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大阪高等裁判所 平成17年(ラ)1362号 決定 2006年10月05日

抗告人(債権者)

a特許事務所ことX

同代理人弁護士

種村泰一

勝井良光

田中崇公

中井崇

宮原正志

相手方(債務者)

Y1(以下「Y1」という。)

相手方(債務者)

Y2(以下「Y2」という。)

相手方(債務者)

Y3(以下「Y3」という。)

相手方(債務者)

Y4(以下「Y4」という。)

相手方(債務者)

Y5(以下「Y5」という。)

相手方(債務者)

Y6(以下「Y6」という。)

相手方(債務者)

Y7(以下「Y7」という。)

相手方(債務者)

Y8(以下「Y8」という。)

相手方(債務者)

Y9(以下「Y9」という。)

相手方(債務者)

Y10(以下「Y10」という。)

相手方(債務者)

Y11(以下「Y11」という。)

相手方(債務者)

Y12(以下「Y12」という。)

主文

1  本件抗告を棄却する。

2  抗告費用は,抗告人の負担とする。

事実及び理由

第1本件抗告の趣旨及び理由

「即時抗告状」,「抗告理由書」及び「主張書面1」に記載のとおりであるから,これを引用する。

第2事案の概要等

1  事案の概要

本件は,特許事務所を経営する弁理士である抗告人が,退職した従業員である相手方らに対し,雇用契約締結の際に,退職後は一定範囲の他の特許事務所等への再就職を禁止する合意が成立していたと主張して,就職の禁止を求める仮処分命令の申立てをしたところ,原審が,当該就職禁止の合意は公序良俗に違反して無効であるとして,同申立てを却下したので,抗告人が抗告した事案である。

2  争いのない事実等,争点及びこれに関する当事者の主張等

争いのない事実等,争点及びこれに関する当事者の主張等は,次のとおり補正するほかは,原決定の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要」の「1争いのない事実等」及び「2 争点」に記載(原決定3頁21行目から同20頁5行目まで)のとおりであるから,これを引用する。

(1)  原決定3頁27行目の「債務者Y4を除き」を削除し,「日付け」の次に「(ただし,相手方Y4は平成13年4月2日付)」を加える。

(2)  同28行目の「債権者宛の」を削除する。

(3)  同4頁1行目の末尾に続けて,「上記各誓約書の宛名は,相手方Y8及び同Y9の誓約書はいずれも株式会社b宛,同Y10及び同Y11の誓約書はいずれも有限会社c宛であり,それ以外は本件事務所宛である。各誓約書の記載内容は実質的に同じである。また,抗告人は,上記のとおり宛先が異なるのは,経営コンサルタントの勧め等もあって,経営リスクを分散する等の目的でしたことであると説明する。」を加える。

(4)  同2行目を削除する。

(5)  同28行目の「債務者Y10」の前に「本件事務所において,」を加える。

(6)  同5頁4行目から同6頁6行目までを削除する。

(7)  同6頁7行目の項目符号「(10)」を「(5)」と,同10行目の同「(11)」を「(6)」と,それぞれ改める。

(8)  同13行目から同14行目までを次のとおり改める。

「2 争点

(1) 被保全権利

ア 被保全権利の有無(本件就職禁止条項の合意が本件誓約書によって成立したか。)

イ 本件就職禁止条項の内容(どの範囲の特許事務所等への就職を禁止しているか。)

ウ 本件就職禁止条項は公序良俗に違反するか。

(2) 保全の必要性

3  争点に関する当事者の主張

(1)  被保全権利

ア 被保全権利の有無(本件就職禁止条項の合意が本件誓約書によって成立したか。)

(抗告人)

相手方らは,抗告人との雇用関係が開始する際に,本件事務所の担当者において本件就職禁止条項の文言を読み上げたのを聞いた上で,特許事件等を扱う本件事務所に勤務すれば,退職後も守秘義務との関係で,次の就職先について制約を受けることを承諾する必要性があることを理解して,本件誓約書に署名,押印して,抗告人に提出したものであるから,これによって同条項の合意が成立している。

(相手方ら)

相手方らが,本件誓約書に署名,押印したことは認めるが,本件就職禁止条項の合意をしたものではない。

相手方らのうち,相手方Y1,同Y2,同Y3,同Y5,同Y7,同Y8,同Y10,同Y12は,本件就職禁止条項の文言に意を留めることなく,本件誓約書に署名し,その余の相手方らも,本件就職禁止条項を読んで,他のすべての特許事務所への再就職が禁じられるような文言であることは気付いた。しかし,相手方らは,いずれも本件事務所に就職するまで,特許を扱う仕事をした経験がなかったので,弁理士法が定める内容がどのようなものか知らなかっただけでなく,弁理士業務についての知識も全くなかった。しかも,相手方らが,本件誓約書に署名するにあたり,抗告人の担当者から本件就職禁止条項の意味について何らの説明もされなかったので,本件就職禁止条項による就職禁止を承諾する意思で,本件誓約書に署名,押印したものではない。」

(9) 同15行目の項目符号「ア」を「イ」と,同10頁16行目の同「イ」を「ウ」と,同16頁27行目の同「ウ」を「エ」と,それぞれ改める。

(10) 同6頁15行目の末尾に続けて「(どの範囲の特許事務所等への就職を禁止しているか。)」を加える。

(11) 同24行目の「依頼している」の次に「業務の属する技術分野と」を加える。

(12) 同25行目の「発明する」を削除する。

(13) 同27行目の「依頼者が依頼をした」を「依頼者から依頼を受ける」と改める。

(14) 同7頁14行目から同8頁16行目までを削除する。

(15) 同8頁17行目の「本件就職禁止条項」から同20行目末尾の「とりわけ,」までを削除する。

(16) 9頁1行目の「仮に」の次に「,本件就職禁止条項の内容について,」を加える。

(17) 同3行目の「範囲」の次に「よりも狭いものであるから,後者の範囲内に」を加える。

(18) 同11行目から同10頁15行目までを「本件就職禁止条項は,相手方らが再就職先としてはならない特許事務所等の範囲を明瞭に定めた規定ではないから,内容が確定不能であり,無効である。しかも,債権者が,本件就職禁止条項の内容として主張するところは,同規定の文言と著しく乖離していて,そのことについて,本件誓約書の作成を求める際に説明をしなかったのであるから,抗告人の主張する内容で本件就職禁止条項の合意が成立することはない。」と改める。

(19) 同10頁21行目の「している事件」の次に「の属する技術分野と」を加える。

(20) 同11頁1行目の「弁理士」の次に「と異なり,当該依頼者と業務の依頼関係を持たない弁理士事務所の」を加える。

(21) 同23行目の「秘密の保護が」を「弁理士事務所が管理する顧客の技術情報上の秘密が」と改める。

(22) 同12頁4行目から同23行目の「としても,」までを削除する。

(23) 同24行目の「受けている」の次に「業務に関係する技術情報の属する技術分野と」を加える。

(24) 同13頁18行目の「としている」の次に「(同法77条,80条)」を加える。

(25) 同15頁13行目の「債務者ら」から同18行目の「そして,」までを「相手方らが」と改める。

第3当裁判所の判断

1  被保全権利について

まず,争点(1)アの被保全権利の有無(本件就職禁止条項の合意が本件誓約書によって成立したか。)について検討する。

抗告人が被保全権利として主張するのは,弁理土事務所である本件事務所においては,依頼者に対する守秘義務を全うするための措置として,従業員を雇用する際に本件就職禁止条項が記載されている誓約書を示して,同条項による再就職先制限の承諾を求めているところ,相手方らはこれを承諾して,同誓約書に署名,押印したものであるから,抗告人は,相手方らに対し,本件就職禁止条項に基づいて,本件事務所を退職後2年間,本件事務所の顧客にとって競合関係を構成する特許事務所等に就職しないことを請求できる,というものである。

前記の争いのない事実等によれば,相手方らは,本件就職禁止条項が第9項として記載されている本件誓約書に署名,押印して,これを抗告人に提出したものであるから,そこに記載されている本件就職禁止条項について,相手方らが承諾したことを推認するのが自然であるかのように思われる。

しかし,本件就職禁止条項は,雇用契約の締結時に,使用者の要求に基づいて労働者が職業選択の自由を制限されることを承諾するものであるから,本件誓約書の成立の真正が認められるからといって,そのことだけで,直ちに記載されている文言どおりに,職業選択の自由を制限する合意が成立したと認められるかについては,慎重に検討する必要がある。本件就職禁止条項をめぐって,<1>労働者の職業選択の自由を制限することによって守られる利益の保護のために,本件就職禁止条項が提案されたか否か,<2>相手方らが,本件就職禁止条項が記載された本件誓約書を作成した経緯について検討した上で,本件就職禁止条項の合意が成立したといえるかどうかを判断しなければならない。

また,本件就職禁止条項の文言をみると,「本件事務所の顧客にとって,競合関係を構成する特許事務所等」との文言で,一応再就職先とすることが禁止される特許事務所等の範囲を表現しているが,「顧客」の範囲を限定する文言がないし,「競合関係」の意味内容が明確化されていないから,結局,実在する個々の特許事務所等が上記禁止の対象に該当するか否かを,同条項の文言のみからは確定のしようがないものである。そして,もし,上記範囲が確定できないとすれば,職業選択の自由の制限の範囲が不確定な表現のままで,本件就職禁止条項の合意の成立を認めるには疑問があるといわなければならない。

以上の観点に立って,以下検討する。

(1)  前記<1>の労働者の職業選択の自由を制限することによって守られる利益の保護のために,本件就職禁止条項が提案されたか否かについて

ア 弁理士業務において取り扱う公開前の特許情報は,一旦他者に知られたならば,回復しがたい損害を被る可能性がある上,そのような事態となった場合,具体的な秘密漏洩行為を行った者を特定して法的責任を追及することは,必ずしも容易とはいえない。弁理士法は,秘密漏洩を防止するために,弁理士の使用人その他の従業者又はこれらの者であった者は,正当な理由がなく,同法4条ないし6条所定の業務を補助したことについて知り得た秘密を漏らし,又は盗用してはならず,これに違反した者に刑罰を科すこととしている(同法30条,77条,80条)。

以上のとおりであるから,弁理士業務において取り扱う顧客の技術上の秘密情報は,弁理士法が関係者に守秘義務を負わすとともに,その違反者に刑罰を科すことによって,法的な保護が与えられている利益である。したがって,守秘義務の実効性を確保するために,秘密漏洩につながる危険性のある一定の行為について,関係者間で事前に契約等を結んで,合理的な制限をすることも許容されているといわなければならない。

したがって,弁理士事務所が,顧客の技術上の秘密情報を保護する目的で,その従業員になろうとする者との間で,退職後において一定の合理的な制限を加えることの承諾を求めることも許されるといえる。

イ 疎明資料によれば,抗告人は,上記利益を保護する目的で本件就職禁止条項の承諾を相手方らに求めたことが認められるので,この点からは,本件就職禁止条項には合理性があるといえる。

(2)  次に進んで,前記の<2>相手方らが,本件就職禁止条項が記載された本件誓約書を作成した経緯について検討する。

前記争いのない事実等と疎明資料によれば,本件誓約書の記載事項の特徴,本件誓約書の作成経緯,本件事務所における従業員の守秘義務の遵守状況相手方らの担当職務,相手方らの退職時の状況及びその後の経過について,次の事実が認められる。

ア 本件誓約書の記載事項の特徴について

(ア) 本件誓約書の記載内容は,前記争いのない事実等に記載の10項目(以下「本件各記載事項」という。)である。本件各記載事項を通覧すると,全項目が,各相手方に対する禁止事項である。それらを性質によって分けると,<1>在職中の禁止事項(同事項1ないし6,10)と退職後の禁止事項(同1,7ないし9),<2>本件事務所の利益の保護に関係する禁止事項(同1ないし7)と本件事務所の顧客の利益の保護に関係する禁止事項(同8,9),<3>禁止行為について,外形的な行為態様を明示した禁止事項(同2,5,6,8)と秘密の漏洩行為のように行為の性質を示した禁止事項(同1,3,4,7,8,9)となる。

(イ) 本件各記載事項が本件事務所の顧客との関係で禁止する事項は,<1>本件事務所で関与した顧客の案件について,同顧客に敵対する形の代理行為,<2>本件事務所の顧客にとって競合関係を構成する特許事務所等への就職である。

(ウ) 本件誓約書の体裁は,一枚の用紙の上部に,「誓約書」の表題と宛先である「a特許事務所殿」が印刷されて,それに続けて本件各記載事項が印刷され,作成者となるべき従業員の氏名及び作成日付を記入する欄が空白となっている定型書式である。

ただし,前記のとおり,相手方Y8及び同Y9の作成名義の本件誓約書の宛先欄には株式会社bの名称が,同Y10及び同Y11のそれには有限会社cの名称が,それぞれ記載されている。

イ 本件誓約書の作成経緯について

(ア) 抗告人は,新聞広告等で,大学院卒業程度の学力及び能力等を有する人物を従業員として募集し,上記の要求水準を備えている相手方らは,これに応募した。抗告人は,採用面接等を経て相手方らを採用した。

(イ) 相手方らは,抗告人に雇用される際に,抗告人の事務所において,雇用契約書のほかに,誓約書2通を作成した。そのうちの1通が本件誓約書であり,もう1通は就業規則を遵守する旨の誓約書である。

(ウ) 本件事務所では,新規に従業員となる者と雇用契約を締結する場合は,採用事務の担当者が,本件事務所の就業規則を遵守する旨の誓約書及び本件事務所の従業員に要求される守秘義務を全うするための具体的遵守事項を列記した本件誓約書を示して,署名と押印を求めていた。相手方らとの雇用契約の締結についても同様であった。

(エ) 相手方らは,本件誓約書の作成時において,特許事務所が顧客から委ねられた技術上の秘密情報が,部外者に漏れることのないように保護すべき重要な事項であることを一般的知識としては理解し,認識していた。

(オ) しかし,相手方らは特許事務所に勤務した経験がなかったので,相手方らの理解度や認識程度はその程度に止まっていて,当該秘密が,どのような場面でどのような態様で漏れる危険があるのかについて具体的なことは知らなかったし,漏洩防止のためにどのような措置があるのかも知らなかった。

まして,本件事務所が新規の顧客から弁理士業務の依頼を受けることで,当該依頼の内容と従来の顧客から受けている依頼の内容との間に,利害の対立等が生じる場合があるので,本件事務所においては,そのような事態が発生することを回避するために,コンフリクトチェックと称する事前の調査等をしていることなど全く知らなかった。

(カ) 相手方らは,特許事務所が顧客から委ねられた技術上の秘密情報の保護に関して,以上の程度は理解し,認識していたので,本件事務所への就職を希望する以上は本件誓約書に署名,押印しなければならないと思った。なお,相手方らの中には,抗告人が相手方らに対し,本件就職禁止条項によって,再就職先について一定の制限を設けようとする意図であり,したがって,本件誓約書に署名,押印すれば,再就職先が制限されるのではないかと思った者もいた。

(キ) 以上の経過で,相手方らは,抗告人の採用担当者から渡された本件誓約書に,署名,押印して,抗告人に提出した。

ウ 本件事務所における従業員の守秘義務の順守状況

(ア) 本件事務所において,新規の顧客からの依頼等による業務を受任した場合,両方の依頼業務を本件事務所で処理すれば,従来の顧客の依頼業務との間で,弁理士法31条で規制される事態を生じるかどうかについて,調査等がされていた。

(イ) 本件事務所において,上記調査に関しては,調査の基準が設けられ,従業員に対する研修等を行うなどして,確度の高い調査を行おうとしていた。

(ウ) しかし,調査結果によって,同法31条に抵触する可能性があると認められた場合であっても,本件事務所は上記の抵触を回避する措置を執るなどして,新規の顧客の依頼を受任することもあった。

(エ) 以上の他に,本件事務所において,在職中の従業員に対して,本件誓約書記載の在職中の禁止事項の遵守について,意識的に取り上げられたり,注意喚起を求めることはなかった。

エ 相手方らの担当職務

本件事務所において,相手方Y1,同Y2及び同Y3は,電子・情報・通信グループに,相手方Y4,同Y5,同Y6及び同Y7は,生物・化学グループに,それぞれ配属され,海外で特許出願された案件を日本の特許庁へ出願する業務において主として翻訳を,相手方Y8は,翻訳グループに配属され(平成15年からは電子・情報・通信グループに合流),特許関係書類の翻訳業務を担当し,相手方Y12は,顧客への報告・確認を行う部門において,それに関する業務を担当し,特許の技術情報を取り扱っていたことが認められる。

相手方Y9は,おおむね外国Y8グループ商標チームに配属され,主として商標の翻訳業務を担当し,特許の技術情報の内容にはほとんど関与していなかった。

また,秘書業務担当相手方らは,いずれも秘書業務に就いていたものの,いずれも特許の技術情報の内容には深く関与していなかった。

オ 相手方らが本件事務所を退職する際の状況について

(ア) 相手方らが,本件事務所を退職する際には,退職事務の担当者との間で,退職に伴う手続等の事務が短時間で行われた。

(イ) その際に,本件事務所の退職事務担当者は,相手方らに対し,退職後も守秘義務があるので,それを遵守するよう述べたが,それ以上に本件誓約書を示すなどして本件誓約書の退職後に関する記載事項に具体的な言及をすることはなかった。

カ 相手方らが本件事務所を退職した後の事情について

(ア) 相手方らは,抗告人を相手方として,平成16年10月20日,大阪地方裁判所に対して,時間外賃金請求に関する証拠保全の申立てをした。同裁判所は,申立てを認容して,本件事務所において検証手続がおこなわれた。

(イ) 相手方らのうち,相手方Y1,同Y2,同Y4,同Y5,同Y6,同Y7,同Y8,同Y9,同Y10,同Y11及び同Y12は,平成17年に同裁判所に賃金及び損害賠償請求事件を提起した。

(ウ) 抗告人は,平成17年2月16日,本件仮処分命令の申立てをした。

2  以上の疎明事実によると,相手方らは,本件誓約書を作成した際に,特許事務所である本件事務所で取り扱う情報には,公開前の発明等の高度の機密性を有する顧客の技術情報等の秘密が含まれていて,それが部外に漏洩すれば関係者に多大の損失を被らせる事態となるから,同事務所で執務することになれば,本件事務所が管理する上記情報等について秘密を守る必要性があることを,理解し,認識していたといえる。そして,相手方らは,上記必要性がある以上,上記情報を記載した文書等の資料を本件事務所から外部へ持ち出してはならないこと及び本件事務所で取得した上記情報を部外者に対して漏らしてはならないことについても,承知していたものと認められる。

本件誓約書の記載をみれば,前記のとおり,大半が本件事務所の利益保護のために同事務所の保有する情報の保護に関する禁止規定を列挙し,本件事務所の顧客の利益保護に関係する禁止規定は,退職後の行為として,同顧客に敵対する代理行為と一定範囲の特許事務所等への就職の各禁止規定がこれに続けて記載されている。したがって,相手方らが,弁理士業務等について予備知識のないまま,新たに本件事務所の従業員となろうとした者であっても,本件誓約書を一読すれば,以上の記載内容に昭らして,本件就職禁止条項は,本件事務所で管理している顧客の技術情報に接する機会のあった従業員が,当該情報を当該顧客の不利益に使用する可能性のある他の特許事務所等に勤務することを,禁止する趣旨であることが容易に看取できたはずである。しかし,上記の予備知識がない者が,同条項中の「本件事務所の顧客にとって,競合関係を構成する特許事務所等」の文言の意味内容を,弁理士業務と関係付けて理解することは困難である(抗告人は,本件事務所において,コンフリクトチェックが行われていて,相手方らも弁理士業務で問題となるコンフリクトに関する知識を有していたと主張するけれども,本件誓約書の作成時において,相手方らは本件事務所での執務を開始していないので,コンフリクトチェック等に関する知識が皆無であったことは明らかであるから,抗告人の上記主張は失当である。)。

以上によると,本件誓約書の作成時において,相手方らは,本件就職禁止条項の意味内容を,本件事務所で管理している顧客の技術上の秘密情報に接する機会のあった従業員が,本件事務所を退職した後に,当該秘密情報を当該顧客の不利益に使用することを予防する目的で,事前に禁止事項を示す趣旨のものであるという程度の曖昧な理解と認識をしていたものというべきである。

ところで,抗告人は,本件就職禁止条項の意味内容は,相手方らが,本件事務所を退職した後2年間について,一定範囲の特許事務所等に就職することを制限する旨の合意であり,上記の範囲は,抗告人がその顧客から依頼等を受けている弁理士業務と,各相手方が就職しようとする特許事務所等がその顧客から依頼等を受けている弁理士業務とが,弁理士法31条の規制対象となる関係に該当するか否かによって画されるものであり,そのことは,本件就職禁止条項によって守ろうとする利益が前記のとおりであること及び本件就職禁止条項において,「本件事務所の顧客にとって,競合関係を構成する特許事務所等」の文言によって示されていると理解し,認識していたものと主張する。

しかし,本件就職禁止条項の文言は,上記抗告人の理解する内容を表現しているとはいい難い。一定範囲の特許事務所等への就職を禁止する趣旨は明確に表現しているものの,その範囲を画する明確な基準が謳われていない表現になっているので,禁止内容が文理上明確であるとはいえない。したがって,労働者の職業選択の自由の制限が,そのような文言で表現された条項によって合意できるということは相当とはいえない。

また,抗告人は,本件就職禁止条項の禁止範囲の認識が,合意をした当事者双方で異なっていても,双方の認識が重なり合う限度で,合意が成立すると主張する。しかし,それは,合意が成立し,その範囲を確定する場合にいえることであって,相手方らの前記認識と抗告人の上記認識とは,単に認識の範囲が異なるものではなく,認識の中身,性質が異なっていたものであるから,抗告人の上記主張は採用できない。

3  前記の疎明事実によると,本件誓約書の記載事項の大半は,本件事務所にとって保護するべき必要性がある情報の守秘義務とその実効性確保に関する事項の約束であって,本件誓約書を徴求する目的も主にこの点にあったと思われること,相手方もそのような文書であると受け止めていたこと,抗告人は,相手方らの採用時に,採用に関する手続の一環として事務的に本件誓約書の作成・提出を処理したこと,相手方らの中には,抗告人以外を宛先とする本件誓約書の作成・提出を求められた者があること,相手方らは,退職時に本件就職禁止条項の遵守について注意を喚起されたことは格別なかったこと,本件仮処分申立ては,抗告人と相手方らとの間で賃金をめぐる紛争が発生した後にされたことが明らかであるところ,これらの諸事情からすると,抗告人は,本件誓約書を相手方らから徴求することを,抗告人がどの程度重視していたのか疑問であり,一方,相手方らは,本件誓約書を提出することによって新たな義務を負担するというよりは,本件誓約書を本件事務所に勤務する者が雇用契約上負担する義務を注意的に記載した趣旨の文書であると考えて,署名,押印して,抗告人に提出したものと認めるのが実態に即したものではないかと思われる。

以上によれば,本件誓約書に記載されている本件就職禁止条項は,労働者の職業選択の自由の制限に関する表現になっているにもかかわらず,当事者双方は,本件誓約書を,そのような事項が記載された文書というよりも,従業員としての注意喚起をする趣旨の文書であると見ていた可能性が高いということができる。

4  次に,争点(1)イの本件就職禁止条項の内容(どの範囲の特許事務所等への就職を禁止しているか。)について検討する。

本件就職禁止条項が,一定範囲の特許事務所等への就職を禁止する文言であることは明らかである。

抗告人は,弁理士事務所の元従業員の負っている守秘義務のうち,在職中に取り扱った機密情報を退職後に漏洩しないことについて,違反行為を未然に防止するには,当該従業員が当該事務所の依頼者と競合関係に立つ当事者と依頼関係のある別の弁理士事務所等への就職を禁止することが有効かつ適切であり,その観点から,本件就職禁止条項は相当性のある禁止条項になっていると主張する。

弁理士法は,弁理士事務所の元従業員に対して,前記のとおり守秘義務を課しているだけであって,他の弁理士事務所等への就職までも禁止してはいない。また,当該従業員が,他の弁理士事務所等に再就職すれば,以前の弁理士事務所等で獲得した技術上の秘密情報を必然的に漏洩することになるというものではない。したがって,仮に,一定範囲の特許事務所等への再就職を禁止することが,守秘義務の遵守の点で肯認される場合があるとしても,弁理士が従業員との間で,退職後に再就職先の特許事務所等を制限する合意をするには,制限の対象となる特許事務所等の範囲を明確な基準で特定した上で,当該制限をする必要性及び制限態様の相当性の観点から許容される最小限度の制限をすべきであるといわなければならない。

ところが,前記のとおり,本件就職禁止条項は,一定範囲の特許事務所等を再就職先とすることを制限していることは文理上明確であるけれども,制限の対象となる特許事務所等の範囲について,文言上明確に表現されていないし,当事者双方の認識の中身,性質が異なっていることは前記のとおりであるから,同条項は,全体として内容が明確な条項であるとは解しにくい。

5  以上で検討したところによると,本件就職禁止条項は,労働者の職業選択の自由を制限する内容の条項であるけれども,抗告人及び相手方らの双方において,相手方らが,特定の特許事務所等に再就職しようとした場合に,抗告人から本件就職禁止条項の存在を理由として,就職の中止を要求できる法的根拠になることを理解し,認識していたというよりは,本件誓約書と同時に提出された就業規則を遵守する旨の誓約書と同様に,本件誓約書は,従業員として就労するについての留意事項について注意を喚起する趣旨の文書であり,同条項はその一例であると理解し,認識していたものとみるのが実態に即しているというべきである。

したがって,本件就職禁止条項が,その文言どおり,相手方らの職業選択の自由を制限する内容の約束として,当事者間で合意されたものと認めるには,疑問がある。

6  念のため,争点(1)ウについても検討する。

前記のとおり,本件就職禁止条項は,文理上,相手方らが,一定範囲の特許事務所等への再就職を制限する趣旨であることは明らかであるので,本件就職禁止条項によって,そのような再就職を禁止することが公序良俗に違反するか否かについて検討する。

以上で認定した諸事実によると,本件就職禁止条項が記載された誓約書に基づいて,相手方らが誓約したことは認められるので,再就職先の範囲等の点はともかくとして,再就職先を制限すること自体についての誓約(合意)が成立していたと解する余地はある。しかし,誓約がされた経緯,誓約の対象となった事項の性質,誓約した誓約条項の文言及び文言の意味内容等は,前記のとおりであるから,<1>誓約の態様が,法律的義務を負担することを承諾したものであったというより,注意喚起の趣旨でされたとみられるものであるところ,<2>再就職が禁止される就職先の範囲が文言上特定されていないので,たとえ同条項に表示されていない弁理士事務所等特有の事情を加味して,範囲の確定を図っても,結局は範囲を明確に画することができないこと,<3>相手方らの担当職務は,本件事務所の業務の一部分であるから,相手方らが本件事務所の顧客の総ての技術情報の秘密に触れているとは考え難く,本件事務所の顧客全部との関係で就職先を制限する必要性はないこと,<4>さらに,再就職先の制限をしなければ本件事務所の顧客の技術秘密が漏洩する可能性が高いとも認められないことを総合すると,本件就職禁止条項に労働者の職業選択の自由に優先する効力を認めるのは相当でない。すなわち,同条項は公序良俗に違反して無効であるというべきである。

7  以上の次第で,本件において,被保全権利である本件就職禁止条項の合意が成立したことの疎明がなく,また,仮に,本件就職禁止条項の合意が成立していたとしても,これによって相手方らの再就職先を制限することは,公序良俗に違反して無効であるから,被保全権利の疎明がない。

8  以上のとおりであるから,原決定は相当であり,本件抗告は理由がない。

よって,主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 武田和博 裁判官 楠本新 裁判官 辻本利雄)

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