大阪高等裁判所 平成17年(行ス)22号 決定 2006年1月20日
主文
1 原決定を取り消す。
2 奈良社会保険事務局長が平成17年4月27日付けで抗告人に対してした,抗告人の保険医登録を同月28日をもって取り消す旨の処分は,本案判決が確定するまでその効力を停止する。
3 申立ての総費用は相手方の負担とする。
理由
第1抗告の趣旨
主文同旨
第2事案の概要
1 事案の要旨
(1) 本件は,保険医登録を受けて保険診療を行っていた歯科医師である抗告人が,奈良社会保険事務局長から,平成17年4月27日付けで,抗告人の保険医登録を同月28日をもって取り消す旨の処分(「以下本件処分」という。)を受けたが,本件処分は行政裁量権を逸脱した違法な処分であると主張して,本件処分の取消訴訟(本案訴訟)を提起するとともに,本件処分により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があるとして,行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)25条に基づき,本件処分の効力の停止を求めた事案である。
(2) 原審は,本件処分により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があることを認めるに足りる疎明はないとして,抗告人の申立てを却下した。
抗告人は,原決定の取消しと自己の申立ての認容を求めて抗告した。
(3) 当裁判所は,原決定と異なり,本件処分により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があることは認められ,本件処分の効力の停止により,公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとも,本案について理由がないともいえないから,本件処分の効力を停止すべきものと判断する。
2 前提事実(疎明及び審尋の全趣旨により一応認められる事実)
(1) 保険医登録
抗告人は,昭和52年11月8日付けで,健康保険法の規定により保険医として登録(保険医番号○○XXXX号)された。なお,抗告人は,昭和56年7月1日付けで,その開設するA歯科医院(以下「本件歯科医院」という。)について,保険医療機関としての指定を受けた。
(2) 本件処分に至る経緯
ア 個別指導及び監査の実施
厚生労働大臣の委任を受けた地方社会保険事務局長である奈良社会保険事務局長(以下「処分庁」という。)は,平成14年10月31日,平成15年8月7日,平成16年8月5日及び同年11月25日,抗告人に対し,個別指導を行い,不適正な保険医療がされていることを指摘して,改善を求めた。
処分庁は,同年11月25日の個別指導後,患者調査を行い,その結果に基づき,平成17年2月17日,同月18日及び同月24日には監査を実施し,抗告人から聴取を行った上,同日には抗告人に患者個別調書へ弁明を記載させた。
イ 本件処分及び保険医療機関指定取消処分
処分庁は,平成17年4月19日に行政手続法に基づく抗告人の聴聞手続を行った後,同月26日に奈良地方社会保険医療協議会からの答申を受けて,健康保険法80条1号ないし4号及び6号に基づき,本件歯科医院の開設者である抗告人に対し,同月27日付けで,同月28日をもって本件歯科医院の保険医療機関の指定を取り消す旨の処分をするとともに,保険医である抗告人に対し,健康保険法81条1号ないし3号に基づき,同月27日付けで,同月28日をもって保険医の登録を取り消す旨の処分(本件処分)をした。
ウ 本件処分の理由
本件処分は,「保険医療機関及び保険医療養担当規則」19条の2,22条及び23条の2に違反し,保険医又は保険薬剤師の責務を定めた健康保険法72条1項及び保険医療機関等の責務を定めた国民健康保険法40条1項に違反すること,また,「老人保健法の規定による医療並びに入院時食事療養費及び特定療養費に係る療養の取扱い及び担当に関する基準」19条の2,22条及び23条の2に違反し,保険医療機関等の責務を定めた老人保健法26条に違反することが,保険医及び保険薬剤師の登録の取消しを定めた健康保険法81条1号ないし3号に該当する,ということを理由としてされた。
具体的には,① 実際に行った保険診療に,行っていない保険診療を付け増して診療録に不実記載し,保険医療機関に診療報酬を不正に請求させた,② 実際に行った保険診療を保険点数の高い別の診療に振り替えて診療録に不実記載し,保険医療機関に診療報酬を不正に請求させた,③ 自費診療して患者から料金を受領したにもかかわらず,同診療を保険診療したかのように装い診療録に不実記載し,保険医療機関に診療報酬を不正に請求させた,④ 監査や個別指導に対応するため,既存の診療録とは別に,既に請求済みの診療報酬明細書の診療内容に基づき新たな診療録を作成し,保険医療機関に持参させた,という保険医の不正の事実に基づいて本件処分がされた。
(3) 本案訴訟の提起
抗告人は,平成17年8月31日奈良地方裁判所に対し,本件処分の取消しを求める訴えを提起し(同裁判所平成17年(行ウ)第7号保険医登録取消処分取消請求事件=本案),現に係属中である。
3 争点及びこれに関する当事者の主張の骨子
(1) 「重大な損害を避けるため緊急の必要」の要件(行訴法25条2項)について
ア 抗告人
抗告人は,従前,個人事業として本件歯科医院を経営していたところ,本件処分及び本件歯科医院の保険医療機関指定取消処分を踏まえて,平成17年4月30日をもって,本件歯科医院につき,医療機関及び保険医療機関を廃止し,代わりに,同年5月1日,抗告人の子であるBが本件歯科医院と同一の場所,設備につき,「C歯科」という医療機関を開設し,保険医療機関の指定を受け,抗告人を勤務歯科医師として雇用している。
ところが,Bは,平成16年6月に歯科医師資格を取得したばかりで,診療経験は1年程度であり,保険診療を従前の抗告人並みに行うことができない。また,歯科医院の経営実態からすると,保険診療が自費診療の呼び水となっており,抗告人は,保険診療ができないことから,Bが保険診療を行った患者に自費診療を勧めることはできず,その結果,自費診療についても,十分な収入が得られない。
以上の結果,本件処分前と後の収入を比較すると,本件処分前の抗告人の平成16年1年間の保険収入は,月平均453万円であるのに対し,本件処分後である平成17年5月から11月までのBの保険収入は,月平均239万円,本件処分前の抗告人の平成16年1年間の自費収入は,月平均224万円であるのに対し,本件処分後である平成17年5月から11月までの抗告人及びBの自費収入は,月平均256万円であり,前年比73%の収入にとどまっている。また,平成17年1月ないし11月までの収入は,保険収入が合計3286万円(前年同期4988万円),自費収入が合計2823万円(前年同期2469万円),合計6109万円(前年同期7457万円)であるのに対し,同時期の経費は,医業原価が3950万円(前年同期4567万円),一般管理費が1932万円(前年同期1056万円),医業外費用が263万円(前年同期283万円),合計6145万円(前年同期5906万円)であるから,約35万円の赤字(前年同期約1550万円の黒字)である。しかも,上記の経費には,金融機関からの借入額約1億2000万円の返済元本額(返済合計額は月額105万円であり,うち利息相当額は月額約23万円であるから,返済元本額は月額約82万円である。)や抗告人らの生活費は含まれていないのであるから,抗告人が経済的破綻の危機に瀕していることは明らかである(なお,上記経費のうち,減価償却費と専従者給与は現実には抗告人らの元から第三者へ金銭は流失せず,抗告人らの手元に確保されるものであるが,この点を考慮したとしても,その額は1か月当たり78万円にすぎず,せいぜい上記金融機関への返済元本額に相当する程度であり,生活費は全く捻出できない。)。
以上から,「重大な損害を避けるため緊急の必要」の要件を充足するのは明らかである。
イ 相手方
抗告人に生じ得る損害は金銭によって賠償し得るものであること,抗告人は本件歯科医院を閉鎖したこと,実質的な損害が発生していないこと,これらによれば,抗告人に生じ得る損害は,形式的に見ても経済的損害のみであり,それも,実質的には生じないものである。また,保険医としての適格性を欠く医師が執行停止の名の下に保険医療を継続すると適正な保険診療の実現が害されるおそれがある。したがって,本件処分により生ずる重大な損害を避けるための緊急の必要性があるとはいえない。
(2) 「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれ」の要件(行訴法25条4項)について
ア 相手方
本件は,抗告人が診療報酬の不正・不当請求を多数回にわたって行い,また,診療録の不実記載等を行ったという悪質な事案であり,その中には,自費診療として患者から料金を受領したにもかかわらず,同診療を保険診療をしたかのように装い診療録に不実記載し,保険医療機関に診療報酬を不正に請求させる行為なども含まれており,医療保険制度の取扱いについて,抗告人が著しく適格性を欠くことは明らかである。また,抗告人は,監査に対して虚偽の診療録を提出し,その後の対応においても不誠実な行為が認められる。このような事案において,本件処分の執行停止が認められることになれば,相手方に保険医の登録に関する取消権限を付与した趣旨を没却し,健康保険制度を初めとする医療保険制度に対する国民の信頼を失わせることになるのは明らかである。
イ 抗告人
本件処分の効力が停止されたとしても,本件処分の原因事実と指摘された内容は,いずれも厚生労働省告示の保険点数表の解釈,保険医療養担当規則等の解釈をめぐる問題であって,他の保険医の不正請求の続発を招いたり,保険診療現場が混乱するような事態を生じさせるおそれもなく,公共の福祉に重大な影響を及ぼすことはない。
(3) 「本案について理由がないとみえるとき」の要件(行訴法25条4項)について
ア 相手方
本件処分は,処分要件の認定及び要件が存した場合の処分の選択に裁量が認められていることから,裁量権の範囲を超え,又はその濫用があった場合に限り,違法と評価され,裁判所が取り消すことができる(行訴法30条)。そして,本件処分の理由は,前提事実(2)ウのとおりであり,抗告人の主張によっても,本件処分において裁量権の逸脱・濫用があったとは認められず,本案についても理由がないとみえることは明らかである。
イ 抗告人
既存の診療録とは別に,監査や個別指導に対応するために新たな診療録を作成したと言うが,そのような事実はない。抗告人がした歯科点数表(厚生労働省告示)に関する解釈に誤りはなく,それに基づく保険請求は不正なものではない。抗告人は,自費診療を行った患者について,故意に保険請求を二重に行ったことはない。相手方が,抗告人が行ったとする不正請求の金額は総額約85万円,不当請求の金額は約13万円であるが,不正請求の内容とされるものはそのうちの一部であって,その一部に関する保険請求が否定されることによってその余の部分も一連のものとして否定されたもので,抗告人自らが誤請求を認めるものはわずか数万円にすぎないのであり,その金額で保険医登録取消しを行うことは,他の処分事例に比し,明らかに行政裁量権を逸脱したものである。
第3当裁判所の判断
1 認定事実前記前提事実及び疎明(甲9,22,26,27)並びに審尋の全趣旨によれば,以下の事実が一応認められる。
(1) 抗告人は,昭和52年11月8日付けで,健康保険法の規定により保険医として登録(保険医番号○○XXXX号)され,昭和56年7月1日付けで,その開設する本件歯科医院について,保険医療機関としての指定を受け,以後平成17年4月27日まで,本件歯科医院において,保険診療及び自費診療を行っていた。
(2) 抗告人の子であるBは,平成16年3月,D大学を卒業し,同年6月1日に歯科医師免許を取得し,同年7月から,奈良市内の歯科医院で研修医として勤務し(この間,患者の担当はしていない。),平成17年1月からは,本件歯科医院に勤務し,主として,模型実習を中心とした研修と簡単な処置(衛生士業務及び充填処置等)を行っていた。
(3) 抗告人は,本件処分及び本件歯科医院の保険医療機関指定取消処分を踏まえて,平成17年4月14日には奈良市保健所長に対し,また,同月18日には処分庁に対し,それぞれ,開設者変更を理由に,本件歯科医院につき同月30日をもって,診療所又は保険医療機関を廃止する旨届け出た。
(4) Bは,同月18日処分庁に対し,自らが開設者となり,本件歯科医院と同じ場所で,それと同一の電話番号を使用して開設する「C歯科」につき保険医療機関指定申請書を提出した。
抗告人は,本件歯科医院にあった設備一式をBに賃貸し,上記「C歯科」がそれを使用している。
抗告人は,現在「C歯科」において,自費診療のみを行う勤務医として勤務している。
Bは,前記のとおり,歯科医師資格を取得したばかりで,診療経験は1年程度であり,保険診療を従前の抗告人並みに行うことができない。また,歯科医院の経営実態からすると,保険診療が自費診療の呼び水となっており,抗告人は,保険診療ができないことから,Bが保険診療を行った患者に自費診療を勧めることはできず,その結果,自費診療についても,十分な収入が得られない。
(5) 本件処分前の抗告人の平成16年1年間の保険収入は,月平均453万円であるのに対し,本件処分後である平成17年5月から11月までのBの保険収入は,月平均239万円,本件処分前の抗告人の平成16年1年間の自費収入は,月平均224万円であるのに対し,本件処分後である平成17年5月から11月までの抗告人及びBの自費収入は,月平均256万円であり,前年比73%の収入にとどまっている。
平成17年1月ないし11月までの抗告人及びBの収入は,保険収入が合計3286万円(前年同期<ただし,抗告人のみ,以下同様>4988万円),自費収入が合計2823万円(前年同期2469万円),合計6109万円(前年同期7457万円)であるのに対し,同時期の経費は,医業原価が3950万円(前年同期4567万円),一般管理費が1932万円(前年同期1056万円),医業外費用が263万円(前年同期283万円),合計6145万円(前年同期5906万円)であるから,約35万円の赤字(前年同期約1550万円の黒字)である。
上記の経費には,金融機関からの借入額約1億2000万円の返済元本額(返済合計額は月額105万円であり,うち利息相当額は月額約23万円であるから,返済元本額は月額約82万円である。)や抗告人らの生活費は含まれていない(なお,上記経費のうち,減価償却費と専従者給与は現実には抗告人らの元から第三者へ金銭は流失せず,抗告人らの手元に確保されるものであるが,この点を考慮したとしても,その額は1か月当たり78万円にすぎず,せいぜい上記金融機関への返済元本額に相当する程度であり,生活費は全く捻出できない。)。
2 「重大な損害を避けるため緊急の必要」の要件(行訴法25条2項)(争点(1))について
上記認定事実によれば,抗告人の収入額は,Bの収入額を含めても,本件処分後激減しているが,これは本件処分により抗告人が保険診療を行うことができないことに主たる原因があるものと推認できること,平成17年1月ないし11月の収支状況からして,このままの状態が継続すると,抗告人及びBの収入額を合計しても,生活費を捻出できず,ひいては,金融機関に対する返済にも支障が生じ,所有不動産に対する担保権が実行される事態となることも容易に想定される。
そうすると,抗告人及びBは,本案判決の確定に至るまでにその経営が破綻し,やがては病院の設備一式を失い,現在の規模,内容の診療所自体を廃止せざるを得ない事態に陥る可能性もあることは推認するに難くなく,このような損害は,金銭によって完全には償うことができないものというべきである。
この点に関し,相手方は,抗告人に生じ得る損害は,形式的に見ても経済的損害のみであり,重大な損害とはいえない旨主張している。
しかしながら,単に収入額が一部減少する程度であればともかく,上記のとおり,経済的な破綻にまで至る場合には,事業の継続という独立した利益が失われることになり,これは金銭によっては完全には償うことは困難であるというべきであるから,このような損害の回復の困難の程度,損害の性質及び程度並びに本件処分の内容及び性質を勘案すると,本件においては,行訴法25条2項の「重大な損害を避けるため緊急の必要」があるものと認めるのが相当であり,相手方の上記主張は採用できない。
3 「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれ」の要件(行訴法25条4項)(争点(2))について
相手方は,本件のような違法性の高い事案において,本件処分の執行停止が認められることになれば,相手方に保険医の登録に関する取消権限を付与した趣旨を没却し,健康保険制度を初めとする医療保険制度に対する国民の信頼を失わせることになるから,本件処分の効力を停止することは,「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれ」がある旨主張している。
しかしながら,本件処分の効力を停止することが本件処分の理由となった抗告人の法令違反の行為を是認することにはならないし,抗告人が保険医として診療を継続するとしても,特段抗告人が重大な医療過誤を犯したわけではなく,患者自身に経済的損害を与えたものでもないのであるから,そのこと自体が公共の利益に悪影響を及ぼすとは認め難い。また,本件処分の理由となった法令違反の行為については,抗告人に対する適切な行政指導と監督による防止を期待することができるものと考えられる(抗告人も,意見書<甲25>において,今後は行政庁の指導に従い,適切な保険診療を行う旨陳述している。)。
以上のような点を考慮すれば,一歯科医師にすぎない抗告人が本件処分の効力停止期間中保険診療を継続することから,直ちに公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとは認め難く,他にこれを認めるに足りる疎明はない。
4 「本案について理由がないとみえるとき」の要件(行訴法25条4項)(争点(3))について
相手方は,「本案について理由がないとみえるとき」にも当たる旨主張している。
しかしながら,本来,本案について理由があるか否かは,本案訴訟において,主張立証が尽くされた上慎重に判断されるべき事柄であることはいうまでもない。
したがって,行訴法25条4項の上記要件は,相手方において本件処分の適法要件の具備を疎明した場合に限られるものというべきである。
これを本件についてみると,疎明及び審尋の全趣旨によれば,相手方が重視していると考えられる診療録の不実記載については,保険請求内容と異なる記載がされているのはE分だけであり,抗告人が意図的に異なる記載をしたと認めているのは,同人の平成16年5月28日の診療に関してだけであること(抗告人が電子カルテの手法を用いて計画的に不正請求をしていたのであれば,複数の患者について,不実記載が認められるのが自然である。),相手方が認定した不正請求の額は,約85万円,不当請求の額は,約13万円であり,抗告人が自ら誤請求を認めているのはわずか数万円程度にすぎないことが認められ,これらの事実によれば,本件処分が行政裁量権を逸脱したと判断される余地がないとはいえず,本案訴訟の審理の結果を待つべきであるから,いまだ本案について理由がないとの疎明がされたとはいえず,この点に関する相手方の主張も採用できない。
5 結論
以上によれば,抗告人の本件申立ては理由があるから,これを認容すべきである。
よって,原決定を取り消して,本件処分の効力を本案判決が確定するまで停止することとし,主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 井垣敏生 裁判官 高山浩平 裁判官 神山隆一)