

b 発症前に通常の日常の職務(被災職員が占めていた職に割り当てられた職務であって,正規の勤務時間「1日当たり平均概ね8時間勤務」内に行う日常の職務をいう。以下同じ。)に比較して特に過重な職務に従事したこと(第1,1(2))。

(これを要約すると,発症前に通常の日常の職務に比較して特に過重な職務に従事し,これにより,加重負荷<医学経験則上,脳血管疾患の発症の基礎となる血管病変等の病態を自然経過を早めて著しく増悪させ,当該脳血管疾患の発症原因となるに足りる強度の精神的又は肉体的負荷>を受けていたことが明らかに認められることが必要とされている。)

(エ) 運用に当たって,認定要件(ウ)bは,医学経験則上,脳血管疾患を発症させる可能性のある特に過重な職務に従事したことをいい,勤務形態,(ママ)時間,業務内容・量,勤務環境,精神的緊張の状況及び疲労の蓄積等の面で特に過重な職務の遂行を余儀なくされた,次に掲げる場合等であるとしている(第4,2)。

a 発症前1週間程度から数週間(「2~3週間」をいう。)程度にわたる,いわゆる不眠・不休又はそれに準ずる特に過重で長時間に及ぶ時間外勤務を行っていた場合(第4,2(1))

b 発症前1か月程度にわたる,過重で長時間に及ぶ時間外勤務(発症日から起算して,週当たり平均25時間程度以上の連続)を行っていた場合(第4,2(2))

c 発症前1か月を超える,過重で長時間に及ぶ時間外勤務(発症日から起算して,週当たり平均20時間程度以上の連続)を行っていた場合(第4,2(3))

(オ) (エ)のaからcに掲げる時間外勤務の他,次に掲げる職務状況等を評価要因とし,医学経験則に照らして,強度の精神的,肉体的過重性が認められる場合は,それらを時間外勤務の評価に加えて総合的に評価する(第4,3)。

a 第4,3(1)(3)は省略

b 著しい寒暖差(他は省略)における職務従事状況(第4,3(2))

c 精神的緊張を伴う職務への従事状況(特に精神的緊張の程度が著しいと認められるものについて,その実態を検討し,医学経験則に照らして評価すること。)(第4,3(4))

ウ また,「公務上死亡した場合」については,職員が公務に基づく疾病等に起因して死亡した場合をいい,同疾病と公務との間には相当因果関係があることが必要であり,その疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならないと解されており(国家公務員災害補償法につき最高裁昭和51年11月12日第二小法廷判決・裁判集民事119号189頁参照),当裁判所も同様に解するのを相当と考える。

前記昭和48年11月26日地基補第539号(<証拠省略>)は,「公務上の疾病と相当因果関係をもって生じたことが明らかな死亡は,公務上のものとする。」としている。

2(ママ) 争点及びこれに関する当事者の主張

本件の争点は,Bの本件疾病と死亡が公務に起因するものであるかといういわゆる公務起因性の存否である。

これを詳述すると,<1>Bの公務の過重性,<2>公務以外の本件疾病に対する危険因子の有無(自然的経過によるものかどうか)である。<以下省略>

第3争点に対する判断

1  争点(1)(Bの公務の過重性)について

(1)  Bの勤務状況及び時間外勤務の量

ア 前提事実,証拠(<証拠省略>)及び弁論の全趣旨によれば,本件疾病が発症するまでのBの勤務状況について,以下の事実を認めることができる。

(ア) 平成4年度

a 前記のとおり,Bは,昭和46年4月に教師になったものであり,本件発症当時20年以上の経験を持つ教師であった。

Bは,父が中学校の教師であったので,その影響を受け,教職に生き甲斐を持っており,平素「教師をやっていてよかった。」,「子供の顔を見ていれば,元気になる。」などと語っていた。

b Bは,平成4年度(平成4年4月1日から平成5年3月31日まで。以下「年度」の意味は同じ。)に,5年1組のクラス担任をした(児童数は6年生になった後とほぼ同じ三十数名であったとうかがえる。)。

Bが担任をしたクラスには,学習遅進児の男女各1名がいたほか,中学校で非行を繰り返す兄を持つ児童C君がいた。C君は,兄の影響を受けて,万引き,学校での喫煙,教師への反抗,授業や集団行動のかく乱を行っていた。そして,C君を中心として5,6名の問題行動を繰り返す児童のグループが形成された。このように,Bが担任をした5年1組は,5年生3クラスの中では指導の困難なクラスとなっており,Bは,その指導に苦慮していた。

(イ) 平成5年度の2学期終了まで

a 6年1組の担任としての通常の勤務

Bは,平成5年度は,持ち上がりで,6年1組(児童数32名)の担任を受け持つことになった。

当時,6年生の1週間の授業数31時数のうち,2年生を担任していた教師が1週2時数の家庭科を担当していたので,Bは,これを除く1週29時数の授業を担当し,1週間に授業担当を外れる空き時間は2時数のみであった。6年生は3学級あったが,B以外の2名の担任もBと同じく週29時数を担当していた。

Bは,6年1組の児童に対し,クラス担任として教科指導等の通常の勤務を行っていたが,bで触れる問題児以外の生徒に対する指導はほぼ次のとおりであった。

Bは,漢字プリントを作成して児童に学習させて添削し(Bの作成した漢字プリントの内容は同僚教師から見ても優れたもので,その作成に相当の労力を要するものであった。<証拠省略>),作文を提出させて添削するなどし,また,授業の準備や教材の工夫,プリントやテストの作成や添削も行った。

これらの授業等を行うためには,授業の準備,教材研究,プリントの作成に当てるいわゆるインプット時間が必要である(インプットに十分な時間をかければ,それだけよい授業等ができることになる。)。ところで,教諭の勤務時間(午前8時30分から午後4時30分までの8時間)は,授業,会議,打合せ,個別指導等の対人職務に当てるいわゆるアウトプット時間のためにほぼ全部を使わなければならないので,Bは,インプットは,おおむね勤務時間外に学校や自宅で行った。

また,Bは,通常の授業等のほかに,<1>2学期には理科の校内研究発表が実施されたことから,その準備と実施を行い,<2>1年生から6年生までの児童を縦割りにして組織された色別の集団によって行われる特別活動での児童の指導に当たった。また,教育活動そのものの外に,<3>6年生の学年会計担当として金銭の計算,保護者への教材費等の納入依頼,学期末ごとの保護者に対する報告などの事務,<4>障害児教育部部長としての事務も行った。

なお,通常の職務として,学級通信「空いっぱいに」の発行があり,相当頻繁に作成して発行していた。

b 問題児等と学級崩壊

(a) C君関係

C君とそのグループは,6年生になると,授業中に私語をするなどして授業をかく乱する行動が日常化した(例えば,授業中に黙って教室を出て行こうとし,Bが「C君,どこへ行くの。」と聞くと,「うるさい。黙れ。」と言い返したりした。)。その上,学校内でたばこをすったり,ビールを持ち込んだりした。

Bは,C君らに対し直接注意するなどして指導することはもとより,保護者と面談をしたり,C君らのグループに反省文を書かせたりしたが,C君らの態度は変わらなかった。

平成5年10月下旬ころ,校庭で,C君が兄とともに中学校へ殴り込みに行くために準備したと考えられる多数の5寸釘を打ち付けた木製バットが発見された。Bは,発見当日の放課後,C君に対し,このバットを示し,「危険な物を学校に持ってきてはいけない。」などと言って指導したが,C君は反抗し,暴言を吐いた。Bは,身長150cm,体重50kgと小柄であり,大柄で力の強いC君が上記のバットを持っていたので,恐怖心を抱いたが,ようやくこのバットを取り上げ,職員室に持ち込み,D教頭(以下「D」という。)に預けた。

そして,BがC君から釘バットを取りあげた直後の10月29日ころ,校門に「殴りこみに行く」,「ぶっ殺すぞ」などと落書きがされ,さらに,Bの自宅にも「地獄に落ちろ」とか「仕返し」という落書きがされた(落書きをした者は不明であるが,Bは,C君が関係していないかを心配し,Bに仕返しをするのではないかと恐れる一方,C君が殴りこみに参加しないかと,C君のことをも心配した。)。

このように,C君とそのグループは,Bの指導にしばしば反抗し,Bが学級運営を行うのを妨害した(こうした生徒を適切に指導することも教諭の任務ではあるが,これが客観的に労働を加重するものであり,精神的緊張を伴う職務になることは明らかである。)。

(b) 学習遅進児

Bの担任クラスには男女各1人の学習遅進児がおり,同児童に対する教科指導そのものも通常の授業等以外の負担となったが,それだけでなく,この2人が何回も同級生の靴を隠し,そのためクラス全員が靴を探さなければならないことがあり,そのたびに学級運営が中断された。また,2人は,他の児童に対する授業中に,奇声を発したり,教室から飛び出すことがあり,このことによっても,学級運営が中断された。2人の学習遅進児は,それぞれ学習の発達度が異なっていたので,Bは,他の児童のための授業以外に,2人のために別のプリントを用意し,保護者と連絡を取りながら,個別指導を行っていた。

また,男児は,C君らのグループに入り,C君からたばこを買いに行かされたり,一緒に喫煙させられたりしたため,その指導もゆるがせにできなかった。

このような状況下で,平成5年10月1日ころ,Bが女児の学習遅進児に,保護者に連絡をしないで発達診断テストを受けさせたところ(Bとしては,個別に適切な指導を行う上で必要と考えて実施したものであった。),このことに対し,保護者から,学校と保護者との間で同テストを受けさせるには保護者の承諾が必要であるとの合意に反し人権侵害であると言われて,教育委員会と学校長に抗議された上,Bの自宅にも,夜間に電話で1時間くらいにわたって抗議がされた。Bは,翌日,D教頭と保護者宅を訪れ,校長からの指示により謝罪したが,保護者はしつように抗議し,Bは,保護者との間で,<1>これまでより一層連絡を緊密にすることと,<2>個別指導を強化することを約束した。

そのため,Bは,学習遅進児に対しそれまで以上の指導をするため,低学年用の問題集を集め,また,16冊からなる新採用教員のための「教師入門実践講座」(<証拠省略>)を買い求めて,学習をした。

(c) 私学進学希望者グループ

6年1組には,私学進学希望者のグループが形成されていた。これらの児童は,学習塾に通っているため学校での授業には集中せず,授業中に私語をしたり,授業をないがしろにしたりし(例えば,テストの問題に少しでも間違いがあると,騒いだりテスト用紙を破いたりした。),これに対するBの制止をきかないことも多く,Bが学級運営を行うのを妨害した。

また,このグループが,休み時間には教室内でボール蹴りをして教室の窓ガラスを割ることが数回あった。

(d) 学級崩壊

以上の問題児が再三にわたってBの指導を無視ないし反抗したため,他の児童も次第にBの指導に従わなくなり,Bが学級運営の指導権を次第に喪失していき,6年1組は学級崩壊寸前か崩壊を始めつつある状態といってよい状況になっていた(この点は,他のクラスの担当教諭も認めている。)。

c 通知表の作成

Bは,平成5年12月には,2学期の通知表を作成する職務があった。

ところで,児童の成績評価の方法として,宇治市教育委員会は平成4年度から観点別相対評価による方法を推進してきたところ,従前の単元別絶対評価による方法を取るべきであるとする教諭が,観点別相対評価方法を採用することに反対した。西小倉小学校においても,これを取り入れるように指示する校長と,これに反対する教諭の間で意見の対立が生じ,そのために学年会が遅くまでかかることもしばしばあった。

Bは,どちらの方法で成績評価を行うべきか悩み続け,自宅で成績一覧表を作成する作業を行ったが,なかなか進まなかった。Bは,結局,提出期限の12月20日(月)までに通知表を作成することができず,その後,学校と自宅で作業を続け,12月22日の放課後にようやく通知表を校長に提出した。

(ウ) 冬休み期間(平成5年12月25日から平成6年1月9日までの16日間)

Bは,平成5年12月24日(金)の2学期の終業式が終わると,12月25日(土)と翌26日(日)は,自宅で残務整理,作文の添削,子供たちへの年賀状の作成等をした。

Bは,Bの父が心筋梗塞のために入院していたので,12月26日の夕方兵庫県氷上郡a町のBの実家へ帰省し,12月29日の夕刻まで滞在した。その際,漢字プリント作成のための資料などを持参し,実家への帰省中も,教材研究やプリントの作成,音楽発表会の指導内容の検討などを行った。また,Bは,実家にいる間,実妹とともに病院に詰めている実母の弁当を作るなど実家のための家事も行った。

Bは,12月29日に宇治市の自宅に戻り,スキーから戻った控訴人や子供たちと合流した。

Bは,翌12月30日,改めて仕事の資料を持って,控訴人運転の自家用車で兵庫県氷上郡a町の控訴人の実家へ帰省し,平成6年1月1日までそこで過ごした。控訴人の実家に帰省中も,Bは,おせち料理の準備や炊事をする一方,漢字プリントの作成などの仕事もし,教育に関する本を読んだりした。

Bは,平成6年1月1日に再度自分の実家に帰省し,1月5日,控訴人運転の自家用車で宇治市の自宅に戻ったが,自分の実家に帰省中も,自宅に戻ってから1月9日までの間も,漢字プリント作成,音楽発表会の準備,学級通信の作成等を行った(西小倉小学校では年2回音楽発表会が行われており,その内容は相当高度なもので,指導に当たる教諭の負担も相当のものであった。3学期の1月22日(土)に予定されており,Bは2学期に楽譜の作成等をしたが,冬休みに楽譜を持ち帰って,発表会に向けての指導について準備をしたり,ピアノの練習をしたりした。<証拠省略>)。

Bは,3学期の始業式の日である平成6年1月10日が近づいてきた際,控訴人に対し,担任しているクラスの学級運営の困難さを訴え,4月に教諭を辞めることについて相談したりした。

(エ) 3学期

a Bは,平成6年1月10日(月),3学期の始業式に出勤したが,同日,同僚教諭に対して,「足がもつれて自転車がうまくこげない。体が変だ。」,「熟睡できなくて,毎日朝4時過ぎには目が覚める。」と言った。同日,始業式終了後に音楽発表会の練習に参加し,放課後の学年会では,音楽発表会の準備等に参加した。

1月11日(火)も,控訴人に「早く目がさめた。4時過ぎに起きた。」と言った。同日は,短縮授業の日であったが,放課後に特別活動部会が開かれ,同部会にも出席した。

1月12日(水)も「5時半ころ目がさめた。社会のプリントを作った。」などと言った。夕食後こたつで寝てしまい,控訴人が起こしてもなかなか起きなかったが,起きて,学年会計のまとめ,社会のプリントなどにかかり,12時ころ「全部できない。しんどい。」と言ってその後に就寝した。

1月13日(木)も,控訴人が起きた時にはこたつで仕事をした跡があった。帰宅後,Bはこたつで寝てしまい,なかなか起きなかったが,起きて入浴した後に音楽発表会のためのピアノの練習などをし,漢字テストの採点と作文の添削などをし,午後12時ころ就寝した。夜,控訴人が「そんなに疲れているのなら,病院で診てもらったらどうか。」と言うと,「今は学校を休めない。」などと答えた。

1月14日(金)には,午後6時に勤務終了後,教材研究のため「星を見る会」に参加し,帰宅後少し眠ってから,控訴人が起こすと,「寝過ぎた。しなあかん。」と言って漢字テストの採点や音楽発表会の指揮の練習をし,12時過ぎに寝た。

b 1月15日(土)は朝10時ころに起きたが,「寝ても寝ても疲れが取れない。身体がしんどい。」などと言った。午後買い物に出かけ,帰った後眠り,夕食後,ピアノの練習や社会の教材研究をし,11時ころ寝た。

1月16日(日)も朝10時ころ起床した。同僚の教師から食事会の誘いがあったが,しんどいと言って断った(Bは平素はつきあいの良い方であった。)。昼間は仕事をする意欲がわかない様子で,昼寝をしたりし,夕食後,学級通信の作成にかかったが,「学校に行きたくない。」,「出勤拒否症や」などと自嘲気味に言った。11時ころ就寝した。

c 1月17日(月),学級通信「空いっぱいに」の1月17日号(<証拠省略>)を配布したが,そこに「3学期始まり5日間」というタイトルで,「新学期の始まりが月曜からというのは,しんどいものです。1日が終わるのが,とても長いような気がしました。でも,56日(3学期の日数)のうちの5日がもう過ぎてしまいました。22日(土)の音楽会に向けて毎日学年音楽の時間をとっています。」と書いた。同日,帰宅後こたつで寝てしまい,その後版画指導,音楽発表会,「6年生を送る会」について検討し,12時過ぎに就寝した。当日,控訴人の目にはBの顔色が悪いと映った。

1月18日(火)朝,Bは,控訴人に対し,車で送ってほしいと頼んだ。しかし,控訴人と時間が合わず,結局歩いて午前8時ころ出勤した。Bは,午前中に4校時の授業を行い,午後2時30分から宇治市小学校教育研究会国語部会に出席するため,南小倉小学校へ出張し,午後4時30分ころには同校を退出し,直接帰宅した。帰宅後,疲れたと言って夕食の準備もせずに寝てしまい,夕食後も再びこたつで寝た。その後,漢字テストの採点などをしていたが,「疲れているので先に寝る。」と言って午後11時ころ就寝した。

以上のとおり,Bは,3学期が始まってから,しばしば自宅で持ち帰ったプリントの作成等の仕事をしており,本件疾病を発症した平成6年1月19日(水)ころまでの間,相当に疲労していたと認められる(以上のうち,自宅での状況は控訴人の供述及び陳述書<子供からの伝聞を含む。>によるが,特に虚偽と見られるところは見いだせない。)。

(オ) 本件疾病の発症

Bは,平成6年1月19日(水),午前8時ころ出勤し,午前中に4校時の授業を行い,昼休みに書き初め展の出品の搬出,音楽会の練習指導を行った。

5校時目(午後1時45分から2時30分まで)は道徳の時間であったが,Bは,乱れて落ち着きがなくなっていたクラスの児童のために,運動場において「どうけい遊び」(鬼ごっこ)を行った。当時は,前記のとおり,気温摂氏3度ないし5度程度,風速秒速3mないし4m程度で,相当に寒い状況であったが(ちなみに同日の最高気温は5.3度で,前日の10.8度,前々日の13.5度に比べ相当低温であった。),運動場に立ったまま見守っていた。

そして,5校時の終了後,「寒い寒い」と言いながら職員室のストーブで暖をとった。その後,担任する6年1組の教室に行き,机に座って終わりの会に立ち会っている最中,午後2時50分ころ,本件疾病(脳出血)の発症により,突然,意識を失い,教卓に突っ伏して,眠ったような状態になった。生徒が「先生,寝てはる。」と言ったのを隣のクラスの教諭が聞きつけて不審に思い,救急車を呼んだ。救急車が来たときには,Bの意識が戻ったようになり,「頭が痛い。」,「b(病院)へ連れて行って。」などと言った。

治療の結果,右半身が麻庫し,言葉も失われた。

(カ) 勤務時間等

平成6年1月当時の西小倉小学校の在籍児童数は502名,学級数は17クラスであり,教職員の総数は32名で,教員は校長・教頭を含めて20名であった。校長・教頭以外の18名のうち,学級の担任をしないいわゆるフリーの教員は1名であり,それ以外の17名はクラスを担任していた。フリーの教員は,教務主任の職務を担当し,授業は週4時間を担当していた。

施行規則24条の2によると,小学校第6学年の年間授業時数は,1015時数が「通常このとおり実施することが期待される」時数とされている。そして,授業時数については,「35週以上にわたって行うように計画し週あたりの授業数が児童の負担とならないようにすること」が期待されている。したがって,週当たりの授業時数は29時数以下となる。

西小倉小学校の第6学年の年間授業時数は1149時数であり,このうち児童会活動及び学校行事を除く年間授業時数は1054.5時数であるから,上記の施行規則で定められた標準総授業時数1015時間よりも39.5時数多い。また,西小倉小学校の第6学年の週当たり授業時数は31時数であり,上記の標準週当たり授業時数よりも2時数多い。

Bは,家庭科(1週2時数)を除く1週29時数を担当していた。

イ Bの時間外勤務の時間数

(ア) 控訴人の主張する時間数

Bは,アで認定したとおり,小学校担任教諭として,相当熱心に授業等の通常の業務や音楽発表会などの学校行事を準備・指導したが,それ自体でも,時間外労働をしないではすまされなかった。そのほか,担当したクラスが学級崩壊に近い状況であったことから,問題児等に対する教育・指導等のためにも時間と労力を尽くした。このため,勤務時間内で職務を賄うことができず,学校及び自宅で,相当時間の時間外勤務を行った。

ところで,控訴人は,(証拠省略)(Eと控訴人が作成した陳述書),(証拠省略)(いずれも<証拠省略>に基づきEが作成した一覧表)を基に別表1(被災職員労働時間一覧表)を作成して,2学期開始日(平成5年9月1日)から本件発症の前日の平成6年1月18日までの時間外勤務の時間数は別表1のとおりであると主張する。そして,これを裏付ける証拠として,(証拠省略)(いずれも,本件疾病が発症した前後のBの同僚教師等の陳述書)を提出する。

以上の各証拠と証拠(<証拠省略>)によれば,Bは,(イ)で採用しない部分を除いた時間数の時間外勤務をしていたことを認めることができる。

別表1では,Bは,平日は毎日,<1>登校前に自宅で30分の時間外勤務をし,<2>登校後始業前に学校で30分の時間外勤務をし,<3>終業後の学校で帰宅前に1時間半ないし2時間半の時間外勤務をし,<4>さらに,帰宅後自宅で,平均2時間32分の時間外勤務をしていたことを前提とし,冬休み中も合計71.5時間の時間外勤務をし,土曜日(勤務時間4時間)と休日(勤務時間なし)も時間外勤務をしていたことを前提としている。そして,上記期間の月ごとの時間外勤務の時間数は以下のとおりであるとしている。

(時間外勤務の時間数)

a 平成5年9月(30日のうち,平日は20日) 104.5時間

b 10月(31日のうち,平日は20日) 113.3時間

c 11月(30日のうち,平日は21日) 128.0時間

d 12月(31日のうち,平日は17日) 166.5時間

e 平成6年1月(18日のうち,平日は7日) 81.0時間

f 以上の合計 593.3時間

(イ) 認定できる時間外勤務の時間数

そこで,検討する。

a 平日の勤務時間外勤務

(a) 登校前の自宅での時間外勤務

控訴人(Bが本件疾病を発症した当時,Bと自宅で同居していた。)が平成6年8月15日付けで作成し,公務災害認定請求中に被控訴人に提出した陳述書(甲7)には,Bは,平成5年11月までは,目覚まし時計で午前6時30分に起床し,午前8時すぎころ自宅を出て登校していたが,平成5年12月からは,目覚まし時計が鳴る前の午前6時ころから起床して,時間外勤務をしていたとの供述記載がある。Bの起床時刻が甲7のとおりであれば,Bは,平成5年9月から11月までの3か月間は,出勤前に自宅で30分の時間外勤務を行う余裕はなかったと考えられる。

そして,甲7は,(ア)で記載した甲号各証よりも以前に作成されたものであるから(本件疾病が発症した平成6年1月19日から約7か月後の比較的早い時期に作成された),(ア)記載の甲号各証よりも甲7の方が信用性があるというべきである。

そうとすると,平成5年9月から11月までの3か月の平日については,朝の自宅での時間外勤務を除くのが相当であり,(ア)abcの各時間数から,9月は10時間(0.5時間×20日),10月も10時間(0.5時間×20日),11月は10.5時間(0.5時間×21日)を差し引くべきである。

(b) 始業前の学校での時間外勤務

また,甲7には,Bは平成5年10月までは午前8時過ぎころ自宅を出,自転車で約15分かけて登校していたとの供述記載があり,これによれば,Bは午前8時15分ころ学校に到着することになるから,午前8時30分の始業前に,30分の時間外勤務を行う余裕はなかったものである。

そして,(a)の説示のとおり,甲7の方が,(ア)記載の甲号各証よりも信用性がある。

そうとすると,平成5年9月から10月までの2か月の平日については,これを含んでいる(ア)abの各時間数から,9月は10時間(0.5時間×20日),10月も10時間(0.5時間×20日)を差し引くべきである。

(c) 終業後の学校での時間外勤務

被控訴人は,Bの午後4時30分の終業後の学校での時間外勤務について,甲7には,平成5年11月までは午後5時30分ないし6時ころに帰宅し(自宅に着いた時間),12月以降は午後6時ないし6時30分までに帰宅していたが,自転車で帰宅するのに30分が必要であったとの供述記載があり,そうであれば,平成5年9月から11月までの3か月間は,学校での時間外勤務は30分から1時間しかできないのに,(ア)で記載した甲号各証によれば,平成5年9月はほぼ半数,平成5年10月以降はほぼ毎日,午後6時過ぎないし7時過ぎまで学校に残り,時間外勤務をしていたことになっている旨を主張する。

しかしながら,甲7によれば,控訴人は当該期間中,Bの帰宅時には帰宅しておらず,甲7の帰宅時間に関する供述は子供からの伝聞によるものであるというのである。そして,甲153(控訴人とBとの間の子であるFの陳述書)によれば,Bは,当時,Fが帰宅する午後6時30分までに帰宅したことはないとの供述記載があるので,これに照らすと,Bの帰宅時刻に関する控訴人の上記供述記載部分はたやすく採用することができない。むしろ,この点では,上記甲153及び別表1が信用でき,被控訴人の上記主張は採用できない。

(d) 帰宅後の自宅での時間外勤務

被控訴人は,甲7本文には,Bは入浴後の午後11時ないし12時ころ就寝していたから,帰宅後の時間外勤務は約30分ないし2時間,平均すると約1時間前後であったとの供述記載があるのに,(ア)記載の甲号各証では,平成5年9月から平成6年1月18日までの間の平日の時間外勤務は1日平均2.32時間とされ,これから朝の登校前の時間外勤務30分を差し引いても,帰宅後に2時間02分も時間外勤務をしていたとされており,後者は甲7とは矛盾するものであって信用できないと主張する。

しかしながら,甲7添付の一覧表には,平成5年12月19日から平成16年1月18日までの夜の時間外勤務は,連日1時間30分から3時間(12月21日には5.5時間)であると記載されている。甲7添付の一覧表は帰宅後の時間外勤務が増えた時期のものではあるが,その点を考慮しても,甲7本文の上記部分は正確なものとはいえない。この点では,(ア)記載の甲号各証の方が採用でき,そうすると,被控訴人の上記主張は採用できない。

b 冬休みにおける時間外勤務の時間数

被控訴人は,甲7添付の一覧表には冬休みの期間中の時間外勤務を記載していないから,(ア)記載の甲号各証の71.5時間もの時間外勤務をしたとの部分は信用できないと記載する。

しかしながら,甲7には,Bが冬休み期間中に,前記ア(ウ)のとおり,帰省の際もテスト等を持参し,自宅や実家でもこれらを用いて仕事をしており,時間外勤務をしていたことの記載があり,甲7作成当時はこの時間を確定できなかったから,甲7添付の一覧表に記載しなかったと考えられるので,被控訴人の上記主張は採用できない。

c (ア)記載の甲号各証の信用性

(a) 被控訴人は,甲7との差異から,(ア)記載の甲号各証は信用できないと主張する。

確かに,(ア)記載の甲号各証のうち,a(a)(b)で説示した部分は採用できないが,a(c)(d)及びbで説示した部分は,これを覆すに足る証拠はないから採用することができ,他の部分についても同様である。被控訴人の上記主張も全面的に採用することはできない。

(b) また,被控訴人は,Bが冬休み期間中から3学期初めにかけて読んだという教師入門実践講座(<証拠省略>)は,本件を取りあげたテレビ番組(<証拠省略>)ではBが本件疾病を発症した後に送付されたとしていると主張して,(ア)記載の甲号各証は信用できないと主張する。

しかしながら,上記テレビ番組が放送した内容のすべてが真実とは限らないものであって,場合によれば脚色することも考えられるので,<証拠省略>のみで,被控訴人の主張を採用することは困難である。

d まとめ

以上によれば,Bの時間外勤務の時間は,次のとおりであると推定することができる。

(a) 平成5年

9月(30日のうち,平日は20日) 84.5時間

(ア)aの104.5時間から(イ)a(a)(b)の合計20時間(0.5時間×2×20日)を差し引いた時間

10月(31日のうち,平日は20日) 93.3時間

(ア)bの113.3時間から(イ)a(a)(b)の合計20時間を差し引いた時間

11月(30日のうち,平日は21日) 117.5時間

(ア)cの128.0時間から(イ)a(a)の10.5時間を差し引いた時間

12月(31日のうち,平日は17日) 166.5時間

(ア)dのとおり

平成6年

1月(18日のうち,平日は7日) 81.0時間

(ア)eのとおり

以上の平成5年9月1日から平成6年1月18日までの140日間の合計 542.8時間

週当たりの平均(その1) 27.1時間

542.8時間÷(140日÷7日)

週当たりの平均(その2)

上記時間数は推定値であるから2割の誤差を見込み,2割を減じた場合 21.7時間

27.1時間×(1-0.2)

(b) 平成5年12月19日から平成6年1月18日までの本件疾病発症前1か月間(31日)の合計 147.5時間

週当たりの平均(その1) 33.3時間

147.5時間÷(31日÷7日)

週当たりの平均(その2)

前同様,2割を減じた場合 26.6時間

33.3時間×(1-0.2)

(c) 平成5年12月22日から平成6年1月18日までの4週間の週当たり

第1週(平成5年12月22日から同月28日まで) 29.5時間

第2週(平成5年12月29日から平成6年1月4日まで) 28.0時間

第3週(平成6年1月5日から同月11日まで) 35.0時間

第4週(平成6年1月12日から同月18日まで) 28.0時間

前同様,2割を減じた場合

第1週 29.5時間×(1-0.2) 23.6時間

第2週 28.0時間×(1-0.2) 22.4時間

第3週 35.0時間×(1-0.2) 28.0時間

第4週 28.0時間×(1-0.2) 22.4時間

(2)  Bの公務の過重性

ア(ア) 以上のBの時間外勤務の時間数は,本件通知において公務起因性を肯定できる時間外勤務の時間数をはるかに超えており,推定値であることから念のため2割を減じても同時間数を超えているか,該当するとみてよい時間数である。

また,Bの具体的な勤務内容,時間外勤務が(ママ)休日及び冬休みを(ママ)期間を通じて連続していた。

加えて,Bは平成5年12月ころからは睡眠不足となっていたと認められる。

これらからすれば,Bの従前の勤務状況と比較して過重であったばかりでなく,Bと同様のもやもや病疾患を持つ他の教員を想定しても,Bの勤務状況は過重であったということができる。

(イ) 以上のとおり,Bは,その時間外勤務を継続した点において加(ママ)重労働を行っていたと認められるが,加えて,前記学級崩壊の防止のために,6年担任になった時点からでも長期間継続的に高度の精神的緊張を強いられてきたと認められる。さらに,本件発症直後(ママ)に,前記のとおり体調不良であったところに,相当の低温下で屋外での労働を行ったものであり(当該授業の内容はBが選択したものであるが,当時のクラスの状況を考え,児童の希望もあって,適切な授業と考えて選択したと認められる。),寒さを訴えていたものであるが,Bはその直後に発症したものであって,これらの点も,過重性を強めるものというべきである。

イ 被控訴人の反論について

(ア) 被控訴人は,Bが本件疾病を発症する前に,冬休みとして16日間,連続休暇として2日間の休暇を得ていたから,疲労が蓄積していたとしても快(ママ)復したはずであると主張する。

確かに,Bは冬休み中も時間外勤務をしたとはいっても,本来の勤務時間はないのであるから,本来の勤務に加えて時間外勤務をしたわけではない。

しかしながら,前記認定の事実によれば,Bは,冬休み期間中も時間外勤務(労働)を毎日続け,合計約71.5時間を費やしたと認められるのである。また,休暇をどう過ごすかは個人の自由であるとはいっても,Bは,前記認定のとおり自宅では主婦(母親)として正月前後の家事に時間をとられ,実家では病気の父が入院中のため,その見舞いや看護に当たる母の支えとしての労働があったことが認められるのであって,こうした家事労働に加えて上記のとおりの時間外勤務を行ったものである。すなわち,時間外勤務以外は休養を取っていたわけではないと認められる。

Bは,前記認定のとおり,2学期末には相当の疲労を蓄積させていたが,上記認定の時間外勤務と家事労働のため,冬休み期間中にこれを快(ママ)復することができず,3学期を迎えることになったと認められる。

さらに,冬休み期間中にも,学級崩壊を来す原因の問題児等に対する指導の目途が立っていなかったため,Bは,精神的にも相当の心労を持ったままの状態であった。

Bは,こうした状況にあり,3学期が近づくと,控訴人に退職することを暗に相談したりするに至っており,3学期が始まった際には同僚教師に疲れたことを漏らしている。そうすると,冬休み等により,蓄積した疲労が解消したと認めることはできない。

被控訴人の上記主張は,採用することができない。

(イ) さらに,被控訴人は,Bが持ち帰って自宅でした仕事は,緊急かつ必要性のないものであるから,時間外勤務と認めるべきでないと主張する。

しかしながら,前記認定の事実によれば,Bが家に持ち帰った仕事は,まず,日常の授業のために必要なものであったと認められる。前記認定事実によると,日常の授業を最低限こなすだけでも時間内勤務だけでは不足すると認められるが,授業やその他の校内活動をより充実させ,教育の効果を上げるためには,相当の準備が必要と認められ,相当程度の時間外勤務を要するものとうかがえる。Bは,それを実践しようとしていたと認められるのである。

また,Bのクラスが学級崩壊が始まった状態を回復させるためにも,心労のみならず,その対応のために時間外勤務が必要であったと認められる。

これらの実状に照らせば,Bが自宅でした仕事は,担当するクラスの教諭として緊急かつ必要性があったと認められる(なお,Bが他の教諭に比べて能力が低いために,勤務時間内で足りなかったとは認められない。むしろ,同僚の見るところでは,相当の熱意と能力があったとされている。)。また,教育の現場で現実に児童の教育に責任を負う教諭として,必要があると判断して自宅に仕事を持ち帰ることは,おざなりな教育では足りないと考えていることを示すものであって,教育に対する積極的な姿勢を示すものというべきである。そしてまた,心身ともに成長期にあって次代を担う児童に対し熱意をもって充実した教育を行うことの価値にかんがみると,緊急性がなければ,時間外勤務をする必要がないとか,あるいはしないでよいといえるかは問題である。

そして,本件の時間外勤務は,Bの本件疾病の発症が公務に起因するかどうかの判断の資料とするためのものであるから,Bが時間外で行った職務は,仮に緊急かつ必要性がそれほど強いと認められないものであっても,時間外勤務に含まれると解すべきである。

よって,被控訴人の上記主張も,採用の限りでない。

2  争点(2)(本件疾病に対する危険因子の有無)について

(1)  Bがもやもや病にかかり,本件疾病を発症し,死亡するに至るまでの経過

前提事実,証拠(<証拠省略>)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。

ア 昭和55年の出血

(ア) Bは,昭和55年4月(当時29歳)にくも膜下出血となり,同年4月16日から5月31日まで(1か月半)b病院に入院し,CTによる脳血管撮影の結果,もやもや病と診断された。

このくも膜下出血は,もやもや血管の破綻により生じた脳内出血が脳室内に流れ出て,髄液に混じり,くも膜下に達し,くも膜下出血として観察されたもので,もやもや血管からの出血によるものである。

b病院では,保存的治療が行われ,その結果,神経脱落症状等を残さず軽快した。

(イ) Bは,b病院退院後も,平成元年ころまで年に1回程度同病院に通院し,その後は自宅近くの医療機関に通院して血圧を定期的に測定してもらっていた。

その間,血圧はおおむね最高血圧が120台,最低血圧が70台で特に問題はなく,また,神経学的所見に異常は認められなかった。

イ 平成4年の検査等

(ア) Bは,平成4年8月3日(西小倉小学校で5年1組の担任となった年。当時41歳)にb病院を受診した(その契機は,控訴人によっても明らかでない。)。その後,同病院で人間ドックに入るなどして,8月21日まで同病院に通院し,MRA(磁気共鳴血管造影),BMR(脳MR),脳波検査を受けた。

MRAの所見等は,「両中大脳動脈及び前大脳動脈の抽出なし,内頸動脈レベルは左側が狭窄,後大脳動脈の抽出が通常よりも末梢まで見られ,径もやや太め,もやもや病を疑う。」というものであり,脳MRの所見等は,「左基底核に左後大脳動脈から続くフローボイド(流体無信号)あり,皮質部のフローボイドは殆どなし,左側脳室前角近傍に血腫あり,上記MRAの所見にしては梗塞巣はごくわずか」というものであった。

そして,担当医師は,Bは両側内頸動脈が閉塞していて,もやもや病にり患しており,左大脳白質の大脳基底核に小さな出血後の病巣があると診断した(この病巣が,昭和55年4月のもやもや血管からの出血によるものか,その後の出血によるものかはいずれとも断定できない。)。

(イ) Bは,身長150cm,体重50kgであり,特に肥満ではなかった。喫煙はしていなかった。昭和52年の結婚当初は飲酒していなかったが,その後,たしなむようになり,本件発症前年の平成5年秋ころでも,1日に日本酒を1合くらい飲む程度であった。趣味は読書,音楽で,平素運動はしていなかったようであるが,前記のとおり15分ないし30分かけて自転車で通勤していた。

また,Bは,毎年人間ドックを受検していたが,上記もやもや病の点は別として,人間ドックでは特に異変を指摘されなかった。

Bの両親は健在であったようであるが,父は平成5年12月初めころ心筋梗塞となって入院した。Bは2人姉妹の姉であるが,妹は健康であり,それ以上の肉親の遺伝的状況等は明らかでない。

(<証拠省略>)

ウ 本件疾病と治療

(ア) Bは,平成6年1月19日午後2時50分ころ,本件疾病(脳出血)により倒れ,同日,b病院に入院した。

入院時のBの血圧は最高が138,最低が88であり,もやもや病,脳出血,脳動脈瘤,意識障害,右片麻痺,失語症との診断を受けた。CT検査の結果,左被殻部を中心に中程度の脳内血腫があり周囲脳組織を圧迫していること,及び本件疾病(脳出血)はもやもや血管に発生していた動脈瘤が破裂したことによるものであることが判明した。

(イ) Bは,平成6年1月20日に開頭,血腫除去術を受けた。

次いで2月2日に脳血管造影を行った結果,両側内頸動脈がC1部で閉塞し,左のもやもや血管末梢に動脈瘤が形成されていると認められた。

そこで,同病院では,さらに,2月5日に脳動脈瘤の切除手術とその親血管のクリッピング術の各手術を行った。

(ウ) Bは,平成6年3月9日まで同病院に入院し,同日,リハビリ等のために,c病院に転院した。

b病院に入院後の約3週間におけるBの血圧は,最高血圧が150台を超えたことが数回あるものの,それ以外は,概ね最高血圧が110台から130台であり,最低血圧が60台から80台であった。

転院時において,右半身麻痺と言語障害(失語症)が残った。

エ c病院での治療とBの死亡

(ア) Bは,平成6年7月13日(当時43歳),c病院において,もやもや病,脳内出血,右片麻痺(上肢完全麻痺,下肢不完全麻痺),失語症の診断を受け,同年8月11日,水頭症に対し,右側での脳血流改善を期待して側頭筋膜を脳表に置くシャント手術を受けた。

そして,Bは,リハビリに励んでいた。

(イ) ところが,Bは,平成7年1月9日,c病院において,突然強い頭痛を訴え,CT検査を受けた結果,もやもや血管からの脳室内出血により大量の左前頭葉内脳内血腫があることが判明し,血腫除去の手術を受けたが,1月12日,巨大な血腫のため手術が功を奏さず脳死状態となり,平成7年1月27日に死亡した。

c病院のG医師の死亡診断書には,直接死因は脳内出血であり,脳内出血の原因はウイリス動脈輪閉塞症(もやもや病のこと),ウイリス動脈輪閉塞症の原因は不詳とそれぞれ記載されている。

(2)  Bの本件疾病を発症させたもやもや病について,医師の意見は以下のとおりである。

ア 控訴人側の医師の意見

(ア) I医師(専門は脳血管障害患者に対するリハビリテーション)は,(証拠省略)の意見書及び証人尋問において,次のとおり,Bの過重公務が本件疾病を発症させたことを肯定する意見を述べている。

すなわち,Bは,昭和55年4月にもやもや病にり患していることが発見され,その際,もやもや血管からの出血が認められた。

そして,平成4年8月,Bに発見された出血痕は,昭和55年4月の出血の後のものである。

Bは,平成6年1月19日に,もやもや血管に発生した動脈瘤破綻により本件疾病(脳出血)を発症した。その原因については,14年間にわたりもやもや血管からの出血症状がなかったことと,もやもや血管以外の側副血行経路ができていたことからすると,Bのもやもや血管は比較的安定していたと考えられるので,本件疾病は,もやもや病の自然経過だけではなく,発症前のBの公務過重による継続的な血行力学的ストレスが,もやもや血管に傷害を与え,修復機能を上回り,動脈瘤を発生させ,これを破裂させたものである。

もやもや病の自然経過だけで再出血を来すなら,出血型もやもや病患者のほぼ全員が再出血をするはずであるのに,出血後5年の経過観察中に再出血例が21%ないし31%にとどまっているとの報告があることからも,もやもや病の自然経過だけでなく,過重公務によって上記の機序で発症したことが裏付けられる。

(イ) また,H医師(専門は脳神経外科)も,(証拠省略)で,Bのもやもや病の本件疾病が発症した時までの出血症状について,I医師と同様の経過を述べ,次のとおりI医師と同じ結論を述べる。すなわち,

a もやもや血管からの出血は,従来,もやもや血管の構造的脆弱性から起こるもので,もやもや血管自体が長期にわたる血流のストレスに抵抗することができず,もやもや病の自然経過として破綻する(出血する)と考えられてきた。

しかしながら,その後,もやもや血管には基底核内の分岐に著変はなく,壁構造そのものに異変がないことが発見され,もやもや血管自体の構造の脆弱性はもともと存在しないことが判明した。

そして,もやもや血管に発生した動脈瘤の破綻の原因としては,破綻した血管壁の線維化(類線維素変性,硝子変性ともいう。)と菲薄化が高度で,血漿性動脈壊死の発生と似ていることが指摘され,後天的な血管壁の組織学的脆弱化に由来することが明らかになった。血漿性動脈壊死は,直径200μ前後の動脈の場合は,高血圧が血管の内腔を拡張させることから中膜の傷害を発生させる発端となるが,もやもや血管の場合,既に内腔は拡大した状態であるから,高血圧が存在しなくても,血管の負担は大きく,血管壁への血漿の進出により,類線維素化を来すが,睡眠による血圧の一時的低下によって,類線維素化を来した血管壁を修復することができる。しかしながら,睡眠不足のため一時的な血圧低下をもたらすことができない場合,修復機能は働かない。

このように,修復機序の機能を阻害する持続的な血行力学的負荷が加えられた場合,もやもや血管に発生した動脈瘤の破綻,すなわち脳出血が発症する。

この血行力学的負荷(血圧の変動)の原因として,公務の過重,すなわち,疲労の蓄積と精神的,肉体的負荷(ストレス)があることは,医学的知見上明らかである。

b Bは,14年間再出血がなく,もやもや病は安定していたが,公務の過重のため,血圧の変動を来し,もやもや血管に発生していた動脈瘤の血管壁が類線維素化したのを修復する機能を持続的に阻害され,もって,動脈瘤の破綻である本件疾病(脳出血)を発症させた。

Bは,もやもや血管に生じた動脈瘤の破裂による本件疾病(脳出血)が引き金となって,もやもや血管に動脈瘤を発生させ,その破綻による出血を繰り返し,ついには死亡するに至ったものと判断する。

イ 被控訴人側の医師の意見

J医師(専門は脳外科)は,(証拠省略)及び証言で,本件疾病は,Bの基礎疾病であったもやもや病の自然経過により,もやもや血管に発生した動脈瘤が破裂したことによるとして,Bの過重公務が本件疾病を発症させたことを否定し,次のとおりの意見を述べた。

(ア) Bは,昭和55年4月にもやもや血管からの出血をしたが,平成4年8月ころ,もやもや血管から再出血し,平成6年1月19日に3回目の出血をし,その後も同部位からの出血が続き,これにより死亡した。

(イ) もやもや血管に動脈瘤が発生し,破綻して出血する原因は確定していないが,高血圧が原因であるとの医学的見解はない。

もやもや病は,初期には脳主幹動脈閉塞による脳虚血症状が出現するが,やがて豊富な側副血行路の形成により代償され,一時的な症状の軽減をみる。しかし,晩期には脆弱な側副血行路が破綻し,出血を起こすと考えられている。なお,成人での脳卒中イベントの増加の原因としては,血行力学的ストレス以外に加齢による動脈硬化の進展も関与しているものとされている。また,遺伝が関係しているとの見解もある。

もやもや病は,一般の脳卒中と異なり,発症,出血,再出血ともに女性に多く見られ(男女比1:1.83),特に出血型における女性の比率が高いところに特徴がある(男女比1:2.68)。再出血の際の致命率は高く,再発作の起こる時期はほとんどが中年以降である。

また,もやもや病は,その発症のピークが10歳以下と30~40歳代との二峰性を示す点で特徴があり,特に,出血型では,平均発症年齢は,39.0±15.2で,30~40歳代に一峰性のピークを有し,成人発症の出血型全体に占める比率は88%である。これは,通常の高血圧性脳内出血の発症が60歳以降の年齢層に集中しているのと比較して,もやもや病の特徴ということができる。

発達したもやもや血管は,持続的な血行力学的負荷と加齢変化を受けて増勢し,縮小し,やがて消失するが,その量及び分布様式によって6病期に分類される。そして,平成13年3月のウイリス動脈輪閉塞症の病因・病態に関する研究班による報告書(<証拠省略>)によれば,第5期,第6期の後期になるにしたがって出血が多いという傾向が示されている。

これまで,もやもや病に関する長期追跡報告は少なかったが,平成11年に発表されたもやもや病に関する同一施設関連病院からの長期追跡報告(<証拠省略>)によると,出血発症例における再出血の比率は29%であり,初回出血から2~20年(平均7年)の間に起こり,5年以内に多いが,20年を経て再出血する例もある,再出血例における女性が占める比率は83%であり,再出血による死亡率は67%と高い,ということである。

(ウ) Bが本件疾病を発症したときの年齢及びもやもや病の段階,再出血の時の年齢,Bが女子であることなどからみて,上記条件に当てはまり,Bの疾病は,もやもや病の自然経過によるもので,Bの公務との間に因果関係はない。

(3)  考察

ア I医師とH医師は,もやもや血管に発生した動脈瘤の破裂による脳出血の原因として,Bが本件疾病を発症した時に,血管壁の組織片に,出血型もやもや病患者にみられる類線維素変性(硝子化)が発見されたことから,類線維素変性は血漿性動脈壊死の場合にもみられ,その原因の一つとして,血管壁に対する血行力学的負荷(この場合は血圧の変動)があり,もやもや血管に対しては高血圧ではなく(もやもや病患者の出血と高血圧症との間に有意的な関連性は認められていない。),類線維素変性を修復させる修復機能を与える睡眠による一時的な血圧の低下を阻害する疲労の蓄積や睡眠不足があるとし,本件疾病の発症にはBの公務の過重による公務起因性があるとする。

そして,J医師が根拠とした(証拠省略)の報告書において,もやもや病の出血発症例における長期期間での再出血例がわずかに29%であることは,70%以上の者が再出血しないのであるから,再出血の有無の要因は,もやもや病自体だけにあるのではなく(もし,もやもや病自体に要因があるのなら,もっと高い比率の再出血例があるはずである。),他の要因も共に働く可能性があると考えることができる。

このことと,もやもや血管に動脈瘤が発生し,破綻した血管壁組織から,血漿性動脈壊死の場合にみられる類線維素変性が存在することからすれば,血漿性動脈壊死の要因の一つである血行力学的負荷(血圧の変動)についてのH医師の(2)ア(イ)の意見は,首肯することができる(なお,Bが平成4年8月ころ出血したかどうかは,いずれであってもこの判断に影響しない。)。

イ これに対して,Bの本件疾病の発症は,もやもや病の自然経過であるとするJ医師の意見は,アで述べたように,再出血率が29%にどどまることを説明できない。また,J医師の証人尋問中には,Bの本件疾病の要因として,社会的なもの,したがって,Bの公務の影響もあり得ることを肯定しているかのような部分もあるのに,J医師は,本件疾病を発症する前のBの公務遂行状態に関する資料を読まないで,もやもや病の病態と,患者の再出血例者がBに近い年齢の女子に多いという調査例だけから,Bの本件疾病をもやもや病の自然経過であると判断したことは,早計というべきである。

また,(証拠省略)(E医師の意見書)中には,蓄積疲労や精神的ストレスと脳動脈瘤の発生や破裂との関連性はない旨の意見が記載されている。しかしながら,この結論は一つの意見であって,上記関連性を肯定するのがむしろ医学的知見であると考えられること(<証拠省略>)からすれば,E医師の上記見解をもってしても,アの判断を覆すことはできないというべきである。

ウ 以上によれば,Bの本件疾病の発症が,Bの基礎疾病(被控訴人がBの本件疾病の危険分子と主張するもの)であるもやもや病によるもやもや血管に発生した動脈瘤の破裂によるものであることは認めることができる。

そして,1(2)のとおりBに高度の疲労及び睡眠不足を来すような過重な公務があり,過重公務がBのもやもや病の自然経過を早めて増悪させるなどして,その結果,Bが本件疾病を発症し,死亡したことが認められるから,このことと,Bの過重な公務との間に相当因果関係を認めるのが相当である(本件通知に即していえば,発症前に通常の日常の職務に比較して特に過重な職務に従事し,これにより,もやもや病の病態を自然経過を早めて著しく増悪させるなどして,脳出血の発症原因となるに足りる加重負荷を受けていたことが明らかに認められるというべきである。)。

なお,本件全証拠によっても,Bの本件疾病について,Bの基礎疾病であるもやもや病以外の危険分子が存在することをうかがわせるものはない。

(4)  次に,Bの死亡が公務上の死亡に該当するかどうかについてみるに,死亡と本件疾病(脳出血)と公務との間には相当因果関係があることは上記のとおりであり,前記死亡診断書によれば,本件疾病が原因となって死亡するに至ったことも明らかであるから,Bは,公務に基づく疾病に起因して死亡した場合に当たるから,公務上の死亡に当たると認められる。

3  結論

以上によれば,Bに発症した本件疾病は公務上の疾病に該当し,また,Bの死亡は公務上の死亡に該当するから,これを否定した本件処分は違法であり,取り消すべきである。

よって,この結論と異なる原判決は不当であるからこれを取り消し,本件処分を取り消すこととして,主文のとおり判決する。

(裁判官 礒尾正 裁判官 金子修 裁判長裁判官岩井俊は,転補のため署名押印することができない。裁判官 礒尾正)

<別表1の1> 被災職員労働時間一覧表

<省略>

<別表2> 甲7号証に基づき算定した被災職員の労働時間<被控訴人代理人作成-編注>

<省略>

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