大阪高等裁判所 平成16年(ネ)1308号 判決 2004年12月17日
控訴人
A野太郎
同訴訟代理人弁護士
田中伸
同
米澤一喜
同
伊藤知之
同訴訟復代理人弁護士
佐藤文昭
被控訴人
B山松子
同訴訟代理人弁護士
木内哲郎
同
長野浩三
同
野々山宏
同
二之宮義人
同
加藤進一郎
同
平尾嘉晃
同
川村暢生
同
小原健司
同
角田多真紀
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一控訴の趣旨
原判決を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は、第一審、第二審とも被控訴人の負担とする。
第二事案の概要
事案の概要、争いのない事実、争点は、原判決「事実及び理由」中の二頁二〇行目から一二頁末行までのうち控訴人及び被控訴人関係部分(第一事件関係部分)記載のとおりであるから、これを引用する。
原判決は、本件原状回復特約が消費者契約法一〇条に該当し無効であるとして、被控訴人の請求を認容した。
当審における控訴人、被控訴人の双方の主張は次のとおりである。
一 控訴人
(1) 本件原状回復特約に消費者契約法の適用はない。
消費者契約法を適用し得るのは、同法施行後に締結された消費者契約であるところ、同法施行後においては、平成一三年七月七日、両当事者間において賃貸期間の延長がなされたのみである。本件合意更新において、両当事者に新たな契約を締結しているという認識はなく、本件原状回復特約について何らの合意もされず、新たな消費者契約が締結された事実はない。したがって、消費者契約法は遡及適用できない。
敷金特約は、賃借人が目的物を返還したときに賃料その他の債務不履行があれば、その金額を控除し差額だけについて返還義務を負うことを内容とする停止条件付返還債務を伴う金銭所有権の移転を内容とする要物契約であって、賃貸借契約に付随するものの、別個の契約であり、民法に定めのない非典型契約である(我妻栄「債権各論中巻一」四七二、四七三頁)。そして、本件賃貸借契約に付随して平成一〇年七月一〇日の時点で締結された敷金契約において、当初の賃貸借契約及び更新後の賃貸借契約において、被控訴人が負うべき債務の一切を担保する趣旨で敷金が差し入れられており、賃貸借契約更新時において、あらためて敷金の交付がされたわけでなく、敷金契約をかわし直す、更改するといったことも一切されておらず、何らの変更もない。したがって、敷金契約にもとづく敷金返還義務の範囲の定めである本件原状回復特約は、平成一〇年七月一〇日以後、一度も新たな合意の対象となっておらず、改定の対象とされてなく、消費者契約法締結後に賃貸借契約が締結されたということはない。
また、更新前の契約と更新後の契約とは原則として同一性を失わないものと解される(我妻栄「債権各論中巻一」四三九頁)から、更新後の賃貸借契約は更新前の賃貸借契約と法的に同一であり、それゆえ消費者契約法の適用はない。
(2) 仮に、本件原状回復特約に消費者契約法の適用があるとしても、民法、商法その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し、消費者の義務を加重する条項にはあたらず、消費者契約法一〇条により無効となることはない。
民法には原状回復の範囲については定めがなく、そもそも原状回復義務自体も定められていない。したがって、原状回復の義務及びその範囲は、当事者の合意によって定められるべきであるとするのが民法の基本的立場である。そして、本件原状回復特約は、そのような民法の基本的立場に沿ったものであるから、民法の規定の適用による場合に比し、消費者の義務を加重していない。
特定物の賃借人は賃貸借の目的物の保管について善管注意義務を負っており(民法四〇〇条)、この義務は自己の財産におけると同一の注意義務(民法六五九条)より重い。そして、善管注意義務を果たしたというためには、他人の物として丁重に扱い、目的物を損耗させることなく使用収益することが必要であり、賃借人は建物を通常に使用してはならず、善意なる管理者の注意をもって使用しなければならない。本件原状回復特約は、善管注意義務を履行していたか否かという困難な事実認定を伴う紛争を避けるため、定型的に賃借人に事後に一定の修繕義務の履行を求めることをもって善管注意義務の履行に代えることを本質としており、賃借人の義務を一方的に加重するものではない。
目的物に通常の使用収益を妨げるものが付着しているときにはこれを収去して原状に回復しなければならない(我妻栄「債権各論中巻一」四六六頁)。賃借人は、目的物件の再賃貸を妨げるもの、通常人が賃料を払って生活するにあたり嫌悪感を抱くものを除去して返還する義務があり、壁クロスに付着している汚れ、電気やけ、排水溝に詰まった髪の毛などのごみ、畳の擦り切れ、襖の汚れなど、再賃貸を妨げる付着物を収去することは賃借人の返還義務そのものである。本件原状回復特約は、この当然の事理を確認したものであって、何ら民法上の賃借人の義務を加重するものではない。
(3) また、消費者契約法一〇条により消費者契約が無効となるのは、当該消費者契約が信義則に反して消費者の利益を一方的に害する場合であるところ、本件原状回復特約は、信義則に反して消費者の利益を一方的に害するものではない。
本件原状回復特約は、賃借人が退去の際に、目的物たる建物(主として内装)を入居時と同等の状態に回復して賃貸人に返還することを約したものであり、それ自体、何ら信義則に反しない。借りたものを元に戻して返すことは、まさに一般常識そのものである。既に前居住者により原状回復がなされた住居に居住し、改装済みのきれいな住居を使用する利益を享受してきた賃借人がその利益を享受した後に原状回復費用を負担することが信義則に反するとは考えられない。
本件原状回復特約は、建物賃貸借における様々なニーズに応じて工夫された契約方式の一つであり、まさに私的自治・契約自由の原則から許容されるべきものである。本件原状回復特約は、原状回復費用を使用収益の対価たる賃料に上乗せして請求する方式ではなく、賃料とは別個に後払いとして請求する方式である。この原状回復特約方式によれば、賃借人は毎月々の賃料をより少なくすることができる。賃料に原状回復費用を上乗せする方式で長期間賃借した場合と比較すれば全体額としてより少ない原状回復費用の負担で済ませることができる。賃貸借契約においては、各種の原状回復費用の特約(例えば敷引による原状回復費用の負担の合意、あるいは原状回復費用の定額負担の合意)が認められるべきであり、本件原状回復特約もその一つに当然入るべきものである。
賃料は賃貸物件の使用収益の対価であり、原状回復費用は賃貸借契約上発生する費用である。したがって、契約当事者が性質の違う賃料と原状回復費用を区分して別々に賃借人に負担を求めることも、契約自由の原則から許容されることである。また、性質の違うものにつきそれぞれ負担を求める特約をしても二重取りになるはずがない。本件原状回復特約は、家賃に原状回復費用が含まれないことを内容としている。原状回復費用を賃料に含めて賃料額を決定したり、定額の原状回復費用を定めたりすることは、消費者契約法一〇条に該当せず、有効であろうが、もともと原状回復費用が二〇万円程度になることを予定している本件原状回復特約は、上記方式と実質的に同じである。原状回復費用を賃料に含ませるのであれば、当然その分だけ賃料は高くなるのであり、また逆に、本件のように、原状回復費用が賃料と峻別されている場合には、その分賃料が安く設定されることになる。どちらの方式にも一長一短があるのであって、ことさら本件原状回復特約の方式が、信義則に反して賃借人の利益を一方的に害するものとはいえず、結局、全体としてみれば、支払額に著しい差異はない。むしろ、原状回復費用を賃料に含ませる方式では、賃料に含まれている原状回復費用がいくらなのか賃借人には分からない。
原状回復の対象の損傷について、それが通常使用によるものか善管注意義務違反によるものかは、実際上決し難い。現実の損傷としては、自然損耗・通常使用・善管注意義務違反の原因による各損傷が不可分として複合して生じている場合が多い。即ち、本件原状回復特約は、原因が複合して不可分一体となった損傷が多い原状回復の実務において、賃借人の過失による損傷部分についての損害賠償請求を可能とし、自然損耗・通常使用に加えて、善管注意義務違反による損傷の損害賠償を断念することなく請求できるという合理性も存する。本件原状回復特約がなければ、過失による損傷についての賃貸人の損害賠償請求は極めて困難になる。
また、本件原状回復特約は、マンションの維持・修理に要する費用のうち、部屋のリフォームの費用についてのみ賃借人の負担とするものである。マンションを維持していくためには、キッチン、バス、トイレ等の水回りの修繕や外装の塗り直しを一〇年に一度行うなどの補修の必要があって、巨額の費用が必要となるが、控訴人はこれらの費用を賃借人に負担させず、全額自己負担としている。賃貸人、賃借人の間の負担の公平な分担という観点からは、部屋のリフォーム代を賃借人に負担させることは合理的である。
賃貸人と賃借人間に原状回復特約を無効ならしめるような情報力・交渉力の格差があると一概にはいえない。零細かつ素人的で情報・交渉力が乏しい賃貸人もいれば、専門的知識が豊富で交渉力のある大学法学部の学生のような賃借人もいる。また、京都市内の賃貸物件では、平成一三年以降をとってみても、少なくとも五%は余っており、借り手市場になっている。原状回復特約がついている物件ということで拒絶されることも多々ある。賃借人は、原状回復特約を拒絶し、本件建物を借りない自由を有しており、他の物件を探すことも可能である。他方、賃貸人は、空室になると収入がたちまち減少するのに、借入の返済、補修・修繕費用、税金等の支払いはしなければならず、賃借人の意向を考慮しなければ賃貸借が成約できない状況にある。賃貸人・賃借人の情報力・交渉力の格差についてステレオタイプの判断がされてはならない。
本件原状回復特約においては、原状回復の単価について合意がされている上、原状回復費用が敷金額程度になる場合が多いことが予定されているのであるから、賃借人が原状回復費用を予想することが困難であるとはいえない。
消費者契約において、事前に、支払額が完全に確定していなければならないとまで要求することは不可能であるし、事前に支払額が完全に確定していなければ、消費者の利益を一方的に害するともいえない。
本件原状回復特約は、①実質的には双務的側面をも有するものであって、②原状回復費用の見込みについても事前に提示され、③現実の支払額も、賃料を純粋使用収益対価分と原状回復分との合計とする考え方と大差がないのであり、④賃貸人・賃借人間の負担の公平な分担という観点からは合理的な特約であるから、信義則に反し消費者の利益を一方的に害する契約には該当しない。
二 被控訴人
(1) 消費者契約法施行後の平成一三年七月七日締結の本件更新合意に同法が適用される。
本件更新合意においては、当事者双方で、契約期間及びその他の契約条件について変更するか否か、どのように変更するかが協議され、新たに合意されているのであるから、その時点で事業者である賃貸人は消費者契約法に適合するよう契約条項を変更するか否かを十分に認識、判断、決定できたのである。そのような機会があったのであるから、消費者契約法が適用されて、賃貸人に不測の損害が生じるとか、取引の安全が保護されないとかいうことはない。
(2) 本件原状回復特約は民法、商法その他の法律の公の秩序に関しない規定に比し消費者の義務を加重する。
民法上の目的物返還義務は、賃貸開始時と全く同じ状態にするのではなく、賃借人の用法に従った使用収益がなされた後の状態で返還することであり、返還義務の範囲には賃借人が通常の使用により生じた損耗を修復することは含まれていない。
民法上、賃借人は目的物の使用収益の対価として賃料を支払うこととされており(同法六〇一条)、使用収益によって当然に通常の使用による損耗は生じるのであるから、賃料は使用収益により生じる通常使用損耗の発生することの対価であるといえる。したがって、民法上、通常の用法に従った使用収益を行った後の目的物を返還すれば足りる。賃借人が通常の使用により生じた損耗を修復する必要がないとする見解は、民法六〇一条からの自然な解釈であり、この結論は多数の裁判例の判示するところである。そうであれば、本件原状回復特約は、民法が予定している返還義務を加重するものであるから、民法の規定の適用による場合に比し、消費者の義務を加重する条項にあたることは明らかである。
また、居住目的建物の賃貸借は、居住のために使用することを前提とするものであるから、善管注意義務も自宅として使用収益する際に一般に求められる注意義務であるというべきである。善管注意義務は、取引上当該場合に応じて平均人について一般に要求される程度の注意義務であり、自己の財産におけると同一の注意義務は行為者その人の具体的注意能力に応じた注意で足りる義務であって(奥田昌道「債権総論」増補版三六頁)、両者の違いは、取引社会一般で求められる注意義務(抽象的注意義務)か、その人の能力にみあった注意義務(具体的注意義務)かの違いである。したがって、居住目的の賃借人に要求される善管注意義務は、居住するために使用収益する賃借人に一般に求められる注意義務であるから、居住し生活するために普通に使用することが否定されるわけではない。したがって、善管注意義務から、賃借人の修繕義務(リフォーム義務)が認められるものでないことは明らかであり、壁クロスの汚れ、電気やけ、畳の擦り切れ、襖の汚れ等も通常の使用で生じるものである限り、賃借人において回復する必要はない。
(3) 本件原状回復特約は信義則に反して消費者の利益を一方的に害する。
契約自由の原則は、資本主義経済の高度の発展により多くの欠陥を露呈した結果、現代では大幅に修正ないし制限を受けることが当然となっている。契約自由(特に内容決定の自由)とは、あくまで契約当事者が対等の立場にあって当事者の自由意思が働く状況で相互が交渉により契約内容を決定しうる場合にのみ意義のある原則である。現代における契約では必ずしも当事者が対等の立場で締結されるわけでなく、多くの契約が経済力・情報力・交渉力において大きな格差のある当事者間でなされる結果、強者が契約自由の名のもとに一方的に自己に有利な契約内容を決定し、弱者はその内容たる条項一つ一つについて折衝する余地を持つことなく契約締結するにいたり、弱者にとって事実上契約の自由は無くなるのである。このような事例の典型が事業者と消費者間でなされる契約、すなわち消費者契約であり、多くの契約トラブルを発生させてきた。
消費者契約においては、事業者が圧倒的な情報量及び交渉力を持ち、事業者が用意する定型的約款を用いることで条項の修正の余地さえ与えない状態で消費者に契約を締結させる。その結果、消費者に一方的に不利益な内容が押し付けられ、消費者の契約の自由が事業者によって奪われている現実があり、社会問題化している。消費者契約における消費者を保護するために消費者契約法が制定されたことからわかるとおり、消費者保護の観点から契約自由の原則は、既に社会的に大幅な制限を受けていることが明白である。同法一条は事業者と消費者の情報力、交渉力の格差から消費者利益を不当に害する契約条項を無効とすることを宣言しており、事業者・消費者間の情報力、交渉力格差が社会的事実として存し、消費者契約においては契約条項の有効性を基礎付けるためには契約内容の合理性が必要であることが前提とされている。
本件で問題なのは、市場の中で淘汰される可能性のある不当な賃貸借契約条項を隠蔽しながら契約を締結することにある。賃貸借契約時には、賃借人にとって一見安い賃料条件を掲げて顧客誘引しておきながら、解約明渡し時になって初めてトータルコスト的に見て高い費用を請求するのは詐欺的であって、賃借人の利益を一方的に害することは明らかである。
この場合、重要となるのは、規定の仕方・文言がいかに具体的に、わかりやすく、一見理解可能な程度に規定されていたとしても、消費者と事業者の情報の質及び量の格差を考えれば、消費者が実質的な意味、要件、効果等に対する認識、事業者側の意図・認識に対する理解を同等に有することができないということである。また、交渉力の格差を考えれば、規定が具体的でわかりやすく消費者がその内容を理解していたとしても、事業者が定めた契約条項を消費者が交渉によって変更・撤廃させることは不可能である。したがって、契約時に予想が可能か否かは、同法一〇条に該当するか否かの判断につき何ら重要な問題でない。説明により内容の認識・理解が可能となれば全て有効にすべきとの形式論理がまかり通ってしまうならば、社会経済的強弱関係が厳然と存在する場面一般でもおよそ公序良俗違反無効や強行法規違反無効等民法の一般原則が無視されてしまうのであって、その不当性は明らかである。
第三当裁判所の判断
一 本件原状回復特約は民法九〇条により無効か否か
(1) 賃借人は、契約に定めた目的に従い、賃借物を使用収益することができ、その対価として賃料の支払義務を負うところ、賃借物を使用収益する過程で生じる経年変化に伴う自然損耗、通常の使用に伴う自然損耗等は、使用収益権行使の当然の内容となっており、使用収益の対価たる賃料は自然損耗等による価値減耗分の評価をも考慮して金額が算出されているといえる。したがって、所定の賃料のほかに自然損耗等の原状回復費用を賃借人に負担させることは、経済的に評価すれば、自然損耗等の原状回復費用と賃料のうち自然損耗等の費用相当分として評価された当該分とにおいて、二重の負担を課することとなる。
初めて建物を貸す賃貸人は、建物の賃貸当初の現状を前提に賃料額を決定し、期間終了により明け渡しを受けた後に再度賃貸しようとする場合、自然損耗等による価値減耗分を修復せず、そのままの現状を前提に賃貸するか、自然損耗等による価値減耗分を修復して当初の原状に戻して賃貸するかの自由を有する。原状回復して賃貸する選択をした場合、善良なる管理者の注意義務に違反したことの是正に賃借人が負う費用(民法四〇〇条)以外の費用、即ち、自然損耗等についての原状回復費用を自己が出捐し、これを再度の賃貸の賃料額に含めれば問題は生じない。しかしながら、原状回復費用賃借人負担の特約下に、自然損耗等についての原状回復費用を退去する賃借人に負担させれば、二重の負担の問題が生じる。そして、回復された原状を前提に賃料額を決定して再度の賃貸をし、期間終了により明け渡しを受けた後、原状回復費用賃借人負担の特約下に、自然損耗等についての原状回復費用を退去する賃借人に負担させれば、以下、同様に二重の負担の問題が生じる。もとより、再度の賃貸に際し、自然損耗等についての原状回復費用分を控除した金額を賃料額とすれば、自然損耗等についての原状回復費用を賃借人に負担させても問題は生じない。
ところで、本件賃貸借契約では、本件原状回復特約により自然損耗等についての原状回復義務負担の合意がある一方、賃料には原状回復費用を含まないことが合意されている(第一九条)が、いうまでもなく、この合意が五万五〇〇〇円という賃料に原状回復費用を含まないという事実を確定するものではなく、弁論の趣旨に照らすと、従前の賃借人が負担した自然損耗等についての原状回復費用を控除する趣旨とは窺われず、むしろ、本件賃貸借において事後的に退去時に発生する原状回復費用を賃料に含ませない趣旨と考えられる。
しかしながら、事後的に退去時に発生する原状回復の内容をどのように想定し、費用をどのように見積もったのか、とりわけ、自然損耗等についての原状回復の内容をどのように想定し、費用をどのように見積もったのか、そもそも、そのような想定、規積もりをしたのか否かを含め、何らの主張もないし、これを窺わせる証拠資料もないのであって、実際には、契約書上、賃料に原状回復費用を含まないことが合意されているだけのことで、いずれにしても、賃料に原状回復費用を含まないとの合意に相応する賃料算定がされたわけでないと見るのが相当である。
そうすると、本件原状回復特約により自然損耗等についての原状回復費用を賃借人に負担させることは、二重の負担の問題が生じるから、原則として、賃借人の犠牲のもとに賃貸人を不当に利する不合理な条項であるといえる。
(2) 本件原状回復特約のような内容の契約条項は、住宅金融公庫融資物件については、住宅金融公庫法三五条、同施行規則一〇条に違反の問題を生じるところ、同法の適用されない建物賃貸借契約に関しても、同法の趣旨・目的が参考となり得るから、本件賃貸借契約は、住宅金融公庫法の適用がない契約であるが、本件原状回復特約の効力を判断するに際し、その限りで考慮すべきである。
(3) 本件原状回復特約により自然損耗等についての原状回復費用を賃借人に負担させることは、賃借人の二重の負担の問題が生じ、京都市消費者保護条例九条二号イの「消費者に著しい不利益をもたらす不当な内容の契約を締結させる行為」、同条例九条二号の不当取引を定める規則二条一号の「契約の解除又は取消しに際して、不当に高額又は高率の違約金の支払を義務付ける内容の契約を締結させる行為」、同条四号の「消費者に著しい不利益をもたらす事業者の免責に関する特約がある契約を締結させる行為」、同条九号の「前各号に掲げる行為に準じる行為」に直ちに該当するとは断定できないが、各条項の趣旨には該当するといえる。
(4) 旧建設省(現国土交通省)の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(平成一〇年三月)では、建物の価値は居住の有無にかかわらず、時間の経過により減少するものであること、また、物件が、契約により定められた使用方法に従い、かつ、社会通念上通常の使用方法により使用していればそのまま賃貸人に返還すれば良いとすることが学説・判例等の考え方であることから、原状回復は、賃借人が借りた当時の状態に戻すものではないということを明確にし、その考え方に沿って基準を策定したとされ、参考として掲げられた賃貸住宅標準契約書においても、「第一一条乙は、本契約が終了する日までに(第九条の規定に基づき本契約が解除された場合にあっては、直ちに)、本物件を明け渡さなければならない。この場合において、乙は、通常の使用に伴い生じた本物件の損耗を除き、本物件を原状回復しなければならない。」とされ、自然損耗等についての原状回復費用を賃借人に負担させないこととし、同時に、同費用を賃借人に負担させる内容の特約も契約自由の原則から認められるとしており、ただ、賃借人に法律上、社会通念上の新たな義務を課すことになるため、一定の要件を満たさないと効力を争われることに十分留意すべきであるとしている。
そうすると、同省の行政解釈によれば、本件原状回復特約の効力は要件次第で効力を否定されることになると思われる。
(5) 公益法人であり、一審被告長栄もその構成員である財団法人日本賃貸住宅管理協会京都支部の発行した「建物賃貸借契約に係る媒介等の業務の適正化について」と題する文書においても、建物室内・設備等の自然的な劣化・損耗等(自然損耗)、賃借人の通常の使用により生ずる損耗等(通常使用による損耗)の原状回復費用は賃貸人の負担とする合意が望ましいとされ、同団体京都支部の機関誌であると思われる「日管京だより夏季第一九号平成一三年六月一日」では、同団体の顧問弁護士田中伸は「従前は、自然損耗・経年変化・通常使用による回復についても、特約で借主に原状回復義務を認め、敷金から差し引いて請求していましたが、消費者契約法のもとではこの扱いが認められなくなる可能性が大となっています。」としている。
(6) 現在、一審被告長栄作成の賃貸住宅約款には、本件原状回復特約の条項が記載されず、その代わりに、改装のための定額補修分担金を賃借人に負担させるとの条項が記載されているものがある。
(7) 平成一一年度から平成一三年度において、京都市市民生活センターに寄せられている苦情では、賃貸アパート・マンションに関するトラブルがトップを占め、契約終了時の原状回復義務の範囲をめぐる敷金返還に関するトラブルが増えており、同センターでは市民及び賃貸人啓発のためのパンフレットを作成し、配布している。
(8) 被控訴人は、平成一〇年六月八日、本件建物の入居申し込みをし、管理をしていた一審被告長栄の担当者と話をし、控訴人と会うことなく、賃貸借契約書(甲一)に調印し、原状回復等に関するご連絡という文書(乙一)を交付されて調印し、同年七月一日、本件建物に入居し、期間一年の終了に際し、平成一一年六月三〇日、二ヶ月分の更新料を支払って、契約の更新をし、さらに、平成一三年七月七日、住宅賃貸借契約書継続・改訂事項に関する覚書という文書に調印し、二ヶ月分の更新料を支払って、合意による契約の更新をし、契約期間を平成一三年七月一日から平成一四年六月三〇日までとし、家賃、共益費を従前どおりの金額とするほか、その他の契約事項については原契約とおりとすることとなった(本件更新合意)。被控訴人は、平成一四年六月九日、一審被告長栄の担当者の検査を受けて、本件建物を明け渡し、敷金が当然返還されるものと考えていたが、連絡がなく、同年九月七日に至り、清算書、修理明細書が送付され、敷金返還ゼロとの通知を受けて驚いた。
(9) 以上からすると、自然損耗等についての原状回復費用を賃借人の負担とすることは不当であるが、公の秩序を形成しているとまでは断定できず、したがって、本件原状回復特約がこれに反して無効であるとまではいえない。
二 本件原状回復特約は消費者契約法一〇条により無効か否か
(1) 消費者契約法の適用があるか
本件賃貸借契約は、平成一〇年七月一日成立し、平成一一年六月三〇日、契約の更新をし、消費者契約法の施行された平成一三年四月一日の後である同年七月七日、合意による契約の更新をした(本件更新合意)。その際に調印された住宅賃貸借契約書継続・改訂事項に関する覚書という文書には、「平成一〇年七月一日付けで締結した本件物件賃貸借契約(以下「原契約」という。)を下記の通り継続、改訂する、原契約期間を平成一三年七月一日より平成一四年六月三〇日まで継続されるものとする、原契約家賃月額金五万五〇〇〇円を平成一三年七月分より月額金五万五〇〇〇円に改訂する、原契約共益費月額金六〇〇〇円を平成一三年七月分より月額金六〇〇〇円に改訂する、その他の契約事項については原契約通りとする。」との記載がある。
これによれば、本件更新合意は、当事者間の合意による約定、即ち契約であることはもとより、本件覚書では、今後の賃貸期間を定めるだけでなく、賃料及び共益費の改定並びに新たな特約条項の設定を行うこともあり得ることが想定されたうえ、改定されなかった契約条項については従前の契約どおりとすることが定められているのであって、本件更新合意により従前の賃貸借契約と同一条件(本件更新合意では契約条項の改定はなかった。)の新たな賃貸借契約が成立したといえる。
以上によれば、消費者契約法の施行後である平成一三年七月七日に締結された本件更新合意(但し、本件覚書によれば、更新の効力は同月一日をもって生じさせる趣旨と認められる。)によって、同月一日をもってあらためて本件建物の賃貸借契約が成立し、控訴人及び被控訴人は、同法を前提にして賃貸借契約をするか否かを含め、その内容をどうするか等を判断し得たのであるから、更新後の賃貸借契約には消費者契約法の適用がある。
控訴人は、敷金契約の独立性や金銭交付の有無を強調して、本件更新合意の際、本件原状回復特約が合意の対象とされておらず、平成一〇年七月一日当時の契約のままであるとして、消費者契約法の適用がないとするが、上記のとおり、この点も含め「原契約通りとする」のであるから、合意の対象としている。また、当初の賃貸借契約においては、本件原状回復特約による自然損耗等についての原状回復義務を含めた賃借人の原状回復義務として、本件建物を賃貸開始当時である平成一〇年七月一日の原状に回復するとの合意がされ、本件更新合意の際には、平成一〇年七月一日の原状に回復をしないことを当然の前提として、敷金全額の返還を省略した上、敷金の新たな交付をしないとの合意の下に、次の退去時に賃貸開始当時である平成一〇年七月一日の原状に回復するとの合意がされたというべきであるから、その旨の新たな合意がされているのであり、控訴人は、同法を前提にして、適当な措置を取り、又は、適当なる申し出をすることもできたのであって、主張は採用できない。
(2) 本件原状回復特約は消費者契約法一〇条に該当するか
ア 民法四八三条は、債権の目的が特定物の引渡なるときは弁済者はその引渡を為すべき時の現状にて其の物を引き渡すことを要すとし、四〇〇条は、債権の目的が特定物の引渡なるときは債務者はその引渡を為すまで善良なる管理者の注意を以て其の物を保存することを要すとし、六一六条の準用する五九四条は、借主は契約又は其の目的物の性質によりて定まりたる用法に従い其の物の使用及び収益を為すことを要すとしているから、民法は、賃貸借契約の終了に際し、借主は契約又は其の目的物の性質によりて定まりたる用法に従い其の物の使用及び収益をしている限り、返還すべき時の現状にて其の物を引き渡すべきであり、善良なる管理者の注意義務に違反した場合には損害賠償等一定の責任が生じるが、原状回復義務を負わないと規定しているといえ、判例も同趣旨と解される(最判昭和二九年二月二日民集第八巻第二号三二一頁、同年一一月一八日裁判集民事一六巻五二九頁)。また、同法六一六条の準用する五九四条は、借主の収益権を規定しているのであって、義務に言及したものでないことは明文上明らかである。なお、原状回復義務を負うとの学説もあるが、根拠は示されていない。
本件原状回復特約は、自然損耗等についての賃借人の原状回復義務を約し、賃借人がこの義務を履行しないときは賃借人の費用負担で賃貸人が原状回復できるとしているのであるから、民法の任意規定の適用による場合に比し、賃借人の義務を加重していることは明らかである。
イ 前記のとおり、本件原状回復特約により自然損耗等についての原状回復費用を賃借人に負担させることは、賃借人の二重の負担の問題が生じ、賃貸人に不当な利得を生じさせる一方、賃借人には不利益であり、信義則にも反する。
そして、本件原状回復特約を含む原状回復を定める条項は、退去時、住宅若しくは付属設備に模様替えその他の変更がある場合、賃貸人の検査の結果、畳、障子、襖、内壁その他の設備を修理・取り替え若しくは清掃の必要があると認めて賃借人に通知した場合には、自然損耗も含み、本件建物を賃貸開始当時の原状に回復しなければならないとされており(第一九条)、賃貸人が一方的に必要があると認めて賃借人に通知した場合には当然に原状回復義務が発生する態様となっているのに対し、賃借人に関与の余地がなく、賃借人に一方的に不利益であり、信義則にも反する。
また、居住目的の建物賃貸借契約において、消費者賃借人と事業者賃貸人との間では情報力や交渉力に差があるのが通常であり、本件において、賃貸借契約書(甲一)調印の際に交付された原状回復等に関するご連絡という文書(乙一)の内容は、別紙のとおりであるところ、これによれば、原状回復すべき内容を冷暖房、乾燥機、給油機等の点検、畳表替え、ふすま張り替えなどと具体的に掲げ、賃貸人が原状回復した場合の賃借人の費用負担額の基礎となる費用単価を明示し、さらに、敷金と原状回復費用とを差引計算して返還するものであるところ、敷金を返還できるケースが少なく、逆に多額となる場合もあることが指摘されているが、本件原状回復契約による自然損耗等についての原状回復義務負担の合意及び賃料に原状回復費用を含まないとの合意に関し、五万五〇〇〇円という賃料額が従前の賃借人の負担した自然損耗等についての原状回復費用を含めたものか否か(控除したか否か)とか、これを含めたもの(控除しないもの)とすると考えられる本件の場合、事後的に退去時に発生する原状回復費用をどのように賃料に含ませない(控除する)こととするのか、原状回復の内容をどのように想定し、費用をどのように見積もったのか、とりわけ、自然損耗等についての原状回復の内容をどのように想定し、費用をどのように見積もったのか等については、賃借人に適切な情報が提供されたとはいえない。
したがって、賃借人は、敷金額二〇万円、賃料五万五〇〇〇円という各金額を前提に、本件原状回復特約による自然損耗等についての原状回復義務を負担することと賃料に原状回復費用を含まないこととの有利、不利を判断し得る情報を欠き、適否を決することができない。
このような状況でされた本件原状回復特約による自然損耗等についての原状回復義務負担の合意は、賃借人に必要な情報が与えられず、自己に不利益であることが認識できないままされたものであって、賃借人に一方的に不利益であり、信義則にも反する。
したがって、本件原状回復特約は信義則に反して賃借人の利益を一方的に害するといえる。
控訴人は本件原状回復特約が合理性を有して公平である旨を種々主張するが、自己が自然損耗等についての原状回復費用を出捐しないまま、自然損耗等についての原状回復費用に相当する分の二重負担という態様で賃借人に原状回復義務を負わせ、賃借人の損失の下に実現する合理性、公平性であって、同主張は、信義則に反し、正当なものといえない。
ウ よって、本件原状回復特約、即ち、自然損耗等についての原状回復義務を賃借人が負担するとの合意部分は、民法の任意規定の適用による場合に比し、賃借人の義務を加重し、信義則に反して賃借人の利益を一方的に害しており、消費者契約法一〇条に該当し、無効である。
三 被控訴人は、本件建物明渡しの際、原状回復費用を控除すると返還すべき敷金はないとの説明を受け、これを了解したか否か
これを肯認すべき証拠はないから、同了解があったとは認められない。
四 敷金の返還額
控訴人は、一審被告長栄に対し原状回復費用として二〇万円を支払い、同被告が補修業者に支払った一五万四二〇〇円には自然損耗等についての原状回復費用以外に原告に過失のある損耗についての原状回復費用も含まれているが、両者を区分・特定することは不可能であり、上記一五万四二〇〇円と未清算の水道代三二九七円を控除した残額は同被告の手数料・利益であると主張する(但し、上記三二九七円については未清算分はなかったとして主張を撤回した。)ところ、本件原状回復特約、即ち、自然損耗等についての原状回復費用に関する部分は、前記のとおり無効の特約にかかるものであるから、前記民法の規定に従い、賃借人の負担するものでなく、賃借人に過失のある損耗についての原状回復費用に関する部分は、賃借人の負担するものであるが、これを区分・特定することができないから、結局、被控訴人が負担すべき原状回復費用を認めることができない。
第四結論
よって、原判決は相当であり、本件控訴を棄却し、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 若林諒 裁判官 三木昌之 島村雅之)
<以下省略>