大阪高等裁判所 平成2年(ネ)1171号 判決 1993年3月18日
控訴人
魚住せつ
外五五名
右控訴人ら訴訟代理人弁護士
竹嶋健治
同
前田正次郎
同
赤松範夫
同
沼田悦治
同
水田博敏
同
天野泰文
同
澤田恒
同
菊井豊
同
山崎省吾
同
後藤伸一
同
前田知克
被控訴人
国
右代表者法務大臣
後藤田正晴
右指定代理人
高山浩平
外六名
主文
一 本件各控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
第一 申立て
(控訴人ら)
一 原判決を取り消す。
二 被控訴人は、控訴人らそれぞれに対し各金三万円を支払え。
三 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
(被控訴人)
主文同旨
第二 当事者の主張
当事者双方の主張は、控訴人らにおいて別紙一「控訴人らの主張」のとおり主張し、被控訴人において別紙二「被控訴人の主張」のとおり主張したほか、原判決事実摘示中、控訴人ら関係部分記載のとおりであるから、これを引用する。
第三 証拠関係<省略>
理由
一中曽根総理が、昭和六〇年八月一五日、宗教法人である靖国神社に本件公式参拝をしたこと、その際、中曽根総理が公用車を使用し、拝殿で「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し、続いて本殿に至り内陣に向って直立し、黙祷のうえ、深く一礼して退出したこと、祭壇には「内閣総理大臣中曽根康弘」と表示された生花一対が供えられ、公費から供花の代金として金三万円が支出されたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
二また、控訴人尺一顕正、同今井和登、同小野純一、同清流祐昭、同梶原清子各本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、控訴人らは、それぞれ浄土真宗の僧侶及びその信者、キリスト教の牧師及びその信徒、あるいは非宗教者(無神論者)であって、かねて、靖国神社の存在及び靖国神社と国家とがかかわり合うことについて批判的な立場をとってきた者であるところ、行政府の長である中曽根総理による本件公式参拝により、国家が靖国神社という特定の宗教を勧奨し、控訴人らの信仰(信条)に干渉したものと受け止め、右参拝に対し強い不快感と憤りを抱くと共に、戦前のように国家と神道とが結合して国民に対し国家神道を崇拝するよう強制したり、他宗教を圧迫したりすることが復活されるのではないかと、強い危惧を抱いたこと、以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
三ところで、控訴人らは、中曽根総理の本件公式参拝により控訴人らの法的利益が侵害された、と主張するので、以下、右主張の当否について検討する。
1 憲法二〇条で保障された信教の自由に対する侵害について
なにびとも、信教の自由を保障され、これに対する侵害が違法であることは、憲法二〇条に照らして明らかであり、公権力の行使により私人の信教の自由が侵害されたときは、国または公共団体は、国賠法一条により、被侵害者に対して損害賠償の責任を負うべきことはいうまでもない。ここに、信教の自由とは、個人の内心における宗教的信条(無神論を含む、以下同じ。)の自由を意味するとともに、右信条に従った行事等の宗教的行為を行い、または右信条に反する宗教的行事等を行わない自由をも意味するものであるところ、信教の自由に対する侵害があったといえるためには私人に対して、直接、右信教の自由に対する強制的干渉が行われたことを必要とするものと解される。
これを本件についてみるに、中曽根総理の行った本件公式参拝は、靖国神社に対する信仰を否定する控訴人らにとって不快感、憤りないし危惧の念を生ぜしめるものであったことは前記認定のとおりであるが、これらは、本件公式参拝の間接的・反射的効果であって、これをもって、本件公式参拝が控訴人らに対し、直接、その宗教的信条に強制的干渉を行い、控訴人らの信教の自由を侵害するものとはいえない。したがって、控訴人らの前記主張は採用できない。
控訴人らは、憲法二〇条の信教の自由の保障は、直接的な侵害からの保障のみならず間接的な侵害からの保障をも含むと主張するが、右主張には、にわかに従うことができない。のみならず、事案の如何によって、強制の態様が間接的な場合であっても、社会通念に照らし、直接的な強制に匹敵し、これと同視することができる特段の事情が認められる場合には、間接的強制による信教の自由に対する侵害を肯定することができるとしても、本件においては、全証拠資料を検討しても、中曽根総理の本件公式参拝がそれに当たるといえる特段の事情を認めることはできないから、いずれにしても、右主張は採用の限りでない。
2 控訴人らの宗教的人格権ないし宗教的プライバシー権(以下、宗教的人格権等という。)が侵害されたとの主張について
控訴人らの主張する宗教的人格権等の内容は必ずしも明確ではないが、要するに、信教の自由に対する侵害が認められない場合であっても、控訴人らは内心の宗教的平穏をみだりに害されない法的利益を有し、かかる法的利益が侵害されたときは国賠法による保護の対象になり得るというものと解されるところ、信教の自由に対する侵害が認められない場合におけるかかる意味での宗教的人格権等は、実定法上の根拠を欠くものであり、本件公式参拝によって控訴人らに生じた不快感、憤りないし危惧の念は、単に主観的な感情に過ぎないものであって、国賠法一条の保護の対象となる権利または法的利益に対する侵害と認めることはできないというべきである。
また、控訴人らは、宗教的人格権等の内容として「国家から死(者)に対する誤った意味付け(英霊等)をされない自由」とも主張するが、かかる趣旨での宗教的人格権等についても、これが実定法上の根拠を欠き、国賠法一条の保護の対象となる権利または法的利益と認めることができないことは、前と同様である。
したがって、宗教的人格権等の侵害をいう控訴人らの主張も理由がない。
3 本件公式参拝が憲法二〇条三項に定める政教分離に関する規定ないし同法八九条に定める公金の支出の制限に関する規定に違反するものである、との主張について
しかし、憲法二〇条三項ないし八九条の政教分離等に関する規定は、国家と宗教との分離を制度上保障することを直接の目的とするものであり、その結果として、私人の信教の自由が間接的に確保されることはあるものの、私人の法的利益を直接保障承認するものではないと解するのが相当である。
そうすると、控訴人らの右主張は、本件公式参拝が憲法の右各条文に違反するか否かの点について立入るまでもなく、理由のないものである。
4 なお、控訴人らは、本件公式参拝により控訴人らが受けた被侵害利益が「不快感」であって、法的に充分強固なものではなくても、侵害行為の(客観的)違法性が強度であるから、その相関関係において法的に保護される利益となり得ると主張し、裁判所に対して、本件公式参拝が政教分離等を定めた憲法の規定に違反するものであるとの判断を強く求めているが、国賠法一条は、公権力の行使により、違法に私人の権利または法的利益が侵害され、侵害を受けた場合に、国家または公共団体にその損害賠償を命ずることによって被侵害者を救済することを趣旨とするものであるところ、本件においては、控訴人らの権利または法的利益に対する侵害の事実を認めることができないことは前記説示のとおりであるので、裁判所が、本件公式参拝の客観的違法性を判断することはその必要がなく、また相当でもないというべきである。
四よって、控訴人らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないからこれをいずれも棄却すべきであるので、これと同旨の原判決は相当であり、本件各控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官後藤文彦 裁判官古川正孝 裁判官菊池徹)
別紙一 控訴人らの主張
目次
第一、はじめに―「岩手靖国控訴審判決」の確定
第二、本件公式参拝の概要
第三、靖国神社の沿革、概要、祭神
一、沿革
二、戦後の靖国神社
三、靖国神社の概要
四、靖国神社の祭神
第四、靖国神社の宗教性
第五、政教分離原則の解釈基準
一、大日本帝国憲法下の信教の自由
二、政教分離原則の意義
三、諸外国法制との比較
四、我が国における宗教観の特質と政教分離
第六、目的効果基準
第七、本件公式参拝の目的と効果
一、本件公式参拝の目的
二、本件公式参拝の効果
第八、控訴人らの権利(被侵害利益)
一、宗教生活におけるプライバシー権(宗教的人格権)
二、死者に対する意味付けをされない自由
三、信教の自由を間接的にも圧迫されない権利
第九、国家賠償法上の違法性
第一〇、結語
第一、はじめに―「岩手靖国控訴審判決」の確定
仙台高等裁判所が一九九一年(平成三年)一月一〇日に言い渡したいわゆる岩手靖国訴訟控訴審判決(以下岩手靖国控訴審判決という)は、「勝訴者」からの上告という異例の経過を経て上告却下により確定したが、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明快に違憲と断じたその結論部分は次のように述べている。
「…内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義を持ち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、間接的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、右公式参拝は、憲法二〇条三項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
以下、当審において提出した牧師戸村政博、憲法学者横田耕一の他の法廷における各証言調書(<書証番号略>)等に基づきながら、これまでの主張を補充する。
第二、本件公式参拝の概要
一九八五年(昭和六〇年)八月一五日午後一時四〇分ころ、当時の内閣総理大臣中曽根康弘は、内閣官房長官と厚生大臣とを公務として随行させ、公用車を用いて靖国神社に赴き、拝殿で「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し、引き続いて同神社神官の先導のもとに本殿に昇殿し、前記二閣僚と共に内陣に向かって直立し、黙祷の上深く一礼をした。この参拝に際し、中曽根康弘は本殿に「内閣総理大臣中曽根康弘」との名入りの生花一対を供え、公費から支出した供花料三万円を靖国神社に交付した。中曽根康弘は、参拝を終えた後「内閣総理大臣の資格で参拝した公式参拝である」旨明言した。右の事実は、当事者間に争いが無く、また新聞等によって遍く知られた公知の事実である。
第三、靖国神社の沿革・概要・祭神
一、沿革
靖国神社は、招魂社を前身とするが、同社は、明治二年戊辰戦争の官軍戦没者を慰霊するために東京都千代田区九段坂上の現在地に創設された神道式の宗教施設であった。その後、同社は明治一二年に靖国神社と改称の上別格官弊社に列せられ、同時に内務、陸、海軍の共同管轄となったが、明治二〇年には陸、海軍が専管するところとなり、軍の宗教施設としての色彩を帯び、一般の神社行政の枠外に置かれることになった。合祀者は、陸、海軍省で戦没者を審査し、天皇に上奏し裁可された。そして、同神社は、第二次大戦終了まで、国事殉難者を祀る国の中心的施設として、国家管理のもとに置かれ、戦争・事変等による戦没者を合祀した。
ところが、このような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し、昭和二〇年一二月一五日、連合国最高司令官総指令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ公布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示された。また、昭和二一年一一月三日に公布された日本国憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき種々の弊害を生じたことに鑑み、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至った。
二、戦後の靖国神社
靖国神社は、昭和二一年二月二日、国家管理の手を離れて宗教法人令(昭和二〇年勅令第七一八号)上の宗教法人となり、さらに、昭和二七年九月宗教法人法(昭和二六年法律第一二六号)による単立の宗教法人となった。
靖国神社規則第一条には、「本神社は、宗教法人法による宗教法人であって、『靖国神社』といふ。」と明定し、同神社の目的として「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた『安国』の聖旨に基づき、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を神奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行ふことを目的とする。」(三条)と定め、「本法人には、五人の責任者を置き、そのうち一人を代表役員とする。」(四条)、「代表役員は、宮司をもって充てる。」(五条一項)とそれぞれ定めた。
そして、同年九月三〇日には「靖国神社社憲」が別に制定されている(<書証番号略>)。社憲は、その後、一部改正が行われ、昭和五七年五月四日現在の規定では、「本神社は、御創立の精神に基き、祭祀を執行し、祭神の神徳を広め、その理想を祭神の遺族崇敬者及び一般に宣揚普及し、社運の隆昌を計り、万世にゆるぎなき太平の基を開き、以て安国の実現に寄与するを以て根幹の目的とする。」(二条)とし、また、宮司については、「本神社に左の神職を置く。」として「宮司一人」を置くことを定め(八条)、宮司の選定及びその職務については、「宮司は宮司推薦委員会の推薦した者につき、崇敬者総代会の同意を得て定める。」(九条)、「宮司は祭祀に奉仕し、社務を総理し、本神社を代表し宗教法人靖国神社の代表役員となる。」(一〇条一項)と定められている。そして、遅くとも同神社が宗教法人となってからの合祀者の決定は同神社の宮司がこれを行っている。
三、靖国神社の概要(<書証番号略>)
靖国神社の境内敷地は約九万三、〇〇〇平方メートル、建物の延面積は約一万平方メートル、第一鳥居の高さは二五メートル、第二鳥居のそれは15.2メートルであり、本殿、霊璽簿奉安殿、拝殿等がある。また、昭和五六年ないし昭和五八年当時における年間参拝者は約二二〇万ないし約二四〇万人で、そのうち正式参拝と呼ばれる昇殿参拝者は約二二万ないし約二四万人であった。
四、靖国神社の祭神
1.靖国神社の神体は、東京招魂社創建時以来の神鏡、神剣である。ところで、靖国神社昭和四八年一〇月刊行の「霊璽奉安祭について」と題する冊子によると、「靖国神社の御祭神は『明き直き誠の心を以て家を忘れ身を擲て各もおのも死亡にし其の大き高き勲功に依りて』靖国神社の神様としてお祀り申上げられたのであります」と記載されている。そして、戦没者の霊が祀り神となるには、戦没者の名前を書いた霊璽簿を謹製し、戦没者の霊を同簿に招魂した御霊を御神体に移す儀式(合祀祭)によって、霊が御神体に移る、とされており、従って靖国神社の神は御神体ということになる。
右の点について、大江志乃夫著「靖国神社」(<書証番号略>)中で引用する鈴木孝雄(靖国神社の宮司であり、陸軍大将であった。)著「靖国神社に就て」(偕行社記事特号部外秘八〇五号、一九四一年一〇月)は、次の通り平明な記述をしている(<書証番号略>)。
「此の招魂場に於けるところのお祭は、人霊を其処にお招きする。此の時は人の霊であります。一端此処で合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。之はよく考えておきませんというと、殊に遺族の方は、其のことを考えませんと、何時まで自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのですが、人霊も神霊も余り区別しないというような考え方が、いろいろの精神方面に間違った現れ方をしてくるのではないかと思うのです。(中略)遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。始終国をお護りしているんだという考えは勿論もっておられるに相違ありませんが、一方に親しみという方の点が加わるものですから、何となく神様の前の礼拝あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。(中略)これは苟も神社に参拝するときは、心から神様に対するんだという、もっとも厳粛緊張したる心持ちを以て敬虔な態度でお詣りして戴きたいのであります。これは、全体ではありませんが時々そういうのがあります。それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」
2.次に、靖国神社に祀られている祭神は、靖国神社社務所発行の「靖国神社の概要」と題する冊子によると、大要次のとおりである。
戊辰戦役で戦死した三五〇〇余柱をはじめとして、その後に起こった「佐賀の乱」「西南の役」「日清戦役」「日露戦役」「第一次世界大戦」「満州事変」「支那事変」「大東亜戦争」等の事変、戦役で戦死した者等二四六万余柱が合わせ祀られている。また戦死者のほかにも従軍看護婦、主婦、小中学校の児童及び生徒、沖繩で戦没した「ひめゆり」「白梅」等の七女学校部隊の女生徒、終戦直後に自決殉職した樺太の女子電話交換手、大東亜戦争終結時に自決した者、戦争犯罪人として処刑された一〇〇〇余名(同神社では「昭和殉難者」と呼んでいる。)、民間防空組織の責任者として活躍中爆死した者、学徒動員中に軍需工場等で爆死した学徒等も祭神として合祀されている。また、昭和二〇年一一月に未合祀全戦没者を一括して招魂する臨時大招魂祭が行われた。
第四、靖国神社の宗教性
靖国神社が宗教団体であることについては、戦前の神社非宗教説に依拠した特異な見解を除いて異論はないが、念の為、靖国神社が宗教団体である理由、そのように認定され、取り扱われていることについて補足しておく。
一、憲法学上の宗教の概念は、政教分離原則の立法趣旨及び目的に照らして解釈されるべきであるが、一般に宗教とは、「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」であると解される(伊藤正己著『憲法』、名古屋高裁一九七一年五月一四日津地鎮祭違憲訴訟控訴審判決)。
神道学において一致して力説されているところによれば、神社神道は超自然的・超人間的存在である神霊が神社の祭神となっており、この神霊と現世人間との交換関係とその為の祭祀が中心となっている。祭祀は、神を祀ることであり、それを通じて神人交換の現象が実現することを目的としている。
このように、神社の祭神が個人の宗教的信仰の対象となる以上、前記憲法学の宗教概念からすれば、神社神道が憲法上宗教であることに相違なく、神社が宗教団体に該ることは明白であり、この結論については、最高裁も自衛官合祀事件判決、津地鎮祭事件判決において当然の前提としている。
そして、神社神道に属する靖国神社は、戦没者を祭神とし、神道の祭祀を行うことを目的としており、その奉斎する祭神に対し宗教的行事を行っている。
従って、靖国神社が宗教団体であることは明らかである。
二、のみならず、靖国神社は戦後自ら宗教法人法に基づき、東京都知事の認証を受けて法人格を取得しているのであるから、同神社が憲法に言う宗教団体であることは自明である。
即ち、宗教法人法第二条によれば、宗教団体とは「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体」であって、礼拝の施設を備える神社、寺院等その他これに類する団体、及びこれらを包括する教派等の団体を言うものと定義されており、靖国神社は右の宗教団体としての諸要件を具有するものとして法人格を付与されているのである。
因みに、参議院法制局長は靖国神社国家護持法案に関連して次のような見解を示している。
「神道では、『まつり』つまり『祭祀』は、神聖な意識をもってする神への奉仕であり、祭るものと祭られるものとの霊的な接触、交渉であると考えられているようであるが、現在のままの靖国神社は、神道を基礎とする施設であり、しかして、ここで行う祭祀は、宗教法人靖国神社規則第三条に明らかなように『神道の祭祀』である。したがって、靖国神社としては、英霊を神道の神としてまつるか、少なくとも神道の神に連なる神聖なものとしてまつる立場になるものと理解され、このことは、規則第三条を離れて実態から判断しても同様に言い得ることのように思われる。されば、靖国神社の祭祀は、神道上の宗教活動の一つであって、靖国神社を現状のままにして、これに補助することは、憲法第八九条の『宗教上の組織若しくは団体』を補助することになると解すべきもののように考えられる」(一九六七年一一月二日参議院法制局長見解)。
第五、政教分離原則の解釈基準
一、大日本帝国憲法下の信教の自由
旧憲法体制は、天皇が神であることを公的に標榜する一種の宗教国家であった。幕藩体制崩壊後全国を統一国家としてまとめるにつき、神の子孫たる「万世一系」の天皇がその統合手段とされ、天皇は神道によって権威付けられる一方、神道は現人神たる天皇の権力の淵源として特別なものとされた。神社は元々は狐や樹木を祀る土俗的なものであったが、天皇の神格化と結び付いてことごとく天皇にまつわる人物を祀るものとされ、全国の神社は天皇崇拝の為の宗教組織として組織化され、神官は官吏となり、神社には公金が支出され、いわゆる国家神道体制が完成した。神社は宗教を超える一種の国民道徳であり、神社信仰は「臣民ノ義務」とされた。
旧憲法第二八条は、信教の自由を保障したが、それには「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とする留保が付せられており、「臣民タルノ義務」である神社信仰に背く限りは一切の信教の自由はなく、激しい宗教弾圧が繰り広げられた(<書証番号略>)。
靖国神社を特別視する内閣総理大臣の公式参拝は、右のような旧憲法下における括弧付きの信教の自由と同様の帰結をもたらしかねず、精神的自由全体の保障を左右する虞れがある。
二、政教分離原則の意義
憲法二〇条は信教の自由を保障すると共に、政教分離原則を定める。
信教の自由とは、内心における信仰の自由、宗教上の信仰を外部に発表する自由、宗教を宣伝する自由、宗教行為の自由を意味し、宗教に関する凡そ全ての自由を包含する。そして、「信教の自由を保障する」との意味は、公権力によってこれらの自由が制限されることが無く、且つまたそれらを理由として如何なる不利益も与えられないことである。
信教の自由は、精神的自由の中核を為すものであり、民主制の基盤を支える極めて重要な権利である。
即ち、「…西欧諸国においては、信教の自由は、教会権力からの人間精神の解放を求める永い闘いにおいて確立されたものであり、いわば精神的自由そのものとして希求されたものである。その意味で、信教の自由は、すべての精神的自由の『原型であり、母胎である』ということができ、そのための戦いこそが、近代の自由権確立の原動力であったといえる。」(註釈日本国憲法上巻三九六頁)のであり、信教の自由の保障が揺らぐ時には、全ての精神的自由の保障を危うくし、ひいては民主制そのものを崩壊させることになる。
このような重要な意義を有する信教の自由を保障するには単にこれを保障する旨を宣言するだけでは不十分であり、何よりもまず国家と宗教の結びつきを一切排除することが必要である。蓋し、国家が国教を設けたり、特定の宗教に特権的地位を与えるなどして国家と宗教が結びつけば必然的に異教徒や無宗教者に対する宗教的迫害が生じることになるからである。
また、国家と宗教の結合は、それ自体個々人の信教の自由への迫害となるのみならず、国家と結びついた宗教そのものも世俗的権力との癒着によって堕落し、更に、国家も激しい宗教的対立に巻き込まれて遂には憲法秩序の崩壊をもたらすことになる。
かくして、信教の自由を保障する為には、国家の非宗教性ないし国家と宗教との分離が不可欠であり、政教分離原則は、信教の自由をより完全に、より実効的に保障しようとするものである。
三、諸外国法制との比較
国家と宗教との分離の度合いは、それぞれの国の歴史的立場によって異なる。
アメリカ合衆国やフランスのように完全な分離の立場をとる国もあれば、イギリスのように国教制度がとられ、ただ国教以外の宗教については広汎な宗教的寛容を認めることによって信教の自由の保障を図ろうとする国もある。
日本国憲法は、まず第二〇条一項後段が「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」と定め、また、同条三項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とし、更には第八九条で「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため…これを支出し、又はその利用に供してはならない」と定めて、国家と宗教との完全な分離の立場をとる。
この点、比較法的にみても国家と宗教との完全な分離の立場を採っているといわれるアメリカ合衆国憲法よりも日本国憲法は更により厳格であり、世界の中でも類を見ない程の国家と宗教の分離を要請している(<書証番号略>・横田耕一証人調書一〇項以下。因みに、アメリカ合衆国憲法では、修正一条で「連邦議会は、国教の樹立を規定し、又は信教の自由な行使を禁止する法律を制定することができない。」と定めている)。
日本国憲法がかくも厳格な政教分離規定を設けたのは、言うまでもなく大日本帝国憲法下においては、信教の自由の保障が極めて不完全であり、国家と神道との結びつきにより種々の重大な弊害が生じたことの反省に基づくものであって、このことは既に詳述した。戦前の歴史が教えるところは、天皇の祖先である「神々」を祀る神社神道が事実上国教として扱われ、神社参拝が「臣民タルノ義務」とされた国家体制の下で、信教の自由に対する苛烈な弾圧が行なわれたのみならず、言論、出版、集会の自由などあらゆる精神的自由が抑圧され、それがひいては民主制を存立し得なくさせ、内に抑圧、外に侵略という軍国主義に突き進んで行ったということである。
日本国憲法はこの苦い歴史的経験に鑑みて、二〇条一項前段において信教の自由を無条件で保障すると共に、その保障を完全なものとする為に前述のとおり他国に類をみない詳細な政教分離規定を設けたものである。
従って、「憲法二〇条一項後段、同条三項及び八九条に具現された政教分離原則は、国家と宗教との徹底的な分離、すなわち、国家と宗教とはそれぞれ独立して相互に結びつくべきではなく、国家は宗教の介入を受けず、また宗教に介入すべきではないという国家の非宗教性を意味する。」(津地鎮祭事件最高裁判決少数意見)。かくして、日本国憲法における政教分離は国家と宗教との完全な分離を要求するのである。
そして、以上のような歴史的経過からみれば、日本国憲法における政教分離は、ただ単に抽象的な国家と宗教との分離ということを意味するものではなく、より具体的に、国家と神社神道とのあらゆる結びつきを否定するものとして意味を持つのである。
四、我が国における宗教観の特質と政教分離
1.戦前の神社神道国教化を支えてきた要因の一つにわが国特有の宗教意識の雑居性ないし多重性があり、国民のそのような宗教観は現在も殆ど変わっていない。
即ち、我が国における大多数の国民の信仰の在り様は、唯一神ないし特定の絶対神を信仰するのではなく、様々な宗教を多重的に信仰することを特徴としており、自己と同じように多重信仰の態度をとる限りは、他者の信仰についても比較的寛容であるが、他者が唯一神を信じ、その信仰に基づいて偶像崇拝を拒絶するような場合はこれを異端視し、排除しようとする傾向が顕著であって、少数者に対しては極めて非寛容である。我が国において同質化を拒むことは極めて難しく、神社信仰が「国教」とされた戦前において、これを信仰しないものは非国民とされ、社会生活のあらゆる場面で排除され、文字通り国民としては扱われなかったのである。
政教分離を考察するに当たっては、このような我が国における宗教問題の特質ないし歴史的沿革を特に念頭に置くことが必要である。
横田耕一九州大学教授は次のように指摘している(<書証番号略>)。
「一見日本ではいろんな宗教があって、相互に争いがないように見えますけれども、それは、みんなが要するに多重信仰をやっているから、その限りで寛容に見えるだけで、いったんそこで違った考え方をした場合には非常に住みにくい。そして、みんなと同じようなことをしなければいけないという、そういう圧力が働く社会なんですね。」「そういう意味で、日本においては、政教分離という問題は、実際に戦前にそうであったように、少数者の側からみると非常に厳格に考えなければいけない、そういう風土のある社会だと思います。」
2.津地鎮祭事件最高裁判決の多数意見は、憲法二〇条三項で禁止される宗教的活動につき、「宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果に鑑み、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超える場合には許されない。」という一応の基準を定立したが、「かかわりあいが相当とされる限度を超えるとき」と言うのは、極めて曖昧であって、このように解すると、大抵の宗教への関わり合いについて、憲法の禁止する「宗教的活動」ではないと恣意的に判断される余地があり、ひいては信教の自由の保障そのものを揺るがすことになりかねない。
右最高裁判決の多数意見は、国民の宗教的雑居性を以って政教分離原則をいわば希薄化、柔軟化する根拠とするものであるが、多重信仰をそのまま前提とし、これを「社会通念」とするのであれば、少数者の信教の自由を守るという憲法の趣旨は没却されてしまうことになる。
信教の自由の保障は、宗教的少数者の人権保障である。藤林益三裁判官は追加反対意見において次のように述べている。
「たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されないのである。そこには、民主主義を維持する上で不可欠というべき最終的、最少限度守らなければならない精神的自由の人権が存在するからである。『宗教における強制は、他のいかなる事柄における強制とも明確に区別される。私がむりに従わされる方法によって私が裕福となるかもしれないし、私が自分の意志に反してむりに飲まされた薬で健康を回復することがあるかもしれないが、しかし、自分の信じていない神を崇拝することによって私が救われようはずがないからである。』(ジェファソン)。」
3.以上の諸点から明らかなように、信教の自由を十全に保障する為には公権力と宗教は無条件且つ完全に分離されなければならない。従って、仮に、最高裁が指摘する「かかわりあいが相当と考えられる範囲を超えている時」というような基準を導入するにしても、その解釈基準としては、当該の行為が客観的に見て単なる社会的儀礼ないし習俗と明確に判断されるのでない限り、常に相当性を超えるものとしなければならない。
第六、目的効果基準
一、目的効果基準の考え方はアメリカ判例法で形成されてきた司法判断基準であるが、日本国憲法の政教分離規定はアメリカ合衆国憲法のそれよりも詳細な規定の仕方をしており、より厳格な国家と宗教の分離を要請している。
ところで、アメリカ判例法において、目的効果基準が妥当するのは主として国家が宗教団体等に公費援助等をする場合である。公権力が主体となって宗教活動を行ない、または、直接に宗教に関与した場合は国教条項違反の有無を厳格に審査している。
我が国において仮に目的効果基準を適用するとしても、それは僅かに憲法第二〇条一項後段の特権付与の禁止の場面でその余地があるだけであって、同条三項の国の宗教的活動の禁止にこれを適用する余地は全く有りえない。
蓋し、国が一定の要件を充たす国民(もしくは団体)一般に利益付与をなす場合に、その中に偶々宗教団体が含まれているとき、宗教団体には利益付与をしないというのであれば、かえって国家の宗教に対する中立性が阻害され、信教の自由を侵害することになるが、その際、その利益付与が正しく国民一般への利益付与か、それとも宗教団体への特権付与の隠れ蓑にすぎないのかを区別するメルクマールとして目的効果基準は一応有用と言いうる。しかし、国が宗教活動を行なうことはそれ自体国家の宗教に対する中立性を阻害し、信教の自由に対する侵害の危険性を伴なうものであって、国家の非宗教性という政教分離原則からは当然に禁じられるのである。
従って、後者の場合、目的・効果を問題にすべきではなく、国の行なった行為の客観的性格が宗教活動性を有するか、それとも単なる習俗となっていると言えるのか、ということのみを問題とすべきである。
内閣総理大臣中曽根康弘の靖国神社への本件公式参拝は正に後者の場合に該当するところ、これをもって世俗的若しくは習俗的なものとは到底言い得ないことは既に述べたとおりである。
二、目的効果基準の解釈基準
1.アメリカ判例法において、目的効果基準に基づき政教分離原則の違反の有無を判断するに際しては、客観主義、予防主義、象徴主義ないし外観主義という適用原理に基づき厳格な適用がなされている。要は、政教分離原則に反するか否かは客観的に国の行為の意義を考えて判断しなければならず、国と宗教を結びつける要因となる国の行為を予め阻止すべきであり、宗教的多数派に対して国が支持をしているとみられるような外観を作り出す行為は許されないというものである。
そして、その背景にある考え方は、国家と特定の宗教が結び付けばその宗教を信じない者にとって非常な圧迫となり、例え、直接的な強制ではなくとも威圧感を与えたり、萎縮させることになり、ひいては信教の自由(特に少数者の)という内面的な自由は保障されず、従って、政教分離原則はこのような間接的な圧迫、強制からも信教の自由を保障するのだというものである。
即ち、政教分離原則は、多数派の国民と宗教上の意見を異にする少数派の自由を保障するうえで不可欠であって、右少数者の自由を守るためには政教分離原則は厳格に解されなくてはならないとするのである。
2.レモン判決の目的効果基準は、①法律は世俗的目的を持たなければならない、②その第一義的若しくは主要な効果は、宗教を助長したり、抑圧するものであってはならない、③法律は「宗教との過度のかかわり合い」を促進するものであってはならない、という三つの基準から成っているが、三つの基準のすべてを充たす必要はなく、その内の一つにでも抵触すれば、直ちに政教分離違反と判断される。
右の③の要件は、その後の政教分離関係諸事件において「主要な基準」とされるが、これは、「通常、政治的論争とか分裂とかは、われわれの民主的統治体制が正常かつ健全なことの証左である。しかし、宗教、宗派の線に添った政治的分裂は、修正一条(政教分離条項)が阻止しようとした主要な害悪の一つである。…そのような紛争によって分裂が惹き起こされるかも知れないと言うことは、正常な政治過程にとって脅威である。」というにある。
3.津地鎮祭事件最高裁判決は、公権力と宗教との関わり合いについて、目的、効果、諸般の事情を考慮し、「社会通念に従って客観的に判断しなければならない。」とする。
若し、右に言う「社会通念」が、多数者の意見ということであれば、このような判断方法は、政教分離に一定の限界を定めようとする場合に多数決原理を容れる余地を認めるものであり、多数の意志からも守られるべき少数者の自由としての信教の自由保障の意義を全く理解していないものと言う外なく、我が国における宗教的雑居性、とりわけ神道に対する許容性からすれば、右のような判断基準では、国と神社神道との関わりのほぼ全てが憲法上許されるということにならざるをえない。
何故なら、国家が神道的なものに関与しても多数の国民に違和感なく受け入れられているからその宗教的意義は希薄であり、従って、それは儀礼的行為ないしは社会的儀礼の範囲のものであり、また「効果」の面でも宗教の援助・助長とならない、と判断しうるからである。
しかし、これは正しく「神社神道は宗教に非ず」との戦前への回帰である。
先に見たアメリカ判例法における目的効果基準にはこのような「社会通念」なる曖昧な概念は用いられていない。
4.愛媛玉ぐし料訴訟第一審判決(松山地判一九八九年三月一七日、判例時報一三〇五号二六頁)、岩手靖国訴訟控訴審判決は、最高裁の言う目的効果基準に依拠しながらも、アメリカ判例法で形成された合憲性テストの原理を厳格に適用している。
即ち、「目的」テストについては右両判決は、それぞれ客観主義に基づき、玉ぐし料の支出、内閣総理大臣の公式参拝等は、その主観的意図ないし目的が戦没者に対する追悼であっても、これを客観的に観察するならば追悼の面とともに祭神に対する礼拝という面を有していると考えざるを得ないとし、行為者の主観的意図、目的が何であれ、それがもつ客観的意義を重視すべきであるとする。
また、「効果」テストでも両判決は、予防主義、象徴主義若しくは外観主義を採り入れている。即ち、愛媛玉ぐし料訴訟一審判決は、愛媛県の玉串料支出は、「愛媛県と靖国神社との結び付きに関する象徴としての役割を果たしている」との観点から、政教分離規定が広い適用範囲をもつことを明らかにした。同判決は「経済的側面からみると、靖国神社の宗教活動を援助、助長、促進するものとまでいえなくとも、精神的側面から見ると、右の象徴的な役割の結果として、靖国神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有する」。仮に、これが一回限りの支出であったとしても、靖国神社と愛媛県との間に「他の宗教団体との間には見られない特別の結び付きを生じる結果となる」。そして「それが広く知られるときは、一般人に対しても靖国神社が他の宗教団体と異なる特別なものであるとの印象を生じさせ、あるいはこれを強めたり固定したりする結果となる」。ましてやこのような支出が、本件のように継続されるときには、両者の結び付きは無視できないものとなり、「それが広く知られるときは、一般人の靖国神社に対する見方や態度に対しても重大な影響が及んでいく可能性が大きくなっていくのを避けることはできない」。ひいては「同神社の祭神に対しては各人の信仰の如何に拘らず畏敬崇拝の念を持つのが当然である、との考えを生じさせ、あるいはこれを強めたり固定させたりする可能性が大きくなっていく」として、玉ぐし料支出の「象徴的」効果を強調する。
また、岩手靖国訴訟控訴審判決においても、内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は、国が靖国神社を公的に特別視し、優越的地位を与えているとの印象を社会に与え、特定の宗教団体への関心を呼びおこすとし、その公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響および将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すると公式参拝は政教分離原則に反するものと言わざるを得ないとし、潜在的波及効果をも含めて効果テストを適用している。
第七、本件公式参拝の目的と効果
本件公式参拝は、最高裁判所が津地鎮祭事件判決において示した目的効果基準によっても、その目的が宗教的意義を有し、そして、その行為の態様からみて特定の宗教に対する援助、助長、促進等になるような効果をもたらす行為であることは明らかと言うべきである。その理由は以下のとおりである。
一、本件公式参拝の目的
1.目的の判断方法
被控訴人は、「国民や遺族の多くから戦没者追悼の中心的施設であるとされている靖国神社において、あらかじめ戦没者の追悼という非宗教的目的で行うことを公にした」から、本件公式参拝の目的は宗教的意義を有しないと主張している。しかし、右主張は根本的に誤っている。
津地鎮祭事件最高裁判決が示した目的及び効果の判断基準は大要次のとおりである。
即ち、①当該行為の外形的要素(主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど)、②当該行為の行われる場所、③当該行為に対する一般人の宗教的評価、④当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、⑤当該行為の一般人に与える効果、影響等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断する、と言うものである。
右判示は、要するに「目的」「効果」の判断について、客観性を強く求め、そのことによってかかわりあいの相当性を認定しようとしているものと解される。従って、「一般人の宗教的評価」「社会通念」と言うのも、単なる既成事実とか多数遺族の信条とかではなく、政教分離原則に則った憲法上の概念としてのそれであって、信教の自由の保障は多数決に馴染まないという視点を含めなければならないが、もとより、単に「非宗教的目的で行うことを公にした」からといって、本件公式参拝の目的が客観的に宗教的意義を有していないと判断されるということにはならない。しかも、右声明が真実の主観的意図であったかどうか自体、中曽根康弘の軽井沢セミナーにおける講演や公式参拝に至る諸経過に照らすとはなはだ疑問である。
以下本件公式参拝の目的が客観的に宗教的意義を有していることを明らかにする。
2.本件公式参拝の目的
既に記述したとおり、靖国神社は、戦没者を祭神として奉斎し、神道の祭祀を行うことを目的とする神社であり、靖国神社への参拝は、靖国神社の祭神への礼拝という意味を持っている。仮に、参拝の目的、主観的意図が追悼であっても、客観的には追悼の要素とともに靖国神社の祭神に対する礼拝とう側面があり、追悼目的をいくら強調してみたところで、祭神への礼拝という宗教的側面を否定することはできないのである。すなわち、靖国神社に祀られている戦没者に対する追悼を目的とする参拝は、とりもなおさず靖国神社の祭神に対する畏敬崇拝の念を表す宗教的行為であり、追悼と礼拝の両者は不可分一体であって、明確に区別することはできない。
要するに、当該行為が宗教行為であるか否かは、単なる主観的意図の表明というようなものによって左右される性質のものではなく、あくまで客観的に判断されるべき事柄であって、宗教施設を有する靖国神社の本殿や社殿において参拝する行為は、外形的、客観的には神社、神道とかかわりあいを持つ宗教的行為である。
よって、本件公式参拝の目的は、宗教的意義を有しており、単なる一片の声明で以って本件公式参拝のもつ宗教性を排除ないし希薄化することはできない。
3.中心的施設論と目的評価との関連
被控訴人は、本件公式参拝の目的が宗教的意義を有しないことの理由の一つに国民や遺族の大多数が靖国神社を戦没者追悼の中心的施設であると考えていることを挙げている。
然し乍ら、靖国神社を「追悼」の中心施設と見ることについては、未だ国民的合意は得られておらず、却って、大多数は批判的であると言うべきであるが、一方、同神社が宗教施設であることは全ての国民に異論の無い事実であるから、仮に遺族の中に同神社を追悼の施設と考え、そのような心理を抱く者がいたとしても、そうだからと言って参拝行為が非宗教ないし無宗教の行為となるわけではない。このことは、東京千鳥が淵において行われている宗教色を持たない追悼行事と比較してみれば、一目瞭然であり、いかに追悼の側面を強調しようとも、靖国神社が宗教施設で有る限り、そこに参拝することは祭神への礼拝という宗教的意義を持たざるを得ないのである。
二、本件公式参拝の効果
1.内閣総理大臣であった中曽根の本件公式参拝は、国が靖国神社を公的に特別視し、他の宗教団体に比して優越的地位を与えていること、ないしは靖国神社が他の宗教団体と異なり特別のものであるとの印象を社会一般に生じさせ、或いはこれを強めたり固定したりする効果を持っている。しかも、本件公式参拝は、国民注視の中で行われ、かつマスメディアにおいて大々的に報道されたのであるから、右効果は絶大であった。その結果、ひいては、靖国神社の祭神に対して各人の信仰如何にかかわらず畏敬崇拝の念を持つのが当然であるとの意識を生じさせ、ないしは一宗教団体である靖国神社への関心を呼び起こし、あるいはこれを強めたり、固定したりする効果を広く社会一般に与えた。
特に、わが国においては、戦前長年にわたって靖国神社が深く国家と結びついてきた歴史があり、また、諸宗教が併存し、多層を成しており(例えば、一人の人間がある神社の氏子でありながら、同時に他の寺院の檀家でもあり、時にはさらに別の宗教の信者でもあるといった実体がある)、このような日本国民の信仰に関する多元的重層性あるいは宗教性雑居性を踏まえて考察すると、本件公式参拝は、各自の信仰如何にかかわらず靖国神社の祭神に対して畏敬崇拝の念を持つのが当然であるとの意識を広く定着させる大きな影響をもたらしたと評価される。すなわち、信仰の多元的重層性あるいは宗教的雑居性といわれる現象の認められる国民意識と、戦前において靖国神社が国家護持され、そしてその祭神が国家の祭神として国民に信仰されてきた歴史とが相乗することによって、多くの国民に対し、自らの信仰を保持しながら違和感を覚えることなく靖国神社の祭神に対する畏敬崇拝の念を浸透させ、定着させる素地があるということができるからである(以上は松山地裁一九八九年三月一七日判決が採用しているところである)。
2.なお、津地鎮祭事件最高裁判決は、地鎮祭について右の信仰の多元的重層性・宗教的雑居性に関する実体から、「一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられない」としているが、右結論の当否は別として、地鎮祭と本件公式参拝とは、全く異なった次元の問題であるから、本件公式参拝については右最高裁判決のような結論を導き出すことはできない。なぜなら、信仰の多元的重層性・宗教的雑居性という実態は、世俗的な社会儀礼については一般人の宗教的関心を高めることとはならないが、国家機関の宗教的色彩が濃厚な靖国神社への参拝という行為に対しては、それを宗教的信仰とはっきりと意識させないまま、靖国神社の祭神に対する畏敬崇拝の念というそれ自体宗教的信仰の意識を喚起するという二重の作用を持っているからである。
しかも、本件公式参拝は、靖国神社と国家との結びつきに関する象徴としての役割を果たしている。戦後も連綿と靖国神社を国家護持しようという動きが続けられており、こうした動きの中で、本件公式参拝は国家護持を実現していく手段と位置づけられてきたからである。このような象徴的な役割の結果として、本件公式参拝は靖国神社の宗教活動を精神的に援助、助長、促進する効果を有している。更に、本件公式参拝は、内閣総理大臣の八月一五日の公式参拝を継続させ、そして、靖国神社のあらゆる祭祀への公式参拝へと拡大し、遂には天皇を含む全ての国家機関や地方公共団体の公式参拝に先鞭をつける重大な要因となり、その他、公式参拝以外の様々な形で靖国神社と国家との結びつきを強める契機となる。このようにして直接的・顕在的効果ばかりでなく、将来予測される間接的・潜在的な影響は計り知れない。
現に、天皇の訪中問題にからんで天皇の靖国神社公式参拝を先に実現すべきであるというような主張が為されている(<書証番号略>―朝日新聞抜粋)
以上のとおり、本件公式参拝は、国が靖国神社に特別の地位を与えているとの印象を生成・強化し、国と靖国神社との結びつきに関する象徴的役割を果たし、将来にわたる一層の結びつきを拡大する影響を与えているのであるから、靖国神社及び靖国神社の祭神に対する信仰を援助、助長、促進する効果を持っていることは明白である。その結果、靖国信仰を有しない者に対して、靖国神社の祭神を信仰するよう圧迫・干渉し、信教の自由を脅かす効果を招来している。
そして、政教分離原則の根本目的に反する効果を有していることは、もはや一点の疑う余地も無い。
右結論は、本件公式参拝のように例え方式に配慮し「追悼という非宗教的目的である」ことを表明したところで、些かも左右されるものではない。
蓋し、本件公式参拝は靖国神社の祭神に対する礼拝、即ち、その畏敬崇拝を表す行為であり、右のような方式の配慮や表明が有ったとしても右の行為の本質には何ら変わりはないからである。
尚、福岡高等裁判所は、一九九二年(平成四年)二月二八日の福岡靖国訴訟判決において、「政府は宗教的行為でないと説明した」と判示しているが、政府は、本件公式参拝が憲法で禁じられた宗教的活動ではない旨の表明はしたものの、国家と宗教とがかかわり合う行為であること自体は認めているのであるから、右認定は明らかに事実誤認である。また、同判決は、右の点の外「公式参拝はその時の一回だけに止まりその後は行われていない」事実を理由に「本件公式参拝は、国が靖国信仰を公認し、国民に習うべきものとして範を示したものとはいえない。」と認定しているが、公式参拝が一回に止まっているのは、内外、とりわけアジア近隣諸国からの厳しい批判を受けた結果として偶々そうなっているだけであって、政府が元来企図したものは継続的、垣久的なものであり、更には底流として靖国神社国家護持の動きに連なっている。この点につき、大阪高等裁判所は、いわゆる関西(京都・大阪)靖国訴訟控訴審判決(平成四年七月三〇日宣告、判例タイムズ七八九号九四頁)において問題点を正しく指摘し、「一回限りのものとして行われたのではなく、将来も継続して、…公式参拝をすることを予定してなされたもので、単に、儀礼的、習俗的なものとして行われたものとは一概に言い難い」と断じている。
三、以上のとおり、本件公式参拝は、その目的が宗教的意識を持ち、靖国神社ないし靖国神社の宗教活動を援助、助長、促進し、信教の自由に対して干渉、圧迫する効果を有しているから、本件公式参拝における国と靖国神社との宗教上のかかわり合いは、政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えているものと言うべきである。
四、尚、大阪高等裁判所は、前掲関西靖国訴訟控訴審判決において、本件公式参拝の効果を次のようにまとめ、本件公式参拝は違憲の疑いがあると判示している。
「①靖国神社は、宗教法人法に基づき、東京都知事の認証を受けて設立された宗教法人(宗教団体)であって、神道の教義をひろめ、そのための儀式・行事を行い、信者を教化・育成することを目的とし、そのための社殿等の施設を有する宗教団体(神社)であること、②したがって、このような宗教施設を有する靖国神社の本殿や社殿において、参拝する行為は、それが、靖国神社の主宰するものではなく、且つ、戦没者の霊を慰めることを主目的とするものであっても、外形的・客観的には、神社、神道とかかわりをもつ宗教的活動であるとの性格を否定することはできないこと、③わが国の衆議院法制局長等の政府機関は、かって、内閣総理大臣やその他の国務大臣が、国の機関(公人)として靖国神社に公式参拝することは、憲法二〇条三項所定の宗教的活動に該当し、政教分離の原則に抵触するとの見解を取り、政府も、靖国懇報告が出されるまでは、公式参拝は、違憲ではないかとの疑いを否定できないとする見解を取っていたこと、④本件公式参拝の行われた昭和六〇年当時は勿論のこと、現在においても、内閣総理大臣やその他の国務大臣が、国の機関として、宗教団体である靖国神社に公式に参拝することに対しては、強く反対する者があり、未だ、右公式参拝を是認する圧倒的多数の国民的合意は、得られていないこと、⑤内閣総理大臣や国務大臣が国の機関として公式に靖国神社に参拝した場合のわが国の内外に及ぼす影響は、極めて大きいこと、⑥そして、現に、中曽根が、本件公式参拝を行ったことに対し、日本国内では、日本キリスト教協議会、新日本宗教団体連合会、真宗教団連合、日本キリスト教団、全日本仏教会、日本カトリック司教協議会、日本バプテスト連盟等の宗教団体、日本婦人有権者同盟、国民文化会議、靖国神社公式参拝問題についての憲法研究者団体、靖国違憲訴訟全国連絡会議、自由人権協会等の市民団体、その他から抗議の声明等が多く寄せられ、外国からも、中国を始め、フィリピン、シンガポール、南北朝鮮、香港等から反発と疑念が表明されたこと」、そして、前記のように本件公式参拝が一回限りのものとして行われたものではないこと、の七点に亘る各事実を認定し、「右のような本件公式参拝の行われた場所、本件公式参拝が一般人に与える効果、影響、その他右の諸事情を総合し、社会通念に従って考えると、昭和六〇年当時におけるわが国の一般社会の状況の下においては、中曽根の行った本件公式参拝は、憲法二〇条三項所定の宗教活動に該当する疑いが強く、公費から三万円を支出して行った本件公式参拝は、憲法二〇条三項、八九条に違反する疑いがある」
第八、控訴人らの権利(被侵害利益)
一、宗教生活におけるプライバシー権(宗教的人格権)
控訴人らは被侵害利益ないし権利の一つとして宗教的プライバシー権を主張している。これは要するに宗教的生活におけるプライバシーの権利である。
即ち、プライバシー権は、私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として認められてきたが、その後やや広く理解され、他人から干渉されないで放っておいてもらう自由と解されている。
一方、人の死の内、肉親の死についてどのように受け止め、位置づけるかは、個人の私生活上の重大な利益の一つと言えよう。国家であれ、私人であれ他者から宗教的意味付けをされない自由、宗教事項に関しては干渉されない自由が考えられ、これらを宗教的プライバシー権として観念することができる。
プライバシー権は、実定法上明記されている訳ではない。そしてまた、その権利の内容は、「個別的・主観的・抽象的」であるが、判例、学説上その権利性は確立している。従って、宗教的プライバシー権は、権利の性格上、ある程度抽象的、主観的ではあるが、単に「実定法上の根拠を欠く」「明確性を有しない」と言うことを以って直ちに権利性を否定することは出来ない。
憲法一三条は、個人の尊重・幸福追及権を保障しており、改めて指摘するまでもなく、この規定に依拠してプライバシー権や肖像権という新しい人格権が認められてきた。幸福追求権は人格権の基礎であり、一方、政教分離原則は国家の世俗性を内容とし、宗教は国家から完全に分離され、私事(プライベイトな事柄)として位置付けられる。この両者を総合することによって「国家から介入されない自由で平穏な宗教生活の権利」としての宗教的プライバシー権が保障されるに至っていると解すべきである(<書証番号略>・五七〜五九頁)。
なお、遺族の死者に対する思いが保護されることは角膜及び腎臓の移植に関する法律や、死体解剖保存法にもその趣旨が窺えるものである。
二、死者に対する意味付けをされない自由
ところで、宗教的プライバシー権のうち、控訴人らが特に控訴審で強調したのは「国家から死(者)に対する誤った意味付けをされない自由」である。
ここにおける「死の意味付け」とは遺族にとって文字通りいろいろな意味付けが考えられる。例えば天寿を全うして「幸福な死」と意味付ける場合もあろうし、逆に若くして亡くなり「残念な死」と意味付けることもあろう。
あるいは「誰か(何か)の為に役立った死」と意味付けることもあろう。更には「これが運命だ」として、特別な意味を付けない「意味付け」もあるかもしれない。しかし、いずれにせよ重要なことは、あくまで遺族が自己のそれぞれの宗教的立場ないし非宗教的立場において他人から干渉・介入を受けないで死を考え、故人に対する思いを巡らせる自由が保障されなければならないということである。
換言すれば、他人、とりわけ国家は、その人の死について勝手に死の意味付けをすることは、許されないということである。
控訴人梶原清子は、先の戦争で亡くなった実兄を靖国神社が遺族の意思に反して「英霊」としていることは耐え難い苦痛であることを指摘した。
三、信教の自由を間接的にも圧迫されない権利
1.憲法二〇条は信教の自由を保障しているが、これは直接的強制による侵害を受けない自由のみならず間接的強制(圧迫)による侵害も受けない自由をも含むものとして理解される。
この憲法上の根拠として、①憲法二〇条一項のみ、②或いは憲法一項と三項が相俟って、更には③憲法二〇条三項のみから導かれるとするなど様々な考え方があるが、いずれにせよ重要なことは、憲法が「直接的強制からの自由」だけを保障したのではないということである。
このことは、憲法が戦前の過酷な宗教弾圧に対する反省から生まれたものであること、憲法が信教の自由に関して詳細かつ具体的に規定していること、今日では直接的強制による侵害は考えられず、むしろ間接的強制を防ぐことが重要であることに鑑みると、正しく憲法は間接的強制からの信教の自由をも保障していると考えられるのである。
この点につき横田耕一九州大学教授は「要は憲法二〇条が何を保障しているか」について、「直接、間接的強制からの自由」「或いはそういう自分の信仰を貫徹できない不安からの自由」であると指摘し、以下の通り述べている(<書証番号略>)。
(問)結局、政教分離によって守ろうとする範囲ですね。その政教分離を徹底して、国からどういうことを、どういう強制とかですね。あるいは、強制でない場合にも、国から何らかの行為があるわけですけれども、その行為の内、どういうものを禁止しようというふうにしてるんでしょうか。
「要するに、自由に何の侵害も無く心のままに不安もなく信仰を達成できる、貫徹できる、そういう自由を保障しようとしているわけですね。だから、それは、具体的には、直接的な強制によって侵害される場合もあるし、戦前のように間接的な強制、そういうものによって強制されることもあるわけですね。」
(問)直接的強制という場合には、この国のいうことを聞かなければ刑務所に入れると、あるいは、首を切るという形でやれば、直接強制ということでよく分かるんですけれども、間接的強制というと、どういうことを間接的強制というんでしょうか。
「いきなり首に繩をつけられて引っ張られているわけではないけれども、何かをしなければそういう事態になりかねないと。あるいは、自分の信仰を曲げなければどこかから圧力がかかってくるという不安によって自分の信仰を曲げていくという、そういう状況が起こってくる。それが、今言った自由を侵害してる部分になってくるわけですね。だから、首に繩をつけなくても、首に繩をつけられるかも知れないという不安、あるいは、首に直接繩がつけられなくても、全体的状況からあることをせざるを得ない。直接的にこうしろとは引っ張ってはいないけれども、全体の雰囲気としてそうせざるを得ないような状況、それが、今言った首に繩をつける、あるいは、牢屋にほうり込む以外の場合の状況だといえましょう。」
(問)そうすると、証人の場合は、ここに憲法に政教分離原則を掲げたということから、当然に、その自らの信仰を貫徹する上で何らかの国家からの圧力を受けることはないという人権、権利が保障されているというふうに考えておられるわけですか。
「政教分離原則といってもいいけれども、私は、先ほど言いましたように、具体的に二〇条、八九条によってそういう自由が保障されていると。だから、特にそれをどこで保障されているかということは、後で問題になりましょうけれども、要するに、二〇条、八九条で、そういう自由が総体として保障されているということですね。」
2.原判決は、「憲法二〇条」が全体として何を保障しているを考察せず、これを分断し、一項は「直接的強制の要素」を要する、三項は制度的保障規定である、よって、間接的強制からの自由を保障したものではないと単純に帰結する。
この三項の解釈につき、ワイマール憲法第二部「ドイツ国民の基本権及び基本義務」の解釈において、C・シュミットによって主唱されたいわゆる制度保障論は妥当しない。即ち、制度的保障は、私有財産制度のように、現存する、組織された制度の存在を前提とするが、政教分離について予めそのような制度が存在するわけではなく、また、「人権、とくに自由権は、元来制限の無いことを前提とする前国家的権利性をその内実とするから、国家を前提とし、法律によってその具体的内容が規定されていることを予定する『制度的保障』は質的にこれと相入れない性格をもっている」のである(佐藤幸司「憲法」)。
そもそも一項と三項を分断して各々の適用範囲を狭く解するならば、何の為にわざわざ三項を設けたのか不可解といわざるをえない。常識的には一項の保障を貫くために三項が設けられたのであるから、三項違反は一項の保障を貫くために三項が設けられたのであるから、三項違反は一項と連動するにせよ、しないにせよ、個人の信教の自由をより広く保障するものと考えられるのである。
3.以上述べてきたことを纏めれば、国家と神道とが結びつけば直ちに個人の信教の自由の侵害があるものと言うべきである。しかるところ、本件公式参拝は、国家と神道が結びついた行為であり、従って、必然的に神道を信じない者の信教の自由を圧迫して侵害したと認められるのである。
第九、国家賠償法上の違法性
一、不法行為ないし国家賠償法上の違法性判断については相関関係説が通説である。相関関係説によれば、侵害行為が違法かどうかの判断は、侵害行為が、厳密な意味の法令違反の場合を当然含みつつ、更に人権尊重・公序良俗・権利濫用・信義誠実・条理・社会通念などから広く導かれる「規範」に違反したかどうかの判断との相関関係によるものなどであるから、単に宗教的プライバシー権等の権利性を否定しただけでは違法性を否定したことにはならないことは、これまでも述べてきたところである。
二、控訴人らは、原審以来、これまで繰り返し、内閣総理大臣中曽根康弘の本件公式参拝行為が憲法二〇条に違反するものであることを述べてきた。ここで注意すべきは、中曽根による侵害行為の態様が憲法という最高規範に日本全国にわたる広範囲の注視の中で公然と違反して故意に行われ、その意味では、その不法性は最大規模のものであるということである。
このような余りにも著しい規範違反がある時は、侵害行為の態様・内容が著しく不法であるが為に、被侵害利益が未だ十分強固なものでなくとも、相関関係説からは違法であると認定されるのである。控訴人らがこれまで主張してきたように宗教的プライバシー権等の権利性については疑いの余地がない。況んや、控訴人らの被侵害利益が法的保護に値する利益であることは何人も否定できない。だとすれば、相関関係説からは、内閣総理大臣中曽根康弘の行為は明らかに「違法」と認められる。
三、ところで、最高裁は、一九八八年(昭和六三年)六月一日、自衛官合祀事件判決において、第一、二審判決が認めた「宗教上の人格権=静謐な宗教的環境の下での信仰生活を送るべき利益」について、これを直ちに法的利益として認めることは出来ないとしたが、その理由は、それを認めて損害賠償や差止めを請求できるとすると「かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは見やすい」と言うに有る。つまり、右判決は、私人間での信教の自由の衝突が存する場合について、その限りにおいて法的利益性を否定したものであって、一般論としての「宗教上の人格権」そのものを否定したわけではない。
本件公式参拝の場合、国家(公権力)には一切の宗教行為が禁じられ、他方、国民には不可侵の権利として信教の自由が保障されているのであるから、信教の自由相互の衝突という場面は有りえず、従って、本件について右判決の論旨を及ぼす余地は全くなく、伊藤正己裁判官が、反対意見において指摘しているところがそのまま妥当する。
即ち、同裁判官は、当該自衛官合祀事件の争点は不法行為責任の有無であるとし「被侵害利益と侵害行為の態様との相関関係において考察する必要のある問題である」とする。そして、より一般的に「現代社会において、他者から自己の欲しない刺激によって心を乱されない利益、いわば心の静謐の利益もまた、不法行為上被侵害利益となりうる」としたうえ、この利益が宗教上の領域において認められるとき「呼称や憲法上の根拠はともかくとして、少なくとも、このような宗教上の心の静謐は不法行為法上の法的利益として認められる」としているのである。
尚、本件控訴人らが受けた侵害利益は、単に「心を乱されない」と言う程度の利益に対する侵害ではなく、控訴人らの良心・宗教上の自由等が圧迫、干渉を受けたという性質のものであるが、仮に、控訴人らが受けた被侵害利益が強い「不快感」であるとしても、本件侵害行為の強度の違法性(憲法違反)との相関関係において、法的に保護される利益になりうるのであるから、本件公式参拝の違憲性を判断しなければならないのである。
因みに、横田耕一九州大学教授は、本件公式参拝は圧迫された不安感を与えるものであるとした上で次のように述べる(<書証番号略>)。
「私はそういう意味でそれは二〇条の保障する人権に、それはどこで構成しようとその人権に違反するというように考えているわけですね。それは憲法上の議論です。憲法上の権利を侵害していると考えます。しかしながらもう一方ではもちろん、単なる不快感、単なる不安というものも、仮にそうであるとしてもその不安、不快ということも十分にこれは保護するに値する利益として考えられるわけですね。これは憲法上の人権として仮に構成できない場合としても、それは一種の人格権として不安、不快感を持たないということはあり得るわけです。その不快感が完全に全く空中的なものであるならばこれは問題になりませんけれども、私はそれなりの実態があると思います。保護されるに値するような不安感があるだろうと思うわけですね。従って、もし、国のやっている行為がその不安感をもたらした行為に違法性が強い場合には当然これは法的に、民法上の問題として問題になり得るというように考えております。」
第一〇、結語
一、一九八五年(昭和六〇年)八月一五日、当時の内閣総理大臣中曽根康弘及び閣僚の多くが靖国神社に公式参拝して以来、丸七年を経過した。
内閣総理大臣中曽根康弘が公式参拝に踏み切ったその同じ年の五月八日、当時のドイツ連邦共和国(西ドイツ)ヴァイツゼッカー大統領は、連邦議会において戦後四〇周年を記念する追悼演説を行い、「…過去に目を閉ざすものは現在にも盲目になる…」(<書証番号略>)と呼び掛け、戦争責任に関する問題は世代を超えて担っていかなければならないと訴えて全世界に感動を与えた。
他方、我が国行政府の最高責任者であった中曽根康弘は、同年七月二七日開催された自由民主党の軽井沢セミナーにおいて「国に殉じた人を国民が感謝するのは当然のこと、さもなくば誰が国に命を捧げるか」(<書証番号略>・一八五頁年表)などとする発言を為し、内外の強い批判の中、公式参拝を強行した。ヴァイツゼッカー大統領の演説と中曽根康弘の言動を対比する時、我々は改めてその落差の大きさを嘆かずにはいられない。ヴァイツゼッカー大統領の演説に則して言えば、中曽根康弘の公式参拝は正しく「過去に目を閉ざし」「非人間的な行為を心に刻もうとしない」行為であり、当然のこと乍ら、諸外国とりわけ日本軍国主義の軍靴に踏みにじられたアジア近隣諸国からの厳しい批判を受けるに至った。
ヴァイツゼッカー大統領は、先の演説について、それは「人々の意識を鮮明にするため貢献しようとしたもの」であり、しかし、「自らと己の歴史にけじめを付けることは、全くそれぞれの民族に委ねられた事柄である」とも言っている。我々は、その指摘の重みを噛み締めなければならない。控訴人らが、原審における本人尋問においてこもごもヴァイツゼッカー大統領の演説を引用しているのは、控訴人ら自身が、過去に目を閉ざすこと無く、自らと己の歴史にけじめを付ける為に本訴を提起するに至ったことを宣明すると同時に、裁判所に対しても、過去に目を閉ざすことなきを切に願ってのことである。
二、一国の法制度が民主的に機能するか否かは、法の実現において国民がいかにその役割を果たすかによって決まる。国民が、裁判を通じてその権利を主張し、法の支配の確立を担おうとすることは民主主義社会の不可欠の基盤である。従って、法の実現における国民の役割を評価、歓迎し、それを容易にするのが民主的な法のあり方と言うべきである。
このような、法の実現における国民の役割や、国民がその信託に基づく国家機関の行為を監視し、そこに非がある場合これを是正するための手段をとることは国民主権から導かれる当然の要請であることを考えると、これに応える為には、その司法手段として民衆訴訟制度が完備されていなければならない。ところが、わが国における民衆訴訟制度は極めて不備である。そこで、その不備を補完し、行政に対する民主的統制の手段として、国家機関の違憲・違法行為の抑止を目的とした損害賠償請求訴訟の必要性と重要性が認識されなければならない。
別紙二 被控訴人の主張
一はじめに
控訴人らは、原判決について、「憲法判断を回避」したものである旨批判し、いわゆる公式参拝についての憲法判断が不可欠である旨主張する。
しかし、原判決が、昭和六〇年八月一五日に当時の内閣総理大臣たる中曽根康弘がその内閣総理大臣としての資格で靖国神社に参拝したこと(以下「本件公式参拝」という。)が憲法二〇条三項に規定する宗教的活動に該当するか否かについて判断を示さなかったのは、後述するとおり、本件が被控訴人国に対する慰謝料(損害賠償)請求訴訟であり、その結論を導くについては右の点に関する判断が全く不要であることによるものであって、極めて当然のことである。
二損害賠償請求権の不存在
控訴人らは、本訴において、本件公式参拝は憲法二〇条一項後段、三項及び八九条の定める政教分離原則に違反するとともに、憲法上保障された控訴人らの信教の自由、「宗教的人格権」、「宗教的プライバシー権」及び「平和的生存権」を侵害するものであり、その結果、控訴人らにおいて精神的苦痛を受けたとして、被控訴人国に対し国家賠償法(以下「国賠法」という。)一条に基づき慰謝料の支払(損害賠償)を求めているが、以下述べるとおり、いずれの観点から本件を検討してみても、控訴人らについて国賠法一条にいう損害賠償請求権は成立する余地がないというべきである。
1 本件公式参拝の合憲性
本件公式参拝に至る経緯及び右参拝の概要については、原審で述べたとおりである。これに対し、控訴人らは、本件公式参拝は憲法に定められている政教分離規定に違反するとし、具体的には、本件公式参拝は憲法二〇条三項に規定されている宗教的活動に該当し、右参拝に際して公費から供花料名下に三万円が支出され、靖国神社に交付されたことは憲法二〇条一項後段及び八九条に違反すると主張しているが、かかる主張は以下に述べるとおり明らかに誤りである。
まず、前者の本件公式参拝が憲法二〇条三項で禁止されている宗教的活動には該当しないことについて述べると、右宗教的活動に該当するか否かの判断基準については、既に、最高裁判所昭和五二年七月一三日大法廷判決(いわゆる津地鎮祭上告審判決)(民集三一巻四号五三三ページ)によって明らかにされている。すなわち、同判決によれば、憲法二〇条三項にいう「宗教的活動とは……およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである」とされ、「ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない」とされているところであり、その後の最高裁判所昭和六三年六月一日大法廷判決(いわゆる自衛官合祀訴訟上告審判決)(民集四二巻五号二七七ページ)においても同旨の判断が繰り返されていることからすれば、この目的効果基準は既に判例上確立したものと考えられる。
そこで、これを本件についてみると、まず、本件公式参拝の目的は、戦没者を追悼し、併せて我が国と世界の平和への決意を新たにするというものであって、このような戦没者を追悼する等の目的が宗教的意義を有するものでないことは明らかであり、祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者の追悼を行うことは、祖国や世界の平和を祈念し、また、肉親を失った遺族を慰めることでもあり、宗教・宗派、民族・国家の別などを越えた人間自然の普遍的な情感である。次いで、その方式についてみても、靖国神社自体は確かに宗教施設であるが、同時に国民や遺族の多くによって戦没者追悼の中心的施設と考えられている場所でもあり、同所において、あらかじめ戦没者の追悼という非宗教的な目的のために実施されるものであることを公にし、しかも同神社の儀式としてではなく、神職による主宰もなく、その方式も神道の儀式を排除して、直立し、黙とうの上一礼するという戦没者の追悼にふさわしいものであって、宗教的意義を有しないことは明らかである。さらに、本件公式参拝は、国民や遺族の多くが靖国神社において総理大臣その他の国務大臣によって戦没者の追悼がなされるべきであるという強い希望があるという事情を背景としてなされたものであり、同神社に戦没者が神として祀られていることに注目して行われたものではない。これらの諸事情を総合すれば、社会通念上、本件公式参拝はその目的において宗教的意義を有せず、その効果においても靖国神社あるいは神社神道に対する援助、助長、促進となるような行為ではなく、また他の宗教に対する圧迫や干渉となるような行為でもないことは明らかである。本件公式参拝は宗教とのかかわり合いが相当とされる限度を超えるものではなく、したがって憲法二〇条三項にいう宗教的活動に該当するものではないというべきである。
また、本件公式参拝に際して支出された三万円は、中曽根元総理大臣が戦没者追悼の気持ちを表すための供花料であって、その購入代金として花屋に対して支払われたものとみるべき性質のものであって、同神社へのいわゆる玉串料ではない。すなわち、右金員は随行の総理大臣秘書官から靖国神社に現金で手交されているが、これは、同神社が中曽根元総理大臣からあらかじめ生花を購入して本殿に配置してもらいたい旨の依頼を受けていたことに基づくものであって、右金員はその後靖国神社から花屋に支払われているものである。この供花料が社会的儀式の範囲内のものであることは明らかであり、これをもって憲法二〇条一項後段にいう、「国から特権を受け」たことにも、同法八九条にいう「宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため」支出されたことにも当たらないことはいうまでもない。
以上のとおり、本件公式参拝は憲法に規定されている政教分離規定に何ら抵触するものではない。しかし、本件が国賠法に基づく損害賠償請求訴訟であるという観点に立ち戻って考えてみると、そもそも本件公式参拝が憲法上の政教分離規定に違反するかどうかということは、その請求の当否を判断するためには全く不必要な論点である。
以下、このことを明らかにするとともに、本件が国賠法に基づく請求であるということにかんがみ問題とすべき真に主要な論点について順次被控訴人の従来からの主張を整理して述べることとする。
2 第一の論点は、憲法の政教分離規定に違反するということだけで、国賠法上の違法性が肯認できるかどうかということである。
前記のとおり、本件公式参拝は何ら政教分離規定に違反するものではないが、この点をひとまずおくとしても、そもそも政教分離規定に違反するということ自体は国賠法上の違法性を基礎づけることにはならないこと、換言すれば、国賠法上の違法性を基礎づける事実として公務員の行為が政教分離規定に違反していると主張することは、主張自体失当であることについて述べる。
すなわち、原審で詳述したように、国賠法一条にいう違法性は、突極的には他人に損害を加えることが法の許容するところかどうかという見地からする行為規範性を内容としており、それは公務員としての行為規範違反、すなわち、職務上の法的義務違反としてとらえることができるものであり、この場合の職務上の義務は単なる内部的な公務員法上の義務では足りず、第三者(被害者)に対して負う職務上の法的義務でなければならないのである。このことは、最高裁判所昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決(いわゆる在宅投票制度訴訟上告審判決)(民集三九巻七号一五一二ぺージ)において、国賠法一条による国家賠償責任が生ずるためには「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別に国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたとき」でなければならないと判示されているところでもある。そして、内閣総理大臣が負っている政教分離規定遵守義務は、その性質上主権者たる国民全体に対して負担しているものであって、個別の国民に対して負担するものでないことは既に原審において詳述したとおりであるから、憲法の政教分離規定に違反するということをもって国賠法上の違法性を基礎づけることはできない筋合いである。
3 第二の論点は、本件公式参拝によって控訴人らの信教の自由が侵害されたといえるかどうかということである。
国賠法一条は直接個別の国民の何らかの法的利益を保護することを目的とする規定であるから、公務員による憲法の政教分離規定違反の行為が国賠法上も違法となるためには、政教分離規定違反の行為が同時に国民個々人の法的利益の侵害に結びつく場合でなければならない。そして、右の法的利益として控訴人らが種々主張しているもののうち、その中核をなすものと思われる信教の自由については、その侵害があったというためには、少なくとも、信教を理由とする国家による不利益な取扱いあるいは宗教上の強制という、いわゆる強制の要素(右にいう「不利益な取扱い」を含む。)が存在することが不可欠である。そして、この点は、前記自衛官合祀訴訟上告審判決において、憲法二〇条の政教分離規定に関し、「この規定に違反する国又はその期間の宗教的活動も、それが同条一項前段に違反して私人の信教の自由を制限し、あるいは同条二項に違反して私人に対し宗教上の行為等への参加を強制するなど、憲法が保障している信教の自由を直接侵害するに至らない限り、私人に対する関係で当然には違法と評価されるものではない。」と判示されているのを始めとして、本件と同種事案であるところの靖国神社公式参拝訴訟に係る大阪地方裁判所平成元年一一月九日判決(判例時報一三三六号四五ページ)においても、「信教の自由に対する侵害があったといいうるためには、少なくとも信教を理由とする不利益な取扱いもしくは宗教上の強制が具体的に存することが必要不可欠である」との判示がなされており、既に判例として定着しているということができる。しかして、本件においては本件公式参拝によって控訴人らが不利益な取扱いや宗教上の強制を受けたとの事実は何ら存しないのであるから、本件公式参拝による信教の自由の侵害を肯認する余地は全くないといわなければならない。
4 第三の論点は、控訴人らがその他の法的利益として主張する「宗教的人格権」、「宗教的プライバシー権」及び「平和的生存権」が国賠法一条の被侵害利益として肯認できるかどうかということである。
「宗教的人格権」及び「宗教的プライバシー権」なるものを右の被侵害利益すなわち法的利益と認めることができないことは、既に前記自衛官合祀訴訟上告審判決が明確に判示しているところであり、また「平和的生存権」なるものが実定法上の根拠を欠き、およそ右の法的利益足り得ないことについても、前掲大阪地判が明言しているところである。
三憲法判断の是非
前述のとおり、控訴人らは原判決が憲法判断をしなかったことについて非難を加えているが、本件においては、裁判所が憲法判断をする必要性もない上に、そのような判断をすることは司法の謙抑制という見地からみて妥当とも思われない。
もとより、本件公式参拝が憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」に該当するものではなく、また、本件公式参拝に際し供花代として公費から三万円を支出したことが何ら憲法二〇条一項後段、八九条に違反するものでないことは前述したとおりである。しかしながら、そもそも本件においては右のような憲法問題を議論する必要性は全くないというほかはない。いうまでもなく、本件は控訴人らが本件公式参拝により精神的苦痛を受けたとして損害賠償を求めているものであるから、控訴人らの主張する事実が国賠法一条の要件を充足するかどうかの判断に必要であれば当然憲法判断もなされるべきであるが、前項で述べたように本件公式参拝が政教分離規定に違反するという控訴人らの主張は国賠法一条に基づく請求を基礎づける事実の主張としては、明らかに失当であって、本件で問題とすべきは、本件公式参拝が政教分離規定に違反するか否かではなく、本件公式参拝が控訴人らの法的利益を違法に侵害したといえるか否かの点である。
そもそも、憲法判断に関する問題については、憲法学者においても、「裁判所は、憲法問題が記録によって適切に提出されていても、もし事件を処理することができる他の理由が存在する場合は、その憲法問題には判断を与えない。」(Ashwander事件におけるブランダイス補足意見。芦部信喜「憲法訴訟の理論」四四ページ所収)、「裁判所の憲法判断は、それをしなければ、裁判の結論が出せないという場合にだけなされるべきであり、憲法判断をもち出さずに裁判がじゅうぶんにできる場合には、憲法判断をするにおよばないだけでなく、そういう場合は、むしろ憲法判断をすべきでない、と解すべきものである。」(宮沢俊義「恵庭判決について」ジュリスト三七〇号二六ページ)、と有力に説かれているところであり、これによれば、国賠法一条の要件である損害という要件が明らかに欠如している本件にあっては、国家賠償請求権の存否の判断にとって全く不必要な憲法判断に立ち入ることは許されないというべきである。
したがって、控訴人らが引用するところのいわゆる岩手靖国訴訟控訴審判決(そのうち、とりわけ岩手県議会の靖国神社公式参拝議決に関する住民訴訟についてのもの)は、結論に必要のない「靖国神社公式参拝」についての憲法判断をあえてしている点で、過度の司法判断を示した不当な判決であると評さざるを得ない。
四むすび
以上検討したとおり、本件公式参拝の合憲性を論じるまでもなく、控訴人らの本訴請求は理由がないことが明らかであり、原判決は相当である。
よって、本件控訴は速やかに棄却されるべきである。