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大阪高等裁判所 平成15年(ネ)2559号 判決 2004年5月27日

控訴人

A野太郎

同訴訟代理人弁護士

岡本英子

上原邦彦

吉岡良治

増田尚

松丸正

大江千佳

岩城穣

養父知美

村瀬謙一

三木憲明

稲野正明

同訴訟復代理人弁護士

中森俊久

被控訴人

大阪府住宅供給公社

同代表者理事長

松尾純

同訴訟代理人弁護士

鳥山半六

高坂佳郁子

高坂敬三

夏住要一郎

間石成人

田辺陽一

小林京子

小宮山展隆

小田大輔

加賀美有人

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一控訴人の申立て

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人は控訴人に対し、三〇万二五四七円及びこれに対する平成一四年一〇月二五日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

第二事案の概要

本件は、被控訴人から住宅を賃借していた控訴人が、この賃貸借契約を解約のうえ明け渡したとして、差し入れていた敷金(ただし、任意に返還を受けた金額を除いた残額)の返還及びこれに対する訴状送達日の翌日から年六分の遅延損害金の支払を求めた事案である。

一  前提事実

前提事実については、原判決の事実及び理由中の第二の一「争いのない事実等」欄(原判決二頁一八行目冒頭から同四頁一二行目末尾まで)記載のとおりであるから、これを引用する。

二  争点

(1)  本件物件の通常損耗に関する修繕費用の一部について、本件負担区分表にしたがって控訴人が負担する旨の合意(本件特約)の成否及び本件負担区分表の解釈。

(2)  本件特約の有効性(法令及び公序良俗違反の有無)

(3)  本件敷金から控除されるべき修繕費用の額

三  争点に関する当事者の主張

(1)  争点(1)(本件特約の成否及び本件負担区分表の解釈)について

(控訴人の主張)

賃貸借契約においては、賃借人が目的物を通常の用法に従い使用し、その対価として賃料を支払うことを本質としており、したがって、賃貸借契約における目的物の通常の使用による損耗(いわゆる通常損耗)に関する修繕費は賃料として回収され、目的物の減価償却費、修繕費として賃貸人が負担するのが民法上の原則・社会通念であって、契約終了時に賃料とは別個に通常損耗の修繕費用を賃借人に負担させる特約は、もともと原則として許されないものというべきである。

しかも、このような特約は賃貸住宅標準契約書(甲二一。以下「標準契約書」という。)や「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(甲四〇。以下「ガイドライン」という。)の作成、特優賃法に関する運用通達(甲四)などを通じて所管行政庁である旧建設省によっても望ましくないものとして排除する努力が続けられてきたのであり、住宅金融公庫も原状回復義務から通常損耗を除外するよう指導してきたことなどの事情に照らせば、このような特約は、①特約自体の合理性・必要性、②賃借人が通常の原状回復義務を越える修理等の義務を負うことについて認識していること、③賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること、の要件を満たす場合にのみ成立が認められるというべきである。

しかるに、本件においては、本件負担区分表に基づく修繕費負担の特約は、何ら特約の合理性・必要性を裏付ける事情はなく、通常損耗に関する修繕費用を賃料に加えて二重取りするもので、その方法も退去時に賃借人が支払うべき金額等が予測不能で賃貸人の暴利行為を排除できない性質を有するものである。また、被控訴人が開催した入居説明会は約一時間半ほどで本件負担区分表の具体的な説明はなく、本件契約書二二条二項や本件負担区分表の記載自体も明確でなかったため、そもそも、控訴人は、本件賃貸借契約締結当時、本件負担区分表が通常損耗に関する修繕費用を賃借人に負担させるものであることを認識しておらず、このような費用を負担する意思を欠いていた。

したがって、本件において、控訴人と被控訴人間には、通常損耗に関する修繕費用を控訴人が負担する旨の合意、すなわち、本件契約書二二条二項及び本件負担区分表に基づく通常損耗に関する修繕費負担の特約(本件特約)はその限度で成立しておらず、本件負担区分表において賃借人が負担すべきとされている『汚損」『破損』等の記載は通常損耗を含まないものと制限的に解釈すべきである。

(被控訴人の主張)

契約の成否の判断は、当事者の意思表示が客観的に合致しているか否か、すなわち当事者双方が行った表示行為とそこに付与された客観的意味(表示行為から客観的に推知される効果意思)が合致しているかによるべきであり、契約内容の解釈は、契約書の文言に基づき、そこから推知される当事者の合理的意思解釈によるべきであって、契約の本質といった抽象的なものから推察すべきではないところ、本件においては、控訴人と被控訴人は本件契約書という処分証書を作成しており、その二二条二項の定めを受けて本件負担区分表が本件契約書に添付され、その記載内容は明確で通常損耗の一部を賃借人が負担する内容であることが容易に理解できるものであるから、控訴人と被控訴人間に本件特約が成立していることは明らかであり、仮に控訴人の内心が本件契約書及び本件負担区分表の記載と異なっているとしても、それは錯誤等の成否の問題とされるべきである。

賃貸借契約終了の際の原状回復義務の範囲について、特約のない限り、いわゆる通常損耗に関する部分がこれに含まれず、その修繕費用は賃貸人負担と解されるとしても、これと異なる特約を設けることも契約自由の原則から当然に認められるものであり、本件においては、特約の内容が本件負担区分表によって明確に示され、控訴人はこれに関する説明を受け、その後十分な考慮期間を経て本件契約を締結したのであるから、本件特約は有効に成立している。

そもそも標準契約書やガイドラインは契約当事者にその使用を強制するものではなく、その内容が直ちに個々の当事者間の賃貸借契約の内容となったり法的拘束力を有したりするものではないし、行政庁や住宅金融公庫の指導も同様である。通常損耗の修繕費用を賃借人が負担する特約の成否に関する控訴人主張のような基準は、契約書の条項相互に齟齬があったり契約書の文言それ自体が明確でない場合はともかく、本件のように契約内容が明確で控訴人も十分な認識をもって契約を締結している場合にまで妥当するものではない。

また、ガイドラインにおいても、特約により原状回復義務を越えた一定の修繕等の義務を賃借人に負わせることは可能とされているところ、特約を設ける際の留意事項として、控訴人主張の要件類似の項目(①特約の必要性があり、かつ、暴利的でないなどの客観的、合理的理由が存在すること。②、③については控訴人主張の要件と同じ。)が挙げられているが、近年賃貸人が置かれている、市場家賃の下落、賃貸物件の供給過剰、社会一般の清潔志向の高まりという事情の下では、特優賃制度の存続のためにも、通常損耗の一部について賃借人負担とする特約を結ぶ必要性は高く、本件の修繕費用の請求が暴利行為にあたるような特段の事由もなく、合理性も十分に認められるし、上記のとおり、控訴人は本件負担区分表について十分認識して本件契約を締結したものであるから、本件特約はガイドラインの留意事項も満たしている。

(2)  争点(2)(本件特約の有効性)について

争点(2)に関する当事者の主張については、以下のとおり付加訂正するほか、原判決の事実及び理由中の第二の二(3)(原判決五頁一六行目冒頭から同七頁一四行目末尾まで)記載のとおりであるから、これを引用する。

ア 同六頁二行目の「負担とする点で、」の後に、「本件各法令が対価関係が不明確で目的物の使用と価格的均衡が保たれているかどうかが判然としない名目での金員支払を禁じた趣旨に反し、通常損耗に関する修繕費用を賃料に加えて二重取りするもので、その方法も退去時に賃借人が支払うべき金額等が予測不能で賃貸人の暴利行為を排除できない性質を有するものであって、」を付加する。

イ 同二五行目末尾の後に、行を改めて、以下のとおり付加する。

「さらに、被控訴人は地方住宅供給公社法に基づいて設立された法人であり、家主の模範となるべき存在であって、民法上の原則や社会通念、これを具体化し、契約終了時の通常損耗に関する修繕費は賃貸人が負担すべきである旨が明示された標準契約書やガイドラインなどの行政指針に率先してしたがうべき法律上の義務を負い、社会的責任を果たすべき立場にあることを考慮すれば、そのような被控訴人がこれらに反する特約を定めて通常損耗に関する修繕費用を網羅的に賃借人に負担させようとしていることは、強い社会的非難を受けて当然である。」

ウ 同七頁三行目冒頭から末尾までを、「本件負担区分表は、以下のとおり本件各法令に違反するものではなく、公序良俗に反するものでもない。控訴人は、本件負担区分表に基づく特約を『民法上の原則』や標準契約書、ガイドラインの記載に反するなどとも主張するが、前記のとおり、そもそも標準契約書やガイドラインはその使用を強制するものではないし、ガイドラインにおいても、特約により原状回復義務を越えた一定の修繕等の義務を賃借人に負わせることは可能とされているところ、本件特約はガイドラインに挙げられた修繕義務負担に関する特約を設ける際の留意事項を満たすものである。」と改める。

エ 同七行目の「②」の後に、「本件負担区分表に基づく補修費の実費精算は、通常損耗に関する修繕費用を二重取りするものではないし、その方式も適切であって、」を付加する。

オ 同一四行目末尾の後に、行を改めて、以下のとおり付加する。

「オ 本件特約は、以下の事情を考慮して設けられたものであり、実質的にみて、必要かつ相当なものである。

(ア) 生活水準の向上に伴い、賃貸物件に対する入居希望者の関心や要望は次第に高まっており、住環境は、ただ単に「生活する場」という以上に「快適に生活を楽しむ場」としての意味合いを持つようになってきている。また、社会一般の傾向としても、他人が使用済みの物件等を敬遠するいわゆる「清潔志向」が高まっている。

(イ) このため、通常損耗についても相当の費用をかけてリフォームし、次の入居者に不快感を抱かせない程度に生活上の汚れを落とし、あるいは修繕するなどの対応をしなければ賃借人の確保も困難となっている。

(ウ) リフォームや補修等に要する諸費用も決して小さなものではなく、賃借人が替わる都度、しかも比較的短期間に度重なって発生するこれら修繕費まで賃貸人が負担しなければならないとすると、賃貸人に過度の負担となる。

(エ) 他方、賃借人は、賃借期間中、建物を独占的に利用できる立場にあるのであり、退去に際して一度限り発生する補修費を負担したとしても特段不合理な負担ともいえない。

(オ) 本物件は、いわゆる特優賃住宅であるが、特優賃住宅は、土地所有者等が国や大阪府の補助金、住宅金融公庫の低利の融資を利用して優良な賃貸住宅を建設し、転貸者がこれを一定期間借り上げたうえ、入居者に賃貸し、入居者は一定の家賃補助を受けるというものであり、これによって中堅所得者層に良好な賃貸住宅を供給しようとするものである。

(カ) 特優賃法は、三条五号で「賃貸住宅の家賃の額が近傍同種の住宅の家賃の額と均衡を失しないよう定められるものであること」を定めているほか、特優賃法一二条に基づき建設費用の補助を受けた場合は、同法上の家賃限度額の制限を受け、同法は具体的な家賃の限度額の算出方法も定めているので(同法一三条一項、同施行規則二〇条)、これら法条による制限も受ける。さらに、本件マンションは住宅金融公庫からの融資を受けているので、公庫法上の限度額家賃の制限も受ける(同法三五条二項、同施行規則一一条)。

(キ) 補修費を賃借人の負担とする場合、その方式としては、①家賃の額に一定額を上乗せする方法、②敷引きの方式、③退去時に実費を賃借人に請求して精算する方式の三つが考えられるが、本件は特優賃住宅であるため、上記のとおり、その賃料の額の上限が設定されていることなどからすると、③の方式がもっとも公平で合理的な方式というべきであり、本件負担区分表はこれによったものである。」

(3)  争点(3)(本件敷金から控除されるべき補修費用の額)について

(控訴人の主張)

被控訴人が主張する補修箇所のうち、玄関・廊下の天井・壁クロスの汚れ、洗面所の壁クロスの汚れ、LDKの壁クロスの汚れ、和室のふすまの傷、洋室(1)壁クロスA面の汚れ、洋室(2)の壁クロス等、クーラー化粧ナット及び戸当たりゴムの紛失は、そのような汚れや傷、紛失があったか否か、控訴人には記憶がない。仮にあったとしても、控訴人家族は本件物件を注意深く使用し、毎日の掃除も欠かさなかったのであり、これらの汚れや傷等は、いずれも経年、あるいは通常の使用に伴う損耗の範囲内のものであった。したがって、本件特約が無効である以上、敷金から控除されるべき補修費用は全くない。

(被控訴人の主張)

本件物件のうち、退去に伴って控訴人の費用負担で補修した箇所は、別紙のとおり賃借人の目にもっとも触れやすい壁クロス、天井クロス、床シート等の張り替えが大部分で、かつ破れているなどの傷みが目立つところであり、次の賃借人に不快感を抱かせない程度のものかを補修の要否の目安に判断したもので、いずれも本件負担区分表で退去に伴って賃借人の費用負担で補修することとされているものばかりである。そして、この補修箇所の査定の際には、被控訴人側の査定担当者が補修を要する箇所にテープ状の印を付け、査定に立ち会った控訴人の妻に一つ一つの補修箇所を示して説明し、異議があったところに関しては査定し直すなどして補修費用の概算額を伝え、納得のうえ確認のサインをしてもらい、査定書面の控えも交付しており、さらに工事完了後にはその補修費用の明細を記載した書面を交付している。以上のとおり、本件における査定の内容も補修の内容・費用も正当なものであり、本件において被控訴人が敷金から控除した補修工事費用三〇万二五四七円は適正な額である。

なお、上記補修箇所のうち、玄関及び廊下の壁クロス、板畳三枚、LDKのクーラーの化粧ナット、洋室床ビニールシート、洋室の戸当たりゴム、和室襖二枚の補修については控訴人の故意、過失による損耗であって、本件特約によらなくても当然に敷金からその補修費用を控除することが許されるものであり、被控訴人が控訴した補修費用のうち、いわゆる通常損耗分の補修費用は多く見積もって二二万五〇三六円である。

第三当裁判所の判断

一  認定事実

前記第二の一(争いのない事実等)記載の事実と《証拠省略》を総合すれば、以下の事実が認められる。

(1)  賃借人の原状回復義務に関する所管行政官庁等の態度

ア 標準契約書

建設大臣の諮問を受けた住宅宅地審議会会長は、平成五年一月二九日、「賃貸住宅標準契約書についての答申」を行い、その中で、標準契約書の内容が提示された。これを受けた旧建設省建設経済局長及び住宅局長は、同年三月九日付で、業界団体に対して賃貸借契約の適正化促進という標準契約書の作成趣旨を理解のうえ、団体加盟の業者に対して標準契約書を周知徹底しその活用に努めるよう指導するよう依頼するとともに、都道府県知事に対しても、標準契約書の上記作成趣旨を踏まえ、これが広く普及するよう特段の配慮を依頼する旨の通達を発出した。

標準契約書一一条一項では、いわゆる通常損耗分に関する原状回復費用は一般的に賃料に含まれているとの考えの下に、賃借人の契約終了時の原状回復義務には「通常の使用に伴い生じた本物件の損耗」を含まないものとされ、その修繕費用は賃貸人負担とされている。

ただし、上記答申においても標準契約書は使用が強制されているわけではなく、合理的な範囲で特約を設けたり修正したりすることも当然に認められている。

イ ガイドライン

賃貸住宅退去時の建物原状回復の範囲や費用負担をめぐるトラブルの急増を背景に、旧建設省住宅局の委託を受けた財団法人不動産適正取引推進機構は、平成一〇年三月に「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」を作成した。ガイドラインは、原状回復の範囲やその費用負担について適正妥当と考えられる一般的な基準をとりまとめたもので、住宅局も実務の参考として積極的に用いられることを期待するとしている。

ガイドラインは、建物の損耗を建物価値の減少と捉え、これを①経年変化、②通常損耗、③賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用に基づく損耗等に区分し、③を賃借人が負担すべき原状回復義務として、標準契約書と同様の立場に立っている。

ただし、ガイドラインもその使用が強制されるものではなく、原状回復の内容、方法等については、「最終的には契約内容、物件の使用の状況等によって、個別に判断、決定されるべきもの」であり、原状回復範囲を超えた一定の修繕等の義務を賃借人に負わせる特約を設けることも可能であるとされ、そのような特約を設ける際には、①特約の必要性があり、かつ、暴利的でないなどとの客観的、合理的理由が存在すること。②賃借人が通常の原状回復義務を越える修理等の義務を負うことについて認識していること、③賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること、の要件を満たしていなければ効力を争われることに十分留意すべきとしている。

(2)  本件各法令に関する所管行政官庁等の通達、指導の内容

ア 特優賃法に関する運用通達

特優賃法施行と同時に発出された旧建設省住宅局長から都道府県知事宛の通達「特定有料賃貸住宅の供給の促進に関する法律の運用について」(建設省住管発第四号、建設省住建発第一一〇号)では、賃貸人と入居者との間の賃貸借契約について、標準契約書一一条一項と同様の規定のある別紙様式によるものとされたい、としている。

イ 住宅金融公庫の指導

住宅金融公庫は、公庫融資物件の賃貸借に関して、通常損耗に関する原状回復義務を賃借人に負担させる契約は公庫法施行規則一〇条一項の「賃借人の不当な負担」となるおそれがあるとして、原則として、退去時の原状回復義務の範囲について標準契約書と同様の公庫監修住宅賃貸借契約書を使用するよう指導している。

(3)  本件契約における賃料の設定

本件賃貸借契約において、特優賃法上の限度額家賃は五四二万九三二八円(二七九七円/m2)、公庫法上の限度額家賃は三七〇万一八九四円(一九〇七円/m2)であり、財団法人日本不動産研究所の調査によれば、本物件にかかる比準賃料は一八三〇円/m2であるが、一般賃貸市場において、敷金として月額支払賃料の三か月分を授受した場合の新規月額支払賃料は一八〇九円/m2が相当(敷引きはないものとする)とのことであったが、被控訴人は、それよりもさらに低額の一八〇〇円/m2に、その面積六五・五三m2を乗じた額一一万七九〇〇円(一七九九円/m2)と決定した。

(4)  本件契約締結に至る経緯

ア 被控訴人は、本件賃貸借契約に先だって、平成九年一二月八日午前一〇時から、被控訴人の地下一階会議室において、本件物件を含む旭エルフの入居希望者らに対して、同建物に関する入居説明会を開催した。

同説明会においては、被控訴人の担当者から、約一時間半の時間をかけて、特優賃住宅がどのようなものかについてや、契約書(本件契約書=乙一も同内容)の条項のうち重要なものについての説明や質疑応答がなされ、二二条についても、本件負担区分表の項目一つ一つについての説明はなされなかったものの、退去跡査定や補修費用の負担については契約書添付の本件負担区分表記載の基準に基づいて負担することになる旨の説明がなされた。また、参加者に対して、契約書や本件負担区分表とともに、補修費などの負担基準についての説明が記載された「すまいのしおり」と題する書面が配付され、契約書の内容を確認し不明な点があれば電話で問い合わせをするようにとの案内がなされた。

イ 控訴人は、上記説明会には自分の代わりに義母(妻の母)を出席させ、同女はこの担当者の説明を最後まで聞き、ピアノが置けるかを担当者に確認したうえで、配布された書類を全部持ち帰り控訴人夫婦に交付した。

説明会の一七日後である同月二五日、控訴人と被控訴人は、本件賃貸借契約を締結したが、その際には、改めて控訴人と連帯保証人であるB山松夫から、本件負担区分表について「上記区分表については承知しております。」と記載した書面が提出されている。

ウ 本件負担区分表は、「項目」「単位」「基準になる状況」「施工方法」の各欄を設け、それぞれについて、具体的に内容を示した上で、その負担者を「負担基準」欄において「退去者」と「土地所有者等」のいずれであるかを明示していること、「修繕用語の説明」欄を設け、「破損」が「こわれていたむこと。また、こわしていためること」であること、「汚損」は「よごれていること。または、よごして傷つけること」であることなどを明示していること、「襖紙・障子紙」については「汚損(手垢の汚れ、タバコの煤けなど生活することによる変色を含む)・汚れ」を、「各種床仕上材」については「生活することによる変色・汚損・破損と認められるもの」を、「各種壁・天井等仕上材」については「生活することによる変色・汚損・破損」を挙げ、それぞれ「退去者」の負担とするなど、通常損耗分といえる損耗も控訴人の負担となることが記載されている。

二  争点(1)(本件特約の成否及び本件負担区分表の解釈)について

(1)  上記一(4)の認定事実によれば、本件負担区分表は本件契約書に添付されてその契約内容の一部となっており、その記載も相当程度細かく具体的になされていて一般に理解できる程度に明確というべきである。

そして、控訴人(説明会についてはその代わりの義母)は、退去時の費用負担については本件負担区分表に基づいて負担すべきことの説明をうけ、本件契約書や本件負担区分表の内容について十分検討する期間を経た後に本件契約を締結し、しかも、その際には、特に本件負担区分表の内容を理解している旨の書面も提出している。

これらの事情に照らせば、控訴人は本件契約書及び本件負担区分表の内容を認識したうえで本件契約を締結したものであって、控訴人と被控訴人間に本件特約が成立したものと認めることができ、これに反する控訴人の妻及び義母の陳述書の記載はこれをそのまま信用することはできない。

(2)  これに対し、控訴人は、通常損耗に関する修繕費用は賃貸人が負担するのが民法上の原則であることを指摘して、これを賃借人に負担させる特約が成立するためには前記のような要件が必要であると主張するところ、確かに、賃貸借契約終了の際の原状回復義務の範囲については、特約のない限り、いわゆる通常損耗に関する部分はこれに含まれず、その修繕費用は賃貸人が負担すべきものと解されるが、これと異なる特約を設けることも契約自由の原則から認められるものである(このこと自体は控訴人引用のガイドラインにおいても同様に説明されている。)。

また、控訴人は、その主張の根拠として、標準契約書(甲二一)やガイドライン(甲四〇)の記載や特優賃法に関する運用通達(甲四ないし六)、住宅金融公庫の指導などをも指摘するが、標準契約書やガイドラインは契約当事者にその使用を強制するものではなく、その内容が直ちに個々の当事者間の賃貸借契約の内容となるものでもないのであって、このことは旧建設省や住宅金融公庫の指導についても同様に解される(また、そもそも、ガイドラインは「特約を設ける際にその有効性を争われることがあるので留意すべき事項」として特約の内容の必要性や客観的・合理的理由の有無を挙げているのであって、これを合意自体の成立要件とする趣旨とは直ちに解されない。)。

これらによれば、控訴人指摘の事情は、いずれも、契約書の条項相互に齟齬があったり契約書の文言それ自体が明確でない場合において、合意内容を解釈する際の指針の一つとなったり、後記のとおり合意内容の有効性を検討する際の判断要素の一つとなったりする場合があり得ることはともかく、本件のように、特約の内容が本件負担区分表によって相当程度明確に示され、控訴人はこれに関する説明を受け、その後十分な考慮期間を経て契約を締結した場合にまで、その合意自体を否定したり、本件負担区分表の条項の一部を制限的に解釈すべき根拠とは解しがたいというべきであるから、この点に関する控訴人の主張は採用できない。

三  争点(2)(本件特約の有効性)について

(1)  控訴人は、「本件各法令は、賃料及び家賃の三か月分を超えない額の敷金のほかは、賃借人から名目の如何を問わず金員を受領し、その他、賃借人の不当となることを賃貸の条件としてはならない旨定めているところ、敷金が基本的に賃貸借契約終了時には全額返還されるものであることに照らせば、この本件各法令の定めは、賃借人の経済的な出捐として賃料以外のものを認めない趣旨、すなわち通常損耗分の補修費用を賃料算定要素として実質賃料に含ましめることを容認していたとしても、それを月々の家賃の額に反映させるのではなく、賃料の前払的性格を有する権利金はもちろん、その後払的性格を有する敷引きや原状回復費用等によって金員を受領することも、その名目の如何を問わず容認していない趣旨である。」として、本件負担区分表は本件各法令、公序良俗に違反するもので無効であると主張している。

(2)  しかしながら、本件においては、被控訴人が受領していた敷金は本件各法令の定める範囲(家賃の三か月分)内のものであるから、敷金の受領それ自体は本件各法令に反するものではない。

また、敷金は、本件契約上はもちろん、一般的にも、未払賃料のみならず、賃貸借契約により賃貸人が賃借人に対して取得する一切の債権を担保するものであり、敷金返還請求権は、賃貸借終了後家屋明渡完了の時において、それまでに生じた上記被担保債権を控除し、なお残額がある場合に、その残額について具体的に発生するものと解されることに照らせば、控訴人が主張するように、本件各法令が敷金から未払賃料以外を控除することを一切禁じており、補修費用を敷金から控除することが本件各法令にいう「賃借人から家賃及び敷金以外の金員を受領した」ことにあたると解することもできないというべきである。

(3)  そこで、さらに、本件特約を設けることが、本件各法令にいう「賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件とした」ものであり、公序良俗に反するかについて検討する。

ア この点について、控訴人指摘のとおり、賃貸借契約終了の際の原状回復義務の範囲については、特約のない限り、いわゆる通常損耗に関する部分はこれに含まれず、その修繕費用は賃貸人が負担すべきものと解されること、賃貸住宅の賃貸借契約適正化及びこれをめぐる紛争防止のために、所管官庁である旧建設省の諮問・委託により通常損耗に関する修繕費用を賃貸人負担とする内容の標準契約書やガイドラインが作成され、特優賃法に関する運用通達や住宅金融公庫の指導においても同様の契約書を用いるよう強く推奨されていることは前記のとおりである。

しかしながら、標準契約書や特優賃法に関する運用通達や住宅金融公庫の指導において推奨されている契約書は、紛争を未然に防止する目的で作成されたもので、契約当事者にその使用を強制するものではなく、それと異なる内容の契約がすべて直ちに賃借人に不当に不利益なものであるとか公序良俗に反するものと解されるわけではない。また、ガイドラインも、賃貸住宅の原状回復にかかる契約関係や費用負担のルールのあり方を明確にして契約内容の適正化とトラブル防止を図るために、作成時点で適正妥当と思われる一般的な基準をとりまとめたものであり、やはり、その使用が強制されたり法的拘束力を有したりするものではなく、そこでは「原状回復の内容、方法等については、最終的には契約内容、物件の使用の状況等によって、個別に判断、決定されるべきものである」とされている。

これらの事情を考慮すれば、本件特約の内容が控訴人指摘の標準契約書や通達、ガイドライン等で推奨されている契約内容と異なることをもって、直ちに本件特約が賃借人に不当に不利益な負担であるとか公序良俗に反するものと認めることはできない。

イ また、本件特約の実質的な必要性・合理性についてみるに、この点、被控訴人は前記第二の三(2)(争点(2)に関する被控訴人の主張)オ(ア)ないし(キ)記載のとおり主張するところ、この被控訴人の主張内容にも一応の合理性を認めることができるし、本件特約は純然たる経年変化による損耗や通常損耗の全部までを賃借人の負担とするものではなく、本件特約において賃借人負担とされる通常損耗に関する修繕費用は、生活による壁や天井クロス・ふすま等の変色・汚損・破損や重量物設置等による畳や床材等のへこみ・傷等であって、これらが賃借人の居室の利用状況によって損耗の発生の有無や程度が大きく異なり得るものであり、新たな入居者との関係では従前の入居者の入居期間の長短にかかわりなく、賃貸人は一定のリフォームをする必要があることなども考慮すると、特約を設けてこれを賃借人の負担として個別に精算する方法自体は、これをあらかじめ一般的に見積もって賃料に含めて徴収する方法と較べて、むしろ合理的とも考えられる。

また、本件特約によれば、敷金から控除される補修費用は退去時まで確定しないが、前記のとおり、本件負担区分表の記載は一般的にその内容が理解し得る程度に明確であって、賃借人の予測可能性という観点から、本件特約が賃借人に不当に不利益な負担であるとか公序良俗に反するものと認めることもできないというべきである。

さらに、本件契約における賃料の設定は前記一(3)のとおりで、特優賃法や公庫法の制限賃料の範囲内のものであり、実際に本件特約により敷金から控除された補修費用は三〇万二五四七円(被控訴人の主張によれば、そのうち通常損耗分は多く見積もっても二二万五〇三六円)であって、控訴人の賃借期間(三九か月)に照らしてみても、これが賃借人に不当に不利益な負担であるとか公序良俗に反するものとまで認めることは困難である(控訴人は、本件物件の賃料には、通常損耗分の補修費用もあらかじめ含まれていることになるにもかかわらず、退去時にさらにこれを賃借人に負担させることは家賃と退去時の精算金という修繕費用の「二重取り」であって不当である旨主張するが、本件物件について設定された具体的な賃料に、本件負担区分表で賃借人負担とされた通常損耗分に関する修繕費用が含まれているかは明確でなく、控訴人の主張はこれを認めるに足りる的確な証拠がない。)。

(4)  以上検討したところによれば、控訴人指摘の事情を考慮しても、本件特約が本件各法令、公序良俗に違反するものであると認めることはできないから、この点に関する控訴人の主張は、採用できない。

四  争点(3)(本件敷金から控除されるべき補修費用の額)について

(1)  《証拠省略》によれば、①被控訴人は、控訴人が本件物件から退去してこれを明け渡すに際して、株式会社大阪住宅公社サービスに対して要補修箇所とそれに関する補修費用の査定を依頼し、平成一三年五月七日に、同社の査定担当者と賃貸住宅の保全業務を行う業者(株式会社菱サ・ビルウェア)の担当者、菱サ・ビルウェアの協力業者の三名が本件物件を目視し、本件負担区分表に基づいて、その要補修箇所と補修費用見積額を査定したこと、②この査定には控訴人の妻が立ち会い、菱サ・ビルウェア担当者からの提案に基づいて、大阪住宅公社サービス担当者が控訴人の妻に要補修箇所一つ一つについて補修を要する理由と補修内容を説明し、これについて控訴人の妻が異議を述べ、異議のある箇所については再度査定のし直しを検討するという手順で査定が進められたこと、③その際、控訴人の妻は、何箇所かの要補修箇所の査定について、入居時からあった汚れや傷であるとか、隣接する寺の線香の煙による汚れであるなどといった異議を述べ、担当者と交渉した結果、和室板畳一枚の張替と洋室(1)B面の壁クロス張替の一部がオーナーの費用負担とされるよう査定が変更されたこと、④このようにしてなされた最終的な査定結果を記載した書面(乙六)について、大阪住宅公社サービスの担当者から控訴人の妻に確認のサインを求めたところ、控訴人の妻はこれにサインし、担当者は、その写しを交付するとともに補修費用の概算額(三〇万八〇〇〇円)を伝えたこと、⑤その後、被控訴人は、上記査定に基づいて本件物件の補修工事を行い、補修工事費用を控除した敷金の残額の返還にあたって、敷金から控除する補修工事内容と代金の明細を記載した書面を控訴人に交付したこと、以上の事実が認められる。

これらの事情や、⑥控訴人は、本件訴訟において、大阪住宅公社サービス担当者の上記査定内容がいわゆる通常損耗に関する修繕費用であるから、賃借人である控訴人が負担する理由はない旨の主張立証を行っているものの、この査定内容が本件負担区分表の基準にあてはまらないものであるとか、その補修代金が工事内容に照らして不当に高額であるなどといった特段の主張はしていないこと、⑦本件全証拠に照らしても、被控訴人が上記査定に基づいて行った補修工事の内容・費用が不相当であることを疑わせる特段の事情は認められないことなどに照らせば、大阪住宅公社サービス担当者の上記査定に基づいて被控訴人が行った補修工事の内容は、本件負担区分表の基準に合致するものであり、その費用についても相当と認められ、これは本件負担区分表に照らし控訴人が負担すべきもの(すなわち、敷金の返還にあたって控除しうるもの)と認められる。

(2)  この点、控訴人は、上記補修箇所の一部について汚れや傷、紛失の記憶がない旨主張し、控訴人の妻の陳述書にはこれに沿う記載がある。

しかしながら、上記(1)①ないし⑦の事情、とりわけ、控訴人の妻は上記査定に立ち会って、要補修箇所の一つ一つについて説明を受け、入居時からあった汚れについての異議を述べたりしたうえで確認のサインまでしていること、この査定の際に担当者が控訴人の妻に写しを交付した書面における要補修箇所の記載は相当詳細なもので、控訴人の妻の異議の結果査定を変更した旨の記載もあって、査定当時担当者が要補修箇所のすべてについて説明を行ったことは明らかであるところ(このこと自体は控訴人の妻も否定していない。)、本件査定の際に担当者が指摘する汚れや傷、備品の紛失自体の存否について控訴人の妻から異議が述べられたことを窺わせる証拠はない(控訴人の妻も汚れや傷の記憶がないと記述するのみで、この点について査定担当者に異議を述べたとは記述していない。)ことに照らせば、上記控訴人の妻の陳述書の記載は上記(1)の認定を覆すに足りず、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

五  以上によれば、原判決は相当であって、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、民事訴訟法三〇二条、六七条、六一条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横田勝年 裁判官 末永雅之 裁判官松本哲泓は転補のため署名押印できない。裁判長裁判官 横田勝年)

<以下省略>

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