大阪高等裁判所 平成17年(ネ)2216号 判決 2005年12月01日
控訴人(引受参加人) アメリカン・ホーム・アシュアランス・カンパニー
上記日本における代表者 上田昌孝
同訴訟代理人弁護士 坂東司朗
同 吉野慶
同 池田紳
脱退被告 ザ・ロンドン・アッシュアランス
上記日本における代表者清算人 イアン・ドリーバ・ファーガソン
被控訴人(原告) Y1
他3名
同四名訴訟代理人弁護士 内橋一郎
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は、控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一控訴の趣旨
一 原判決を取り消す。
二 被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、一、二審とも被控訴人らの負担とする。
第二事案の概要
一 事案の要旨
本件は、脱退被告が日本信販株式会社との間で締結していた団体保険契約の被保険者であったAの相続人である被控訴人らから上記脱退被告の債務引受人である控訴人に対し、保険契約に基づき、死亡保険金及びこれに対する催告の日の後の日からの遅延損害金の支払を求めた事案である。
被控訴人らは、平成一六年(ワ)第一〇二八号事件において、脱退被告を被告として訴訟を追行していたが、同訴訟係属中、控訴人が、平成一七年(ワ)第七五〇号事件として、独立訴訟参加の方式で引受参加の申立てをし、脱退被告は、被控訴人らの同意を得て、本件訴訟から脱退した。
原審は、被控訴人らの請求をいずれも認容したため、控訴人は、原判決を不服として控訴した。
【以下、原判決「事実及び理由」中の「第二 事案の概要」の部分を引用した上で、当審において、内容的に付加訂正を加えた主要な箇所をゴシック体太字で記載し、それ以外の字句の訂正、部分的加除については、特に指摘しない。】
二 争いのない事実等(認定に供した証拠は末尾に掲記)
(1) 脱退被告は、日本信販株式会社との間で団体保険契約を締結していた。
A(昭和七年一月一八日生)(以下「A」という。)は、上記団体保険契約中の「NICOSカード『ロイヤル・フリーアクシデント』(傷害死亡保障プラン)」及び「NICOSカード『ロイヤル・フリーアクシデント』(追加保障プラン)の保険約款が適用される被保険者の地位にあった。
(2) Aに適用される上記保険契約(以下「本件保険契約」という。)の保険期間は、平成一三年二月一日午前〇時から平成一六年二月一日午後四時まで、傷害死亡保障プランに基づく死亡保険金は三〇万円、追加保障プランに基づく死亡保険金は一〇七二万円であり、死亡保険金の受取人は、Aの法定相続人とされている。
(3) 本件保険契約における上記各死亡保険金は、被保険者が急激かつ偶然な外来の事故によってその身体に傷害を被り、その直接の結果として、事故の日からその日を含めて、一八〇日以内に死亡したときに、保険金受取人に支払うものとされている。
(4) Aは、◎◎の自宅で一人暮らしをしており、□□において喫茶店を経営していた。Aの長男被控訴人Y1(以下「被控訴人Y1」という。)は、同町において食堂を経営しており、Aの経営する喫茶店の定休日以外は、Aのもとへ昼食を届けていた。
被控訴人Y1は、平成一五年七月一日午後一時五〇分ころ、上記喫茶店にAの昼食を届けに行ったところ、店舗のシャッターは閉じたままであった。被控訴人Y1は、Aの自宅に赴き、Aの携帯電話に架電したが、家の中から呼出音が聞こえるものの、Aの応答はなかった。被控訴人Y1は、異変を感じて、屋内に入ろうとしたが、鍵がかかっていたので屋内に入れなかった。
被控訴人Y1は、いったん食堂に帰り、思案していたところ、Aの喫茶店の常連客Bが食堂を訪ねてきて、喫茶店は休みかと尋ねた。被控訴人Y1が、Bに事情を話したところ、Bは、Aが自宅の鍵を隠している場所を知っているので、その鍵を使ってA宅の中を確認してくると申し出た。Bは、同日午後三時四〇分ころ、A宅の鍵を持ってA宅に向かった。
間もなく、Bから、被控訴人Y1に対し、Aが浴槽で死亡しているとの電話連絡が入った。被控訴人Y1は、途中交番に連絡して、A宅に向かい、同日午後四時ころ、到着した。
(5) Aは、浴槽に膝を立てた状態で座って、首をうな垂れた状態で死亡していた。浴槽の湯量は、Aの脇くらいであり、顔は湯に浸かっていなかった。浴室の窓は少し開いており、テレビは電源が入ったまま放映された状態であった。(以上(4)、(5)につき乙七)
(6) 兵庫県県民生活部健康局医療課の監察医主田英之(以下「主田医師」という。)によって、平成一五年七月二日午前一一時二五分ころ、神戸大学医学部において、Aの死体解剖及び死体検案が行われ、その解剖所見は、次のとおりである(乙三)。
ア 心臓二七六g、心血暗赤色、流動血少量。冠動脈三枝とも特に硬化を認めない。弁膜にも硬化等認めず。
イ 肺左三〇二g、右四三〇g、右胸膜全面で癒着、左胸腔内に暗赤色液二二〇ml貯留
気管支内暗赤色液極少量
ウ 脳一一七二g、出血等なし、蝶形骨洞内、暗赤色液約一・五ml
(7) 主田医師の死体検案書(乙三)は、Aの死亡時刻を「平成一五年六月三〇日午後ころ(推定)」、直接死因を「溺死(推定)」、発病(発症)又は受傷から死亡までの期間を「短時間」、死因の種類は「溺水」で「不慮の外因死」であるとしている。
(8) 主田医師は、Aの左右の肺重量、胸腔内貯留液の性状及び量、頭蓋蝶形骨洞貯留液の存在、内因死と判断できる明らかな所見の欠如から上記判断を行った(甲八)。
(9) Aの死亡当時の年齢は七一歳である。被控訴人らは、いずれもAの子である。
(10) 被控訴人らは、Aの子であるところ、平成一六年三月二二日、脱退被告に対し、本件保険契約に基づく保険金の支払を催告した(甲六)。
(11) 控訴人は、平成一七年二月二八日、脱退被告から本件保険契約に関する債務を引き受けた。
三 争点
(1) Aの死因
(被控訴人らの主張)
溺水は、水などの液体を気道に吸引して窒息することをいい、これによる死亡を溺死という(甲一四)。Aの死因は、溺死である。
ア Aの頭蓋蝶形骨洞内貯留液は、溺死判定の重要なファクターとされている。
イ 溺死肺は、すべての溺死で必ず認める所見ではない。体格差等から、肺重量の大きさは様々であるし、Aの場合、死後、約二日間が経過している。溺死者の肺重量一〇〇〇グラム以上という数値もそういう例が多いという程度のものであって、それ自体絶対的な判定基準とされている訳ではない。また、肺重量を溺死の所見として評価するには、肺と胸腔内貯留液を合算すべきである。
ウ 時間が経つと溺水は、血液とともに肺から胸腔内に滲出し、暗赤色を呈するとされていること、Aの胸腔内の貯留液は暗赤色であったことから、Aの胸腔内の貯留液は、肺からの漏出液であると考えられる。右肺に胸腔内の貯留液が認められなかったのは、右胸膜全面が癒着漏出しにくい状況にあることによるのである。
エ 錘体内出血は、溺死に特異な所見ではないから、Aに、錘体内出血を観察していないことは、溺死を否定する根拠とならない。
オ 溺死は、水などの液体を気道に吸引して窒息することをいうのであるから、大量の水を胃内に飲み込むとは限らないから、胃内容が三〇mlであったことは、溺死を否定する根拠とならない。
カ Aは、平成一五年五月一三日、呼吸困難と発熱を訴え、aクリニックで強心剤、利尿剤などの点滴を施行されたが、点滴終了後、症状は軽快したのであり、以後、風邪症状に対する点滴治療のみで、強心剤・利尿剤の使用はなく、同月二一日以降は点滴投与も終了して治癒となり、その後、治療すら受けていないから、Aに心不全等の内因性の疾患はなかった。
キ Aの死因が心不全等によるものであれば、死体解剖の際に、心臓部等に何らかの所見を認めうるところ、本件では異常を認めていない。Aが浴槽内で心不全発作を起こしたとするのは、単なる憶測にすぎない。
(控訴人の主張)
Aは、浴槽内で顔を水面から上げた状態で発見されたものであり、鼻腔や気道内の泡沫等、溺死に特徴的な所見も見られなかった。このことからすると、Aの直接死因は溺死ではない。
ア 溺死肺の肺重量は、一〇〇〇gを超え、一五〇〇~一八〇〇gになることが多いのに対し、Aの肺重量は、九五二g程度であるから、溺死肺とは言い難い。
イ Aの頭蓋蝶形骨洞内貯留液約一・五mlについては、頭蓋蝶形骨洞内貯留液の存在を溺死の所見であるとの医学的知見はなく、また、死後に環境水が蝶形骨洞内に流入する可能性もある。
ウ Aには、溺死を示唆する重要な所見である細小白色泡沫が認められない。
エ Aには、溺死の六割に出現する錘体内出血も観察されていない。
オ Aの胃内容も三〇mlと極少量である。
カ Aは、死亡当時七一歳の高齢であって、平成一五年五月一三日、aクリニックで心不全、胸水、気管支喘息などで入院を勧められていたのであるから、Aの死因は、虚血性心疾患等の病死である可能性も十分ある。
(2) 外来の事故
(被控訴人らの主張)
Aの直接死因は溺死であって、その死亡は「被保険者が急激かつ偶然な外来の事故によってその身体に傷害を被り、その直接の結果として、事故の日からその日を含めて、一八〇日以内に死亡したとき」に該当する。
外来性の要件は、身体の疾患等内部的原因に基づくものを排除するための要件であるから、当該死亡という結果に直接影響を与えた原因が身体の外部から作用したものであるかどうかを問うべきであって、直接原因にどのような事象が影響したか等の間接原因まで問題にすべきではない。なぜなら、保険金請求者には、間接原因まで十分な立証ができない場合があるからである。したがって、外来性が否定されるのは、被保険者に急性心不全等の疾患があり、溺死がなくても、急性心不全等の疾患を直接の原因として死亡した蓋然性が高い場合に限定すべきである。
ア 溺死は、水などの液体を気道に吸引して窒息することをいうのであるから、自宅の浅い風呂場であっても、溺水は当然ありうる。
イ 居眠りで一時的に湯船に顔をつけて溺水した場合でも、溺水したことで焦ってさらに水を吸引する事態は十分に考えられるし、すぐに顔を上げてもいったん生じた溺水吸引による窒息の状態が解消されなければ死亡するに至るのであるから、居眠りから溺死することも十分に考えられる。
ウ 湯船につかることは、高温異常環境に身を置くことであって、特に心肺の疾患がなくても、気温・室温・湯温等の温度や水圧等の外的環境の影響を受けて、めまい、ふらつきを含む意識障害を生じ、浴槽内で溺死する可能性もある。これは健常人でも生じることであって、疾患によるものと解すべきではない。
エ 入浴事故は、一人の時に起きることが多いので、発生状況が不明であり、また病理解剖によってもなぜ溺死したかまでは明らかにならないから、溺死の原因の特定を求めて、厳格な立証を要求することは、保険金請求者には過酷な要求となる。
(控訴人の主張)
仮に、Aの直接死因が溺死と認められるとしても、本件においてはそれを外来の事故と認めることはできない。
ア 事故の外来性とは、事故の原因が専ら被保険者の身体の外部にあること、すなわち、専ら身体の内部に原因するもの(疾病等)は除外される趣旨である。
イ そもそも、成人であるAが自宅の浅い風呂場で溺れるなどということ自体が通常あり得ないものである上、Aが死亡当時七一歳という高齢であること、死亡約一か月半前の一五年五月一三日にはaクリニックで心不全、胸水、気管支喘息等の症状で入院を勧められていること、平成二年の心電図検査で異常の可能性を指摘されていることからすると、むしろ、Aは浴槽内で心不全発作等をおこして死亡したか、又は、直接死因が溺死とすれば、入浴中に心不全発作等により意識喪失状態に陥り、その結果風呂水を吸引して溺死したとしか考えられない。後者の場合は、結局は、疾病に起因する事故であって、事故の原因は専ら被保険者の身体の内部にあることとなるから、事故の外来性の要件を欠く。
ウ 高齢者にしばしば見られるように何の外傷もないのに突如風呂場で入浴中に死亡していた、溺死していたという事案は、高齢者が元来心肺機能ないし循環機能に問題を抱える者が多いため(高血圧症、動脈硬化、不整脈等)、入浴による温度や圧力変化により、急激な血圧上昇又は下降、静脈環流の増大、心拍出量の増加等により、脳梗塞、脳虚血、心筋梗塞、虚血性心不全等による急性の心停止ないし意識障害を起こした結果であることがほとんどなのであるから、仮にAの直接の死因が溺死であるとすれば、Aは、入浴中に虚血性心不全等により意識障害を起こし、お湯をごく少量吸引し、その窒息状態の経過中に水を吸引し、窒息状態の中に、先行した発作によって、心停止、呼吸停止を生じ、急病死したものというべきであって、到底傷害保険における外来の事故とは認められない。このような事故についてまで極めて保険料の廉価な傷害保険で填補しなければならない理由はない。
第三争点に対する判断
一 争点(1)(Aの死因)について
(1) 上記のとおり、Aは、発見時に、浴槽に膝を立てた状態で座って、首をうな垂れた状態で死亡しており、浴槽の湯量は、Aの脇くらいであり、顔は湯に浸かっていなかったのであるから、Aの発見時の様子からは、直ちに溺死であると認めることはできない。
しかし、主田医師作成の回答書(甲九の一)によれば、死体検案時の警察官の説明は、発見時にAの口は水面際ではあるが水面より上であったというものであるから、水面からAの口まで相当の距離があったということではないと認められる。
そして、同回答書によれば、Aの死亡からその発見に至るまでの間に浴槽内の水位が変わることはあり得ることや、溺水を吸引した後、死戦期の体動によって姿勢が変わり、顔が水面に出ることは十分に考えられるところ、体位が変わって顔が水面上にあったとしても、溺水吸引による窒息の状態が解除されなければそのまま死亡に至るものと認められるから、発見時に顔が湯に浸かっていなかったとしても、そのことだけからAの死因が溺死ではないとすることはできない。
(2) 解剖報告書(乙三)及び上記回答書によれば、Aの死体解剖の結果、Aの心臓、肺及び脳に疾患を示す異常等はなかったものと認められるから、Aについて、その心肺機能ないし循環機能に何らかの疾患があったとは認められず、心不全等の疾患によって死亡したものとも認められない。
(3) もっとも、診療録(乙二)によれば、Aは、平成一四(二〇〇二)年四月の心電図検査で、異常の可能性と判断されたこと、平成一五年五月一三日に心不全、胸水、気管支喘息との診断を受けたことが認められることから、控訴人は、Aの死因は、虚血性心疾患等の病死であると主張している。
しかし、上記診療録によれば、同人は、同月一三日、息が苦しいと訴えて、かかりつけの医師であるaクリニックで診察を受け、心電図検査を受けたが特記すべき所見がないとされたこと、入院を勧められたが、Aが拒絶したため、入院することなく、点滴がなされたこと、点滴だけでAの症状は軽快したこと、同月二一日まで咳などの風邪症状に対する点滴治療のみで治癒となったこと、その後、治療を受けていないことが認められる。
そして、上記のとおり、Aの死体解剖の結果、Aの心臓、肺及び脳に疾患を示す異常等はなく、同月一三日の心電図検査でも特記すべき所見は見られなかったのであるから、Aに対する上記心不全、胸水、気管支喘息との診断は、Aの風邪症状について、Aが老齢であったことから、その疑いがあることに基づいて下されたものにすぎないと認められ、Aに上記診断のような疾患があり、それが死因となったものとは認められない。
(4) 控訴人は、Aの死因は、虚血性心疾患等の病死である可能性も十分あると主張しているが、以上のとおり、これを認めるに足りる証拠はなく、Aに、死因となるような内部的疾患があったことは認められない。そのほか、上記の死体検案において、Aに創傷は認められていない。
(5) 一方、上記のとおり、Aには、死体解剖の結果、蝶形骨洞内、暗赤色液約一・五mlが認められている。
これは、主田医師による各回答書(甲九の一、一六の一)によれば、蝶形骨洞は、副鼻腔という鼻腔と交通する頭蓋骨の空洞のひとつであるところ、生理的に存在する漿液というものは実際にはほとんどなく、Aに見られた約一・五mlという貯留液は、明らかに異常所見であると認められる。そして、上記各回答書及び研究論文(甲一〇)によれば、頭蓋蝶形骨洞貯留液は、溺死過程において鼻腔内を液体が激しく出入りすることから鼻腔内蝶形骨洞口から蝶形骨洞内へ溺水が侵入することによって生じるもので、頭蓋蝶形骨洞貯留液の存在は、古くから溺死判定の一助になることが知られていることが認められるから、Aに頭蓋蝶形骨洞貯留液が認められたことは、Aの死因が溺死であることの根拠となる。
(6) 上記のとおり、死体解剖の結果、Aの左胸腔内に暗赤色液二二〇mlが貯留し、気管支内にも暗赤色液が極少量あったことが認められる。岩手医大法医学教室のホームページ(甲一四)によれば、溺死の場合、死後、時間が経つと溺水は、血液とともに肺から胸腔内に滲出し、暗赤色を呈するとされているから、胸腔内貯留液の存在は、Aの死因が溺死であることの根拠となる。
上野医師の意見書(乙八の一)は、胸腔内貯留液の存在をAの死因が溺死であることの根拠とすることは完全に誤りであるとするが、上記証拠に照らし採用できない。
なお、意見書(乙四)は、Aは、生前から胸水の存在を指摘されており、その貯留液が、生前から認められた胸水か、死後変化によって貯留した漏出液か、溺水により貯留した液体かなどの貯留液の鑑別がされなければ、溺死所見といえないとしている。しかし、診療録(乙二)からも、Aの生前に胸水が認められたと断言することはできないところ、回答書(甲九の一)によれば、一般的には心不全による胸水は淡黄色であるが、Aの貯留液は暗赤色であったこと、暗赤色の胸水(血性胸水)は、通常悪性腫瘍やその他の出血性病変が存在しないと考えにくいが、Aにそのような病変は認められなかったこと、死後変化による貯留漏出液と溺水による液体を区別する意味はないことなどが認められるから、上記意見書は採用できない。
(7) 以上のとおり、Aの死因を溺死であるとする根拠としては、頭蓋蝶形骨洞貯留液の存在と胸腔内貯留液の存在を挙げることができるが、控訴人は、Aの肺重量が溺死肺といえないことや細小白色泡沫の不存在、錘体内出血が観察されていないこと、胃内容が三〇mlと極少量であることを挙げて、Aの死因は、溺死ではないと主張している。
(8) 控訴人は、上野医師の意見書(乙八の一)に基づき、溺死肺の肺重量は、一〇〇〇gを超え、一五〇〇~一八〇〇gになることが多いのに対し、Aの肺重量は、九五二g程度であるから、溺死肺とは言い難いと主張している。
しかし、証拠(甲九の一、一七、一九)によれば、確かに、溺水時には、水が気道内に浸入してそれまで存在した空気が末梢に追いやられ、そのため左右の肺は膨隆し、含気量と含水量の双方が増すため肺重量が増加すること、肺重量については、従来成人で八〇〇~一〇〇〇g、あるいは一二〇〇g位に達するとされていたが、最近の報告では五〇〇~九〇〇g(平成七〇〇g前後)の例が全体の約三/四を占めているとされていること、溺死肺は、水性水腫や水性気腫を含む溺死の際によく見られる所見の総合表現であり、すべての溺死で必ず認める所見ではないことなどが認められることからすると、Aの肺重量から、Aの死因が溺死でないとすることはできない。
(9) 上記意見書(乙八の一)は、Aには、溺死を示唆する重要な所見である細小白色泡沫が認められないとするが、証拠(甲一四、一六の一、一七)によれば、これは時間の経過によって消失するものであるから、本件のように死後長時間が経過しているAについて認められなかったとしても、溺死を否定する根拠とはならない。
(10) 上記意見書(乙八の一)は、Aについて、溺死の六割に出現する錐体内出血が観察されていないとしているが、死体検案ハンドブック(甲一八)によれば、錐体内出血は、溺死体でよく認められるが、経験上あらゆる死因でみられる所見であるとされており、また、法医学(甲一九)では、錐体内出血はときにみられるとされているに過ぎないから、錐体内出血が観察されていないことは、溺死を死因と判断することを妨げるものではない(甲一六の一)。
(11) 上記意見書(乙八の一)は、Aの胃内容は三〇mlであって、溺死とは思えないほど極少量であるとしているが、回答書(甲一六の一)によれば、溺死の場合、胃内容や十二指腸内容に溺水を認めることがあるが、すべての溺死に溺水を認めるわけではないと認められるから、Aの胃内容は三〇mlであることはAの死因が溺死であるとすることを妨げるものではない。
(12) 上記のとおり、Aには、疾患や創傷などは認められないこと、頭蓋蝶形骨洞貯留液の存在と胸腔内貯留液の存在が認められることなどからすると、Aの死因は溺死であると認められる。
二 争点(2)(外来の事故)について
(1) 本件保険契約では、保険金を請求するためには、Aの死亡が「被保険者が急激かつ偶然な外来の事故によってその身体に傷害を被り、その直接の結果として、事故の日からその日を含めて、一八〇日以内に死亡したとき」に該当するものでなければならない(乙一・五条①、一条)。
(2) 上記認定のとおり、Aの死因は、溺死であると認められるから、急激かつ偶然な事故によるものであることは明らかである。
(3) 控訴人は、事故の外来性とは、事故の原因が専ら被保険者の身体の外部にあること、すなわち、専ら身体の内部に原因するもの(疾病等)は除外される趣旨であるところ、成人であるAが自宅の浅い風呂場で溺れるなどということ自体が通常あり得ないものである上、Aが死亡当時七一歳という高齢であること、死亡約一か月半前の一五年五月一三日にはaクリニックで心不全、胸水、気管支喘息等の症状で入院を勧められていること、平成一四年(二〇〇二)年四月の心電図検査で異常の可能性を指摘されていることからすると、Aの直接死因が溺死とすれば、入浴中に心不全発作等により意識喪失状態に陥り、その結果、風呂水を吸引して溺死したとしか考えられないところ、これは結局は、疾病に起因する事故であって、事故の原因は専ら被保険者の身体の内部にあることとなるから、事故の外来性の要件を欠くと主張している。
(4) 外来の事故であるとするためには、事故の原因が専ら被保険者の身体の外部にあることを要するものであり、これは保険金請求者によって主張立証されなければならない要件である。
ところが、溺死のように、その死因自体は、水などの液体を気道に吸引して窒息し、これによって死亡することであるから、被保険者の身体の外部にあるものであるとは言えても、事故の外来性を要求するのは、身体の内部に原因するもの(疾病等)を除外する趣旨であることからすると、水などの液体を気道に吸引して窒息した原因が、急性心不全等の専ら身体の内部に原因するもの(疾病等)である場合には、これを外来の事故であるとするのは、事故の外来性を要求する趣旨に反しているものと解される。
そうすると、このような場合には、保険金請求者は、直接の死因が被保険者の身体の外部にあるものであること及びその間接的な原因も身体の内部に原因するもの(疾病等)ではないことを立証しなければならないとするのが原則である。
しかし、本件のように、一人暮らしの老人が死亡後、時日を経過して発見された場合を考えると、その死亡に至る経過の具体的な事情は不明であることが多いから、上記のような解釈は、保険金請求者に過大な負担を課すことになりかねない。すなわち、その間接的な原因については、様々な事実経過が想定され得るのであるから、これが身体の内部に原因するもの(疾病等)ではないことを立証しなければならないとすると、想定し得るすべての事実経過を検討し、これが身体の内部に原因するもの(疾病等)ではないことを立証しなければならないことになり、不当な結果となることは明らかである。
そして、上記のとおり、事故の外来性を要求するのは、身体の内部に原因するもの(疾病等)を除外する趣旨であることからすると、保険金請求者は、直接の死因が被保険者の身体の外部にあるものであることを立証すれば、その間接的な原因については、身体の内部に原因するものではないことまで明らかにする必要はなく、身体の内部に原因するものであることが明らかであるとはいえないことを立証すれば足りるというべきである。
(5) Aの直接の死因が溺死であることは、上記認定のとおりであるから、その身体の外部にあるものであることは明らかである。
そこで、Aの溺死について、その間接的な原因について検討すると、本件では、Aには、何の創傷もなく、浴槽に膝を立てた状態で座って、首をうな垂れた状態で死亡していたのであるから、溺死の原因として、Aが浴室内で転倒等したことなどは考えにくい。
(6) 控訴人は、高齢者が浴室で溺死するのは、高齢者が元来心肺機能ないし循環機能に問題を抱える者が多いため(高血圧症、動脈硬化、不整脈等)、入浴による温度や圧力変化により、急激な血圧上昇又は下降、静脈環流の増大、心拍出量の増加等により、脳梗塞、脳虚血、心筋梗塞、虚血性心不全等による急性の心停止ないし意識障害を起こした結果であることがほとんどなのであるから、Aの溺死も、同様の結果で起こったものであると主張している。
しかし、Aについては、上記認定のとおり、平成一四(二〇〇二)年四月の心電図検査で、異常の可能性と判断されたこと、平成一五年五月一三日に心不全、胸水、気管支喘息と診断を受けたことがあるものの、同日の心電図検査では特記すべき所見なしとされ、死体解剖の結果では、心臓、肺及び脳に疾患を示す異常等はないことが明らかになっており、また、上記心不全、胸水、気管支喘息との診断も、実際に上記診断のような疾患があったものとは認められないところであるから、Aが、脳梗塞、脳虚血、心筋梗塞、虚血性心不全等による急性の心停止ないし意識障害を起こしたことが明らかであるとは認められない。
(7) もっとも、浅い浴槽において溺死するためには、少なくともAに意識障害を生じていたものと考えられるが、証拠(甲一一、一二)によれば、湯船に浸かることは、高温異常環境に身を置くことであるから、熱中症を意識障害の原因として考慮に入れるべきであるとされていること、Aのような高齢者については、特段の疾患がない健常人であっても、加齢により、心肺機能ないし循環機能が低下しているものと考えられることから、入浴による温度や圧力変化により、急激な血圧上昇又は下降、静脈環流の増大、心拍出量の増加等が原因となって、一時的にでも意識障害を生じることが考えられる。このようなことからすると、その結果、湯船に鼻と口がつかり、水を気道内に吸引して窒息する事態が生じ得ることは十分に考えられるから、内部的な疾患がなければ浴槽において溺死することはないとまではいえないものと認められる。
(8) したがって、Aの溺死は、その間接の原因がその身体の内部に原因するもの(疾病等)であることが明らかであるとはいえないから、外来の事故による死亡に該当すると認められる。
第四結論
よって、被控訴人らの請求は、いずれも理由があるので認容すべきところ、これと結論を同じくする原判決は正当であるから、本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 松山恒昭 裁判官 小原卓雄 吉川愼一)