大阪高等裁判所 平成16年(ネ)976号 判決 2006年1月12日
控訴人・被控訴人・一審原告
A野花子
他1名
控訴人・一審原告
A野太郎
上記三名訴訟代理人弁護士
宇陀高
同
坂井希千与
同
佐藤功行
同
角田由紀子
同
長谷川京子
同
藤原唯人
同
松本隆行
被控訴人・控訴人・一審被告
兵庫県
同代表者知事
井戸敏三
同訴訟代理人弁護士
奥村孝
同訴訟復代理人弁護士
石丸鐵太郎
同
森有美
同
藤原孝洋
同
矢形幸之助
同
中尾悦子
同指定代理人
冨岡孝行
他8名
主文
一 本件各控訴を棄却する。
二 控訴費用は各控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一控訴の趣旨
一 一審原告ら
(1) 原判決中、一審原告A野花子及び同B山松子敗訴部分並びに一審原告A野太郎に関する部分を取り消す。
(2) 一審被告は、一審原告A野花子に対し六〇四六万一七二一円、一審原告B山松子に対し三〇二八万〇八六〇円、一審原告A野太郎に対し五五〇万円及びこれらに対する平成一一年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
(3) 訴訟費用は第一、二審とも一審被告の負担とする。
(4) 仮執行宣言
二 一審被告
(1) 原判決中、一審被告敗訴部分を取り消す。
(2) 一審原告らの請求をいずれも棄却する。
(3) 訴訟費用は第一、二審とも一審原告らの負担とする。
第二事案の概要
一 本件は、平成一一年二月二日午前八時一五分ころ、兵庫県揖保郡太子町広坂一一九番地先路上において、軽四輪乗用自動車を運転中のA野竹子(以下「竹子」という。)が、過去に交際していたC川春夫(以下「春夫」という。)運転の普通乗用自動車に正面衝突されて殺害され、同人も同所で自殺した事件(以下「本件殺人事件」という。)につき、竹子の相続人である一審原告A野花子(竹子の実祖母、以下「一審原告花子」という。)及び一審原告B山松子(竹子の実母、以下「一審原告松子」という。)並びに竹子の伯父である一審原告A野太郎(以下「一審原告太郎」という。)が、竹子が春夫に殺害されたのは一審被告が管理・運営する兵庫県警察に所属する警察官らが犯罪防止のための適切な権限の行使をしなかったことによるものである旨主張して、一審被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、竹子及び一審原告らが被った損害の賠償並びにこれに対する竹子が死亡した日である平成一一年二月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求めた事案である。
原審裁判所は、上記警察官らに上記権限不行使による過失を認める一方、これと竹子の死亡との因果関係を否定したが、上記警察官らの上記過失によって、竹子は同人が本件殺人事件により死亡した時点においてなお生存し得た可能性を侵害されたとして、一審被告に対し、竹子の精神的苦痛に対する慰謝料として六〇〇万円(竹子死亡に伴う相続により一審原告花子につき四〇〇万円、一審原告松子につき二〇〇万円)、一審原告花子固有の損害として弁護士費用四〇万円、一審原告松子固有の損害として弁護士費用二〇万円並びにこれらに対する遅延損害金の支払を命じ、一審原告花子及び同松子のその余の請求及び一審原告太郎の請求をいずれも棄却した。
これに対し、一審原告らは、原判決が上記警察官らの過失と竹子死亡との因果関係を否定したことを主たる不服の理由として、一審被告は、原判決が上記警察官らの上記過失を肯認したことを主たる不服の理由として、それぞれ控訴した。
二 前提となる事実、争点及び争点に関する当事者の主張は、後記三のとおり当審における当事者の補足的主張を付加するほか、原判決「事実及び理由」中の「第二 事案の概要等」一、二欄に記載のとおりであるから、これを引用する(ただし、原判決四頁二四行目の「二一日夜、」の次に「自宅において」を加える。)。
三 当事者の補足的主張
(1) 一審原告ら
ア 総論
(ア) 原判決は、本件の加害者である春夫の一連の攻撃を個々の事件毎に分析して考察し、それぞれの事件を切り離して竹子の生命身体へ迫る危険性を評価し、警察官らの対応を評価したため、福崎事件以降、次々と攻撃が繰り返され、エスカレートしていった事態を、連続した流れとして捉えず、そのため、関係者の行動が不可解で矛盾に満ち、事件の流れも了解困難なものとなっている。そして、その結果、原判決は、最後の攻撃だけが唐突に制御不能の危険性を帯びたものであり、これが竹子死亡の結末に至らしめたものであるから、警察官らには竹子死亡という結果の回避可能性がなかったなどとしている。
しかし、本件は、同じ加害者が同じ被害者に向けて、一定の明確な目的(竹子を支配し、自分のものにするという目的)のもとに、暴力を繰り返してきた一連の攻撃であって、個々の事件は「全体」の攻撃を構成する「部分」であった。したがって、その攻撃の危険性は従前の攻撃の重積の上に評価されるべきであるし、警察の権限行使の影響は、以降の攻撃防止を通じて竹子死亡に与え得た影響の大きさを推し量って判断すべきである。そうして、本件において、DV型犯罪の構造、加害者である春夫の行動特性(春夫は、自分を見捨てた竹子への激しい怒りや恨み、竹子に自己嫌悪や愛情飢餓を埋めて欲しいという一方的な欲求を抱え、その感情的な混乱に押し流されるままに、竹子との関係継続の手段と化したストーキングと暴力を反復、継続する一方、警察の動静には多大な注意を払い、警察が介入する気がないのを見定めて、さらに竹子への攻撃をエスカレートさせている。)、被害者が置かれた危険な状況とその深刻さ、及び助けを求めた先でその無理解のため被害者が途方に暮れて示した反応(失望、怒り、拒絶、諦め)等をふまえ、事件の流れに沿って丁寧に事実認定を積み重ねれば、関係者の言動や態度ははるかに了解可能なものになるし、繰り返されエスカレートする攻撃が放置された結果、事態が最悪の結末に向けて悪化していったこと、加害者に対する有効な牽制の機会がいくつもあったこと、そのどれかが奏功しておれば、被害者死亡という結末を回避し得た蓋然性があることが明瞭になったはずである。
(イ) DV型犯罪では、警察の諸権限行使による介入が警告以上の影響力を持ち、将来の犯罪遂行を抑制し得るのに、そういう権限を、被害者が加害者と親密な関係にあったことを理由に行使せず、再攻撃の危険から放置することは、警察の権限行使によって、国民が生命身体への犯罪から本来等しく守られるべき権利ないし重要な利益の保護において差別するものであり、憲法一四条の法の下の平等の原則に違反する。国民が、犯罪を取り締まる警察権限の行使のもとで、生命身体を脅かす犯罪から守られる権利ないし重要な法的利益は、加害者との関係如何にかかわらず等しく保護されるべきであって、元交際相手だから、一般傷害事件とは異なり、刑事的介入が消極的でよかったのだとする原判決の判断の枠組みは容認できない。
イ 警察官らの権限不行使の違法性
(ア) 春夫の竹子に対する攻撃は、竹子を自分のものにするという目的に向けて、同じパターンで繰り返されており、竹子の生命身体に関する危険性は、福崎事件当時から明白かつ具体的であり、警察官らにも十分予見可能であったから、警察官らは、福崎事件当時からその権限を適切に行使すべきであった。
(イ) 福崎事件
警察官らは、福崎事件について、司法警察上及び行政警察上、迅速に厳格な介入、措置をするべきであり、また、これを契機として福崎署はじめ近隣警察署が連携態勢を取るべきであった。
(ウ) 龍野署逃げ込み事案
龍野署は、平成一〇年七月ころの竹子らの訴えに真摯に応じ、当日の車での追い回し行為等につき、丁寧に事情聴取して暴行事件として捜査すべきであった。また、その聴取の過程で、竹子から過去の暴力として出たであろう福崎事件について、福崎署との情報交換を行い、春夫を逮捕するか、逮捕しない場合は、同人を呼び出して今後同様の行為を行わないよう厳正な警告を行うべきであった。
(エ) 肋骨骨折事件
警察官らは、肋骨骨折事件について、竹子の告訴を受理し、直ちに捜査を開始し、なおも竹子に直接の接触を図ろうとする春夫を逮捕するか、さもなくば以後竹子に接触しないよう厳粛な警告を加え、その警告違反を監視するために、関係警察署間で緊密な連携態勢を敷くべきであった。
(オ) ローソン事件
ローソン事件は、福崎事件、龍野署逃げ込み事案、肋骨骨折事件に続いて発生した、同じ加害者から同じ被害者に対して同じ理由で加えられた襲撃であり、コンビニ駐車場内で公然と執拗な暴行が加えられ、たまたま居合わせたC原(旧姓E原)ら通行人に阻止されてようやく止んだものであり、しかも、春夫は、竹子に対し「覚えとけよ。家を燃やしたる。」という捨てぜりふを残して立ち去っている。そして、このような同事件の経過、当日の暴行の模様は、警察官らにおいてすべて認識し得たものである。したがって、警察官らは、繰り返されエスカレートしてきている春夫の攻撃から竹子の生命身体への更なる攻撃を防止するために、棚上げしていた肋骨骨折事件とローソン事件について直ちに事件化するとともに、春夫を逮捕するか同人に対し厳正な警告をして、その行動を監視するため、関係警察署間で緊密な連携態勢を敷くべきであった。
(カ) 押しかけ事案
押しかけ事案は、福崎事件、龍野署逃げ込み事案、肋骨骨折事件、ローソン事件に続いて、春夫が復縁を強制する目的で、本件誓約書を無視し、友人のD川を連れて、とうとう自宅まで押しかけてきたものであり、たまたま一審原告太郎が居合わせたから、春夫らを追い返せたが、一審原告太郎が不在なら、春夫が竹子にどんな暴力を加えたかしれない事案であり、竹子の生命身体に対する具体的危険が切迫していたことは明らかであった。したがって、原判決がこの時点で、竹子の生命身体への重大な危険の切迫と警察官らの司法警察上並びに行政警察上の権限不行使を著しく不合理と判断したのはもとより当然である。しかし、原判決が、警察官らに逮捕権限不行使の違法がないとした点については、竹子の生命身体という最も重大な法益が侵害にさらされており、既に再三その深刻な侵害が現実化していたという、緊急重大な事態に至っていたこの時点において、警察官らはその重大な結果を回避するために逮捕権限を行使すべきであったというべきであるから、原判決の上記判断は不当である。
ウ 警察官らの権限不行使と竹子死亡との因果関係
原判決が警察官らの捜査懈怠と竹子死亡との因果関係を否定した唯一の根拠は、春夫が竹子を殺害し、その場で包丁により自死したという経過から、本件殺人事件が春夫による「思い詰めた上での覚悟の犯行」であり、それまでの加害行為の延長とは認められない、ということである。
しかし、春夫が、①本件殺人事件当日、衝突現場に至るまで六キロメートル、一〇分間も、衝突行為に及ばないまま、竹子の通勤経路を竹子の会社へ向かって走行していること、②車で通勤する竹子を殺す凶器としては不確実なものといえる自動車を殺害に使用していること、③車内に携行した刃物を自死以外に用いていないこと、④少なくとも入野交差点以降、竹子車の「後ろ」ではなく「前」を走行していたこと、⑤当日、少なくとも二回、竹子車を引き止め、その際、会社に行く、行かせないという趣旨の言葉を交わしていること、⑥衝突現場手前の広坂交差点で、信号待ちをし、青に変わった後、普通の速度で走行していること、⑦衝突後、竹子の様子を見に行ったが、すぐに自殺を図っていないこと等からすると、当日の春夫の竹子車追跡行為は、龍野署逃げ込み事案と同様に、いつものつきまとい行為で始まったことは明らかである。春夫がその後自車を竹子車に衝突させたことさえ、二度にわたり竹子車を停止させて言葉をかけても、会社へ急ぐ竹子を止められなかった春夫が、まもなく会社に到着してしまう竹子を実力で止めるために、とっさに衝突させてしまったと考えるのが自然である。換言すれば、最後の暴力となった春夫の衝突行為は、春夫がつきまとい行為開始後の成り行きで思いつき、実行に至ったものであって、衝突による竹子の死亡も成り行きで発生してしまった結果であった。
したがって、当日のつきまとい行為は、春夫が竹子殺害を決めて着手した「覚悟の上の犯行」などではない。また、この日の春夫の自死も、つきまといの途中で、思いもよらず重大な結果を発生させてしまい、ついに逮捕と刑事罰を受けることになった恐怖に起因するものであって、つきまとい行為開始前から、思い詰めて覚悟していたものではなかった。このように、この日のつきまとい行為は、それまでに続いたつきまとい行為と同様、警察の呼び出しや逮捕等、通常の捜査開始によって、十分に防止できた行動であり、かつこの日のつきまとい行為が防止されれば、成り行きで竹子が死亡させられる結果も当然回避できたのである。
以上により、警察官らの違法な職務権限不行使と竹子の死亡との因果関係は優に認定できる。
(2) 一審被告
ア 原判決は、春夫がDV型ストーカー行為を繰り返しているとしているが、肋骨骨折事件以後も春夫と竹子が交際を再開していることからすると、本件殺人事件は、春夫の命を賭した無理心中事件と解すべきである。
イ 仮に、春夫の竹子殺害が無理心中でないとしても、以下のとおり、警察官らの権限行使は適法妥当なものであり、違法な職務権限不行使とみることはできないから、国家賠償法上の違法は認められない。
(ア) 原判決は、警察官らが竹子の生命身体に対する具体的かつ切迫した危険性の存在を認識、予見できたとするが、以下のとおり事実誤認である。
a ローソン事件について
竹子は、ローソン事件の際、怯えている感じがなく、警察官らに対し淡々と話していたし、警察官らの再三にわたる被害届提出に向けた説得を拒否しているから、自己の生命身体に対する具体的かつ切迫した危険性を認識していなかったのは明らかであり、そうすると、警察官らが竹子の生命身体に対する具体的かつ切迫した危険性を認識していなかったのもやむを得ないものである。
b 押しかけ事案について
春夫が肋骨骨折事件及びローソン事件について反省していたこと、一審原告太郎が押しかけ事案以後においても危険の切迫を感じていない旨供述していること、竹子が肋骨骨折事件以後も春夫と連絡を取っていたと思われること等からすると、竹子自身この時点で自己の生命身体に対する具体的かつ切迫した危険性を認識していなかったのは明らかであり、そうすると、警察官らが竹子の生命身体に対する具体的かつ切迫した危険性を認識していなかったのもやむを得ないものである。
(イ) 原判決は、竹子に対する具体的な防犯指導、春夫に対する厳重な警告をしなかったとしている。
しかし、ローソン事件においては、現場臨場した龍野署のA川巡査部長及びB原巡査長は、同人らの再三の説得にかかわらず竹子が被害申告しないことから、携帯電話番号の変更、何かあった場合の一一〇番通報等を指導しているし、押しかけ事案においては、姫路署のD野警部補は、春夫に対し厳重な警告をしている。原判決にはこの点で事実誤認がある。
(ウ) 原判決は、ローソン事件及び押しかけ事案について、関係警察署間における緊密な連携体制を取るべきであったとしている。
しかし、上記各事件等の際、竹子の生命身体に対する具体的かつ切迫した危険が存在していなかったことは上記のとおりであるから、上記連携体制を取る要件がそもそも存在していなかったというべきであるばかりか、連携体制を構築するには警察官を一定期間相当数動員しなければならず、限られた警察官数で特別の態勢を取ることは必ずしも容易ではない。また、姫路署及び龍野署においては一一〇番通報があれば直ちに通常の配置についている警察官が急行できる一般的態勢にあったことからすると、緊密な連携体制を構築しなかったことが不合理といえないことは明らかである。
(エ) 原判決は、押しかけ事案発生時点においては、肋骨骨折事件及びローソン事件について直ちに捜査を開始すべきであったとしている。
しかし、一審原告太郎は肋骨骨折事件の事件化を強く望んでいたわけではないこと、竹子も押しかけ事案発生時点で警察の対応に不満を述べていないこと、ローソン事件では春夫に対する嫌疑が認められたが、竹子は頑なに被害申告を拒んでいたこと等によると、押しかけ事案発生時点において、肋骨骨折事件及びローソン事件について直ちに捜査を開始すべきであったとする原判決には事実誤認と証拠の評価の誤りがある。
(オ) 原判決は、「警察から厳重な警告を受け、又は肋骨骨折事件等について取り調べを受けることによって、春夫が本件殺人事件の実行を躊躇する相当程度の可能性についてはこれを認めることができる。」としている。
しかし、本件殺人事件は春夫の覚悟の上での犯行であることからすると、春夫の殺害の決意及び覚悟の形成に警告、取調べ等の警察権限が介在する余地はなかったと考えられるから、上記の「春夫が本件殺人事件の実行を躊躇する相当程度の可能性」は証明されていないというべきである。
ウ 春夫による竹子の殺害と春夫の自殺について
一審原告らは、当日、竹子運転車両を実力で停止させるため、春夫が咄嗟に自己車両を衝突させてしまったかのように主張するが、春夫が、時速約二五キロメートルで走行中の竹子車両に対し、時速約七〇キロメートルの速度で自己車両を正面衝突させたというその衝突の態様や春夫が衝突後竹子に対する救護措置を全くとっていないこと等に照らすと、春夫による竹子殺害と覚悟の上の自殺は争いようのない事実であり、一審原告らの上記主張に理由がないことは明らかである。
第三当裁判所の判断
一 事実認定
次のとおり補正するほか、原判決四〇頁四行目から五〇頁二四行目までに記載のとおりであるから、これを引用する。
(1) 原判決四〇頁九行目の「同D野八郎、」の次に「当審証人C原(旧姓E原)五郎、」を加える。
(2) 原判決四六頁八行目の「暴行を止めた。」の次に「その際、C原(旧姓E原)の問いかけに、春夫は「おれの女や、ほっといてくれ」などと言い、竹子は怯えた様子で「助けて、殺される」などと言っていた。」を、二〇行目の「事情聴取を行った。」の次に「なお、春夫は、現場を立ち去る際、「覚えとけ、家燃やしたる」などと捨てぜりふをはいた。」をそれぞれ加える。
二 争点①(警察官の対応に国家賠償法一条一項における違法性が認められるか)について
(1) 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当たることをもってその責務とするものであるから(警察法二条参照)、警察官は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、又、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、又は財産に重大な損害を受けるおそれがあって、急を要する場合においては、その行為を制止することができるものとされている(警職法五条参照)。もとより、これは、警察の上記のような責務を達成するために警察官に与えられた権限であると解され、上記法令の文言や警察権の行使という事柄の性質上、この権限を発動するかどうか、また、どのような内容の警察権を発動するかについては、警察官に一定の範囲で裁量が与えられているものと解される。しかし、犯罪の予防、鎮圧及び捜査等公共の安全と秩序の維持に当たることが警察の責務であることからすると、犯罪等の加害行為、特に国民の生命、身体に対する加害行為が正に行われ、又は行われる具体的な危険が切迫しており、警察官においてそのような状況であることを知り、又は容易に知ることができ、警察官が上記危険除去のための警察権を行使することによって加害行為の結果を回避することが可能であり、かつ、その行使が容易であるような場合においては、上記警察権の発動についての裁量の範囲を超えて、警察官が上記危険除去のための警察権を行使することにつき職務上の義務が生じることもあり得ると解すべきである。そして、警察官が上記職務上の作為義務に違背して警察権を行使しなかったことにより、犯罪行為等の招来を防止できず、国民の生命、身体等に被害を生じさせたような場合には、上記警察権の不行使が国家賠償法一条一項との関係で違法な公権力の行使に該当し、損害賠償責任を負う場合もあり得るというべきである。
(2) 本件における具体的検討
ア 福崎事件について
一審原告らは、福崎事件について、警察は、春夫を傷害罪だけでなく、少なくとも住居侵入罪でも検挙すべきであったと主張する。しかし、福崎事件では、建造物損壊罪、住居侵入罪、傷害罪の成立が考えられるとしても、警察官が、そのうちの最も重い犯罪である傷害罪のみで検挙し、住居侵入罪では検挙しなかったことが特に不合理なものであったとは認めがたい。
一審原告らは、福崎署としては、春夫を釈放した後も、被害者である竹子の住所地を管轄する姫路署及び春夫の住所地を管轄する龍野署にそれぞれ福崎事件を報告し、今後同様の事件の再発を防ぐために連携を図りつつ、かつ春夫が再度竹子に対して暴行等の攻撃に及ぶことがないか的確に情報交換できる態勢を作るべきであったと主張する。
確かに、上記認定のとおり、竹子は福崎事件において暴行を受ける以前にも、春夫から複数回にわたって暴力を受けていたことが認められる。
しかし、竹子は、福崎事件で春夫が逮捕され、その翌日釈放された当時、春夫との同居を再開しており、警察に対し春夫への寛大な処分を求めていたこと、幸い犯行の結果も加療五日間の左肩、両下肢擦過創という比較的軽微なものであったこと等からすると、この時点で、春夫がDV型ストーカーであって、福崎事件発生後、春夫が竹子の生命、身体に対する加害行為を行う具体的な危険が切迫していたと認めることは困難であるし、警察官らがそれを認識、予見することができたとも認め難い。そうすると、福崎事件を処理した福崎署の警察官らが、関係各署にこれを報告して連携を図る態勢をとらなかったことをもって、違法な不作為があったものということはできない。
したがって、一審原告ら主張の福崎事件に関する警察官らの行為(不作為)に違法性を認めることはできないというべきである。
イ 龍野署逃げ込み事案について
一審原告らは、龍野署逃げ込み事案について、龍野署は、直ちにこの日の暴行について捜査に着手し、春夫を逮捕するか、少なくとも春夫に対して今後同様の行為を行わない旨の厳正な警告を発し、福崎署にもこの日の暴行事件が発生したことを報告して、福崎事件に関する起訴猶予の当否の判断に重要な事情として供し得るよう、同署経由で担当検察庁に連絡すべきであったと主張する。
しかしながら、春夫は軽トラックを用いて竹子及びE山が乗車する車両を追い回し、同車両のボンネットに上がりガラスを叩いたとはいうものの、春夫が竹子らの車両に自車を衝突させたわけではなく、また、竹子らの身体に対して直接加害行為を加えたわけでもないことからすれば、この時点で、直ちに春夫を逮捕しなければならなかったとまではいえないし、この事案とこれ以前に発生した福崎事件とを併せ考慮しても、春夫がDV型ストーカーであって、春夫が竹子の生命、身体に対する加害行為を行う具体的な危険が切迫していたと認めることは困難であり、警察官らがそれを認識、予見することができたとも認め難い。そうとすれば、確かに、警察官としては春夫に対して厳正な警告を発し、竹子から事情を聴取して福崎署及び福崎事件を担当する検察庁にこれを報告することが望ましかったとはいえるものの、これをしなかったことをもって、違法な不作為があったものということはできない。
よって、一審原告ら主張の龍野署逃げ込み事案に関する警察官らの行為(不作為)に違法性を認めることはできないというべきである。
ウ 肋骨骨折事件について
一審原告らは、肋骨骨折事件について、B野警部補は、被害者である竹子の告訴を受理して直ちに捜査に着手し、春夫が任意の事情聴取に応じない場合は春夫を逮捕し、春夫が事情聴取に応じた場合は春夫に対して竹子への接近を禁止し、暴行・脅迫等の犯罪行為を繰り返さない旨厳正な警告を発した上で、検察庁に事件を送致すべきであったのに、受理すべき告訴を棚上げにして、春夫から本件誓約書を取る処理で済ませたことは違法であると主張する。
確かに、春夫は福崎事件の後、平成一〇年七月一五日の福崎署での取調べにおいて、「今後は二度とこのようなことは起こさないように誓います。」と供述しながら、龍野署逃げ込み事案を起こしたのみならず、福崎事件の約半年後には、竹子に殴る蹴るの暴行を加えて約一か月間の通院加療を要する左側胸部打撲、左第五・六肋骨骨折の傷害を負わせる肋骨骨折事件を惹起させたのであり、かような福崎事件以後の春夫の一連の行動や、肋骨骨折事件における暴行の程度や結果などの上記認定事実に照らすと、肋骨骨折事件発生時点では、春夫の竹子に対する更なる加害行為の危険性が相当高まっていたということができる。
しかしながら、他方で、上記認定のとおり、春夫は、自ら実父四郎らとともに斑鳩交番に赴き、竹子に対して謝罪し、治療費を支払うことを約束した上、今後竹子に二度とつきまとわない旨の本件誓約書を作成し、後日、竹子に対して二〇万円を支払って示談していること、被害者である竹子自身が肋骨骨折事件の事件化を望んでいたことを認めるに足りる証拠はなく、むしろ、斑鳩交番に到着当初から、肋骨骨折事件の事件化については消極的であったとさえ認められること、一審原告太郎も、斑鳩交番において、当初厳しい態度で肋骨骨折事件の事件化を望んでいたが、春夫及び四郎の謝罪によってその態度を軟化させ、B野警部補からの話し合いによる解決の勧めを受けたこと、B野警部補らは、一審原告太郎らが退署した後、春夫に対し今後竹子につきまとわないことや暴力を振るわないことについて警告もしていること、以上の諸事情がうかがわれる。
そして、これらの諸事情、特に、肋骨骨折事件後直ちに、春夫が竹子に謝罪し、竹子や一審原告太郎の処罰意思も収まり、同人らが話し合いによる解決を受け入れたことや肋骨骨折事件の内容、程度に照らすと、B野警部補らが、肋骨骨折事件を直ちに事件化して捜査に着手することなく、わだかまりを残さず竹子と春夫を別れさせようとして、誓約書という書面でその旨の約束をさせたことは、それ相当の方法というべきであり、同警部補らが、本件誓約書作成直後にも、春夫に対し、今後竹子につきまとったり電話したりしないよう警告していることを併せ考えると、同事件につき直ちに捜査を開始しなかったことが、警察活動として著しく不合理なものであったとまではいえないというべきである。
一審原告らは、警察としては、誓約書による処理の後、本件誓約書の写しを竹子と春夫の双方に交付するなどして誓約内容を確認し、春夫に誓約違反を行わないよう厳しく警告するとともに、竹子に対しては、緊急時の連絡先と担当者を教示し、更に春夫を監視する態勢を警察内に作るために、龍野署に対して、肋骨骨折事件について報告するなどして、関係警察署間で緊密な連携態勢を整えるべきであったと主張する。
確かに、B野警部補らは、本件誓約書作成直後、斑鳩交番において春夫に誓約違反を行わないよう警告しているが、本件誓約書の写しを竹子と春夫の双方に交付していないし、緊急時の連絡先と担当者を教示したり、更に春夫を監視する態勢を警察内に作るために、龍野署に対して、肋骨骨折事件について報告するなどして、関係警察署間で緊密な連携態勢を整えてはいない。しかし、本件誓約書の内容は明確であって、必ずしもその写しが必要とはいえないし、B野警部補らとしては、肋骨骨折事件に至るまでの春夫の一連の行動に照らし、春夫が再び竹子に対する危害を加えることを慮り、またこれに備えて、竹子に緊急時の連絡先と担当者等を教示し、かつ、肋骨骨折事件とその処理内容を龍野署に報告するなどして、将来に向けて組織的、継続的な警察活動、警察対応ができる措置を講じた方がより適切であったとはいえるけれども、本件誓約書作成の経過に照らすと、これらの措置を講じなかったことが著しく不合理であり、違法であるとまでいうことはできない。
エ ローソン事件について
一審原告らは、警察としては、肋骨骨折事件に引き続きローソン事件が発生した以上、直ちに肋骨骨折事件及びローソン事件を立件して捜査を開始し、春夫に対しては、被疑者として事情聴取等を行い、両事件につき十分な嫌疑があり、竹子や関係者に対する威迫など罪証隠滅のおそれもある以上、同人を刑事訴訟法に基づき逮捕するか、又はいかなる理由があっても竹子に近づかず、暴行・脅迫等犯罪行為をしないよう厳正な警告を行い、その行動を監視して新たな犯罪が行われようとすれば直ちにこれを制止できるよう、関係警察署間で緊密な連携態勢を敷くべきであったと主張する。
上記認定のとおり、春夫は、肋骨骨折事件において、二度と竹子につきまとわず、暴力も振るわない、もしこれを破ることがあれば同事件で訴えられても文句は言わないことを誓約し、書面まで作成したにもかかわらず、そのわずか約三週間後には、この誓約に反し、またもやローソン事件に及び、竹子に顔や膝が出血するほどの傷害を負わせていること、ローソン事件における犯行態様は執拗、大胆かつ悪質であり、たまたま近くにいた者に暴行を止められたことによって大事には至らなかったものの、誰にも止められなかったならば、竹子に対して更なる重大な傷害が加えられたかも知れないこと、その他春夫の福崎事件以降の一連の行動に照らすと、ローソン事件発生の時点においては、今後竹子の身体、自由等に対する加害行為が行われる具体的かつ切迫した危険性が存在していたというべきである。
ところで、龍野署署配のパトカーで現場に臨場したB原巡査長及びA川巡査部長は、竹子から事情聴取をし、春夫とは暴力が原因で数か月前に別れたが度々復縁を迫られており、当日も連絡があり、待ち合わせ、再度の復縁話を断ったところ、春夫から顔面を殴られるなどの暴行を受けたとの説明を受け、竹子に被害申告をするよう何度か勧めたが、本件誓約書を提出するなどして示談が成立しているので、今回も事件にして欲しくないとか、その日は就職予定の会社に早く行かなければならないなどと言って、その勧めに応じなかったものであるから、同警察官らのその場での対応に格別問題があったとはいえない。
しかしながら、同警察官らは、当日のうちに、斑鳩交番に赴いて肋骨骨折事件及び本件誓約書による処理の事実を確認したのであるから、B野警部補らと連絡をとり、協議するなどして、春夫の竹子に対する更なる加害行為を防止するために、春夫を呼び出すなどして同人に対して厳重に警告すべきであったし(この警告が危険除去の警察権の行使として有効であることは、竹子死亡後であるが平成一二年五月二四日に成立したストーカー行為規制法において、警察本部長等がつきまとい等の行為をした者に対して警告をすることができるとされていること(同法四条一項)等に照らしても明らかである。)、また、竹子が当日急いでおり、事件にして欲しくないとの意向が必ずしも確定的なものであるか疑問の余地もあったというべきであるから、再度、竹子の意向を確認すべきであったし、更に、龍野署幹部に対し肋骨骨折事件の発生及びその処理内容等について報告し、他方斑鳩交番の警察官らに対しローソン事件の発生及びその処理内容等について報告するなどして、龍野署においても、斑鳩交番においても、福崎事件からローソン事件に至るまでの春夫の竹子に対する一連の犯行・行動を全体として把握し、上記竹子の身体、自由等に対する具体的かつ切迫した危険性の存在を共通の認識とするなどして、今後の組織的、継続的な警察活動、警察対応ができるような措置を講ずるべきであったというべきである。
しかるに、上記警察官らは、春夫に対し今後の加害行為を止めるように厳重に警告をすることをしなかったのみならず、竹子の春夫に対する処罰意思の再確認をしなかったものであり、更に龍野署幹部に対しては肋骨骨折事件の発生及びその処理内容等について報告をせず、斑鳩交番の警察官らに対してはローソン事件の発生及びその処理内容等について報告しなかったため、龍野署においても、斑鳩交番においても、福崎事件からローソン事件に至るまでの春夫の一連の犯行・行動を全体として把握することができず、春夫の竹子に対する更なる加害行為の防止に向け、組織的、継続的な警察活動、警察対応ができるような措置を講ずることができなかったのであるから、竹子の身体、自由等に対する具体的かつ切迫した危険性が存在していたことにかんがみると、職上記警察官らのこれらの不作為は、ローソン事件から相当期間が経過した時点において、著しく合理性を欠き、職務上の作為義務に違反する違法なものであったというべきである(なお、上記の警察官ないし警察は、平成一一年一月末日までに上記のすべてではなくても、その一つの行為はすべきところ、その一つもしていないから、同年二月一日にはその不行使により違法になったとみるべきである。)。
オ 押しかけ事案について
一審原告らは、ローソン事件の後、更に押しかけ事案まで発生した以上、警察としては、直ちに肋骨骨折事件及びローソン事件を立件して春夫及び竹子らから事情を聴取するなどの捜査を開始し、春夫を逮捕するか、もしくは春夫に対して竹子に暴行脅迫等犯罪行為を行わないよう厳正な警告を行うべきであったし、また、春夫の警告違反行動に的確に対処できるよう、関係警察署間で緊密な連携の態勢を敷くべきであったと主張する。また、一審原告らは、押しかけ事案発生の通報を受けて現場に赴き、肋骨骨折事件等の春夫の犯行について説明を受けたD野警部補としては、自らこれらの事件の捜査を開始するか、もしくは龍野署ないし斑鳩交番に押しかけ事案について報告し、竹子が肋骨骨折事件の事件化を望んでいる事実を報告して、事件処理を促すべきであったと主張する。更に、一審原告らは、竹子の住所、稼働先周辺の警備態勢を強化し、今後同様の事件の再発を防ぐために、龍野署、姫路署の各警察署間で連携を図り、かつ竹子との間で、春夫の襲撃を受けた場合の緊急通報や対処について具体的に打ち合わせ、竹子の安全を確保する一方、春夫の襲撃を制止し、厳しく対処できる態勢をとるべきであったと主張する。
上記のように、ローソン事件発生の時点において既に竹子の身体、自由等に対する具体的かつ切迫した危険性が発生していたと認められる上に、春夫は、同事件のわずか約二週間後に更に押しかけ事案に及び、竹子に会わせろなどと言って一審原告太郎方に押しかけてきたのであるから、竹子の身体、自由等に対する危険はますます具体化し切迫していたと認められる。そして、当時、一審原告太郎がD野警部補に対し、肋骨骨折事件の内容やこれを誓約書によって処理したこと、本件誓約書の内容に反し、春夫が当日も竹子に会わせるよう求めてきたことなどを説明したことにかんがみると、D野警部補としても上記危険性を容易に認識し得たものと認められるから、同警部補としては、春夫に対し更なる加害行為を絶対にやめるよう厳正な警告を行うとともに、一審原告太郎から肋骨骨折事件についての事件化を相談され、龍野署に相談に行くよう教示したのなら、一審原告太郎からの相談に対する対応が確実に行われるよう、龍野署ないし斑鳩交番に対し、押しかけ事案の発生及び林田交番におけるD野警部補らの対応、一審原告太郎からの肋骨骨折事件の事件化の要請等の情報を的確に伝達するなどの措置を講ずるべきであったというべきである。そして、一審原告太郎はその後、斑鳩交番を訪れ、B野警部補に対し、押しかけ事案を説明して、本件誓約書のコピーの交付を求めるなどしているのであって、同警部補としては、自ら春夫に本件誓約書を作成させるなどしてその処理を担当した肋骨骨折事件の発生後一か月余りのうちに、春夫が本件誓約書の内容に反して押しかけ事案を惹起させたことが判明したのであるから、既にこのころには、いわゆるストーカー事案に対して、事案を認知した場合は、被害者の視点に立って、的確な事件化措置を講ずるよう全国の警察本部が警察庁から指示を受けていたことをも併せ考えれば、一審原告太郎や竹子、さらには春夫に対する事情聴取を始めるなどして、肋骨骨折事件やローソン事件について直ちに捜査を開始すべきであったというべきである。また、同警部補としては、更なる春夫の竹子に対する加害行為の発生を防ぐために、龍野署に一審原告太郎から説明を受けた内容を報告するなどして、龍野署や斑鳩交番において、福崎事件から押しかけ事案に至るまでの春夫の竹子に対する一連の犯行・行動を全体として把握し、上記竹子の身体、自由等に対する具体的かつ切迫した危険性の存在を共通の認識とするなどした上で、竹子との間で、今後春夫の襲撃を受けた場合の緊急通報や対処の仕方について具体的な打ち合わせ等をするなどして竹子の安全を確保する一方、警察として今後、組織的、継続的な活動、対応ができるような措置を講ずるべきであったというべきである。
しかるに、D野警部補は、春夫に対し上記の厳重な警告を行わなかったし、龍野署ないし斑鳩交番に対し、押しかけ事案の発生及び林田交番におけるD野警部補の対応、一審原告太郎からの肋骨骨折事件の事件化の要請等の情報を的確に伝達するなどの措置を講じることもしなかった。また、一審原告太郎から押しかけ事案の説明を受けたB野警部補も、一審原告太郎や竹子、さらには春夫に対する事情聴取を始めるなどして、肋骨骨折事件やローソン事件について直ちに捜査を開始しなかったし(なお、同警部補は、その数日後、一審原告太郎からの本件誓約書のコピーの交付要求を拒絶しているが、春夫が明らかにその誓約内容に違反した後であるのに、春夫に厳重に警告するなどの手当をする姿勢を示さないで単に拒絶したものであり、その拒絶行為は大いに問題であったというべきである。)、龍野署に一審原告太郎から説明を受けた内容を報告などもせず、竹子との間で、今後春夫の襲撃を受けた場合の緊急通報や対処の仕方について具体的な打ち合わせ等もしないなど、春夫の竹子に対する更なる加害行為の防止に向け、警察として、組織的、継続的な活動、対応ができるような措置を講ずることをしなかったものである。
当時の竹子の身体、自由等に対する具体的かつ切迫した危険性が存在していたことにかんがみると、上記警察官らは、少なくとも平成一一年一月末日までに上記のすべてではなくても、その一つの行為はすべきところ、その一つもしていないから、同年二月一日には、上記の警察官ないし警察のこれらの不作為は、著しく合理性を欠き、職務上の作為義務に違反する違法になったとみるべきである。
三 争点②(捜査懈怠等の違法行為と竹子死亡との間に相当因果関係が認められるか)について
一審原告らは、つきまとい行為者に警察が警告ないし注意した事件の多くが解決していること、本件においても、春夫が警察に対しては恭順の姿勢を示していたことから、警察が春夫に対して警告し、また、捜査を開始していれば、これらが効果的な抑止力になり、竹子の死亡という最悪の結果を回避することができたのであるから、関係の警察官ないし警察の不作為行為と竹子の死亡との間には相当因果関係があると主張する。
そこで、以下、上記警察官らの不作為行為と竹子の死亡との間の相当因果関係の有無について判断する。
訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである。したがって、国家賠償法上の規制権限不行使における因果関係の存否の判断においても、経験則に照らして全証拠を総合的に検討し、当該公務員が当該規制権限を行使しておれば、結果を回避し得たであろう高度の蓋然性が証明されれば、上記規制権限不行使と結果との間の因果関係が認められるというべきである。
本件についてこれをみるに、上記二で述べたとおり、春夫は福崎事件によって逮捕され、肋骨骨折事件においても警察から竹子に近づかないように警告を受けて、本件誓約書まで提出したにもかかわらず、その後もローソン事件や押しかけ事案を引き起こしたのであって、遅くともこの時点ころには、竹子の身体、自由等に対する更なる危険の切迫を認めることができる。また、つきまとい事案が殺人事件や殺人未遂事件につながったケースが、平成八年中に八件あり、平成九年一月から四月までの間にもつきまとい事件による殺人事件の検挙が三件あったことは上記認定のとおりであり、本件殺人事件当時、春夫による竹子の殺人が全く予想できなかったとまではいえない。更に、春夫は、押しかけ事件以後に、友人のD川に対し、竹子のことを好きな間に竹子を殺して自分も死ぬ、竹子のことでこれ以上悩みたくないなどと漏らしており、本件殺人事件が起きる可能性はあったというべきである。
しかしながら、関係の警察官ないし警察が、春夫が竹子を殺す意思を有していたことの情報を得ていたとか、そのことを知っていたことを認めるに足りる証拠はない。また、春夫の竹子に対する一連の行為は、竹子との関係の継続、復縁を求めての暴行、脅迫であって、それも凶器を利用したものではないことに照らすと、警察が、本件殺人事件を予想、予期しなかったとしても非難できないし、そのことにつき、責任があったとまではいえない(なお、春夫は、ローソン事件の際、竹子に対し、家を燃やしたるなどと捨てぜりふを吐いたことは上記認定のとおりであるが、この捨てぜりふが関係の警察官に伝えられたか否か明らかでないうえ、仮に伝えられたとしても、その場の状況等からして、春夫に殺人の意思があったとまで予想、予期できなかったというべきである。)。更に、本件殺人事件自体をみても、自動車を高速で正面衝突させるというもので、思い詰めた犯行か、偶発的な犯行かはさておき、それ以前の春夫の竹子に対する加害行為の単なる延長とは言い難い犯行であったというべきであるから、いずれにしても、上記警察官らの不作為行為と竹子の死亡との間につき、相当因果関係を認めることはできない。
この点、一審原告らは、当審においても、春夫が、①衝突現場に至るまで六キロメートル、一〇分間も、衝突行為に及ばないまま、竹子の通勤経路を竹子の会社へ向かって走行していること、②車で通勤する竹子を殺す凶器としては不確実なものといえる自動車を殺害に使用していること、③車内に携行した刃物を自死以外に用いていないこと、④少なくとも入野交差点以降、竹子車の「後ろ」ではなく「前」を走行していたこと、⑤当日、少なくとも二回、竹子車を引き止め、その際、会社に行く、行かせないという趣旨の言葉を交わしていること、⑥衝突現場手前の広坂交差点で、信号待ちをし、青に変わった後、普通の速度で走行していること、⑦衝突後、竹子の様子を見に行ったが、すぐに自殺を図っていないこと等からすると、当日の春夫の竹子車追跡行為は、龍野警察署逃げ込み事件と同様に、いつものつきまとい行為で始まったことは明らかであり、最後の暴力となった春夫の衝突行為は、春夫がつきまとい行為開始後の成り行きで思いつき、実行に至ったものであって、衝突による竹子の死亡も成り行きで発生してしまった結果であったから、当日のつきまとい行為は、春夫が竹子殺害を決めて着手した「覚悟の上の犯行」などではないから、上記警察官らの不作為と竹子の死亡との間には相当因果関係があると主張する。
本件殺人事件の直前、少なくとも二回、竹子車を引き止め、その際、会社に行く、行かせないという趣旨の言葉を交わしていることに照らすと、竹子に対する明確な殺意は、その後に固まったというべきであるから、それを覚悟の上の犯行とみるべきか否かについては即断できないといわざるをえない。しかし、仮に、本件殺人事件が覚悟の犯行ではないとしても、上記の警察官らが、春夫の竹子殺害の意思についての情報を得ておらず、本件殺人事件を予想、予期しなかったことにつき、責任があったとはいえないこと、本件殺人事件は、それ以前の春夫の竹子に対する加害行為の単なる延長とは言い難い犯行であったというべきであるとの上記認定に照らすと、上記警察らの不作為行為と竹子の死亡との間については、やはり相当因果関係があるとはいえない。
なお、ローソン事件や押しかけ事案の時点において、警察が、春夫に対し厳重な警告を行い、春夫を逮捕勾留により身柄拘束していれば、本件殺人事件を回避することができた可能性を完全には否定できないが、上記の認定事実によると、上記警察官らの不作為行為による責任は、本件のようなストーカー行為がエスカレートするものであることを考慮しても、殺人事件についてまでは及ばないといわざるをえない。
以上の次第で、上記警察らの不作為行為と竹子の死亡との間に相当因果関係を認めることはできないというべきである。
四 損害賠償責任の有無について
上記の認定判断のとおり、上記の警察の不作為行為規制権限不行使による責任は、本来、本件のようなストーカー行為がエスカレートするものであることを考慮しても、殺人事件についてまでは及ばないというべきである。
ただ、一般に、市民は、現に犯罪の被害を受け、又は被害を受けるおそれがあるなど切迫した状況に置かれた場合に、警察に対してその保護等を求めたときは、警察において捜査を開始するなどしてその市民の受けた被害の回復ないし今後受けるおそれのある犯罪被害の防止を図るであろうことについて期待及び信頼を有しているのであって、警察がこのような期待及び信頼に誠実にこたえるべきことは、警察法二条一項及び警職法一条一項の定めからも明らかなように警察の責務であり、上記のような状況における市民の期待及び信頼は法律上の保護に値する利益というべきであるから、この点の損害を全く無視することはできない。そして、押しかけ事案が発生した夜、竹子が友人のE田二夫に対し、電話でその経緯を報告するとともに、警察の対応について、警察は何度話しても何度行っても何もやってくれないと不満を述べていたことからしても、竹子が当時警察に対し、春夫からの犯罪被害防止のための措置を講じてほしいとの期待を有していたことがうかがわれるというべきである。
しかるに、ローソン事件及び押しかけ事案に関係した警察官らは、当時竹子の身体、自由等に対する更なる危険が切迫した状況にあったにもかかわらず、竹子が警察に対し有していた上記期待を裏切り、上記各事件発生後に春夫に対し厳重な警告をしないなど、上記二(2)エ、オで述べたような警察活動、警察対応を行わなかったため、竹子は、近親者である一審原告太郎らとともに、適切な警察活動、警察対応を受けることによって、上記危機的状況を乗り越え自己の身の安全のために万全を期する機会と可能性を奪われたまま、春夫に殺害されてしまったものというべきである。そして、竹子の上記のような期待は、生命に関わる根源的な欲求であり、上記のとおり法的保護に値する利益というべきであるから、この点も精神的損害として考慮すべきである。
したがって、一審被告は、国家賠償法一条一項に基づき、上記警察官らの上記の違法な不作為行為によって竹子が受けた上記の損害を賠償する責任を負うものというべきである。
五 争点③(損害額)について
(1) 竹子に生じた損害
上記警察官らの違法行為によって、竹子が受けた精神的損害は、被侵害利益の内容及び侵害の程度、上記警察官らの権限不行使の状況等、本件にあらわれた一切の事情を総合考慮すると、六〇〇万円と認めるのが相当である。
(2) 相続
竹子の法定相続人は、一審原告花子、同松子及びB川十郎の三名であり、同人らは、平成一一年九月八日遺産分割協議をし、竹子死亡に基づく損害賠償請求権等一切について、一審原告花子が三分の二、一審原告松子が三分の一を各相続することに合意した。
よって、かかる相続分にしたがい、一審原告花子において四〇〇万円、同松子において二〇〇万円の損害賠償請求権をそれぞれ相続したものと認める。
(3) 葬儀費用
一審原告花子及び同松子は、一審原告花子が一〇〇万円、一審原告松子が五〇万円をそれぞれ支出した葬儀費用についても賠償を求めるが、上記認定のとおり、警察官らの過失と竹子の死亡との間の相当因果関係を認めることができない以上、竹子の死亡による葬儀費用についてもまた相当因果関係を認めることはできないというべきである。
(4) 一審原告太郎の損害
一審原告太郎は、竹子の父親代わりとして、竹子を守ろうと警察の対応を求め続けたにもかかわらず、適切な措置を講じてもらえなかったことによって被った精神的苦痛に対する慰謝料を請求する。
しかしながら、国家賠償法一条一項は、国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反して当該国民に損害を加えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずることを定めるものである。そうすると、本件において一審被告が国家賠償法上の法的義務を負う相手方は、被害者である竹子であって、一審原告太郎ではないというべきである。
また、被害者の近親者が固有の慰謝料を請求し得るのは、被害者の生命侵害の場合か又はこれに比肩し得べき精神上の苦痛を受けたときに限られるものというべきところ、本件においては、一審被告に対し竹子死亡についての責任を追及することができない以上、竹子本人について認められる上記慰謝料のほかに、その近親者としての一審原告太郎に、その固有の慰謝料を認めることはできないというべきである。
(5) 弁護士費用
本件事案の内容、難易度、審理経過、認容額等を総合すると、一審原告花子及び同松子が支払うべき弁護士費用のうち一審原告花子においては四〇万円、同松子においては二〇万円の範囲で、上記違法行為と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。
(6) まとめ
以上によれば、一審原告花子及び同松子が一審被告に対して請求し得る損害賠償の額は、一審原告花子において四四〇万円、同松子において二二〇万円及びこれらに対する本件不法行為後である平成一一年二月二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金となり、一審原告太郎の本訴請求は理由がないことになる。
結局、一審原告花子及び同松子の本訴請求は上記の限度で理由があるからこれを認容し、同一審原告らのその余の請求及び一審原告太郎の請求はいずれも理由がないからこれを棄却すべきである。
第四結論
よって、原判決は相当であり、本件各控訴は理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 横田勝年 裁判官 植屋伸一 末永雅之)